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暦で語る今日の横浜【9月10日】市長と飛行場

暦で語る今日の横浜【9月8日】

●1899年(明治32年)の今日
昨日「1899年(明治32年)9月7日」行われた
「太平洋電線敷設に関し建議」書を携え
大谷嘉兵衛会頭、米国貴府萬国商業大会(第一回国際商業会議所会議)へ出席のため渡米しました。
【9月7日】

●1900年(明治33年)の今日
夏目漱石(33歳)
横浜港からドイツ汽船プロイセン号で出航、文部省留学生として英語研究のためイギリスに向かいました。(途上でパリ万国博覧会を訪問)
ドイツへ留学した芳賀矢一、藤代素人(禎輔)らも同船者でした。
この留学は、漱石にとって神経衰弱との闘いだったといわれていますが、
イギリス留学時代、美術館に通い多くの絵画鑑賞をしたその影響がその後の漱石文学に現れてきます。彼の作品中に多くの絵画が登場することは有名ですが、ロンドン時代の絵画鑑賞は孤独感を癒す最大の薬だったようです。

“夏目漱石の美術世界展”
東京藝術大学美術館で5月14日(火)〜7月7日(日)
http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2013/soseki/soseki_ja.htm
広島県立美術館で2013年3月26日(火) 〜2013年5月6日(月)
http://www1.hpam-unet.ocn.ne.jp/special/index.php?mode=detail&id=87
静岡県立美術館で7月13日(土)〜8月25日(日)の日程で巡回
http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/exhibition/kikaku/2013/02.php

●1909年(明治42年)の今日
「鶴見総持寺の石川県からの移転が完了した」(横浜歴史年表)
総持寺は二つある曹洞宗大本山の一つで、石川県輪島市門前町に建てられました。
1907年(明治40年)3月9日に石川県から鶴見に移転の認可が下り
移転が数年かけて行われます。
No.312 11月7日(水)裕次郎だけじゃない


●1938年(昭和13年)の今日
「東京開港反対県・市・本会議所連合委員会が開催される。東京開港問題連合協議会(市会・県会・商工会議所・各議員)がひらかれた」
震災後にわかに浮上してきた「東京開港」の影響を最も受ける横浜市は、かなり劣勢に立ちながらも必死に東京開港反対を訴えます。
No.347 12月12日(水)横浜自立の原点

No.460 横浜と福島をつなぐもの

No.250 9月6日(木)やはり官僚には向かなかった?

●1961年(昭和36年)の今日
「横浜市条例を左横書きに改正する条例制定」とあります。
縦書きか横書きかも条例で決めるんだ!でもこの条例は“縦書き”ですよね。
といって調べたら 出てこない。調べ方が悪いのか?元ネタが違っているのか?
でも横浜市条例は確かに横書きです。 

というところで退散するのもなんなので

○横浜市例規集
http://www.city.yokohama.jp/me/reiki/reiki_menu.html
○「横浜市行政文書作成要領」の制定等について
http://www.city.yokohama.jp/me/reiki/honbun/g2020043001.html
横浜市行政文書作成要領の中では
第2 文書作成の基本
文書は、簡潔かつ的確であるとともに、分かりやすく見やすいものとしなければならない。そのため、特に次の点に配慮すること。
1 文書の内容について、結論と理由等を明確にする。
2 文書の構成について、作成の趣旨及び目的を踏まえ、項目、レイアウト等を工夫する。
3 文書中での表現について、一つひとつの文章を短くすること、結論を先に述べること、箇条書に整理すること等に努める。
第3 用紙等の規格及びその用い方
1 用紙及びその用い方
用紙は、原則として、日本工業規格によるA4判(A列4番)を縦長に用いる。A4判によりがたい場合は、A5判以下のA列の用紙を用いることができる。A3判は用いない。
なお、図面、地図、写真、表彰状、ポスター等は、この限りでない。
2 材質
筆記又は印字により清書するときに使用する用紙等の材質は、文書の保存年限に耐え得るものでなければならない。
3 用紙のとじ方
用紙のとじ方は、左とじとする。ただし、縦書き文書については、この限りでない。
第4 左横書き
文書は、左横書きとする。ただし、次に掲げるものは、この限りでない。
1 法令等で様式が縦書きと定められており、それによらなければならないもの
2 賞状、表彰状、式辞、その他刊行物等であって、特に縦書きが必要とされるもの

○横浜市公示令達規則
http://www.city.yokohama.jp/me/reiki/honbun/g2020039001.html
(縦書きの公示及び令達の措置)
5 この規則施行の際、現に効力を有する公示及び令達で縦書きのものは、この規則施行後に改正の必要を生じた際、左横書きに改めるものとする
付 則(昭和37年8月規則第58号)
この規則は、公布の日から施行する。
付 則(昭和24年9月規則第69号) 抄

○横浜市教育委員会公示令達規則
http://www.city.yokohama.jp/me/reiki/honbun/g2021115001.html
(公示及び令達の形式等)
第3条 公示及び令達は左横書きとする。ただし、次の各号に掲げるものについては、縦書きとすることができる。
(1) 法令の規定により縦書きに定められた様式
(2) 他の官公署が縦書きに定めている様式

いろいろ出てきました。悉皆網羅してません。

暦で語る今日の横浜【9月7日】

●1875年(明治8年)の今日
久良岐郡磯子村真照寺旧境内
久良岐杉田村東漸寺塔頭の地上知分を
それぞれ小学校敷地として下渡することについて、神奈川県より内務省へ伺った。「神奈川県史料(5)135〜136」
久良岐郡磯子村真照寺旧境内→磯子小学校(明治6年5月)

久良岐杉田村東漸寺塔頭の地上知分→杉田小学校(明治6年5月)

写真 さがしてます

※明治初期(明治10年までに)設立された小学校リスト
1872年(明治5年)
 山下小学校  北八朔町1865-3
1873年(明治6年)
 子安小学校  新子安一丁目24-1
 都岡小学校  都岡町4-8
 北方小学校  諏訪町29
 鉄小学校  鉄町427(くろがね)
 星川小学校  星川三丁目18-1
 元街小学校  山手町36
 末吉小学校  上末吉一丁目9-1
 谷本小学校  藤が丘一丁目55-10
 保土ケ谷小学校  神戸町129-4
 磯子小学校  久木町11-1
 杉田小学校  杉田一丁目8-1
 根岸小学校  西町2-46
 金沢小学校  町屋町26-26
 釜利谷小学校  釜利谷東六丁目37-1
 六浦小学校  六浦三丁目11-1
 大綱小学校  大倉山4丁目2-1
 日野小学校  日野七丁目11-1
 田奈小学校  田奈町51-13
 富岡小学校  富岡西七丁目13-1
 日吉台小学校  日吉本町一丁目34-21
 長津田小学校  長津田町2330
 戸塚小学校  戸塚町132
 市場小学校  元宮一丁目13-1
 潮田小学校  向井町三丁目82-1
 山内小学校  新石川一丁目20-1
 青木小学校  桐畑17
 市沢小学校  市沢町781
 二俣川小学校  二俣川1-33
 石川小学校  中村町1-66
 大岡小学校  大橋町3-49
 太田小学校  三春台42
1874年(明治7年)
 高田小学校  高田町1774
 中川小学校  牛久保東二丁目21-1
 鴨居   小学校  鴨居四丁目7-15
1875年(明治8年)
 川島小学校  川島町1162
 神奈川小学校  東神奈川二丁目35-1
1876年(明治9年)
 千秀小学校  田谷町1832
このように、明治初期に地域の学校が設立されます。
学校の敷地の多くが地元の協力で
(寺社、私有地等)を寄付し開校された学校が多かったようです。

●1899年(明治32年)の今日
「太平洋電線敷設に関し建議する。」
日本の国際通信に歴史は古く
1871年(明治4年)に始まります。
長崎と上海が海底ケーブルで結ばれ、通信ビジネスが始まりますが、当時最も貿易量が多かった日米間のケーブル通信が実現するには
その後 かなりの時間を必要とします。
長年、日米間は欧州経由で国際電報が取り扱われていました。
日米直結の太平洋ケーブル計画は、通信が欧州からアジアに開通した明治初期から念願でした。特に国内最大の対米貿易都市、横浜にとって
「太平洋ケーブル敷設」は悲願でした。
明治政府にとって最初の外国首脳訪日だった
ハワイ王カラカウア王とも太平洋通信計画が話し合われます。
また、ハワイ国王一行の正確な到着時間も(欧州経由)電信で伝えられます。

No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に

様々なハードルを乗り越え、太平洋を越え日米間にケーブル通信が開通したのが
1900年(明治39年)8月まで待たなければなりませんでした。
この太平洋通信事業成功に尽力したのが
「大谷嘉兵衛」氏です。

No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って

No.345 12月10日(月)Tea or Coffee?

No.112 4月21日 濱にお茶は欠かせない

大谷嘉兵衛、三重出身の実業家で明治大正期の横浜史に欠かせない重要人物ですが
横浜での“大谷嘉兵衛”知名度は??????
1899年(明治32年)9月7日の今日
横浜商工会議所会頭 大谷嘉兵衛は
10月に米国フィラデルフィアで開催された
第一回国際商業会議所会議に出席する前に
「太平洋電線敷設に関し建議」し、
アメリカに渡り日本代表として米国に建議書を渡します。
多くのハードルを乗り越え サンフランシスコ・ハワイ・マニラまでが開通し、
すでにマニラ・香港間の回線と繋いで通信回線が
太平洋を繋ぐことになります。

No.26 1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始

この太平洋通信回線の開通が
 日露戦争(後には真珠湾攻撃)に深く関わっていきますが、
 その話しは別の機会に。

※大正時代ですが
 一通の電信が大問題となった「大正のロッキード事件」
 シーメンス事件も横浜が舞台でした。
 No.23 1月23日 大正の正義

暦で語る今日の横浜【9月6日】その2

●1977年(昭和52年)の今日
1970年〜から始まった派大岡川の埋立が完了した日です。
「派大岡川」?どこの川でしょうか?
派大岡川の埋立によって
かつて和船が積荷や乗船客を運んでいた時代が終わりを告げました。
現在は、首都高速が走っています。

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No.187 7月5日(木) 目で見る運河

No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語(一部加筆修正)

No.236 8月23日(木)帰浜した鉄工所

No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん

No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南

「ヨコハマのこだわり」
http://hustle.jp/content/view/52/1/

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かつて派大岡川から両岸を見ると こんなかんじ

●1962年(昭和37年)の今日
市長は二度目の横浜市長に一期在任した“半井清”
次期市長候補選びで紛糾し当時の藤山愛一郎に一任しますが、
候補を田中省吾とする藤山裁定で自民党横浜市連を二分する大騒動になったのです。
1963年(昭和38年)2月13日には自民党横浜市連再び分裂となり
4月17日に行われた第5回統一地方選挙で自民党は分裂選挙となり惨敗します。
この選挙で当選したのが飛鳥田一雄です。
おりからの革新市長の流れに乗ったとはいえ、自民党の失策といえる選挙でした。

●1969年(昭和44年)の今日
横浜商工会議所観光部委員会(委員長六川英一)は横浜市長に対し「開港記念会館」の取りこわし反対を申し入れます。
※この記事を読んで え!「開港記念会館」を取り壊す!なんて話しがあったんだと驚きました。
1985年(昭和60年)横浜市内で「開港記念横浜会館」創建時の設計図が発見、ドーム屋根等を復元しました。国の重要文化財にも指定され今も威風堂々のジャックです。
No.375 1月9日(水)残した大正の財産

No.70 3月10日 310

No.420 3月10日(日)横浜三塔に思う

No.183 7月1日(日) 7月のハマ?



「開港記念会館」
http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/kaikou/
六川英一さんはアート宝飾の創業者です。1946年(昭和21年)骨董品・美術品の個人商店として開業し、1953年(昭和28年)真珠、貴金属の輸入専門店としてアート貿易を設立します。
http://www.artjewelry.co.jp/company.html

暦で語る今日の横浜【9月6日】その1

今日は紹介するネタがかなりヘビーなものが多く
一つ一つさらに展開できそうです。
チャンスがあれば 挑戦してみます。
●1890年(明治23年)の今日
明治政府は、勅令をもって税関の管轄区域を定めます。
横浜税関の管轄エリアは、(明治4年7月14日の廃藩置県によりますと)
陸前:仙台県、登米県(とめけん)=宮城県北東部
磐城: 角田県、中村県、磐城平県、湯長谷県、泉県、三春県、棚倉県、白河県
下総:多古県、小見川県、高岡県、結城県、古河県、関宿県、佐倉県、生実県、葛飾県、曾我野県
上総:菊間県、鶴牧県、鶴舞県、桜井県、久留里県、飯野県、小久保県、佐貫県、松尾県、一宮県、大多喜県、宮谷県
安房:長尾県、花房県、館山県、加知山県
武蔵:川越県、忍県、岩槻県、浦和県、小菅県、東京府、品川県、神奈川県、六浦県
相模: 小田原県(足柄県)、荻野山中県
伊豆:韮山県
駿河: 静岡県
遠江:堀江県
の11カ国
及び小笠原島の沿岸となりました。
どえらい広範囲が管轄エリアだったことが判ります。
※税関の業務と権限は 恐らく現在より数段広く強いものだったに違いありません。その中核となったのが
「横浜税関」です。
このリストで、廃藩置県当時の「県」を通してもドラマが見えてきます。
横浜の所属した「武藏国神奈川県」は
三多摩地区が入っていたんです。

赤エリアが最初の神奈川、青線が現在の神奈川

逆に県央は荻野山中県、県西は足柄県でした。

●1923年(大正12年)の今日
関東大震災で壊滅した十全病院が隣接する平沼邸を仮病舎として借り受け
一般診療を開始しました。震災から六日目でした。
No.432 老松を追い本町に迫る!

No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

(小史)
1871年(明治4年)4月20日
横浜元弁天(現・中区北仲通6)に早矢仕有的などにより民間人のための「横浜仮病院」が開設されました。
デュアン・B・シモンズ(Duane.B.Simmons)が週1回の割合で勤務し英米式医療が行われました。

No.162 6月10日(日)日本よさようならである。
長崎に次ぐ日本で2番目の洋式病院でしたが、
同年9月に近隣の失火により類焼し廃止されてしまいます。

1872年(明治5年)7月
中区太田町に神奈川県令大江卓や早矢仕有的などにより「横濱中病院」として再建されました。 シモンズの伝染病予防の必要性を訴えた建議を神奈川権令大江卓が採用します。
1873年(明治6年)12月
西区老松町の野毛山修文館跡に移転し「横浜共立病院」となりました。
1874年(明治7年)2月
「横浜共立病院」を県立とし「神奈川県立十全医院」と改称。
東洋一の設備を誇ります。
当時最も重大な疫学の最先端病院として種痘業務、コレラ対策で中心的役割を担います。 
1889年(明治22年)4月
初代院長として正式に広瀬佐太郎が就任し、ドイツ式医学に改められました。 
1891年(明治24年)4月
神奈川県から横浜市に移管され、「横浜市十全医院」と改称されました。 
1905年(明治38年)4月万治病院の前身である横浜避病院は十全病院から独立します。
1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で壊滅したものの、隣接していた平沼氏邸を借り、
9月6日、仮病院を開設しました。 
1924年(大正13年)6月
南吉田町(現・南区浦舟町4=現在地)に応急病院を開設します。
1926年(大正15年)11月に「横浜十全医院」が再建されます。 
1944年(昭和19年)
「横浜市立医学専門学校」(横浜市立大学医学部の前身)が開校し、
「横浜市立医学専門学校付属十全病院」となりました。 
1949年(昭和24年)4月
「横浜医科大学付属病院」と改称します。
1954年(昭和29年)4月
「横浜市立大学付属病院」と改称され現在に至ります。

暦で語る今日の横浜【9月5日】

●1911年(明治44年)の今日
鈴木梅四郎・加藤時次郎が福富町に「社団法人実費診療所横浜支部」を設立しました。
実費診療所とは、下層・中等階級の没落を防ぐ医療を目指した民間医療施設で、医師加藤時次郎と協力して鈴木梅四郎が東京京橋に設立したのを手始めに横浜にも開設されました。
この実費診療所は医療の社会化運動の先駆的役割を担いました。
創設者、鈴木梅四郎は

時事新報から横浜貿易新聞(神奈川新聞)の主筆を経て実業界に入り、王子製紙専務として同社の発展に寄与します。実業家として活動する中、日本の医療制度の貧弱さに危機感を持ち、医療所不足や医療制度の改革を行い実費診療所を始めます。

横浜診療所

この実費診療所に賛同し参加した医師たちに対し
医師会が大反発を起こし医師への処分を行い訴訟になります。
ことの顛末は、
1審判決では原告医師会が全面敗訴します。
控訴審も控訴が棄却されますが
大審院第四民事部(現在の最高裁)は
 控訴審判決破棄の判決
事実上の原告側逆転勝訴となります。

※ここには医師会の強い政治的な圧力が反映されたようです。 何時の世も医師会は圧力団体?

●1923年(大正12年)の今日
関東大震災に際しイギリス支那艦隊・アメリカアジヤ艦隊の救援第1船が来港しました。

●1943年(昭和18年)の今日
花月園の動物園で飼育されていた“熊”は戦争のため処理されました。
No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)

●1950年(昭和25年)の今日
横浜市内の小学校完全給食が実施されました。
戦後アメリカからの支援物資が「ララ物資」として給食が実現しました。
No.346 12月11日(火)ララの羊

●1967年(昭和42年)の今日
第一回全国税関水泳大会横浜税関プールにおいて開催,横浜税関が優勝しました。
「横浜税関プール」ってどこにあったんでしょうか?
それとも横浜税関内にあるんですかね?

横浜税関 空撮でみる限り該当施設は?

●1967年(昭和42年)の今日
「政府は原子力船母港の候補地だった横浜市を断念し、青森県むつ市に決定します」
1963年(昭和38年)に観測船として建造計画が決まり母港の候補地が検討されます。この原子力観測船は、「原子力船むつ」と命名され
1969年(昭和44年)6月12日に進水します。
 記念切手が発行されるなど、期待の旅立ちでした。
1972年(昭和47年)に核燃料が装荷されます。
1974年(昭和49年)に出力上昇試験が太平洋上で開始されますが、
試験開始早々の低出力で放射線漏れが発生し“むつ市帰港”を拒否され
「原子力船むつ」は彷徨の時代を迎え改修後むつ市関根浜港が新母港となり
1992年(平成4年)1月にすべての航海を終了し、
1993年(平成5年)に原子炉が撤去されて非核化されます。
船体は現在、
独立行政法人海洋研究開発機構(JAMSTEC)の「みらい」として運航されています。
http://www.jamstec.go.jp/j/about/equipment/ships/mirai.html

●1986年(昭和61年)の今日
市政100周年記念博覧会の実施主体となる「横浜・丘と海の祭り協会」設立

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

暦で語る今日の横浜【9月4日】

●1886年(明治19年)の今日
「オランダ人シュネル(Edward Schnell)の借地料不払に対し、県では知事の名をもつて、オランダ領事庁裁判局判事宛に訴状を出した 。シュネルは明治6年10月県から借りうけた外国人居留地169番の借地料を期限がすぎても払込まなかつた。」

現在の港郵便局あたり?

ここに登場するオランダ人シュネルが幕末期の武器商人“スネル兄弟”の弟かどうか調べていませんが
“スネル兄弟”だとすると
弟シュネル=スネルは、会津藩家老梶原平馬が河井継之助を仲介してEdward Schnellからライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬を購入。河井継之助自身も数百挺の元込め銃とガトリング砲を2挺購入しています。兄・John Henry Schnellは梶原平馬の仲介で会津藩の軍事顧問を務めます。戊辰戦争で破れても
兄・John Henry Schnellは、に会津若松の人々約40人と共にカリフォルニア州へ移住し「若松コロニー」という名の開拓地を建設します。
弟共に、スネル兄弟は謎多き二人です。まだまだ新資料で実像が見えてくるかも知れません。
No.169 6月17日(日)私は武器を売らない

※居留地169番というと、1863年(文久3年)に来日したジェラールの事務所があった所と同じ地番です。
No.58 2月27日(月)政治家が辞めるとき

この辺、にわか調査ですので 何れ調べてみます。

●1915年(大正4年)の今日
画家 五姓田義松(ごせだ よしまつ)が横浜市中村町打越の自宅で亡くなります。
享年60歳です。


1936年(昭和11年)3月に横浜の日野墓地にも墓が建てられます。
五姓田はチャールズ・ワーグマンに師事し
1874年(明治7年)川上冬崖の推薦で陸軍士官学校に図画教師として勤務します。
1876年(明治9年)工部美術学校に入学しアントニオ・フォンタネージに師事しますが、翌1877年(明治10年)に退学します。

アントニオ・フォンタネージ

1880年(明治13年)25歳にして宿望のパリ留学を果たしレオン・ボナに師事、日本人初のサロン・ド・パリ入選作家となります。
晩年は酒に弱れ奇行に走り寂しい生涯を送ります。

※画家フォンタネージhttp://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/1977/126.htmlフォンタネージは、イタリアの画家。わが国最初の美術学校である工部美術学校の開設とともに、画学教師として政府から招聘されて約2年間教鞭をとっています。58歳のときでした。(Antonio Fontanesi, 1818年2月23日〜1882年4月17日)

●1942年(昭和17年)の今日
「横浜市史稿」の生みの親、市史料調査委員会嘱託“弦間冬樹”さんが22年の勤続に対し市の表彰をうけました。

※横浜市嘱託として大正・昭和戦前期の市史編纂事業に関わった弦間冬樹さん(1879年〜1945年)の資料は横浜開港資料館で閲覧できます。横濱市町名沿革誌、横浜事物起源などの自筆原稿が閲覧できます。

●1976年(昭和51年)の今日
地下鉄
伊勢佐木長者町〜横浜間
上大岡〜上永谷間が開業しました。
地下鉄運賃が改定され1区40円→60円
それまで地下鉄伊勢佐木長者町と県庁を結ぶ連絡無料バスが廃止されます。
というか?なんで無料だったのでしょうね?

No.248-2 9月3日 坂の上の星条旗 改題

清水港パフォーマンス
「長崎港を出たグラント一行は、7月2日に静岡の清水港で漁師達の投網漁のパフォーマンスを見て短時間ですが上陸します。このサプライズにグラントは感激します。このパフォーマンスを担当したのが山本長五郎、清水の次郎長でした。この“仕立て”には米国に渡った咸臨丸・咸臨丸を攻撃した米国製の蒸気戦艦富士山丸、それを斡旋した米国公使プルインのエピソードがあり、グラントはおそらくパフォーマンスの背景を聞いて大声を挙げて笑ったに違いありません。(別掲予定)」

No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)

をもう少し詳しく紹介します。
このエピソードには 二隻の艦船と二人の人物が登場します。
●幕府軍艦 咸臨丸
●蒸気戦艦 富士山丸
●米国駐日公使プルイン
●米国駐日公使ジョン・アーマー・ビンガム(John Armor Bingham)
再度整理します。
日本を訪れたグラント将軍(元大統領)は、
静岡県清水に上陸し漁師達の投網漁のパフォーマンスを楽しみます。
そのパフォーマンスを用意したのが
グラントの盟友、米国駐日公使ジョン・ビンガムです。
母国ではホイッグ党(共和党)議員として 共に南北戦争を戦います。
グラントは将軍として北軍を率い 勝利に導きます。

パフォーマンスを仕切ったのが
清水の次郎長(山本長五郎)です。
明治に入り、かつての任侠は清水の町で英語塾を開くなど
地域の発展に大活躍します。
ここに登場したのが明治新政府と戦った幕府残党の乗る軍艦「咸臨丸」です。
「咸臨丸」が一番知られていますね。
1860年(万延元年)に木村摂津守以下に本チームが太平洋を横断した船です。
1860年(万延元年)はまさに南北戦争前夜で、
咸臨丸・ポーハタン号に乗船した日本人メンバーは、
アメリカ史上最悪の内戦直前のアメリカを視察することになります。

咸臨丸は
幕末期に江戸幕府が保有していた蒸気船で初期の軍艦として20年間幕府艦船として活躍しました。

No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!

1868年(明治元年)9月咸臨丸は清水港沖で、
 新政府の最新鋭軍艦「富士山丸」に追いつかれ攻撃を受けます。
この「富士山丸」
1862年10月14日(文久2年閏8月21日)幕府が米国に発注し
1866年1月23日(慶応元年12月7日)で横浜に到着した軍艦です。
殆ど戦争には使用されず
1868年(慶応4年)幕府が大政奉還に際し
明治政府へ「朝陽丸」「翔鶴丸」「観光丸」と共に上納されます。
この「富士山丸」実は納品直前に起った「下関事件」で
“差し止め”を受け納品が大幅に遅れます。
当時 初代米国公使タウンゼント・ハリスに代り
1861年、エイブラハム・リンカーン大統領はロバート・ヒューソン・プルインを第2代駐日米国公使に任命します。
1862年10月14日幕府がプルインを通して軍艦を発注します。
「富士山丸」はほぼ完成し、納品寸前の
1863年(文久3年)に長州藩が「下関事件」を起こし英仏米蘭との戦争に発展します。
結果は長州の完全敗北となりますが、この戦争の賠償金は“幕府”が負担することになります。

※背景には攘夷思想以外に国内の物価が高騰や大量の金流出による幕府の経済失政がありました。
No.466 19世紀の「ハゲタカファンド」

→欧米4カ国に莫大な賠償金を支払うことになりますが、米国のみこの賠償金を国庫に入れず「債券」として貯金し、明治に入って“不当に得たもの”ということで日本政府に返還します。
幕末の転換期となった「下関戦争」は、米英の外交官にとっても転換期でした。下関攻撃を主導した英国公使オールコックは、本国の命令前に攻撃命令をだしたため、更迭されます。一方、米国駐日公使プルインは英国とは一線を画し日本情勢を冷静に分析します(〜1865年)。

この下関戦争返還金が横浜港の築港整備費用に充てられ、大さん橋ふ頭等が1894年(明治27年)に完成します。

グラント元大統領の対応に当たった駐日公使
ジョン・アーマー・ビンガムに関しては、近年詳細な記録が発見されました。
「ビンガム・ペーパーズ」と呼ばれ 現在資料分析が進んでいます。

ビンガム公使は
1873 年(明治6年)9月25 日、夫人(アマンダAmanda)及び2人の令嬢(エンマ
Emma及びマリーMarie)と共に着任します。
1885年(明治18 年)7月21 日に離任するまで12年間、歴代駐日外交官としては最も長い任期を務め上げました。
在任中は特に「不平等条約」の改正に尽力し日本政府を強力に『バックアップ』し、当時の英国公使パークスと徹底的に衝突した人物です。明治天皇は離任直前のビンガム公使を午餐に呼ぶなど信頼も厚かったようです。

ちょっと説明が下手で 判りにくかったかもしれません。
機会があれば もう少し判りやすく さらに背景も説明したいと思います。
今回はこれにて 御勘弁下さい。

No.466 19世紀の「ハゲタカファンド」

長い間外国との交易が制限されていた日本が、
一気に開国へと舵を切ります。
外国事情は皆無ではなく、出島等を通じてかなり幕府関係者も理解していました。
【ミニミニよこはま】No.2 突然外交特区へ

徳川時代を「鎖国」とは最近表現しなくなりました。
ところが、残念ながら経済制度の専門家が通商条約に登場する機会を失い、
徳川政権は、安政の五カ国条約で
通貨権を放棄してしまいます。幕末の最大の失策が行われます。
舞台は開港場の横浜でした。

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このあたりに関しては
No.49 2月18日 過去に学ばないものは過ちを繰り返す

で、「ハゲタカファンド」の餌食となった幕末から明治の通貨権の政策ミスを簡単に紹介しました。
ここでは、幕末の翻弄された幕府の通貨政策について紹介します。
通貨の外貨との交換レート
現代日本も「為替レート」に一喜一憂しています。
金融ビジネスで、日本は今帰路にさしかかっています。
TPPは貿易ではなく“関税・金融”のグローバル化が焦点なんです。
「国際化」と「グローバル化」は違います!

話しを戻します。
開港時に発効した各国との通商条約で
幕末のドルショック、列強にとっては“ぬれ手に粟”のゴールドラッシュが訪れます。
徳川時代の貨幣制度は、金貨も銀貨も両方「本位貨幣」である「金銀複本位制」でした。
幕府の貨幣単位は「両・分・朱」といい、1両の四分の一が朱という四進法でした。鎖国でしたから、海外の金銀レートと全く関係なく独立して金銀のレートが決められていました。

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開国するにあたって「通商条約」ですから、貿易の通貨レートをしっかり議論し決定しなければならないのですが…

1853年(嘉永6年)にペリーに開国を求められた時、その対応にあたった外国奉行が国政通貨に全く無知だったようです。
(国内にはしっかり通貨に詳しい役人もいたんですが、初期に外国との折衝には参加できませんでした)
1858年(安政4年)6月日米修好通商条約が結ばれます。
この条約の第5条に「外国の諸貨幣は日本貨幣と同種類、同量を以って通用すべし」

※「外国の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を通用すべし金ハ金、銀ハ銀と量目を以比較するをいふ、双方の国人互ニ物価を償ふニ日本と外国との貨幣を用ゆる妨なし日本人外国の貨幣に慣れざハ、開国の後凡壱ケ年の間各港の役所より日本の貨幣を以て亜墨利加人願次第引替渡すへし向後鋳替の為分量割を出すに及はす、日本貨幣は銅銭を除き輸出する事を得、并ニ外国の金銀ハ貨幣に鋳さるとも輸出すべし」

とあり、この条項に基づき、当時事実上の国際通貨として機能していたメキシコ銀を使ったドル貨幣(洋銀)と一分銀の交換比率を1ドル=3分と定めます。

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これで日本は
約50万両分=(一両約8万円として400億円)
の金貨を国外に放出し、通貨危機が起ります。
現在ならIFMが乗り出す所ですが、
日本は流出し始めた直後に気がつきますが、すでに遅し!
各国は「条文」を楯に!!!適正レートに応じません。
少しずつ改正し、場当たり的に対応しながら
完全に「通貨権」を回復したのは
なんと 1897年(明治30年)3月までかかりました。

この無謀なレートを交渉で獲得したのが米国総領事タウンゼント・ハリスで、彼も最初、ぼろ儲けしますが 敬虔な聖公会信徒のハリスもさすがに気がとがめたことを日記に残しています。
解りやすく 説明しましょう。まず洋銀で一分銀に換えます。

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次に その一分銀で小判に(国内レートで)交換します。

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この図で解りますか?
日本の金銀交換率が海外の金銀交換率と大きく異なっていたため為替利益(暴利)を得た訳です。ぐるぐる「洋銀」を交換していくだけで3倍になる訳ですから底なしです。
1860年2月13日(安政7年1月22日)に横浜を出発したポーハタン号に乗った
万延元年遣米使節団は 日米修好通商条約の批准書交換のために米国に向かいましたが、一方で“既に始まっていた金流出の対策として”使節団に天才“小栗忠順”を加え通貨の交換比率の交渉を行います。
小栗は現地で
小判と金貨の分析実験をもとに堂々と日本の主張の正しさを証明しますが、条文を楯に比率の改定までは至りません。
ただこの交渉に関しては、多くのアメリカの新聞が絶賛の記事を掲載しもう少しメディア戦略に長けていたら“米国の正義感”に訴え条約改正が可能だったかもしれません。
(関連ブログ)
No.34 2月3日ポサドニック号事件で咸臨丸発進

No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!

No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2

【番外編】善悪の彼岸

No.463 高島嘉右衛門 風聞記

北海道と横浜を結ぶ政商「高島嘉右衛門」を追いかけている内に、不思議な人間関係に辿り着きました。
今日は 想像の領域!のセミフィクション仕立てです。

賀茂真淵、本居宣長と並ぶ国学者、平田篤胤(ひらた あつたね)。
その考えは尊皇攘夷の支柱となり、倒幕後の明治維新変革期の原動力ともなりました。
幕府の暦制を批判したことで江戸から追放された人物です。
平田篤胤は
1776年10月6日(安永5年8月24日)に生まれ
1843年11月2日(天保14年閏9月11日)郷里秋田で亡くなります。
彼が江戸処払いを命じられ、1841年(天保12年)故郷秋田に蟄居するまで京橋三十間堀に居を置いていた頃
近隣の子供達を集め一種の英才教育をしていた時期があります。

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ちょうどその頃 近所(三十間堀八丁目)に暮らしていたのが
薬師寺嘉衛門一家です。この薬師寺家六男が
後に高島嘉右衛門と名乗ります。
嘉右衛門は 易断家としても有名で自伝によれば獄中で学んだとありますが、
そのキッカケとなったのは 
平田篤胤か その養子となり優秀だった平田 銕胤(ひらた かねたね、1799年12月31日(寛政11年12月6日)〜1880年(明治13年)10月25日)ではないか?と推理しています。

高島 嘉右衛門は1832年12月24日に生まれます。
平田 銕胤は1824年25歳の時に篤胤の養子となります。
銕胤は嘉右衛門の親くらいの年齢ですから 嘉右衛門は彼から易学を学んだのかも知れません。
これだけでは ただ単に 時代と育った場所が近いというだけです。
ところが 意外な所で この点と線が結ばれたのです。

舞台は 一気に北海道に移ります。
北海道の西南海岸に“せたな町”という小さな街があります。平成に入って市町村合併する前は“瀬棚町”と漢字で表記しました。

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この“瀬棚町”を もしかしたら テレビか新聞で知っている方も多いかもしれません。過疎地における予防医療の実践で多くの報道があった村上智彦医師で有名になった町で、彼が一時期勤めていたのが「荻野吟子記念瀬棚町医療センター」です。
ここでは村上医師ではなく記念病院名となった「荻野吟子(おぎのぎんこ)」がキーワードになります。

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■荻野吟子
荻野吟子は日本における近代医学を学び女医となった第1号です。北海道久遠郡瀬棚町で開業し10数年この瀬棚地域に貢献した記念すべき人物ですが、その人生は波瀾万丈そのものでした。 
荻野吟子の功績をしのび 1967年(昭和42年)北海道百年を記念して女史の顕彰碑が開業地跡に建てられます。
1851年4月4日(嘉永4年3月3日)武蔵国幡羅郡(現在の埼玉県熊谷市)に生まれ

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1913年(大正2年)6月23日東京府本所区小梅町の自宅で亡くなります。
62歳でした。
彼女の足跡を簡単に追います。
1870年(明治3年)19歳のとき夫からうつされた淋病がもとで離婚し、治療のため上京します。ところが、婦人科治療を行った医師は全て男性医師だったため“屈辱的な体験”をします。そこで荻野は女医を志します。
1875年(明治8年)24歳で東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)一期生として入学します。
1879年(明治12年)首席で東京女子師範学校卒業し医学を習得するために私立医学校・好寿院に特別に入学を許されます。その時も男子学生に様々ないじめにも遭いながら優秀な成績で卒業します。
当時 医師資格受験が許認可制だったため、
荻野吟子は東京府、埼玉県に医術開業試験願を提出しますが
ことごとく“却下”されてしまいます。
1884年(明治17年)9月多方面への働きかけが実り医術開業試験前期試験を受けることができます。他に3人受験者がいましたが吟子だけ合格します。
1885年(明治18年)3月34歳で後期試験に合格し同年5月湯島に「産婦人科荻野医院」を開業します。近代日本初の公許女医の誕生です。
1886年(明治19年)田口卯吉らとともにキリスト教の洗礼を受けます。
さらに荻野吟子は自ら波瀾万丈の人生を選びます。
1890年(明治23年)39歳の時13歳年下の同志社の学生、志方之善(しかたゆきよし)と周囲の猛反対を押し切り再婚します。
夫、志方之善が理想郷をつくるという信念から北海道へ渡る決意をし
1891年(明治24年)単身渡道します。
キリスト教徒のための理想郷を求めて志方之善の他、丸山要次郎らが神丘地区(イマヌエル)に調査に入り、

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1893年(明治26年)に会衆派と日本聖公会の教徒約60戸が入植します。
1896年(明治29年)吟子も診療所を閉鎖し之善のいる神丘地区(イマヌエル)に入植しますが、諍いを嫌った吟子は海辺の瀬棚合津町に移転し診療所を開業し夫、志方之善と距離をおきます。

※当時 今金町は一種のゴールドラッシュで、砂金、メノウ、マンガン、マンガン採掘採集地として入植者が殺到しますが同時に争いも絶えない時代でした。

志方之善はマンガン採掘にも失敗し京都の同志社に戻り神学を学び、牧師として北海道浦河教会に赴任することになります。
1905年(明治38年)志方之善は敗残の思いの中、病死します。
1908年(明治41年)吟子は帰京するまでこの地瀬棚町で診療活動を行います。
ここまで「荻野吟子」の簡単な生涯を追ってきましたが、どこに高島 嘉右衛門との接点があったのでしょうか?

吟子は医術開業試験願を提出しますがことごとく“却下”されてしまいます。

「…願書は再び呈して再び却下されたり。思うに余は生てより斯の如く窮せしことはあらざりき。恐らくは今後もあらざるべし。時方に孟秋の暮つかた、籬落の菊花綾を布き、万朶の梢錦をまとうのとき、天寒く霜気瓦を圧すれども誰に向かってか衣の薄きを訴えん。満月秋風 独り悵然として高丘に上れば、烟は都下幾万の家ににぎはへども、予が為めに一飯を供するなし。 …親戚朋友嘲罵は一度び予に向かって湧ぬ、進退是れ谷まり百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す。見ずや中流一岩の起つあるは却て是れ怒涛盤滑を捲かしむるのしろなるを。」(せたな町HPより)

万策尽き、最後の手段として外国での資格取得も考えていた荻野吟子に救いの手を差し伸べたのが、
高島嘉右衛門です。
嘉右衛門と荻野吟子の接点は不明ですが、
当時の医師資格に関する政府トップ衛生局局長「長与専斎」との接点を
嘉右衛門は国学者で政府に発言力のある
井上 頼圀(いのうえ よりくに天保10年2月18日(新暦1839年4月1日)〜大正3年(1914年)7月4日)に依頼します。
井上 頼圀は国学者で文部省、宮内省に出仕し、私塾神習舎で教えた教育者です。
1882年(明治15年)には松野勇雄らと皇典講究所(のち國學院)を設立します。
國學院教授、女子学習院教授を務めました。

ここで、冒頭の推理が登場します。
国学者、井上 頼圀は
平田 銕胤の弟子にあたります。
高島嘉右衛門より7歳年下の井上 頼圀は、平田 銕胤を介して親交があったのではないでしょうか。
荻野吟子が 北海道久遠郡瀬棚町で医療活動を行いながら過ごした10年
1898年(明治31年)から1908年(明治41年)の頃
高島嘉右衛門は
1889年(明治22年)「北海道炭礦鉄道会社」に出資

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1892年(明治25年)4月4日に二代目社長に就任。
1906年(明治39年)10月1日に国有化。
この時期に、荻野吟子と高島嘉右衛門との交流が 北海道で無かった方が不自然ではないでしょうか。
山師、政商 かなりダーティなイメージのある「高島嘉右衛門」ですが、
単純に腹黒い人物像では解けない部分も多く、
人間 高島嘉右衛門の実像が 今後の研究であぶり出されていくことを
大いに 期待するところです。
●今回は 殆ど横浜とは関係ありませんでしたが、
 点と線がつながった感動をそのまま掲載しました。
 次回から また横浜ローカルに戻ります。

(余談)
高島嘉右衛門のもう一つの謎が
時の総理大臣 伊藤博文と 姻戚関係にありながらも
その関係が 易経で伊藤の暗殺を予言した!という話ばかりです。
伊藤博文の汚れ役を一部担っていたとも考えられます。
幕末明治はまだまだ 謎だらけです。