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No.306 11月1日(木)戸塚駅東口小史
今、東海道本線戸塚駅西口再開発が終盤を迎えています。
戸塚駅は東海道の宿場町にできた駅で、市内2番目の乗降客数を誇る横浜市内中核都市の一つで。
しかし、駅前の不便さは長らく市内最悪の状態でした。
1986年(昭和61年)11月1日の今日、
再開発ビル「ラピス戸塚」が完成オープンしたのを皮切りに
戸塚駅東西再開発が本格的に始動します。
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東口にラピスが完成した頃の戸塚駅周辺 |
戸塚駅前はとにかく不便でした。日立村と呼ばれるほど、数多くの日立関連工場がある中、駅前は地権者の合意形成ができませんでした。(今日は東口の話しなのでこの辺の話しは控えめに)
駅横を二級河川境川支流「柏尾川」が流れ、江戸時代から栄えた宿場町があったことも起因してか、駅前の整備にはかなりの時間を必要とします。
都市計画上の戸塚駅再開発事業が計画されたのは昭和30年代です。再開発着工に半世紀以上の時間がかかりました。現在国道1号線の地下化(「開かずの踏切」解消)等が進み全ての計画完了には更に時間を必要とします。
(戸塚競馬に行こう)
東海道本線戸塚駅は開設された当初、宿場側の西口しかありませんでした。戸塚駅の開業は1887年(明治20年)7月11日、東京と国府津が開業した時にできた駅です。その後、1937年(昭和12年)に東口ができますがキッカケは「戸塚競馬場」を利用する客が急増したためです。
戸塚競馬場は1933年(昭和8年)吉田町の水田を埋め立てて開場します。
現在の日立横浜工場がある場所で、一周1,600mだったそうです。競馬場に因んだ「駒立橋」のみが当時の痕跡として残っています。
年に二回、3月と9月の4日間しか開催されませんでしたが、
大踏切を渡るための人で埋め尽くされたため地元の要求で「東口」ができます。
「戸塚競馬場」は戦争中に軍用馬訓練場となり
1942年(昭和17年)に西口側の駅から離れた汲沢に移転します。
現在は汲沢団地横の戸塚高校となっていますが若干その名残(痕跡)が地図上からも確認できます。
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昭和の競馬場があった頃 |
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現在 |

1949年(昭和24年)川崎に新しく競馬場が作られるのを機に、
1950年(昭和25年)戸塚競馬は閉幕します。
吉田町にある駒立橋の地名は、戸塚競馬場に因んだ名です。
戸塚駅前を大きく変えるキッカケは、
1987年(昭和62年)に横浜市営地下鉄1号線(ブルーライン)が開通するにあたり、東口再開発計画が一気に進んだ事です。
駅前広場とバスターミナルが整備され、
1986年(昭和61年)11月1日にラピス戸塚が開店し戸塚の動線が変わります。
ただ、開通した市営地下鉄は、仮開業の状態でホームが短く後部2両の扉を閉鎖したまま停車する状態でした。
YES89会期中の1989年(平成元年)8月27日、ホームが完成します。
翌年の1990年(平成2年)3月に一応の東口地区第一種市街地再開発事業は完了します。
さあ、次は西口か?
1994年(平成6年)に戸塚駅西口第1地区第二種市街地再開発事業都市計画が決定しますが、変更に次ぐ変更が続き事業着手は2007年(平成19年)、1962年から半世紀、都市計画事業決定から15年かかりました。
現在、西口開発の影響で東口は厳しい状況になっていますが、
東口のポテンシャルはまだまだあるので、今後の整備計画がスムーズに行く事を祈っています。
No.302 10月28日(日)全ての道は横浜に
今日は群馬県民の日です。
横浜と群馬の深い繋がりを紹介しましょう。
(前段)地域ブランド力最下位
「7月、4回目の「地域ブランド調査」として都道府県の魅力や認知度など72項目をアンケートした。インターネットを通じて3万375人から有効回答があり、群馬については591人の回答を反映。過去調査で群馬の魅力度は40位台で推移しており、初めて最下位に転落した形になった。」
さらには
http://www.tsurumoto.com/tourism/2011/02/post-36.php
なんて調査も。上州人立ち上がれ!!!
草津や尾瀬、高崎、前橋では認知度があるのに「群馬」が弱いのはどうして?北軽井沢だって群馬県だよ!南関東の人間なら群馬産の野菜無しには「鍋」もできませんぜ!
この評価軸 神奈川県より横浜市という現象にも似てますね。県単位なんてナンセンスだと私は思うんですがね。まだ県民性(幕藩体制)は重いのかな?
群馬の観光
http://gtia.jp
→世界遺産に「富岡製糸場」が!これが群馬県の知名度に繋がれば良いのですが。
(序段)シルクロード
横浜と群馬の繋がりはまさに「シルク」、絹の道でつながっています。陸路でいけば国道407号線と国道16号線を使って一気に横浜まで南下する道がつながっています。
一方水路は利根川下りで江戸前経由で横浜まで「絹の水路」がありました。
高島嘉右衛門が提言したといわれている日本最初の私鉄「日本鉄道」(現在の東北本線や高崎線、常磐線)も、絹の道があったからです。
その後東武鉄道が久喜と北千住を結ぶ区間で営業を開始しますが、これも絹産業があったためです。
■全ての道は横浜に
明治初期、日本の外貨獲得は殆ど「絹」残りを「お茶」で占めていました。絹とお茶無くして明治維新は成功しなかったのです。
その一大生産地が「群馬県」でした。
横浜から輸出される上州産の絹は厩橋(うまやばし)を語源に持つ前橋に集積され、鉄路、陸路、水路を使って横浜に運ばれました。
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前橋市マーク なんとシンプルな |
そのため今も前橋には煉瓦の歴史的建造物が多く残されてます。横浜も前橋も最先端の煉瓦の街でした。
No.2669月22日(土)ハマの赤レンガ
ここで少し紹介した「旧下野煉化製造会社(シモレン)」は住所こそ栃木県ですが、群馬県に隣接しています。(下都賀郡野木町)
(中段)上州生糸商人見参
横浜を切り開いた実業家の中で、甲州と上・武州(同じ活動圏)の商人達は絹の取引を元に財を築きあげますが、街づくりに必要な資金を積極的に提供したことでも評価されています。横浜は商人によって整備されてきた街ともいえるでしょう。
群馬県出身で横浜と関係のある商人といえば
初代茂木惣兵衛(野澤屋)
伏島近蔵(初代前橋市長)
中居屋重兵衛
下村善太郎
左右田金作(銀行家)
埼玉県神川町出身の原善三郎と
富岡製糸場を経営した原三溪(富太郎)
http://www.sankeien.or.jp
(はまぎんに生きる上州)
シルク取引には金融機関が必要でした。当時の生糸商人は、銀行も設立します。第二国立銀行(原善三郎、茂木惣兵衛、吉田幸兵衛ら)そして第七十四国立銀行(伏島近蔵)
いずれも生糸貿易のために設立され、その後合従連衡の末、このシルクバンクは横浜銀行になっていきます。
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支店マップ左上に「群馬県」が |
横浜銀行支店群の中で「群馬県」があるのは長いシルクの歴史があるからです。
http://www.boy.co.jp/cgi-bin/area.cgi?ac=15000
桐生支店群馬県桐生市本町6丁目371番地の2(0277)22-7131
高崎支店群馬県高崎市連雀町8番地の1(027)322-4411
前橋支店群馬県前橋市本町2丁目11番2号(027)221-9221
南群馬の拠点を現在でもおさえています。全て川の港近くに形成された中心部に位置しています。
No.277 10月3日(水)皮肉な緑地
10月2日に引き続き
米軍接収地返還の現状を紹介しましょう。
1948年(昭和23年)10月3日の今日、
旧日本海軍施設だった金沢区柴町他にある526,205 ㎡の敷地「小柴貯油施設」と水域約470,000 ㎡「小柴水域」が米軍により接収されました。
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1977年現在の「小柴給油所」航空写真 |
(小柴貯油施設の経緯)
小柴貯油施設は米軍用の航空燃料用タンクが34基設置されていました。
この航空燃料を積み出すために、海までの運河と海上の水域も接収されていました。
10月2日に紹介した「根岸森林公園」の接収地域と同様に、飛び地のようなエリアです。
(平成16年)10月に日米合同委員会で、一部(約10ヘクタール)返還で合意しますが、全面返還を求め継続協議になります。
一年後の平成17年10月18日の米合同委員会で、陸地部分全域と水域の一部の返還が合意されます。
http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kichitaisaku/shisetsu/kyuukoshiba.html
(小柴水域)
http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kichitaisaku/shisetsu/koshiba.html
なぜ?この水域だけ残されたのでしょうか?
日米間の取り決めでは
使用条件
1 本水域は、合衆国船舶の停泊及び積荷の積み卸しのために使用される。
2 本水域が合衆国船舶によって使用されていないときは、一般船舶の通過を認める。ただし、本水域においては、合衆国政府の承認がない限り、ブイ、停泊用の鎖等に損傷を与えるような海底しゅんせつ、掃海、投びょう、魚釣り、底引き網及びその他同様の作業を厳重に禁止する。
とありますが、小柴貯油施設は返還し、
わざわざ海上で積荷の積み卸しもないでしょう?
潜水艦の休憩所???ですかね。
校舎の窓から海が良く見える高校時代を過ごしました。
相模湾ですが
授業中に沖にポッコリ潜水艦が浮かび上るのを見たことがあります。
(昭和40年代のことですが)
小柴貯油施設返還が決定し、跡地活用の計画が現在調査を含め進捗中です。
「つながりの森」構想
横浜市南部の円海山周辺を中心とし、北西はいたち川から南東の小柴地区までを構想の対象エリアと設定しています。
目的は「横浜の生物多様性の宝庫」である「つながりの森」を 市民全体で、体感・感動し、次代、次々代につないでいく」ことにあります。
このプランから、返還された小柴貯油施設地域は、残された自然を生かした水辺や緑地の整備というイメージでしょうか。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/mamoru/tayou/tsunagari/
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現在の空撮 |
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敷地内、右が崖になり上部が給油施設 |
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返還?されているのに |
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無人?ですが 米軍施設!って感じです。 |
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小柴水域に続く運河、前をシーサイドラインが走ってます |
「横浜市と米軍基地」
http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kichitaisaku/shiryo/pdf/h24/h24sassi/24sassi01.pdf
現在日米安全保障条約の下での日米防衛戦略上
効果的な米軍配置がマネジメントされているのか?
防衛大臣
スリムで効果的な防衛計画を御願いするものであります。
【番外編】(ざくっと横浜その1)村は川に沿って生まれる
【その1】村は川に沿って生まれる
※とにかくざくっと横浜を知るには?
と以前からいろいろ資料を組み合わせ
作ってみました。
横浜も集落は川に沿って誕生しています。
横浜は谷戸(山と谷)の多い地域です。
横浜は大きく4つ(プラス)の川(水系)で構成されています。
鶴見川、帷子川(かたびらがわ)、大岡川、柏尾川(境川支流)
プラス(市境の)境川、入江川、侍従川、宮川
この図は
大正初期の横浜の村落と川の図です。
地名には谷、岡、川の名が多いですね。
一つの村にそれぞれ川筋が入っているのが判りますか?
川は「境界」でもあり、集落のヘソの部分でもありました。
①鶴見川流域 綱島・鶴見
②帷子川流域 横浜駅・保土ケ谷・二俣川
③大岡川流域 上大岡・関内・元町
④柏尾川流域 東戸塚・戸塚・大船
今後もざくっと行きます。
No.218 8月5日 (日)夢の夢の夜夢覚め
墓碑や歌碑を巡る旅と言えば江戸や京都のお寺さんが常道ですが、ご当地横浜にも「お寺さん」コンテンツがいろいろあります。
今日は、横浜市保土ケ谷区岩井町にある臨済宗 建長寺派「福聚寺」というお寺に墓誌のある「五返舎半九」をちょっとだけ紹介しましょう。
ちょっとだけというのは、この「五返舎半九」を語り出すといろいろ広がってきます。少しややっこしいところもありますが関心のある方はぜひ「福聚寺」をスタートに“半九”めぐりをどうぞ。
五返舎半九、本名を府川重次郎、屋号が「桔梗屋」と称した幕末の戯作者です。なんで戯作者名の他に屋号があったかと申しますと、彼二足のわらじを履いておりまして、生業が江戸で繁盛したお菓子屋だったそうです。1784年(天明4年)江戸に生まれ
昨日紹介した1858年(安政5年)のコレラパンデミックで8月6日に亡くなっています。
No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い
五返舎半九(ごへんしゃはんく)とはちょっと変わった名です。
十返舎一九という名を挙げれば“関係あり!”と想像できそうでしょ。
五返舎は、江戸の人気作家『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』で一躍有名になった十返舎一九の弟子の一人です。
師匠「十返舎一九」の十返の半分で五返舎とし、一九の半分で半九と称して命名したそうです。
彼の他にも十字亭三九、九返舎一八といった師匠の名をもじった門人というか弟子がいましたが結構適当な弟子が多かったそうです。
その中で、五返舎半九はまともな方だったようです。
彼は活動の舞台が江戸でしたから何故横浜に墓誌があるのか、正確な資料がないため残された資料で推測するしかありませんが、五返舎半九の子供の一人、娘の“きく”さんが関内の港町(みよざき)遊郭「橋本楼」の橋本家に後妻となり その菩提寺がここ保土ケ谷の「福聚寺」ということから1880年(明治13年)の祥月命日8月5日(二十三回忌)実父の墓も橋本家の墓地の一角に建てたというのが理由のようですから親孝行な話しです。
前述の通り、五返舎半九は“コロリ”で亡くなりますが、当時コレラで亡くなった場合、埋葬制限が厳しくまともな葬式もできなかったのかもしれません。
最後に
彼の作品を少々
雲母坂くもと見る時しぐれけり
扇もてまねくも見えつたび人の
あとやさきなる熊谷の土手
むらさ紀は江戸の土なり秋茄子
※彼は茄子が大好物だったそうです。
ぬば玉の夢の夢の夜夢覚めて
獏の尿とも悟りてしかな
(余談)
また彼の子供、孫は「府川一則」(初代から三代)を名乗り、画家・彫金家・七宝家等で名を残しました。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hukawa_k.html
臨済宗 建長寺派「福聚寺」
http://www.fukujuji.or.jp
最後に、谷中墓地や青山墓地のような霊園は別にして、一軒のお寺さんを巡るときは静かにそして“お賽銭”のひとつも用意して参るのがマナーというものです。できれば一声断ってからめざすお墓に向かったほうが良いでしょう。
No.216 8月3日 (金)この道は金港に続く
通称「京濱國道」現在の国道15号が
1925年(大正14年)8月3日の今日、
六郷橋から生麦までの区間の改修工事が完成しました。
今日は、国道15号の横浜区間の紹介をしましょう。
(歴史)
1885年(明治18年)に国道整備が行われ、旧東海道の日本橋 – 神奈川を経由し横浜港(開港広場前交差点)に至る幹線を「明治1號國道」と呼びました。
その後関東大震災後、復興改修が行われ、「明治1號國道」の日本橋 – 神奈川間が通称「京濱國道」となり、昭和に入り第一京浜、国道15号となりました。まさに東京と横浜を結ぶ“開港の道”が国道15号線です。
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青木町交差点 |
(路線巡り)
国道15号の横浜区間スタートは西区の青木町交差点です。
【青木橋】ここは国道一号(第二京浜)との分岐点でもあります。
①青木橋、橋の上にバス停があります。(橋上バス停ありそうで少ないんですよ。普通は橋のたもとに設置します)
ここから神奈川新町まで神社仏閣が点在します。
②州崎神社
③慶雲寺 フランス領事館跡 記念碑 亀の像があります。
④熊野神社 神奈川郷の総鎮守8月17日が例大祭です。
⑤笠のぎ稲荷神社 明治2年に遷座。この神社に土団子を供えれば病が治るそうです。
⑥出田町 なんと読む!?正しくは「いずたちょう」です。
横浜鉄工所の出田孝之氏の姓から命名されたもの。
国道表示「でたまちふとう」は明らかに誤記。は一般化されています。
→このあたりは再 追っかけ!中(2013年5月)
このふ頭を利用する業界では読みやすいということで
「いでた」とか「でたまち」と呼ばれていました。
その呼び名が使われるようになった らしい???
(東急東横線 青線部分は地下になり遊歩道に変身)
【新子安近辺】
①大口商店街最南端 相応寺 門前に子育地蔵が並ぶことで有名
②国道一号と県道111号が交差(特にどうってことありません)
③オルトヨコハマ 「駅前庭園都市」といわれています?
④子安「子供の遊び場」 横浜市が昭和30年代に整備した公園
No.215 8月2日 (木)継続は力なり
⑤遍照院 門前が線路です。
⑥キリンビアビレッジ(無料休憩スポット)
または生麦地区センター
⑦生麦事件の碑
以前より少し移動しています
【鶴見駅付近】
①花月園跡地
現在競輪場になっていますが広大な緑地が広がっています。
②国道駅
昭和レトロで再評価。人気の駅になっています。
③旧東海道
国道駅は旧東海道にも面しています。
④魚河岸通り
ここには魚問屋街があり、特に貝類の専門店があります。(水曜日定休日多し)
⑤総持寺 ご存知、石原裕次郎の墓があります。映画にも使われています。
⑥鶴見名物よねまんじゅう 駅周辺の和菓子屋さんで販売しています。「御菓子司 清月」がおすすめ。
⑦鶴見区役所(無料休憩スポット)
⑧ヨコハマビエンナーレ
鶴見川沿いの遊歩道にアート作品が設置されています。
⑨鶴見神社 古来、杉山大明神(杉山神社)といわれた。
⑩鶴見橋 1925年(大正14年)8月3日改修完成
⑪響橋(めがね橋) かながわの橋100選の一つ
【鶴見市場付近】
①市境(ゴム通り入口)横濱護謨製造(現ヨコハマゴム)工場から命名
②自由の女神? ラブホテルのオブジェですが地域のランドマークになっている。
③鶴見市場駅 かつては京浜工業地帯の工場群に勤める人たちで賑わった駅です。
④熊野神社
http://753.jp クリック注意!ちょっと音がうるさいかも
もともと市場小学校があった場所で記念碑があります。
⑤鶴見スポーツセンター(無料休憩スポット)
⑥森永橋 地元企業の名がついた橋です。
⑦第二京浜 国道一号(昭和に造られました)
夜霧の第二国道と歌われた曲で有名に
⑧tvk鉄塔(三ツ池公園) この地域のランドマークになっています。
(余談)
この区間の国道15号線はサイクリングに向いています(ほぼフラット)。
国道一号線は避けた方が良いかもしれません。
かなりアップダウンがあります。
No.152 5月31日(木) もう一つの近代水道発祥の地
今日も昨日に引き続き「横浜市の水道」ネタを紹介します。
1987年(昭和62年)5月31日の今日、横浜水道100年に際し横浜市保土ケ谷区川島町(西谷浄水場敷地内)に「横浜水道記念館」をオープンし開館式典が行われました。
全国自治体数々あれど、自分の街の水道に関してこれほど自慢できるところはないのでは!
良く知らない!という方は
一度は行こう!横浜水道記念館!
http://www.city.yokohama.lg.jp/suidou/kyoku/torikumi/suidou-pr/kinenkan/
横浜市民の皆さん。
横浜水道記念館に行きましょう。野毛山だけでは駄目ですよ!
横浜水道の誇り高き歴史はもちろんですが、敷地内から見る風景も最高です。
さらに記念館の最上階の展望室からの眺望は真冬でも真夏でも大丈夫ですよ。
※駐車場がありません!!(相鉄バスを利用するか、上星川駅から歩きましょう)
私は自転車で行きましたが、最後の旧坂には閉口しました。
そもそもここになぜ水道記念館なんか建っているのか?
この西谷浄水場は、昨日紹介しました横浜市と山梨県南巨摩郡道志村を繋ぐ重要な中継点にあたります。
No.151 5月30日 100年前の先見性
■水道道の不思議
水道は“水道管”を使って導水されます。
明治から大正と言っても50万人近い人口の水量を運ぶインフラが必要になります。
当時最新鋭の水道技術が導入され、山梨県から横浜市の港近くまで水道管が敷設されました。この水道管の本管が埋設されている上にある道を「水道道(すいどうみち)」といいます。民家、私有地に通す事が(保安管理上)できません。そこで横浜市内には「水道道(すいどうみち)」と呼ばれる道明治期から走っています。
下記の図は西谷浄水場から野毛山貯水場跡(現在の野毛山公園)をつなぐ水道道マップです。近代水道発祥の地(野毛山貯水場跡)と良く言われますが、西谷の浄水場こそが近代水道発祥の地の心臓部にあたります。
(西谷浄水場近辺の水道道)
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①旧西谷浄水場 |
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②浄水場から野毛方向に一直線に続く水道道 |
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③旧計量所跡(指定文化財) |
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④水道道 |
(相鉄線西横浜駅近辺の水道道)
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①西横浜駅から西谷浄水場方向 |
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②西横浜駅前から野毛山方向 |
■当然北(道志村)にも続いています。
この水の道を散策(アップダウンありますがサイクリングの方がベストかな?)するのも面白いでしょう。
さあ「水道記念館」を簡単に紹介しましょう。
■横浜水道記念館
近代水道の創設時代からの歴史、水道の分かりやすい基本知識を解説しています。
■水道技術資料館
水道に関する技術的な資料と技術の移り変わりを解説したコーナーが設置されています。
■記念館敷地内には、水道の歴史を語る使用された水道管、ポンプ、逆流防止装置等が野外展示されています。
■「横浜のおいしい水」検定に挑戦してみましょう。
(郵送で検定参加できます)
http://www.city.yokohama.lg.jp/suidou/oishi/kentei/#kenteigaiyou
当たり前と思っている水道というインフラテロ対策まで必要な時代になっていますが、蛇口をひねって得られる安心に喜びを感じたいと思います。
No.99 4月8日 陸の孤島対策はあるのか?
JR桜木町駅を降りると国道16号と桜川新道(新横浜通り)に挟まれた場所に地上10階・地下3階の建物が見えます。
そこに“昭和記念館”があります。
正式名称は「桜木町ゴールデンセンター」、1968年(昭和43年)4月30日に竣工し当時桜木町随一の高層ビルでした。1983年(昭和58年)の今日、「桜木町ゴールデンセンター」が愛称「ぴおシティ」に改名されました。
※実際は“昭和記念館”とは言いませんのでご留意ください。
桜木町ゴールデンセンター、愛称「ぴおシティ」が建つ桜木町駅前の細長いゾーンは、二つの道路が川のように通り緩衝地帯のような立地です。この二本の川が桜木町とみなとみらいを隔てる障害になっています。
商業立地としては厳しい条件ですが、創業44年目を迎えました。
「ぴおシティ」のHPによると設計は伊藤喜三郎設計事務所(東京都中央区銀座7-1)ということになっていますが、病院建築の分野で著名な伊藤喜三郎氏かどうか、微妙にデータに違いがあるので”にわか調査“では不明です。
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結構良いフォルムしてますよね |
伊藤喜三郎氏の正式事務所名は「伊藤喜三郎設計研究所」で、事務所所在地は東京都品川区東五反田、サイトの作品リストにも掲載されていません。
一般的に設計事務所が全ての作品をHP等に掲載しないことはままあることですが、伊藤喜三郎氏にとっても1960年代の大型商業施設設計は記録として残すはずです。
おそらく「伊藤喜三郎設計研究所」または伊藤喜三郎氏個人の設計で間違いないと判断します。
理由はもう一つあります。
建築主が三菱地所(現在所有者は横浜協進産業)であるところから、ビジネスパートナーとして三菱グループと多くの作品を残している伊藤喜三郎氏との関係も整合性があります。
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閉店店舗が多過ぎますね |
正直、現状での「ぴおシティ」での小売業は難しいといえるでしょう。
「ぴおシティ」自体が、かつての商店街のようにシャッターの目立つ裏路地のようになってしまいました。まさに「昭和」の蔭がそこにあるという感じです。
桜木町駅に新改札が北側にできればなお苦戦を強いられるでしょう。
しかし、地下一階の「はまっ子」(八百屋)や3階のゴールデン文具は強力な集客力を持つテナントです。最近は「ダイソー」が入り集客力も少しあがりましたが今ひとつパワー不足です。でも立地は最高です。
発想の転換で、この空間 「昭和記念館」というかガード下感覚で、めちゃ面白いビジネスゾーンに化けると思うのですが、どうでしょう。

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ゴールデンを維持!! |
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「横浜ラーメン」ゴールデンセンター創業時からあるんじゃないかな |
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はまっ子は何時も混んでます |
(追伸 このエリアはもう少し掘り下げます)→まだ手つかずですごめんなさい。
No.92 4月1日 横浜市交通局ブルーライン大人200円
4月1日から9月30日まで、ブルーライン記念乗車券が大人200円で発売されました。
エイプリルフールではありません。
1984年(昭和59年)の今日からダブルデッカー (Double Decker) 型市内観光周遊バス「ブルーライン号」が運行を開始しました。
市内観光周遊バス「ブルーライン号」のチケットを二枚持っているのですが、入手の経緯の記憶が全くありません。
若干鉄男君系なのでバスには殆ど関心がない自分がわざわざオークションで購入というのも考えられません。なぞは深まるばかりです。
今日は、この記念乗車券から始まる横浜物語をご紹介しましょう。
まず簡単な「ブルーライン号」の歴史から。
1984年(昭和59年)4月にスタートし1996年(平成8年)に廃止されるまで12年運行されました。確かに時折青い二階建てバスが街を走っていた記憶がおぼろげながらあります。
すごいですね映像がアップされています。
http://www.youtube.com/watch?v=sm_M0pcFRqk
http://www.youtube.com/watch?v=BkBoOGtXCEI
ダブルデッカー (Double Decker) 、二階建てバスはイギリスのロンドンなど英国内の都市や香港、シンガポールなどで導入されていますが、日本では近年殆ど採用も製造もされていません。(最近は「2階だけバス」スーパーハイデッカー型が主流になりました)
車両は日産ディーゼル(現在UDトラックス)「スペースドリーム (P-GA66T)」、1983年の東京モーターショーで試作車が発表され、1984年に試作車の先行販売として横浜市交通局に3台納入されたものです。
車両スペック
全長11.96m・全幅2.49m・全高3.78m・定員64人(二階51人 一階13人)
エンジンは18,894CC 370馬力
(運行ルート)
往路:関内駅前から→大桟橋→中華街入口→元町入口→港の見える丘公園の3.86Km
復路:港の見える丘公園→山下埠頭入口→大桟橋→本町4丁目→吉田橋→関内駅3.55Km
1989年のYES89(横浜博)の時に起点が関内から、桜木町駅前に変わりました。
運賃は大人200円、子供100円
(ブルーラインその後)
ブルーライン号の名は「市営地下鉄ブルーライン」に引き継がれ、市内定期遊覧バスは「ベイサイドライン」となりコースもみなとみらい、赤レンガ倉庫が加わり現在も運行されています。車両は1993年度導入の日産ディーゼル「ヨンケーレ・モナコ(スペースドリーム)」から日野セレガSHDPKG-RU1ESAA(車椅子リフト装備車)に代わりました。(ちょっとマニアックでした)
ベイサイドライン
http://www.yokohama-bus.jp/baysideline/
運行ルートから二カ所、今は無い観光スポットを発見しました。
■横浜海洋科学博物館
1961年(昭和36年)1月にマリンタワー内に開館し、1988年(昭和63年)9月30日に閉館し、横浜博覧会開催に合わせて横浜マリタイムミュージアム(現横浜みなと博物館)として日本丸メモリアルパーク内にオープンしました。
■横浜人形の家
人形の家、開館は1986年6月で現在も存在しますが、このブルーライン号運行開始が1984年ですから時期が合いません。現在の位置とも異なります。実は1979年(昭和54年)に「旧横浜人形の家」が横浜市山下町産業貿易センター内に開設されていました。「横浜人形の家」は、元町のジュエリー専門店ROOTS大野眞珠の創業者大野英子さんの約76カ国1,981点に及ぶコレクションが横浜市に寄贈され「旧横浜人形の家」として公開されたのが始まりです。大野英子さんは、通訳案内業国家試験に女性として初めて合格した方で、真珠王・御木本幸吉氏の秘書兼通訳を務めました。
現在の「横浜人形の家」にはもう一つ重要なコレクションが所蔵されています。
横浜の財界人太田亥十二氏の夫人 太田ますい氏(明治30年-昭和62 年)が半世紀近くにわたり収集した日本の江戸時代の雛人形98点、雛道具430点、御所人形27点などを 含む日本の古典人形各種合計630点の「太田コレクション 」 です。
No.62 3月2日 みらいと歴史をつなぐ道
2002年(平成14年)の今日、完成しました。
2012年で開通10周年です。
この道が街の魅力を変えました。
これからの季節、暖かくなりますので散策にぜひどうぞ。(自転車はご遠慮ください)
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作図は私ですので正確ではありません |
戦後、横浜港の水際を自由に散策できるようになったのはつい最近のことです。現在、横浜最大の人気スポットみなとみらいエリアは造船所でした。また、新港埠頭(カップヌードルミュージアム、赤煉瓦倉庫他)や象の鼻エリアは港湾施設と貨物線がありオフリミット、一般の人は近づくことができませんでした。
唯一の横浜港を楽しむゾーンは「山下公園」位しかありませんでした。しかもそこには1961年本牧ふ頭の倉庫のために新港埠頭から貨物線が延長されました。
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ニューグランドの前にも高架橋がありました |
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水の守護神、貨物線、中華街 |
今考えれば驚きますが、横浜の観光資源といえば元町中華街(山手)しか無かったのです。「みなとみらい」の開発計画が1960年代に計画されようやく1989年の横浜博をスタートラインにして開発が始まります。まだ、みなとみらから山下公園ゾーンまで「繋がっていない」横浜がそこにありました。横浜の賑わいが開港場(大桟橋)付近で分断されてしまうのです。
「街の魅力は人が楽しく歩ける道があることです。」「現在過去未来をつなぐことで横浜はもっと魅惑的になる」とアーバンデザイナーの国吉直行さんは横浜の二つの核ゾーンを繋ぐ重要性を語っています。桜木町から赤レンガ倉庫まで繋ぐ「汽車道」そして、「横浜港駅」から「象の鼻」を経由して山下公園、山手へ向かう山下臨港線プロムナードを一本につなぐ。
「車に影響されず自由に徒歩で移動できる」軸線が完成したのです。
2009年開港150周年、ここを訪れた数十万人たちがこの道を体感しました。
現在、「象の鼻」エリアにとっての高架橋の是非が今議論されていますが、どちらにも横浜の魅力を伝える力があると思います。議論を広くじっくりして欲しいと思います。風景はもどりません。
今後、横浜ベイエリアは、さらにウェストベイエリア(ポートサイド地区)に広がりつつあります。そして東は新山下、貯木場エリアがどうなっていくのか?興味津々です。
湾岸の魅力はまだまだひろがりそうです。