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No.695【横浜路線バスの旅】市民に最も利用されている路線は?
最近、路線バスに少しハマっています。
市内で最も広く・多くの市民に愛用、利用されている路線バスはどこだろう?と考えました。
私の直感的推理では<旭23系統>と考えています。
乗降者総数では他にナンバーワン路線があると思いますが“広く・多くの市民に愛用、利用”となるとこの<旭23系統>でしょう。
理由は至ってシンプルで「運転試験場」と「がんセンター」があるからです。
<旭23系統>=二俣川駅〜運転試験場〜二俣川駅の循環バスです。
神奈川県警察運転免許試験場、多くの利用者には「二俣」または「二俣川」で通じるでしょう。
二俣川運転免許試験場、1963(昭和38)年10月に開設していらい半世紀50年が経っていることになります。
https://www.police.pref.kanagawa.jp/mes/mes83001.htm
統計からアバウト計算すると、神奈川県の年間免許交付数が約97,000人(平成24年度)ですから半世紀で人口変動や書き換え等の利用者も加味し約500万人位?
内横浜市民が人口比から200万人位の利用かな?
冒頭にも書きましたが
人数は別にして、市内全域から市民が利用するバス路線はここしか無い!
と思っているのですがどうでしょう。
「運転免許試験場」のある横浜市旭区中尾周辺は<旭区神奈川県>
と呼んでも良いくらい県有地と県関係の施設が集中しています。
行政用語でいう「広域利用圏をもつ公共施設」が多く立地しています。
このエリアの県有地は総面積で約26.7haもあるそうです。
●神奈川県立産業技術短期大学校
●神奈川県立二俣川看護福祉高等学校
●神奈川県立よこはま看護専門学校
●神奈川県立公文書館
●神奈川県国際研修センター
●県立保健福祉大学実践教育センター
●神奈川県立がんセンター
●がんセンターあゆみ園
●神奈川県ライトセンター
●県立がんセンター医療従事者公舎
●災害救助用備蓄物 資保管倉庫
●公益財団法人神奈川県少年少女育成指導協会
※日本ボーイスカウト神奈川連盟事務局
※公益社団法人ガールスカウト神奈川県連盟
※一般社団法人神奈川県子ども会連合会事務局
■県職員二俣川アパート
ざくっと探しただけですのでこの他にもあるかもしれませんが、行政機関集中地区です。ここへの利用者も加味すると、<旭23系統>は広範囲の利用率が高い路線バスといえるのではないでしょうか?
その割にといってはなんですが、バス利用が不便ですね。二俣川ライフ(駅ビル)の一階にバスターミナルがありますが、初めての方にはちょっと探しにくい場所ですね。
駅ビルの途中で この案内指示を見逃すと彷徨ってしまいます!!!!
改札には大きく掲示されていますが?出て見ると 一瞬わからなくなります。
この「二俣川駅」
開業は神中鉄道時代の1926年(大正15年)5月12日と古く、交通の要衝でもあったため歴史的にも面白いエリアです。現在は相鉄いずみの線との分岐点です。
神奈川県施設集中の中で地味ですが気になっていたのが
「神奈川県ライトセンター(指定管理者:日本赤十字社)」です。
http://www.kanagawalc.org
ここでいう“ライト”が視覚障害福祉のための“ひかり”を表すものだったとは知りませんでした。
「ライトセンターは神奈川県内の視覚障害福祉の向上のために、日本赤十字社の基本理念である「人道」「公平」を掲げ視覚障害の皆様のために、視覚障害援助ボランティアの皆様のために、積極的に業務を行わせていただいています。」
「神奈川県ライトセンター」は県内の視覚障害者に対して、「点字・録音図書」などの情報提供や各種相談・指導を行っている施設です。
さらに視覚障害者へのボランティア活動を志す人達の育成・指導なども行ってるそうです。設立は1974年(昭和49年)4月、運営は日本赤十字社が指定管理者として行っています。この神奈川県ライトセンターの特徴の一つが“視覚障害者を対象とした点字図書館と体育館・プール等の利用施設機能を併設したセンター”で他県には例がないと言われています。
現在の建物は1993年(平成8年)10月に竣工し現在に至っています。
(バリアフリー商店街)
もう一つ「二俣川銀座商店街」は90年代に「地域と人にやさしい躍動感あふれる街づくり」をコンセプトに、高齢者や障害者にもやさしい街づくりを推進し別名”フラット通り”商店街としていち早くスタートしましたが、完全にバリアフリー化まで達していません。これは商店街の責任ではありませんが、せっかくパイオニアとして”フラット通り”商店街を推進したのですから、ライトセンターとコラボし もっとやさしい街づくりを推進して欲しいですね。
※バスはまだまだ 高齢者や障害者には厳しい乗り物です。
ベストは<低床車両>ですがこれに関しては抜本的計画が必要になってきますね。
(南口再開発)
二俣川駅というのは何気なく利用していますが、断崖絶壁中腹に線路があるって感じの駅です。
駅南口は改札を出て登り!
駅北口は改札を出て降り。
南側には「グリーングリーン」というショッピングビルがありましたが、2014年9月に閉店し、目下再開発が始まるところです。
新線計画も進んでいるところですので もう少し伸びるか?
注目しておきたい駅です。
路線バス<旭23系統>から少し離れましたが、追々市内路線バスも紹介していきます。
第694話【一枚の横浜絵葉書】「桜木町横浜市授産所ノ偉観」
区役所は、歴史的地勢や例外を除いて概ね区の中心に近いところに設置されていますが、
中には様々な事情で区役所が移動した区があります。
今日は<一枚の絵葉書>から一時期桜木町駅前に中区役所があった風景を紹介します。
約20年間、桜木町駅前に中区役所がありました。かなり『西区』よりにあったんですね。
No.326 11月21日(水)彷徨える中区役所
※近年でいえば、南区役所は端っこに移転しますね。ほぼ中区といっても良いくらいの位置です。
さて、ここで一枚の絵葉書を紹介しましょう。
「桜木町横浜市授産所ノ偉観」です。
(撮影位置)
このシーンが撮影されたのは恐らく、下図の位置でしょう。
現在ならJRガード下近くの公衆トイレ近くでしょうか。
鉄道発祥の地「初代横浜駅」(現 桜木町駅)前には当初から噴水がありました。
(授産所)
ここに写っている煉瓦作りの建物が「興産館」で1929年(昭和4年)に竣工しました。
「興産館」は震災復興政策の一つとして建設されました。ここに「市中央授産所」がありました。<授産所>あまり聞き慣れない言葉かも知れませんが、
「授産所(じゅさんじょ)とは、身体障害者や知的障害者、ならびに家庭の事情で就業や技能取得が困難な人物に対し、就労の場や技能取得を手助けする福祉施設である。施設の設置は、おもに社会福祉法人などの団体によって行なわれている。(wikipedia)」
授産所=授産施設は<生活弱者のための就労支援施設>です。
1927年(昭和2年)横浜市が復興社会事業費より28万円を捻出して着工します。
1929年(昭和4年)「興産館」桜木町駅前授産所の場所に開館。
1929年(昭和4年)6月11日に「市中央授産所」として桜木町に設置されます。
1930年(昭和5年)5月11日「 横浜興産館主催の国際文化映画大会が5日間開催」※こんな記事も見つけました。
この絵葉書の情景、拡大してみると看板に人が写っています。「●●展覧会 」という看板を製作しているように見えます。最初、『復興記念横浜大博覧会』の看板かな?と思いましたが、拡大してみると違っていました。この博覧会もついでに紹介しておきます。
(復興記念横浜大博覧会)
1935年(昭和10年)3月26日から『復興記念横浜大博覧会』が5月24日まで山下公園を中心に開催されます。
大正12年の<関東大震災>から立ち直った横浜市を国内外にアピールするために横浜市が復興を記念して産業貿易振興を含め様々な催しが開催されました。
山下公園に約10万平方メートルを会場を設置し開催されました。来場者は3,299,000人とされています。
第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
(中区役所)
1942年(昭和17年)3月 中区役所が港町1丁目(市役所内)より桜木町1丁目の興産館へ移転します。
1944年(昭和19年)4月1日西区が中区より分区して誕生しました。
※これによって、中区役所は<中区>の端に位置することになります。
1961年(昭和36年)に住吉町4丁目の横浜銀行ビルを改装し移転するまで、約20年中区役所は桜木町駅前にありました。
1983年(昭和58年)11月21日(月)三度目、現在の場所に引越します。前川國男建築設計事務所の設計です。
(市役所去って)
桜木町駅前から「中区役所」が去ってしまい、
1968年(昭和43年)4月30日に「桜木町ゴールデンセンター」が竣工します。
現在の「ぴおシティ」です。
(まとめ?)
冒頭に明示しておきませんでしたが、この<興産館>の跡地は現在桜木町駅前の立体パーキングになっています。
Google earthで確認しておきます。
再度この絵葉書を眺めてみると、
中々良い姿ですよね。横浜は震災と空襲で多くの味わいのある建物が失われてしまいました。復古趣味になることには異論がありますが、失いたくなかった風景です。
この味わいを今後どう活かして行ったらいいのでしょうか?
少子高齢化で都市が萎縮して行くことは間違いありませんね。
ちょっと 時代を振り返るヒントが あったほうが これからはなお良いと思います。
第687話 オリンピックと横浜
先日、「1964年東京オリンピックのころ」と題された大衆文化評論家の指田 文夫さんのレクチャーに参加しました。映画と音楽を通して東京オリンピックの時代を遡る楽しいひと時でした。東京オリンピックというと私が小学校の時に開催されました。その時の記憶が音楽と映像でこんなにも鮮明に蘇るのか?というほど記憶を楽しみました。
学校でも入場券の当たった?近所の家族が出かけることを羨ましく感じたことや、前年に起こった吉展ちゃん誘拐殺人事件で集団登下校となったときにオリンピックの話をみんなで話したことを思い出したりしました。
東京オリンピックは、1940年(昭和15年)に一度決定し開催権を返上した幻の「東京オリンピック」がありました。それから約25年後の1964年に改めて立候補した東京オリンピックが行われまます。この幻のオリンピック、1964年の時、共に横浜はオリンピック関連の出来事がいろいろありましたので少し関連エピソードを紹介しましょう。
1940年(昭和15年)の夏季オリンピック東京大会開催に際し、横浜市はヨット競技の誘致に成功し、ヨット競技開催の準備を進めます。
1937年(昭和12年)東京オリンピックに備えてヨットハーバーの設計コンペが開かれます。詳細のデータは手元にありませんが中区新山下町にオリンピック用の仮ヨットハーバーが9月に落成し、本格的な横浜ヨット港(ヨットハーバー)建設が計画されます。この時に、ヨット競技の開催に尽力したのが横浜ヨットクラブ(YYC)です。
オリンピックは中止となってしまいますが、横浜ヨット港建設は継続し、幻のオリンピックの翌年1941年(昭和16年)に竣工し「海の記念日」となった7月20日に海洋競技大会が開催されました。
この横浜ヨット港は1968年(昭和43年)まで使用され、その後1977年(昭和52年)磯子区に移転され新規開設されます。
現在も残っている幻の「東京オリンピック」の証?が
京濱國道のバイパスとして計画された新京浜国道(第二京浜国道)に残っています。
鶴見区の響橋(通称めがね橋)です。
この新京浜国道は、施行時期がオリンピック開催決定時期とも重なったため、東京オリンピックのマラソンコースとして使用されることを想定して設計されます。42.195kmの折り返し点を横浜市鶴見区の響橋(通称めがね橋)近辺にしていたそうです。そのために、デザイン性の高い橋梁が造られました。残念ながら実際この響橋が完成したのは、1941年(昭和16年)3月で幻のオリンピック予定年の後でした。
戦後、日本は直にオリンピックに参加できませんでした。1948年ロンドン大会、1952年ヘルシンキ大会、1956年メルボルン大会、そして1960年が敗戦国初のローマオリンピックに決まります。
第18回となった「東京大会」で横浜が会場となったのが「三ツ沢公園」。
横浜市神奈川区三ツ沢に広がる運動公園で、サッカー(現在ニッパツ三ツ沢球技場で)が行われました。
またバレーボールが横浜文化体育館で行われました。
東京オリンピックの聖火リレーは1964年(昭和39年)10月7日に横浜も通りしました。(全県回ったのであまり特記事項ではありませんが)
街中にも東京オリンピックの記憶が残っています。
オリンピック開催に伴い、野毛本通りの街並みを美しく(いわゆる浄化)するために、露店、屋台を収納して出来たのが都橋商店街ですね。
また、
大岡川に架かる太田橋の袂に、「オリンピック開催記念昭和39年7月吉日、吉田町末
吉三・四町内会」の碑が置かれています。もう一方に元外相、藤山愛一郎書の「この旗のもとに」の石碑があります。
※なぜこのようなタイトルになったのか?不明です。
「オリンピックビルの屋上からみた伊勢佐木町」1953年
http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/1311/
【横浜橋物語】弁天橋(横浜市中区)
かながわの橋100選に選ばれている開港時の歴史を刻んできた橋です。
今日は二級河川「大岡川」に架かる「弁天橋」を紹介しましょう。
現在の橋は1976年(昭和51年)の竣工で、四カ所ある親柱が全て異なった珍しいデザインの橋です。
長さ54.4m 幅27m
48ある中区の橋を代表する橋です。
※中区の橋梁台帳No.1 です。
親柱の意匠は一般的に統一されていますが、弁天橋はそれぞれの親柱を微妙に変えてあります。
見る角度によって“姿”が異なることに“気がつく”楽しみがあります。
「弁天橋」の名は、「洲干弁天社」に由来します。
かつて横浜村の鎮守様として「洲干弁天社」がありました。この横浜村一体は決して”寒村”などではなく 江戸時代から多くの観光客・参拝客のある風光明媚な観光スポットでした。
1859年6月2日(嘉永6年)に横浜港が開港され、当時武蔵の国久良岐郡横浜村を「横浜町」と改称し開港場を整備します。この時、開港場の半分を日本人居住地とし、海側から「海辺通(現:元濱町)」「北仲通」「本町(大通)」「南仲通」「弁天通」の五筋を整備し町並みを整えます。
この時、弁天通より内陸側は沼地(太田屋新田)でした。
江戸時代にこの地域の景勝スポットだった「洲干弁天社」は、開港場の整備の荒波で遷座を余儀なくされます。
この「洲干弁天社」
創建は治承年間(1177年〜1181年)で、武士の時代が始まった頃です。
源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられています。 その後、足利氏満(14世紀)が般若心経を奉納したと伝えられ、
江戸築城で有名な太田道灌が社殿を再建します。
江戸に入り徳川家光は朱印地(寺院の領地)を与えています。
1869年(明治2年)に現在地の羽衣町に遷座されます。
弁天通は江戸時代からの参道を街区の通りとして整備したもので、「洲干弁天社」が羽衣町に移ってからもその名を残します。
開港場整備の当初は、現在の桜木町駅側から二〜五丁目の4区域に分割しますが、
1871年(明治4年)4月に丁目の数え方を逆転させます。
現在の県庁側から一丁目とし、さらに六丁目を追加し現在に至ります。
この年明治4年に弁天橋が架けられますが、その大きな理由は「横浜駅」と開港場を結ぶためでした。
1870年(明治3年)イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任し本格的な鉄道計画を立案し工事が始まり。1872年(明治5年)に横浜〜品川まで開通します。
「弁天橋」は、
近代技術の象徴「鉄道」の表玄関に架かる、横浜の顔となった重要な橋として現在までその存在感を誇っています。
(弁天橋 余談)
少し前まで「弁天橋」は大岡川の最河口(下流)に架かる橋でした。(鉄道の橋を除く)現在は、さらに下流に「北仲橋」ができました。
微妙ですが、新港埠頭に架かる橋もあります。
(さらに余談)
「北仲橋」開通前、北仲に小さな弁天様「祠(ほこら)」がありました。記憶のある方いらっしゃいますか?
昔の洲干弁天の位置とは少しずれますが、気になっています。
【番外編】消された地図
今日は 簡単ですが ある歴史の断片を紹介します。
ここに二枚の地図を提示します。
この二枚の地図の大きな違いと、それぞれの制作年代は何時頃か?
おわかりでしょうか。
最初が昭和5年に制作された横浜市街地図の湾岸部を切り抜いたものです。
二枚目が昭和15年に発行された同じ範囲を切り抜いたものです。
明らかに昭和15年に発行された地図(下の方)には不自然な箇所が多数あります。
新港埠頭まで走っている鉄道網が消えています。しかも駅名だけ残っています。
昭和15年、米国との開戦を念頭においた情報統制のために軍事施設等の掲載が禁止されていた時期です。
消された鉄道網と横浜船渠の施設に隣接して「フォード工場」が記載されているのがなんとも不思議な地図になっています。
たった数年前まで(恐らく昭和7年から8年)自由に表記できたマップに、インフラまで掲載禁止にすることで、逆にここには「軍事」関係の重要施設があるということを白日に晒しているようなもので、戦争に向かう“余裕の無さ”をヒシヒシと感じてしまいます。
(終戦直後)
同じように、戦後は地図製作の現場がかなり混乱していた様子がうかがえます。
下記の二枚の地図は 昭和21年と昭和28年にそれぞれ印刷されたものですが、昭和7年を元に新しいデータを全く反映していません。
しかも、昭和21年に発行された地図は、(昭和7年)をベースにしているとされていますが、
京浜急行が繋がっていません。
1931年(昭和6年)12月26日湘南電気鉄道と京浜電気鉄道延長線が接続されています。
日本の主権が回復されたのが1952年(昭和27年)4月28日ですが、
翌年発行された 地図には戦後の姿がまだ反映されていません。
この時期 まだ多くの米軍接収地を抱えていた「横浜」は、事実を反映させる事を避けていたのかもしれません。
【芋づる横浜物語】縁は異なもの味なもの3
今日は共進会を紹介した【芋づる横浜物語2】の続きを紹介します。
【芋づる横浜物語1】
【芋づる横浜物語2】
明治初期、文明開化を実感する空間がいろいろ登場します。野外では鉄道、馬車や人力車に洋風の服装の外国人が町を闊歩する姿が登場し、洋館が建ち並びました。
飲食店も江戸時代とは異なる洋風のシツラエが目立ってきます。そしてさらに一般庶民が文明開化を実感したのが「新しいスタイルのお店」の登場です。
その一つに「勧工場」(カンコウバ、カンコバとも)があります。「勧工場」とは大型の共同店舗のことで、1878年(明治11年)1月東京府営として麹町区永楽町辰ノ口に誕生しました。
「勧工場」誕生のイキサツは、東京府が上野で開催した第一回内国勧業博覧会で売れ残った商品をまとめて“在庫一生処分”するために繁華街の一角に“店舗”を開いたものです。
ところが 意外と好調に売り上げを伸ばし、流行の商品が購入できるということで、いわゆる「百貨店」の前身として全国各地に登場します。
1880年(明治13年)には公営から民営となり明治20年代から30年代に最盛期を迎えます。
地域によっては「勧業場」「勧商場」とも呼ばれました。
「勧工場(かんこうば)」の話題性は、
江戸時代のスタンダードモデルだった“座売り”に代っで
商品を並べて販売する“陳列販売”を採用。
同一価格で販売したことが商業革命を起こします。
現在では当たり前の土足で店舗内に自由に出入りすることも「勧工場」が先駆けでした。
(一世を風靡)
勧工場は流行の最先端ショップとして一世を風靡します。
その現れとして、明治・大正期の文学エッセイに勧工場が登場します。
夏目漱石は「門」で
「そう云う時には彼は急に思い出したように町へ出る。その上懐ふところに多少余裕でもあると、これで一つ豪遊でもしてみようかと考える事もある。けれども彼の淋しみは、彼を思い切った極端に駆かり去るほどに、強烈の程度なものでないから、彼がそこまで猛進する前に、それも馬鹿馬鹿しくなってやめてしまう。のみならず、こんな人の常態として、紙入の底が大抵の場合には、軽挙を戒る程度内に膨んでいるので、億劫な工夫を凝よりも、懐手をして、ぶらりと家うちへ帰る方が、つい楽になる。だから宗助の淋さびしみは単なる散歩か勧工場縦覧ぐらいなところで、次の日曜まではどうかこうか慰藉されるのである。」
と豪遊したいが見るだけしかできない“勧工場”を描いています。
この他 「虞美人草」「それから」等でも勧工場が登場します。
また 永井荷風は「あめりか物語」で Department storeを「勧工場」と訳した最初といわれています。
その他 高浜虚子、国木田独歩、尾崎紅葉 らがエッセイや日記に「勧工場」を描くほど当時の日常風景だったといえるでしょう。
勧工場出口になりぬ夏の月 籾山柑子(もみやま かんし)
勧工場目をひく物のかずかずを並べて見する故に喜ぶ 石川啄木(いしかわたくぼく)
新しきにほいなによりいとかなし勧工場のぞく五月のこころ 北原白秋
(横浜の勧工場)
島崎藤村の短編小説に横浜の勧工場が登場します。
「雑貨店」で「横浜 伊勢佐木町の繁華な通りにある高橋雑貨店は、正札付きの日用品を置き並べて、いっさい掛け値なしに売るという便利な店である。この店がかりは高橋となる前の店主の意匠で、以前にもかなり繁盛したものであったが、ふとしたことから貸金の抵当として日本橋富沢町にある木綿問屋の大将の手にはいった。それを高橋のだんなが引き受けて、新たに店開きをしたのである。(中略)この雑貨店は、言わば小さい勧工場のような見世がかりで、是程の人手があってもまだ不足を感じた位である。」と描きました。
作家 島崎藤村は実際に伊勢佐木にあった雑貨店「まからずや」を手伝っていた時期があり、前述の一文はその頃の体験をモチーフにしたものです。
横浜にも勧工場がありました。
『横浜沿革誌』の1882年(明治15年)2月の項で
伊勢佐木町一丁目に「帝国商品館」と向かい合う「横浜館」の二つの勧工場が登場します。また、「横浜繁盛記」(横浜新報社)1903年刊でも
1882年(明治15年)の春に劇場や勧工場、飲食店ができ、賑わい当時四軒の勧工場が伊勢佐木町にあったことを伝えています。
当時横浜最大の繁華街「伊勢佐木」を描いた“絵はがき”にも勧工場が描かれています。
<横浜市立図書館DBより>
※横浜市立中央図書館が販売している横浜絵葉書の復刻版に収録されています。
もう一枚著者所有の伊勢佐木町が描かれている絵葉書もこのブログを書くために資料を探している時に勧工場「帝国商品館」と「横浜館」が描かれていることが解りました。消印から明治43年以前の絵葉書です。
東京ビアホールを頼りに調べてみると
『横浜成功名誉鑑』に
「商品館楼上の東京ビヤホールは創立も古く可成りの繁栄だ」
から「東京ビアホール」の看板は「帝国商品館」であることが確認でき、横浜市立図書館「伊勢佐木町」とは反対側からの図であると思われます。
※余談 桜木町駅の「川村屋」の記事も載っています。
実際のイメージは
横浜市都筑区にある「横浜歴史博物館」常設展示場には明治期のコーナーで「横浜館」のファサードを復元しています。
※勧工場の誕生時期に関する諸データは多数ありますが「鈴木秀雄 勧工場と明治文化」が詳しく参考にしました。
(百貨店の原型)
「勧工場」は百貨店の原型となり、商業革命を起こします。
しかし、「勧工場」は消費者のニーズから次第にかけ離れ長く続きません。
1902年(明治35年)東京市の統計では
勧工場 27店
入居店数 2,149店
年間売上高 790,708円
この明治35年を境に年々勧工場は減少していきます。
明治35年 27店
明治36年 26店
明治40年 19店
明治44年 10店
大正3年 5店
(東京市統計)
明治32年に開業した「帝国博品館勧工場」が現在もその名を残しています。
銀座通り新橋寄りにある「銀座博品館」は1930年(昭和5年)に廃業した「帝国博品館勧工場」の名を1978年(昭和53年)に復活させたものです。
伊勢佐木の「横浜松坂屋 (ノザワ松坂屋)」閉店の後にオープンした「カトレヤプラザ伊勢佐木」はまさに平成の勧工場復活といえるかもしれません。頑張って欲しいものです。
伊勢佐木商店街もいずれ調べてみたい関心領域です。
【閑話休題】私のお気に入り風景
横浜は広い!
この世界最大級のCityの魅力はなんでしょうか?
最上段に振りかざし 議論するにはこのスペースでは少なすぎますが、ポイントだけ指摘しておきましょう。

良く比較される神戸市と比べるとどちらが広いと思いますか?
神戸市の面積は544.56平方キロメートルです。横浜市より少し広い街です。
横浜同様 市域を拡大させながら大きくなりました。
明治22年4月1日→21.28平方キロメートル
明治29年4月1日→37.02平方キロメートル
大正9年4月1日→63.58平方キロメートル
昭和4年4月1日→83.06平方キロメートル
昭和16年7月1日→115.05平方キロメートル
昭和22年3月1日→390.50平方キロメートル
昭和25年4月1日→404.66平方キロメートル
昭和25年10月10日→420.64平方キロメートル
昭和26年7月1日→479.88平方キロメートル
昭和30年10月15日→492.60平方キロメートル
昭和33年2月1日→529.58平方キロメートル
平成4年1月1日→544.56平方キロメートル
一方、横浜市も
何回かの市域拡大を重ねて現在に至っています。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?
No.141 5月20日 もしかしたら菊名区?
横浜の魅力は この437.4 平方キロメートルのエリアに都市の要素が多彩に凝縮されている点にあると思います。
軸は開港場にありますが、多彩な都市生活がこの街を重層的に形作っています。
俗な表現をすれば、
歴史も農業も漁業も重工業から最先端技術まで、
そして未来都市まで、
ほどほどの距離感のなかに繋がっている。
悪く言えば「箱庭的」「総花的」な街ともいえるかもしれません。
また、見事なまでの尾根筋が織りなす“谷戸”の街、この起伏が横浜の風景の原点でしょう。丘と坂が連なる分水嶺を歩くと“丘の横浜”が見えます。
この街の普通の風景を今日は幾つか紹介します。
【閑話休題】横浜の風景、ここはどこでしょう?
今日は、場所当てクイズです。
かなり解りにくい風景です。でもヒントはちゃんと隠れていますよ。

写真No.1<ノーヒントです。気がつくとかなり目立ってます>

写真No.2<ノーヒントです。どこかというより、何か見えないものありませんか?>

写真No.3<京急のある駅です>

写真No.4<バードウォッチング用の覗き穴です>

写真No.5<最近デビューした古民家です>

写真No.6<鉄系なら おわかりですね>

写真No.7<ノーヒントです>

写真No.8<これもノーヒントです。>

写真No.9<ノーヒントです。>

写真No.10<一瞬 ルーブル?ってわけないか>

写真No.11<下流に向かって撮影しています>

写真No.12<ノーヒントです。>

写真No.13<ノーヒントです。>

写真No.14<ちょっと解りにくいかもしれません。遠景に閉鎖されたシアターが見えます>

写真No.15<右上の建物がヒントです>

写真No.16<画像に施設名が見えます。お気に入りの設計です>

写真No.17<この撮影場所はもう無くなってしまいましたがどの辺か?わかりますか>

写真No.18<花見の名所です>

写真No.19<ノーヒントですが、かなりの繁華街です。>

写真No.20<ノーヒントです。>

写真No.21<海岸に近い、元同潤会があったあたりの公園です>

写真No.22<ノーヒントです。>

写真No.23<江戸時代に橋があった場所ですって>

写真No.24<ノーヒントです。駅まえです。>
(写真差し替え中)
写真No.25<タイルに特徴があります。県庁ではありません。公園です>

写真No.26<橋の無い親柱だけの風景>

写真No.27<ここがわかったらかなりの橋マニア>

写真No.28<プレートがヒントです>
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【絵葉書が語る横浜】吉田橋脇2
このブログは、調べながら書き、書きながら調べるという自転車操業が常態化しています。先日【絵葉書が語る横浜】と題して吉田橋際の鶴屋呉服店の風景を探ってみました。
改めて、吉田橋界隈の写真・絵葉書を探していたところ別の「絵葉書」を発見しましたので、簡単ですがパート2として紹介します。
※専門家が探れば簡単な時代考証ですが、ここでは素人の試行錯誤の様子を紹介しています。(毎度の事です)
<上記写真が以前紹介した吉田橋界隈>
【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇ここでは横浜亀の橋生まれの「鶴屋呉服店」の吉田橋店を推理しました。
亀の橋から亀屋にせず“鶴”としたのは鶴と亀にひっかけたかったのですかね。
そしてさらに東京の“松屋”ですから、縁起が良いといえば中々のものです。
事の真偽は別にして
亀の橋「鶴屋」は 当時の大繁華街「伊勢佐木」入口に店舗を出します。
ここで紹介した「絵葉書」には低層の鶴屋の店舗が写り込んでいることと
1927年(昭和2年)に竣工した「イセビル」が写っていることから昭和初期の風景だという事がわかります。
今回の吉田橋脇の絵葉書をご覧ください。
さらに時間が経ち「鶴屋呉服店」が「松屋」となり五階建ての当時としては近代的なビルとして登場しています。
松屋横浜支店が竣工したのが記録では1930年(昭和5年)です。
振り返って、
【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇
で紹介した風景の年代を確定しないままにしましたが、ここでもう少しはっきりさせておきます。
「イセビル」竣工と「松屋横浜店」竣工の間
1927年(昭和2年)〜1930年(昭和5年)の間の風景です。
さて、
今回の「吉田橋より伊勢佐木町を望む」の風景も、かなり撮影時期を絞り込む事ができました。
まず季節ですが、半袖と日傘の服装から暑い時期、夏頃ではないでしょうか。
年代は
1930年(昭和5年)〜1941年(昭和16年)ごろの10年に絞り込めます。
横道にそれますが「中区わが街 中区地区沿革外史」に戦前戦後の町並みを「記憶絵図」として収録されています。(PDFですが画像は解読に難)
http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/archive/reference/wagamachi.html
ここに昭和10年頃の伊勢佐木一丁目マップがあり照らし合わせてみると いろいろ情報が見えてきます。
※薬「わかもと」の広告塔のあるビルは「丸高十銭ストアー」とか。
この風景の時代特定は、意外に簡単でした。
画像に映画の上演案内の看板があり、そこから時期を特定する事ができます。
「2013年12月16日 一枚の絵葉書から」
このブログでも、重要なヒントは「映画」でした。
都市発展記念館のサイトには
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a12_021_03.htm
『備考:画面左の建物は松屋横浜支店(1930年竣工)。垂れ幕には「祈皇軍武運長久」と書かれている。中央の広告塔の看板は「わかもと」。絵葉書は1933(昭和8)〜45年刊。』
とありますが、もう少し時期をしぼる事ができます。
(開戦前夜の夏)
この「絵葉書」には、読みにくいですが
映画の上演案内が写っています。
「小島の春」と「南風交響楽」です。
二本の邦画作品が並んで掲げられています。
「小島の春」1940年(昭和15年)7月31日公開
「南風交響楽」1940年(昭和15年)7月24日公開
特に
「小島の春」はヒットしこの年の暮れに発表されたキネマ旬報年間ランキングで第一位となります。
1940年(昭和15年)この年は皇紀二千六百年でもあります。
この「絵葉書」はこの時期に映された映像をプリントしたことになります。
※「小島の春」は女医小川 正子(おがわ まさこ)が描いたハンセン病在宅患者のノンフィクション小説を映画化した作品で、1937年(昭和12年)に長崎出版より発刊しまたたくまにベストセラーとなります。
この「小島の春」大ヒット、研究者荒井英子は『小島の春』現象と呼び「ハンセン病とキリスト教」(岩波書店)の中で70p以上に渡って分析しています。
ファシズム化の進む中、ハンセン病患者の“囲い込み”政策に上手く利用された疑念は拭えません。
→ここではテーマがずれてしまいますが、
メディアとしての映画が、弱者を切り捨てていく“美談”を謳い、酔いしれる大衆の怖さを学ぶ良いケースです。
もう少し時期を絞り込める情報がこの「絵葉書」には写り込んでいます。「松屋横浜店」の壁面に架かっている懸垂幕です。
7月23日より8月3日まで
「●銀 即金買上げ 取扱い」
→おそらく “満州事変”勃発以降始まった「金銀 (強制)買上」政策の一つを百貨店が代行していたと考えられます。
もう一面の壁には「祈皇軍武運長久」の幕が架けられています。
→同じく戦時下となり国内に緊迫感が次第に高まってきている時期です。
1940年(昭和15年)か
1941年(昭和16年)のつかの間の夏。
あらためて
肩幅の広い「吉田橋」の存在感を感じる一枚です。
【一枚の地図から】昭和27年の観光地図
手元に一冊の観光案内書があります。
「日本案内記」関東編
昭和二十七年四月発行
監修は運輸省
編集は運輸省の外郭団体の観光事業研究会。
発行も財団法人 日本交通公社です。
日本交通公社は
1912年(明治45年)3月に外国人観光客誘客促進を目的として設立された団体です。
1942年(昭和17年)財団法人東亜旅行社に改組
1945年(昭和20年)財団法人日本交通公社に改称し
英文名称(Japan Travel Bureau) JTBに改称します。
「この法人は、旅行及び観光の健全な発達と観光関係事業の向上発展に関
する事業を行い、我が国の観光文化の振興に寄与することを目的とする。」
この観光ガイドに折込まれている横浜の地図を元にこの時代を旅してみましょう。
この観光案内が発刊された時期は昭和27年4月です。観光マップは昭和26年頃のものをたたき台にしていると思われます。昭和26年という時期は、
□ マッカーサーが、朝鮮戦争の対応でトルーマン大統領と対立し解任
□大惨事となった国鉄桜木町電車火災事故(4月24日)
□ラジオ東京(現:TBSラジオ)が開局。
未だ 朝鮮戦争中の日本で、横浜の接収まっただ中の状態でした。
(山下公園)
当時、山下公園は接収地で米軍宿舎が建っていました。
山下町の海岸通り・水町通り周囲は市街地の区分は無く空白が目立ちます。この周辺の多くが米軍によって接収されていた状態を表しています。
ホテルニューグランドがポツンと表記されているのが分かります。
山下公園は1954年(昭和29年)から段階的に接収解除され、1961年(昭和36年)には再整備が完了し、ほぼ現在の姿となります。この地図は解除直前ですね。
(東神奈川)
東神奈川駅周辺を拡大してみました。
現在とどこが大きく変わっているでしょうか?
鉄道路線から見ていきましょう。
横浜市電の路線があります。
京浜急行路線には旧名「京浜神奈川駅」が表記されています。
1956年(昭和31年)現「神奈川駅」に改称します。
この「京浜神奈川駅」は位置と名称が変わるので歴史的にはやや面倒な駅です。
ここでは京急の「神奈川駅」についてざくっと変更の歴史を紹介しましょう。
[]内の駅名は全て旧または廃止された駅名です。
※川崎駅より東京方面は省略します。
1905年(明治38年)に
[川崎駅]〜[神奈川駅]( 神奈川停車場前)が開通します。この時、路線内に幾つか駅が開業し神奈川寄りに[(京急)反町駅]が開業します。
1925年(大正14年)に
[神奈川駅]が[京浜神奈川駅]に変更されます。
→この時は[川崎駅]〜[京浜神奈川駅]が営業区間です。
[京浜神奈川駅]から路線が少し延伸します。
1929年(昭和4年)に
[京浜神奈川駅]〜[(仮)横浜駅]が月見橋近くに開業します。
この間約200mです。
1930年(昭和5年)に
[(仮)横浜駅]が300m延伸し【横浜駅】が開業します。
[(京急)反町駅]を廃止。
[青木橋]を開業します。
[京浜神奈川駅]を廃止し[青木橋駅]を[京浜神奈川駅]に改称します。
1956年(昭和31年)に
[京浜神奈川駅]が【神奈川駅】に改称し現在に至ります。
※かえって複雑で分かりにくくなった感じですが?
横浜駅が桜木町から二度引越をしている影響で、伝統ある!「神奈川駅」が国鉄東海道から無くなり、京急も変更しなごりが少し移動し「神奈川駅」として残っています。かつての偉大な「神奈川駅」はほんの少し“なごり”が残っています。
(仲木戸陸橋)
京浜急行「仲木戸駅」にも語り尽くせない物語があります。
1905年(明治38年)
最初は[中木戸駅]という名で開業します。
「仲木戸駅」となったのは1915年(大正4年)[京浜神奈川駅]となった時期と同じ頃だそうですが資料は未確認です。
現在
「仲木戸駅」の近くに京浜東北線「東神奈川駅」がありペデストリアンデッキで結ばれています。
この京浜急行線と京浜東北線に挟まれたエリアは戦後未整備のまま時間が流れ、整備されたのはごく最近のことです。合意形成に長い時間がかかり神奈川区の重要懸案事項でしたが、関係者の努力で現在の区画整理が実現しました。
「東神奈川駅」は横浜線の乗換駅として利用者が多い駅ですが、
歴史的には「仲木戸駅」の方が先輩です。
1908年(明治41年)
横浜鉄道株式会社が「八王子」「東神奈川」を開通させます(現横浜線の開通)。
この時、
東海道本線のメインが「神奈川駅」だったので
その東にある駅ということで「東神奈川」と命名されます。
(高架化せよ)
横浜鉄道線が後に開設しますが、貨物線を海岸まで延伸させるために
京浜電気鉄道は“高架化工事”を余儀なくされます。
「横浜鉄道」が「京浜電気鉄道」を横切るので
「京浜電気鉄道」は高架にしろ!
ということになります。
現在の京急に乗ると良くわかります。
現在の神奈川新町を過ぎたあたりから徐々に高くなり、「仲木戸駅」を過ぎたあたりから下がりはじめ滝野川あたりで地上に戻ります。
なぜこのような無理が通ったのか?当時の横浜鉄道も“民営”で国鉄ではありませんでしたが開業して2年、1910年(明治43年)国有化され「八浜線(はっぴんせん)」となります。
鉄道路線として
国鉄「八浜線(はっぴんせん)」の計画が京浜電気鉄道より法律的に上位になるため、「八浜線」の路線計画が優先されることになります。
京浜電鉄は開設が手軽だった「軽便鉄道法」
横浜鉄道のちの国鉄「八浜線」は「私設鉄道法」の制約を受けました。
京浜電鉄が高架化し、「仲木戸駅」近くを「八浜線」から繋がる貨物支線が「海神奈川駅」まで開設します。
1959年(昭和34年)4月1日に
貨物支線の「東神奈川駅」〜「海神奈川駅」間は廃止され
この路線のなごりが現在も残っています。
(つづく)