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No.443 岸辺のアル闘い
今日は、川崎が舞台です。
勿論横浜に深く関係のある話しです。
「有吉堤」と「アミガサ事件」を知っている横浜市民は
少ないのではないでしょうか?
隣接市川崎から横浜まで駆け抜けたアミガサ事件の人たちの足跡をトレースしてみます。今日は多摩川編。
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ガス橋 |
(川辺に生きる)
川は大地の恵みを下流へ
そして海に運ぶ役割を担っています。
人類は川辺に集落を作り暮らしを始めました。
一方で、川は人々に自然の力を見せつけてきました。
川辺の歴史は、水害との闘いの歴史でもあります。
江戸東京の城南、神奈川の北部を流れる多摩川の歴史から、大正初期に起った事件を紹介します。
(右岸と左岸)
多摩川は東京都と神奈川県の県境を流れる一級河川です。現在は穏やかな流れですが、昭和の時代まで水害の絶えない暴れ川でもありました。
※山田太一「岸辺のアルバム」
http://ja.wikipedia.org/wiki/岸辺のアルバム
江戸は川の街です。利根川と多摩川によって作られた平野に育った街です。
江戸時代に入り、多摩川の豊かな水源を利用した“灌漑用水路”の整備が始まり水稲生産農家が増加し江戸の近郊農業が飛躍的な発展を遂げます。
多摩川右岸(橘樹郡=神奈川)には「二ヶ領用水」、左岸(荏原郡=東京)には「六郷用水」が整備され広大な農地が誕生します。
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二ヶ領用水 |
豊かな水田は、川の氾濫と隣り合わせの危険も抱えていました。
何年かに一度起る大水害が川筋を変え、田畑を土砂で塗りつぶし再び田畑を整備するという繰り返しでした。
※余談ですが 私が生まれ育った世田谷区玉堤は「六郷用水」が流れていました。
小学校の頃に 多摩川の水量が激減した時期があり 歩いて多摩川を渡った記憶があります。
江戸城に近い多摩川左岸は、江戸時代重点的に土手の整備が行われましたが、右岸の川崎側は整備が遅れました。
明治に入り、右岸と左岸の差は尚一層明確になっていきます。
川崎側の橘樹郡御幸村(川崎市幸区の全域 中原区一部)
現在の地図でも蛇行が微妙ですね。
(繰返す水害)
現在の川崎市幸区一帯は水害の歴史と共にありました。
明治維新以降
何度も請願書を県庁は勿論
政府・貴衆両院に提出し
同時に新堤築造を出願しますが
行政府は動きません。
そこに歴史に残る大災害が起こります。
1907年(明治40年)豪雨による大洪水が全国的に発生
多摩川も氾濫
1910年(明治43年)豪雨による大洪水が全国的に発生
多摩川も氾濫
この年の「臨時治水調査会」で
多摩川は第2期河川に指定されます。
これは事実上棚上げを意味しました。
1913年(大正2年)豪雨による大洪水が多摩川で発生
御幸村他“右岸”流域の人々は治水の請願書を出しますが
進展しません。
1914年(大正3年)ようやく神奈川県は“左岸”の東京都と協議に入ります。
何故?東京都と協議が必要かというと
“左岸”地域は、“右岸”の堤防工事が進むと 左岸に被害が及ぶ“危険”があるというものでした。両方まとめて工事するには 予算が無い!
では県費で築堤申請を国に出すと、左岸側の強い抵抗に合うという
繰り返しでした。
最終的に許可を出す「内務省」(戦前は公共事業も管轄していました)も
申請を却下!します。
同年1914年(大正3年)の8月9月に、再び大洪水が起ります。
明治に入っても
一般市民のデモや抗議のための集団行動は禁止されていました。
(決起)
地域住民はついに実力行使を決定します。
御幸村など4村の住民数百人の一団が早期築堤を求め県庁に陳情行動に出ます。
9月15日(火)
小倉・鹿島田・町田・江ヶ崎・北加瀬など関係地域の代表が集まります。
関係村民が大挙して神奈川県庁に迫る以外方法がないという結論に達します。
●9月16日(水)午前2時に出発する事
●服装は羽織を使わず、
草鞋を履き目印としてアミガサを冠る事
●県庁への進路は各字(あざ)の随意とすれども
成るべく警官の目を避けて目的地に達するようにする事
を決定し 散会します。
9月16日(水)未明
各村の陳情部隊は、月明かりを頼りに県庁に向かって出発します。
「九月十六日午前一時八幡社ニ集合スル」
※現在 川崎市平間にある「八幡神社」境内にプレートがあります。
住民はアミガサをそれぞれに着用し結集します。
「二時十分鹿島田を経て小倉に至り,更に同志九十人と会す.末吉橋に至るや濁流滔々と渦を巻き,川口は溢れて渡る事を得ない.止むを得ず鶴見橋に迂回せんとしたが,此処は警官防備線の中心地なるを以て果して成功するかは疑はしい.種々協議の末,一同生命を賭しても此の末吉橋を渡らん事に決着した.
其処で一同衣服を頭に結び付けて胸に達する濁流を押切り,親子兄弟互に助け合ひ相励しつゝ進み,幾度か濁流に押流されんとしては踏みしめ踏みしめ,漸くにして彼岸に達する事を得た.半月雲間に現れ,必死の一行を照らすに其の凄惨なる状態,叫び合ひ嶋咽する声と共に此世のものとも思はれなかつた.
渡るに要せし時間約一時間半,先着順に仕度を整へて飯田道横町を過るに前後の間隔次第に拡がり,終に互に見失つて了つた.此時引返して来た鹿島田部隊五十余名は飯田橋横丁に於て同志二十余名が警戒の巡査に捕はれたる事を報じたのである.此処に於て又も進路を協議して居るうちに三百名の同勢が程ケ谷方面に向ひつゝある事を知らす者があり,之に勢を得て進み漸く迫付く事を得た.
今や同勢五百有余,群がる警官も物かはと,或は神奈川台下,或は平治の鉄道踏切と到る所警官の垣を突破して潮の如く県庁に殺到した.」
すごい表現ですね。
これは川崎市御幸尋常高等小学校発行の資料の一文です。
このルートを歩いてきました。
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二日に分けています |
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古市場商店街で発酵食品の専門店「片山本店」発見 |
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鹿島田は新川崎と相乗効果で大変貌 |
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アミガサチームは恐らくこの「杉山神社」に参ったことでしょう |
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末吉橋から鶴見川を |
「飯田道横町を過るに前後の間隔次第に拡がり,終に互に見失つて了つた.此時引返して来た鹿島田部隊五十余名は飯田橋横丁に於て同志二十余名が警戒の巡査に捕はれたる事を報じた」
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飯田町は神奈川区の滝野川流域の町です。飯田橋は未確認 |
この事態に終止符を打った人物が
アミガサ事件後に就任した県知事(後の横浜市長)
有吉 忠一でした。
彼は 就任二ヶ月で“築堤”を決断します。
内務省の反対を押し切った築堤は現在も「有吉堤」として残っています。
アミガサ事件に決起した「八幡神社」前を通る県道111号線は
多摩川を渡る際「ガス橋」で東京と結ばれます。
1936年(昭和11年)東京ガスが鶴見製造所で製造したガスを東京に供給するために作られました。
このガス橋近くに多摩川を挟んで互いに水害から逃れるために、反目し合った悲しい歴史があるのも皮肉な巡り合わせといえます。
現在のガス橋は、1960年(昭和35年)に車両用の橋梁として新設されたものです。かながわの橋100選にも選ばれています。
No.409 二国五郡物語
横浜の古代中世に昨日No.408で触れた流れで、今日はその後、
七世紀後半から八世紀にかけての横浜をざくっと紹介しましょう。
街歩きにちょこっと役立つ程度です。
現在の横浜市域は、古代国家の時代
二つの国(今の県みたいなもの)
その下の五つの群に分かれていました。
(二つの国)
二つの国は
武藏国(むさしのくに)
相模国(さがみのくに)
この二つの国境は、おおよそ現在の藤沢市と横浜市の市境を流れる境川で分かれていました。
(五つの群)
武藏国(むさしのくに)の
都筑郡(つづきぐん)
久良郡(くらきぐん)
橘樹郡(たちばなぐん)
相模国(さがみのくに)の
高座郡(たかくらぐん)「太加久良」
鎌倉郡(かまくらぐん)
(郡域の変化)
一気に時代を明治に飛ばします。
明治初期も、江戸時代の地域割を維持しながら郡制を敷きますが
ちょっと古代と異なっています。
久良郡(くらきぐん)→16世紀ごろから久良岐郡に
橘樹郡(たちばなぐん)→エリアの拡大
古代の郡域は鶴見川を境に分かれていましたが、中世には
星川・仏向・程ヶ谷(保土ヶ谷)他が橘樹郡になっています。
この辺は簡単にしておきます。
(横浜市域は都筑郡・久良郡)
現在の横浜市域に古代の都筑郡・久良郡がほぼ入ってしまいます。
その他の橘樹郡・高座郡・鎌倉郡は、明治以降の市域拡大で
その一部を編入してきました。
古代の分け方で言えば、横浜は異なる地域の混成エリアともいえるでしょう。
余談ですが
横浜で一番新しい区が都筑区と青葉区ですが、「都筑」の名が候補に挙がった時は、新しい住民(居住年数20年未満)が殆どだったこのエリアの住民には“つづき”の名になじみがありませんでした。歴史を記憶する「地名」を残すことは大切だと私は思います。
この都筑、時折「都築」と誤記が起ります。明治時代にも「都筑」ではなく「都築」と表記している文献があるくらいですから 間違いやすい地名といえるかもしれません。
「つづき」「つずき」の違いです。
間違えないようにしたいものです。
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和名類聚抄 |
(郡の下に郷)
古代
国の下に郡、
郡の下には郷がありました。
都筑郡には
餘部(あまるべ)
店屋(まちや)
驛家(うまや)
立野(たての)
針斫(はざく)※石偏に斤(文字化けの場合)
高幡(たかはた)
幡谷(はたのや)
久良郡には
鮎浦(ふくら)→六浦庄
大井(おおい)
服田(はとだ)
星川(ほしかわ)
郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ)
諸岡(もろおか)
洲名(すな)
良崎(よしはし)
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/news/news21-4.html
現在に残る地名が幾つかあります。
逆に 殆ど無くなってしまいました。
立野(たての)
針斫(はざく)→八朔
星川(ほしかわ)
諸岡(もろおか)
このように
七世紀後半から八世紀にかけて古代国家が領地を明確にしていきながら成立していきます。領地には管理(支配)する役所と寺社が設置されていきます。
武藏国の国府は、多磨郡(現在の府中市)
相摸国の国府は、大住郡(現在の平塚市)→平安時代に現在の大磯に移ります。
※国府の湊(津)で国府津(こうづ)の名が残っています。
一方、役所と共に寺社が設置されますが
武藏国(むさしのくに)→氷川神社
相模国(さがみのくに)→寒川神社
以下郡にも役所と寺社が創られていきます。
横浜で郡の役所と共に建立された寺といえば「弘明寺」です。
次回は
この弘明寺の近現代を紹介しましょう。
※驛(うまや)の食卓
古代の地名から命名かどうかオーナーには確認してませんが、
美味い横浜ビールは「驛の食卓」です。
http://www.umaya.com
【番外編】 1月29日謎解き都橋
始めっから宣言しておきます。
大したことではありません。
今日は一枚の昔の地図を眺めていたら
不思議なことに気がつきました。
ちょっと謎解きしてみました。
何か変じゃありませんか?
通りと橋の位置がずれています。
一つ上流の宮川橋の向きも変ですね。
単に作成上のミスなんでしょうか?
このマップは昭和四年八月の作成です。
それではこの時期に近い他の地図と比較してみよう
ということで昭和六年の地図が横浜市HPにありましたので
比較してみます。
この地図では、
もう一つ都橋脇に小さな橋がありますね。
この小さな橋が関係しているのでは?
真中の白い建物が交番、その左横に小さな橋の跡が現在も残っています。水道管の橋かなにかでしょうか、地図に掲載されている位置と一致します。
この地図では、湘南電気鉄道(京急の横浜・横須賀区間)桜木町駅直結予定の敷地がはっきり残っていますね。
逆に前掲のマップは湘南電気鉄道用地が途中までしかありません。
この二種類のマップの発表時期の差は2年ですが
測量時期はもう少し時間の開きがあったのかもしれません。
震災復興関係の資料を見ると、都橋は震災で倒壊し木製の仮橋が架けられたとあります。その後、本架橋工事が始まります。
ここの交番も古いんですね、戦前からここにあります。震災の時に避難し助かった場所でもあるようですね。
ちょっと調べてみるだけで
小さな橋にも様々なドラマがあるようですね。
(2016年10月更新)
【番外編】 1月17日(木)横浜は坂ばかり
横浜の特徴は起伏に富んだ地形にあります。
谷戸の多い町だからこそ、丘があり緑が感じられますが、
結果、坂が多いんですね。
今日は 横浜の坂についてちょっと紹介。
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急坂(西区) |
(横浜で一番有名な坂)
横浜で全国に知れ渡っている坂は?
権太坂です。毎年テレビでも放映されています。
そう、お正月の箱根駅伝です。
箱根駅伝の正式名称は?
「東京箱根間往復大学駅伝競走」といいます。
1920年(大正9年)に始まったこの駅伝の名物区間が、
ごぼう抜きや大ブレーキが頻繁に起こる区間として有名になりました。
現在の「権太坂」は新道ですが、旧東海道の勾配度は半端じゃありません。
(名の在る坂は?)
坂の無い町はありません。でも “名前の付いた坂”というのは どこにでもあるというものではありません。坂の何は理由があります。
私がざくっと拾い出しただけでも
250にも及びます。
横浜の坂名一覧の資料があるのかもしれませんが、
力づくで調べたので
推測値では
500は越えるのではないか?と思います。
ご存知の方 教えてください。
市民グラフ・ヨコハマ NO.95には
横浜橋 めぐり坂あるき」特集があります。
がこの号、買ってあったかな。図書館に行かねば。
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見つかりました |
(坂名)
保土ケ谷の権太坂に話しを戻します。
ここは日本橋を出発する東海道の街道筋最初の難関です。
道中 行き倒れも多かったようです。
権太坂の名の由来は幾つかあるようですが、
坂を造る時に尽力した藤田権左衛エ門の名からという説と
旅人がここは何と言う坂ですか?と尋ねたら
耳の遠い年寄りが自分の名を伝えたことから
という 微笑ましい由来とが有名です。
私の確認した「坂」を幾つか紹介しましょう。
■くらやみ坂
西区西戸部3丁目〜伊勢町3丁目あたり
※坂道標あり
島田荘司の小説にもなった(らしい)坂です。
■半僧坊坂
西区東ヶ丘坂
※坂道標あり
■フェリス坂(西野坂)
中区山手町にある「階段」です。
正式名称は「西野坂」で通学路から名付けられた坂です。
■ワシン坂
中区山手町
横浜に多いカタカナ坂の一つです。
由来説は多く、和親条約のワシン説、鷲見坂からワシン説(最有力)、ワシン(ウシン)という外国人が住んでいた説、降り際にわき水があり「ワキシミズザカ」が外国人たちの口によって「ワシン坂」となった説などです。
■見尻坂
中区山手町
※考えてみれば変な名ですね。昔男衆は褌に短い着物でしたから
下から尻が見える位急だ!ってことでしょうか。
急な坂だったため、前の人の尻がすぐ眼の先にくる、前の人の尻を見上る坂という意から命名されたという説もあります。
■馬坂
中区根岸台、その名の通り「うまざか」で競馬記念公苑“ポニーセンター”の入口あたり
(まさかの名は 磯子にあります)
■ビア坂
中区山手町と諏訪町・千代崎町1丁目の間
まさにビール発祥の地にふさわしい名です。
■ビール坂
保土ケ谷区桜ヶ丘1丁目〜神戸町
ここにはかつてビール工場があったので命名されました。
かなり急坂です。
■アメリカ坂
中区本牧和田
横浜市立本牧中の横を通る坂です。
本牧散策の時には登ってみましょう。さほど急坂ではありません。
■ハロー坂(愛称)
中区和田〜和田山
由来は米軍が本牧一帯を接収していた頃に付けられたのでしょう。
■水道坂
保土ケ谷区坂本町から川島町と仏向町の間まで
ここは、横浜が相模川水系から取水している水道の道から命名されています。
■紅葉坂
西区紅葉ヶ丘
この紅葉坂の石畳を登った記憶のある方も多いのでは?
残念ながら歴史ある「石畳」は
不評のため改修?されてしまいました。
この坂も物語が多くある坂ですので
チャンスがあれば 物語仕立てで紹介します。
■急坂 西区東ヶ丘 冒頭の写真です。野毛山に続く階段坂です。 |
No.382 1月16日(水)横浜と福井
この文章を作成中(14日)に横浜は豪雪?
で機能麻痺の状態です。
今日は 横浜と福井の繋がりについて紹介しましょう。
(越前福井藩)
横浜は開港後、全国の商人・武士が集まり、
居留地の外国人達と開港場の日本人による寄合所帯で構成されていました。
開港場の情報は、いち早く全国に伝わり
歴史で学ぶ「尊王」「攘夷」他の様々な動きが横浜を情報源として活発になっていきます。
1858年(安政5年)7月に幕府は、開港場である神奈川と横浜の警備を
伊予松山藩と(坂の上の雲の素材となった)
越前福井藩に 命じます。
ところが、福井藩主松平慶永(春嶽)は拒否します。
理由は井伊政権への反発もありましたが、藩財政が逼迫していたことも大きかったようです。
逆に越前藩のブレーン橋本左内を中心に代替え案を検討させます。
これに激怒したのが時の大老 井伊直弼です。
1858年(安政5年7月5日)8月13日
一連の“安政の大獄”による松平慶永(春嶽)は言いがかりにも似た不時登城の罪を問われて強制的に隠居・謹慎となります。橋本左内もその後、獄中死し幕末の賢人を失います。
藩主が蟄居し、急遽新しく第17代福井藩主となったのが越後国糸魚川藩第7代藩主松平 茂昭(まつだいら もちあき)です。
この頃の徳川幕府は藩主に関して、現代のサラリーマン社会にも似た人事システムで動いていましたので、藩主ポストの異動で“お国の殿様”が決まったようです。
逆に徳川諸藩で江戸時代に藩主のお国替えがなかったのが井伊家の彦根藩でした。
松平 茂昭は再度横浜警備の要請を受け、現実路線を選びます。
越前福井藩は幕府直轄領(天領)だった
武藏国久良岐郡太田村に19,000坪を借り受け
500人の常駐する陣屋を突貫工事で完成させます。
大岡川の沼地を開墾しての造成のためかなり苦労したようです。
ここが、現在の日ノ出町・黄金町一帯です。
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昭和初期 市電が走り京急はまだの頃 |
しかし、藩の経済は逼迫していましたから
越前福井藩は開港場にいち早く、藩命による商館を建てます。
藩財政建直し策の重要方針として長崎と横浜に輸出商社を設立し、その収益を藩の収入に充てようと考えた訳です。
今でいう「県の物産店」みたいなものですかね。
横浜開港は、
全国諸藩とそのトップに立っていた幕藩体制に「情報」「経済」の波が押寄せます。
幕末、多くの藩が自前で「国防対策」を迫られ、貿易力の差が明治維新の原動力にもなっていきます。
横浜町五丁目 大通北側に
横浜村名主の一人だった石川徳右衛門名義で90坪の土地を借り
表間口6間、奥行き15間の大きさで
「石川屋」を開きます。
開店当初は 与助という人物を支配人に雇いますが
商売が発展するに伴い福井藩から警備で赴任していた人物が、
専任でビジネスに関わっていきます。
当時の「横浜錦絵」にも多く登場したということですから
大変賑わったのでしょう。商売は横浜も長崎も順調に発展していきます。
横浜の越前福井藩ショップ!を担当したのが
越前屋金右衛門 またの名を
石川屋善衛門
本名を 岡倉 覚右衛門といいます。
ここでピーンと来た方もいらっしゃると思います。
彼の息子が 岡倉角蔵、後に岡倉覚三となり
一般的には 岡倉天心の名で 明治期に大活躍します。
No.280 10月6日(土)天心と三渓
No.9 1月9日(水)残した大正の財産
その後の「太田陣屋」は
1866年(慶応2年)に歩兵・騎兵伝習所
1870年(明治3年)には県吏員の子弟への漢学教授を目的とする文学所が設けられますが、
陸軍の用地として収用され
戦後 民有地となり問屋街として賑わいますが
時代の趨勢で 問屋は数軒を残すのみとなり
現在に至ります。
No.471 横浜・世田谷・彦根
No.381 1月15日(火)素材ベイブリッジ
昨年366話の中で、意外な大ネタが抜けていました。
横浜ベイブリッジを取上げるタイミングがありませんでした。
今日は、横浜のシンボル
ベイブリッジを紹介します。
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わが家の玄関先に飾っている絵もBBです。 |
ベイブリッジの兄弟、鶴見つばさ橋は12月21日(金)に「世界一の斜張橋」として紹介しました。
■世界一の斜張橋
■横浜ベイブリッジ
横浜観光のシンボルの一つです。
ブリッジ上の湾岸高速を走る時はいつも胸がドキドキします。
例えば、
リムジンで羽田や成田から横浜に帰る時、
鶴見つばさ橋からベイブリッジにかかるあたりで
横浜に帰ってきたな と感じます。
この風景は たった二十年の時間しか経っていませんが、懐かしい風景のようにも感じてしまいます。
(素材に最適)
ただスペックを紹介するだけでは
面白くないので
作品素材としての横浜ベイブリッジを探してみました。
まずは私のベイブリッジ写真から
絵画の素材でもベイブリッジ工事が取上げられています。蒼々たるメンバーが工事中の風景を描いています。
●今関一馬
東京都出身 東京大学中退。小山敬三美術賞、国画会展会友優秀賞など
●國領 經郎
横浜市生まれ、1986年日展で内閣総理大臣賞受賞。1990年日本芸術院賞受賞、1991年芸術院会員。
●田沢茂
岩手大学特設美術家講師、青森県 県文化賞受賞授章。
●福島瑞穂
広島県尾道市生まれ。女子美術大学大学院客員教授。
●斎藤カオル
神奈川県葉山町生まれ。第12回自由美術家協会展入選。社団法人春陽会理事長。代表作「源氏物語五十四帖」
●小野肇
医師。浜口タカシに写真を学び生涯横浜の写真を撮り続けた。
○相笠昌義
東京日本橋に生まれる。 東京芸術大学美術学部油絵科を卒業。第25回安井賞展で安井賞を受賞。多摩美術大学教授。損保ジャパン東郷青児美術館大賞を受賞。
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大きい作品ですので右の一部を紹介します |
(スペック)
1989年(平成元年)9月27日に開通した2層構造の斜張橋です。長さは860m(中央支間長460m)で本牧埠頭A突堤(中区)と大黒埠頭(鶴見区)とを結んでいます。
設計は名港西大橋(めいこうにしおおはし)のデザイン案
名称はサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジを
参考にしたとされています。
当時横浜市が、建設省(現、国土交通省)に開港130年記念に際しこの橋の建設を強く働きかけ、難工事の末に開通したといわれていますが?
※まあ 与太話はいろいろありますが 全て薮の中です。
2層構造の上層部は首都高速湾岸線で、下層部は(一般)国道357号が15年後の2004年4月24日に暫定2車線として開通しました。
しかも図面でも明らかなように、片側しか開通していません。この先どうなるのでしょう。
(高さ問題)
ベイブリッジの海面からの高さは約55メートルで、現在これがネックで大型客船が通過できず、門司港、神戸港に寄港地を奪われています。
後5m高ければクリアできたのですが?
何故 この高さになってしまったのか?
当時国際港の橋の高さの標準は ゴールデンゲートブリッジで
66mだったはず。ただ間に合わせるために低く設定したのであれば、明治期の鉄道ゲージ以来の失策です。
遊歩道「横浜スカイウォーク」(有料)がありましたが、
これも2010年(平成22年)9月に閉鎖されてしまいました。
(略年表)
・1977年(昭和52年)8月一般国道357号・高速湾岸線都市計画決定
・1980年(昭和55年)11月高速湾岸線(横浜ベイブリッジ)着工
・1989年(平成元年)9月27日首都高速湾岸線開通
・1998年(平成10年)12月一般国道357号(大黒〜本牧区間)事業着手
・1999年(平成11年)8月臨港道路(大黒ふ頭・本牧ふ頭)
港湾計画決定・整備着手
・2000年(平成12年)3月一般国道357号(大黒〜本牧区間)着工
・2000年(平成12年)12月臨港道路(大黒ふ頭・本牧ふ頭)着工
・2004年(平成16年)4月24日下層部分の国道357号が開通
No.371 1月5日(土)ノゲ的 (加筆修正)
今日は野毛。
この街は、読むより行くに限ります。
私はまだ野毛を語るには“飲み”が足りないかもしれませんが、
今日は野毛を紹介します。
(アジア人白神義夫さん)
神奈川新聞の名物記者、白神義夫さん。
彼は中華街と野毛のことを良く語っていました。
特に野毛の大通りを「税務署通り」と呼んでいた時代の話には
熱い語りが止まりませんでした。
「野毛は悔恨の街である」と語り、本にも書いています。
野毛は“変わりつつ、変わらない”人気の定番商品のセオリーみたいな街です。
常連にも、ビギナーにも懐かしさと新鮮さを見つける事ができる街、
「野毛はデラシネの屋台から始まった」と白神さんは語る。
「そこには、米軍さんの匂いもあったけど、変わり身の早い日本という国への反権力の煙が漂っていた…。」
(書く命家 平岡正明)
横濱文芸復興「野毛的」を読み返すと、
この街が持っている磁力というか粘着力みたいなものが感じられます。
東京は本郷湯島に生まれた彼が、
横濱に反東京の拠点を見いだしたのが「野毛」の磁力で、90年代に積極的にこの街と関わり、野毛の発信力となりました。
偶然とは恐ろしいもので、
私が初めて“野毛”に近づいたのが高校時代、日ノ出町の「山手英学院」夏期講習に通っていた頃の拉麺屋でした。
→現在も場外馬券場の隣のビルで営業していたことに感動しました。
(2014年末現在 残念ですが閉店して新しいお店になっています)
大学生時代、一冊の本を持ってセンターグリルの階段を登ったのが、野毛の街に侵入した初めての経験でした。
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ランチでは無く現在お気に入りのオムライスです。 |
空いていた窓際の席に陣取り、大盛りのランチを注文し、
伊勢佐木の有隣堂で購入した本を開く。
何時もはカバーをかけない方ですが、今日は
この本の表紙に圧倒され「カバーをお願いします」と言ってしまった
「山口百恵は菩薩である」
知る人ぞ知る、「野毛的」の平岡作品である。
残念ながら、平岡さんは一度パーティの席で遠目にお会いしただけでした。
今、彼は亡くなられましたが、
生まれた街が変わりゆく新しいランドマークを何と評したでしょうか
平岡さん。
(女流)
今の野毛を語るには二人の「女流」を欠かせません。
女流作家 山崎洋子さん
女流落語家 荻野アンナさん
土日の野毛にも、夕暮れの野毛にも
女性の姿が多くなりました。
ここにも
“変わりつつ、変わらない”野毛の磁力が働いているように感じます。
(コンテンツ塊)
野毛を本質を語る前段だけでも数十冊の本ができる街。
野毛はコンテンツの塊です。
開港時から現代まで、エッセイにしたいネタを
私流のタイトルを付けるなら
「松平陣屋事件貼」
(越前松平藩と長谷川伸)
「野毛別宅物語」
(野毛別荘史)
「時の野毛山」
(時鐘と十全病院)
「老松小学校の悪童」
No.86 3月26日 老松小学校の悪童
「野毛で錦絵に会う」
(高橋誠一郎の横濱)
「税務所通物語」
(そこのけ闇市)
「美空ひばりと福島通人」
「山本周五郎 逃げる」
世の“物書き”は野毛でもう少し惑わして欲しいものです。
「暮らしの場に思いをよせ、
人々のふれあいが始まるとそこは「界隈」になる」
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※野毛の床屋について書きました。
No.422 妙蓮寺と野毛
1968年(昭和43年)〜翌年にかけて
横浜を舞台にした人気テレビドラマ「三人家族」について紹介しています。
※世代がわかりますね。
No9 1月9日(月) 野毛カストリ横町立退き騒動
戦後間もなくの話しです。「櫻川」がまだ“川”だったころ
野毛桜木町駅近くにカストリ横町がありました。
No.424 琉球バル
No.370 1月4日(金)【横浜の河川】鶴見川 輪下り絶景
昨日が横浜の自転車史みたいな感じで展開しましたので、
しり取りではありませんが、
私のサイクリング案内から
鶴見川下りを紹介しましょう。
横浜市内で最も長いサイクリングロードは鶴見川です。
上流は青葉区鉄町の寺家ふるさと村をかすめて、
都筑区、港北区、鶴見区を横切る約30キロのロングサイクリングが堪能できます。
私は、恩田川の合流地点近くの「落合橋」下から河口までツーリングを楽しみました。
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右側鶴見川、左側恩田川 |
これまで、大岡川、中村川、堀割川、柏尾川(一部)、帷子川(一部)、今井川(一部)を走破しましたが、市内では鶴見川サイクリングコースに勝るものはありません。
落合橋から河口まで約20キロあります。河口までなだらかな下りですから、逆に河口から「上り」狙いも面白いでしょう。
(橋オタクポイント)
橋には施工プレートが付いています。
(ナビゲーション)
鶴見川は(有名な)距離ポストが設置されています。鶴見川流域をバクの形に“見立てた”想像力に敬服。古代ギリシア人みたいです。
(左岸か右岸か)
川の走りは、右岸・左岸の選択も大切なポイントです。予め地図を見ておくか、景色を見回して都度選択していくか?共に楽しいです。
(脇道に逸れる愉しみ)
まじめなサイクリングも良いですが、できれば適度な寄り道をするのが楽しみを倍増させてくれます。
■崎陽軒売店
現在「環状北線」工事中のため、アクセスが難しくなっていますが、第三京浜インターチェンジ近くから崎陽軒工場前に出ましょう。
崎陽軒の売店があります。(珍しくない!)と思うでしょ。
実はこの売店でしか買えない(ちょっと前は、現在未確認)
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昔は携帯ストラップもあったんですが、キーホルダーのみ |
を売っているんです。
ここでお弁当や飲料を購入するのも良いのでは。
私は、ここでお弁当を買ってみる事にしました。
さあ崎陽軒売店を後に。
お弁当はどこで?
私は綱島の「大綱橋」近くでお弁当をいただきました。
鶴見川下りの時は、昨年の初夏でしたので、爽やかな風の吹く木陰を選びました。
■IKEAにも立ち寄れます
(ちょっと離れていますが)
■面白風景
ビルが橋を食べている
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実は水道橋が水道施設に直接架かっています |
川があれば「橋」がある。
(橋オタクポイント)
橋のデザインはかなり個性的です。
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森永製菓の森永です。 |
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通学路みたいです |
下流域では一部「川崎市幸区」と隣接しているエリアがあります。
下流域に入ってくると川幅が広がり目の前に拡がる景色も変わってきます。
(工夫ポイント)
季節に関係なく、水筒は持参しましょう。
チタン水筒がおすすめです。(ちょっと値段は張りますが)軽量で保温力が抜群です。夏は氷ひとかけらで「ギン冷え」数時間。
冬場も同じです。
(ガイド)
マップ、ガイドブックは用意しましょう。
私は“昔のガイドブック”を敢えて持参しました。
(激変風景)
現在、生麦と第三京浜を結ぶ「環状北線」工事が進んでいます。
http://www.yokokan-kita.com
移り行く風景を楽しむのも一興です。
■送電線技術に感服
鶴見川は 鉄塔ウォッチのベストポイントです。
送電鉄塔に関しては下記推奨ブログがあります。
http://blog.livedoor.jp/sawdensen/
(フィニッシュ)
残念ながら 鶴見川は河口まで自転車では行けません。
河口付近は工場敷地のため立ち入りができないからです。
ただ、迂回すればしっかり河口の絶景を堪能できます。
横浜市高齢者保養研修施設『ふれーゆ』
「ふれーゆ」まで自転車で行けます。
http://yfure-yu.com
高齢者保養研修施設とありますが、誰でも入場できます。実際子供からオトナまで幅広く利用されています。
サイクリングの途中に“入浴”“温泉プール”も最高です。冬場は湯冷めに気をつけてください。
リバーサイドアートも楽しめます。
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作品は?実際に出かけて観てみましょう!他にも多数川辺にアート作品が。 |
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ヒントこの橋あたりから散策してみては? |
※このルートに「国道駅」も入っていますがディープな物語は別建てで!!
※もうひとつ 杉山神社巡りも鶴見川流域スポットの一つです。
No.351 12月16日(日)戸塚踏切をなんとかしろ
横浜新道の旧戸塚有料道路区間(俗称吉田ワンマン道路)を
1964年(昭和39年)12月16日の今日、無料開放しました。
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オレンジ色が戸塚有料道路 |
自動車を運転される横浜市民なら一度は横浜新道を走ったことがあるでしょう。
横浜市内の国道1号のバイパス機能を持った国道です。
横浜新道はどこからどこまでなのか?
このテーマを調べるまで全く違う区間イメージを持っていました。
(横浜新道)
横浜新道は、“横浜市神奈川区立町”から“横浜市戸塚区上矢部町”までの区間です。
この区間内が一般道路と有料道路に分かれています。
起点の神奈川区立町、どこだか判りますか?
京浜急行「神奈川新町駅」近くで、
国道一号線は「東急 反町駅」経由して三沢から有料道路に入ります。
横浜新道の経緯を追っていきます。
まず
1948年(昭和23年)に連合国軍最高司令官総司令部が「行政道路」として東海道(国道一号線)のバイパス化を指示します。
(サブ年表1950年朝鮮戦争開始)
1952年(昭和27年)日本国主権回復(講和条約発効)
同年 国内法で道路計画が策定されます。
(サブ年表1953年朝鮮戦争終了)
1955年(昭和30年)に戸塚道路(不動坂交差点から大坂上まで)が有料道路として開通します。
1956年(昭和31年)に管理が日本道路公団に引き継がれます。
1957年(昭和32年)に日本道路公団が横浜市保土ヶ谷区常盤台から横浜市戸塚区上矢部町までの有料道路(横浜新道有料部分)の認可を受け着工します。
一方で、一般道の「横浜新道」区間(横浜市神奈川区立町から横浜市保土ヶ谷区常盤台)までが開通します。
1959年(昭和34年)10月28日に有料道路横浜新道が開通し戸塚道路と統合します。
横浜市神奈川区立町〜戸塚区上矢部町までの区間が「横浜新道」となります。
※横浜市戸塚区柏尾町から同区汲沢町までの区間は横浜新道戸塚支線に。
そして、
(旧戸塚有料道路区間無料)
横浜新道の旧戸塚有料道路区間(俗称吉田ワンマン道路)と横浜新道戸塚支線を1964年(昭和39年)12月16日の今日、無料開放することになります。
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昭和30年頃の地図には戸塚料金所が記載されています |
(吉田ワンマン道路?)
横浜市戸塚区役所のHPには
「国道1号の不動坂交差点から大坂上までの道路は、通称ワンマン道路と呼ばれています。昭和28年、当時の吉田首相が開かずの踏切といわれる戸塚駅前の大踏切を避けるため、このバイパス道路を建設しました。吉田首相が「ワンマン宰相」と呼ばれていたことからこのように呼ばれるようになりました。」
と言われていますが、
「吉田ワンマン道路」は横浜新道全線を表現していると思っていませんでしたか?
正確には「不動坂交差点から大坂上の区間」だということです。
ただ、この“俗称ワンマン道路”にも若干?疑問を感じます。
戸塚有料道路と横浜新道は昭和20年代に計画されます。
この時期、日本国は米軍占領下にありました。
基地のある地域の“米軍”要求は
“渋滞をなんとかしろ”という項目から
「車を右側通行に」という日本の交通体系の根本改変まで要求されます。
これには、さすがの日本政府も徹底的に反対し
“英国流左側通行”が継続します。
たまたま、吉田ワンマンの自宅が大磯にあり、総理大臣自身も戸塚近辺の渋滞は不便だったかもしれませんが、背景には日米安保下の様々な政治的軋轢があったようですね。
確かに、吉田茂のワンマン所業は有名でしたから
彼も“戸塚踏切の渋滞をなんとかしろ!”と言ったのでしょう。
No.306 11月1日(木)戸塚駅東口小史
※吉田ワンマンの亡霊
吉田元総理大臣が作ったワンマン道路???
小田原厚木道路をワンマン道路という投稿まで出ています。
http://www.youtube.com/watch?v=00lmuO2Vq4k
(余談)吉田茂の天敵?
戦後、吉田内閣時代に首相を批判した技術官僚に
下元 連(しももと むらじ)という人物がいます。
大蔵官僚で建築家の彼は
横浜税関庁舎、
門司税関庁舎、長崎税関庁舎などのプロジェクトに携わります。
吉田茂に対して
「大磯あたりにいてワンマン道路を造って通う(吉田元首相のこと)なんていうのは、けしからんこと」と辛辣な批評をしています。
ただ、首相公邸を設計したのが下元 連でした。
自分の設計した公邸を使わない吉田茂が腹立たしかったのではないでしょうか?
■(追伸→リクエストがありました)
今日、12月16日は「東京〜横浜間」で電信事業が始まった日ということで、記念日になっていますが、横浜新道にちょっと触れおきたくて敢えて別の日にしました。
【番外編】横浜の橋物語 (改訂版)
横浜市内に1,700橋がありますが
橋の数が一番多い区はどこでしょうか?
そして 一番橋の少ない区は?
■横浜市内の橋梁数、区別数字が少々異なります。
第90回横浜市統計書による市内橋梁数
※( )内は道路局2004年度の所在地別カウント
旭土木事務所管内 158(154)
戸塚土木事務所管内 146(154)
青 葉土木事務所管内 135(136)
泉土木事務所管内 119(124)
保土ケ谷土木事務所管内 135(117)
神奈川土木事務所管内 110(115)
港南土木事務所管内 117(112)
都 筑土木事務所管内 99(105)
金沢土木事務所管内 97(101)
栄土木事務所管内 95(92)
緑土木事務所管内 84(83)
瀬谷土木事務所管内 81(76)
港北土木事務所管内 61(58)
磯子土木事務所管内 64(56)
西土木事務所管内 58(51)
中土木事務所管内 65(47)
鶴見土木事務所管内 33(46)
南土木事務所管内 43(45)
横浜市内総計 1,700(1,672)
※旭区が一番多いというのは、横浜通の方にも意外だったのでは?
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旭区橋梁マップ |
では一番橋の少ない区は?
鶴見土木事務所管轄で33です。
意外?だと思いませんか?
鶴見川がイメージされますから、橋も多いような感じですが一級河川「鶴見川」は河口に近い一部分が鶴見区でしかありません。
(都橋雑景 横浜で超有名な橋?の一つです。)
(都橋の鳩?ここは鴎が似合います)
■鶴見区東寺尾・北寺尾 響橋
通称「めがね橋」かながわの橋100選
1941年(昭和16年)竣工
鉄筋コンクリート製アーチ橋
橋長は48メートル
■鶴見区梶山 梶山橋
スペック?私のお気に入り橋の一つです。
■横浜で最も有名なベイブリッジです。
No.381 1月15日(火)素材ベイブリッジ
私は「つばさ橋」の方が好きですね。
No.356 12月21日(金)世界一の斜張橋■中区 港1号橋梁(汽車道に架かっています)
■中区 桜川橋 桜が似合います
自動車専用道路に架かる橋 さてどこでしょうか?
歩行者専用の橋を「人道橋」といいます。
結構多い!
■横浜駅東口長い歩道橋
橋の色にも個性があります。
線路を跨ぐ高架橋も橋ですね。架け替えに10年以上かかった平沼橋です。
橋?というべきなのか?シーサイドラインの風景です。
シーサイドラインの風景もいいですね!
歴史を感じる橋梁が横浜にも多く架かっています。
■すごいデザインですね。
一見 心もとない基礎の上に架かる橋ですがしっかりしてました。
大岡川の風景です。
最近橋もPRするように?大きな看板が架かっています。
橋がじゃま?似合う?見る人で変わる風景です。
ここはどこでしょう??
自転車ではすれ違うことが難しい細い歩行者専用道です。
通学路として架けられたと地元の人が教えてくれました。(鶴見川)
■新田間川河口に架かる「みなとみらい大橋」です。
※さて ここはどこでしょう。高速道路も橋の連続ですね。私の隠れスポットです。