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No.283 10月9日 (火)三角菱のちから
1917年(大正6年)10月9日の今日、
創業期の三菱財閥の核となった三菱合資会社造船部の一切を引き継いだ(初代)三菱造船株式会社が設立されました。
この三菱造船株式会社はまだ長崎に拠点を持っていましたが、
東への拠点づくりの第一歩となりました。
(三菱財閥の誕生)
簡単に「三菱」の歴史をレビューします。
“三菱”は戦前三大財閥の一つです。
土佐(高知県)出身の創始者、岩崎弥太郎と弟の岩崎弥之助(二代目)から四代の岩崎家によって築かれました。
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三菱社史 |
「三菱重工」の社史を読む中である特徴に気がつきました。
代が変わる毎に社名が変わっていきます。
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社史をもとに自作のためもしかしたら違っているかも |
※三菱前史(1870年 明治3年九十九商会→1872年 明治5年三川商会)
初代(彌太郎)→三菱商会に改組し初代社長に就任
二代(彌之助)→就任の翌年に三菱社に改組
日本郵船の誕生
三代(久彌)→就任時に三菱合資会社に改組
持株会社として造船業・鉱業・鉄道・貿易などあらゆる分野に進出します。
四代(小彌太)→就任の翌年1917年(大正6年)10月9日に三菱造船株式会社を独立させます。
この三菱造船株式会社の独立こそが、後の「三菱重工業」1934年(昭和9年)につながります。
(横浜と三菱)
“三菱”は三井・住友と同様に西日本(長崎・大阪)を中心に拡大した財閥ですが、明治中期日本全国の貿易額の七割が横浜で取引されていました。三大財閥は「三井の番頭政治」「三菱の独裁政治」「住友の法治主義」とは言われていましたが、横浜を巡って仁義なきビジネスに火花を散らしました。中でも三井の渋沢、益田と三菱の岩崎の競争は横浜を舞台に様々な形で繰り広げられました。
三菱が先手を握ります。横浜で日本郵船を(創業)独立させ、海運市場を席巻します。三井商船も巻き返しを図りますが、両社ともにネックを抱えていました。
横浜港には本格的な船舶修理・造船を行うドックがありませんでした。三菱は1875年(明治8年)に上海の造船業者ボイド商会と共同で横浜に三菱製鉄所を設立し船舶の小修繕にあたっていました。4年後には買収し三菱傘下の修理工場を運営しますが本格的ドックの必要性に迫られていました。そこで、日本郵船が核になり、地元経済界に有志を募り1891年(明治24年)に横浜船渠会社を内田町に設立します。
三菱はこの年の前年1890年(明治23年)3月に
丸の内の兵営跡と三崎町の練兵場併せて約10万坪を購入。
これが現在の丸の内三菱界隈の基礎となります。
※東京駅1914年(大正3年)竣工
(三菱造船 横浜製作所の誕生)
横浜船渠会社から横浜船渠株式会社となり
1897年(明治30年)に2号ドックが完成します。
これが現在のドッグヤードガーデンです。
追って1899年(明治32年)には現在日本丸が係留されている1号ドックが完成します。
三菱が丸の内に本社を構え、
横浜の港を確保し、
長崎から横浜に、
大阪から東京に比重をシフトした瞬間です。
そして、財閥として事業拡大の中、
この横浜船渠株式会社は、1935年(昭和10年)三菱重工業に吸収され、
三菱重工業株式会社横浜船渠となります。
ここから氷川丸 、秩父丸(鎌倉丸)他数々の船が誕生しますがその多くが戦争で失われます。
奇跡的に「氷川丸」が残り、現在も山下公園先で、輝ける航路の記憶を伝えています。
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みなとみらいにある三菱重工ビル |
(その他の三菱と横浜)
なんといっても、「麒麟麦酒株式会社」でしょう。
三代目岩崎久彌社長肝いりのビール会社です。
このキリンビールと共に横浜から大きくなった食品商社が「明治屋」です。
2月23日 麒麟麦酒株式会社創立
No.113 4月22日 甘辛両党おまかせ!
(番外編)
三菱マークの由来
(余談の余談)
横浜線大口に本社工場がある三菱鉛筆は「三菱重工G」とは全く関係がありません。
スリーダイヤ・マークを使ったのは三菱鉛筆の方が先です。
No.272 9月28日(金)横浜の中の世界のノナカ
楽器業界屈指のラインナップを誇る
国内最大規模の楽器輸入会社といえば?
横浜に本社を置く「野中貿易株式会社」をご存知でしょうか?
世界中から弦楽器や打楽器、管楽器など様々な楽器製品を輸入している
専門貿易会社としてはわが国トップックラスの企業です。
1953年(昭和28年)9月28日の今日創業した、
横浜生まれの企業を紹介しましょう。
横浜は音楽が似合う街です。
童謡が育ち、国産ピアノが生まれ、ジャズやブルース、ライブハウスなど開港以来横浜に音楽は欠かせません。
野中貿易株式会社は、
1953年(昭和28年)9月28日に創業し、サクソフォンのBerg Larsen社の極東総代理店をきっかけに管楽器のノナカが華開きます。
以後、Wittner社、Puchner社、Vandoren社、Calato / Regal Tip社、H.Selmer社、Mayer Mouthpieces社、Springer Oboe社他数多くの楽器のトップブランド代理店として日本の音楽業界に貢献してきました。
この会社を知ったキッカケは、昨年山下公園で開催されていた「YOKOHAMA STEEL PAN FESTA2011」でした。つい最近、そういえば今年は行われたのだろうか?と情報を調べていく内に「野中貿易株式会社」ただ者ではない会社だと知りました。
キッカケのイベントは、
2002年から始まったノナカ共催の「YOKOHAMA STEEL PAN FESTA」
横浜の夏の音楽シーンを湧かせ2011年まで十回に渡って「赤レンガ倉庫」「金沢区海の公園」「ドックヤードガーデン」「山下公園」等で開催されました。
ここに登場する楽器が「スティールパン」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/スティールパン
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wikiから |
YOKOHAMA STEELPAN FESTA 2011
http://www.youtube.com/watch?v=6Z7BdajZNqY
Yokohama Steelpan Festa 2002
http://www.youtube.com/watch?v=u4hqowR07WA
「Steinway & Sons」は世界のピアノメーカー御三家の一つです。”世界のピアノの代名詞”と言われるブランドを扱う正規取扱店としてショールームを展開。
http://www.pfpf.jp
サクソフォンの野中貿易主催の“ノナカ・サクソフォン・コンクール”からは
西本淳
http://saxo-pokkun.blog.so-net.ne.jp
土井徳浩
http://blogs.yahoo.co.jp/tokuhirodoi
小山弦太郎、貝沼拓実、江川良子など現在のサクソフォン界をリードするソリストが登場しました。
「輸入プロフェッショナルサクソフォンの市場占有率は90%以上、輸入プロフェッショナルトランペットの60%、その他管楽器、マウスピース、リードなどのアクセサリー類において相当のマーケットシェアを占有し、海外有名メーカー総代理店契約および代理店契約も約50社を数えます。」(HPより)
http://www.nonaka.com/
野中貿易株式会社
本社住所: 横浜市中区太田町4-46 野中ビル
TEL 045-211-2022
2013年(平成25年)9月28日には設立60周年を迎えました。
横浜生まれのトップランナーの一社です。
横浜には、意外なオンリーワン企業が多くある街です。
今後も横浜が誇るオンリーワン企業をおりに触れ紹介していきます。
No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本
1895年(明治28年)7月31日(水)の今日、
京都岡崎公園で終了した第4回内国勧業博覧会で
横浜の梶野仁之助が自転車製造で有功賞を受賞しました。
今日は自転車をテーマにしました。
最近自転車ブームですが、私たちが乗る自転車の構造デザイン、百年前にはほぼ完成していました。
すばらしいことです。ちょうど日本の幕末明治の頃が自転車構造の転換期にあたります。
幕末明治の頃、初期自転車デザインは実用的ではありませんでした。実用性のある三輪自転車がごく一部で使用されていましたが、構造が複雑で高価だったため普及しません。
今日のような実用的な交通手段に生まれ変わるのが20世紀の時代に入る頃でした。
当時、最先端技術情報が集まった「横浜」でいち早く自転車に関心を持ち
英米の最先端自転車の輸入ビジネスを始めた“先駆者達”がいました。
1894年(明治27年)創業の貿易商石川 賢治、石川商会(後の丸石自転車→現在丸石サイクル)を弁天通に創業。
(後に尾上町移転)
1896年(明治29年)創業の根津商店 根津 酒造蔵(相生町)
1903年(明治36年)石川商会から独立し相生町で英国製自転車の輸入を始めた 金輪社の松浦 精一郎(後に尾上町移転)
ゴムタイヤの米国製自転車をいち早く輸入し成功した喬盛館の高木壽次(真砂町)
彼らは、輸入商として画期的な移動手段となった「自転車」を輸入した先見性のあった人物です。
一方、自ら「自転車」を造ろうと試みた日本人も全国に多数いました。
その中で、日本最初の自転車企業を創設したのが梶野 甚之助です。
日本の自転車史には必ず登場する梶野は神奈川県津久井の出身で、横浜に来て時計商を営む中で機械に魅了されていきます。ごく一部の遊興用に輸入された自転車を見て、自作を試みます。1879年(明治12年)には蓬萊町に自転車工場をオープン、その後本格的な工場を高島町5丁目に開設します。
梶野の国産自転車は、その後国内で評判になります。
国内工業技術の発表の場となった「内国勧業博覧会」に第三回から最後の五回まで出品し、第四回では有功賞を受賞します。
1891年(明治24年)には初の海外、中国に輸出します。
1897年(明治30年)に大日本自転車製造株式会社を設立、日本最初の自転車製造企業が誕生します。
最盛期の明治40年頃には職人40名で梶野ブランド「金日本号」「銀日本号」を販売し海外にも支店を持つまでに発展しました。
その後、宮田工業(本社茅ヶ崎)を含め現在の日本を代表する自転車メーカーが誕生します。(自転車部門は㈱ミヤタサイクルに)
(余談)
日本で自転車製造に着手した人物は福島県の鈴木三元という人物で、1876年(明治9年)一人乗り三輪車「大河」を開発しました。横浜の石川商会は1910年(明治43年)英国製自転車トライアンフの不正コピー警告の広告を掲載したことで話題になったそうです。
<20140730加筆修正>
No.76 3月16日 東京放送と横浜市
東京放送(現TBSHD)には、
1970年代横浜に社屋を移転させるという計画がありました。
移転計画は非現実的だったため実行されませんでしたが、
この計画の延長線に設立された日本有数のテレビスタジオが
(株)緑山スタジオ・シティ(MSC)です。
1981年(昭和56年)の今日
横浜市青葉区緑山にMSCが竣工しました。
緑山スタジオといえば、数々の野外で展開する名物番組を生み出しました。
「風雲たけし城」
「スポーツエンターテインメント番組筋肉番付シリーズ」
は緑山だからこそ実現した番組だといえるでしょう。
その他「渡る世間は鬼ばかりシリーズ」は4つあるスタジオの一つを専用にしたほどです。
3年B組金八先生シリーズ、
ふぞろいの林檎たち、
金曜日の妻たちへシリーズ、
NHK木曜時代劇、
14才の母(日本テレビ)他の収録に使われました。
緑山スタジオの近くでドラマのワンカットが収録されることも多く、TBS番組では青葉台駅近くの居酒屋や、横浜市内のロケが目立ちます。
ぜひチェックしてみてください。
時々スタジオの食堂やカフェが使われていることもあります。
(多角経営?)敷地のど真ん中を県道139号が通り、片方がゴルフ練習場になっています。
地元では結構人気だそうです。
緑山スタジオの歴史は1970年代にさかのぼります。
新聞資本とTVメディア会社の整理統合が加速しTBSは毎日新聞と資本提携し近畿圏の毎日放送(MBS)とネットワークを確立します。
この頃、赤坂の本社機能だけでは手狭ということで「郊外への社屋移転計画」が打ち出されました。
この計画のために取得した用地が横浜市緑区奈良町の一角、広さ8万坪の広大な緑地です。
なんでまたこんな不便な所にというほど陸の孤島に立地しています。
どうも土地取得が先にあったような気がしてなりません。
すぐ近くには墓地を挟んで広大な「こどもの国」があります。
「こどもの国」は皇太子殿下(現天皇陛下)のご結婚を記念して、全国から寄せられたお祝い金を基金に、1965年(昭和40年)5月5日のこどもの日に開園しました。米軍に接収されていた東京陸軍兵器補給廠・田奈部隊填薬所跡地を再開発したものです。
横浜線長津田駅や小田急線鶴川駅からのバス輸送や、自家用車が主な交通手段だったため、アクセスの不便さが最大のネックとなっていました。
どうみても放送局の事務機能やニュースなどのスタジオ機能を移転させることは非現実的ということもありパッケージ番組の収録に特化したスタジオ設備として開設したのが緑山スタジオです。
TBSスタジオではなく「緑山スタジオ」となった背景には、TBS以外の在京キー局・在阪準キー局やNHKが制作・放送するドラマなどテレビ番組の撮影の他、映画、CM撮影等にも使えるように「多目的貸しスタジオ」として別会社化しました。現在はこのねらいが功を奏し、NHKを始め多くの放送局が利用しています。
でも関係者の話しを聞くと、以前は俳優も緑山と聞いただけで収録をいやがったほど不便というイメージが強かったそうです。私も緑山で真夏に二日間泊まり込んで仕事したことがありますが、眠気覚ましに外に出ると狸が駐車場を横切ることもありました。二階の食堂は結構美味しかった記憶があります。
(余談)
TBSは緑山ができる前の1966年から1968年まで放映された
「泣いてたまるか」シリーズドラマ
渥美清 主演で生まれたての「青葉台駅」を舞台にした作品が幾つかあります。
ライバルフジテレビで、87分署シリーズ・裸の街というエドマクベイン原作シリーズを放送しましたが、これも東京といいつつ青葉台近辺だった記憶があります。
TVドラマを 街の記憶として観ていくのも 興味深いものがあります。
No.66 3月6日 ラーメンがなくなる日
ラーメンは一世紀の時間を経て日本食になりました。大正時代に全国各地に広がり始めた「支那そば」「中華そば」は戦後になって、一気に華開きます。全国津々浦々、1ジャンルでこれほどに多様性のある食が現在も成長しているのは「ラーメン」だけではないでしょうか。
1994年(平成6年)のこの日、新横浜ラーメン博物館がオープンしました。
新横浜ラーメン博物館公式サイト
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外観 |
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以前大雪のとき訪問 |
ラーメンは日本食からさらに国際食として世界に「日本のラーメン」として伝播しつつあります。戦後の食文化を大きく変えた「ラーメン」の名は昭和33年に発売された日清の「チキンラーメン」の登場が大きく影響します。インスタントラーメンの大ヒットが、ご当地ラーメンの誕生のベースと成りました。
このインスタントラーメン文化の創造会社「日清カップヌードルミュージアム」も横浜に登場し、横浜は麺食の聖地になりつつあります。
新横浜に登場した「新横浜ラーメン博物館」(ラー博)は、オープン当時驚きを持って迎えられました。私もオープン一ヶ月後くらいに並んで入場して以来、のべ10回程度ですが思い立ったらラー博に向かっていることもありました。
まず驚いたのが、ラーメンを食べるのに入場券を買うことでした。(現在は入場料300円です)しかし全国のラーメンを一カ所で食べられる交通費と考えたら良いかなとそれほど抵抗無く入場しました。(年寄りにはかなりブーイングでしたが)入館してまず驚くのが館内のシカケです。ラーメンという名が全国区となった昭和33年「チキンラーメン」時代を再現した街がそこにありました。このコンセプトは今でこそ昭和レトロブーム“ALWAYS”などの成功がありますが、オープン当時40歳以下は異次元だったのではないでしょうか。
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昭和33年を再現 |
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2月2日から気仙沼カモメ食堂が復活を目指して出店 |
この昭和33年時代を再現した街並を「ラー博」は変えていません。ぶれていないということです。確かに数回入場した時に“まだこれ”と感じたことも事実ですが、その後時々の入場でしかありませんが仲間を連れて行く時の「コンシェルジュ」になっている自分がいます。
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5年前?ごろのラー博 |
ラーメンをテーマにしたフードコートは全国に15以上も出現しました。街ぐるみでご当地ラーメンを開発しているエリアもあります。ラーメン文化がさらに成熟化すればするほど「ラー博」の存在が際立ってくるでしょう。頑張って欲しいと思います。
新横浜には他に観光施設が無いのが残念ですが、最近では世界各地からわざわざ「ラー博」を訪れています。
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6カ国語パンフ |
「新横浜ラーメン博物館」館長の岩岡さんは、ラーメンの画一化に危機を感じていると自著「ラーメンがなくなる日」で述べています。80年代以降ラーメンはメディアと融合し大ブームを起こしました。もうブームは去り、原点の郷土食にもどりつつあります。
カレーミュージアムは失敗しましたが、ラー博は常にラーメン世界の灯台になって欲しいと思います。
※余談
ちょっと苦言 一階の売店はどうにかなりませんか?レイアウトがその都度変わるのは構いませんが買いにくいのです。商品陳列、展開にもう少し本腰を!?
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マイラーメン購入しました |
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かもめ食堂のミニです |
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つけ麺の登場しました |
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箸休めに喫茶も良いね |
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なつかし!レーシングカーだ。 |
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外国人はコスチウム撮影が大好き 法被も人気ですよラーメンハッピ作っては? |
No.54 2月23日 麒麟麦酒株式会社創立
横浜人は、はじめて物語が大好きです。
数ある“横浜はじめて物語”で一番ポピュラーな「はじめて」は「麦酒(ビール)」でしょう。
1907(明治40年)の今日は横浜から育った麒麟麦酒株式会社の創立記念日です。
開港の都市ですから、多くの文化が横浜経由で入ってきました。
当然、文化の先進性の立地にありましたから「横浜で新しい情報」が入手できたことは間違いありません。
横浜に“はじめて”が多くあるのは新しい情報があっただけではありません。
(起業都市横浜)
成功、失敗かなり繰り返しながらも「起業し、生業を生成してきた」街が横浜であると思います。
その中で、起業の苦難を乗り越えたエクセレントカンパニーが「麒麟麦酒株式会社」です。
麦酒会社を今作るのは至難の技です。
何百という法律に縛られています。
明治時代は、走りながらルールを作ってきました。
矛盾も抱えてきました。「坂の上の」時代です。
麦酒業界も明治期に乱立します。
しかし、1900年代に入ると業界の様相は大きく変化します。海外の例に習い、1901年(明治34年)に新しい麦酒税法が施行されます。
国が近代化するとき必ず安定した税収の柱にするのが「酒税」です。
(独立独歩)
小さな醸造業者各社はその負担に耐え切れず淘汰されていきました。
そこで政官業で極度の競争を回避し安定した市場を維持するため
札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の3社合同により大日本麦酒株式会社が設立されます。
市場シェア70%をこえる独占資本の成立です。
その中で、麒麟麦酒株式会社は三菱グループの下、独自の道を選びます。 No.283 10月9日 (火)三角菱のちから
戦後、GHQによる「過度経済力集中排除法」に基づき、昭和24年「大日本麦酒株式会社」は分割され「日本麦酒(現サッポロビール)」と「朝日麦酒(現アサヒビール)」となりました。
財閥解体で大日本麦酒株式会社が東西(南北)で分割され、東がサッポロ、西がアサヒに分社されました。
1954(昭和29年)年にキリンビールは、ビール業界のトップシェアを初めて獲得します。
前々、保土ケ谷にも麦酒会社がありました。
現在の横浜ビジネスパーク(YBP)がある場所ですが、このYBP近くにはビア坂という名称が現在も残っています。
(関連ブログ)
No.40 2月9日 日諾交流
No.26 1月26日 横浜東京間電信ビジネス開始
今日1870年1月26日(明治2年12月25日)のこの日
横浜と東京間の商用電信網がビジネスを開始します。
電信創業の地の記念碑が現在の横浜地検前に建てられています。
18世紀に蒸気機関による動力(産業)革命が起きた世紀です。
19世紀は通信技術による情報革命の世紀となりました。モールスの電信の発明の次にはグラハム・ベルの電話が実用化され世界経済に情報という新しい波が大きく影響力をもたらすようになります。
このイノベーションは幕末・明治の日本を直撃しますが、世界が驚嘆する技術力(キャッチアップ能力)を発揮し、一気に世界レベルに追いついて行きます。
1873年(明治6年)には東京~長崎間に電信線が開通し、その後約4年間で国内の電信線網の骨格を完成させます。このインフラ整備が、生糸を始めとする国内市場の形成に重要な役割を果たしたことはいうまでもありません。
(おやとい)
この技術力は明治初期に政府が巨額の資金をつぎ込んだ「お雇い外国人」から集中的に学びます。同時に、日本政府は技術官僚を育てるために人材育成を行い飛躍的な発展を遂げることになります。
No.293 10月19日(金)Citizen of No Country
No.121 4月30日 日本にCivil engineeringを伝えた英国人
(英才教育は「寮」から)
当時、短期間で大量の技術者を養成したのが明治4年工部省の下に開設された「寮」という専門機関でした。
鉱山寮、製鉄寮、造船寮、鉄道寮、灯台寮、電信寮など「寮」という名の各部門からは多くの人材が育って行きます。
中でも「電信寮」からは、沖電気の創業者沖牙太郎、東芝の前身である白熱舎を創設した三吉正一、珍器製造所の田中久重、後に横浜市長となり横浜市歌を依頼した三橋信方も明治5年電信寮に入りその後、外務官僚となっています。
No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い
1880年(明治13年)の予算削減で工部省は大幅な組織変更を迫られ、次第に役割を他に移管して行くことになります。
話しを電信と横浜に戻します。
実は、慶応3年暮れ(1867年か68年)に「横浜の貞次郎と東京の栄蔵なる商人が、江戸・横浜間の電信架設を出願」して許可されましたが(維新による)政権交代のために実現しませんでした。
その後、ブラントンの主導でイギリス人ギルバート(J.M.Gilbert)が招聘され、1869年(明治2年)横浜元弁天にある灯台「弁天灯明台役所」と横浜裁判所(現在の税関)の間760mに電信設備を架設し通信技術の教育を行い、これが日本最初の電信施設となります。
この時の電信施設建設要請は、神奈川県知事“寺島宗則”が建議し前述の「寮」の一つ「灯台寮」から政府に出されました。
横浜と東京間の電信通信は大変人気で、開業三ヶ月で3,000通の申込があったそうです。
(飛脚より安く早いということですが、昔から安くて早いはビジネス原則ということですね)
国際電信も同時に進められます。
1871年(明治4年)には長崎から上海とウラジオストクが海底電線で結ばれ日本最初の国際通信網が引かれます。また韓国(李氏朝鮮)とは1883年に呼子町(佐賀県)〜釜山間が結ばれます。
(電話交換)
電話利用者が増え、回線が急増します。そこに必要となったのが「電話交換業務」です。1890年(明治23年)12月16日横浜と東京間にわが国で初めて電話交換業務が開始されました。