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横浜の実業家達」カテゴリーアーカイブ

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1月31日 朝吹英二

横浜に関係のある一人の人物を紹介します。
1918年(大正7年)の今日、実業家の朝吹英二が71歳の生涯を終えました。
「朝吹 英二(あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日(1849年3月12日)〜大正7年(1918年)1月31日)は、日本の実業家。幼名は萬吉、鐵之助。」(wikipedia)
このwikipediaでは彼の紹介に「横浜」の項目はありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朝吹英二
彼は幕末に生まれ、明治・大正期に実業家として活躍します。
若い頃のエピソードとしては、尊皇攘夷思想だった朝吹は同郷の開明派「福沢諭吉」を暗殺しようと企てますが失敗しこれをキッカケに慶應義塾に学び、福沢の元で働くようになったそうです。実業家として頭角を現し三菱商会から三井に転じ、「三井の四天王」の一人と呼ばれるほど<三井>の重鎮として活躍します。
1880年(明治13年)7月20日から業務を開始した「貿易商会」横浜支店の責任者として朝吹英二は横浜を舞台に活動します。
この「貿易商会」は、社長が丸善の創業者である早矢仕有的で朝吹は役員として横浜支店を任されます。「貿易商会」は本店を東京に置き、横浜の本町四丁目に支店を開設します。取り扱った業務内容は生糸の輸出・茶・煙草・雑貨・米などの輸出と鉱物・皮革類・魚類等の輸入等でした。
「貿易商会」にとって「横浜支店」は特別な存在でした。
資本金二十万円の内、十五万円が「横浜支店」の事業資金として振り分けられ、主に<生糸の輸出>を専門とし支配人として朝吹英二が着任しました。
いわば特別プロジェクトの性格を帯びた「横浜支店」でした。
この「横浜支店」設立の背景は、単にビジネスチャンスというだけではなく、当時の横浜を舞台に行われていた貿易の<問題>がありました。

日本は開港後欧米列強と結んだ不平等交易条約(修好通商条約)の影響で、貿易を管理・統制することがほとんど不可能な状態にありました。
明治初期の貿易は殆ど外国(欧米)の商社が独占していました。
1867年(明治10年)の輸出額の94%、輸入額の95%を外国商社が独占。
しかも、居留地の外国商館は<悪辣な手段>を使い、差別的で一方的な交易で暴利を上げていました。特に横浜を舞台にした生糸交易は取扱額も大きく日本経済の要でもあったため<フェアトレード>は日本経済界・政府の重要な課題でした。
「貿易商会」横浜支店設立には、貿易のバランスを回復する(自主貿易の確立する)ことも大きな目的でした。「貿易商会」の設立趣意書の一部を商会します。
「我国人ハ在港ノ外人二依頼シテ貿易ノ事ヲ行ヒ既二幾分ノ国損ヲ致シ、又其物品ノ代価ヲ受授スルニ当テ為替ノ事ヲモ彼ノ「パンク」二任スルガ故二、輸出入ノ景況二従テ為替ノ相庭(相場)ヲ昂低スルモ、全ク彼レノ意中二存シテ、内国ノ商人ハ恰モ其制御ヲ仰キ、昂低共二常二彼レニ便利ニシテ、我二不便利ナラザルハナシ、金権ノ主客、処ヲ異二スルモノト云う可シ」

結果は残念ながら 1876年(明治19年)倒産、失敗に終わります。
朝吹英二は生糸直輸出事業の大損失を一身に背負って日本一の借金王と呼ばれたりしました。「貿易商会」に限らず、多くの日本企業が不平等交易に立ち向かい、粘りつよく条約改正に至るまで要求と実践を繰り返していきます。
明治以降、日本の急速な経済発展と表現されますが外国商社との条件闘争と試行錯誤を繰り返していきます。

横浜で大失敗した朝吹英二は、その責任をとって放浪生活に入ります。
そんな朝吹英二がある時、かつての知り合いだった第3代日本銀行総裁 川田小一郎を訪ねます。川田は朝吹に自分の給料袋をそのまま渡し、再起を支援。
これがキッカケとなって朝吹は経済界に復帰、当時危機に瀕していた鐘淵紡績の立て直しに貢献します。
その後、三井財閥の基盤確立に尽力するとともに日本経済界の重鎮として多くの足跡を残します。
「生涯
豊前国(現在の大分県)中津藩宮園村(現在の大分県中津市耶馬溪町大字宮園)の大庄屋の跡取として生まれた。
日田の咸宜園や中津の渡邊塾・白石塾に学ぶ。尊皇攘夷思想に染まり、維新後の明治3年(1870年)、開明派の福澤諭吉暗殺を企てるが、転向し福澤とその甥 中上川彦次郎の庇護を受け、彦次郎の妹と結婚する。慶應義塾に学び、明治11年(1878年)、三菱商会に入社。明治13年(1880年)、貿易商会に入って取締役となる。
また、大隈重信に近い政商となり、三井財閥に転じて、明治25年(1892年)に鐘ヶ淵紡績専務、明治27年(1894年)に三井工業部専務理事に就任。明治34年(1901年)、中上川が死去すると、益田孝により中上川の工業化路線は一旦は止まったが、それでも明治35年(1902年)に三井管理部専務理事に就任し、王子製紙会社では役員を務めて会長となり、また、芝浦製作所、堺セルロイドなど王子と共に業績不振とされたこれら企業の建て直しを担当することとなった。このように三井系諸会社の重職を歴任し、「三井の四天王」の一人と言われた。
中上川の後任の最有力候補であり、かつ慶應閥の筆頭とも目されていた朝吹だったが、上述のように、後見の中上川の死去にともない、益田が三井財閥の実権の座を握ることとなり、明治40年(1907年)には、益田が引退に際して團琢磨を推挙したため、退任を余儀なくされることとなった。
江戸時代において悪人とされていた石田三成の顕彰事業にも熱心で、歴史学者渡辺世祐に委嘱して『稿本石田三成』を書かせ、その墳墓発掘にも力を尽くした。」

(関連ブログ)
No.31 1月31日 さよなら路線廃止に沢山のファン

No.31 1月31日 さよなら路線廃止に沢山のファン

 

【今日の横浜2015】1月28日・7月24日

1891年(明治24年)の今日
「日本最初の石鹸製造者の堤磯右衛門(59)が没した。彼は明治初年横須賀造船所請負人代理で現場監督中当時輸入品だけであつた石鹸に注目し、フランス人写真技師ボイルからその基本的製法を学び研究の結果、明治6年三吉町4丁目に初めて石鹸製造所を設け、海外に輸出するまでになつた」(横浜歴史年表)
横浜もののはじめ<代表格>石鹸の堤磯右衛門(磯子)が亡くなった日です。
このエピソードは有名な話なので 今日は別ネタで一捻りします。

1917年(大正6年)1月28日の今日
作家となって間もない芥川龍之介が三渓園の原善一郎を訪ね、善一郎が歓待します。
そのお礼状を芥川は善一郎に送ります。
「拝啓 昨日は松井老人同道にて参上 色々ご馳走になりありがたく御礼申し上げます。瑞魔天を見たことは一生忘れません。あんな甚大な感動を受けたことは今まで殆ど無いと言って良い位です。
ああいう所へ行かなければ駄目です。少なくとも行こうとしなければ、
尤も行こうと言っても 今の人間には行かれないのかもしれませんが
なにしろ大変なものです。また 三渓園小集の時には上がりたいと思っております。
三渓園そのものの冬枯も甚だ面白く思いました」(一部句読点読み付加)
笹鳴くや横笛堂の眞木材
と即興の俳句を添えています。
※「瑞魔天」は新井恵美子「原三渓物語」では「閻魔天」となっています。light_20150404125316龍之介と善一郎とは東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)時代の同級生で友人でした。ご存知、横浜の大生糸商の原富太郎(原三渓)の長男として生まれた善一郎は早稲田大学に進み、家業を継ぐことを運命付けられ卒業後アメリカに留学します。一方の芥川は、中学から第一高等学校一部乙類(文科)に成績優秀が優秀だったため無試験入学します。
その後、東京帝国大学文科大学英吉利文学科に進み学生時代に『新小説「芋粥」』で文壇デビューします。
中学時代の二人は友人として互いに影響し合い、芸術を愛した善一郎が愛読していた歌誌「心の花」を薦めます。これをキッカケに芥川は同誌に短歌を寄稿するようになります。
さらに、文芸誌「心の花」第18巻第4号に「柳川隆之介」の名で短編『大川の水』が掲載され文学者の道を歩み出します。
https://www.youtube.com/watch?v=rCQARXjTuuM
『大川の水』

芥川が「三渓園」を訪れた1917年(大正6年)は、作家芥川にとって
第一短編集『羅生門』「戯作三昧」連載 第二短編集『煙草と悪魔』「或る日の大石内  蔵之助」など作家活動にギアが入った一年でもありました。
この年の暮れ11月23日
芥川は 善一郎の結婚披露宴に出席します。善一郎の妻寿枝子は、団琢磨(59歳)の四女で、会場は移築が完了した三渓園臨春閣(りんしゅんかく)でした。
披露宴には芥川の他に
哲学者、美学者、作家の阿部次郎(当時34歳)
哲学者、倫理学者、日本思想史家の和辻哲郎(当時28歳)
哲学者、教育者、政治家の安倍能成(当時33歳)らの若き仲間達が集いました。
その後芥川も善一郎も それぞれの道を歩みます。
芥川は
1927年(昭和2年)7月24日に服毒自殺します。
そして原善一郎が
1937年(昭和12年)8月6 日に脳溢血で突然亡くなります。
父原三渓は箱根で息子の死を知ります。病気がちの三渓にとって追い打ちをかける悲報でした。
昭和恐慌、東京開港の難題を抱える中、
原三渓は
1939年(昭和14年)善一郎三回忌の祥月命日が過ぎた8月16日、70年の生涯を閉じます。

(1月28日関連ブログ)
No.28 1月28日 高島嘉右衛門と福沢諭吉(加筆)

No.28 1月28日 高島嘉右衛門と福沢諭吉(加筆)

渡辺福三郎とその妻 たま。

(素案レベルです。今後加筆修正される予定です)

1901年(明治34年)と1904年(明治37年)1月25日に
市議会議長に渡辺福三郎が選出されたと「横浜市会の百年」の年表に記載されていました。

(渡辺福三郎の議長任期は1893年(明治26年)〜1905年(明治38年)で、市会の議長選挙は概ね明治期は1月に行われていました)
この市会議長を10年以上歴任した渡辺福三郎という人物について
今日は紹介しましょう。
《渡辺福三郎》
1855年(安政2年)1月〜1934年(昭和9年)
明治から昭和前期に横浜を舞台に活躍した実業家です。明治の時代、茂木・原・若尾と並ぶ横浜の豪商と言われた実業家です。
福三郎、江戸は日本橋の老舗海産物業「明石屋」の家に生まれました。
彼の父にあたる「明石屋」7代目福秀の時に横浜が開港を迎えます。
開港場の交易を推進するため幕府の勧めもあり元浜町に「明石屋分店」を構え巨額の投資を行います。
江戸で商っていた軍用石炭を横浜でも扱い、その他に海産物・蚕糸を取り扱いました。福三郎の代になり横浜支店は本格的に外国船の石炭や、輸出用の海産物を扱い「石福商会」の看板で事業を拡大していきます。
彼が関わった横浜の事業は多岐にわたりました。幾つか紹介しましょう。
神奈川・八王子間の「横浜鉄道(現在の横浜線)」の発起人・経営者の一人として尽力します。また「横浜電気鉄道」の設立にも関わり<取締役>に就任し経営に参画します。
1912年(明治45年)には渡辺銀行を設立、馬車道入口の本店は地域のランドマークとして威風を放ちます。
渡辺銀行は経済恐慌の影響を受け残念ながら昭和13年に第一銀行に買収され消滅しますが、戦前の横浜経済の重要な役割を担ってきました。

さらに
<渡辺福三郎>の妻 「たま」という女性を紹介しようと思いましたが、
実業の福三郎とはまったくジャンルの違う分野で大活躍した横浜の女傑!です。
彼女に関しては 別仕立てでぜひ紹介したいと思っています。

No.25 1月25日 馬車道の華

No.25 1月25日 馬車道の華


「横浜宝塚劇場」が改装オープンし「市民ホール」となった日です。

No.391 謎解き馬車道

No.391 謎解き馬車道

【保土ケ谷区】歌人 荒波孫四郎

1903年(明治36年)2月23日
「保土ケ谷の歌人荒波孫四郎(66)が没した(横浜歴史年表)」という記事に出会いました。荒波孫四郎という人物、初めて聞く名前でした。いかなる人物なのだろう?
歌人とあるので、文学で作品を残した方か?と思い調べてみました。
保土ケ谷区史を調べたところ、何ヶ所かに登場します。
1883年(明治16年)保土ケ谷の東海道線敷設に伴う新道開墾事業資金に高額寄付を行っているリストが登場しました。また、初期の学校制度では、地域が学校を支えることになっていて、程ケ谷(小学校)の世話人として荒波孫四郎の名がありました。
※程ケ谷(現在の保土ケ谷小学校)学舎
明治6年5月5日創立、6月5日開校
明治6年の学制に従って保土ケ谷他3ケ町の有志により設置。軽部庫次郎宅敷地に新築、第一大学区第七六番小学程ケ谷学舎として創立。(学校沿革誌より)

地域の名士であることは分かりました。
歴史年表では「保土ケ谷の歌人荒波孫四郎」とありますが文化人のところで<歌人>として登場してきません。歌人ではなかった?
ということで、もう一つの郷土史、「保土ケ谷区郷土史」を探ってみると 簡単な生い立ちと地域への貢献について記述されていました。

「保土ケ谷の歌人荒波孫四郎」が地域貢献?
そもそも荒波孫四郎は何故資産家なのか?
資料を読む限りでは 荒波家は先祖が伊勢国津市原町(現在の三重県津市)の出身で、江戸神田三河町に暮らした後、保土ケ谷(岩間)に移り住みます。軽部清太夫に就いて学び、また独学で知識を身につけ戸長になります。
「才気よりも徳望の人にして(中略)町政を掌るや能く衆議を容れて雅量を示し、寛厚以って事を処したり」
ここに登場する荒波孫四郎は天保に生まれ、1903年(明治36年)の今日66歳で亡くなりますが、家業は不動産業(土地活用)と資料では読めます。
「山林を買取り之に植林して十周年の経、横濱の発展と共に地価大に騰貴し来る。」横濱の発展に伴い材木需要が高まり<林業>で財を成したのではないか?と推測できますが、資料不足です。

ただ 半端な資産家ではなく<超>大金持ちであったことは、社会貢献、社会事業への関わり方で理解することができます。
前段で紹介しました「程ケ谷学校」への資金援助
道路改修への資金提供、程ケ谷駅新設に奔走し、自分の土地も提供します。
この他
久保山の共同墓地を作るにあたって、広大な敷地を譲渡しますが、代金は<墓>の売上にから分割返済するシクミにすることで町の財政負担軽減をはかります。
保土ケ谷を貫通する<水道道>の鉄管整備工事にも自分の土地以外の地主との交渉役も引き受けています。多方面にわたる地域貢献に心がけた篤志家、実業家だったようです。
明治時代の保土ケ谷発展に大変寄与した人物だったことが分かります。
1903年(明治36年)の今日亡くなり保土ケ谷旧東海道脇の天徳院に眠っています。
歴史年表に歌人とあったのは、風流人として晩年を送った孫四郎を偲んだ表記だったかもしれません。
※曹洞宗寺院の天徳院
神戸山天徳院と号する。正元年(1573)に創建、文久年間(1861-1864)に満願寺を合寺しています。横浜市保土ヶ谷区神戸町102

神奈川県公文書館に貴重な地域資料が遺族の意向で寄付があり、「荒波孫四郎家旧蔵絵図資料」が所蔵されています。
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f1040/p10485.html

■明治三陸地震
1896年(明治29年)6月15日午後7時32分30秒、岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200km(北緯39.5度、東経144度)を震源として起こった、マグニチュード8.2-8.5レベルの巨大地震が起こりました。
地震に伴う当時の観測史上最高(本州)海抜38.2mを記録する津波が発生。
新聞報道で被災内容が全国的に報道されるようになり、<義援金>が集まるようになった災害としても災害史に残しました。
この地震被害に対し全国で義援金が集まりますが「神奈川縣橘樹郡保土ヶ谷町有志」も義援金を募り多くの人びとが寄付します。そのリストが「東奥海嘯罹災救助義捐金」として「横浜毎日新聞」に掲載、デジタルアーカイブされています。
金十圓 岡野欣之助
金七圓 荒波孫四郎※
金五圓 岩田岩次郎
このリストの二番目に荒波孫四郎の名があります。当時の寄付金は、その地域の名士度に従って金額が決まってきますので荒波孫四郎が保土ケ谷町内会の有力者であったことが推察されます。
http://tsunami-dl.jp/…/Yokoha…/YokohamaMainichiM29_July24_05
参考
<保土ケ谷区郷土史下>に登場する郷土の人物
第十一章 郷土の人物
一 苅部清兵衞翁
二 岡野勘四郎翁
三 岡野欣之助翁
四 荒波孫四郎翁
五 金子泰吉翁
六 清墨庵先生
七 木村坦乎先生
八 宮本清寛先生
九 鈴木玄清先生
十 孝女さく子
十一 孝子金作
十二 孝子湯澤シヅエ
十三 節婦金子ナカ

(2月23日関連過去ブログ)
No.54 2月23日 麒麟麦酒株式会社創立
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=567
(番外編)
番外編 重箱の隅の快楽(追記・修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=545

主な寄贈資料一覧 – 神奈川県ホームページ
神奈川県立公文書館が収蔵する資料の一部を写真とともに紹介しています。

【市電ニュースの風景】1931年 №21

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。
21号1931年(昭和6年)5月
東横電鐵直営 日吉台苺園開園中(二十五日前後が最盛)
二十一日 『郵船』龍田丸入港出航(午後三時四号岸壁発 桑港へ)
※この「龍田丸」でフェリス女学校校長シェーファー、日本ミッションを代表して米国伝道局100年祭出席のため帰米しました。
21日 越前屋新館(8階建・延坪2200坪)伊勢佐木町通りに開店
二十二日より二十四日まで 横濱書道展覧会(電車及バス桜木町駅下車)
=市内有名書家並各学校生徒作品陳列並席上揮毫=
=桜木町中央授産所階上にてー入場無料=
二十二日 剣道聯合会五月例会
(午後六時半北仲通二丁目三菱倶楽部にてー観覧随意)
二十二日 三州豊川いなり大祭
(前里町豊川閣出張所にてー電車初音町下車)
22日 日清製粉鶴見工場全焼
二十三日 一高對横濱高商野球戦(電車花園橋下車)
=入場無料ー午後三時より横濱公園球場にて=
二十四日 第八回マンドリン大演奏会(電車及バス本町一丁目下車)
=午後七時より本町開港記念会館にてー入場無料=
二十五日 岡村天満宮大祭(電車天神橋假停留所下車)
二十四日 全関東中等学校剣道大会
(午前八時横濱商業専門学校にてー入場無料)
二十七日 神奈川高等女学校大運動会(電車花園橋下車)
=午前十時より横濱公園運動場にてー入場無料ー雨天翌日に延期=

懸賞標語
不断の注意は最大の公徳(当選者 松永 伊吉 君)
※アラビア数字は別の年表から追記したものです。

[キーワード]
■東横電鐵直営 日吉台苺園
1926年(大正15年)2月14日に開業した「日吉駅」は、東急が新しい都市開発をイメージしたエリアで、東側に慶応義塾大学を誘致し西側に放射状の街区を持った街を計画します。スクリーンショット 2015-05-19 19.15.08■三州豊川いなり
「三州豊川稲荷」のことですが、何故「いなり」とひらがなにしたのか?
前里町に戦前の地図を見ると「豊川稲荷」があったことが判ります。戦後20年代から30年代に何らかの事情で無くなっているようです。
※市内の豊川稲荷
埋地連合町内会集会所横に小さな祠がありここが「埋地豊川稲荷」です。中区史によると扇町三丁目七番地に「一説には明治七年の創建」され戦災で消失し昭和38年に現在の地に再建されたとのこと。
神奈川高等女学校大運動会スクリーンショット 2015-05-19 19.06.21「神奈川高等女学校」は現在、沢渡にある神奈川学園高等学校の前身です。
1914年(大正3年)に「横浜実科女学校」として創設されます。
創設の地は南吉田にあった<リンネル工場>跡地の仮校舎だったそうです。
1915年(大正4年)に「横浜実科高等女学校」となり
1921年(大正10年)から「神奈川高等女学校」と改名します。
戦後の新学制から「神奈川高等学校」に1990年(平成2年)から神奈川学園高等学校となり現在に至ります。
http://www.kanagawa-kgs.ac.jp

この「市電ニュース」に登場した運動会の写真が「東急沿線」のサイトで確認できます。
http://touyoko-ensen.com/syasen/kanagawa/ht-txt/kanagawa18.html

ここで一瞬勘違いするのが
1900年(明治33年)10月10日に創立された
 <神奈川県高等女学校>です。翌年に神奈川県立高等女学校となり
1930年(昭和5年)4月1日に「神奈川県立横浜第一高等女学校」となり「第一高女」と呼ばれました。
この「市電ニュース」発行時の昭和六年時点では
「神奈川高等女学校」(沢渡)
「神奈川県立横浜第一高等女学校」(平沼)
の二校が近くにあり間違いやすかったと思います。

【今日の横浜2015】1月21日

Facebookブログ アーカイブ用に転載します。画像等は追々追加します。

1922年(大正11年)1月21日
小倉石油店が横浜に原油貯油所を開設。現在もJX日鉱日石エネルギー横浜製造所として稼働しています。
現住所は横浜市神奈川区子安通三丁目です。
この「小倉石油店」は埼玉県深谷出身の小倉常吉が12歳の頃、日本橋の油問屋の枡屋・長谷部商店に奉公後、
1889年(明治22年)に独立して石油業を開き日本屈指の製油事業にまで育て上げました。
戦前戦後、日本の石油会社も<金融機関>同様に離合を重ね大手数社に絞られてきました。現在業界第1位の占有率を持つ「JX日鉱日石エネルギー」の前身だった<日本石油=日石>が戦前有数の石油精製事業者となる過程で、最大のエポックが
1921年(大正10年)10月1日新潟の「宝田石油」との合併でした。
宝田石油は新潟に操業した当時日本最大級の石油企業です。
この国内最大の合併が行われた翌年、小倉石油店が横浜に原油貯油所を開設します。生き残りをかけた事業拡張でしたが、
1941年(昭和16年)6月1日、日本石油と合併し「小倉石油横浜製油所」は「日本石油横浜製油所」となります。

(沿革)
1922年(大正11年)1月21日ー小倉石油店が横浜に原油貯油所を開設。
1925年(大正14年)4月10日ー小倉石油店が小倉石油株式会社に改組。
1929年(昭和4年)12月ー小倉石油横浜製油所として操業開始。
1941年(昭和16年)6月1日ー小倉石油と日本石油が合併、日本石油横浜製油所が発足。
1946年(昭和21年)11月30日ーGHQの指令により、石油精製を停止。
1951年(昭和26年)10月1日ー日本石油精製設立に伴い、同社横浜製油所となる。
1997年(平成9年)7月ー日本石油精製が日石三菱石油精製に社名変更。
2002年(平成14年)4月1日ー日石三菱精製が新日本石油精製に社名変更、同社の横浜製油所となる。
2008年(平成20年)4月1日ー横浜製造所に改称。
2010年(平成22年)7月1日ーJX日鉱日石エネルギー発足により、同社の横浜製造所となる。(wikipedia参考)

関連ブログ
No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者<岸田吟香>

No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者(加筆文体変更)

1933年(昭和8年)の今日
鶴見ユタカ橋が開通しました。
この「鶴見ユタカ橋」は生麦のエピソードで紹介しています。
No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験

No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験

【ミニミニ今日の横浜】2月28日

この日、2月の終わり28日も取り上げてみたい出来事が多くあります。

■■1881年(明治14年)の今日
左右田 喜一郎が横浜で生まれました。
左右田(そうだ)の名で<銀行>と連想された方はかなりの横浜通ですね。
左右田銀行を一代で築いた左右田金作の長男、喜一郎は幼い頃から優秀で、1887年(明治20年)に入学した横浜小学校では第1学年を飛ばし2年生として入学、飛び級入学の草分け?といえるでしょう。
経済学者、経済哲学者であり新カント主義者の哲学者でもありました。
横浜商業学校(Y校・現横浜市立横浜商業高等学校)を経て
東京高等商業学校(現一橋大学)を優秀な成績で卒業します。
卒業後英国とドイツに学びます。留学中、父「左右田金作」の病気を知り、
1913年(大正2年)家業を継ぐために留学先より帰国します。
1914年(大正3年)父の創設した左右田銀行の取締役及び株式会社左右田貯蓄銀行の取締役に就任し父の銀行を引き継ぎます。
1915年(大正4年)3月26日、創業者 左右田金作は死去し喜一郎は頭取に就任、横浜経済界の様々な役職にも就きます。
また実業家でありながらも経済哲学の研究も続け
1918年(大正7年)からは京都帝国大学(現京都大学)文学部講師も務めました。
1920年(大正9年)の経済恐慌で横浜の有力総合商社「茂木商店」が破産し取り付け連鎖が起こります。市内の有力金融機関「七十四銀行」「神奈川銀行」「戸塚銀行」などが取り付け騒ぎとなり経営危機に。
この一連の取付騒ぎに連鎖し「左右田銀行」も経営危機となりますがなんとか倒産までは免れます。ところが大震災がそれに拍車をかけ、ついに銀行が経営破たん状態となり、喜一郎も母校東京商科大学講師や、京都帝国大学講師、貴族院議員という一切の公職をやめ事後処理にあたりますが、苦難の中、
1927年(昭和2年)8月11日病気のため46歳の若さで死去します。
リーダーを失った左右田銀行は1927年(昭和2年)12月7日に横浜興信銀行(後の横浜銀行)に引き取られ(営業譲渡)ます。

■■1902年(明治35年)の今日
「茶輸出米国商モリアン・ハイマン商会、横浜支店閉鎖(横浜歴史年表)」
この「モリアン・ハイマン商会」は神戸では有名な商社でした。ここでは米国商と表記されていますが、英国人2名が作った商社です。
(グラバーが残したパイオニア)
幕末に活躍したグラバーとフランシス・グルームが設立したグラバー商会に勤めていた二人の英国人が神戸に商社を開きます。
グラバー商会創設者の一人フランシス・グルームの弟アーサー・ヘスケス・グルームと同僚のハイマンが設立した会社で、主に日本茶の輸出とセイロンティーの輸入を手掛けます。幕末の武器を扱う政商だったグラバーの時代が終わり1870年(明治3年)にグラバー商会は倒産します。残された二人は居留地101番地にモリアン・ハイマン商会を設立し着実にビジネスを拡大していきます。
その後、アメリカに対しお茶のビッグビジネスが行われていた横浜に1883年(明治16年)本拠地を移します。
ところが横浜でのビジネスはあまり上手くいかず、
1902年(明治35年)の今日<横浜支店>を閉鎖し、神戸へ引き返すことにします。神戸居留地内の播磨町34・35番地に商社を構え改めて茶の輸出を続け利益を上げていきます。グルーム個人はリゾートビジネスに進出「オリエンタルホテル」を買収しゲオルグ・デ・ラランデの設計による新館を建設、「東洋一の洋館ホテル」と呼ばれました。ゴルフクラブの経営等、六甲山エリアの整備開発に私財を投じ順調に伸びていきますが、第一次世界大戦後の恐慌のあおりを受けオリエンタルホテルの経営状態が悪化、
1916年(大正5年)に経営権を横浜と縁の深い浅野総一郎に売却し破産を免れます。しかし、1918年(大正7年)1月2日に神戸倶楽部で開かれた新年会に出席したとき泥酔し転倒、傷口から破傷風に感染したことが原因で9日に死亡してしまいます。

■■1891年(明治24年)の今日
「川上音次郎一党は壮士芝居を吉田町蔦座で旗上興行したが幕間に演説をしてその筋の忌諱にふれた。オッペケペー節はこの時から初まつたものである(横浜歴史年表)」
こに記事にある「川上音次郎」は「川上音二郎」の誤りと思われます。私のブログでもいくつかの違った視点で紹介しています。
川上音二郎は筑前黒田藩(福岡藩)出身、「オッペケペー節」で一世を風靡した当時のパフォーマンス・アーティストの代表格です。
過去のブログでも書きましたが、wikipediaの川上紹介には横浜・茅ヶ崎との関連が全く触れられていません。このあたりに詳しい方、ぜひ追記されてはいかがでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/川上音二郎

No2 1月2日(月) ニュース芝居、最先端劇場で上演
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=621

1895年(明治28年)1月2日の話
No.415 横濱的音楽世界
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=162

No.397 横浜「座・樓・亭」探し
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=182

No.155 6月3日(日) パリ万博と神奈川沖
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=458

(2月28日関連ブログ)
1961年(昭和36年)の今日
日本郵船、氷川丸を氷川丸観光に売却。氷川丸観光株式会社を設立し6月1日に開業しました。(NYK資料)

No.59 2月28日 アジア有数の外為銀行開業
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=561
1880年(明治13年)この日横浜正金銀行開業

 
川上 音二郎
(かわかみ おとじろう、1864年2月8日(文久4年1月1日) – 1911年11月11日)は、筑前黒田藩(福岡藩)出身の「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家、新派劇の創始者。川上の始めた書生芝居、壮士芝居はやがて新派となり、旧劇(歌舞伎)をしのぐ人気を博した。「新派劇の父」と称される。 Wikipedia

【ミニミニ今日の横浜】3月6日

今日3月6日の話題は全て じっくり紹介したい濃厚なテーマですが、
この【ミニミニ今日の横浜】では残念ですがさらっとアウトラインを。

■1911年(明治44年)の今日
「神奈川の神風閣(元神風楼)が焼失した。その際イギリス人および邦人3名が焼死した(横浜歴史年表)」
神風楼は遊郭です。横濱の遊郭移動史を一度整理して紹介せねば!!と思っているだけで中々まとまっていませんが、市役所同様(比較が悪い)引越しの歴史です。
最初は太田屋新田(現在の横浜公園あたり)に港崎遊郭(代表が「岩亀楼」)を作り最も華やかな時代でした。
火災で関外の吉田新田北一ツ目に移動、吉原遊郭といわれました。
またまた火災で焼失、高島町に移転して高島町遊郭となります。
この時の代表が「神風楼」で、経営者は高島嘉右衛門。
その後また火災で焼失吉田新田の南三ツ目に移動。戦後の1958年(昭和34年)まで永真遊郭街として引き継がれます。この他にも、市内には幾つか遊廓が存在した地域がありました。弘明寺とか台町とか。
この辺は別途紹介します!
light_横濱絵葉書021 light_横濱絵葉書025 「神風楼」は「No.9」という看板を掲げ有名になりますが、この神風楼にまつわる話(人物)はたとえば清水次郎長(山本長五郎)、若き野口英世、箱根富士屋ホテル創業者 山口仙之助の養父は山口粂蔵で、ここ神風楼の支配人でした。
No.197 7月15日(日)老舗ホテルを支えた横浜

■1928年(昭和3年)の今日
「戸塚実科高等女学校が創立された(横浜歴史年表)」
1928年(昭和3年)3月6日認可  戸塚町立戸塚実科高等女学校
1939年(昭和14年)4月1日  横浜市立戸塚実科高等女学校
1943年(昭和18年)4月1日  横浜市立戸塚高等女学校
1948年(昭和23年)4月1日  横浜市立戸塚高等学校
校歌は佐佐木信綱作詞、信時潔作曲共に校歌づくりの巨匠で晩年の作。

■1936年(昭和11年)の今日
「チャップリンが横浜に上陸した(横浜歴史年表)」
当時世界的な有名人だったチャップリンはアジア紀行の際、北太平洋の女王「氷川丸」を選びます。その理由は<氷川丸の「天麩羅」がチャップリンを虜にした>からだといわれています。

No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=500

■1940年(昭和15年)の今日
「横浜・サイパン・パラオ間の定期航空が開始された(横浜歴史年表)」
これが今日の一番ネタです。
「南洋群島とわが本土とを結ぶ横浜〜サイパン〜パラオ間四千百二十キロの空の制覇に向った大日本航空旅客輸送は六日横浜、サイパン間を見事征服し日本航空界の輝かしい躍進振りを見せている時、六日の決算委員会で福田関次郎氏(民政)が航空路の拡充、航空不安の除去その他につき質問、藤原航空局長官、桜井航研技術部長からそれぞれ答弁があった、その答弁の中で最も注意を引くものに南洋島を空から結ぶいわゆる南洋島内線の拡充で、これは現在横浜からサイパン、パラオまでの航空路をヤルートまで延長しさらにパラオ、ヤルート間のトラック島とサイパンを結ぶことになっているが、この実現は来る七月から十二月まで毎月一回試験飛行を行い昭和十六年一月から定期空路を確立すべく努めることになった(大阪毎日新聞)」
と当時の新聞記事にもあるように、
かつて横濱、磯子から国際線が飛び立っていたという事実だけでも驚きです。
根岸飛行場あたり 横濱で教鞭をとっていた作家「中島敦」も作品の中で横濱の飛行場を描いたシーンがあります。
No.692 世界一周機「ニッポン」(号)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6006
No.214 8月1日 (水)開港場を支えた派川工事
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=393
暦で語る今日の横浜【9月10日】
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=75
No.376 1月10日(木)中島敦のいた街
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=207
いずれじっくり紹介したいと思います。

(3月6日関連ブログ)
No.66 3月6日 ラーメンがなくなる日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=553

(第686話)明治4年、象の鼻 晴天なり。(後編)

(第685話)明治4年、象の鼻 晴天なり。後編です。

(第685話)明治4年、象の鼻 晴天なり。


二本の横浜開港のために幕府は二三ヶ月の突貫工事で開港場を整備します。
二本の小さな突堤を開港場の真ん中に造成し、港の体裁を整えますが、冬の北風が強い日は波が強く小舟も着けることができない状態でした。
そもそも貿易港として開港した横浜港ですが、大型船が着岸できず諸外国からはしっかりとした桟橋の設置(港の整備)を望む声が高まります。
慶應4年の春に、ようやく二本の突堤の一本を波受け用に湾曲させ、その形が象の鼻に似ていることからいつの間にか「象の鼻」と呼ばれるようになりました。

lit_岩倉使節団出発 横浜港に本格的な桟橋が完成したのは1894年(明治27年)ですから開港から35年もの時間がかかります。港の整備が遅れた理由は予算でした。
この国には、国内最大の国際港に桟橋を架ける予算がありませんでした。経済破綻した幕末の借金が新政府にも重くのしかかっていたからです。かろうじて国家財政を支えていた貿易は皮肉にも横浜港から輸出されていた「生糸」と「製茶」でした。
新政府は様々な分野に“近代化”が求められていたのです。

明治4年11月12日(1871年12月23日)
晴れ上がった横浜港に、多くの人々が維新後最大の渡航する「岩倉使節団」を見送りに集まりました。
「岩倉使節団」の公式記録を編纂した一行の一人、久米邦武は「回覧実記」に出航の模様を詳細に描いています。

lit_P9260001『此の頃は続いて天気晴れ、寒気も甚だしからず。殊に此の朝は暁の霜盛んにして扶桑を上る日の光も、いと澄みやかに覚えたり。
朝八時を限り一統県庁に集まり十時に打ち立ちて馬車にて波止場に至りて小蒸気船に上る。この時砲台より十九発の砲を轟かして使節を祝し、尋ねて十五発し、米公使「デロング」氏の帰国を祝す。海上に砲煙の氣弾爆の響、しはし動いて静まらず。使節一行及び此の回の郵便船にて米欧の国々へ赴く書生、華士族五十四名、女学生四名も皆上船し、各其部室を定め荷物を居据えるなど一時混雑大方ならず。十二時に至り、出航の砲を一弾してただちに錨を抜き、汽輪の動をはずしけり。港に繁ける軍艦より、水夫皆橋上に羅列し、帽を脱して礼式をなし港上には見送りのため、船を仕立て数里の外まで恋ひ来りぬ。』

「岩倉使節団」一行は使節46名、随員18名、留学生43名総勢107人が上船します。
横浜港の沖で一行を迎えたのが米国太平洋郵船会社の蒸気船「アメリカ号」で、太平洋上で新年を迎え二十三日間の航海を経て明治5年1月6日「岩倉使節団」はアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに到着します。
「明治4年、象の鼻 晴天なり。」前編でも書いたように一行は20代から30代中心の若きメンバー達ばかりでした。
この旅はアメリカに約8ヶ月、その後大西洋を渡りイギリス4ヶ月、フランス2ヶ月、ベルギー、オランダ、ドイツに3週間、ロシアに2週間を費やしました。
出発から1年10か月後の明治6年(1873年)9月13日に横浜港に帰る長旅でした。

lit_Grand_Hotel1897彼らはまずサンフランシスコ最大のグランドホテルに逗留します。
様々な歓迎式典の中で、
当時のサンフランシスコ随一の資産家、ラルストン(William_Chapman_Ralston)氏の歓迎式典で自宅に100人近い一行が招かれたという記述があります。

lit_William_Chapman_Ralston

ラルストンは、1826年オハイオ生まれの実業家で、ゴールドラッシュの恩恵を最大限に利用した銀行家でもありました。
1864年にカリフォルニア銀行を創設し、
1875年にサンフランシスコ湾で溺死しますが事業の失敗による自殺とも言われています。このたった十年の輝かしいひと時に、日本の使節団が彼と出会ったことになります。
このラルストンという人物、間接的ではありますが日本、そして横浜と深い関係になるとはその時 誰もわかりませんでした。さて その人物は?

横濱デパート物語(MATSUYA編)

前回「横濱デパート物語」からMATSUYAをピックアップ。

以前、「MATSUYAのDNA」というタイトルで
横浜ルーツのMATSUYA GINZAを取り上げました。銀座MATSUYAは横浜が創業の地です。
No.30 1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
ここでは別な角度から創業時の「鶴屋呉服店→(MATSUYA)」を紹介しましょう。簡単な沿革から
1869年11月3日(明治2年9月30日)
初代の古屋徳兵衛が横浜石川町亀の橋に鶴屋呉服店を創業します。
※WikiのMATSUYAの項目では創業日を
「1869年12月5日(明治2年11月3日)」としています。
松屋HPでは1869(明治2)年11月3日と表記されています。
http://www.matsuya.com/co/gaiyo/
他の文献でも1869年11月3日となっていましたので
創業は1869年11月3日とします。
★鶴屋呉服店創業の意義
1869年(明治2年)
横浜に創業という歴史には意義があります。
我が国の百貨店史上多くの老舗は、
江戸時代に創業し店舗を新時代に適応させてデパートに変身します。
「鶴屋呉服店」は、
明治初期、新天地横浜に創業し、横浜と東京で共に成功を収め
最終的に東京でトップ百貨店の名声を得、
現在も維持しています。
MATSUYA GINZAには明治横浜時代の
“先取と独走”の気風があるのではないでしょうか。
→ちょっと横浜に無理振りですが…
※参考資料「百貨店の文化史」(日本の消費革命)
山本・西沢:世界思想社刊1999

1889年(明治22年)
神田鍛冶町の今川橋松屋呉服店を買収し継承します。
買収といっても当時度重なる神田の大火で
大きな被害を受けた「松屋呉服店」再建のために
「鶴屋呉服店」が取引先に依頼され
言い値の13,000円で、従業員18名も居抜きで経営権を得ます。
鶴屋オーナーは、鶴屋の名は使わず
しばらくの間「今川橋松屋呉服店」として営業します。
※神田の火事
江戸時代以来 火事と喧嘩は“江戸の花”などと言われる程頻発します。明治になっても、しばし大火が続きます。
●1881年(明治14年)1月26日午前1時40分頃に出火
「忽ちの内に大和町元岩井町の方に向ツて押し広がり豊島町、江川町、橋本町、馬喰町の方へ燃え移ツて」(読売新聞1881年1月27日付朝刊)
焼失戸数は1万5,000にも及びました。
●「梅若実日記」1892年(明治25年)4月10日
今晩一時三十分ニ小川町猿楽町ヨリ出火。追々大火ニ相成神田今川橋通リ迄焼出ル。二十何ケ町焼ル。
本日午後一時三十分二慎火。四千八百戸程ノ類焼怪我人多シ。

1903年(明治36年)
会社法が整備され、中小の企業は「合名会社」組織を作るようになります。
古屋合名会社松屋呉服店に、
古屋合名会社鶴屋呉服店に それぞれ改組します。

1906年(明治39年)
営業雑誌「今様」を創刊。
→後述
初めて女子社員を採用します。

1907年(明治40年)
鶴屋と松屋のマークを合わせた“松鶴マーク”を導入し、
1978年(昭和58年)まで継承します。
20140118055955932 <松鶴マーク>
今川橋松屋呉服店が三階建洋風に増築し、
東京で初の本格的デパートメントストアと言われました。
→後述
「バーゲン・デー」といった「○○デー」の元祖ともいわれています。

1908年(明治41年)
50銭均一販売専門部署を設置し、均一販売手法の草分けとなります。

1910年(明治43年)
横浜の「鶴屋呉服店」3階建洋館が落成します。

1913年(大正2年)
今川橋松屋呉服店に和服裁縫部が創設されます。
この和服裁縫部が
松徳学園東京ファッション専門学校の前身です。
http://tfi.ac.jp

1919年(大正8年)
「株式会社松屋鶴屋呉服店」を設立します。

1923年(大正12年)
(関東大震災により東京・横濱主要店舗焼失)

1924年(大正13年)
横浜伊勢佐木町吉田橋に鶴屋呉服店が開店します。元は警察署でした。
現在はマリナード地下街入口あたりです。
東京の今川橋松屋呉服店が新築開店、「㈱松屋呉服店」に改称します。
20140118055950e321925年(大正14年)5月1日
銀座3丁目に銀座店が開店し、
翌年銀座本店となります。

lig_松屋呉服店T14開店
<震災後再建した銀座本店>

1930年(昭和5年)
吉田橋の鶴屋呉服店を松屋呉服店に改称。
横浜支店が新築開業します。

1934年(昭和9年)
横浜伊勢佐木町に株式会社鶴屋を設立します。
→株式会社壽百貨店

1946年(昭和21年)
GHQによりPXとして全面接収されます。

1948年(昭和23年)
商号を「株式会社松屋」に変更。

1953年(昭和28年)
横浜支店の接収解除。横浜支店が全館開店。

1976年(昭和51年)
横浜支店が閉店。

1978年(昭和53年)
新Clを導入します。
ligMATSUYA(松屋と横浜)
横浜の商業史というか、百貨店の歴史はそのまま横浜の中心核の移動の歴史でもあります。特に鶴屋呉服店と松屋呉服店の緩やかな関係の中に独創性を競うスタンスは松屋を一流に育て上げた「内藤彦一」(支配人)の百貨店戦略からも伺うことができます。
三越に日比 翁助がいたように、松屋呉服店は「内藤 彦一」が軸となって百貨店新時代を築きます。
1907年(明治40年)に鶴屋と松屋のマークを合わせた“松鶴マーク”を導入し横浜資本の東京の百貨店を内藤は、ハードとソフトから消費者を“あっ”と言わせます。
今川橋松屋呉服店は三階建洋風に増築し、東京で初の本格的デパートメントストアと言われました。
デパート宣言は三越ですが、これぞデパートだと言わしめたのは今川橋松屋呉服店新館でした。
さらに内藤彦一は自ら編集長となり
画期的なPRメディア『今様』を発刊します。
デパートの文化戦略の草分けは「三越」です。明治32年に『花ごろも」を発刊し、その後月刊「みつこしタイムス」「三越」に続くPR誌を発行していきます。
20140118055949af2大阪では高島屋が「新衣装」を明治35年に創刊し、東京では白木屋が発刊し新興富裕層の支持を受けます。
そこに登場した『今様』は、当時記事による商品PRだった既存誌に対し
布地の実物見本を貼付けた、まさに「商品見本カタログ」を業界向けではなく一般顧客に配布します。
「此の数も七十三種の多きに上り、高価なるは“藤波お召し”の七円より貼付けてある。聞けば此のために各種の反物を十何反とか棒にふったとのこと。」と当時の驚きを表しています。(円城寺良)
さらに当時の百貨店PR誌が格調高き“文芸誌”の役割を果たしていました。トップランナー『三越』に勝るとも劣らないレベルに『今様』はグレードアップし、東京の三大百貨店といわれるまでになっていきます。

【内藤彦一】(ないとうひこいち)
1865年7月6日山梨県生まれ。
内藤朝政の長男として生まれ米国に留学し商業・経済学を学びます。
ニューヨークマンハッタン6番街14丁目にあった
メーシー百貨店に勤め経験を積みます。
2014011806053559dhttp://www.macysinc.com
帰国後、鶴屋呉服店に就職し、東京に進出計画を推進します。
松屋呉服店〜松屋百貨店まで支配人、専務として活躍します。その間、東京商工会議所理事。一方で銀座菊水煙草店店主も務めます。
彼にはもう一つの歴史があります。
玄洋社に参加し昭和初期の事件に関わります。
1933年(昭和8年)7月10日に起こった「神兵隊事件」です。事件自体は未遂に終わりますが、
1932年(昭和7年)5月15日(515事件)と1936年(昭和11年)2月26日(226事件)の狭間に計画された一種のクーデターです。内藤は事件発覚後、裁判が始まる前、
1933年(昭和8年)11月17日に亡くなります。
この時代(玄洋社の時代)は、継続して調べているところです。

(さらに)
その間、東京商工会議所理事時代
内藤彦一は、藤沢市鵠沼海岸1-9-24に別荘の土地を譲り受け、画期的な住宅をそこに建てます。
この別荘エピソードにも横浜物語がありました。
【芋づる式余談から駒】で次回に続きます。