No.435 【横浜の河川】大岡川物語(1)
大岡川、横浜開港史を語るには欠かせない川です。
多くのエピソードが満載です。
熱狂的なファンの多い「大岡川」を今日は断片的ですが
紹介しましょう。
横浜市内を流れる河川水系は大きく4つに分けることが出来ます。
1.鶴見川水系(一級河川)
市内唯一の一級河川です。→鶴見川については
4月に紹介します。
No.370 1月4日(金)鶴見川 輪下り絶景
2.帷子川水系(二級河川)源流は旭区若葉台近辺から
No.433 帷子川物語(1)
No.434 帷子川物語(2)
3.大岡川水系(二級河川)源流は磯子区氷取沢町円海山近辺
今日の主人公です。
4.境川水系 (二級河川)源流は町田市相原町近辺
横浜市境を流れ、支流の柏尾川は戸塚の歴史と共に歩んできました。
→境川も4月中に紹介します。左馬神社もありますから…。
(大岡川は不思議な川です)
下図をご覧下さい。
大岡川水路模式図を作ってみました。
シンメトリー(左右対称)でしかも
分水路が同じような位置にあるって
見事ですね。
ということで
この川沿いに自転車で走破してみました。
途中、笹下川から分水路沿いに山越えがキツかったですが
概ね川筋は勾配もゆったりとしていて最高です。
川沿いの道も(とぎれとぎれですが)整備されています。
走行時期にもよりますが
上大岡あたりから水量が一気に減少します。
分水路の効果が出ているのでしょう。
大岡川に架かる橋、ざくっと数えてみました。
アバウト100、小さな支流を入れると140位あります。
このツーリングで橋物語も面白いなと思いました。
歴史的に価値のある橋も架かっています。
※浦舟水道橋
1893年に西之橋として仮設された日本最古のピン結合プラットトラス橋です。
横浜市認定歴史的建造物にも選定された価値ある近代産業資産です。
(分水路)
大岡川には分水路が上流と下流に合わせて二つあります。
下流の堀割川は歴史ある分水路です。
流域全長は2.7kmあり、
明治初期に吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫が家運をかけて挑み完成させたものです。
「1870年、横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため、当時の神奈川県知事の井関盛艮が工事請負人を募った。吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫がこれに応じ、今の中村橋付近の丘陵を切り下げ、中村川から根岸湾まで運河を開削。その土砂で、当時の「一つ目沼」、のちに根岸線と横浜駅根岸道路の間の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町となる湿地帯の埋立を行った。滝頭波止場(現在は動物検疫所となっている)が大波で破損するなどしたものの、1874年に完成した。2010年度には土木学会選奨土木遺産に認定された」(Wikipedia)
堀割川の役割は、説明にもありますが、
・水運用の水路確保→本牧鼻迂回
・吉田新田埋立用土砂確保→埋地七ケ町へ
という二つの目的がありました。
磯子、岡村エリアの人々にとって
開港場と磯子の地域を船で結ぶことが悲願でした。
陸路では山越え
海路では 波の荒い本牧沖を回らなくてはならず
内水路が必要でした。
(車の無い時代、水運が最も大量の荷物を早く運ぶことができました)
本来なら、公共事業として 国なり県が行う事業ですが、
この「堀割川」プロジェクトは
「神奈川県知事・井関盛良が堀割の埋立工事を自費負担で行う者が
あれば許可するから申し出るようにと布達します。
長者町に暮らす九代目・吉田勘兵衛が志願し予算は23万5000円、米国人から借金して計画します。(『磯子の史話』より)」
関連資料を見る限り、どうやら「吉田家」は無理してこの事業に参入せざるを得なかったようです。
堀割川造成計画は、山を切り崩し 水路も同時に作りつつ埋立を行ってしまおう
という壮大な計画でした。
一方上流の<大岡川分水路>は
1981年(昭和56年)に大岡川の洪水を防ぐために作られた人工河川です。
延長は3.64kmあり磯子湾に繋がっています。
日野川と笹下川、二つの川から水位が上昇すると自然に分流される構造になっています。
改めて見学!というほどでもありませんが
河川工事の凄さを実感できる構造を観ることができます。
No.434 【横浜の河川】帷子川物語(2)
No.433に引き続き帷子川を紹介します。
別な機会に紹介する予定でしたが、過去にも紹介すると予告して忘れてしまった例もあり、連続で忘れないうちに紹介しておきます。
帷子川(かたびらがわ)
現在 横浜市旭区から保土ケ谷区、西区(一部神奈川区)を流れています。
前回紹介した通り、横浜市内のほぼ中央部を西から東に流れています。
江戸時代は 産業の物流動線として活躍しました。
No.433 帷子川物語(1)
明治以降は 帷子川に沿って工業が集中し
物流動線として相鉄線が開業します。
川と鉄道の街として発展してきました。
![]() |
相鉄線と帷子川と鴎 |
相鉄本線の横浜市域エリアは帷子線と表現しても過言ではないでしょう。
■沿線工業史
(駅名は現在のものです)
判る範囲内で現状も記載しました。
星川駅近辺には
古河電池横浜工場→住宅地
日本製糖→住宅地
天王町駅近辺には
富士(瓦斯)紡績
1903年(明治36年)操業、1920年(大正19年頃)に最盛期を迎えます。
従業員6,000名を超える世界最大級の生産量だったそうです。
1945年の空襲で操業停止し戦後、米軍に接収されます。
(→戦後一時 北辰化学工業となりますが、その後大型ショッピングセンターになります)
大日本ビール→ヨコハマビジネスパーク
宝田石油製油所→?正確な場所を特定していません
東京電気横浜工場→公団住宅(西久保町公園ハイツ)
日本金属横浜工場→テニス倶楽部→マンション
保土ケ谷化学工業→集合住宅
日本ガラス(大日本ビールから独立)→住宅?
保土ヶ谷曹達会社→住宅?
西横浜・平沼駅近辺には
古河電気工業横浜電線→(一部)TVKハウジング
→(一部)横浜イングリッシュガーデン
http://www.y-eg.jp
東京瓦斯横浜支社(瓦斯工場)
二俣川駅近辺には
高梨乳業本社工場
バラ園で有名です。
■中流域から上流域の紹介は4月に現地踏破してから紹介します。
(余談)
帷子川は暴れ川でした。
天王町付近は帷子川が蛇行していたんですね!
![]() |
現在「天王町駅」前に昔の橋をモニュメント化しています。 |
No.433 【横浜の河川】帷子川物語(1)
かたびらの衣纏てカッパ住む
帷子川(かたびらがわ)は、様々な歴史物語と共に歩んできました。
カッパ伝説も残っています。水運、工場、街道…
一話では語り尽くせませんが
今日は、帷子川の一断片を紹介しましょう。
![]() |
河口付近です |
帷子川は、横浜市内を流れる8つの水系の一つです。
この帷子(かたびら)の名は難読地名の一つですが、
歴史を感じさせる名ですね。
![]() |
今回紹介する周辺位置図 |
帷子の語源は音からきた「からひら」→片平が有力です。
「片方が山で、片方が田畑であったため、昔『かたひら』と呼ばれていた。その地を流れていたので『かたびらかわ』と呼んだのが名の由来だとされている」(Wiki)
江戸時代の頃から「帷子」の漢字が使われてきたそうです。
この帷子とは?
麻や苧麻(からむし)で織った布で仕立てた単衣(ひとえ)のことを江戸時代の頃から「かたびら」と言うようになりました。
古来、装束をつけるときに汗とりとして着たものをさし、材質は生絹(すずし)・練り絹(ねりぎぬ)または麻糸で織った布でした。
色は白が正式なものだったそうですが紅帷子も用いられていました。
古来「辻が花」の柄は帷子(かたびら)に紅を基調にした草花文様を染め出したものです。
※縫い締め絞りによる「辻が花染」とは異なります。
このように
帷子の名は、染め布のことを指しますが
明治以降「帷子川」は横浜を代表する地場産業「捺染」を育てた川でした。
→横浜捺染(別テーマで特集します)
横浜には8つの水系があります。
No.378 1月12日(土)川辺の横浜
さらに大きく分けると4つのグループに分けることが出来ます。
図のように
帷子川は、ちょうど横浜市域の真ん中を横断するように流れています。
江戸時代中期まで、帷子川は重要な水運の川として活躍し町が開けました。
特に河口付近(現在の天王町)は、当時深い入江となって、江戸に向けた物流拠点として栄えたそうです。
ところが
江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起った
富士山の宝永大噴火で、川と町の様子が一変します。
![]() |
現在の予想図です。 |
新井白石が「折りたく柴の記」に
「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。」
と江戸の宝永大噴火の様子を記述しているように、大量の火山灰が神奈川一帯にも降り注ぎました。
この噴火による降灰で、帷子川河口付近に灰が溜まり港の機能を失うことになります。
これをきっかけに、江戸後期に帷子川の入江が整備され芝生(しぼう)村に新しい港ができ、明治まで干拓・埋立が進みます。
開港時、この芝生村が開港場と東海道を結ぶ拠点となります。
![]() |
江戸後半の帷子川流域 かなり河口が変化しています。 |
かなり“暴れ川”だった帷子川も次第におとなしくなっていきますが、横浜で最後まで
大暴れした川でもあります。
平成に入り 二度の氾濫を起こしました。横浜駅西口(平成16年10月9日)周辺の浸水を記憶されている方も多いと思います。
帷子川のもう一つの特徴が
河口付近の複雑な水路です。
![]() |
河口付近拡大図 |
帷子川本流に支流が
新田間川(あらたまがわ)
石崎川(いしざきがわ)
幸川(さいわいがわ)
と図のように複雑に分かれています。
この水路は江戸時代に原型が出来上がり
明治になり埋立整備が進み現在の流れに固定されました。
それぞれの川には全く異なった風景を見ることができます。
梅も桜も散ってしまいましたが、初夏に散策してはいかがでしょう。
洪水ハザードマップ
http://www.city.yokohama.jp/me/shobo/kikikanri/hmap/
No.425 川の交差点、都橋界隈
川に交差点がある?
ぶっちゃけていえば運河ってことですが
地図を眺めていると 河と運河が交わる
川の交差点
惹かれるものがあります。
横浜の古い地図を眺めていると
都橋周辺に目がいきます。
都橋周辺は何度も紹介していますが、お気に入りの空間です。
特に川に交差点があった都橋、柳橋あたりの風情を想像するのが
好きです。(残念ながら今は激変しています)
※中村川にも堀割川との十字路がありました。
(別の機会に紹介します)
図柄からもかなりの混雑が見てとれます。
絵でも優先(川)は「大岡川」です。
川沿いの「柳」は残っていませんが、緑は残っています。
![]() |
右側が昔の柳があった河岸 |
水の道は変更が難しいのですが、
現在、横浜の運河の多くが“埋立”てられています。
かつての川を想像しながら散策する愉しみも良いですね。
※昔桜木町駅(旧横浜駅)に噴水があったんですね。
都橋界隈の風景
![]() |
これなんでしょう? |
No.269 9月25日(火)河口に架かる橋
日本のインフラ整備の歴史の中で、橋の設計は個性的です。
近所の小さな橋を幾つか探してみても工夫の跡が判ります。
特に海(湖)に注ぐ川の入口に架かる橋は、全国的に美しいものが多いようです。
1964年(昭和39年)9月25日の今日、
埋立てによって整備された河口に架かる八景橋が完成しました。
このあたりからの風景は、中々素晴らしいものがあります。
横浜市域を流れる川にはあまり大きなものがありません。
唯一の一級河川「鶴見川」はこのクラス最短に近い本川延長43Kmで、暴れ川の歴史を持っています。
河川法上の一級に準ずるのが二級河川(県の管理)ですが、市内で河口を持つ二級河川は帷子川(河口は西区)、大岡川(河口は中区)、宮川(河口は金沢区)、侍従川(河口は金沢区)の水系です。
市内に支流を持ち相模湾に流れ込む境川と支流の柏尾川も市内の重要な河川ですが今日は、これらの市内河川から、市内の河口に架かる橋の話しを少し紹介しましょう。
おすすめガイド系のお話です。
橋の上から海を眺めることが出来る“河口の橋”が横浜市域にも数多くありますが、中でも美しい風景を堪能できるのが六浦川「八景橋」付近から侍従川の河口「平潟橋」周辺です。
※絶景ポイントとしては「夕照橋」(平潟湾に架かる)がありますが河口ではないのでここでは除外しました。
内陸に深く入り込んだ平潟湾と係留されている漁船とヨット、モノレールの通過する光景は、人工美ではありますがリゾート地の風合いを醸し出しています。
六浦川と侍従川が平潟湾に流れ込むこの橋近辺は、
昭和30年代に埋立てで造られた土地です。
町名は金沢区柳町で昭和41年にできた街です。
![]() |
昭和30年ごろ |
![]() |
昭和初期 |
横浜の海岸線の殆どが戦後の埋立てによって形成されたものです。
多くの用途が工業用地でしたが、この六浦川・侍従川河口は住宅地専用に開発されました。
No.136 5月15日 フルライン金沢区
(横浜河口付近ギャラリー)
■大岡川水系の河口周辺といえば「万国橋」あたり
![]() |
汽車道から万国橋 |
■大岡川水系、もう一つの河口周辺といえば「国際橋」あたり
■厳密には河口ではありませんが?“汐入橋?”
■帷子川河口は「東口ペデストリアンデッキ」橋?です。
そごうと日産を繋ぐ橋です。
■新田間川の河口も「そごうペデストリアンデッキ」です。
■滝の川河口付近「万代橋」から
■新田間川と帷子川が合流付近に架かる「みなとみらい大橋」
■Y市の橋です。
![]() |
知る人ぞ知る?名画の場面となった橋です。 |
http://www.ima.or.jp/ja/collection/matsumoto.html
岩手県立美術館に松本竣介コレクションがあります
No.241 8月28日(火)駅を降りたら、国際港 復活(その2)
現在国際空港行き専用急行便が走っているように、
かつて横浜港と東京を結ぶ専用路線(臨港鉄道)がありました。
1920年(大正9年)7月23日に運行開始、戦争とともに廃止されます。
戦後、国際港から太平洋航路が復活とともに短い期間でしたが1957年(昭和32年)8月28日から1960年(昭和35年)8月27日まで東京駅〜横浜港駅間にボート・トレインが復活しました。
横浜の港湾施設と東京を結んだ「臨港鉄道」についてはこれまで何度か紹介しています。
No.205 7月23日 (月)駅を降りたら、国際港
No.62 3月2日 (金) みらいと歴史をつなぐ道
ここでは、ボート・トレインの1920年(大正9年)7月23日から1960年(昭和35年)8月27日までの歴史の中で、復活の3年間に注目します。
(北太平洋航路の復活)
1953年(昭和28年)7月22日に横浜港から一隻の客船が、北米・シアトルに向けて出港しました。北米航路の女王とよばれた「氷川丸」の復活です。戦争前夜の1941年(昭和16年)の夏に航路が休止されてから、12年ぶりのことです。黄金時代の北米航路は「平安丸」「日枝丸」と合わせて3隻で運行されていましたが、この2隻は戦時徴用で沈没し「氷川丸」だけが生き残ります。
■最後の氷川丸
1953年(昭和28年)6月三菱造船で復帰のために大改装されます。
7月22日に横浜〜シアトル航路に定期貨客船として復帰します。
1953年(昭和28年)〜1960年(昭和35年)多くのフルブライト交換留学生を乗せました。
1959年(昭和34年)7月26日第52次航で宝塚歌劇団北アメリカ・カナダ公演のメンバーが乗船し桟橋は五千人を越えるファンで埋め尽くされました。
寿美 花代(すみ はなよ)、浜 木綿子(はま ゆうこ)他
演目は「花の踊り」「四つのファンタジア」「宝塚踊り」だったそうです。
そして
1960年(昭和35年)第60次航をもって運航を終了します。同時に日本郵船もシアトル航路から撤退することになります。
■氷川丸を支えた臨港鉄道
「氷川丸」復活で日本郵船から国鉄に要請があり、1957年(昭和32年)8月28日から「横浜〜シアトル間」の航路に接続して復活運行されたのが「東京駅〜横浜港駅間」の横浜臨港線でした。
氷川丸出入港に合わせて運行されるので、時刻表には掲載されていなかったそうです。
東京駅10番ホーム〜横浜港駅間を約40分で結びました。東京駅10番ホームは現在も東海道本線特急急行用ホームとして利用されています。
通常はC58蒸気機関車に4両編成で運行されていましたが、1959年の宝塚歌劇団の時には10両編成にしてファンに備えたそうです。
東京駅10番線発車メロディー
http://www.youtube.com/watch?v=wlBlQEjWt2k
【もうひとつの8月28日】
1970年(昭和45年)8月28日
大岡川分水路建設工事起工式が挙行されました。
No.192 7月10日(火)もう一つの大岡川
No.187 7月5日(木) 目で見る運河
No.214 8月1日 (水)開港場を支えた派川工事
横浜は花火大会です。2014年は8月5日19時スタートでした。
1874年(明治7年)8月1日(土)の今日、
横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、
吉田新田埋立用土砂確保のため中村川から根岸までの堀割工事が完成しました。
中村川から根岸までの堀割工事が完成し、「堀割川」と命名されました。
「堀割川」
正式名称は二級河川「大岡川小派川 堀割川」です。
流域全長は2,700m、水深約3mで川幅20〜30mあります。
■支川(しせん)と派川(はせん)
川には本川に流れ込む支川(しせん)と、本川の水量を分岐させるための派川(はせん)があります。
堀割川、中村川は、大岡川の「派川(はせん)」です。
※因みに本川の右岸側に合流する支川を「右支川」、左岸側に合流する支川を「左支川」と呼び、本川に直接合流する支川を「一次支川」、一次支川に合流する支川を「二次支川」と、次数を増やして区別します。
派川(はせん)の場合このような「○次派川」という区分はありませんが、堀割川は“派川”中村川の“二次派川”「大岡川小派川 堀割川」と呼ばれています。
(堀割川の歴史)
堀割川は、1870年(明治3年)から掘削が始まり、1874年(明治7年)まで4年の時間が必要でした。
当時の神奈川県知事の“井関盛艮”が工事請負人を募ったところ、吉田新田を開拓した“吉田勘兵衛”の子孫がこれに応じ、現在の中村橋付近の丘陵に切り通しを行い、中村川から根岸湾までの運河を開削しました。
この掘削により生じた土砂を使って埋め立てた場所が、吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町です。
この人工運河工事は困難を極めました。切り通し工事と埋立てという大工事、堀割川の中程に建設しようとした“滝頭波止場工事”は波浪により倒壊するなど吉田家の財力を大幅に超えるものとなってしまいました。
最終的には国が肩代わりするなどして完成しますが、大岡川の水害低減だけではなく、産業運河、堀割川河川沿いの産業道路(国道16号線)は横浜港と磯子地域発展に大きな役割を果たしました。
吉田家の功績は150年の現在も活き続けています。
(被災を乗り越えて)
1923年(大正12年)9月1日に起った関東大震災で河岸が被災しましたが
1926年(大正15年)から1928年(昭和3年)にかけて復興工事が行われ現在の堀割川の姿となりました。
一部に石積み護岸や物揚場、橋の親柱など、明治の面影を残しているところも見ることができます。堀割川はまさに近代遺産です。
平成22年度の土木学会選奨土木遺産に認定されました。
毎年8月には「堀割川の日」を設け、地域の住民の手で、堀割川の魅力づくり活動が地道に行われています。
(関連ブログ)
大岡川はさすが横浜開港場の中核となった「川」です。ここでも多く取上げています。
7月10日(火)もう一つの大岡川
No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん
(余談)
1940年(昭和15)に堀割川河口の飛行場から大日本航空(現在の日航とは関係ありません)、横浜〜サイパン・パラオ間水上飛行艇による定期航路が開設されました。
![]() |
右タンクのある鳳町に日航のターミナルと水上飛行場がありました |
国際空港にふさわしい近代的なターミナルビル、全長26メートル、主翼の長さ40メートルの大型飛行艇が12機納まる大格納庫などが建ち並び、大日航横浜支所が置かれたそうです。
終戦でこの水上飛行基地は米軍に接収、解体され
1958年(昭和33年)まで米軍の小型飛行場が設けられ使用されたそうです。
No.192 7月10日(火)【横浜の河川】もう一つの大岡川
都市には必ず川の歴史があり氾濫と治水の歴史でもあります。
1976年(昭和51年)7月10日(土)の今日は、大岡川治水工事の一貫として着工した「大岡川分水路」(全長3,640m)の部分通水(笹下川から根岸湾まで)を開始した日です。大岡川は、港南区の丘陵地に水源を持ち、南区、中区の密集市街地を流れ横浜港内に注ぐ全長約15kmの都市河川(2級)です。江戸時代から埋立てや治水を通して流域の人々とともに歩んできました。
No.187 7月5日(木) 目で見る運河
No.435 大岡川物語(1)
【番外編】(ざくっと横浜その1)村は川に沿って生まれる
幕末開港後、急激に都市化が進むにつれて横浜は大岡川の氾濫による水害の歴史を歩むことになります。実は、大岡川は分水路の川です。
最初の大岡川分水路は<堀川>です。開港場の出島化の目的が主でしたが、中村川を分流する役割も持っていました。
大岡川の下流の横浜中心部を守るために、次に完成した分水路が中村川から分流する「堀割川」です。明治初期に完成した堀割川によって一端大岡川下流域の大規模治水事業は終わります。
戦後、中・上流部の宅地化が急速に進むことで洪水が多発し、大岡川支流の「日野川」から地下トンネルで磯子地区に水を逃がし、出口から根岸湾までを水路で通過させる計画が大岡川分水路です。大岡川の治水対策として立案され、昭和44年を初年度に7カ年計画が立てられました。
1976年(昭和51年)7月10日(土)に下図の分水庭から磯子区までが完成します。
![]() |
笹下川取水口 |
![]() |
笹下川取水口 |
![]() |
磯子区側出口 |
![]() |
磯子区側出口あたりの航空写真 |
(完成)
笹下の分水路は地下二階建となっていて。地下一階は日野川から分かれた流れが根岸湾に繋がり、地下一階の<笹下川>の水量がある一定量増水すると分水路に放流される構造になっています。
166億かかったという金額に少し疑惑もありましたが実際に見ると、なるほどと妙になっとく。(20120711追記)
![]() |
この下に左から右に流れる日野川分水路が通っています。 |
大岡川は、運河の歴史でもあります。江戸から明治にかけて堀割川、中村川の工事は、大岡川の氾濫を抑制するためのものでした。この大岡川分水路は、昭和40年代の急激な横浜市の人口膨張に備えて実施された計画です。横浜市は戦後、特に30年代から郊外部の宅地化が進みました。特に大岡川上流域の人口推移は、下記の通りです。
住宅地の拡大は、地域の緑被率を低下させ、降雨水、生活水が直接河川に流れ込み急激な増水の危険性が高まります。
特に下流域への影響は深刻で、集中豪雨のときに海抜の低い“お三の宮付近(横浜市南区)”あたりで、大洪水が起る危険を残していました。大岡川下流域は住宅や工場が密集しているため、河川の拡幅工事には巨額な事業費と時間が必要となります。
そこで計画されたのが、大岡川分水路の建設でした。
横浜市には、二つの分水路があります。
大岡川分水路と帷子川分水路がありますが、対照的な分水路の姿を持っています。帷子川分水路は全長6,610mの殆どが地下トンネルで構成されているのに対し、大岡川分水路は磯子区地域で一部運河の雰囲気を楽しむことができます。
(大岡川分水路河畔プロムナード)
春には根岸湾まで続く桜並木がいっせいに咲き、美しい彩りを見せてくれます。川から海への桜プロムナードを花見の季節に一度は訪れてみることをおすすめします。


磯子の丘陵地帯を背にしていたため幕末まで禅馬川や杉田川などの小規模な川しかありませんでした。
地名が示すように屏風のような急な断崖の多い湾で狭い砂浜が続く風光明媚な漁村でした。現在は全て埋め立てられ工場が立ち並んでいるため当時を想像するしかありません。
(余談)
ペリーもマッカーサーもこの“根岸湾”の景色をかなり気に入ったようで、勝手に「ミシシッピーベイ」などと名付けました。このエピソードも別の機会に紹介します。
No.700 【横浜の河川】川いろはのイ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6336
No.187 7月5日(木) 目で見る運河
1904年(明治37年)7月5日(火)の今日、
歴史年表を紐解いていると「大岡川」の吉浜橋と花園橋が遊泳禁止で話題となったという記事を発見。
というかこの時代普通に泳いでいましたので<禁止>が話題になったのでしょう。
今ではなかなか想像がつきませんが、理由は追跡しておりません。
![]() |
明治14年ごろ吉浜橋はまだできていません。(M14測量図) |
(今日は川ネタです)
大岡川の吉浜橋と花園橋あたりを中心に開港場の誕生あたりを軽く探ってみました。
題して「目で見る運河」
上記古地図は1881年(明治14年)頃の測量図です。
現在のマップで探ってみます。
首都高速の「横浜公園」出口近辺がまさにこのあたりです。
1893年(明治25年)ごろの吉浜橋近辺です。(「横浜真景一覧図絵」)
このあたりは 既に横浜製鉄所ができていましたから、“泳ぐ”には当時でも無理があったんじゃないかと推察できます。
でも泳ぐ人がいたんですね。
No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語
(大岡川のめぐみ)
開港場の“横浜”は、干拓と埋立ての街です。
横浜村は大岡川が流れ込んでできた独特の砂州があり、深い入江となっていました。
![]() |
開港前の横浜 |
大岡川上流から運ばれる土砂は、
横浜村を含めた周辺の村に囲まれた“湿地帯”状態で、
村民は製塩と漁業の場として利用していました。
ここに目をつけたのが江戸の材木商、吉田勘兵衛(吉田勘兵衛良信)で、
1656年(明暦2年)幕府に許可を得て周辺の村民の賛意もあり干拓事業を起こします。
これが現在の横浜の基礎となった吉田新田の誕生です。
干拓事業は人海戦術ですから大変な労力と危険(犠牲)を要しました。
完成までに約12年もかかります。
財力にも驚きますが、干拓事業に参加した村民の努力にも敬意を表します。
この干拓事業の地(川)鎮と無病息災を願うために
「日枝神社」と
「常清寺」とが創建され
現在もこのエリアの鎮守様となっています。(常清寺は開発のため現在久保山に移転)
この吉田新田の区割りから現在の南区・中区の街並が形成されます。
干拓にあたって、大岡川は現在の南大田近辺で「大岡川本流」と元町方向に流れる「中村川」に分岐させ、
真ん中を運河(堀割)で水を逃がし灌漑水路中川が作られました。
この中村川、今日のテーマでもある吉浜橋と花園橋あたりですが、
元々ぐっと曲がって大岡川本流に戻る形で蛇行していました。

開港場ができあがると、中村川をまっすぐ海まで延ばします。
長崎の出島のように運河で居留地を囲む目的と 中村川の氾濫防止の役割を持っていました。
この中村川新河口の南側(絵図左川)が元町、北側(絵図右側)が中華街として発展します。
※中華街の街路が他のエリアと方角が違いますが
俗説にある風水による街並ではなく中華街は中村川の沼地<横浜新田>にできました。
形成時期のズレによるものです。
(中華街誕生も別の機会に必ず紹介したいテーマです)
No.105 4月14日 白の悲劇(加筆)
突堤の横浜港「白灯台」をなぎ倒し座礁しました。


キュナード・ライン社は
1839年創業のクイーン・メリー号、クイーン・エリザベス号など豪華客船を就航させているイギリスの海運会社です。
”Green Goddesses=緑の女神”の愛称を持つ客船「カロニア号」は、クルーズ用途に合わせデッキにはプール、全室にバスルームが設置された豪華客船で1949年に建造されました。
総トン数34,000、速度22ノットで戦後早々の大西洋定期航路と世界一周クルーズで活躍します。
1954年から12年間運行された“春季世界一周クルーズ”で毎年横浜に寄港し「カロニア号」は春を告げる客船として日本でも有名になります。事故後「カロニア号」は、横須賀に回航され、アメリカ海軍横須賀基地の工廠で修理され定期航路に復帰します。

この五回目の寄港となった「カロニア号」の事故でなぎ倒された”横浜港東水堤灯台”略称「白灯台」が今日のテーマです。
港には国際ルールで、紅白の灯台を設置することが義務づけられています。
外港から港内に入る時、右が赤灯台(赤い光)、左が白灯台(緑色の光)です。
事故に遭った「白灯台」は、「赤灯台」と共にイギリス人技師H.S.パーマーの設計により明治22年に着工、難工事の末明治29年5月16日に初点灯が行われた非常に貴重で現役の灯台でした。
![]() |
手前が赤灯台、右奥に見えるのが白灯台です |
当初は石油ランプが使われ、
大正時代にガス灯に変わるまでは夕方になると灯台守が船で向かい泊まり込んで灯りを守ったそうです。
![]() |
現在も赤灯台は現役です |
(イギリス人技師H.S.パーマー)
日本の灯台に燈を灯した「技術者」パーマーを紹介しましょう。
H.S.パーマー(Henry Spencer Palmer)(1838~1893)は
香港政庁付武官のときに、広東の水道設計を終え 帰国途中に来日します。
このとき神奈川県より横浜の水道建設の調査を依頼され、彼は一気に明治 16 年多摩川水源案と相模川水源案をまとめ上げます。
その後 このプランが採用され工事に際しても顧 問工師として招かれます。
日本ではじめて近代水道を完成させた人物として日本、横浜に大きな足跡を残します。
また、東京、大阪、神戸等の水道計画に参加したほか、横浜港の 築港工事、横浜ドッグの設計など幅広い分野で活躍しました。
母国に帰還することなく
東京で没し、青山墓地に眠っています。
![]() |
野毛山公園にあるパーマー像です |

(白灯台)
話しを白灯台に戻します。築港計画と共に計画され、今も現役の赤灯台と対の<白灯台>は戦前、横浜港の<絵葉書>にも多く題材として使われてきました。
事故でなぎ倒された”横浜港東水堤灯台”「白灯台」は海に沈みます。二日後の4月16日には仮灯台を設置し港湾機能が復活します。この時に引き上げられた<白灯台>は1963年(昭和38年)に山下公園の「氷川丸」横に移設されます。その後引き揚げたままの状態でしたが、2010年(平成22年)に全面リニューアルされ現在は山下公園のシンボルとなっています。
![]() |
マリンタワーから良く見えます |
(二度ある三度目は?)
白灯台のある突堤は「カロニア号」事件が起る9年前の1949年(昭和24年)の4月にも座礁事故が起っています。
三井物産船籍の貨物船「有馬山丸」(8,697t)がお米を輸送中に20番ブイに係留しようとした際、船底を白灯台のある突堤の基礎部分に接触し座礁します。
どうも、赤よりも白の方が部が悪いようです。
では現役の北水堤灯台(赤灯台)はというと、関東大震災で一部が倒壊しましたがドーム形の天井などは当時のままで、2009年11月に白熱灯から発光ダイオード(LED)に切り替えられたそうです。
電力が従来の25分の1で済み、太陽光発電装置も併設されたクリーンエネルギータイプで115年の歴史を刻んでいます。
三度目とは縁起の悪いことですが、2007年頃?プレジャーボートが突堤に衝突した事件を記憶しています。
(後日談)この事故に対し、日本の海難事故調査委員会は「カロニア号」に対し12,500ポンドを請求します。結果どうなったか??未調査です。