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第899話【謎の風景】1910年(明治43年)3月
今日紹介する<風景>は、未解決の一枚です。少し謎が解けてきました(後部で紹介)
ここは何処でしょうか?
手がかりは多いのですが確定できていません。分からないままご紹介します。
謎の風景を特定するのは楽しい作業です。
一つのヒントであっけなく解けてしまうこともあれば判りそうで全く判らないものもあります。
今回は謎の風景を読み解けるだけ解いていきたいと思います。
(風景を読む)
まず最大の読み解きポイントが<木柱>です。
「明治四十三年三月 横濱市役所」
最も具体的なヒントとなっています。
横浜の 明治43年、1910年3月はどんな時期だったか?
明治末期で、20世紀に入り横浜の都市整備本格的にが始まったころです。
1903年(明治36年)10月8日 合名会社明治屋設立(代表社員米井源治郎)
1904年(明治37年)2月10日 日露戦争(〜05年9月5日)
3月9日 横浜鉄道株式会社設立
7月15日 横浜電気鉄道開通(神奈川-大江橋間)。
10月 「実業之横濱」創刊1905年(明治38年)
10月23日 横浜沖で凱旋観艦式、行幸。
1906年(明治39年)5月 三渓園 開園
9月 横浜製糖株式会社創立。
10月 帝国肥料株式会社創立(本社 横浜)。
12月 「横濱貿易新報」発刊(貿易新報を改題)
※「実業之横濱」と「横濱貿易新報」 横浜メディアの誕生
1907年(明治40年)1月 横浜生命保険株式会社創立。
1908年(明治41年)3月18日 朝日新聞社主催の世界一周会に参加の57人(婦人3人)横浜を出帆。
この女性の一人が横浜の野村みち(38歳)です。
9月23日 横浜鉄道(東神奈川ー八王子間)開通。
白船艦隊来港
【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
1909年(明治42年)7月1日 横浜で「開港50年祭」挙行。
7月11日 政府関係者の反対を押し切り横浜掃部山で井伊直弼の銅像、除幕式。
1910年(明治43年)3月19日 野毛3丁目から出火。630戸焼失。
この時期の横浜は第一次市域拡張(1901年)から第二次市域拡張(1911年)の間にあたります。
(同時期の風景と比較)
■派大岡川
下記の絵葉書は1910年の風景です。
この絵葉書は指路教会が見えることから派大岡川河畔、吉田橋上伊勢佐木寄りから大岡川方向、宛名面のタイムスタンプが1910年(明治43年)です。
画像はそれ以前の発行と推理できますが、発行年は不明。
指路教会は1892年(明治25年)ヘボンの尽力により建てられたものなので、少し時期は絞りこめます。さらに左奥に小さく写る橋は柳橋で、1905年(明治38年)の地図によると柳橋たもとに横須賀行きの船着き場がありました。
当時使われていた船の大きさから<派大岡川>のスケールが良く判ります。■橋
不明風景に戻ります。
川には木製の橋が架かっています。 橋脚は四基、構造は在来工法による湾曲した桁橋。川幅は写り込んでいる人物から推測すると橋脚は14〜15m、川幅はもう少しあるでしょうか、当時の横浜市内ではかなり大きい川です。
画面左側の川岸は広い道となっていて材木店が建ち並んでいます。
岸側が電信柱、陸側が電力柱のようです。
対岸、画面右側には<板塀>が張り巡らされ木造三階建て・煉瓦の洋館が建ち並んでいます。両岸の風景が明確に異なっている点もこの風景の特色です。
1910年頃の市域範囲からこの川は「大岡川」とその支流であろうことは推理できます。
中でも川幅からは「派大岡川」の風景と推理できそうですが少し狭いようにも感じます。
確証がありません。継続調査していきます。
【新展開】
お世話になっている本牧の郷土史研究家の長澤さんからここは吉田川「長島橋」ではないか?という資料とヒントをいただきました。
横浜橋側から川下に「長島橋」を観る風景と推定すると、右側が真金遊郭、左が駿河町一丁目ということになります。真金の建物の風情もこんな感じかもしれません。駿河町の材木店も探すヒントになるかもしれません。この年の翌年に路面電車が通ります。
これを軸にさらに追いかけてみます。まずは御礼と訂正追記を報告します。(2019.07)

第898話 【横浜・大正という時代】その2 大正時代
横浜の歴史にかるーく関心を持って10年、資料を調べ始めて5年。
腰を据えなければ!と思って3年になりますが 0からの学びは広すぎますね。
ということで
歴史の初学者として先生に<ご指導>をお願いしているのですが、
「あなたは初学者ではない。社会経験は歴史学に必須条件です。もうすでにこの条件はクリアしている」と息子のような歳の師に慰められています。
なぜ歴史学に<社会経験>が必要なのか おいおい紹介していきますが
今日は 横浜史を学ぶにあたって 時代区分が大切ですよ!!という話。
歴史書、歴史の教科書に目を通すと、時代区分がされています。
●●時代という区分です。今回も【横浜・大正という時代】としました。
一般的な歴史区分を大事にしながらも
自分なりの歴史区分を考えなさい!ということです。
テーマによっても歴史区分が変わってくるからです。
(一般的な区分)
・暦で分ける
19世紀から20世紀にかけてとか
大正から昭和にかけてとか
1930年代とか
※時系列比較するときに便利です。
・事件で分ける
戦間期(第一次と第二次世界大戦の間)
戦前・戦中・戦後(第二次世界大戦を指すことが多い)
革命以前以後とか震災前後 事件後、
※時代を変えた事件を軸に歴史を区分することは<事件>を捉える上で大切です。
(横浜を区分する)
横浜を考える上で、開港は外せません。特に開港の舞台となったことも大きいでしょう。
横浜史を<事件前後>二つに分けるとしたら?異論なく開港でしょう。
次に、私は「関東大震災」が横浜に与えた様々なインパクトは大きい要素だと考えています。
震災前後で横浜の人々の生活は大きく変わりました。災害の内容も東京や神奈川近郊とも異なる部分があり、横浜としての被災前後の政治・経済・社会はその後の横浜復興計画・都市間競争を踏まえながら変化していきます。
※東日本大震災も 震災前後として歴史を捉える時期が来るでしょう。
というところで、横浜史を学びながら<時代区分>を考える中、
(横浜・大正という時代)
ようやく本題に入ってきました。横浜を元号区分で俯瞰すると
大正時代は濃い時代です。
1912年(大正元年)〜1926年(大正15年)の15年間を大正時代と呼びます。
この間、1923年(大正12年)に起こった関東大震災は大転換期でもありました。
日本史において 大正時代の重要事項は
<大正デモクラシー>
<第一次世界大戦>
<ロシア革命>
<関東大震災>
横浜は被災地
などが代表的事件とされます。
横浜でも上記の歴史的要因の影響を大きく受けますが、特徴ある横浜での重要項目を列挙しました。
■横浜大正期(明治末期以降)の重要事項
横浜の大正期は近代化に伴う都市整備が始まった時期にあたります。
●都市計画の始まり
→小横浜から大横濱への計画が立案されます
1919年(大正8年)久保田周政(きよちか)市長は市区改正局と慈救課を設置し、都市計画と社会福祉を設置
1920年(大正9年)市区改正局→都市計画局 慈救課→社会課
横浜市の都市計画が本格的に検討されたのが大正初めのことでしたが、計画半ばで大震災が起こり挫折、0からの復興計画が始まります。→有吉忠一の横浜復興
■横浜市の大正期三大公営事業<水道><瓦斯><電気>
現在電気と瓦斯は民営事業となっていますが、横浜市は全国でもいち早く<瓦斯>を公営化、さらには電気鉄道も公営化します。
共に横浜の実業家高島嘉右衛門・安田善次郎らの事業を横浜市が引き継ぐことになります。
●横浜市内の水道第二次拡張工事期
→明治期に水源を山梨に求め、多摩川での水源紛争を避けた先見性のある横浜市でしたが
都市の急膨張は想定外でした。拡張に伴い、市民の飲料水の確保と何回も横浜を揺るがしたペスト・コレラ対策のための上下水道整備も急務となっていました。
No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い
●瓦斯エネルギーの転換期
市営瓦斯事業の整備
平沼瓦斯製造所(横浜市西区西平沼町 5-55)が1908年(明治41年)に完成、
現在相鉄線・東海道線沿線の平沼にある<ガスタンク>は明治に完成。大正時代の瓦斯供給を担います。
第二次世界大戦中に現在の東京瓦斯と新しい瓦斯会社を設立し
1944年(昭和19年)に瓦斯局が廃止されました。(市史Ⅱ)
平沼の瓦斯工場稼働により高島嘉右衛門に始まった<花咲町瓦斯工場>が配給所になります。→現在の中区本町小学校
●市電網の拡充
1921年(大正10年)に横浜市は経営難の「横浜電気鉄道」を620万円で買収し市営化を図ります。
市営化により第一期の設備投資が行われますが、関東大震災により設備の大半を失ってしまいます。事業としては初期設備投資と復興事業の二重負債を負うことになり、市電網の拡充に遅れが生じたことは否めません。
■民間経済の発展と挫折
●横浜開港五十年祭の開催
1909年(明治42年)に横浜は一つの節目を迎えます。
市を挙げて「開港五十周年」の式典を行います。ここにはもう一つの「開港五十周年」がありました。
明治期の薩長藩閥政治に不満を持つ人達と旧徳川家に関わってきた人達の動きの一つが「井伊直弼像」建立の動きでした。
開港の地、横浜で開港記念日に藩主井伊直弼の像を建立する計画が旧彦根藩士を中心に持ち上がります。詳しくは別な機会に紹介しますが、
政府(薩長出身)の大反対を受け開港記念日の除幕式は断念しますが、遅れて盛大に挙行されます。何故?横浜の地で「井伊直弼像」は建立できたのか?
横浜の大正時代を考える一つの出来事でしょう。
●民間の物流インフラの整備
横浜鉄道、横浜倉庫 他
→1905年(明治38年)
私鉄では京浜電気鉄道(後の京浜急行)が
品川(現・北品川)〜神奈川間開通します。
→1906年(明治39年)
横浜倉庫 横浜鉄道の姉妹会社として設立
→1908年(明治41年)
東神奈川駅〜八王子駅間(現在の横浜線)横浜鉄道が開業します。
●太平洋電信網の完成
横浜商工会議所(特に生糸商)が切望の日米電信網が完成します。
1906年(明治39年)8月1日
太平洋が通信線で繋がる。
第879話【時折今日の横浜】3月27日日米接続


No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って(加筆)
●工業化
京浜エリアの工業化 横浜は繊維貿易を基盤にした経済都市からの脱皮、
重工業都市への転換を図るため大正期から湾岸の埋立が急加速していきます。
第894話 【横浜・大正という時代】その1 新港埠頭
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9975
第896話【横浜の河川】大岡川物語(2)
(戦前の風景)
■大岡川に関係する戦前風景をピックアップしました。
横浜市内を流れる水系は 流域面積でランキングすると
大岡川は第四位です。
第一位は 一級河川 鶴見川水系 流域面積 235 km²(東京都含む)
第二位 二級河川 境川水系 柏尾川 流域面積 約84 km² ※境川は流域面積 210.69 km²
第三位 二級河川 帷子川水系 流域面積 57.9 km²
第四位 二級河川 大岡川水系 流域面積 35.6 km²
■今回、戦前の横浜市内を流れる<川の風景>を探そうとしました。
最も手軽に河川の風景が記録されている媒体は<絵葉書>でした。といっても
戦前の絵葉書には<大岡川下流域の風景>ばかりが圧倒的に記録されています。
理由は大岡川下流域が開港場として衆人の注目場所となったからでしょう。
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■大岡川関連マイブログリンク
No.435 【横浜の河川】大岡川物語(1)
番外編「大岡川運河論」
第860話 RE name Yokohama 大岡川
第894話 【横浜・大正という時代】その1 新港埠頭
今年2017年は横浜市開港記念会館が開館100周年を迎えます。

1917年(大正6年)7月1日のことです。今年は様々な記念行事が予定されているようです。
この横浜市開港記念会館、竣工当時は「開港記念横浜会館」呼ばれました。
さらに時代を遡れば、当初は「町会所」その後「横浜貿易商組合会館」「横浜会館」となり明治の横浜の商工業界(現在の商工会議所)の<シンボル>でもありました。
残念なことに横濱会館は明治39年に焼失し再建が望まれ完成したのがこの「開港記念横浜会館」です。
戦前、神奈川県、横浜市など<官>に対して民のモノ言う組織としてアクティブな活動をしてきたのが横浜商工会議所です。開港記念会館は横浜商工会議所の歴史とともに歩んできました。
今回から何回かに分けてこの開港記念会館が完成した大正時代の横浜について自分なりに整理をしていきます。
(大正という時代)
1912年から1926年を元号から「大正時代」と呼びます。近現代の中で最も短い期間ですが、実に変化に富んだ時代でもありました。歴史業界(?)でも大正再評価ブームのようです。
この大正時代 横浜はどんな街だったのだろうか?これが私の歴史的関心事の一つです。
歴史を考える基本作業として 幾つか切り口を設定してみました。
・小横浜
横浜は幕末から開港の拠点となります。
その後、明治維新を迎え、国際港として発展していきますが、<横浜>の町としての行政単位は狭いエリアでした。
国際都市が発展していく過程で、周辺地域が港を支える市街地として<宅地化>していきます。そこで横浜は明治期の終わりまでに二回の市域拡張を行います。
大正期の14年間に市域拡張はありませんでした。
■市域拡張一覧
・横浜市制時(明治22年4月1日) 5.40(平方キロメートル)
・第1次市域拡張(明治34年4月1日) 24.8
・第2次市域拡張(明治44年4月1日) 36.71
・第3次市域拡張(昭和2年4月1日※) 133.88
(※昭和2年10月1日区制施行)
・第4次市域拡張(昭和11年10月1日) 168.02
・第5次市域拡張(昭和12年4月1日) 173.18
・第6次市域拡張(昭和14年4月1日) 400.97
■第二次市域拡張
「久良岐郡屏風浦村」より<大字磯子><滝頭><岡(旧禅馬村の地域)>。
「大岡川村」より<大字堀之内><井土ヶ谷><蒔田><下大岡><弘明寺>。
「橘樹郡保土ケ谷町」より<大字岩間字池上><東台><外荒具><道上><塩田><反町><宮下><殿田><関面><久保山下(現在の西区東久保町・久保町・元久保町、保土ケ谷区西久保町)>を編入します。
市制施行時には横浜港周辺の5.4 km² に過ぎませんでした。
開校以来40年近い時が流れ、明治34年に一回目の市域拡張を行いますが面積は24.8km²。
二回目でも総面積36.71km²でした。
面積は現在の横浜市域の十分の一以下です。
横浜市は 明治・大正、昭和に入るまで小さな街だったのです。
大正時代という視点で考えると、横浜市は明治期に二回拡張を行い、昭和まで拡張されませんでした。この第二次市域拡張エリアが、初期横浜時代の市域でした。大正から昭和にかけて充実する「市電網」は
ほぼ第二次市域拡張エリアと重なっています。
■比較資料として「神戸市」の市域拡張も紹介しておきます
・明治22年4月1日 21.28(平方キロメートル)
※明治22年は全国で市制制度が施行され約40の市が誕生しました。
・明治29年4月1日 37.02
・大正9年4月1日 63.58
・昭和4年4月1日 83.06
・昭和16年7月1日 115.05
・昭和22年3月1日 390.50
・昭和25年4月1日 404.66
・昭和33年2月1日 529.58
(貿易特区)
最近「特区」が話題になっています。明治期に特区といった用語はありませんでしたが、横浜市は開港以来、国際貿易特区として重要な役割を担ってきました。帝都東京に近く小さくも交易港として日本一の取引を誇ります。
ところが横浜港は 港湾機能が国際的には<不評>でした。
港が北向きということもあり強い北風の影響がありました。
明治期に完成した<鉄桟橋>も20世紀に入り急速に発展した巨艦商船時代に対応できず、相変わらず沖に停泊、艀(はしけ)港内を走り回る状況で、新しい大型港湾施設が切望されていました。
実は明治維新以降の日本は国内最大の内戦<西南戦争><日清戦争><日露戦争>など、戦費負担のために国内インフラ整備が追いつかない経済状態にありました。
ようやく新しい港湾施設<新港埠頭>計画が明治後期(1899年)に持ち上がり大正初め(1917年)に完成します。
鉄桟橋(現大さん橋)の改良と、新しい港湾施設(新港埠頭)の完成によって横浜市は新しいステージを迎えます。
■新港埠頭の時代
大正期の横浜、特徴の一つが新しい国際港としての港湾施設の完成<新港埠頭の稼働>です。
この新港埠頭の稼働に伴い、鉄道も埠頭内まで開通。
日本全体も鉄道時代の幕開きとなり、物流革新が横浜港を後押しします。
新港埠頭と幹線を繋いだ鉄道の名残が現在の人気ルート「汽車道」です。
第891話【横浜の橋】珍しいA ・B 橋
かつて大岡川には川の十字路がありました。
大岡川下流域は吉田新田の干拓によって誕生した運河の町です。<灌漑水路>として中村川・派大岡川が生まれ堀川が作られ、明治に入って堀割川開削で磯子湾につながることで水運機能が高まります。
水田の吉田新田域が次第に宅地化・近代化していく過程で<灌漑水路>が<水運水路>として「吉田川」「新吉田川」「日ノ出川」「富士見川」が整備されていきます。
この時期に、横浜にとって重大な事業計画が進められます。野毛浦地先に鉄道が引かれる用地が埋め立てられることになりました。
ここに排水路を兼ねた「桜川」が誕生します。
大岡川に桜川と派大岡川が繋がり川の交差点が誕生します。
ここには「柳橋」と「錦橋」、大岡川には「都橋」「大江橋」が架かっていました。
※明治初期には「櫻橋」という木製の橋が短期間ですがありました。
このポイントは首都高速道路、JR根岸線、市営地下鉄、大岡川、幹線道路が集中し大工事が行われた場所でもあります。
「桜川」と「派大岡川」が無くなり大岡川だけになった時に、道路整備が行われ「桜川新道」ができ大岡川に「桜川橋」が架けられます。
この桜川橋は珍しい橋の一つだと思います。
構造的には普通の<上下線分離型>2連橋ですが上下で”橋名”が異なります。
普通は上下まとめて名称が付けられます。
近隣に架かる(っていた)「紅葉坂」「国際橋」も上下線分離型の2連橋です。さらには上下線、長さが極端に変わる「新山下橋」も上下線分離型の2連橋ですが名前は一つです。
「桜川橋」 上下線に区別がある別の名を持つ”大変珍しい橋”なんです。
上流から
「桜川A橋(さくらがわえーきょう)」
長さ41.8m
幅は16.8m
架橋年は昭和48年
「桜川B橋(さくらがわびーきょう)」
長さ38.7m
幅は16.8m
架橋年は昭和48年
普段、橋上を走っていると全く判りませんが、
川筋や袂から眺めるとしっかり「桜川B橋」のみ明記されています。
桜川物語も調査中ですのであらためて紹介します。
第890話【横濱の風景】西之橋からみる風景
ふと気がついた疑問をFacebookにアップしたネタですが、結構反応があり改めて確認してみると面白いのでブログアップします。
昔の絵葉書や地図を少しコレクションしていますが、
絵葉書とマップを比較することはほとんどありませんでした。
今回のテーマは
【中村川】横濱西ノ橋川岸雪ノ景
横濱の冬景色の絵葉書は少なく風情のあるいい風景です。
この絵葉書に関してこれまで
下記のキャプションを用意してきました。
「中村川と堀川そして埋め立てられた派大岡川が交わるあたりを西之橋から見た雪風景です。現在は石川町駅と首都高速が川の上にありこの風景の面影は殆どありません。今の西之橋は大正15年に再建された震災復興橋の一つで画像上流には、中村川に架かる亀之橋が見えます。昔の美しい景色が写る貴重な運河の風景です。」
ここで遠くに見える橋を中村川に架かる「亀之橋」とばかり思い込んでいました。根拠は「横浜絵葉書」関連書籍に同じ風景が収録されていて
説明文では「亀之橋」とあったので検証しなかったからです。
ところが実際「西ノ橋」袂に立ってみるとここから亀之橋を確認することはかなり厳しい角度にあります。
奥に見える高架は根岸線、その奥が 「石川町駅前歩道橋」です。
1960年代に首都高工事で「派大岡川」を埋め立てた際に少し中村川の川筋が変わった可能性もあるので、過去の地図を幾つか探し出してみることにしました。
見えないこともない?色々探してみると 発見したのがもう一つの橋でした。
「亀之橋」と「西之橋」の間にもう一つ橋が架かっている地図があったのです。
現在の根岸線の石川町駅前歩道橋あたりに架かっていたようです。
<ようです>というのは
この謎の橋が表記されていない地図もあったからです。戦前の地図、少なくとも橋に関しては、<謎の橋>が時折現れます。ここにもう一枚、陸軍測量部迅速図明治41年発行「横浜」を拡大しました。陸軍の迅速図の場合、要素が欠けている場合がありますが、余分な情報を付け加えることはありません。西ノ橋と亀之橋の間には橋が確認できます。
さて?
この橋の名は。地図上にも橋梁名が記されていません。
仮に<石川町橋>とでもしておきましょうか。
解明はこれからです。
さらにこの地図から新たなる疑問が。「堀川」ではなく「中村川」になっています。正式に堀川は何時から呼ばれるようになったのでしょうか。(2017.09追記)
また宿題が増えました。
【絵葉書の風景】中華街
この風景を手にした時、最初横浜中華街であるという確証が無かった。昔の横浜中華街を知っている方ならすぐにわかる風景も、初めての者にとっては不明となる。
よくある風景として長崎の風景とも考えられたが、拡大してみて、「山下町」等の文字を確認、横浜中華街の風景であることが確定した。
ただ、時代は戦前であること以外には確証が無い。
風景を読む
中華街大通りの風景。
左手には市会議員をつとめた沼田安蔵が経営していたという中華料理店の平安楼。右手手前のビルは「加賀ビル」でバー、ホルスタインビールの看板も見える。
奥には聘珍楼、左手には萬新楼の看板が確認できる。電信柱には「安楽園」の名も見えるが、この時代の面影は「安楽園」(明治36年創業、平成23年閉店)が最後だったかもしれない。
当時の一般的な看板として「仁丹」「森永牛乳」も確認することができた。
※「holsten beer」の看板
1879年5月24日創業のドイツビール銘柄。現在もある銘柄らしい。
【横浜の風景】元町百段坂を数えてみた!part2
関東大震災まで元町に「百段坂」がありました。
以前このブログで、
「百段坂」は俗称で実は?101段である。
実際元町百段坂を数えてみました
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9211
結果
やはり101段だろう という結論におぼろげながら達しました。
まあ「101段坂」よりはすっぱり「百段坂」が良いでしょうね。
今回
画像に不明な点もあったので新しい画像を元に
再度「百段カウント」に挑戦してみました。
元になった写真
これを拡大し階段を一つ一つ確認していくと
出てきた不明点があります。
(第一の不明点)
最初の一段はどこだ?
階段の始まり、小学生とおぼしき少年と愛犬らしき動物の後に段差があるように思えます。スロープににも見えますが、段にも。
ここは0段、グランドフロアみたいなものか?
以前Part1に使用した写真の0段付近を拡大してみることに。
段差があるようなないような。あるといえばある。
ただ、
Part1は明治初期(電信柱も電力柱も無い頃)と思われるので、階段下は整備されてまもなくのころで<登る人>も少なかったのではないか。
Part2の写真では30個の碍子「電信柱」が写っていますので明治中期以降だろうろ推理できます。
(第二の不明点)
ちょうど90段目あたりの段差が確認しにくいのですが、高くなればなるほど段差は狭く見えるはずなので91段目をカウントしました。
【結論】
結論はやはり101段が正解のようです。
なんだ! ということですが、百段坂の時代変化も少し確認できたので<良し>としておきます。
第887話【大桟橋の風景】旅立ちの日
空港は<そらのみなと>、
人類の歴史は<水の港>から始まりこの歴史の方が圧倒的に長いが、次第に<水の港>は遠くなっていく。
今でも船出には
今生の別れとなってしまうかもしれないという思いが漂うのは何故だろう。
だから見送りにも特別な感情が流れるのかもしれない。
そういえば最近
<旅立ちの見送り>が激減した。
小学生のころ、横浜大桟橋から親戚を見送った記憶が焼き付いている。カルフォルニアの仏教寺院に<僧侶>として骨を埋めることになり、移民としてアメリカに向かう家族を親戚と見送ることになった。私はことの重大性には気づいていなかったが、母が泣く姿を覚えている。
この時、船側から知り合いを見つけてはテープを投げる見送りの儀式が始まる。桟橋では風に流されながらも飛んでくるテープの片端を追い求め、つかの間のつながりと別れを味わう。
今でも
テープがプツンと切れ、切れ端がフワッと浮き上がっていく感触が残っている。
<絵葉書に見る大桟橋>
ここに大正期を中心に船出風景の絵葉書を紹介する。
戦前、横浜港が果たした役割は大きかった。首都圏、さらには東日本の国際港として外国との窓口となっていたからだ。
横浜港からは<移民>も多く旅立った。
留学、赴任、視察、商談、遊学 他
戦前の日本を支えたキーパーソンは横浜港に一度は立っていた!といっても過言ではない。
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第886話【横浜の記念式典】復興記念横浜大博覧会
■復興記念横浜大博覧会
◎開催期間:
1935年(昭和10年)3月26日から5月24日
◎開催会場:
山下公園を含む山下町一帯(約10万平方メートル)
◎開催内容:
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。(乃村工芸)」
◎来場者数:
のべ3,299,000人
二ヶ月で約330万人が入場という記録がありますが、「山下公園一帯」に60日、一日あたり5万人以上の入場者があったということです。あくまで平均です。
新聞記事を探って、一日の入場者の動きを追いかけてみました。
3月26日(水)から5月24日(金)という曜日は土日を加味していませんね。
3月26日(水)から3月31日(日)62,340人
4月7日(日) 一日入場者65,000人
4月14日(日) 一日入場者75,043人
4月21日(日) 一日入場者78,000人
〜4月23日(火) 累計75万人を突破
〜4月29日(月) 昭和天皇誕生日(天長節)に累計100万人達成
5月1日(水) 一日入場者118,500人
5月2日(木) 一日入場者3万余人
5月5日(日) 一日入場者20万人突破
累計1,423,527人に。
5月7日(火) 午後一時延べ入場者150万人達成
5月19日(水) 一日入場者30万人
累計2,279,377人
最終結果
5月24日(金)
累計3,299,000人となっています。
実に残り5日間で100万人が入場ということですから、驚きです。
横濱市も予想を超える入場者に驚きを隠せない様子が報道資料からも読み取れます。
◎関連ブログ
第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
(復興記念)
一概に比較できませんが、1923年(大正12年)に起こった関東大震災から12年後にこの「復興記念横浜大博覧会」が行われました。
<震災復復興宣言>は震災後7年目に行われます。
亡くなられた方に対し七回忌のタイミングに合わせたのか判りませんが、
内務省と東京府、東京市は1930年(昭和5年)3月に終結宣言し、横浜市は復興記念の日を4月23日と宣言し「復興記念祭」を開催することになります。
この時、昭和天皇からは
「お祭り騒ぎにならぬやう」と釘を刺されたそうです。
横濱では市役所、公立学校を休みとし、横浜公園他で式典が行われました。
東北の<復興宣言>は何時になるのでしょうか。
■まだまだ読み込んでいない興味ある資料があります。
横浜で開催された戦前最大級の<博覧会>ここで実施された<関連事業><関連イベント>を通して、四年後にこの国が開戦に至る歴史の<隘路>の断片が見えてくるように思います。
このテーマさらに追いかけます。