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第984話【一枚の絵葉書から】珈琲牛乳

企業年賀はがき「横浜駅待合室ミルクスタンド」

これは昭和5年の年賀ハガキです。
横浜市中区紅葉ケ丘三号
学務部長殿
とあります。
ここに記された宛名の「学務部長」は
神奈川県学務部長 九鬼三郎と推測しましたが、確証ありません。
 戦前の学務部長は公立学校の事務方トップで、学校運営に関して県内の最高責任者として多くの管理監督を行っていたようです。
差出人が
横浜駅待合室 ミルクスタンドとなっています。
「迅速 安価な 御食事
 奉仕的な 栄養御飲物」
昭和初期の横浜駅待合室となれば、現在より重要施設で 学校関係者が利用することも多かったのかもしれません。
絵柄面から意外な情報がわかりましたので紹介しておきます。

三代目横浜駅東口

小唄 ハート節
萎縮 悲観を跳ねとばし
笑和 五歳の
春の駒 春の駒
オヤ 守山の
馬い うまゐゾ
ハート型
赤い戀路の ハート型
ハートだ ハートだ ハートだネ

日本一を目指すために富士山の絵柄をバックに 乳製品・飴類が並んでいます。
コンブ飴・ゴルフ(チョコか?)・守山キャラメル・珈琲牛乳・グリコ牛乳・アポロ・ Cherries MILK・Cherries CREAM(エバポレート ミルク=練乳)

平塚本社

ここに商品が並ぶメーカーは「守山」は現在もしっかり乳製品を製造販売している守山乳業株式会社でした。
本社は平塚市宮の前9‐32
沿革を戦前期だけ一覧化してみました。
1918年(大正7年)1月9日創立
 神奈川県中郡高部屋村日向にて「甲子(きのえね)商会製酪所」を創業 創業者 守山謙
1920年(大正9年)
 神奈川県平塚市に工場を新設(現本社、平塚工場地)
1923年(大正12年)4月20日
 日本で初めてのビン入り珈琲牛乳を東海道線国府津駅
 駅弁販売店・東華軒にて販売開始

この珈琲牛乳販売を開始した日を記念して、現在4月20日は「珈琲牛乳の日」となっています。
「創業者の守山謙が東京の商店にバターを納品しに出かけた際、住田商会・初代社長の住田多次郎さんが偶然同じ商店にコーヒーを売り込みに来ていました。住田社長はハワイへ移民しており、ハワイのコーヒー豆を東京の商社へ売り込みをしている最中でした。明治時代からコーヒーは飲まれていましたが、一般的にはあまりなじみのないもので、日本にコーヒーを広めようとする男と、乳製品を広めようとする男の運命的な出会いでした。
 住田社長は、ハワイではコーヒーにクリームを入れて飲むこともあると守山に教え、コーヒーを日本で広める方法を考えてほしいと、コーヒー豆を守山へ託しました。
 守山は早速家に持ち帰り、コーヒーにクリームの代わりに牛乳を混ぜてみました。コーヒーと牛乳が半々の割合になったとき、コーヒーの苦みと牛乳の甘さが程よくマッチし、いままでに飲んだことのないようなおいしい飲料が出来上がりました。さらに奥さんのアドバイスで砂糖を入れるとおいしさは増し、守山はコーヒー牛乳の商品化を計画することを決めました。」

(駅弁東華軒)
駅弁は駅単位に販売権が決まっていましたが現在はどうでしょうか。
東海道神奈川県内でいえば、
川崎駅・横浜駅・戸塚駅→崎陽軒
大船駅・藤沢駅・辻堂駅・茅ヶ崎駅・平塚駅→大船軒
大磯駅(昔)・二宮駅(なし)・国府津駅(外)・鴨宮駅(なし)・小田原駅〜熱海駅→東華軒
東華軒は1888年(明治21年)創業の東海道駅弁会社の中でも老舗中の老舗です。
本社は小田原ですが、駅弁の始まりは国府津駅でした。

少し横浜からは離れましたが 駅売りから発展したブランドの紹介でした。
本日は これまで。

第982話+【帷子川の橋】その2

更新準備中です。現在下書き段階ですが、とりあえずアップです。

<中流から下流域 橋梁名のみで失礼>
※源流から河口域まで踏破しました。写真は略します。
鶴ケ峰駅周辺は目下激変エリアです。相鉄線がなんと!
 東急に繋がります。
 戦争直後、横浜駅で東急とつながっていたら、相鉄も大きく変わっていたでしょうね。
 いち早く東急桜木町駅は撤廃して、県央に東急連結とは なりませんでしたが
今回、相鉄がJRの貨物線ルートの一部を使って東急線に入ります。
綱島でも大規模な再開発工事が始まっています。

昭和初期の鶴ケ峰、中央にポツンと鶴ケ峰駅が、東西には水道道。


鶴ケ峰は帷子川大改修が行われました。大きく曲がっていた川の流れをトンネルでショートカット。横浜市内では最も<大胆な>河川工事が行われました。
[本流]鶴峰橋~水道橋~(鶴ヶ峰橋)~鶴舞橋~白根橋~中根橋~用賀下橋~嶋越橋~<中堀川合流>〜愛宕橋~ふれあい橋~下中田橋~中田橋~上逆田橋~逆田橋~
<くぬぎ台川合流>〜耕地橋~学校橋
※帷子川には「学校橋」が2つあります。おなじ川に同名の橋が架かっているのは珍しい。
<菅田川合流>〜鷲山橋~新橋~かるがも橋(相鉄線下)(東海道新幹線下)~(川島高架橋)~
<新井川合流>〜川島橋~稲荷橋~両郡人道橋〜両郡橋~光栄橋~宮崎人道橋〜宮崎橋~(宮崎跨線橋)和田跨線人道橋~和田橋(環状2号)(橋銘板ナシ)~平和橋~星和橋~川田橋~(すみれウォーク)〜宮川橋~宮川人道橋〜星川橋~星川橋人道橋〜星川下橋~柳橋人道橋(上下)〜柳橋~常盤橋(横浜新道下)(水道道)~愛染橋~古町橋~帷子橋~天王橋~
<今井川合流>
上流は省略します。
かつてはここから下流は深い入海で海岸線でした。
[本流]水道橋~尾張屋橋~<石崎川分流>
[新田間川分流]烏帽子田橋~藤江橋〜藤江人道橋〜霜下橋〜霜下人道橋〜浅岡橋〜岡野橋〜新田間橋〜一之橋人道橋〜一之橋〜<幸川>内海橋〜内海人道橋〜幸川橋〜南幸橋〜幸橋〜<本流へ>
沼野橋(環状1号)(八王子街道)(新田間川上)~平岡橋~(平沼一之橋)~元平沼橋~平沼橋~<幸川合流>〜万里橋~築地橋~はまみらいウォーク~みなとみらい大橋
[新田間川分流]<帷子川分水路合流>〜二ノ橋〜北幸橋〜西鶴屋橋〜鶴屋橋〜(JR・京急)〜月見橋〜金港橋〜人道橋〜<本流へ>

第982話【帷子川の橋】

前回に続き帷子川について紹介します。

帷子川源流から鶴ケ峰まで

帷子川橋梁を源流域から一覧化してみました。
これ結構大変でした。地図ではつかめない情報もあり現地調査は欠かせませんでした。
帷子川は長さ17kmの短い二級河川です。横浜市域では大岡川と同様に源流を横浜市内に持っています。
[源流]帷子川の源流は何処か?
そもそも<源流>とは?
本流の最上流の部分を<headwaters>源流としますが、都市化された近郊河川では定義が難しいようです。
河川には多くの支流があり、小さな支流が集まって本流へと合流を繰り返しながら、河口へと向かっていきます。本流は河川の長さや流量が大のほうを指すそうですが、源流域の造成等によって本流の判断がしにくいからです。
帷子川の場合、
「横浜市内西部旭区上川井地先、若葉台あたりの丘陵地に水源を発している」となっていました。

源流から上川井橋まで
帷子川源流
源流らしきもの

源流〜(上川井親水遊歩道)〜<暗渠化>〜①会館橋〜②大貫橋〜<堀谷戸川と合流>
帷子川は<源流>に近い場所に「源流」ゾーンを人工的に作っています。周囲にはより高い丘陵地がありもっと奥に源流があると思われますが、<見切って>源流としたのでしょう。
源流から親水公園が作られ、川の流れを確認できますが、途中から暗渠化します。
川は小河川が合流し水量を増していきます。帷子川上流域で源流に近い(河川名のある)最初に小河川が「堀谷戸川」です。堀谷戸川は現在の程ヶ谷カントリー周辺に源流がありますが、ここでは省略しました。
[堀谷戸川]源流〜(程ヶ谷カントリー)〜中井橋〜<合流>

源流近くには「若葉台」の住宅街が立ち並んでいます

堀谷戸川と本流が合流するあたりは独特の地勢です。
[本流]<堀谷戸川合流>~③日向根橋~④学校橋(改修中)~<小河川合流>〜⑤上川井橋(国道16号)

途中から暗渠化
①会館橋(上川井町内会館)
②大貫橋
水位を判断するスケール

~⑥徒橋(野境道路)〜⑦明神橋(人道橋)~⑧五反田橋(人道橋)~⑨国道五反田橋a)〜⑩大栗橋~⑪(国道)川井橋~⑫三家橋~
⑬吹上橋(新設※)~国道下川井橋a)~⑭下川井橋(新設※)~(私設橋)〜⑮御殿橋(中原街道)~
a)国道と市道は同橋名が架かっています
※河川改修後新設

⑯都岡橋〜<合流>〜
[矢指川]清池橋〜旭高橋〜下矢橋〜桜橋〜(矢指橋)<合流>〜b宮下橋〜c新開橋〜d耕地橋〜
[本流]⑰今宿南橋~<合流>〜⑱日影橋~⑲団地橋~⑳用地橋~㉑今宿新橋~㉒清来寺橋~㉓(高山人道橋)〜㉔高山橋~㉕今宿東橋〜㉖越巻橋~㉗公園橋~㉘今川人道橋~㉙今川親水橋~㉚今川橋~(二俣川合流)(鶴ケ峰)

元帷子川整備中
これが昔の曲がりくねった帷子川
新しく直線化した帷子川に新しく架橋した⑬吹上橋を望む
明神橋付近




第977話【横浜の道】国道16号線

国道16号は現在、起点:西区桜木町〜終点:西区桜木町という珍しい道路です。
歴史は新しく1963年(昭和38年)4月1日に幾つかの路線が統一されて16号となりました。
横浜界隈的に起点から16号を辿ります。
ルート16は
帷子川支流「石崎川」近く、元「桜川」のあった場所を起点に初めて鉄道が始まった初代横浜駅・新橋間の鉄道路線に沿って大江橋へ続きます。

二代目横浜駅。ちょうど市電のあたりが16号線起点
現在の桜木町付近
16号線起点・終点付近
初代横浜駅、現桜木町駅。興産館(現ぴおシティ)あたりの16号線。

<大江橋> 横浜市内では珍しい人名の橋です。(大江卓)
関内大通と交わる尾上町の交差点を右折、羽衣橋を渡ると旧吉田新田の背骨、中央部を吉野町まで。このルートは関東大震災まで狭い道でしたが、吉田川沿いを通っていた市電のルート変更を行い、広い道路として新規整備されました。
吉野町の交差点を左に。
中村川の「睦橋」を越え、堀割川に沿って磯子方面に。

尾上町交差点付近で16号線は大きく曲がります。

<八幡橋>際を右折し横須賀方面に曲がります。
ここから16号線は旧海岸線でした。
磯子駅を通過し、新杉田駅を過ぎると内陸部に入り込み、富岡からほぼ京浜急行線と並行して金沢文庫まで走ります。泥亀あたりで少し京急と分かれ、また金沢八景で並走します。京急と国道16号線は馬堀海岸までほぼ並走しています。
その後16号線は国道の中でも数少ない海の国道を経て、房総半島に上陸し千葉県を縦断、埼玉県、東京都下八王子からかつて絹の街道として盛んな往来があった八王子街道となった横浜市旭区に入ります。保土ヶ谷バイパスと旧道に分かれ、旧道はほぼ「帷子川」の沿って横浜中心部に入り、終点に向かいます。

(歴史)
横浜に海軍鎮守府(東海鎮守府)が1876年(明治9年)に短期間ですが設置されます。
1884年(明治17年) 12月15日、東海鎮守府は横須賀に移転「横須賀鎮守府」となります。この時から横浜と横須賀との道路整備が行われ、1887年(明治20年)に鎮守府に至る国道として「国道45号線」となりました。

戦後の
1952年(昭和27年)12月4日に施行された新道路法に基づく路線指定でこの区間が「一級国道16号」に指定されます。これが国道16号のはじまりです。
その後、延長を重ね、他の国道を取りまとめ環状線となって現在にいたります。

旭区から終点に至る16号線は、江戸時代から八王子街道として開け、保土ケ谷区と西区の区境(洪福寺松原商店街はずれ)に東海道と八王子街道(旧道)の<追分>があります。この主要街道は神奈川往還とも呼ばれ、保土ケ谷宿への重要街道でした。幕末からは繊維(絹)街道として遠くは山梨商人の道として賑わいました。

第973話 【駅から路上観察】京急神奈川駅から白楽まで。

今回の狙いは、私が世話人をしている「横浜路上観察学会」の例会レポートをアップします。基本参加時のリアリティを大切にしているのであまりレポート系はしないようにしていますが、街を紹介する良い情報源でもありますので
いくつか紹介していくことにしました。
□2018年10月に開催しました京急神奈川駅から白楽ルートから

今回のルート図

谷戸にひだ状に広がる横浜の典型的な稜線越えを楽しみます。横浜の地形は、俯瞰してみると鶴見エリアを除き、多くが襞のような凸凹の連続、小河川が葉脈のようになっているのが判ります。この葉脈の一つの<稜線>を歩きました。

横浜の水系

出発駅は京急「神奈川駅」です。
神奈川駅は、京急全駅中、最も乗降客数の少ない駅で2017年統計では一日あたりの乗降客数が4,637人、お隣「横浜駅」が堂々の第一位で323,668人規模ですので
神奈川駅は70分の一の規模です。距離も近くすぐに<廃止・合理化>対象駅ですが、それでも駅を統廃合しないのは、この駅が京急にとっても、東海道の歴史を語る上でも重要な<鉄道遺産>だからでしょう。

その証として神奈川駅の外観はなかなかの風情です。
早速
神奈川駅前で路上観察的不思議発見???
沿線上 最下位の乗降客数にもかかわらず、しかも時代が電話ボクス廃止傾向の中、駅前には公衆電話ボックスがなんとWで設置。共に現役です。

さあ、ここから丘陵を越えてみましょう。
“小河川”は丘陵地から小さなわき水などが集まり少しずつ水量を増やしながら川に成長していきます。都市化された小河川はかつての<林>を失い、宅地化されることで水量を一気に減らします。横浜のように水源地から河口までが短い河川は、雨が降ると暴れるきまぐれ河川が集中しています。
小暗渠も集中しているので 観察場所としては魅力たっぷりです。
「神奈川駅」から東海道本線を越える「青木橋」を渡ります。
そこには、幕末にアメリカ領事館があった青木山「本覚寺」があります。この青木山一帯は高台を表す”台町”と呼ばれ、かつては神奈川湊を見下ろす景勝地として高島嘉右衛門の邸宅があったことでも有名です。
この丘の下をトンネルで東京急行電鉄「東横線」が走っていましたが、地下化にともない使われなくなった<トンネル>を活かした「フラワー緑道」として遊歩道になっています。
ここでは音の響きが心地よいです。

フラワー緑道

(滝の川)
神奈川区には「滝の川」という準用河川があります。現在は東海道線の橋脚より下流部分しか見えませんが、かつてはこの地域の重要な産業河川でした。河口域は中世から重要港であった「神奈川湊」となり、水運は勿論、大きな漁業拠点でした。江戸時代は「滝の川」河口東海道の「神奈川宿」であり、幕末期には開港を求められた湊です。
地形図を眺めると一目瞭然ですが、
今回のコース
栗田谷・旭ケ丘・二本榎・斎藤分・中丸・六角橋エリアは、大きく二つに別れた「滝の川」の分水嶺であることが判ります。
仮に北滝の川(六角橋方向)と南滝の川(三ツ沢方向)と分けておきます。
この二つの流れは、東神奈川スケートリンクあたりで合流します。ここにはかつて「境橋」が架かっていました。橋の名残が残されています。

二つの滝の川が合流する境橋
境橋から上流が暗渠化。右が六角橋方向、左は三ツ沢方向へ

南滝の川<暗渠>道路です。川の雰囲気が残されています。
ここから丘陵を登っていきます。
横浜市立栗田谷中学校が右手上に見えてきます。
壁際に穴を埋めた痕跡が。レンガや大理石も混じっています。震災時の瓦礫を埋めたのでしょうか?
栗田谷中学校は1949年(昭和24年)にこの場所に移転したようです。

希望橋橋脚

(希望橋 橋脚)
栗田谷中学校は 道路を挟んで校庭があったので生徒たちの安全を考えて谷間部分に橋を架けました。希望橋と呼ばれ、つい最近までありましたが、耐震構造上の理由からか、廃止され、橋脚のみ残っています。
路上考古学的にはとても興味ある残骸です。
(通信用鋼管柱)
電柱と聞くと一般的にコンクリート製のものが思い浮かびますが、地域によっては金属製の電柱もよく見かけるようになりました。道路が狭かったり、傾斜地には最近良く使われるようになっています。電柱を<路上観察>するだけでも色々発見があります。
ほとんど無くなったクラシックタイプの<木製電柱>も探しどころです。

金属製の軽量電柱

(昭和の香り)
路地裏を歩いていると、昭和に出会います。戦後横浜が急膨張した時期に、住宅街や商店街が数多く完成しました。この急膨張時代の名残が、路地裏に残っています。
神奈川区は戦前戦後を通して住宅街として成長してきた街なので、一軒一軒の住宅の佇まいを観察するだけでも、戦後個人住宅史を垣間見ることができます。
(ノラ)
野良猫の生態も地域特性を表しています。賛成反対いろいろあるでしょうが、この地域ではノラがのんびり過ごしていて、ビクついていません。地域に馴染んでいる証拠です。

(善龍寺)
宿遠山善龍寺、この地域に古くからある浄土真宗のお寺。元々は真言宗でしたが、建長5年(1253年)に浄土真宗寺院として中興されました。
新編武蔵風土記稿では
「斉藤分にあり。浄土真宗西本願寺の末寺なり。宿遠山と号す。開山のこと詳ならず。古は真言宗なりと云。本堂七間に六間半、巽向なり、本尊阿弥陀を安ず。木の立像にして長二尺五寸なり。
鐘楼、門を入て右にあり。鐘に正徳年中の銘文あり。」
この浄土真宗寺院として再興した人物が<斎藤兼実>という人物で、この斎藤さんの<知行地>を 斎藤さんの”分”ですという地名が現在でも残っているという説があり、もう一方で斎藤式部入道なる武士がこの地を治めたところから斎藤分となった!

というなかなかの時代(中世)を実感できる場所です。(それぞれ根拠不詳)
この善龍寺には「五代目一龍斎貞丈」の墓碑があります。講談と横浜の関係を知る上でも重要な人物です。
(神奈川大学付近)
少し歩くと、神奈川大学キャンパスが見えてきます。ここは隠れ通学路(東神奈川駅)らしく学生が多く歩いています。
神奈川大学と付近に関しては 色々面白いネタがあり、別テーマで紹介したいところです。
ちょっと飛ばして、
一山越えて、
「北滝の川」に出ます。ここからは細いけれども実に暗渠らしい遊歩道が、六角橋商店街の裏まで続きます。途中、暗渠ならではの階段、マンホール、壁があるので、路上観察的には発見の多い場所です。
さて、終着点六角橋に到着しました。
ここまでの行程で約4キロくらいでした。

六角橋周辺は路上観察の宝庫。路上博物館ともいえる空間です。
変な発見がたくさんあります。
スタート時のツイン公衆電話が なんと!ゴールの六角橋にも。
ここではボックスではなく、据置型でした。まだまだ需要があるんですね。

路上観察を始めると
普段は見逃しているものが<見えてくる>
路上が気になって気になって仕方なくなります。
くれぐれも事故のないように!
今回はこれでおしまい。

第969話 【市電ニュースの風景】1931年 №39・40

№39 1931年(昭和6年)9月26日(土)から9月27日(日)
№40 1931年(昭和6年)10月3日(土)から8日(木)
1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を
何回かに分けて読み解いている。
※「市電ニュース」は、車内吊り広報紙で、市内で開催される講演会、音楽会、展覧会、祭り、野球などの情報や、市政情報を乗客に伝えるメディアサービスとして掲載した。
№39は
 1931年(昭和6年)9月26日(土)から9月27日(日)まで
№40は
 1931年(昭和6年)10月3日(土)から8日(木)まで 【市電ニュースキーワード】
№39
■磯子 市電埋立地(磯子 濱)
磯子区役所は戦前、禅馬川河口近くにあり磯子の中心地で、<浜>周辺が繁華街でした。新しい埋立地には海水浴場もでき、行楽地としても多くの人が訪れました。 ■暹羅國皇帝陛下・皇后陛下
汽船「ヱム・カナダ」号にて来日
この国名、わかりますか?現在のタイ国です。タイ国が暹羅國と表記された所以は略します。ここでは 疑問点を一つ提示しておきます。
 通過予定 生糸検車所前午前十時二分・阪東橋前午前十時七分
※分単位でかなり細かく設定しています。
 生糸検査所(馬車道交差点)から阪東橋まで五分とはかなりの移動速度です。
単純に距離計算しても、約2km。時速24km.当然ノンストップです。走り抜けるという感じですね。
どこを目指したのでしょうか? ■私立(旧制)本牧中学校
 本牧町に私立の中学校があった?
 確かに戦前の地図上では「本牧中学校」があった。
 資料でも発見。

1923年(大正12年)4月に天徳寺で開校し
戦時中の空襲で消失、一時期北方国民学校を借りていましたが
1947年(昭和22年)6月
 本牧中学校廃校により全校生徒479名は
 現在金沢区にある横浜高等学校・中学校に転入学が許可されました。
 この時代の記憶としては
 野球殿堂入りしたハワイ移民の家庭でハワイ生まれの若林 忠志が一時期籍を置き、その後大学プロ野球で活躍した選手です。
苅田久徳(元読売ジャイアンツ)劉瀬章(元南海)も本牧中学校出身らしい?(正確な資料不足)追って調べます。
 このように「本牧中学校」は戦前、野球の名選手を輩出していた運動の盛んな学校でしたが、文系でも活動が盛んで、「神中」を競うほどの「文芸活動」が行われていました。 ■元町弓道場
1931年(昭和6年)に五人立ちの道場として建てられ、当時としてはかなり立派な道場だったそうです。増改築され現在も現役で使われています。 (懸賞標語)
吊革を目標に腰を順にかけ(矢部政一君) №40
■満蒙問題講演会
 和田亀治 元第1師団帳陸軍中将
 (わだ かめじ)大分県出身、陸軍士官学校(6期)陸軍大学校(15期)
 日露戦争に第1師団参謀として出征。
 1928年(昭和3年)8月29日、予備役へ。帝国在郷軍人会副会長。
市電ニュース№36では
磯子・立野・豊岡を巡回講演会
№40では
平沼・戸部・程ヶ谷・子安・本牧・三吉の各小学校で実施。
1931年(昭和6年)の満州事変状況は 市電ニュース№36では
9月9日に
磯子・立野・豊岡を巡回し講演会が実施されています。
9月18日に
満州事変が起こった。
№40では一気に講演会場が拡大され
10月4日から10日までの一週間、
平沼・戸部・程ヶ谷・子安・本牧・三吉の各小学校で実施され時代の急変を感じることができます。 ■桜木町横浜興産館
下記ブログで詳しく紹介しています。
第694話【一枚の横浜絵葉書】「桜木町横浜市授産所ノ偉観」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6063 ■横浜専門学校
現在の神奈川大学です。
詳細は別途 資料整理中です。
創設は
1928年(昭和3年)
 米田吉盛、桜木町に「横浜学院」創設。
1929年(昭和4年)
 専門学校令により「横浜専門学校」設立が認可。
1949年(昭和24年)
 学制改革により「神奈川大学」設置 ■桟橋 B発
横浜港大桟橋B埠頭のことです。
■航空ページェント
磯子線「濱」バス停磯子区役所前
女流飛行士 木部しげの(シゲノ)・宮森美代子 出場
このイベントは<すごい!>でもこの予告が実施されたのか?
中止になった可能性が高いようです。確認中。 木部しげの(シゲノ)は
NHKの連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のモデルのひとりで「男装の令嬢」と呼ばれ大人気となった女性パイロットの草分け。
彼女は横浜と縁がある。パイロットの訓練は橘樹郡潮田町(現・横浜市鶴見区)にあった第一航空学校に入学し
1924年(大正13年)第一航空学校を卒業
1925年(大正14年)三等飛行機操縦士免状を取得
 その後 各地で飛行演技や講演会を行う。 宮森美代子は
会津出身の女性で、日本初の女性パラシューター
1931年(昭和6年)3月7日
津田沼海岸の伊藤飛行場で、女性として日本初の落下傘降下をした。
当時19歳。靴メーカーのイラストポスターにもなり、写真も中々の美しい方。
http://www.webmodelers.com/201706katoucolumn.html <欄外>
神中鉄道会社沿線の
・芋掘会(大和駅付近)
・栗拾・茸狩(鶴ヶ峰駅付近)
市電「水道道」にて乗換
No.233 8月20日 (月)相鉄線ミニ物語
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=374
神中鉄道は目下資料整理中です。
改めて紹介します。 1931年(昭和6年)10月25日
西横浜駅・平沼橋間開通。 (懸賞標語)
お客は好意 車掌は誠意(磯見利子君)

第967話 【市電ニュースの風景】1931年 №37・38

№37    1931年(昭和6年)9月13日(日)から9月18日(金)
№38    1931年(昭和6年)9月18日(金)から24日(木)
1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を何回かに分けて読み解いている。
※「市電ニュース」は、車内吊り広報紙で、市内で開催される講演会、音楽会、展覧会、祭り、野球などの情報や、市政情報を乗客に伝えるメディアサービスとして掲載した。
№37は
 1931年(昭和6年)9月13日(日)から9月18日(金)まで
№38は
 1931年(昭和6年)9月18日(金)から24日(木)まで
【市電ニュースキーワード】
№37
■元町横濱プール
前回紹介
■山王町日枝神社(お三の宮)大祭
第968話【絵葉書の風景】お三の宮
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11786
「関外総鎮守お三の宮日枝神社」
http://www.osannomiya-hie.or.jp ■全国特産品國際市演芸開始
=芝居、茶番、洋楽、舞踊
※茶番=こっけいな即興寸劇。
江戸歌舞伎の楽屋内で発生し、18世紀中ごろ一般に広まった。口上茶番と立ち茶番とがある。茶番狂言。
■四号岸壁へ
明治後期から大正にかけて建設・整備されてきた「新港埠頭」には12号まで岸壁が設置されていた。その中でも外海に最も近く接岸しやすかったのか、四号岸壁が客船用に多く利用された。
終戦後米軍が占領のため兵士が続々と上陸した岸壁も四号だった。
■神奈川県文化展覧会・物産陳列会
=東京三越本店四階にて=
現在も東京で地方PRブース、物産展が開催されるが戦前も県物産展が開催された。
何が展示されたのか、知りたい! №38
■暁鳥 敏(あけがらす はや)
1877年〈明治10年〉7月12日〜1954年〈昭和29年〉8月27日
真宗大谷派の僧侶、宗教家
http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kankoubunkabu/bunkasinkou/senzin/akegarasu.html
■横浜公園
横浜公園は、開港してまもなく遊郭ができた空間(港崎遊郭)が慶応の大火で消失し遊郭は移動。その跡地はしばらく放置、居留地の外国人から生活環境改善要求があり、土木技師リチャード・ブラントン設計による海岸から日本大通・横浜公園一帯が整備された。本質的な狙いは<防火帯>だったが、本格的な近代公園として、現在まで残る貴重な公共空間である。横浜公園は開園当時、我も彼もという意味で「彼我公園」と呼ばれた。園内には外人居留地運動場、噴水、回遊歩道などが整備された。
1931年(昭和6年)当時は※音楽堂 ※球場があり多くの人々に利用された。
No.78 3月18日 横浜公園に野球場完成

第956話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第一話
■■関連ブログ
第966話 【市電ニュースの風景】1931年 №35・36
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11764 第920話【市電ニュース】市電域と市電ニュース
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10847 【市電ニュースの風景】第一号その1
1930年(昭和5年)12月25日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7276 【市電ニュースの風景】1931年 №21
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7482

第966話 【市電ニュースの風景】1931年 №35・36

市電ニュース35
市電ニュース36

1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を
何回かに分けて読み解いている。
※「市電ニュース」は、車内吊り広報紙で、市内で開催される講演会、音楽会、展覧会、祭り、野球などの情報や、市政情報を乗客に伝えるメディアサービスとして掲載した。
№35は
 1931年8月29日(土)から9月4日(金)まで
№36は
 1931年9月4日(金)から10日(木)まで
【市電ニュースキーワード】
■元町横濱プール
元町横濱プールは1930年(昭和5年)5月20日に完成、6月1日(日)に開場式が行われた。夜間施設を持っていたので開場の翌月(7月)には日本初の夜間水上競技会が開催された。現在は「元町公園プール」と呼ばれている。
水源は井戸水を使っていたためにかなり冷たく真夏でも凍る!プールで有名だったが現在は<水道>で温かい?!。
戦後1946年(昭和21年)3月1日に米軍に接収され「オリンピックプール」とネーミングされ1952年(昭和27年)に解除、返還された。

戦前の元町プール

■9月1日は震災八周年記念日 久保山で慰霊祭
 記念日はめでたいものに対するものだと思っていたが、記念とは忘れないぞ!ということなので震災を忘れないぞ!ということだろう。

■日本郵船 日枝丸出航
 新港埠頭 四号岸壁 シャトルへ(特別シャトル便のことか)

■4日 朝鮮音楽と舞踊の会
 第二隣保館

■横濱洋画展覧会 横濱興産館
第694話【一枚の横浜絵葉書】「桜木町横浜市授産所ノ偉観」

■満蒙問題講演会
 和田亀治 元第1師団帳陸軍中将
 (わだ かめじ)大分県出身、陸軍士官学校(6期)陸軍大学校(15期)
 日露戦争に第1師団参謀として出征。
 1928年(昭和3年)8月29日、予備役へ。帝国在郷軍人会副会長。

■日本郵船 秩父丸
 大桟橋C発 桑港へ
 秩父丸は1939年(昭和14年)1月に鎌倉丸と改名。

詳しい本文は画像で確認お願いします。
★同時期の出来事
8月29日(土)
 濱口雄幸 前首相告別遥拝式 民政党県本部で執行
 ※1931年(昭和6年)8月26日 東京駅で銃撃され、それが遠因で死亡。
 横浜市、市内9箇所でルンペン※調査実施。
(総数224人。内女性4人、子供3人)
  ※浮浪者。また比喩的に、失業者。本来《ぼろ切れの意》
9月2日(水)
 <朝鮮古代音楽と舞踏の会>横浜公園音楽堂で開催。
 ※市電ニュースで告知の「朝鮮音楽と舞踊の会」第二隣保館
  と同じものか? 会場変更になったのか 別のものか不明
9月4日(金)
 銀座のカフェ・バー<クロネコ>が女給150人を引き連れ伊勢佐木町に進出
9月5日(土)
 第1回女子中等学校水上競技大会開催。
9月6日(日)
 戸塚町矢沢に野球場が新設された。
9月7日(月)
 空の英雄、リンドバーク夫妻来浜。市民の熱狂的歓迎を受ける。
 夫妻は数日間、東京で過ごす間、日本政府機関との打ち合せの合間をぬって、リンディ夫妻は横浜市民の好意に感謝の意を伝えるために訪れた。

No.251 9月7日(金)リンディ夫妻の喜び
 

■■関連ブログ
第920話【市電ニュース】市電域と市電ニュース

【市電ニュースの風景】第一号その1
1930年(昭和5年)12月25日

【市電ニュースの風景】1931年 №21

1931年(昭和6年)5月21日から27日まで

第964話 醤油、塩 横浜雑景

今回から少しエッセイ風 書きなぐりを始めてみることにした。

地産地消は物流の発達と反比例する現象である。大都市は商品を飲み込む。
また、大量生産による廉価の席巻とも反比例し、ナショナルブランドが地域生産力を奪っていく。この経済原則は近代の風景ではなく、江戸時代後期には、頻繁に村間の商品売買、都市圏への商品供給が盛んに行われていた実態が明らかになっている。

近世江戸の産業が明治維新以後、変化しながらも存続していく業種もあれば、近代化で消滅していく業種もある。呉服商は百貨店に、両替商は商社・金融会社へと変わっていった。染と版画の技術と織物産業が融合し横浜の捺染、スカーフ産業を育てたように大消費地として近代に登場した「横浜」は業種業態の様々なドラマが起こっている。今も横浜人に人気なのが「もののはじめ」だ。個人的にはそろそろ卒業したほうが良いとは思うが、横浜もののはじめ本は未だ売れるようだ。その中には、他の都市の研究によって「はじめの座」を失ったものもある。富岡八幡近くにある海水浴の碑は、大磯に奪われたようだ。洗濯もどうやら横浜初ではなさそうだ。
ただ、居留地を抱えたことにより横浜から事業化が始まった産業形態は多い。ビール事業、パン製造、アイスクリーム製造、大量の製茶販売、鉄道事業もそうだろう。近代産業は日本各地に興り、次第に寡占化していく過程を踏んでいった。
元町の古老に聞いた。
横浜でも戦後まで小さな製パン店が多かったという。昔は商店街に必ず一二軒はあった和菓子店も自家製が中心だった。これは戦後、東京オリンピックくらいまで続いたという。このあたりからナショナルブランドが台頭し、自家製のパン屋は激変しチェーン化していく。木村屋、山崎製パン、丸十ベーカリー他の看板が急増し、スーパー、コンビニの登場で街のパン屋はその姿を消していった。
横浜のパン製造史を読むと偶然の一致ではあるが、大岡川周辺に老舗パン屋が健在であるように思う。まず堀川近辺ではパン業発祥の元町<パン物語>がある。横浜神戸東京、大正期から昭和初期に一大パン業創業ブームがおとずれるのである。
現在、
弘明寺入り口で開業する「デュークベーカリー」は昭和三年「木村屋」として創業 赤川家が店を守っている。
「盛光堂総本舗」の笹川さん。
横浜橋通商店街にある「丸十早川ベーカリー」は昭和29年「藤田丸十ベーカリー」として丸十系列として創業、初代の早川博さんを早川家が守っている。
野毛の「コテイベーカリー」もそうだ。あんぱんの美味しかった日本堂もつい最近まで頑張っていた。
横浜では、豆腐屋さんも個人製造店舗が最近までかなり頑張っていたが、この二十年軒並み閉店し激減状態にある。横浜の豆腐屋がとても元気な時代があった。
必ずしもその証ではないが、平沼に当時は目を見張った「豆腐会館」が建てられた。九〇年代まであのラッパを吹きながらの引き売りを見ることができた。
新しもの好きな横浜人(ごめんなさいハマっ子という語はあまり好きではない)ではあるが、老舗やご近所を愛するのも忘れないのも横浜の良いところだと思う。
前振りが長くなった。本題に入ろう。
醤油製造は近代まで、街なかに製造工場があり最寄り品だった。醤油は地産地消の代表格だったが、どこでも生産されていた訳では無い。原材料が揃わないと生産地にはならない。醤油の原材料は言うまでもないが大豆・小麦・麹・水・塩である。
現在、地元では神奈川区で「横浜醤油」が生産を続けている。
かつて南太田に「太田醤油醸造所」という中規模の工場があった。ここは横浜太田町に本宅を構えた吉田健三が経営していた醤油工場である。
吉田健三といってもピンと来ないかもしれなが、外相から首相となった吉田茂の父親(養父)だといえば、少し驚くかもしれない。
越前福井藩士の家に生まれ、1864年(文久四年)に脱藩し大坂で医学を学ぼうとするが、英学の必要性を感じ長崎に行き、その後1866年(慶応二年)にイギリス軍艦でイギリスへ密航、2年間滞在して西洋の新知識を習得し明治維新に帰国。その後、ジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)の支店長に就任し日本政府を相手に事業で大成功する。その功あってか大金の一万円の慰労金(退職金)を受け取りこれを元手に
「英学塾を皮切りに、翌1872年には東京日日新聞の経営に参画。さらには醤油の醸造業や電灯会社の設立、ビールやトタン、フランネルの輸入など、実業家としての頭角を顕して横浜有数の富豪に成長した。(wikipedia」
明治に入り、新しい時代に様々な政治運動が芽生えた。中でも幕末期倒幕に寄与した一人、板垣退助が全く未明の明治新政府設立時には木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任する。「明治六年政変」征韓論論争に破れ、下野。自由民権運動を経て自由党を起し、明治期の一大勢力となっていく。
横浜でも、彼の思想に共鳴した者も多く、吉田健三もその一人だった。
大岡川運河整備に寄与した伏島近蔵も自由党支持者であった。
吉田健三は子供がなく、自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった友人の竹内綱の五男 茂(吉田茂)を養子に迎え、茂は戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業した。

話が逸れてしまった。
醤油の原材料は大豆・小麦・麹・水・塩である。
醤油といえば千葉県銚子(ヤマサ)・野田(キッコーマン)が有名である。醤油は近世江戸期に工業化されたことにより贅沢品から日常の食生活革命の一端を担うようになる。江戸期当初は、原材料に大豆と大麦が使われていたが小麦を使うことにより濃口醤油の量産が始まる。醤油はもともと良質の大豆・麦・塩を調達できる西国の特産品で、江戸城への高級献上品の代表格でもあった。本場関西からの醤油は「下り醤油」と呼ばれ、関東の醤油は二級品扱いだったが、溜ではない濃口が主生産となり江戸味の醤油文化が確立する。
醤油製造の条件に、原材料は勿論「水運」が必須だったので、利根川流域に醤油産業が育ち行徳の塩、関東平野の大豆と小麦が結果的に銚子・野田に集約し醤油産業が育つ事になったが、この条件が揃えば近世から近代にかけて、地場の醤油産業も成り立った。
横浜市南区太田エリアは大岡川運河が発達し、大豆・小麦・麹・水・塩を揃える条件が揃っていたと推察できる。
(横浜の塩へつづく)

第901話 横浜ダブルリバー概論(1)

第963話 8月3日(金)

1935年(昭和10年)8月3日の今日
「青木周三が12代市長に就任した」日です、
青木市長は
1939年(昭和14年)8月3日に再任されます。
ということで今回はこの8月3日ネタを元に

戦前の歴代市長に関して自分の記憶の整理をします。
まず戦前期の歴代横浜市長一覧

初代:増田知
1889年(明治22年)6月18日から1890年(明治23年)2月15日
※辞職
2代:佐藤喜左右衛門
1890年(明治23年)3月3日から1896年(明治29年)3月2日
※任期満了
3代:梅田義信
1896年(明治29年)6月3日から1902年(明治35年)9月20日
※1902年(明治35年) 6月10日再任 9月20日死去
4代:市原盛宏
1903年(明治36年)1月9日から1906年(明治39年)5月2日
※辞職
5代:三橋信方
1906年(明治39年)9月28日から1910年(明治43年)6月25日
※死去
開港50周年記念事業を担当。市章、市歌の制定。
6代:荒川義太郎
1910年(明治43年)9月10日から1913年(大正2年)11月13日
※辞職
7代:安藤謙介
1914年(大正3年)7月24日から1918年(大正7年)7月23日
※任期満了
8代:久保田政周
1918年(大正7年)8月26日から1922年(大正11年)5月27日
※辞職
9代:渡辺勝三郎
1922年(大正11年)11月29日から1925年(大正14年)4月10日
※辞職
10代:有吉忠一
1925年(大正14年)5月7日から1930年(昭和6年)2月26日
※1929年(昭和4年)5月7日再任 ※辞職
11代:大西一郎
1931年(昭和6年)3月3日から1935年(昭和10年)7月18日
※1935年(昭和10年)3月3日再任 ※辞職
12代:青木周三
1935年(昭和10年)8月3日から1941年(昭和16年)2月10日
※1939年(昭和14年)8月3日再任 ※辞職
13代:半井清
1941年(昭和16年)2月10日から1946年(昭和21年)11月30日
※1945年(昭和20年)2月10日再任 ※辞職
以上が戦前の横浜市長です。13代(再任を代替りとするか別にして)、13人が就任しています。
(戦前の市長任命)
戦前の市長の選ばれ方は少し複雑で半分官選、半分民選の性格をもっています。
通常戦前期の市長選出は、まず市会(市議会)で各派閥<政党>有力者(市議)が委員会を形成し、候補者の選出調整が行われます。ここに直接民意はありません。
ここで候補者が絞られ、候補者への意向確認と出馬要請が行われます。
正式に立候補手続きがとられると、市議会では投票で候補者三名に絞り込みを行い
「市長推薦者」が決まり内務大臣に上申され、内務大臣の裁可を経て正式就任になります。
支持母体対決が生じる場合には、政争が起こり、利害の一致等でスムースに決定される場合もあります。
この市長任命制度には問題点もありました。
三人の推薦者(候補者)には当然、党派の力学が有っての上での推薦になる訳で、
議会会派第一位の推薦者がそのまま「市長」として内務省において選ばれない事態も生じました。また、市長を補佐する「助役」の任命は純粋に市会の選挙で選ばれました。
市会議員にも選挙があり都度勢力が変わることで、半官選市長の市政運営は大変だったようです。戦前の市長は半分吏員でもありましたので政務調整には苦労したようです。
→現在も首長は<選挙>による民意で選ばれ、同じく選挙で選ばれた議会多数派との対決構図が生じることもあり、別な意味でねじれ構図の市長(知事)は大変です。
 
市長の力量も大いに関係しますが、上記の一覧を見ても分かる通り、
市長の<※辞職>が殆どです。任期満了で佐藤喜左右衛門(二代)と安藤謙介(七代)の二人だけでした。任期途中で亡くなられた市長もいらっしゃいます。

(12代市長 青木周三)
ここで、今回のテーマのキッカケとなった
青木周三について紹介しましょう。
1875年(明治8年)8月26日〜1946年(昭和21年)12月1日
もともと鉄道官僚畑から地方行政に関わった人物です。
山口県大島郡久賀町(現在の周防大島町)の出身で、
1898年(明治31年)第二高等学校を卒業。
1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業後鉄道書記。
1904年(明治37年)高等文官試験合格。
その後、鉄道事務官、鉄道庁参事、鉄道院参事、鉄道院理事を歴任し鉄道の経理畑・マネジメント分野を一貫して歩みます。
1919年(大正8年)筑豊鉄道専務取締役。
1921年(大正10年)4月1日初代横浜市電気局長(現交通局長)に就任。
1923年(大正12年)4月12日助役就任
  この年起こった関東大震災の対応に尽力。
1924年(大正13年)助役を辞任し鉄道省経理局長に転じた。
 さらに鉄道次官に昇任し、1926年(大正15年)まで務め退任。貴族院議員に勅選。
1929年(昭和4年)鉄道次官に再び任命され、鉄道事業に携わる。
1935年(昭和10年)横浜市長に選出。(〜1941年まで)
<市電誕生期の責任者>
青木周三は横浜市長となる前に、初の横浜市電気局長として市電の基礎を築いた人物です。
戦前から戦後にかけて、横浜の中心部の交通網として活躍した市電、
元々は「横浜電気鉄道」によって開通した民営交通機関でした。ところが、経営困難に陥り、横浜市が公益性を重視し<市営=市電>とすることを決め買収します。
1921年(大正10年)4月1日

  横浜市が横浜電気鉄道を買収。電気局を発足。

横浜電気鉄道時系統路線図

この時に初代電気局長に就任したのが青木周三です。
就任当時彼は47歳、就任に際し
「大決心をなさしめたるは、一に市民諸君の後援を経(たていと)とし市会が電車事業に対する恰も慈母の愛子に於けるがごとく、
就中(なかんずく)現業員の待遇に於いて熱誠以て優遇を可決されたる援助を緯(よこいと)とし事業の円満に進捗す可きを信じ、
自らはからず就任せる次第なり。
今後における方針としては一市民の期待せらるる改良の企画に副はんが為め、とりあえず応急の修繕をなすと同時に、完全なる交通機関として発達せしむるに努力す可く、将来共に大方の指導と助成を切望に堪えず。(一部抜粋)」
と述べました。
横浜市電は
1921年(大正10年)4月1日に移管され、経営再建の道を歩み始めますが、
1923年(大正12年)に起こった大震災により 市電機能は壊滅状態になります。
青木周三局長は被災復興に奔走、一定の目処が立った
1924年(大正13年)に古巣の鉄道省に経理局長として戻りました。
昭和に入り、有吉忠一市長のもとで震災復興宣言が出され、後任に大西一郎市長が主任し、
1935年(昭和10年)8月3日
12代市長に任命、
1941年(昭和16年)2月10日に辞任します。
市会史には
1940年(昭和15年)11月24日に健康上の理由と大政翼賛会市支部長問題等から辞意を表明、議会承認の上辞職とあります。
辞職の背景に何があったのか?手元の資料だけでは読み解くことができません。
ただ 昭和15年は横浜にとっても日本にとっても”激務”の年でした。
紀元二千六百年の年にあたり
紀年事業、東京オリンピック(辞退)
第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
市政では
紀元二千六百年防空公園

紀元(皇紀)二千六百年特別観艦式(横浜)

観艦式記事

東京開港問題
市庁舎新築
動物園開設
青木市長時代は市内外激動であったことは間違いありません。
(参考年表)
◾️昭和15年は空転民主主義の年
1月14日 阿部内閣総辞職
1月16日 米内内閣成立
2月2日 斎藤隆夫の反軍演説。(斎藤事件)神奈川県政界とも深く関係あり。
3月7日 戦争政策批判により衆議院が民政党斎藤隆夫を除名処分
7月4日 陸軍首脳部が米内内閣打倒のため陸相畑俊六に辞職を勧告
7月16日 米内内閣総辞職
7月22日 第2次近衛内閣成立
8月15日 立憲民政党の解散により議会制民主主義が実質上停止
9月27日 日独伊三国軍事同盟成立。
10月12日 大政翼賛会発会式
11月24日 元老西園寺公望公死去(国葬12月5日)