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「横浜界隈・境界」カテゴリーアーカイブ
横浜・公園物語
今日は横浜の公園について紹介します。
まず メジャーな公園に関しては
「ヨコハマ公園物語」「横浜山手公園物語」というすばらしい本が出ています。
この本に紹介されている横浜市内の代表的な公園をまず画像で紹介しましょう。
「掃部山公園」
「山手公園」
「横浜公園」
「三渓園」
「山下公園」
その他「港の見える丘公園」「大通公園」「上海横浜友好園」「臨港パーク」
ここで紹介された横浜の公園はぜひ一度は訪れてみることをお勧めします。
「三渓園」は有料ですが神奈川県内屈指の日本庭園です。
(横浜の公園概要)
横浜市内には市の管理する公園と県が管理する公園合わせて2,625あります。単純に計算しても1区あたり145ある計算です。(平成25年現在)
※こどもの国は含まれていません。
この2,600の公園の中で多数を占めるのが「街区(公園)」で約2,300弱あります。昔「街区公園」は「児童公園」と呼ばれていました。
横浜市内には
街中の小さな公園から
50ヘクタールを超える規模の公園まで整備されています。
(広い公園ベスト10)
第1位「金沢自然公園」横浜市金沢区釜利谷東五丁目15ー1
第2位「横浜動物の森公園」横浜市旭区上白根町1145ー3
第3位「新横浜公園」横浜市港北区小机町3300
第4位「海の公園」横浜市金沢区海の公園10
第5位「こども自然公園」横浜市旭区大池町65
第6位「県立四季の森公園」横浜市緑区寺山町
第7位「県立保土ケ谷公園」横浜市保土ケ谷区花見台
第8位「三ツ沢公園」横浜市神奈川区三ツ沢西町3ー1
第9位「県立三ツ池公園」横浜市鶴見区三ツ池公園
第10位「舞岡公園」横浜市戸塚区舞岡町1703
※横浜市・神奈川県 緑地資料から
これらの公園、広いだけではなくそれぞれに個性のある公園として整備されています。
「金沢自然公園」と「横浜動物の森公園」は共に動物園のある広域公園です。
第1位「金沢自然公園」公園面積577,593平米
http://www2.kanazawa-zoo.org/service/map/
第2位「横浜動物の森公園」公園面積541,132平米
※現在整備中ですので修正しました。
「横浜動物の森公園」一体は現在整備中で全体公園計画の一部が公開されています。整備途中の公園面積をランキング2位としました。
予定では総面積約103.3haになり横浜最大級の公園になります。
予定面積は動物園(ズーラシア)53.3ha 植物園が50.0haの規模です。
現在の整備公開部分のほとんどが「ズーラシア」として開園しています。
http://www2.zoorasia.org
第3位の「新横浜公園」公園面積535,363平米
どこかお分かりですか?
「日産スタジアム」を含む鶴見川岸の広大な運動公園です。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/shinyoko/b000.html
第4位の「海の公園」公園面積470,155平米
金沢区にある総合公園で
「市内で唯一海水浴ができ、春先には潮干狩りが楽しめる、美しい人工の砂浜」です。
http://www2.umino-kouen.net
第5位の「こども自然公園」公園面積464,118平米
横浜市旭区大池町にある広域公園で、個人的にはバーベキューできる都市公園のベスト3に入る環境です。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/yokohama/ko-sizen.html
第6位の「県立四季の森公園」公園面積453,000平米
名称の通り神奈川県立公園の一つです。神奈川県は横浜市内に大きい公園を4つ管理しています。その中の3つがベスト10に入っています。ここは広大な傾斜地に横浜の持つ谷戸の原風景を堪能できる風致(里山)公園です。
http://www.kanagawaparks.com/shikinomori/
第7位の「県立保土ケ谷公園」公園面積340,000平米
神奈川県立公園の一つです。音楽ホールや様々なスポーツ施設が整備されています。
http://www.kanagawa-park.or.jp/hodogaya/
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f6599/p19722.html
第8位の「三ツ沢公園」公園面積300,055平米
横浜市神奈川区三ツ沢に広がる運動公園で、東京オリンピックの会場となり現在も多彩な運動環境を持っています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/yokohama/mitsuzawa.html
第9位の「県立三ツ池公園」公園面積297,000平米
1,600を超える桜の木が咲き誇る総合公園です。
http://www.kanagawaparks.com/mitsuike/
第10位の「舞岡公園」公園面積285,000平米
戸塚区にある広域公園ですが、公園を取り巻くエリアも総合的に保全されていて、公園そのものも大きさよりもスケール感があります。
http://maioka-koyato.jp
ここまで 横浜市内の広い公園を紹介してきましたが、お気づきでしょうか?
「広域公園」「運動公園」「風致公園」「総合」という区分が公園にはあります。
私たちが気軽に利用している「公園」ですが、この区分・分類となるとかなり複雑なしくみになっていることに驚かされます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/公園
このwikiを読んで「公園」を定義できる人は少数派(一部専門家)でしょう。
■公園緑地は大きく三つに分かれます。
(公園)
営造物公園
地域性公園
(緑地)
地域性緑地
上記の区分の中で、都市公園の領域がさらに細かく区分されています。
◇基幹公園
(住区基幹公園)
街区公園
近隣公園
地区公園
(都市基幹公園)
総合公園
運動公園
◇特殊公園
風致公園
歴史公園
◇広域公園
◇緩衝緑地等
特殊公園
緩衝緑地
都市緑地
緑道
◇広場公園 他
ここの説明は省略します。
長くなりましたので一つだけ
横浜のスポットニュースを!
全国初の「立体都市公園」が横浜にあります。
どこだかご存知ですか?
(撮影時期が造営直後、現在はもう少し変わっています)
※山手に新しくできた「アメリカ山公園」です
今年は 公園巡りをしてみようか と思っています。
小さな小さな街区公園から「お宝」を探し出してみようかと。
今回は解説ばかりで面白みに欠けたかもしれませんが、
近所に変わった公園ありませんか?
(こどもの公園関連ブログ)
No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶
No.215 8月2日 (木)継続は力なり
ちょっと面白公園ネタ
No.133 5月12日 餌の勝ち!(加筆修正)
横浜市出身山田太郎くん
山田太郎君
といえば、大ヒット漫画「ドカベン」週刊「少年チャンピオン」連載、水島新司作品の代表作の登場人物です。
50代は巨人の星、
40代はドカベンだそうですが
この「ドカベン」1972年(昭和47年)から1981年(昭和56年)まで連載されました。
ここに登場するドカベンが山田太郎君です。
実は「ドカベン」最初は柔道漫画だったそうです。私は野球時代しか知りません。
ドカベンの通う「神奈川明訓高校」は神奈川県にある私立高校を想定していますが、果たして明訓は横浜の高校か?という疑問が湧きます。おそらく そうでしょう。
少なくとも山田君は“横浜在住の畳屋さん”だったかな。確認してません。
「ドカベン」に登場する
県内のライバル校には
「横浜学院高校」なんとなく横浜高校らしく感じますが
「東海高校」これは東海大相模でしょう!
「白新高校」神奈川最強と呼ばれる投手、不知火守(しらぬい まもる)擁する最大のライバル校です。(神奈川ではなく作新の江川と同世代なのでこのイメージが被ってしまいます)
ドカベンの画像はありません。ごめんなさい。
DOYA!ことぶきの町は。
横浜には日本三大「寄せ場」の一つがある、
あったと言った方が正確かもしれない。
話では知っているが『この地』の歴史と現在を知る人はごく少数だ。特にある時代を刷り込まれた世代には近づきがたい“影”があった。
横浜市中区寿町とその周辺は、東京・三谷、大阪・釜ヶ崎(あいりん地区)と並ぶ日本を支えてきた経済の影のエリアとなったのが「寄せ場」である。
「寄せ場」とは日雇労働者の自由労働市場、青空市場(野外での職業あっせんを行う空間)主に港湾・建設業の職業あっせんする場所のことである。※1
「寄せ場」は別名ドヤ街と呼ばれている。
※1 『横浜・寿町と外国人』山本薫子 福村出版 2008(ドヤ街)
ドヤ街のドヤは“宿(やど)”を逆さにした隠語から始まった簡易宿泊所の集中エリアを指す。宿の街ではあるが、人が住むような場所ではないと自嘲的に呼ばれ、スラム街と同義語となっている。
横浜市中区寿町にある“ドヤ街”の歴史と現状を調べてみた。
現在、寿町一帯の簡易宿泊所集中エリアには約6,500人が暮らしているが住民登録者数は約3,500人に過ぎない。
日本三大「寄せ場」の中で「寿ドヤ」の特徴は、最も狭いドヤ街エリアであること、簡易宿泊所の“門限”が無いことなどが挙げられる。ピーク時には8,000人以上の“自由労働者”がいた。
東京山谷、大阪釜ヶ崎の“寄せ場”形成には戦前からの地勢的文脈があるが、横浜寿エリアは、突然作られた横浜開港場のように 戦後の空白から誕生した。
また、家族を形成する者も多く、子供たちや女性が多かったことも寿ドヤの特徴であったが、現在は大きくしかも急速に「全ての“寄せ場”」の状況が変化している。ここで簡単に寿ドヤの歴史を追ってみたい。
寄せ場と呼ばれる「寿エリア」は1955年(昭和30年)代以降に形成された。
明治初期に吉田新田「一ツ目沼」と呼ばれた遊水池(沼地)が埋め立てられ、市街地を形成し生糸や材木などの市が並び賑わった。
「寿町」「扇町」「翁町」「松影町」「不老町」「蓬莱町」「万代町」等謡曲の曲名が町名となり「埋地7ヶ町」が誕生する。
この「埋地7ヶ町」が激変したのは横浜大空襲だった。
この空襲で甚大な被害が生じたこのエリアを終戦後米軍が接収し住民を排除し「グラウンド、石炭貯蔵所、キャステル・コート(士官宿舎)等」が設営された。
接収は1945年(昭和20年)9月29日に始まり1951年(昭和26年)から徐々に返還されて1958年(昭和33年)に完全返還となったが、転居した“元住民”は殆ど戻ることなく解除後の境界や地権等が不明確な場所に無秩序な建築物が建ち始めた。
さらに、野毛の職業安定所の寿町への移転を契機に戦後の混乱時にスラム化していた“桜木町・野毛”のスラムクリアランスのはけ口として「埋地7ヶ町」が「寄せ場」に変身する。
このエリアが戦後高度成長の横浜経済の負の部分を全て背負うことになる。
アルコール依存症、薬物依存症、結核、糖尿病、肝臓機能障害などの生活習慣病を患っている人が増大、スラム化に拍車がかかる。
1970年代に入り、高度成長に陰りが出てくるに伴い、ここに寄り集まった“自由労働者”には一足早く「高齢化・生活弱者化」が訪れる。
1983年(昭和58年)には横浜浮浪者襲撃殺人事件が発生する。
No.43 2月12日 “浮浪者狩り”現在
自立できないまま6,500人前後が独居しその85パーセントが生活保護を受け、半数が60歳以上の高齢者という「労働者の街」から「緊急福祉を必要とする街」に変貌してしまった。この街「横浜ドヤ寿エリア」には日本社会における深刻な「社会課題」が凝縮されている。1970年代から支援活動が継続して行われ現在、寿町内では30以上の地域団体がそれぞれの特色を活かしてホームレス自立支援を行っていることが救いだが、ひとときの猶予も許されない状況であることは間違いない。
ここには弱者としての在日外国人高齢者が多く、地域が乗越えていかなければならない重い課題となっている。NPO法人さなぎ達
http://www.sanagitachi.com
ことぶき共同診療所
http://kyoudouclinic.com
コトラボ
http://koto-lab.com/KOTOLAB_-_projects.html
コトブキ案内所
http://koto-buki.info/about/
【しりとり横浜巡り】6月11日(水)イセザキ界隈その2
前回は関内と関外を結ぶ「吉田橋」を紹介しました。
関内馬車道から吉田橋を渡ると、目の前にイセザキが広がります。
【雑景シリーズ】イセザキ界隈その1
その1で終わっているので、
今日はミニイセザキストリートの楽しみ方2を紹介します。
イセザキは七丁目まであり少しずつ表情を変えます。たまには一丁目から七丁目までブラブラしてみましょう。昔「イセブラ」なんて言葉が盛んに使われた時代があったそうです。
伊勢佐木には 一度は立寄ってみたい老舗店がたくさんあります。
一丁目から二丁目は
有名店がいっぱいです。
「みのや本店」「有隣堂」「横浜文明堂」「不二家」
「花見煎餅」「ハマ楽器」「加藤回陽堂」等々
三丁目は
ランドマークの「オデヲン」が「ドンキー」になるそうです。(20140601)
横浜と深い関係にある「ピアゴ」伊勢佐木店は現在建替え中ですが、撤退でなかったのでほっとしています。
四丁目は
良く行く「白河中華そば弘流」がお勧め。チェーン店ではありません。

http://www.kouryuu.co.jp
※ちょっと裏通りに
昔、ビストロコパカバーナという店がありました。(かなり前です)
冷やかしお断り!!の「へびや」がありますが、やはり冷やかしてみたいけど勇気がでない。
イセザキモールのパーキングがあります。
「クロスストリート」
五丁目は
サンマーメンの「玉泉亭」
大正7年創業の老舗です。新装開店していらいいってませんね。横浜サンマーメンを語るなら一度は立寄るべし。
●牛鍋の「じゃのめや」
http://www.janomeya.com
開港場の牛鍋は明治以来の横浜名物ですが、名店が消える中いまだ「暖簾」を守っています。
●浜志まん(はまじまん)のボストンクリームパイ
http://www.isezakicho.or.jp/~hamajimn/
創業は大正2年です。浜志まん(はまじまん)の正式には「志に¨」が付きます。
●古書なぎさ書房
時折立寄る古書店です。
六丁目は
●創業明治43年の「川本屋」
http://www.kawamotoya.com
「川本屋」オリジナルいせぶらパウンドケーキがお勧めです。
※横浜にはお茶屋の老舗も多かったのですが、どんどん減っています。
●健康靴のプロフィットイイジマ
http://www.yoikutu.com
元々大正時代から靴屋さんで、フットケアの店が未だ珍しい1990年代に上級シューフィッターの居るラボを立ち上げ健康な靴を提供してきた専門店です。
七丁目は
●一押しは「銚子屋」のところてん、あんみつ、ぜんざい。
1935年(昭和10年)の創業です。
□老舗ではありませんが、地元の人気スポット
「子育地蔵尊」は要チェック。
6月1日(日) 6日(金) 16日(月) 26日(木)
7月1日(火) 6日(日) 16日(水) 26日(土)
8月1日(金) 6日(水) 16日(土) 26日(火)
「一・六縁日」が開催されています。
YOKOHAMAxyについて
界隈性ということばがあります。
辞書では“その”あたり一帯。のことを指し示すことばです。言い換えれば「付近」「近辺」「あたり」ですが、界隈には不思議な広さがあるので好きです。
私が界隈ということばを身近なものとして使いはじめて25年以上経ちます。パソコン通信のハンドルネームに「横浜界隈」と使いはじめてからです。フォーラムのメンバーからは「界隈さん」と呼ばれるようになりましたが、オフ会で「界隈」の持つ印象に猥雑さを指摘されたことがあります。界隈を“悪所”のくくりとして使う人もいることを実感しました。
最近では“こだわり”と同じように、暖かみのある地域を漠然と指し示す意味合いで使われています。
建築関係の辞書によれば
「地元商店街の賑わいや生業の活気といった、生活感あふれる雰囲気を感じさせる個性的な街並みについて、界隈性が高いなどという。個々の非合理的条件が全体としては合理的にまとまっているような状態をいう。」
とあります。
あるビジネス提案の時に、私は界隈の定義を下記のようにプレゼンしました。
暮らしの“場”に思いを寄せるとそこは「界隈」になります・・・。
日頃、私たちは界隈という言葉を何気なく使っています。
「元町界隈」「港界隈」といった使い方をします。
私たちはあるエリアに関心を持ったとき、“文化”“人”“暮らし”などの情報が気になります。この気になる情報が体験、印象と重なり合いその場所を「界隈」と呼び意識の中に仕舞い込みます。「界隈」には実体験が必ず含まれています。
情報だけでは「あたり」ですが、実際に足を運んでみると「界隈」が醸成されます。
そこに暮らす生活者の「愉しみ方」があり
訪問者が体験として得られる「愉しさ」と重なる部分が多いエリア(まち)
これが魅力ある「まち」界隈性のある街です。
私のブログタイトル「YOKOHAMAxy」は、
ヨコハマ エックスワイではなく よこはまかいわいと読みます。
ギリシア語のχ(カイ)とアルファベットのy(ワイ)を合成しました。
エックスワイでも構いません。
アルファベットの元となったギリシア文字の中からX(カイ)とアルファベットのY(ワイ)を選び、開港以来、異国文化を積極的に取り入れてきた横浜のエキゾチックさを「界隈」と重ね合わせました。エックス・ワイの意味も同時に持たせています。
このブログの目的の一つが 私の横浜界隈探しです。
「個々の非合理的条件が全体としては合理的にまとまっているような状態をいう。」を再定義し
「人々の感じ方の違いが全体として地域的にまとまっている状態」を私は界隈と定義しておきます。
あなたの界隈性は どんな感じでしょうか。
【絵葉書の風景】2013年12月16日
私の(数少ない)横浜絵葉書コレクションから
風景を読み解いてみます。
今日の一枚は
THE THEATRE STREET,YOKOHAMA.
(横濱名所)歓楽の巷伊勢佐木町通り
風景の位置は、伊勢佐木町三丁目方向を道路を挟んで二丁目から臨んでいます。
発行年代の推定は
まず オデオン座の映画看板『妻と女秘書』は
1936年(昭和11年)日本公開。
クラーク・ゲーブル主演の米国映画。
隣の「又楽館」上映の「地の果てを行く」は1935年9月公開のフランス映画。
キネマ旬報ベストテン外国映画5位となった作品。
このことから この絵葉書の風景年代は 1936年(昭和11年)と推定できます。
※オデオン座の風景からはさらに面白い光景を読み取れます。
二階の窓から 人が出て何か作業を行っています。どうやら吊り広告の「レート化粧料ご愛用者五千名様御招待レートクリーム」と読めそうです。
このレートクリーム
戦前は「東のレート、西のクラブ」と称された有名化粧品メーカーだったようです。
1878年(明治11年)に開業し1954年(昭和29年)に廃業したレート(仏語LAIT)ブランドを販売した平尾賛平商店(ひらおさんぺいしょうてん)
時代は1936年(昭和11年)頃と推定できますが、
1936年(昭和11年)4月にオデオン座が改築し拡張しています。画像からも新しさを感じます。改築後とするともう少し絞り込めそうです。
開戦まで5年という切迫感はこの絵葉書から感じることができません。伊勢佐木通りを走る“自動車”が右側を走っているのも気になります。(一方通行だったのでしょうか?)
ただ 戦後すぐであれば 伊勢佐木は空襲の爪痕もありもう少し荒れた風景もあったのではないでしょうか。また連合国軍占領下ではオクタゴンシアターと呼ばれていましたからこの風景は戦前の幸せなひとときかもしれません。
簡単に店舗推理をします。
向かって右側から
■尾張屋呉服店(尾のマークが見えます)
■桜花化粧品店
■石渡洋服店
(数軒おいて)
■喜楽座(ちょっと不確定)
向かって右側から
■オデオン座(映画館で昭和11年竣工)
■又楽館(映画館)
ここまで調べてきて
妙にひっかかることが出てきました。
伊勢佐木のオデオン座は
横浜本牧生まれの平尾榮太郎(平尾商会)によって創業された映画館ですが
その後 六崎市之介へ移り最終的には松竹の傘下にはいります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜オデヲン座
そして
この昭和11年頃ののオデオン座に大きく掲示されている広告
「レート化粧料ご愛用者五千名様御招待レートクリーム」
前に紹介したように「平尾賛平商店」の広告が掲示されています。
同じ「平尾氏」による経営ですが
手元で調べる限り 両社の関係性が見えてきません。
たまたま同性で 意気投合したのか
「五千名様ご招待」はかなりの大盤振る舞いではないでしょうか?
■当時の映画館入場料は50銭
■理髪料が40銭
■はがき1銭5厘
■白米(10 キロ)2円50 銭
5,000人分となると25万円+経費分のインセンティブになります。
現在の物価との比較はかなり難しい作業ですが
1銭が20円程度と換算できそうです。となると
50銭=1,000円程度 でしょう。
一枚の「絵葉書」から
ちょっと眺めただけでも 様々なことを“読むこと”ができます。
さらに“電柱”“服装”“看板”“建築”等々の歴史と重ね合わせると
いろいろなことが読み取れるでしょう。
単に 懐古趣味ではなく そこに生活している人々・景色から現代を重ねることで、この街の姿が見えてきます。
「歴史は現在と過去の対話である」E・H・カー
“An unending dialogue between the present and the past.”
![]() |
ピアゴ屋上からオデオン方向 |
(余談)
平尾榮太郎は、ヨコシネとも不思議な関係がありました。
No.473 横浜市かねさわ区独立
地域のアイデンティティが戦後半世紀を過ぎるあたりから強く意識されはじめました。横浜の地域コミュニティ単位を歴史的に眺めてみると、
独立性の高い“地域愛”のあるゾーンが多いことに気がつきます。
まあ、横浜が“寄り合い所帯”的な市域拡大を遂げてきた自治単位なので、多彩多様性があるといえばありますが、開港場周辺と周辺隣接地域とは色合いの違いもあるようです。
(金沢区独立)
ちょっと刺激的な言葉ですが、歴史を知り地域を歩いてみると
あながち空想領域では無いなと感じる昨日今日です。
まずは妄想から。ある日、ニュースで
「横浜市南部に位置する「かなざわ区」が本日、市として独立する申立書を総務省に提出しました。「金沢(かなざわ)市」はすでに石川県に存在するので、古来「かねさわ」と呼ばれていた経緯もあり、市の名称は「神奈川県かねさわ市」と決定しました。当初、鎌倉市との合併も議論に上り、鎌倉の市民団体と「かねさわ市実現協議会」との話し合いももたれましたが、最終的に「かねさわ市」として独立することで住民の意思が一致しました。」「かねさわ市実現協議会」会長のKさんは横浜市金沢区は、1936年(昭和11年)横浜市に編入され、磯子区の一部となりましたが、中世以来武蔵国と相模国の国境で明治以降は神奈川県・六浦県・韮山県など県が入り乱れ地元のコミュニティに関係なく線が引かれていた経緯があります。(中略)六浦の皆さんには「かねさわ村」となった明治以来、「むつうら」は六浦としてしっかり残すべきだという思いもあり、今回の「かねさわ市」命名についても「金沢六浦市」「六浦市」といった意見も多く出ていました。富岡も古くから金沢文化圏でもあり議論も出ましたが「金沢区」がなんとか「かねさわ」にまとまってほっとしているところです。」
(断裂の思い)
金沢区エリアは、
中世には鎌倉幕府経済圏の中心地(湊)として栄え、
江戸時代は江戸湾の要衝地浦賀と東海道を結ぶ
「浦賀道」が通る静かな農・魚村でした。
幕末以降このエリアは(横須賀製鉄所の発展の影響など)
地形・帰属を含め烈しい変化が起こります。
まず明治初期の地形図をご覧ください。
明治の頃の地形図から現在の金沢エリアを想像することはかなり困難な作業になります。単に埋め立てされてきた地形ではないことが判ります。
その昔、野島は陸続きだったのです。
廃藩置県
韮山県を知っていますか?
駿河国、相模国、武蔵国、甲斐国内の幕府領・旗本領および伊豆国一円(伊豆諸島も含む)を管轄する広大な県でした。
金沢区地域は短い期間でしたが「韮山県」時代がありました。泥亀・町屋・洲崎・野島・芝の村域は幕末に江川太郎左衛門(韮山)の支配下となり明治初年そのまま「韮山県」となります。
一方、宿村・寺前・寺分・平分 他は六浦藩からそのまま六浦県となり、その後神奈川県に編入されます。
六浦プライドは江戸から現在まで静かに地域に根ざしています。
幕末から1878年(明治11年)久良岐郡にまとまりかけますが
磯子区に編入される1936年(昭和11年)まで
(明治22年)「六浦荘村」と「金沢村」の二つの地域は分かれることになります。
旧浦賀道を歩いていると、町の“頑固さ”に出会います。
この地域の歴史をひも解いてみると
鎌倉時代以来形成されてきた生活文化圏が
幕末から シャッフル状態になり 明治・大正・昭和を通して
開港場に翻弄され
地域開発に断裂してきた姿をかいま見ることができます。
ここにきて
「金沢八景 再開発」も始まりました。
六浦の丘の上からの金沢風景もすてきです。
平潟湾を囲み、海と丘の町 かなざわは
景観を維持しつつ住まいやすさの追求が
どう地域の“プライド”につながるのか?
見守っていきたいエリアの一つです。
【横浜小さな駅】田園都市線 市が尾駅
田園都市線沿線の小さな駅「市が尾駅」周辺を紹介しましょう。
「市が尾駅」は
1966年(昭和41年)4月1日に田園都市線が長津田まで延伸した際に開設されます。
田園都市線の駅間距離が1km前後中心ですが、
隣接駅「江田」へは1.3km、「藤が丘」へは1.5kmと平均より長くしかも起伏のある傾斜地に作られた「駅舎」です。
昔、マーケティングの師匠の教え
「鉄道、国道は川と同じ。地域をつなぐが分断もする。橋が無ければ万里の長城、文化も変える」
「市ケ尾駅」に降り立つとこの言葉を思い出します。
田園都市線はほぼ「国道246号線」に沿って走っていますが、都内の地下路線を除いて「江田駅」とともに246号線に最も近い駅です。
鉄道=田園都市線、国道=246号線が
このエリアを南北に走り、
しかも西側を「一級河川鶴見川」が北から南に流れ“地域を分ける要素”が揃っています。
これは決して悪い意味ではなく、横浜市内の田園都市線沿線としては昔の香りと新興住宅地の香りが併存している独特の街に感じます。
旧道、そして河川敷の佇まい。
起伏のある丘陵地帯と、そこに広がる新興住宅地。
典型的な「郊外の街」とも少し違う街の佇まいがあります。
鶴見川に沿って散策していくと鉄(くろがね)町、さらに上流には寺家のふるさと村もあり、横浜の“原風景”を巡る最適なルートです。
「市が尾」は不思議な町です。
青葉区内の田園都市線各駅「青葉台」や「あざみ野」「たまプラーザ」と比較して小さな町ですが、
青葉区の行政上の中心地域としての顔があります。
○横浜市青葉区総合庁舎
市内18区の中でも、青葉区役所は解りにくい(行きにくい)ベストスリーに入るかもしれません。
○横浜市青葉福祉保健センター
○横浜市青葉スポーツセンター
○横浜市青葉公会堂
○横浜市消防局 青葉消防署
○青葉郵便局
○神奈川県警察 青葉警察署
○横浜地方法務局 青葉出張所
○神奈川県 緑県税事務所
○緑税務署
と行政の施設が集中しています。
また1998年(平成10年)3月に
東名高速道路 横浜青葉インターチェンジが開通したことで、交通の要衝になります。
(古代史の街)
市ケ尾他鶴見側流域には、古代遺跡が数多く発見され、残されています。
市が尾駅からほど近いところにある「稲荷前古墳群」は珍しい中規模古墳で、当時の生活圏の大きさ(統治者の規模)を測ることができます。15〜17号墳の3基が保存されていて中でも16号墳は全国的にも珍しい方墳と方墳が線で結ばれたような形をしています。
http://kofun.info/kofun/213
また「市ヶ尾横穴古墳群」は、有力な農民の墓として6世紀後半から7世紀後半の古墳時代末期に造られたと考えられています。派手な「古墳群」ではありませんが、このエリアを歩いているとひと際良くわかる“こんもりとした丘”が「古墳群」として残されています。一部は開放されていて無理をすれば横穴に入ることもできます。(子供であれば難なく)
中にはガラス窓から横穴を覗くこともできます。
http://kofun.info/kofun/573
(ついでに)
駅から1分のところにある「市が尾第三公園」のオブジェ
「市が尾ベーカリー」
地元で信頼のあるパン屋さんだそうです。
“人気の”という枕ではなく“信頼の”というところがミソですね。
ご夫婦二人で、切り盛りされています。
→駅から徒歩7分位
「田園の憂鬱」
No.472 横浜と法政大学、その点と線
ここでも書きましたが、佐藤春夫が一時期暮らしていました。
「田園の憂鬱」の舞台となりました。
「とんかつ とん平」
なかなか丁寧な仕事ぶりで、
地元に愛されている感じが伺えるお店です。
→駅から徒歩5分位
※「市が尾駅」特に「わざわざ」行くところではありませんが、
時にぶらっと立ち寄ってみたいところです。
【番外編】ランドマークが建つ
残照、ある時期 みなとみらいエリアに建つ(建設中の)ランドマークタワーを撮っていた時期があります。
記憶に残るランドマークタワーの風景を紹介します。
ごめんなさい!!一部画像が逆版です、
修正アップし直しますのでしばし逆でご勘弁を。
フィルムからスキャンした際 左右を間違えました。
■ランドマークタワー
正式には「横浜ランドマークタワー」といいます。
70階建てで高さ296.33mです。
1990年(平成2年)3月20日に着工し、1993年(平成5年)7月16日に開業しました。
http://www.yokohama-landmark.jp/page/
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜ランドマークタワー
今日は 写真集です。
特に解説は設けません。
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全国から精鋭の職人が集まったそうです。クレーン職人が話題に。 |
No.469 横浜トイレ事情
今日は 横浜市内のトイレ事情について
トイレの話しは“奥が深い”です。
世界のトイレ事情から、わが家のトイレ文化!まで。
さらにはバリアフリートイレもさらに進化(整備)が必要です。
今日は「わが街シリーズ」的視線で横浜市内のトイレ事情の断片を紹介しましょう。
ここでは「公衆トイレ」+“一般の方が必要時に使うことができるトイレ”について語ります。
最近「おもてなし」が“流行っています”が、公衆トイレの使いやすさは、おもてなしの基本部分にあたります。
ここで紹介したいことが沢山ありますが今日は絞っていきます。
■街中(まちなか)で、トイレに行きたくなったら?どうします。
どこにいきます? どうやって探します?
車なら多くのコンビニエンスストアで借りることが出来ますが、
街中を歩いているとき
さらには ハンディのある方には なお探しづらいのがトイレです。
最近減りましたが「和式」も多いので、足の不自由な方や、足腰が弱っている方には「和式」は辛い。
公衆「トイレ」が「和式」なのか「洋式」なのか?判るようにせめてトイレの入口に表示できないでしょうかね。
書いていて 思いましたが「和式」「洋式」というのもなんか変ですね。
欧米も最初から“座式”だったのでしょうか?
「洋式便器と男性用小便器は20世紀になってから日本に登場し、イギリス軍やアメリカ軍などの欧米諸国を中心としたGHQが日本を占領していた頃に劇的に日本各地に広まった。」(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の便所
一般的に「公衆トイレ」と呼ばれるものは公園、駅前、公共施設等々に整備されている「トイレ」を指しています。
横浜市の「公衆トイレ」は、市が管理しているもので横浜市危機管理室のデータでは約500余(H19年)ありました。その内の約450カ所が公園のトイレです。
手元の資料では横浜市内の公営公園は2,625(H25)ありますが、
単純に計算して公園のトイレ設置率は17%ということになります。
トイレのある公園が均等にある訳でもなく
またベビーケアだったり老人だったりする場合、課題があります。
トイレ配置への地域的な配慮がほしいところです。
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全てに対応しているトイレ |
このような事情をを反映して最近では、必要な時に利用できる
「オープントイレ」の活動が活発になってきました。
「OPEN Toilet Project」
街の店舗のトイレを気軽に借りることができるプロジェクト
ここでモバイル端末を仕えない人のために
元町・中華街・山下地区からサービス開始したのが
「オープントイレマーク」
観光や買い物をする人が気兼ねなくトイレを借りられるよう、横浜市中区の横浜中華街や元町商店街などで飲食店やブティックの入り口に、誰でも利用できることを示す共通の「オープントイレマーク」を張るプロジェクトが始まった記憶がありますが現在はどうなんでしょうか???。
https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-96701.html
http://www.check.or.jp/about/asahi111126.pdf
http://www.checkatoilet.com
この試みは“横浜発”のグッドニュースです。
NPO法人Checkと大川印刷、
トイレ貸出サイン「オープントイレマーク」を共同開発
IT機器を扱えなくても、誰もがトイレに困ることなく安心して街歩きや買い物を楽しむことができるように、共通化されたトイレ貸出サインを建物の入口に掲出するプロジェクト『OPEN Toilet Project』が元町・中華街・山下地区からスタート!
■神奈川県では
「みんなのトイレ」の推奨マークについて
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f6880/p22191.html
神奈川県みんなのバリアフリー街づくり条例・施行規則では、「みんなのトイレ」の「出入口には、誰もが利用できる旨をわかりやすい方法で表示すること」が定められています。県では、そのための表示方法の一つとして、「みんなのトイレ」の「推奨マーク」を作成し、事業者や施設管理者の方にお配りして表示していただき、その普及に努めることといたしました。2011年3月1日
※まあ不思議ですが、同じようなことを違うフォームで進めるのが
“日本流”ですかね。
■鉄道を利用する
私も、車椅子の家族と鉄道を利用する際、
「トイレ」「移動ルート」さがしが重要です。
近年、駅のトイレもバリアフリー化が進み車椅子ルートのネットによる情報提供も便利になっては来ましたが、
やはり探しづらい、扱いづらいのが現状です。
※例えば
横浜市交通局のサイトには
市営地下鉄「便利な乗車位置」という情報提供があります
市営地下鉄便利な乗車位置(あざみ野行き)
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/sub/norikae/azamino.html
市営地下鉄便利な乗車位置(湘南台行き)
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/sub/norikae/syounan.html
でも
交通局トップページからは探しにくい!んです。
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/sub/
※その他の鉄道会社も情報は充実してきましたが
いざ 探そうとすると 情報のあるページにたどり着くのが
一苦労します。何か一工夫できないものでしょうか。
(昭和の歴史資産)
横浜市内には、市電が走っていた時期の公衆トイレが幾つか残っています。
中の設備は 新しくなっていますが、外観は昭和を感じさせます。
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弘明寺(2014年改装されました。写真は旧版です) |
(デザイン豊富)
全国的な傾向ですが、横浜市内にも
デザイン性のある公衆トイレが増えてきました。
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横浜公園 |
→他写真検索中※最後に
私は公衆トイレのピクトサインを撮影コレクションしています。
みなさん あまり気にしないようですが
男女の左右表示が 結構バラバラだったり デザインが異なったり
身近で確認してみてはいかがでしょう。