No.203 7月21日 (土)エーゲ海に捧ぐ
最近何かと話題のギリシアですが、
日本とギリシャの間にはいくつかの姉妹都市があります。
その中で、姉妹提携のある横浜の街が大倉山商店街です。
1988年(昭和63)7月21日の今日、
「エーゲ海フェスティバル」が開催され姉妹提携が行われました。
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初めて訪れる人は 意外と見逃してしまいますが… |
大倉山の名は、ここに建つ大倉山記念館に由来します。
1932年(昭和7年)に完成した大倉精神文化研究所本館(現大倉山記念館)は、ギリシャで最初に栄えたクレタやミケーネ文明の建物に模したプレ・ヘレニック様式の建物として、市の文化財に指定されてます。一帯の広大な緑地は近隣市民の憩いの空間として利用されています。
横浜市大倉山記念館
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜市大倉山記念館
1978年(昭和53年)に港北区役所が大倉山に移転する計画をきっかけに商店街整備が進み、大倉山駅東口通りが「レモンロード」(84年)、
西口通りが「エルムー通り(Ermou Street)」(88年)と命名され整備が進みました。
東口通り「レモンロード」に一足遅れた西口商店街は、84年に横浜市に寄付された大倉山記念館の白を基調にしたエーゲ海のイメージを前面に打ち出すことになり、商店街には白いファサードやギリシア風の店舗が多く建っています。
グーグルのストリートビューでも楽しめます。 1988年(昭和63)7月21日には、アテネ市の代表を招いて姉妹提携の正式調印も行われました。 小説「エーゲ海に捧ぐ」の作家であり画家・版画家・挿絵画家・彫刻家・陶芸家・映画監督と多彩な才能の芸術家 池田満寿夫さんとバイオリニストの佐藤陽子さんも式典を訪れました。 (こみみにはさんだ話:熱海に活動拠点を持っていた池田さんが亡くなられた時、彼の作品を横浜に寄付し美術館を作りたいという話しがありましたが横浜市は断って長野にもっていかれたそうです。) 大倉山商店街 ■エルム通商店街
http://www.ookurayama.net/pc/index.htm
■オリーブ通商店街
大倉山駅からエルム通商店街を抜けるとオリーブ通商店街が続きます。
大倉山は「梅林」も有名です。ここの梅を使った梅酒“梅の薫”は地元の特産品を使った市民共同開発商品として1991年に大倉山公園(梅林)開園60周年を記念し企画されました。
港北区・神奈川区民は安く購入できるところが良いですね。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kohoku/sinkou/umesyu.html
(関連ブログ)
No.160 6月8日(金) 親王殿下のニッポン
No6 1月6日(金) 天然スケートリンク開場
この街に今、大きな問題が起っています。相鉄線と東急線を結ぶ新線に「大倉山駅」が無いことで、取り残される危機感です。駅の乗降客数が生命線の商店街にとって、新線の開通は重大関心事のようです。
それにしても、首都圏の鉄道網はまさに「蜘蛛の巣」状態です。
横浜もこの10年でまたまた大きく変わりそうです。
便利になることは良いことですが、長ーーい駅構内を上下左右に歩いて乗り継ぐ蟻の巣アクセスは“高齢者”には辛いものがあります。
少子高齢化が始まっている割に、都市鉄道網を利用するには“若さ”が必要になっているのは良いことなのかどうか。複雑な感じです。
No.202 7月20日 (金) 港をヨットが舞った日
今日は元「海の日」です。
1941年(昭和16年)7月20日(日)
「海の日」の起源となった「海の記念日」が制定され、横浜でヨット大会が開催されました。
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ヨットレース(直接記事とは関係がありません) |
(海の日誕生)
海の日、その起源は横浜が舞台です。
1876年(明治9年)7月20日(木)に明治天皇が奥羽・北海道巡幸に使用した御召艦「明治丸」が横浜に帰港した日です。
1941年(昭和16年)7月20日(日)を「海の記念日」とします。
※この日7月20日が「海の記念日」となった背景には制定に尽力した時の逓信大臣の思惑もあったようですが、横浜にとっては幸運なことでした。 <20日午前に到着の予定が、天候不順で20日深夜になりました。もしかすると、7月21日になっていたかもしれません。天皇御一行は、急遽行在所となった伊勢山離宮でお休みになり翌朝東京に戻ります>
1996年(平成8年)「国民の祝日に関する法律」により、”海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う日”として7月20日が国民の祝日「海の日」となります。
2003年(平成15年)の祝日法改正(ハッピーマンデー制度)により、7月の第3月曜日となり現在に至ります。
(明治丸)
御召艦となった「明治丸」は、英国に発注しグラスゴーのネピア造船所で建造され横浜に回航されました。
当時の工部卿(殖産興業を支えた工部省の大臣)伊藤博文が名付けたもので、当時重要課題の一つ、灯台建設に伴う巡視活動や、領有権調査等に活躍しました。
巡幸船にも何度か使用され、引退後練習船として多くの海洋訓練生を育てました。
「明治丸」は東京海洋大学越中島キャンパスに保存されています。
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東京海洋大学校内 |
重要文化財「明治丸」
http://www.e.kaiyodai.ac.jp/facilities/meiji/index.htm
(幻の東京オリンピック)
1940年(昭和15年)に東京で夏季オリンピックが開催される予定で様々な準備が進められていました。
アジア初のオリンピックとして注目されていましたが、日中戦争の影響等の理由により日本政府が開催権を返上します。
オリンピック開催決定にともない、横浜市はヨット競技の誘致に成功し、ヨット競技開催の準備を進めます。
1937年(昭和12年)には、東京オリンピック(昭和15年)に備えて設計コンペが開かれます。
中区新山下町にオリンピック用の仮ヨットハーバーが9月に落成し、横浜ヨット港(ヨットハーバー)建設が計画されます。
オリンピックは中止となってしまいますが、
横浜ヨット港建設は継続し、
幻のオリンピック開催予定の翌年1941年(昭和16年)に竣工し、
「海の記念日」制定に合わせて
7月20日に海洋競技大会が開催されることになります。この時に、ヨット競技の開催に尽力したのが横浜ヨットクラブ(YYC)です。
(横浜の海洋スポーツ)
ヨットの歴史は横浜海洋スポーツの歴史でもあります。
横浜のヨットクラブの歴史を簡単に紹介します。
1886年(明治19年)横浜在留の外国人有志によって、横浜アマチュア・ローイング・クラブ(YARC)が設立され、横浜港内で海洋スポーツの組織が誕生します。
(日本最古のヨット・クラブといわれています)
その後、YARCから横浜セーリング・クラブ(YSC)が独立します。
1896年(明治29年)にYSCは横浜ヨットクラブ(YYC)と改称しフランス波止場近くを拠点に活動します。
前述の横浜ヨット港(ヨットハーバー)完成後は、ここを母港に1968年(昭和43年)まで活動し、1973年(昭和48年)社団法人 横浜ヨット協会となります。
http://yyc.or.jp
団体名:社団法人 横浜ヨット協会
所在地:神奈川県横浜市磯子区磯子1-5-16
社団法人横浜ヨット協会は1886年(明治19年)10月9日(土)に、その前身の母体であるYokohama Amateur Rowing Clubより派生し、当時横浜在留の外国人有志により設立されて以来100有余年の歴史を誇る日本最古のヨット・クラブです。
(余談)
海の日にあわせて、みなとみらいにある「帆船日本丸」の総帆展帆(年12回実施)が行われます。
No.201 7月19日(木)港を感じる絶景ポイント
横浜港のある東京湾は、船舶の航行が集中するポイントにあたります。
船舶通航信号所として
1986年(昭和61年)7月19日(金)「横浜港シンボルタワー」が完成しました。
「横浜港シンボルタワー」のある本牧埠頭D突堤は、横浜港と東京湾との境界に位置します。
横浜港に入出航する船舶の管制を行う役割と、東京湾を航行する船舶へ海上交通情報を提供する航路標識としての役割を担っています。
この「横浜港シンボルタワー」は、航路管制標識と同時に市民公園として一般公開されています。
市内都市部と隔絶された独特の空間です。
タワーは高さ58.5m(アンテナ部含む)で、4階部分地上36.5mの高さに展望台が設置され横浜港湾の様子を眺める事ができます。
入場無料です。
エレベーターもありますが約140段の階段を歩いて登るのも一興です。
また、散策を楽しむことができる緑地公園は多目的広場として、フリーマーケット、コンサート、ショーなど各種イベントを行うことができます。
※売店もあります。
■横浜港シンボルタワー
http://www.y-stower.com/
利用時間は
開場は9:30で季節により閉場時間が変わります。
【11月1日 〜 2月28日】〜16:00
【3月1日 〜 7月20日】〜17:30
【7月21日 〜 8月31日】〜20:00
【9月1日 〜10月31日】〜17:30
※シンボルタワー展望室は閉場時間の30分前で入場制限
公園及び駐車場には閉場時間の40分前に閉まります。
休業日は
年末年始(12月30日 〜 1月3日)と5月、9月、1月の第2火曜日(国民祝日の場合はその翌日)です。
●横浜港シンボルタワーへのアクセス方法
横浜市営バス26系統「横浜港シンボルタワー」行き終点です。
主な路線は、
横浜駅 – 桜木町駅 – 大さん橋 – 山下ふ頭入口 – 小港橋 – 本牧ふ頭入口 – 海づり桟橋
26系統はシンボルタワーの営業時間にあわせて運行しいるので、営業時間外は、ひとつ手前の停留所『海づり桟橋』発着です。休業日も終日『海づり桟橋』発着です。
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タワーの位置(D突堤)とロイヤルウイング航路 |
●もう一つの楽しみ方
横浜大桟橋からロイヤルウイングに乗船すると海側からシンボルタワーが見えます。
http://www.royalwing.co.jp/cruise/course/index.shtml
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タワーがコンテナヤードに囲まれているのが良くわかります |
(余談1)
26系統は利用客が少ないため 横浜市交通局が撤退検討路線として検討されたそうです。
港湾施設なのでスカイウォークのように閉鎖なんてことにはならないでしょうが、このシンボルタワー広場活用アイデアみんなで考えてみましょうポイントの一つです!
良い場所なんですがね。
(海釣り公園)が手前にありますが、ここは殆ど自動車、自転車利用客です。
(余談2)
横浜市内の幾つかの施設では商用撮影等が有料の場所がありますが、ここシンボルタワーも有料です。
映画撮影、その他これに類する動画撮影をする場合1日 20,000円、広告写真等のスチール写真撮影は1日 10,000円かかります。
(観光用の撮影は関係ありませんが、
何を商用写真というか難しい時代に不適合だと思います)
(豆知識)
横浜港に文字が表示される港内航行信号塔が数カ所設置されていますが、横浜港に入る最初の信号がこの横浜港シンボルタワーです。道路の信号は三色表示ですが、港の場合は【文字(アルファベット)】で、国際標準です。知っておくとちょっと自慢できます。
【Iの文字の点滅】→ 入航してよい。
総トン数500トン以上は出航禁止。
【Oの文字の点滅】→ 出航してよい。
総トン数500トン以上は入航禁止。
【Fの文字の点滅】→ 総トン数15,000トン未満の船は入出航してよい。
【Xの文字及びIの文字の交互点滅】→まもなくIの点滅に切り替わる。
航路内の船は航行してよい。
【Xの文字及びOの文字の交互点滅】→まもなくOの点滅に切り替わる。
航路内の船は航行してよい。
【Xの文字及びFの文字の交互点滅】→まもなくFの点滅に切り替わる。
航路内の船は航行してよい。
【Xの文字の点滅】→まもなくXの点灯に切り替わる。
航路内の船は航行してよい。
【Xの文字の点灯】→ 指示された船以外は入出航禁止。
※横浜港で身近な航行信号は山下公園脇に建っています!!!探してみましょう!!
No.200 7月18日(水)無限の境界
1997年(平成9年)7月 18日(金)、
横浜市西区西区みなとみらい2丁目に複合商業施設「クイーンズスクエア横浜」が開業しました。
2012年で創業15周年を迎えました。
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HPより |
「クイーンズスクエア横浜」は3棟の連なる独特の「タワー」プラス一棟で構成されています。
ここには、オフィス、商業施設、ホテル、ギャラリー、ホールなどがあり、みなとみらいエリアを代表する建物です。
http://www.at-yokohama.com/
http://www.qsy-tqc.jp/
2004年(平成16年)2月1日には地下に「みなとみらい駅」(横浜高速鉄道みなとみらい線)が開業しました。
地下4階のホームから地上フロアまで吹き抜け構造となった「みなとみらい駅」は、鉄道ファンだけでなく多くの利用者に“未来都市”を感じさせる大アトリウムとなっています。
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画像では読めませんが限られた移動時間にお読みください?! |
この吹き抜け空間には、ジョセフ・コスースの黒御影石で作られた壁面アートがあり、利用者を驚かせます。
ゲーテと並ぶドイツ古典主義を代表するフリードリヒ・フォン・シラーの「デンマーク王子アウグステンブルク公にあてた美学的なことに関する書簡27号」の一部を引用した一文がデザインされています。
「The Boundaries of the Limitless」
Der Baum treibt unzahlige Kieme,
die unentwickelt verderben und screckt weit mehr Wurzeln, Zweige und Blatter nach Nahrung aus
als zu Erhaltung seines Individuums und seiner Gattung verwendet werden.
Was er von seiner verschwenderischen Fulle ungebraucht und ungenossen dem Elementarreich zuruckgiebt
das darf das Lebendige in frohlicher Bewegung verschweigen.
So giebt uns die Natur schon in ihrem materiellen Reich ein Vorspiel des Unbegrenzten
und hebt hier schon zum Teil die Fesseln auf deren sie sich im Reich der Form ganz und gar entledigt.
(無限の境界)
樹木は生育することのな
無数の芽を生み、
根をはり、枝や葉を拡げて
固体と種の保存にはありあまるほどの
養分を吸収する。
樹木は、この溢れんばかりの過剰を
使うことも享受することもなく自然に還すが、
動物はこの溢れる養分を、自由で
嬉々とした自らの運動に使用する。
このように自然は、その初源から生命の
無限の展開に向けての序曲を奏でている
物質としての束縛を少しずつ断ち切り
やがて自らの姿を自由に変えていくのである
なぜ ここに この作品? という素朴な疑問を考えるのも現代アートの面白いところでしょう。無限の境界とは?何故シラー?
興味は尽きません。
横浜高速鉄道みなとみらい線は「クイーンズスクエア横浜」にあわせ、1998年(平成10年)に開通の予定でしたが、6年遅れて開業しました。
http://www.mm21railway.co.jp/station/minatomirai/index.html
「クイーンズスクエア横浜」の概要
クイーンズタワーA:高さ約172m・地上36階・地下5階
主に日揮の本社として使用されています。
クイーンズタワーB:高さ約138m・地上28階・地下5階
クイーンズタワーC:高さ約109m・地上21階・地下5階
ホテル棟: 地上25階 地下4階
パン パシフィック 横浜ベイホテル東急(1997年(平成9年)8月7日開業)
(立地性)
「みなとみらい駅」とランドマークタワーを経由しJR「桜木町駅」をつなぐ役割と同時に、みなとみらいホール、パシフィコ横浜、ホテルといった大型施設の利用客を受け入れる空間として機能しています。
1980年代の後半にこのみなとみらい空間をデザインする段階では、フランスパリのラ・デファンス地区のような位置づけを持たせ、人工地盤上による歩行者に完全開放された空間プランも考えられていましたが、ここにその夢の一部が実現しています。
商業施設は、開業初期はかなり大人感覚の構成が中心でしたが、近年はティーンエイジ向けにシフトしてきたようです。
「109」の登場には驚きました。
(勝手な予測)
桜木町駅ビルが「コレットマーレ」と繋がると通路部分がパシフィコの先まで連続性を持つことになります。その先に“横浜ドーム”ができると、これまた“みなとみらい”の姿もかなり変わってくるのではないでしょうか。
(新しい相乗効果?)
三菱地所グループが展開する
「MARK IS みなとみらい」が2013年6月21日にオープンしました。
http://www.mec-markis.jp/mm/
ライバルとなるのか?相乗効果となるのか?
客足は順調に伸びているようです。
(余談)
1997年(平成9年)7月 18日(金)フジテレビで当時超人気番組「料理の鉄人」が放送されました。
テーマは「シャコ対決」
「キッチンスタジアムに3人目の寿司職人がやって参りました。果たして「3度目の正直」は成るかどうか。各界の著名人を虜にしてきたハマの寿司職人。」の前口上で登場したのが
野毛の「松葉寿し」主人 松野 義一さんです。
【鉄人】は、中華の陳建一さんでした。
ジャッジは、鉄人の勝利でしたが、寿司というジャンルでの挑戦者としては過去最高の接戦でした。
No.199 7月17日(火)山手独立。
1899年(明治32年)7月17日(月)の今日。
治外法権が解消された通商航海条約が発効しました。
これによって、(一週間後の24日)より横浜居留地で内地雑居(ないちざっきょ)が始まり「山手町」が誕生します。
(互恵への道)
1858年7月29日(安政5年6月19日)アメリカと日米修好通商条約を結び、開国を約束して以来、日本は不平等条約に苦慮します。
政権が変わろうと、革命が起ろうと外交は一貫して過去の条約が生きていますから、治外法権と関税自主権の欠如が明治時代に入り重くのしかかってきました。
「横浜」は、開国後外国人の治外法権エリア「居留地」のある町でした。
貿易上の関税障壁は目に見えにくい不平等でしたが、
居留地(治外法権エリア)の存在は、あきらかに実感できる不平等でした。
欧米列強、特に英国と米国は自分たちの暮らすエリアを現在の山手町周辺に決めます。
そして警備のため自国の軍隊を駐留させます。
(現在の港の見える丘公園周辺)
No.175 6月23日 フランス軍港があった丘
ここを英米人は英語で”Yamate Bluff”または”The Bluff”(切り立った岬という意味)と呼びました。
(山手と山下)
外国人商館が多く立ち並んでいた、山下町と
外国人が住居や公園を設けた山手町は、地名として“対”になっています。
山の手(小高い場所)とその下のエリアという意が地名となりました。
最初から山手という地名があったわけではありません。
幾つかの段階を経て「横浜市山手町」が誕生します。
元々は、周辺の町村の境界ゾーンでした。
久良岐郡北方村、石川村、中村、根岸村の隣接する山間丘陵地が
現在の山手ゾーンでした。
明治に入り、
国内の行政区分が整理され、全国の郡区町村編制が行われます。
開港以来治外法権となっていたこの場所にも新しい町村区分を施行しますが、外国人居留地として町村名が除外されます。
その後、すぐにこの居留地も日本の土地ということで、1884年(明治17年)7月に26の町が設けられます。
谷戸坂町、山手本町通、富士見町、内台坂、西坂町、地蔵坂、小坂町、大丸坂、撞木町、環町、公園坂、西野坂、汐汲坂、高田坂、三ノ輪坂、稲荷町、南坂、貝殻坂、宮脇坂、陣屋町、諏訪町通、弓町、畑町、矢ノ根町、泉町、林町
現在これらの一部が坂名や地名として残っています。
(山手ブランドを守ったもの)
現在横浜でも有数の高給住宅地としてブランド力を持っている「山手」ですが、
今日まで上質の環境が維持されてきたのは偶然ではありません。
最初は外国人によってつくられた住宅地ですが、戦後はこのエリアに暮らす住民の手で、議論し合意形成しながら街の環境を守ってきた歴史があります。
こここそ、歴史的文脈に沿った街並が現在に活きているゾーンといえるでしょう。
閑静な暮らしを維持したい思いと、観光資源としてより多くの人々に街の資産を共有していきたいという願いの調和が山手の強い原動力になっています。
「山手まちづくり推進会議」
http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/project/community/09yamate.html
http://sns.hamatch.jp/community/?bbs_id=592
(不平等条約改正交渉の歴史)
簡単に歴史を振り返っておきます。
1871年(明治4年)
岩倉具視ら一行が最初の不平等条約改正交渉のため欧米各国に向かいます(遣欧使節団)が大失敗します。
その後、寺島宗則、井上 馨、大隈重信、青木周蔵、陸奥宗光と歴代の外務大臣が改正を目指しますがうまくいきません。
内地雑居(外国人の国内移住移動の自由)を認めれば外国資本による侵略が進み、日本の伝統的な文化や生活が破壊されるという日本国内の保守的な立場と
日本は未だ非文明国であるのだから領事裁判権を維持するのは当然という列強の立場で
治外法権の居留地が必要だという考えが不平等条約撤廃を遅らせます。
1894年(明治27年)7月16日に日英通商航海条約が調印、
遅れて1894年(明治27年)11月22日に米国と調印、
以降
翌1895年(明治28年)にかけて同内容の条約を欧米各国と結びます。
結果、調印から5年後の
1899年(明治32年)7月17日の今日治外法権が解消された条約が発効し、
日本は長年の不平等条約撤廃を大きく前進させました。これが
第二次伊藤内閣の外務大臣となった陸奥宗光によって治外法権を完全に撤廃することができた通称「陸奥条約」といいます。
1.領事裁判権及び特権撤廃
2.日本国内を外国人に開放
3.関税自主権の一部回復
4.相互対等の最恵国待遇
5.条約は1899年発効。
有効期間は12年間(1911年まで)とします。
が 目に見えにくい関税自主権は不平等のままでした。
ようやく
1911年(明治44年)に小村寿太郎が関税自主権の完全回復を調印し互恵関係が成立します。
半世紀以上かかって日本は初めて独立を果たすのです。
No.198 7月16日(月) 最後で最後の
2012年の今日は“ハッピーマンデー”「海の日」です。
海の日は、元々20日でしたので「7月20日」に横浜の海がらみで紹介しましょう。
1959年(昭和34年)7月16日(木)の今日、横浜市交通局が日本で最も遅くトロリーバスを(最後に)導入しました。
ほとんど消えてしまった昭和遺産の一つに<トロリーバス>があります。横浜市内にも短い期間でしたが、横浜の公営交通の一翼を担いました。
しかも、
公営交通の中で、一番遅くに導入し、
廃止も一番遅く1972年(昭和47年)3月31日(金)まで、
都市型としては最後まで残ったトロリーバスです。
“トロリーバス”といいますが、法令上は「無軌条電車」線路の無い電車として扱われます。
横浜では市電路線の延長線に限定路線として開通しました。
“トロリーバス”のメリットディメリットは、Wikiを参照願います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/トロリーバス
1964年の東京オリンピックで活躍するなど、このトロリーバス路線は黒字運営でしたが、他都市のトロリー路線撤退や、横浜市電が全廃されたことで車両部品の調達や施設関係のマネジメントに支障を来たすことが予測されたため廃止となりました。
当時のトロリーバス路線は
現在の【202系統(201系統)】で体験できます。
停留所も変わっていません。
今回は、トロリー時代の写真がないので
路線バスの旅!
【202系統(201系統)】散歩といきましょう。
【横浜駅西口】(11番乗場)
ハマボールイアス
No14 1月14日(土) ハマボール閉鎖
東急ハンズ
【岡野町】
ちょっとしたラーメンスポットです。
何時も並ぶ家系ラーメン元祖「吉村家」、「横濱屋」「山頭火」
アフリキコ(ちょっと歩きますがガーナのお店です)ジャンベ教室も開催しています。
No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王
【浅間下】
浅間神社
【浅岡橋】
【浅間町車庫前】
浅間町車庫は西区スポーツセンターがあります。
旧東海道と八王子道との分岐点“追分”があります。
【洪福寺】
洪福寺松原商店街
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激安のみならず新鮮なネタで連日行列の店が多く並びます |
【宮田町】
【峯小学校前】
一品香
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(本社工場が近くにある???)本店は長者町です。 |
【峰岡町】
【常盤園下】
【和田町】
【和田町交差点】
【常盤園前】
【横浜新道】
横浜国立大学
【岡沢町】
【市民病院下】
三ツ沢公園
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園
【三ツ沢西町】
豊顕寺(ぶげんじ)
【三ツ沢上町駅前】
エス山本繊維加工(注染てぬぐいの小さな工場があります)
【三ツ沢小学校前】
せせらぎの小径
【三ツ沢中町】
せせらぎの小径
【三ツ沢下町駅前】
【島田橋】
【ガーデン下】
【松本】
反町駅(東急東横線)
フランセ
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フランセ 発祥の店です |
【泉町中央】
【泉町】
横浜市防災センター
http://www.city.yokohama.lg.jp/shobo/bousai/
【鶴屋町3丁目】
【横浜駅西口】
No.197 7月15日(日)老舗ホテルを支えた横浜
1878年(明治11年)7月15日(月)の今日、
箱根宮ノ下に日本初のリゾートホテル「富士屋ホテル」が開業しました。
富士屋ホテルは創業時、深く横浜と関わっていました。
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7月6日のテーマにしようかなと考えていたポスター |
箱根富士屋ホテルは、
1951年(嘉永四年)神奈川区青木町に医者の息子として生まれた山口仙之助によって創業されました。
仙之助は小さい頃から俊才として頭角を現します。
東海道神奈川宿青木町で漢方医を営む大浪昌随の五男として生まれた彼は、10歳で栃木県出身の実業家で遊廓神風楼(幕末は伊勢楼)の経営者だった山口粂蔵の養子となります。
11歳の時に江戸浅草の小幡漢学塾で学び、1868年(明治元年)17歳の時、日本最初のハワイ移民149人の渡航に際し通訳として随行します。
彼がどこで通訳を勤めるほどの語学力を身につけたかはまだ不明ですが、現在研究がすすんでいるようです。
その後外国行きのチャンスを探していた仙之助は、1871年(明治4年)11月にアメリカ本土の土を踏みます。
アメリカでの暮らしは皿洗いをするなど困難を極めましたが、資金を貯め牛を購入し日本に持ち帰るという当時では大変な事業を成し遂げます。(日米間約一ヶ月の時代です)
日本に帰った仙之助は、港町から高島に移った父の遊郭神風楼近くに牧場を開いた(可能性が高い)ようです。
横浜に登場した牧場は、当時の政府の目に止まり内務省駒場勧業寮に牛を売却します。
この時、かなりの資金を手にしたはずですが仙之助は、
事業ではなく学校に学ぶことを選びます。
彼は福沢諭吉の慶応義塾に入社(入学では無く慶応は入社でした)します。
福沢は山口仙之助に“(やはり)君は実業に向いている”とアドバイスし、
外人客専門ホテル設立に踏み出します。
神奈川県足柄下郡底倉村の老舗旅館「藤屋旅館」を買い取り「富士屋ホテル」と改名し1878年(明治11年)7月15日(月)に開業する運びとなります。
仙之助が箱根に着目した理由はわかりませんが、福沢の意見が強く影響されていたことは間違いありません。
福沢はオープンした「富士屋ホテル」に何度も仙之助を尋ね、友人も紹介しています。
当時、外国人向けのホテルに必要な食材は現地で調達できませんでした。
牛乳をはじめ、多くの食材や消耗品は横浜から小田原まで馬車で運び、ホテルまでは人力で運んだそうです。
「山口仙之助、箱根宮ノ下に500年の歴史を有する安藤勘右衛門経営の温泉旅館藤屋を買収して洋風に改造し、底倉区有温泉の使用権を獲得、富士屋ホテルと改称外国人専門のホテルを開業す。当時パン、肉類の如きホテルの必要の食料品は凡て横浜より供給を受け、横浜・小田原間は馬車便、小田原宮ノ下間は毎日早朝宮ノ下より人夫を派し運搬させ朝の食卓に供せり」(日本ホテル略史)
箱根福住楼に良く湯治にきていた福沢はこの立地でのホテルビジネスにはインフラ整備が必要と説きます。
この助言に動いた箱根の実業達が道路造を始めます。
1880年(明治13年)に福住旅館の主人福住正兄達が「小田原ー箱根湯本間」を完成させ、1887年(明治20年)には仙之助が、総工費1万882円をかけ距離約7kmの人力車道を開通させます。
横浜と富士屋ホテル間の物流の完成がホテル成功の重要な要素となったことは間違いありません。
現在も日本を代表するリゾートホテルの品質と風格は変わりません。
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猫足のバスタブです。酔っぱらっているときは注意! |
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ジョンレノンの座ったテーブルでジントニック |
「富士屋ホテル」
http://www.fujiyahotel.jp
(仮説)
すでに研究されていると思いますが、素人想像の愉しみついでに“仮説”を一つ。
父、山口粂蔵の経営していた「神風楼」はその後廃業しますが、高島嘉右衛門との交流もかなりありました。
高島はガス灯事業のすぐ後に東京電灯会社の社長になるなど電気事業に目をつけています。そこで、
高島嘉右衛門が、電力発電のアドバイスを仙之助にしていたのではないか?(という妄想を抱いています)
仙之助は、1891年(明治24年)「外人商館横濱バグネル・アンド・ヒル商會より45馬力の火力發電機」により館内照明点灯を実現し1893年(明治26年)にはホテル内に自力で水力発電機を設置、三年後には宮ノ下水力電気合資会社を設立し地域に電気供給を始めます。
(余談)
その後1908年(明治40年)箱根に創設された「箱根水力電気」株式会社は、
その後「横浜共同電燈会社」と合併した後「横浜電気会社」「東京電力」と変遷していきます。
当時の発電所は 施設を新しくして現在も発電を続けています。
100歳迎える「塔ノ沢水力発電所」
No.196 7月14日(土)きもかわいい
昨日に引き続き、アート公開情報から。
2012年(平成24年)7月14日(土)の今日から、横浜美術館で「奈良美智:君や 僕に ちょっと似ている」展が開催されました。
“ならとも”未体験の方はぜひ!彼の世界へどうぞ。
“ならとも”をご存知ですか?
奈良美智、世界的に評価されている日本を代表するポップアーティストです。
横浜美術館では2001年に「I DON’T MIND, IF YOU FORGET ME」(8月11日〜10月14日)が開催され11年ぶりの個展となります。
今回の奈良美智展は
「奈良美智:君や 僕に ちょっと似ている」
・会場:横浜美術館
・会期:2012年7月14日〜9月23日
・休み:木曜日
・URL:http://www.yaf.or.jp/yma
・内容:日本を代表する現代美術家、奈良美智の横浜美術館では11年ぶりとなる個展。
絵画や彫刻やドローイングなど、新作により構成されます。
初挑戦となる大型のブロンズ彫刻にも注目。
(ゆめおおおか)
彼の作品が初めて横浜に登場したのは1955年の「ゆめおおおかアートプロジェクト」だったと記憶していますが詳細は未確認です。
当時、すでに奈良美智は村上隆とともに次代を担うポップアーティストとして国際的に評価されていましたが、国内ではごく一部のキュレーターと熱狂的なファンに注目されている『現代アート』の新人という扱いでした。
その後テレビ東京「たけしの誰でもピカソ」やNHK教育テレビ「新日曜美術館」、 毎日放送「情熱大陸」、NHK「たけしアートビート」でレギュラーコメンテーターなど、メディアが取り上げるに従い名実共に(日本)の“ならとも”となりました。
「ゆめおおおかアートプロジェクト」は、横浜市港南区上大岡駅の再開発計画の一環として計画されたパブリック・アートプロジェクトです。
1997年(平成9年)に完成した複合ビル「ゆめおおおか」に導入されたアート・プロジェクトは、施設内外19ヵ所に18人の若手アーティストの作品19点が設置され、その中でも強い人気作品が“ならとも”です。
「ゆめおおおかアートプロジェクト」
http://www.yumeooka.org/index.html
このアートプロジェクトのキュレーターは、新宿副都心のアートプロジェクトで一気に頭角を現した南條史生※1で、彼は「日本とアジアの若手作家を中心とする」「作品はすべてコミッションワークとする」「土地の歴史や生活に配慮する」などの条件を満たす“先駆的”現代アーティストを選んだことで多くの注目と評価を得ました。
後日談ですが、“ならとも”の作品群が展示されている空間は、まるで彼の作品のために“無理矢理”設計したかのような構造になっていますが、全く逆で、この空間を埋めるには“ならとも”しかないと南條史生は著書の中で書いています。
横浜美術館同様に上大岡にも「奈良美智」を体験しにいきましょう。
ここに「奈良」さんの作品があります
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※1南條史生
日本を代表するインディペンデント・キュレーターの一人。
妻有のトリエンナーレを軌道に乗せた北川フラムと共に草分け的存在であり双璧といわれています。
90年代に横浜市内の都市デザインにもアートの視点から多く関わり、第一回横浜トリエンナーレのキュレーターとしても活躍します。
現在は森美術館館長。
No.195 7月13日(金)BRAVE HEARTS
海上保安官の「仙崎大輔」を主人公にした超人気漫画「海猿」の映画第4作が
2012年7月13日(金)の今日、ロードショー公開されました。
この第4作目は横浜が舞台です。
(海猿ムービー)
海上保安庁を舞台にした人気漫画を原作にして制作された映画「海猿」は、当初映画3作目の「THE LAST MESSAGE 海猿」で完結の予定でしたが今回の第4作品が制作公開されるに至りました。
2004年6月12日に公開された第一作「海猿 ウミザル」は広島県の呉(第6管区)を舞台に撮影され、ロケ地が観光スポットとなっています。
そして映画2作目は「LIMIT OF LOVE 海猿」が2006年5月6日に公開され、舞台は鹿児島湾で展開(第10管区)。
3作目は2010年9月18日公開まさにTHE LASTと銘打って「THE LAST MESSAGE 海猿」が主に福岡県北九州市を撮影舞台に制作公開されました。
この作品で完結となりましたが、原作の最終話(航空機事故)を描くことができませんでした。これが制作者、ファンともに第4作に向かわせたキッカケのようです。311の東日本大震災という未曾有の災害もあり、制作サイドを強く突き動かしたものがあったと聞きます。
映画4作目は「BRAVE HEARTS 海猿」2012年7月13日公開で、主人公、仙崎大輔は第十管区から第三管区海上保安本部特殊救難隊第二隊隊員に異動、舞台は横浜に移ります。
http://www.umizaru.jp/index.html
BRAVE HEARTS 海猿 特報
http://www.youtube.com/watch?v=ZHW0OErKlSc&list=PL423DAB1A7F4A0151&index=1&feature=plpp_video
BRAVE HEARTS 海猿 予告
http://www.youtube.com/watch?v=WcLJsZj-mGs
(第三管区海保)
今回舞台となる第三管区海上保安本部は、横浜市中区新港埠頭にあります。管轄範囲は、主に関東地方・東京都島嶼部・東海地方の太平洋です。
http://www.kaiho.mlit.go.jp/
ふだん、海保の活動に触れる機会は殆どありませんが、
この横浜第三海保には「横浜海上防災基地」があり、海上保安資料館 横浜館が併設されています。
平成16年12月10日に開館し、平成13年12月22日に発生した、九州南西海域不審船事案にかかる工作船及び回収物などを展示しています。
【公開時間】 午前10時〜午後5時
【休 館 日】 毎週月曜日(休日の場合は翌平日)
年末年始(12月29日から1月3日)
【見 学 料】 無料
日本は、島国であるため領海と排他的経済水域(EEZ)を合わせた面積だけでも約447万km2あり、領土(約38万km2)の約11.8倍を管轄域としています。さらに日米SAR協定に基づく捜索救助区域(本土より南東1200海里程度)活動に関しては「第三管区海保」が最も活躍しています。
その理由の一つが第三管区海保に配備されている、世界最大の巡視船「しきしま (JCG Shikishima、PLH31) 」です。
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海保HPより |
全長150メートル 総トン数約6,500トンで、35mm連装ガトリング砲が2門、40mm機関砲が2門を装備しています。
実は、この「しきしま」は「1992年に予定されていたイギリス・フランスから日本までのプルトニウム運搬船護衛用として1990年度予算で開発された。」(Wiki)ものです。テロリストに襲撃される可能性が高い任務に就くため、他の巡視船と異なる構造、機能を持っています。航続距離は20,000海里以上と非常に長く、ヨーロッパから日本までオーストラリア南部回りで寄港無しで航海することができます。巡視船では唯一の二次元対空レーダーを備え、全天候型の対テロ戦闘能力を備えています。
他の巡視船と比べて全くスケールの違う巡視艇で、赤レンガ倉庫の奥に停泊しているときは、一目でその違いがわかります。
運営面でも特別扱いで「しきしま」の船長ら数名の主要乗組員を除いて、海上保安庁職員名簿に掲載されていません。
航続距離の長さとその装備力から“今まさにホットな”尖閣諸島や沖ノ鳥島の周辺海域を定期的に巡回してプレゼンスを示す任務が増えています。
(余談)
横浜港には、省庁別に国土交通省(海上保安庁)、内閣府外局(神奈川県警水上署)、厚生労働省 地方厚生局 麻薬取締部、財務省横浜税関の取締船が湾内を航行しています。特に水上署、横浜税関、麻薬取締部は歴史もあり静かな“暗黙の”緊張感があるそうです。
ちなみに国土交通省(海上保安庁)1946年(昭和21年)7月1日に誕生しました。
No.194 7月12日(木)ソシアルビジネスの鏡
一行の出会いでした。
膨大な年表に朝田又七という名を見かけました。
「1902年(明治35年)7月12日)の今日、朝田又七が水道事務を分掌した」
という記述でした。
資料を調べていくうちに、彼はまさに明治時代の横浜を生きた実業家であり政治家として八面六臂の活躍をした人物である片鱗が見えてきました。
これをきっかけに追いかけてみたい魅力ある横浜に因んだ人物の一人です。
1889年(明治22年)4月1日、横浜市を初め30の都市が「市」となりまます。
(明治21年4月17日法律第1号 市制第126条)
法人格を持つ地方自治体の誕生です。
自立した横浜市は神奈川県から一部権限を委譲されますが、
代表的な事業の一つが水道の経営でした。
当時人口12万人を擁する横浜市にとって
“ペスト、コレラ”対策に上下水道事業は待ったなしの緊急課題でした。
初代神奈川県営水道事業の責任者、三橋信方(後の横浜市長)から
横浜市に事務移管が行われ、市はそのために経営委員会を設置します。
最初の代表(現在の水道局長)として
朝田又七が水道事業を担うことになります。
その後 朝田又七は、横浜市水道(事業)局の責任者を4回も担当します。
2代目、4代目、6代目、そして8代目です。
横浜で最多(最長)の水道局長となった人物です。
冒頭の
「1902年(明治35年)7月12日」は
朝田又七が第6代水道事務分掌者(初代水道局長)となった日です。
2代目(明治24年〜?)
4代目(明治28年〜明治32年)
1895年(明治28年)取水を道志川に変更工事開始(〜1997年)
6代目(明治35年〜明治36年)
※1902年(明治35年)横浜水道事務所を横浜市水道局に改称
8代目(明治43年〜大正3年)
彼の代表的な功績は、横浜市の水源を道志川の“より効果的な取水場所”に移す大事業を成功させたことでしょう。
(企業育成の名人)
この朝田又七、本業は実業家です。
1838年(天保9年12月)愛知県豊橋に生まれ、
1861年(文久元年)横浜で事業を始めます。
回漕店で岩崎弥太郎の信頼を得、三菱商会の艀業務をとりしきります。
その後、横濱船渠株式合社(三菱造船)取締役を経て社長となります。
彼の職歴はこれだけではありません。
横浜鐵道(現在のJR横浜線)の社長
第二銀行、横浜実業銀行、明治生命の取締役
公職としては水道局長だけではなく、
横浜市会議員、横浜市議会議長、貴族院議員を歴任します。
1911年(明治44年)10月に設立した
猪苗代水力電気株式会社の監査役にも就任していますが、
当時“電力”は最大顧客の鉄道関係者による経営が多かったようです。
現在の電力会社も原点に戻り利用者(国民)の視点で経営をして欲しいものです。
残念ながら朝田又七は1914年(大正3年)1月6日、8代目水道局長在任中に亡くなります。地味ながら公共性の高い、社会貢献の事業に尽力してきた記憶に残したい明治の横浜人といえるでしょう。
水道関連
No.291 10月17日(水)横浜水要日!
No.152 5月31日(木) もう一つの近代水道発祥の地
No.151 5月30日 100年前の先見性
1916年(大正5年)5月30日付けで
道志村水源林を横浜市が買い上げる契約が結ばれた日です。
No.121 4月30日 日本にCivil engineeringを伝えた英国人
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3月9日 事業失敗鐵道、横浜線物語
4月15日 生きるとは、生きる価値を見つけることだ
(長谷川伸は少年の頃 横濱船渠で働いていました)