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No.193 7月11日(水) Hi Come on!

むかし、初めて小説を書いてみようと思ったテーマの冒頭部分が
「Hi Come on SAN」「いいえ、私は嘉右衛門(かえもん)でございます」なんてジョークから始めよう思った井伊掃部頭銅像の像がある掃部山(かもんやま)の話しを今日は紹介します。
1909年(明治42年)の今日7月11日付けで「井伊大老銅像除幕式が掃部山で挙行された」と報じられました。

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(悲劇の銅像)
横浜市西区紅葉ヶ丘の「掃部山公園(かもんやまこうえん)」に彦根藩15代藩主「井伊直弼(いいなおすけ)」の像が建っています。現在の像は二代目で1954年(昭和29年)に再建されたものです。

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建立の発端は、元彦根藩の関係者有志が開港50周年祝賀の節目に開港の舞台となった横浜に井伊直弼の像を建立し顕彰したいと横浜市側に伝えます。
建立後、付近一帯と像を条件付きで寄付も申し出ます。

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彦根市にある井伊直弼像
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ご存知、彦根のゆるキャラ「ひこにゃん」

除幕式は、
当初1909年(明治42年)7月1日開港50周年式典にあわせて挙行の予定ですすめられました。
6月に案内状を各方面に発送しますが、幕末、井伊直弼が断行した“安政の大獄”で身内、師らを処刑された関係者から異議が出たのです。
特に伊藤博文(恩師は吉田松陰)は怒りを露にしたといいます。
一方で、明治政府の薩長偏重の政治に対する不満が強く時勢にあったことを受け“抵抗の象徴”でもありました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/安政の大獄
※安政の大獄をめぐる井伊直弼議論は
現在新しい資料による展開を示していますが、
概ね井伊直弼の横暴という評価が多いようです。

横浜市側は“準備が整わない”という理由で延期を求め、10日遅れて除幕式が挙行されることになります。

■関連年表
1884年(明治17年)旧彦根藩士らが「鉄道山(現:掃部山)」と呼ばれていた丘を買取ります。
1914年(大正3年)に約束通り掃部山一帯と像が横浜市に寄付されます。
1923年(大正12年)関東大震災で大きくズレますが倒れることはありませんでした。
1943年(昭和18年)撤去されます。
1954年(昭和29年)開国100周年記念(日米 修好通商条約締結100年)
に際し再建されます。
1957年(昭和32年)銅像の冠と刀の一部が盗まれそうになりますが未遂に終わる事件が起ります。
1958年(昭和33年)開港100周年を記念して井伊直弼像の記念切手が発売されます。

(開国か開港か)
横浜にとって井伊直弼という人物はどんな関係があるのか?
これがもう一つの議論のテーマになります。
「開国の立役者」は井伊直弼かもしれないが「開港の恩人」という表現で岩瀬忠震こそ横浜の重要人物だ。井伊より岩瀬!
という議論です。また、日本開国と横浜開港は別のことだという議論もあります。
1954年(昭和29年)開国100周年記念以来、横浜では「開国」ではなく「開港」を全面に打ち出していきます。
2009年に行われたY150では「開港開国博」としました。
開港によって現在の横浜が生まれ、開国によって現在の日本があります。この像を見上げる度に思います。

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桜の名所です。

「みなとのみらい」はどこへいこうとしているのか?  と。
※岩瀬忠震は別な機会に取り上げます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/岩瀬忠震

(碑文資料)
■1954年像が再建されたときの碑文
安政五年大老井伊掃部頭直弼は/内外の紛擾を排して/日米修交通商条約の調印を決行しひろく通商の基を開き/近代日本発展の端緒をつくった/明治十四年旧彦根藩有志は/直弼追慕のため建碑の挙を興し/大老の事蹟に縁故深き横浜に地をトし/戸部町に一岡を購い/掃部山と称してここに造園を施し/明治四十二年園内一角に銅像を建立し/越えて大正三年園地とともにこれを横浜市に寄附した/不幸大戦中の金属回収により銅像は昭和十八年撤去の運命に遭い/公園また昔日の悌なきところ/たまたま昭和二十九年開国百年祭を催すに方り/記念行事の一環として/開国に由緒深き井伊掃部頭の銅像再建と掃部山公園の整備を企画し/ひろく市民の協賛を求め/ここに復旧の業を興した

■1989年開港130周年に際し建てられた碑
「横浜の開港と掃部山公園」
安政五年(一八五八)/日本の近代化に先駆した大老井伊掃部頭直弼は/よく内外の激動に耐え/機に臨み英断/日米修好通商条約を締結した/安政六年/ここに横浜は/未来の発展を予見するかのように/世界の海洋に向って開港した/明治十四年(一八八一)/井伊大老を追慕する彦根藩士有志により/開港に際しての功績を顕彰するため/記念碑建立の計画をたて/明治十七年この地の周辺の丘を求め/掃部山と称し造園を施し/明治四十二年(一九〇九)/園内に銅像を建立しこれを記念した/大正三年
(一九一四)/井伊家より同地並びに銅像を横浜市に寄贈/掃部山公園として公開された/ここに/平成元年を以て/市政一〇〇周年/開港一三〇周年を迎え/これを記念してこの碑を建立した

■(1994年3月)「井伊掃部頭ゆかりの地」教育委員会 説明文
 明治四二年七月,横浜開港五〇年記念に際して,旧彦根藩有志が藩主の開港功績の顕彰のため,大老井伊掃部頭直弼の銅像を戸部の丘に建立し,その地を掃部山と名付けて記念しました。銅像の左側にある水飲み施設はその時に子爵井伊直安より寄付されたものです。
当時の銅像は,藤田文蔵,岡崎雪声によって製作され,その姿は「正四二上左近衛権中将」の正装で,高さは約三・六メートルを測りました。しかし,当初の銅像は,昭和一八年に金属回収によって撤去され,現銅像は,昭和二九年,横浜市の依頼により慶寺弓長が製作したもので,その重量は約四トンあります。
なお,台石は妻木頼黄の設計で,高さは約六・七メートルあり,創建当初のものが残っています。

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(関連ブログ)
No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭

No.180 6月28日 横浜能楽堂、その点と線

No.192 7月10日(火)【横浜の河川】もう一つの大岡川

都市には必ず川の歴史があり氾濫と治水の歴史でもあります。
1976年(昭和51年)7月10日(土)の今日は、大岡川治水工事の一貫として着工した「大岡川分水路」(全長3,640m)の部分通水(笹下川から根岸湾まで)を開始した日です。light_大岡川水系図 のコピー大岡川は、港南区の丘陵地に水源を持ち、南区、中区の密集市街地を流れ横浜港内に注ぐ全長約15kmの都市河川(2級)です。江戸時代から埋立てや治水を通して流域の人々とともに歩んできました。

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

No.2148月1日(水)開港場を支えた派川工事

No.435 大岡川物語(1)

【番外編】(ざくっと横浜その1)村は川に沿って生まれる

幕末開港後、急激に都市化が進むにつれて横浜は大岡川の氾濫による水害の歴史を歩むことになります。実は、大岡川は分水路の川です。
最初の大岡川分水路は<堀川>です。開港場の出島化の目的が主でしたが、中村川を分流する役割も持っていました。
light_20150409161611大岡川の下流の横浜中心部を守るために、次に完成した分水路が中村川から分流する「堀割川」です。明治初期に完成した堀割川によって一端大岡川下流域の大規模治水事業は終わります。
スクリーンショット 2015-07-09 23.24.46戦後、中・上流部の宅地化が急速に進むことで洪水が多発し、大岡川支流の「日野川」から地下トンネルで磯子地区に水を逃がし、出口から根岸湾までを水路で通過させる計画が大岡川分水路です。大岡川の治水対策として立案され、昭和44年を初年度に7カ年計画が立てられました。
1976年(昭和51年)7月10日(土)に下図の分水庭から磯子区までが完成します。

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笹下川取水口
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笹下川取水口
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磯子区側出口
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磯子区側出口あたりの航空写真

(完成)

笹下の分水路は地下二階建となっていて。地下一階は日野川から分かれた流れが根岸湾に繋がり、地下一階の<笹下川>の水量がある一定量増水すると分水路に放流される構造になっています。
166億かかったという金額に少し疑惑もありましたが実際に見ると、なるほどと妙になっとく。(20120711追記)

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この下に左から右に流れる日野川分水路が通っています。

大岡川は、運河の歴史でもあります。江戸から明治にかけて堀割川、中村川の工事は、大岡川の氾濫を抑制するためのものでした。この大岡川分水路は、昭和40年代の急激な横浜市の人口膨張に備えて実施された計画です。横浜市は戦後、特に30年代から郊外部の宅地化が進みました。E6-A8-AA-E6-B5-9C-E5-B8-82-E4-BA-BA-E5-8F-A3-E6-8E-A8-E7-A7-BB60s特に大岡川上流域の人口推移は、下記の通りです。
区別人口推移 住宅地の拡大は、地域の緑被率を低下させ、降雨水、生活水が直接河川に流れ込み急激な増水の危険性が高まります。
特に下流域への影響は深刻で、集中豪雨のときに海抜の低い“お三の宮付近(横浜市南区)”あたりで、大洪水が起る危険を残していました。大岡川下流域は住宅や工場が密集しているため、河川の拡幅工事には巨額な事業費と時間が必要となります。
そこで計画されたのが、大岡川分水路の建設でした。
横浜市には、二つの分水路があります。
大岡川分水路と帷子川分水路がありますが、対照的な分水路の姿を持っています。帷子川分水路は全長6,610mの殆どが地下トンネルで構成されているのに対し、大岡川分水路は磯子区地域で一部運河の雰囲気を楽しむことができます。

(大岡川分水路河畔プロムナード)
春には根岸湾まで続く桜並木がいっせいに咲き、美しい彩りを見せてくれます。川から海への桜プロムナードを花見の季節に一度は訪れてみることをおすすめします。

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磯子の丘陵地帯を背にしていたため幕末まで禅馬川や杉田川などの小規模な川しかありませんでした。
地名が示すように屏風のような急な断崖の多い湾で狭い砂浜が続く風光明媚な漁村でした。現在は全て埋め立てられ工場が立ち並んでいるため当時を想像するしかありません。
(余談)
ペリーもマッカーサーもこの“根岸湾”の景色をかなり気に入ったようで、勝手に「ミシシッピーベイ」などと名付けました。このエピソードも別の機会に紹介します。

No.700  【横浜の河川】川いろはのイ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6336

No.191 7月9日(火) 宙に舞う話

7月9日はジェットコースターの日です。
1955年(昭和30年)のこの日開園した
 後楽園遊園地に日本初の本格的なジェットコースターが設置されたことから記念日となりました。
横浜でジェットコースターといえば?
みなとみらいの名物コスモロックのある「よこはまコスモワールド」にコースターがあります。
ということで今日は「よこはまコスモワールド」の話しです。(若干こじつけ)

まず「よこはまコスモワールド」誕生から始めましょう。
1989年(平成元年)に開催されたYES’89「横浜博覧会」に世界一の大観覧車と遊園地「子供共和国」が登場しました。(現在は全長ランクで国内4位、世界で第5位)

この時出展した遊具施設が博覧会終了後も継続して現在まで運営されています。
開催時はみなとみらいのNo.23街区にありましたが、
現在は、コスモロックを15街区に移転し運河を挟んで
2街区で横浜市の土地を借りて運営されています。


■3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

●みなとみらい21
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜みなとみらい21

この「よこはまコスモワールド」の運営会社は泉陽興業株式会社で、
大阪市に本社がある遊園地・リゾート施設の設備・企画・運営会社。
観覧車の建設を得意としています。
全国各地に大型観覧車を持ったアミューズメント施設を運営していますが、
特に横浜博を含めエキスポランド(大阪万博)→(現在は廃止)や
愛・地球博記念公園(名古屋博)、
世界デザイン博覧会など博覧会会場での観覧車を中心にした
遊戯施設等をてがけています。

http://www.senyo.co.jp/

(海外でも展開)
「ビッグスケールで世界へ」
「泉陽は中国、台湾、韓国などをはじめ海外においてもこれまでに数多くの大規遊園地を企画・建設し、世界を舞台に活躍しています。とくに中華人民共和国においては上海市「錦江楽園」、広東省「香密湖渡假村遊楽園」、珠海市「珍珠楽園」、北京市「石景山遊楽園」、重慶市「重慶青少年科普文化中心」、南京市「湖濱公園」など数多くの大規遊園地を企画、建設し、また運営指導まで行うなど中国の遊文化の発展に大きく寄与しています。こうした実績をもとに現在ではテーマパークやレジャーを核としたショッピング、グルメとの複合開発など、数多くのビックプロジェクトも手掛けるとともに、遊園施設などの輸出業務に加え、中国からの各種物産、製品の輸入業務にもかかわるなど微力ながらも日中の経済交流にも努めております。
その他韓国ソウルランドやドリームランド、台湾剣湖山世界「摩天廣場」などへの施設納入や運営指導など中国以外の近隣諸国においても本格的な遊園地、テーマパーク、リゾート・レジャー施設の開発を進めるなど海外でも積極的な事業を展開しております。」(HPより)

※最近では東京大学生産技術研究所と産学共同研究で、ジェットコースターの技術を応用した「エコライド」という低炭素化地域交通モデルの実証研究も行っています。

(さあコースターへ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/よこはまコスモワールド
http://ja.wikipedia.org/wiki/コスモクロック21
■現在のコースター関連遊具は
ダイビングコースター「バニッシュ!」
☆急流すべり「クリフ・ドロップ」
スピニングコースター
☆シューティングライド「エキドナの洞窟II」
☆ファミリー・バナナ・コースター
などがありますが、☆印のついている3つのアトラクションは2012年7月14日(土)にリニューアルOPEN!します。
http://www.senyo.co.jp/cosmo/

1990年頃?ランドマークもインターコンチもありません。
まだ大観覧車移動前の頃です

2012年(平成24年)7月現在、このよこはまコスモワールド横に結婚式場ができることで議論になっています。
同じ横浜市の土地を使った遊園地は良く、(他では普通に建っている)結婚式場がダメというのも同じ“ハレ”の空間で、非日常性を楽しむ人たちにとっては不思議な判断のように思えますが議論の行方を見守ることにします。
→建設が決まり2013年6月現在外装工事が進行中です。

何もないのが最高!美術館前

【番外編】横浜で結婚!

No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー

1958年(昭和33年)7月8日の今日、
伊勢佐木から横浜公園に移築された米軍用の室内運動場フライヤー・ジムの接収が解除された日です。
横浜市中心部の大半、市内各地を接収していた米軍の「文化戦略(パブリック・ディプロマシー)」の一コマが終わりを告げました。
その後12月23日、フライヤー・ジムは改修、改築され「横浜公園体育館」と名称変更します。
接収時代を知る人たちはその後も相変わらず「フライヤー・ジム」と呼び続けたそうです。

1972年(昭和47年)3月5日に老朽化で取り壊され「横浜公園」全体が改修整備されます。

フライヤージム
横浜公園脇にあったフライヤージム(横浜市史資料)
 
「アメリカは文化と一緒に戦争している。
 最前線にも図書館の部隊がいたんだ。」
昭和18年大学卒業と同時に兵役に就いた父が
私に戦争を語った時の印象的なフレーズです。
終戦と同時に横浜一帯に進駐したアメリカ軍により、
占領政策は文化戦略と一緒に始まりました。
厚木に降り立ったマッカーサーはそのまま横浜へ直行

1945年(昭和20年)8月、横浜はいち早く<米軍接収の時代>に入ります。
占領されたまま取り残された「沖縄」は別にして、
日本の接収地面積の7割が横浜エリアに集中し、
建造物の接収も6割が横浜市内にあり、
その6割が長期の接収となりました。
横浜市中区中心部(関内地区と横浜港)は接収が集中し74%が治外法権エリアとなっていたため横浜の経済復興が大幅に遅れることになります。
逆に、かつての幕末開国時のような“居留地”的アメリカ文化にどっぷりと浸ることになります。
現実に多くの米兵及びその家族、関係者が市内で憩いの場を求め、横浜の街はそれを受け入れ大いに賑わいました。

(音楽というパブリック・ディプロマシー)
進駐軍は、横浜に司令拠点を設けると文化の拠点も物色します。
伊勢佐木界隈が集中的に米軍用の施設として接収と新築により整備されていきます。この周辺は戦前から繁華街したから接収解除に伴い住宅というより歓楽街に適していたのかもしれません。
戦後 短期間ですが、伊勢佐木(若葉町)には米軍の軽飛行場がありましたから騒音も大変だったと想像できます。
焼け残った伊勢佐木通りのオデオン座は接収されて「オクタゴン劇場」と名を変えます。
light_20150424120801_001「火陽」と「ゴールドスター」といったダンスホールが開店し

ハマジル(横浜ジルバ)の発信源となしました。
元町には「クリフサイド」、馬車道には「オリンピック」、紅葉坂には「サクラポート」がオープンし、街はサウンドに満たされます。
戦中に封印していた音楽を戦後いち早く開封した人たちもいました。
野毛の吉田さんは復員してすぐに
 「ちぐさ」を復活させます。

横浜ジャズ物語

馬車道には牧野さんの「三春」が開店します。

馬頚楼雑記

【占領の風景】関外飛行場
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12874

進駐軍の計画で足りない施設が大型劇場でした。
スポーツを中心にした多目的ホールが絶対的に不足していました。
そこで進駐軍は大型多目的ホール「フライヤージム」を伊勢佐木町「オクタゴン劇場」の前に作ります。
長者町5丁目あたりに建設され広さは837坪ありました。
ここは体育館と同時にホールとしても使用され、様々なプログラムが行われます。

1950年(昭和25年)12月17日
横浜交響楽団がベートーベンの第九演奏会をここフライヤージムで開催します。
これはアマチュア・オーケストラ(市民交響楽団)初の第九演奏となり
以降定期公演となり毎年12月の第九が定着します。
※戦後の初演は
日本交響楽団(現NHK交響楽団)が1947年(昭和22年)12月9、10、13日にレオニード・クロイツァー指揮で3夜も第9の演奏会を開催して観客を集めました。

「フライヤージム」は体育館ですから卓球、バスケット、ボクシング、空手の他プロレスの興行も頻繁に行われ、多くの観衆を魅了しました。
柔道家からプロレスラーに転身した
遠藤幸吉の初試合はここフライヤージムで行われました。
そして、
朝鮮戦争もほぼ休戦状態となった1951年(昭和26年)頃から市内の接収解除が徐々に加速される中、フライヤージムの地権者が返還を要求し進駐軍は接収を解除し
1953年(昭和28年)12月20日、横浜公園に移築します。
この時横浜公園の「新フライヤージム」のこけら落としを飾ったミュージシャンが
ジャズの天才ルイアームストロングでした。

No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭

No.189 7月7日(日) ぼくは日本人を信じます

今日は横浜と因縁のある「大平正芳」元総理の話しです。
歴代43人目の内閣総理大臣「大平正芳」は、
1937年(昭和12年)7月1日(木)横浜税務署長の辞令を受け、
7月7日(水)横浜市に赴任しました。

昭和24年当時の野毛周辺図。老松国民学校跡地に五代目市役所があります。
横浜税務署跡地には「にぎわい座」が建っています。

大平正芳、私が尊敬する数少ない政治家の一人です。
その評価に関しては別の機会にじっくり紹介します。
地味ですが、することはしてきた“良質な保守本流を代表する最後の総理”(※1)と評されました。

(ハマに暮らした終生のライバル)
詳細に資料をあたっていませんが、
横浜で暮らしたことのある総理大臣経験者は恐らく
大平正芳と福田赳夫(※2)だけではないでしょうか。
(例外として幕末に高橋是清が横浜のヘボン塾に学んでいた時下宿?)
二人は共に、横浜税務署長を歴任しています。
当時、歴代横浜税務署長は、辞令が出るとまず紅葉坂の官舎に仮住まいし、その後一軒家を借りるのが“お決まり”だったようです。

現在確認できる紅葉坂財務省官舎(売却)はここでした

上級官僚は各地の税務署長を1年程度勤め全国を数カ所歴任し本省に戻りますが、
福田赳夫は幸運にも?(本省の疑獄事件で)
1934年(昭和9年)4月〜7月の短期間、横浜税務署長を勤め本省に戻ります。
福田赳夫の短い官舎時代の印象は
「横浜の野毛山のてっぺん、とても良いところに立派な横浜税務署長の官舎があった。行って泊まったが、夜になると南京虫が出てくる。」
ということで三泊だけして早々に磯子の間坂(まさか)に引越ます。
一方の5歳年下の大平正芳は、
3年後横浜税務署長に赴任し同じく「紅葉山の官舎」に引っ越してきますが、
その後磯子区字浜1666に転居するまでには少し時間がありました。この間、掃部山周辺を楽しんだのではないでしょうか。
この時、ちょうど上司にあたったのが関東税務監察局直税部長だった池田勇人でした。

※1「歴代総理大臣の通信簿」八幡和郎 PHP
※2福田 赳夫(1905年(明治38年)1月14日 – 1995年(平成7年)7月5日)
この二人は戦後壮絶な権力闘争劇のライバルとして戦います。
有名な三角大福と言われた政治闘争の末、最後に首相となります。
紅葉坂官舎暮らし先輩の福田赳夫を破っての首相就任でした。

これが原因で、社会党が提出した内閣不信任決議案に対し与党福田派の造反で可決し大平首相は衆議院を解散します。
この時の社会党委員長が、皮肉にも元横浜市長で磯子に住む飛鳥田一雄でした。

2月27日 政治家が辞めるとき

そして、第36回衆院選と第12回参院選というダブル選挙が公示された
1980年(昭和55年)5月30日第一声を挙げた新宿での街頭演説を終えた大平は、
次の演説場所
横浜に向かいます。
横浜で一通り演説を行いますが、
この時すでに体調不良を訴えていた大平は終了後虎の門病院に緊急入院します。
横浜が最後の演説場所となりました。
一時期、回復しましたが
6月12日午前5時過ぎに容態が急変し死去します。
皮肉にも時の総理の死は第36回衆議院議員総選挙と第12回参議院議員通常選挙で自由民主党の歴史的大勝利をもたらします。

(かくして歴史は繰り返す)
大平正芳は
有識者による長期政策に関する研究会を9つ設置しました。
内政についての基本は田園都市構想、
外交では環太平洋連帯構想や総合安全保障構想などを提唱し発表します。

No.318 11月13日(火)横浜戒厳令

この大平レポートは、
現在抱えている「日本の様々な問題」(少子高齢化、地方分権他)を既に調査・分析し来るべき未来の重要施策を提言しました。
この時、このプロジェクトを官僚側で事務方として取りまとめに奔走していた建設省の官僚が
高秀秀信(元横浜市長)です。彼は市長時代にこのレポートを何回も読み返しながら市政設計の参考にしていました。

(大平正芳が残した言葉)
「戦後の総決算」
(中曽根発言のように言われていますが、
 1971年9月に自民党研修会で大平が詳細に総決算論を講演しています)
「善政をするより悪政をしない」
「行政には、楕円形のように二つの中心があって、その二つの中心が均衡を保ちつつ緊張した関係にある場合に、その行政は立派な行政と言える。(中略)税務の仕事もそうであって、一方の中心は課税高権であり、他の中心は納税者である。権力万能の課税も、納税者に妥協しがちな課税も共にいけないので、何(いず)れにも傾かない中正の立場を貫く事が情理にかなった課税のやり方である」(「素顔の代議士」より)
※横浜税務署長時代の昭和13年新年拝賀式での挨拶。

「その役所に所属し、そこに生涯の浮沈と運命を託しているのは、その役所にいる役人衆であって、大臣ではない。主人公たる大臣は栄光をになって登場してくるが、やがてその役所を去って行く存在である。大臣は主人公たる虚名をもっているが、事実はその役所の仮客にすぎない」

「ぼくは日本人を信じます。また、そう信じる気持が唯一の支えです」

トヨペット クラウン デラックスCM – 大平正芳 編 – 1965
※中々ほのぼのとした良い映像でした

(新しい大平像を知る参考図書)
辻井喬『茜色の空』文芸春秋刊で大平正芳のキリスト教観描いた長編小説。
森田一『心の一燈 回想の大平正芳』第一法規株式会社

2012年に付け足し)
野田さん(現民進党)、あなたは大平正芳に自分をかぶせているようですが、止めた方が良いのでは。
キリスト教徒でありつつ国家の大義を守った保守本流の彼とはあまりに相違点が多すぎませんか。
単に消費税導入で失敗した首相というなら、大平を竹下が継承しましたが

あなたは?
外交手腕に関しては?
(2015年に付け足し)
確かに吉田茂の流れを汲む池田・大平政治<宏池会>は鳩山・岸らによる保守改憲派の最も対立軸の向こう側に立ち彼らとは一線を画してきました。
岸信介は大平正芳を「大したもんじゃない」と切り捨てています。しかし大平は思い上がること無く、21世紀に向け多くの<知>を集約しようとした初めての総理大臣ではないでしょうか。
多くの<知>に対し<政治>を優先しようとする現在、彼の思い描いた政治像を改めて読み返して欲しいと思います。
少なくとも自民党の一部の皆さんには。
(2017年に付け足し)
「アーウー宰相」や「讃岐の鈍牛」の異名をとった大平正芳について
婿の森田一が語っています。
<池田さんと一番親しい関係だから、大平はいろいろ言えた。「池田さんは富士山みたいなもので、そばに近づいたら欠点がごつごつある」とか。池田さんもそれに全然怒らないという関係だった>
<人間的には神様に近いという感じだ。生涯、人を怒鳴りつけたりしたことはなかった。(盟友となる元首相の)田中角栄さんは「大平君は政治家というよりは宗教家だねえ、哲学者だねえ」と言っていた>
<大平は自分の発言が日本、全世界にどういう影響があるかを考えた上で初めて一言を発していた>

No.188 7月6日(金) 深夜のコンテンツチャレンジ

かつて独立U局という業界用語がありました。
在京キー局による系列に属さない独立したUHF放送局を略して
「独立U局」と表現しました。
2008年(平成20年)7月6日(日)の今日、
「独立U局」の一つテレビ神奈川の深夜23:30〜24:00枠で
新しい角度の番組に挑戦しました。
SNSと連動した「横浜Bookmark TV」という新番組(全12回)です。

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(独立U局)
UHF放送、この響きを懐かしく感じる世代は
もうかなり少数になってきたかも知れません。
特に地デジ化、CATV網の高密度化で死語になりつつあります。
UHFとはUltra High Frequencyの略で、
1968年(昭和43年)から県域放送の枠組みの中で全国で開局しました。
アナログ放送の電波域帯の説明は省略しますが、42チャンネル(鶴見局)のテレビ神奈川(現TVK)が神奈川県のUHF放送局として1972年(昭和47年)4月1日(土)にスタートしました。(今年で40周年)←2012年
http://www.tvk-yokohama.com/

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鶴見三ツ池公園の一角にあるTVKテレビ塔

テレビ神奈川は首都圏という巨大な市場を持つ反面、
在京キー局で殆ど寡占状態にあるため厳しい経営を余儀なくされてきました。
設立当初は、社長に神奈川県知事が就任するなど行政広報的な性格が強かったようです。
この40年の歴史は
現在のTVKを支えているコンテンツ育成の歴史でもあり、
番組チャレンジ精神は独立U局の中でも際立っていました。

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(個人的なTVK体験)
TVKといえば個人的に記憶に残る番組が幾つかあります。
■「新車情報」
私が自動車購入の参考にしたのが辛口評論家、三本 和彦さんの「新車情報」で、長寿番組でした。自動車メーカーから技術担当と営業担当が出演し、ずばずば批判していくあたりは圧巻でした。トランクスペースにかなりこだわりオリジナル(手作り)スケールで図っては「もう少し、あと1センチは〜」なんて開発担当者にその場で直言するなんてシーンも度々ありました。(番組終了の経緯も三本さんらしい)
■「tvkラグビー中継」
熊本の姪からリクエストされて録画して何年か送った「tvkラグビー中継」はTXの三菱ダイヤモンドサッカーと並ぶ私の重要スポーツコンテンツでした。
当時、ラグビーゲームを編成し続けた局は無かった(と姪いわく)そうです。
■音楽関係
そして先駆的な音楽番組を数多くリリースしました。
現在の『saku saku』の原型『saku saku morning call』に登場したPUFFYファンでした。当時彼女達が海外メジャーになるとは予測しませんでした。
私の音楽羅針盤となった1983年スタートの『Billboard TOP40』も未だ健在です。演歌・歌謡曲関連の番組が殆ど無いのもTVKの特色です。
記憶が怪しいのですがサウンドクリップ映像に特化した「MUSIC TV」(タイトル不確定)「ミュートマ」もずいぶん録画した記憶があります。
■情報バラエティ
『おしゃトマ』もしぶとい長寿番組です。

(深夜のチャレンジ)
注目したいのはおおコケもあるんですが、挑戦する番組を作り続けていることです。最近のものでは、
戦国鍋TVが必見です。
http://www.tvk-yokohama.com/sengokunabe-tv/
このテイストは、他のジャンルにまで発展拡張できる可能性大です。
そして今日のテーマ発見に繋がった
「横浜Bookmark TV」もSNSと連動し新しい地元情報連動番組に仕立てようと挑戦した実験コンテンツでした。(ワンクールで終了してしまいましたが)
横浜市泉区出身の金剛地 武志さんのキャラが“濃い!”という批判もあったようですが、
個人的には中々良い線いってたと思います。
2010年のポストY150番組としてぶつけたらSNSの環境も変わっていたので面白い展開になったかも。
(地元が感じる横浜と市外の人が感じる横浜ってギャップがあるんですよね。
 このギャップを上手く料理できたら最高なんですがね)

(余談)
「JOKM-TV こちらは TVKテレビです」の鎗田圭子アナのナレーションが好きでした。
鎗田圭子さんは、退社されたあと全く別の子育て関係で取材をしたことがあります。
素敵なママさんでした。

1997年取材

(調査時間がなかったため個人的記憶で書きました。間違いがありましたらご指摘願います)

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

1904年(明治37年)7月5日(火)の今日、
歴史年表を紐解いていると「大岡川」の吉浜橋と花園橋が遊泳禁止で話題となったという記事を発見。
というかこの時代普通に泳いでいましたので<禁止>が話題になったのでしょう。
今ではなかなか想像がつきませんが、理由は追跡しておりません。

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明治14年ごろ吉浜橋はまだできていません。(M14測量図)

(今日は川ネタです)
大岡川の吉浜橋と花園橋あたりを中心に開港場の誕生あたりを軽く探ってみました。
題して「目で見る運河」
上記古地図は1881年(明治14年)頃の測量図です。
現在のマップで探ってみます。

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首都高速の「横浜公園」出口近辺がまさにこのあたりです。

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1893年(明治25年)ごろの吉浜橋近辺です。(「横浜真景一覧図絵」)
このあたりは 既に横浜製鉄所ができていましたから、“泳ぐ”には当時でも無理があったんじゃないかと推察できます。
でも泳ぐ人がいたんですね。
No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語

(大岡川のめぐみ)
開港場の“横浜”は、干拓と埋立ての街です。
横浜村は大岡川が流れ込んでできた独特の砂州があり、深い入江となっていました。

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開港前の横浜

大岡川上流から運ばれる土砂は、
横浜村を含めた周辺の村に囲まれた“湿地帯”状態で、
村民は製塩と漁業の場として利用していました。
ここに目をつけたのが江戸の材木商、吉田勘兵衛(吉田勘兵衛良信)で、
1656年(明暦2年)幕府に許可を得て周辺の村民の賛意もあり干拓事業を起こします。
これが現在の横浜の基礎となった吉田新田の誕生です。

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干拓事業は人海戦術ですから大変な労力と危険(犠牲)を要しました。
完成までに約12年もかかります。
財力にも驚きますが、干拓事業に参加した村民の努力にも敬意を表します。
この干拓事業の地(川)鎮と無病息災を願うために
「日枝神社」と
「常清寺」とが創建され
現在もこのエリアの鎮守様となっています。(常清寺は開発のため現在久保山に移転)


この吉田新田の区割りから現在の南区・中区の街並が形成されます。
干拓にあたって、大岡川は現在の南大田近辺で「大岡川本流」と元町方向に流れる「中村川」に分岐させ、
真ん中を運河(堀割)で水を逃がし灌漑水路中川が作られました。

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この中村川、今日のテーマでもある吉浜橋と花園橋あたりですが、
元々ぐっと曲がって大岡川本流に戻る形で蛇行していました。

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「横濱村外六ケ村之図」他を参考に作図

開港場ができあがると、中村川をまっすぐ海まで延ばします。
長崎の出島のように運河で居留地を囲む目的と 中村川の氾濫防止の役割を持っていました。
この中村川新河口の南側(絵図左川)が元町、北側(絵図右側)が中華街として発展します。
※中華街の街路が他のエリアと方角が違いますが
 俗説にある風水による街並ではなく中華街は中村川の沼地<横浜新田>にできました。
 形成時期のズレによるものです。
 (中華街誕生も別の機会に必ず紹介したいテーマです)

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No.186 7月4日(水) 一衣帯水の地 上海

横浜市は、
2010年6月28日(月)から7月4日(月)までの1週間を「横浜ウィーク」と題し、
上海市内において、横浜シティプロモーション、
横浜ブランドの市場開拓、観光客・中国企業の誘致を目的とする
イベントを集中的に開催しました。

市長自ら「横浜はっぴ」を着て横浜PR

上海「横浜ウィーク」横浜ブランド展レポート
(イントロ)
かつて魔都あるいは東洋のパリと称された世界最大級の商業都市上海。
訪れる時期によって全く印象の変わる変化する上海は
現在2,000万人の人口を呑み込み、いまだ膨張し続ける。
周辺人口を加えれば、中国はもとより、世界最大級の市場をもった街である。

そして、今年開催された「上海万博」をきっかけに
さらに新しい時代を切り開きつつあるこの街は、
横浜市と1973年から友好都市であると同時に、
日本から最も近い巨大市場でもあるにもかかわらず
遠い街であったのはなぜか?
中国3,000年の歴史といわれるが、上海の歴史は横浜の歴史と似て新しい。
共に19世紀末に欧米との貿易港として発展し、異文化の流入する国際都市として発展した。
一方で、上海は列強の占領政策による租界を中心にした街として、戦後、中国が独立するまで欧米列強のアジア拠点として日本の明治以降の方向に大きく影響を与えた。
1900年代の上海と横浜の関係は今想像する以上に深く 孫文、周恩来を含め多くの中国要人が横浜を訪れ、また経済的にも交流が深かった。
中華街の一角に今も孫文が身を寄せたことを記念する「中山記念堂」があり、孫文研究が華僑、日本人含め継続していることにも驚かされる。
今上海は急激な変化の中にいる。上海は数年前のイメージが全く通じない都市である。特に近年、日本がかつてそうであったように、上海万博のために 多くの大型PTが始まり、街の大改装が始まった。
6月28日(月)〜7月4日(日)まで一週間開催した、横浜ウィークに伴う「横浜ブランド展」の概要をレポートする。
(以上が 私の上海レポートの導入部分です)
【会場】上海梅龍鎮広場(一階広場)
住所:上海市南京西路1038号
地下鉄2号線「南京西路」駅下車3分

(以下省略 シャンシャン)
ということで、今日は若干番外編に近い私が歩いた上海のレポートにと考えましたが、
(その前に)
横浜と上海は友好都市です。(1973年(昭和48年)11月30日に友好都市提携を締結)
この友好を記念した公園が本牧市民公園の一角にあります。
「上海横浜友好園」まずはここの紹介から始めましょう。

1989年(平成元年)に横浜市と上海市の友好都市締結15周年を
記念してつくられた緑豊かな公園です。
横浜市が上海市に寄贈した「横浜上海友好館」のお返しとして上海市から提案、整備されたもので、中国江南様式による庭園です。
六角形の二重屋根が特徴的な湖心亭が湖面に写る四季の姿は借景の「三渓園」と相まって見事です。
三渓園には是非「上海横浜友好園」側南門から入場されることをお勧めします。

No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け

(もう一つの横浜・中国)
地蔵王廟をご存知ですか?
1892年(明治25年)4月に完成した寺院です。
横浜に暮らす中国人が、主要材を広東省広州から船で運搬し、軸部や外壁、屋根材は横浜で調達して建造しました。
中庭を中心に建物を前後に取り囲む南方特有(河南方式)の建造物で近代建築としては横浜最古のものです。
横浜市指定有形文化財(建造物)に指定されています。
所在地:中区大芝台7番地

中国では古来、異国の地で亡くなった場合、棺は生まれ故郷に返す習慣(回棺)がありました。横浜港には年に一回、棺を本国に送る船が帰港しましたが関東大震災以後、追いつかなくなり日本の習慣を受け入れるようになり火葬されるようになりました。(納骨のはじまり)
戦後、様々な事情でこの中華墓地の管理ができない状態が長く続きました。昭和60年代に入り、整備計画がまとまり地蔵王廟の復元が決まります。学者・識者の調査を終え、平成7年に修復された地蔵王廟が落成します。

横浜の華人、華僑の歴史は この「暦」でもどこかで紹介しておきたいテーマです。詳しくは 別の機会に譲ることにしましょう。

No.185 7月3日(火) 実録「居留地警察」

「居留地警察」

テレビドラマのタイトルに合いそうなネーミングです。
「居留地警察」幕末明治初期の外国人居留地を取締る“治外法権”地帯の警察組織のことです。
1877年(明治10年)7月3日の今日、
神奈川県は
居留地の各国領事に対し6月30日付けで横浜外国人居留地取締役(居留地警察のトップ)Edward.S.bensonを解傭(雇用解除)した旨を居留地各国領事に通知しました。

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(居留地は治外法権)
居留地とは中国上海の租界のように、
列強各国が主に経済活動を行った治外法権エリアです。
山手にはフランス軍とイギリス軍が駐留する中、
欧米各国の外国人は日本政府と取り決めたエリア内に居住し様々な活動を行いました。
ここでは、領事裁判権をそれぞれの国が持っていましたので居留地内の管理運営はまったくバラバラな状態でした。
そこで、居留地の主力メンバーが集まり「市参事会」という疑似自治体を作ります。
居留地の環境整備、治安活動とその原資となる地代管理部門を作り運営しようとしますが、組織の不備と資金不足のため頓挫します。
居留地で最も勢力を持つイギリス公使パークスが名案を考えます。
管理運営を日本政府(神奈川県)に任せ、
居留地管理のトップは自分たちが選び、権限をそこに集中させれば良いのではないか?
英国十八番(お得意)の二重統治方式を提案し、
アメリカ、プロシア、オランダ、フランス(委任)の同意を得ます。
結果、“横浜外国人居留地取締役”制度を明文化し幕府も同意し締結します。
まず暫定で選ばれた居留地取締役が英国人「ドーメン」という人物でした。
この件については、
列強五カ国の外にいたスイス総領事代理シーベルがかなり抵抗します。
幕府に納得できないと直談判します。英国十八番の二重統治方式を警戒したのかもしれません。
ナポレオン以降のウィーン体制に抵抗してきた永世中立国スイスらしい主張でした。
結果、居留地各国代表は、居留地取締役を選挙で選ぶことを決めます。

(さすが民主主義の先輩)
居留地内住民から立候補者を募り、居留地外国人の選挙で選び各国の領事の多数決で決めることとなります。
まあこの時点では、被選挙権者が多いイギリス人が有利だと想定していたのかもしれません。
選挙は4人立候補しますが、事実上
アメリカ人のベンソンとイギリス人ボイルの一騎打ちとなります。
結果は下記の表の通り、ベンソンがかろうじてトップとなり選ばれます。
外交史的には、大英帝国の没落と、
居留地での英国人の優位性が崩れてきた結果がここに現れています。

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選挙もすばらしいですが、記録がしっかり残っているのもすごいですね。

時は明治元年(まさに明治維新のまっただ中)
各国領事も全会一致で承認し幕府に(ベンソンを)居留地取締役として推薦し、新政府も同意します。
月給は洋銀で350ドルだったといいますからかなりの高給であったことは間違いありません。

ベンソンは、1877年(明治10年)6月末日までの10年間、実に誠実に居留地の改善に尽力します。
居留地取締役は警察組織でもありましたが、道路や衛生状態の改善も行いました。
居留民から公園が欲しいという要求に対し「山手公園」の整備にも彼の手腕が発揮されました。
No.120 4月29日 庭球が似合う街

「消えた山高帽子」この小説はベンソンが登場するかなり歴史にも踏み込んだ力作です。ワーグマン探偵の謎解き風の仕上げは一瞬小説であることを忘れそうです。

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ただ、領事裁判権を含め治外法権は改善されない状態で英仏軍の軍事的占領の下での警察活動だったためその軋轢は多くの事件を引き起こします。
ハートレー事件はその象徴的なできごとでした。
→別の機会に必ず書きます。

(ヘスペリア号事件というのもあります)
※イギリス人商人ジョン・ハートレー(John Hartley)が日本でアヘン密輸事件を起こしますが領事裁判法廷は無罪の判決を言い渡した治外法権を日本が実感した事件です。
とはいえ、明治に入った数年は政府も混乱状態で「居留地管理」はほぼベンソン以下外国人チームに任せっきりの状態だったようです。
(個人的には米国人ベンソンで良かったな)
その後、落ち着きを取り戻した新政府がようやく本腰を挙げて「警察組織」づくりや「法体系」整備にとりかかります。
それでも 不平等条約改定までまだ20年以上かかる訳ですから日本外交の綱渡りが続きます。

横浜にも警察組織が整備され、
様々な法制度も整ってくることによって、
居留地取締役の役割も形骸化してきます。
そこで、1877年(明治10年)6月末日をもってESベンソンの役を解くことになります。
横浜最初の警察署は「加賀町警察」で、
明治26年設置されましたが前身は「居留地警察」ですので、日本で一番最初の外事警察だといえるでしょう。

No.390 危なくない?デカ。

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ちょうど加賀町警察ができる頃の元居留地周辺です。「警察署」の文字読めます?
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スイス国旗の右上、現在の加賀町警察とほぼ同じ位置にあります。

(余談)
海外のDBで資料を探していたら 
New York Herald 1874 (明治7年)3月28日号に
「Japanese municipal reform」と題して
Mr.Edward S.Bensonの記事が掲載されていました。

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母国アメリカのニューヨーク市長に
港湾関係の法律などの資料が欲しいとメールしたことが紹介されています。

No.184 7月2日(月)  ハマに浜ができた日

金沢区のほぼ南端に、
1キロメートルに及ぶ白砂と青松が広がっています。
春先には潮干狩り、夏には海水浴でにぎわう「海の公園海水浴場」が、
1988年(昭和63年)7月2日(土)の今日、オープンしました。

八景島オープン時の空撮写真

(海の公園)
海の公園は人工浜です。
「金沢地先埋め立て事業」で失う海岸線を人工的に確保した空間で、
今考えればかなり強引な環境計画です。
 (能見台エリアの開発土砂の活用も兼ねていましたが)
この海の公園に関しては、すでに紹介していますのでご参照ください。
No.136 5月15日(火) フルライン金沢区

No.51 2月20日(月) 海の公園計画発表

(明治時代の海水浴)
皮肉にも
海の公園だけが現在横浜市の唯一の海水浴が可能な「浜」となっています。
長い浜をかつて持っていたこの街にとって、貴重な砂浜になってしまいました。
といっても海水浴の歴史は120年位です。
少し歴史を探ってみました。
海水浴は幕末以降居留地の外国人の習慣が一般市民に広まったものといわれています。様々な外国人の記録が残っていますが、(治療用)海水浴場開設に大きな影響を与えたのはドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツです。
古来、日本にも「潮湯治」という塩水治療の海水浴が行われていましたので、その線引きは難しいところがあります。どちらにしろ、昔の海水浴は泳ぐというより温泉と同じ“健康”と夏の“避暑”を兼ねたまさに「浴」(海水に浸る)でした。
※潮湯治は病気治療のために行われたもので、江戸時代のおわり頃の『尾張名所図会』や『郷中知多栗毛』にも記録されています。

(治療から娯楽へ)
1879年(明治12年)7月6日の『ベルツの日記』には「海水浴場適地を探索するため横浜から馬車で江の島に来訪」という記述が残っています。
明治初期、横浜市金沢区の富岡八幡宮の前の浜は横浜の山手・本牧に居留した外国人が好んで野外散策を楽しんだという記録が残っています。

海岸線に海水浴場の地図記号が記されています

海水浴の歴史に詳しい上田卓爾・星稜女子短大教授(観光史)によると、
1871年(明治4年)に横浜市金沢区で、18歳の女性が医師を伴い、海水浴をしたことが外国人の著書に紹介されているそうです。
また、ローマ字で著名な眼科医ヘボン博士 (Dr. James Curtis Hepburn) は1877年(明治10年)金沢・富岡の慶珊寺に逗留しリュウマチ治療のため海水浴をしました。
この時に“金沢富岡海岸の水質がよい”と海水浴を奨励したそうです。
1881年(明治14年)ころにヘボンの推奨により「海水浴場神奈川縣廰」という標識が建てられたといいますがどうやら外国人専用だったようです。
http://homepage3.nifty.com/kurobe56/ks/ks0115.htm

(はじめて競争)
全国各地に日本最古の海水浴場を看板にしているところが点在します。
ポイントは日本人が何時頃から、海水浴を始めたかが「日本最初の海水浴」宣言の論点になっているようです。
特に大磯と鎌倉がその最大ライバルで歴史資料を元に議論が起っています。
横浜の海水浴の歴史?
というと、外国人の記録では1865年にフランス波止場沖に「水浴ボート」を出したという記録があります。
海岸では金沢の富岡付近が明治初期の人気海水浴場であったことは間違いないようです。また、本牧も居留地から近いこともあり、
「風光明媚な本牧十二天は。居留民に人気のある場所であり、外国人遊歩新道の至道が設けられていた。ここで海水浴が行われたらしいことが『ファー・イースト』1870年9月1日号から窺われる」(横浜もののはじめ考)とあります。

明治十七年の記事


(立地競争)
明治期の金沢富岡海岸の海水浴は、短期間で衰退します。
理由は鉄道の開通といわれています。
何時の世も、アクセスの良い方へ客は流れるようで、東海道線の開通で、海水浴は「湘南」「大磯」に移っていきます。
その後、湘南電気鉄道(京浜急行)の開通で磯子から三浦までの海岸線の砂浜は埋立てが始まるまでのかすかな時間、海水浴で賑わいます。
大正時代から、横浜は海水浴場が無くなります。
この人工海岸オープンするまで。

海の公園の看板

(余談)
別の資料を読んでいたら
横浜開港の範囲を示す法律に出会いました。
開港港則
「横浜の港界は十二天(マンダリン、ブラフ)より灯船まで夫より正北に向い鶴見川口の東岸まで引きたる一線内に含まる」(カタカナ等を現代語表記に変更)
この十二天とは 本牧十二天のことで、開港初期外国人が移動できるぎりぎりだったことがわかります。
一方の端「鶴見川口の」“右岸”に貴重な明治以来の川辺「貝殻浜」が残っています。



No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験

【番外編】生麦、旧東海道を歩く