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No.376 1月10日(木)中島敦のいた街(一部加筆)

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。(中島敦「山月記」冒頭)

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40年読み続けている文庫本

高校時代、世界史最後の授業で担当の奥津芳郎先生は
授業を早めに終わり、
「今日は一編の小説を君たちに贈り最後の授業としたい」
そう言って朗読された作品がこの「山月記」でした。
※先生は学生時代に先輩の中島敦に会い、交流があったそうです。
作家中島敦の代表作の一つです。一時期(今は確認しておりません)多くの高校現代国語教科書に取り上げられた作品です。
彼が横浜に暮らした作家だったことを知ったのは、それからかなり経ってからの事でした。
彼は、教師として8年間横浜に暮らします。彼の人生の四分の一、社会人の殆どをこの地、横浜で過ごします。

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(中島お気に入りだった喜久屋)

横浜の文学風景に作家「中島敦」は欠かせません。また、中島敦にとっても、横浜は大切な街だったに違いありません。
今日は、横浜文学風景“中島敦のいた街”をすこし紹介することにしましょう。
1909年(明治42年)5月5日中島敦は東京、四谷に生まれます。
この年は日本が開港して50年を迎え横浜では開港祝典が開かれました。 親の関係で、奈良、浜松、京城(朝鮮)で過ごし
1926年(大正15年)3月京城中学校を卒業。上京し、第一高等学校に入学します。
1933年(昭和8年)に東京帝国大学国文科を卒業し
知人の紹介で横浜高等女学校(現在の横浜学園)で国語と英語を教えます。

※横浜高等女学校(現在の横浜学園高校)
1899年(明治32年)実業家・県議だった田沼太右衛門により横浜女学校として創立。現在は横浜市磯子区岡村2-4-1に移転。女優の原節子(中退)や歌手の山崎ハコが学ぶ。
http://www.yokogaku.ed.jp

同時期に、横浜高等女学校で音楽教員として渡辺はま子が教鞭を執っていました。
No.303 10月29日(月)オカピ外交

着任して中島は、中区長者町にあったアパートに住みますが、すぐに山下町168番地の当時最新の山下町同潤会アパートに移り住みます。

山下町同潤会アパート
中島敦の暮らしていた山下町同潤会アパート


1936年(昭和11年)3月には中区本郷町3-247(通称瓦斯山)の一戸建住宅に家族と一緒に暮らします。

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中島は、山手の外国人墓地近辺を散策するのが好きで彼の短歌にも何編か情景が残されています。

この丘に
眠る船乗(マドロス)
夜来れば
海をこほしく
雄叫びせむか

小さい頃から病弱だった彼は、軍靴高まるこの時代に、兵役免除となります。持病の喘息に悩まされ、最後も持病で亡くなります。
1941年(昭和16年)3月
 横浜高等女学校を病気のため休職
6月16日には退職届を出します。大学時代からの友人 釘本 久春の計らいで

同月28日横浜からサイパン丸に乗り、南洋庁の国語教科書編集員としてパラオに赴任します(船で九日間)。
【パラオ】
パラオは第一次世界大戦後、その他の島々とともに日本の統治下に置かれます。
1922年(大正11年)日本はパラオのコロールに「南洋庁」を置き、委任統治領の行政の中心地となります。
戦後はアメリカの信託統治領となり独立運動の結果、
1994年(平成6年)10月1日にパラオの独立を承認し、同年11月2日にパラオと国交を樹立します。
1940年(昭和15年)に「大日本航空株式会社」が横浜根岸に飛行場を開設し、南洋諸島パラオ島への定期航空路を運行していました。横浜を5:30発 ⇒サイパン 15:30着 翌7:00発⇒パラオ14:00といった二日の旅程でした。
暦で語る今日の横浜【9月10日】

中島はさすがに飛行機では行かなかった(行けなかった)ようです。
慣れない南洋の地を楽しもうとしている様子が彼の日記や書簡集から読み取れますが、環境は最悪のようでした。現地でも多くの歌を残しています。
「蟹むるる リーフ干潟の上にして つややけきかもよ蒼穹の青は」
着任してまもなくテング熱の他、病気になったことと戦争が始まったこともあり同僚と早々に帰国することになります。
1942年(昭和17年)12月
喘息発作のため東京世田谷の自宅で32歳の生涯を終えます。
人生の僅かな社会人人生の殆どを横浜で過ごした中島が(教師の側)短くも濃厚な作家生活を送り多くの作品をこの地「横浜」で書き上げます。
彼と横浜の関係を記念して
中島敦の文学碑が元町3丁目の元町幼稚園運動場内にあります。

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1975年(昭和50年)12月4日中島敦の命日に文学碑を建てる会が建てたものです。

中島敦が、横浜高等女学校に教師として勤め始めた同時期、同じ東京出身で大学同期の親友だった釘本 久春が、新子安駅北側にある浅野綜合中学校(現在の浅野中学校・高等学校)の国語教師となります。
教師時代も、職場があった横浜で二人は友情を温めます。
※浅野綜合中学校
1920年(大正9年)1月に実業家 浅野総一郎が創設した總合中學校です。
横浜市神奈川区子安台一丁目3番1号
戦後、釘本 久春は、文部省(現在の文部科学省)の文部省国語課長となり戦後の国語改革、国立国語研究所の創設に参画します。
中島作品は、戦後中村光夫らによって再評価され、親友釘本 久春も中島敦作品を戦後の青年に読んで欲しい一編として「山月記」を推すことで、教科書に採用されることになります。
ここでは、敢えて作品に付いては触れません。
今こそ 
この作品から 臆病な自尊心と、尊大な羞恥心に苦しむ
行き詰まった自己の時代を見つめ直す時ではないでしょうか。
201807加筆

No.375 1月9日(水)残した大正の財産

1917年(大正6年)に開港50周年を記念し、市民の寄付によって建てられた横浜市開港記念会館は、倒壊しつつも復元され現在まで生き残ってきた大正の建築遺産です。

横浜市開港記念開館(以下開港記念開館)は、改修されていますが現在でも市民が自由に使用できる施設です。
481席ある講堂は、会合からコンサートまで多目的に利用されています。また、貸し会議室が9室あり、一般施設として予約利用が可能です。
施設利用以外の方も、予約が無ければ荘厳な講堂内部も含め自由に施設内の見学ができます。

(町会所)
開港にともない、横浜には多くの商人が集まってきました。江戸を中心に、神奈川県内(武州・相洲)、山梨(甲州)、群馬(上州)等から進出してきた商人達の新天地にはいち早く外国人コミュニティが形成され、明確な要求がだされます。
日本の商人も様々な面で合意形成が必要となり、
会合する集会所が設けられました。横浜町会所の誕生です。
初期の町会所は、
現在の神奈川県庁のある場所の一角に建てられました。
その後、居留地の整備が進む中、明治6年から7年にかけて現在の場所に横浜町内の寄合所として積立金を使って時計台と集会所が完成しました。

この時計台は、当時の横浜町内(居留地)のランドマーク的な存在だったようです。

(石川屋)
この町会所が建つ場所(本町5丁目)は開港後「石川屋」という福井の商店がありました。日ノ出町近くに作られた開港場の警備所「太田陣屋」に福井藩の役人として赴任してきた岡倉勘右衛門が越前福井藩の生系売込店を開いた場所でした。
この岡倉「石川屋」で生まれたのが岡倉天心で、記念碑が建てられています。

No.280 10月6日(土)天心と三渓
(横浜の中心ホール)

時計台のあるこの町会所は、現在の関内エリアの核となる多目的集会所(コンベンション施設)として利用されます。外国からの来賓を歓迎する会場、博覧会、展覧会、商談会、政治集会等々多くの利用記録を年表から見いだすことが出来ます。
No.259 9月15日(土)全国お茶の品評会開催

1883年(明治15年)から84年にかけて焼失した「神奈川県庁」の臨時県庁として利用されたこともあります。

(裁判沙汰)
この横浜町会所は、明治時代も20年代に入り法整備が進む中“権利意識”明確になってきます。そもそも我々が歩合金を集めて建てたものだと「商人」が主張、様々な支援を行ってきた行政「神奈川県」そして、ここを公共施設として使っていた商人以外の人たち(地主派)の間で、所有権争いが行われます。
この所有権確認騒動は、最終的に「商人派」と「地主派」の裁判沙汰にまで及び、決着までに約10年かかります。
決着後町会所は「横浜会館」と呼ばれるようになります。
その後も、横浜町内の運営に二大勢力として政治的対立にまで発展し横浜市政にも少なからぬ影響を受けます。

(建替え進まず)
共有財産として決着した「横浜会館」ですが、
老朽化し建替える案が出てきます。
「横浜会館」に入居している貿易商の事務所移転計画を“同意無し”で立案し彼らの猛反発を受けます。
ここで商人派は独立した会議所(商工会議所)の建設も考えますが、敷地や資金の面で議論が二転三転し決着しませんでした。
建て替え騒動が膠着する中、
事態は急展開します。
1906年(明治39年)近隣の火災で類焼し町のランドマークだった「横浜会館」が焼失してしまいます。

(再建計画)
失った「横浜会館」の再建問題が
皮肉にも白紙から検討されるようになります。
キッカケは
1909年(明治42年)の開港50周年記念の年に、
「横浜会館」を「記念会館」として再興する委員会が作られることになります。ところが、建設資金が中々集まりません。
横浜が次第に経済の中心から陰りを見せ始めた証かもしれません。

難産の末、この
横浜開港記念会館は、1917年(大正6年)に竣工します。
1913年(大正 2年)に設計案のコンペが実施され、設計原案ならびに基本構造設計は福田重義氏と山田七五郎氏が行い、辰野式フリークラシックとよばれる様式でまとまります。
1914年(大正 3年)着工し、
1917年(大正 6年)6月30日に竣工、7月1日の開港記念日に「開港記念横浜会館」の名称で開館します。

(残された遺産)
その後、
1923年(大正12年)関東大震災により倒壊します。
時計塔と壁体の一部のみが、かろうじて残る大被害となります。
1927年(昭和 2年)震災復旧工事が竣工します。新しいデザインではなく、大正の設計が復元されることになりますがドーム屋根は復元されませんでした。

1945年(昭和20年)の横浜大空襲にも絶え、第二次世界大戦後にはいち早く進駐軍により接収され「メモリアルホール」という名称で使用される事になります
1958年(昭和33年)ようやく接収が解除されます。
1959年(昭和34年)「開港記念横浜会館」を「横浜市開港記念会館」に名称変更します。
1985年(昭和60年)横浜市内で創建時の設計図が発見されます。(現在館内で一部を閲覧できます)

1989年(平成元年)開港130周年のタイミングに、ドーム屋根等を復元し9月2日に国の重要文化財に指定されます。

36mある時計塔の高さは「ジャックの塔」の愛称で呼ばれ「キングの塔」(神奈川県庁本庁舎)、「クイーンの塔」(横浜税関本関庁舎)とともに横浜三塔の一つとして横浜関内エリアのシンボルとして多くの利用者で賑わっています。
No.70 3月10日 310
残す意思をこの「横浜市開港記念会館」に感じとって欲しいと思います。

No.374 1月8日(火)○●■△と横浜

今年、
ブログ軸の一つとして人物を通して横浜を観ていきます。
(2012年でも断片的にトライしていますが)

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渋沢栄一

横浜コンテンツの露出力アップの方向に小説化・映像化があります。
横浜は歴史小説や今の横浜を舞台にした作品が少なすぎませんか?
ロケ現場としての「横浜北署」なんて設定はありますが、しっかり横浜を描写している「ものがたり」がもっと、もっと欲しいのです。
作家の皆さん!横浜に注目してください!

昨日の

No.7 1月7日(月)THE JAPAN PUNCH

を書くにあたり調べていたら、
ワーグマンとベアトはめちゃ面白い対照的な人物像が見えてきました。

今日は例えば「渋沢栄一と横浜」でどのようなコンテンツが引き出せるか簡単ですが引き出してみました。


渋沢栄一関係マイブログ

No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)

No.49 2月18日 過去に学ばないものは過ちを繰り返す


No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢

No.145 5月24日 BOY七十四(修正版)

No.38 2月7日 鎌倉丸をめぐる4つの物語
戦前史の偉大なる経済人

渋沢栄一
http://ja.wikipedia.org/wiki/渋沢栄一
現在の埼玉県深谷市出身なので、埼玉県史、深谷市史には濃厚に登場しますが、横浜関係では戦前の横浜経済との関係で語られているだけです。
ということで、調べ始めました。

(プロローグ)

渋沢自ら、横浜の某所で自己紹介をするとしたら、
「私はね、20代の血気盛んな頃、横浜居留地焼き払い計画を真剣に考えましてね。キッカケは開港で洋銀が大量に流入しこの国の経済をダメにしているという為替問題ですね」なんて挨拶をしたかもしれません。
例えば1910年(明治43年)3月1日(火)に渋沢栄一は横浜商業学校と横浜経済会月次会で演説していますから、こんな切り出し方だったかもしれません。

(大政奉還)

渋沢は、幕末期攘夷派の急先鋒で、外国人を目の敵にしていましたが、攘夷一辺倒から次第に視野を拡げていきます。
このキッカケとなったのが終生、明治になっても仕える最後の将軍となった 徳川慶喜との出会いです。

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晩年の徳川慶喜

渋沢は、慶喜が将軍職になる前に縁あって一橋家に仕えます。
慶喜が第15代将軍を継承し栄一も幕臣として幕府官僚となり、幕命でパリ万博視察のためフランスへ旅立ちます。この渡仏経験が、後の栄一経済観に大きな影響を与えます。
このまま、徳川幕府が続いていたら渋沢栄一は、経済官僚となったでしょう。
パリに滞在中、大政奉還の知らせを受け急遽帰国します。横浜港に戻った栄一は、直ぐに静岡に蟄居した主 徳川慶喜の元に向かいます。
渋沢は、慶喜の許で静岡の経済改革に本領を発揮します。
※同時期に清水次郎長も静岡に生きています。この関係も調べてみると面白いと思います。

(明治の在野に生きる) 

明治維新は、敗者によって維持された政権です。
当時の薩長政権に日本の国を運営する人材は明らかに不足していました。迫り来る諸外国のプレッシャーに的確な対処を行ってきたキーマンの多くが幕末の幕臣たちだったことを、私たちは確認しておく必要があります。
中央政府は次第に、薩長を中心とした官僚制度に組み立てられていく中、在野、民間をリードした政治・経済・教育のトップリーダーは旧幕臣が多くいました。

明治維新、最初の20年は横浜に集まったようなベンチャー平民と、国(藩)を失った武士達が自由に活躍した時代です。

その大舞台となったのが
横浜です。
渋沢も頻繁に横浜を訪れ、また横浜商人と議論をし日本経済システムを改革します。日本初の銀行を設立した功績だけでも渋沢の名は歴史に残ります。
渋沢を「横浜」から描くなら、
生糸の生産・輸出で成功を収めた実業家・原富太郎(三溪:1868〜1939)との交流をベースに、
金融の世界では世界を舞台に日本の貿易金融の要となった「横濱正金銀行」
生活インフラの世界では横浜伊勢山の瓦斯会社からスタートする「東京瓦斯」の設立。
横浜のスプリング・バレー・ブルワリーに関わり、その後サッポロビールを作ります。
その他に、横浜船渠、古河電工など多くの横浜に関係する企業にも関わり企業を育成していきます。
残念ながら、渋沢が育てた企業は一人前になると横浜を去っていきますが、
終生横浜を離れなかった原富太郎とは 実業では
富岡製糸工場を介して、
文化では 茶人として、タゴールや岡倉天心らとの交流を共にしていきます。

No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け

No.280 10月6日(土)天心と三渓

No.353 12月18日(火)多文化建築の傑作

原三渓
原三渓は近代三大茶人のひとりです。
「三井の大番頭」益田鈍翁
「電力の鬼」松永耳庵
そして生糸の
原三渓です。
この三大茶人に共通する人物が渋沢です。

(青い目の人形にかけた夢)

1927年(昭和2年)に、日米関係悪化に憂慮し文化交流の一つとしてアメリカ合衆国から日本に贈られた12,739体の「青い目の人形」を仲介者した渋沢栄一は日米関係委員会委員として米国への返礼プロジェクトも手がけます。

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残念ながら第二次世界大戦中に敵性人形としてその多くが焼却処分され国内には数えるほどしか残っていません。
横浜市内の小学校には西前小学校「ポーリン」戸部小学校「メリー・ジェン」本町小学校「ブロッソン」という名の「青い目の人形」が保存されています。
APEC開催記念に「横浜人形の家」で特別企画展「海を渡った人形たち〜青い目の人形が結んだ国際交流〜」が開催されました。
「横浜人形の家」
http://yokohama-doll-museum.com

(余談)
実業家・原富三溪の愛した茶席の菓子は
「草餅」「草求肥」「餅に餡かけ」「栗のあめだき」など素朴なものが中心だったようです。
中でも印象に残る和菓子が「さつまいもの茶巾しぼり」です、
恒例の茶会が開かれる予定だった1937年(昭和12年)8月。
開催直前に長男の善一郎が45歳の若さで急死します。
富太郎は茶会を中止せず 息子の追悼の席を設けます。
この時に出されたのが「さつまいもの茶巾しぼり」だったそうです。

今、横浜で人気の「横浜スイーツ」

ふらんすやまの「野毛山ポテト」とか

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http://www.franceyama.com/yaki_suitepotato.html

かずさ屋の「雅芋」

店じまいしましたね。miyabiimo がありますが
「三渓茶巾」なんて商品開発できないでしょうか。

元に戻して

渋沢栄一はあまりに多方面に活躍した人物なので避けていましたが、今年一年かけてじっくり“漁って”みます。大量は間違いありません。
渋沢は勿論
横浜を舞台にしたら面白い
人物を素人レベルですが
紹介していきます。

No.373 1月7日(月)THE JAPAN PUNCH

現在ジャパンコンテンツの一つ、漫画が世界を席巻していますが、日本最初の“漫画雑誌”「THE JAPAN PUNCH」が一人の英国人によって横浜で発刊されました。

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“この時代を冷静に風刺した漫画雑誌”「THE JAPAN PUNCH」は、英国人チャールズ・ワーグマン(CharlesWirgman、1832年(天保3年)8月31日〜1891年(明治24年)2月8日)によって創刊、不定期ではありましたが1862年(文久2年)から1887年(明治20年)の25年間にわたって発刊されました。
人生の多くを横浜で過ごし、横浜で亡くなった彼の生涯を簡単ですが紹介しておきましょう。

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弟の描いたワーグマン

(ワーグマンの生涯)
ワーグマンの日本に来るまでの生い立ちはほとんど不明です。
ロンドンに生まれ、20歳の時にパリで絵の勉強をしますが、画家ではなく軍人として陸軍大尉まで昇進します。22歳の時に除隊し、「イラストレイテッド・ ロンドン・ニュース」紙の特派員として中国は広東に派遣されます。
当時、日本を訪れた外国人は中国大陸を訪れた後に来日するパターンが多かったようです。特にイギリス・フランス人は、中国侵略に血道をあげていた時代です。
ワーグマンは、広東でアロー号事件、北京侵攻に同行した後、1861年(文久元年)に長崎に来日します。
香港で初代駐日総領事に任命されたサー・ラザフォード・オールコックに随行し、江戸に二ヶ月かけて上京します。
おそらく、オールコックは日本国内を着任前に自分の目で見ておきたかったのでしょう。ワーグマンも多くのスケッチが残されています。

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この日本国内を縦断する長旅が終わった時に、ワーグマンの人生を変える大事件に遭遇します。長崎からの旅を終え、仮の英国公使館となった品川の東禅寺に泊まった翌日、水戸浪士による「東禅寺事件」が起ります。
静かな日本の生活を実感してきたワーグマンにとって、
この事件に関する記録が、ワーグマン来日の初仕事になります。

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この襲撃事件の時、ワーグマンは床下(縁の下)に隠れ、腹這いになりながら「イギリス民衆の為に、この特筆すべき事件の情景を描写していた」と生き残った書記官が書き記すジャーナリスト魂を発揮します。
開国の混乱期、最も攘夷のテロが多く起った時期にワーグマンは江戸の地を踏む事となったのです。

(ベアトとの出会い)
ほぼ、ワーグナーと同時期の1863年(文久3年)にインド、中国を経て来日した英国人戦場カメラマンがフェリーチェ・ベアトです。
ワーグマンは絵画、ベアトは最新技術の写真で日本文化を克明に記録した“対照的な”二人が出会います。

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フェリーチェ・ベアト
http://ja.wikipedia.org/wiki/フェリーチェ・ベアト

二人は横浜で急速に接近し、「Beato & Wirgman, Artists and Photographers」を設立し、共同経営の下で報道写真と報道絵画のビジネス展開をします。
1863年にワーグマンとベアトは、スイス全権大使アンベールに同行して外国人遊歩区域外の日本を記録に残します。
べアトは、横浜、下関、 鎌倉、金沢村ほか京都や江戸の規制区域内を撮影し、ワーグマンも詳細なスケッチを残します。

No.364 12月29日(土)小国の独立力
写真は銅版画に起こされてワーグマンが特派員だった「イラストレイテッド・ ロンドン・ニュース」紙にも掲載されます。

二人は対照的な人生を歩みます。
ベアトは、中国で取材活動中から「商館」を経営し、日本でも写真家から貿易商・不動産業に転身し「横浜グランドホテル」の共同オーナーを始め賃貸住宅のオーナーにもなるというビジネスマンとして活躍します。
一方のワーグマンは
1862年(文久2年)から始めた「THE JAPAN PUNCH」を不定期ながら発刊し続けながら、日本人女性の小沢カネと結婚し、日本人に西欧絵画の技法を教え続けます。
1865年に「五姓田義松」がワーグマンの許に入門し後に日本を代表する洋画家となります。
翌1866年には近代洋画の開拓者と呼ばれた「高橋由一」が入門します。

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高橋由一作品、鮭の絵が有名です

また1874年には明治浮世絵の三傑の一人「小林清親」が入門しようと尋ねた記録があります。
しかし、明治初期、西欧画を排除する時代に入ります。「THE JAPAN PUNCH」も運営が厳しくなり、洋画の発表の場も失われていく中で、ワーグマンは画家・アーティストとして生きようともがきますが、筆折れ
1887年(明治19年)に当時人気急上昇のジョルジュ・ビゴーへの(バトンタッチの)挨拶を含めた最終号を発刊します。
イギリスに発表の場を求め帰国し、弟ブレイクとロンドンで展覧会を開いた後、再び来日(帰国?)しますが病に倒れ、長い闘病生活の後1891年(明治24年)58歳で亡くなります。
彼は横浜外国人墓地(イギリス16区9)に葬られ、毎年命日の2月8日には「ポンチ・ハナ祭り」(ワーグマン祭)がワーグマンの墓前にて開かれ、現在まで彼の人生が偲ばれています。

(余談)
この時期に流行した「ポンチ絵」はワーグマンの「THE JAPAN PUNCH」からきています。
このコラムを書こうと思ったのは、先日実家を整理していたら、古いダンボール箱の中から、よれよれの紙が出てきたからです。
そっと開いてみると、これがなんと
「THE JAPAN PUNCH」1875年OCT版だったのです。彼の代表作はありませんでしたが、実物の迫力に感動し、このネタに触れてみました。

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19世紀後半、写真の時代が到来する中、
ワーグマンとベアト。二人の英国人の対照的な人生を、機会があれば掘り下げてみたいテーマです。

No.372 1月6日(日)横浜ランドマークタワー

今日は「ランドマークタワーの見える風景」と題して紹介していきたいと考え、写真を探していましたが、
言い訳がましいのですが、あまり掘り出しものがありませんでした。
地元には“見慣れて”しまった!
あまりに定番ですが、Yokohama Landmark Towerの風景を紹介しましょう。


ランドマークタワー)
正式には「横浜ランドマークタワー」
http://www.yokohama-landmark.jp/page/
三菱造船の跡地に始まった「みなとみらい計画」の中核ビルとして建設された超高層ビルです。

No.37 2月6日 都市デザインの実践場

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

No.191 7月9日(火) 宙に舞う話


(建設計画の頃)
当時実施された「YES89」横浜博覧会が終了した後、1990年3月20日に着工され、1993年7月16日に開業しました。


工事が始まると、次第に高くなっていく姿が地元の「観光資源」にもなりよく出かけたものです。
高さは296.33mあり、現在(2013年)超高層ビルとしては日本一の高さを誇ります。
残念ながら2014年に大阪にトップの座を譲ります。

ただ、“横浜市民”として言い訳をいわせてもらえば
当初は高さ300mの超高層ビルとなる計画でした。
みなとみらい地区が東京国際空港の標準出発経路(SID)と重なったために高度制限が発生し、296.3mとなったという理由があります。4mがなぜいけないのか?
不思議といえば不思議です。


単純に高さで競えば(現在)東京スカイツリー(634m)、東京タワー(332.6m)、明石海峡大橋(298.3m)に次ぐ4番目の高さです。
アメリカの建築家、ヒュー・スタビンス(Hugh Stubbins)よる基本設計に基づき、三菱地所が実施設計を行いました。彼は日本の鳥居をモチーフにデザインしたという話しもあり、じっくり眺めてみると
見えない事も無い?!


この「横浜ランドマークタワー」が着工しはじめた頃、私事ですが横浜に転入してきました。たまたま 「横浜ランドマークタワー」が見える位置に住居がありましたのでこの頃の写真が 下手ですが残っています。
記録感覚で残したものです。


以降時折、撮影の脇役に「横浜ランドマークタワー」が入ってきますが、当然の風景になっていることに
今回テーマにしてみて気がつきました。
地元こそ、もっと「横浜ランドマークタワー」を横浜のランドマークとして再評価しなければなーーー。
「横浜ランドマークタワー」の紹介したいネタも
結構あることにも改めて思い出しました。
超高層ビル建設現場のエピソード、太郎と花子の物語とか
トイレの話しとか
??知りたい?
建設のエピソード、ビル内、展望ルーム「スカイガーデン」については 別の日に譲ります。

(余談)
全日本タワー協議会
http://www.japantowers.jp/home/index.html
全日本タワー協議会は、全国20のタワーで運営されていますが、
この「横浜ランドマークタワー」と「東京スカイツリー」
いわき市の「いわきマリンタワー」
http://www.iwakicity-park.or.jp/misaki/
は入っていません。

No.371 1月5日(土)ノゲ的 (加筆修正)

今日は野毛。
この街は、読むより行くに限ります。

私はまだ野毛を語るには“飲み”が足りないかもしれませんが、
今日は野毛を紹介します。

(アジア人白神義夫さん)
神奈川新聞の名物記者、白神義夫さん。
彼は中華街と野毛のことを良く語っていました。
特に野毛の大通りを「税務署通り」と呼んでいた時代の話には
 熱い語りが止まりませんでした。
「野毛は悔恨の街である」と語り、本にも書いています。
野毛は“変わりつつ、変わらない”人気の定番商品のセオリーみたいな街です。
常連にも、ビギナーにも懐かしさと新鮮さを見つける事ができる街、
「野毛はデラシネの屋台から始まった」と白神さんは語る。
「そこには、米軍さんの匂いもあったけど、変わり身の早い日本という国への反権力の煙が漂っていた…。」

書く命家 平岡正明)
横濱文芸復興「野毛的」を読み返すと、
この街が持っている磁力というか粘着力みたいなものが感じられます。
東京は本郷湯島に生まれた彼が、
横濱に反東京の拠点を見いだしたのが「野毛」の磁力で、90年代に積極的にこの街と関わり、野毛の発信力となりました。
偶然とは恐ろしいもので、
私が初めて“野毛”に近づいたのが高校時代、日ノ出町の「山手英学院」夏期講習に通っていた頃の拉麺屋でした。
→現在も場外馬券場の隣のビルで営業していたことに感動しました。
(2014年末現在 残念ですが閉店して新しいお店になっています)

大学生時代、一冊の本を持ってセンターグリルの階段を登ったのが、野毛の街に侵入した初めての経験でした。

ランチでは無く現在お気に入りのオムライスです。

空いていた窓際の席に陣取り、大盛りのランチを注文し、
伊勢佐木の有隣堂で購入した本を開く。
何時もはカバーをかけない方ですが、今日は
この本の表紙に圧倒され「カバーをお願いします」と言ってしまった
「山口百恵は菩薩である」
知る人ぞ知る、「野毛的」の平岡作品である。

残念ながら、平岡さんは一度パーティの席で遠目にお会いしただけでした。
今、彼は亡くなられましたが、
生まれた街が変わりゆく新しいランドマークを何と評したでしょうか
 平岡さん。

(女流)
今の野毛を語るには二人の「女流」を欠かせません。
女流作家 山崎洋子さん
女流落語家 荻野アンナさん
土日の野毛にも、夕暮れの野毛にも
女性の姿が多くなりました。
ここにも
“変わりつつ、変わらない”野毛の磁力が働いているように感じます。


(コンテンツ塊)
野毛を本質を語る前段だけでも数十冊の本ができる街。
野毛はコンテンツの塊です。
開港時から現代まで、エッセイにしたいネタを
私流のタイトルを付けるなら
「松平陣屋事件貼」
 (越前松平藩と長谷川伸)
「野毛別宅物語」
 (野毛別荘史)
「時の野毛山」
 (時鐘と十全病院)

「老松小学校の悪童」
No.86 3月26日 老松小学校の悪童

「野毛で錦絵に会う」
 (高橋誠一郎の横濱)
「税務所通物語」
 (そこのけ闇市)
「美空ひばりと福島通人」
「山本周五郎 逃げる」

世の“物書き”は野毛でもう少し惑わして欲しいものです。

「暮らしの場に思いをよせ、
人々のふれあいが始まるとそこは「界隈」になる」

No.457 ザンギリ野毛

※野毛の床屋について書きました。

No.422 妙蓮寺と野毛

1968年(昭和43年)〜翌年にかけて
横浜を舞台にした人気テレビドラマ「三人家族」について紹介しています。
※世代がわかりますね。

No9 1月9日(月) 野毛カストリ横町立退き騒動

戦後間もなくの話しです。「櫻川」がまだ“川”だったころ
野毛桜木町駅近くにカストリ横町がありました。


No.424 琉球バル


No.323 11月18日(日)歓楽街の住まい方

No.370 1月4日(金)【横浜の河川】鶴見川 輪下り絶景

昨日が横浜の自転車史みたいな感じで展開しましたので、
しり取りではありませんが、
私のサイクリング案内から
鶴見川下りを紹介しましょう。

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横浜市内で最も長いサイクリングロードは鶴見川です。
上流は青葉区鉄町の寺家ふるさと村をかすめて、
都筑区、港北区、鶴見区を横切る約30キロのロングサイクリングが堪能できます。
私は、恩田川の合流地点近くの「落合橋」下から河口までツーリングを楽しみました。

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右側鶴見川、左側恩田川

これまで、大岡川、中村川、堀割川、柏尾川(一部)、帷子川(一部)、今井川(一部)を走破しましたが、市内では鶴見川サイクリングコースに勝るものはありません。

落合橋から河口まで約20キロあります。河口までなだらかな下りですから、逆に河口から「上り」狙いも面白いでしょう。
(橋オタクポイント)
橋には施工プレートが付いています。

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(ナビゲーション)
鶴見川は(有名な)距離ポストが設置されています。鶴見川流域をバクの形に“見立てた”想像力に敬服。古代ギリシア人みたいです。

(左岸か右岸か)
川の走りは、右岸・左岸の選択も大切なポイントです。予め地図を見ておくか、景色を見回して都度選択していくか?共に楽しいです。

(脇道に逸れる愉しみ)
まじめなサイクリングも良いですが、できれば適度な寄り道をするのが楽しみを倍増させてくれます。
■崎陽軒売店
現在「環状北線」工事中のため、アクセスが難しくなっていますが、第三京浜インターチェンジ近くから崎陽軒工場前に出ましょう。
崎陽軒の売店があります。(珍しくない!)と思うでしょ。
実はこの売店でしか買えない(ちょっと前は、現在未確認)

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昔は携帯ストラップもあったんですが、キーホルダーのみ

を売っているんです。
ここでお弁当や飲料を購入するのも良いのでは。
私は、ここでお弁当を買ってみる事にしました。

さあ崎陽軒売店を後に。
お弁当はどこで?
私は綱島の「大綱橋」近くでお弁当をいただきました。
鶴見川下りの時は、昨年の初夏でしたので、爽やかな風の吹く木陰を選びました。

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■IKEAにも立ち寄れます
(ちょっと離れていますが)

■面白風景
ビルが橋を食べている

実は水道橋が水道施設に直接架かっています

川があれば「橋」がある。
(橋オタクポイント)
橋のデザインはかなり個性的です。

森永製菓の森永です。
通学路みたいです

下流域では一部「川崎市幸区」と隣接しているエリアがあります。

下流域に入ってくると川幅が広がり目の前に拡がる景色も変わってきます。

(工夫ポイント)
季節に関係なく、水筒は持参しましょう。
チタン水筒がおすすめです。(ちょっと値段は張りますが)軽量で保温力が抜群です。夏は氷ひとかけらで「ギン冷え」数時間。
冬場も同じです。


(ガイド)
マップ、ガイドブックは用意しましょう。
私は“昔のガイドブック”を敢えて持参しました。


(激変風景)
現在、生麦と第三京浜を結ぶ「環状北線」工事が進んでいます。
http://www.yokokan-kita.com
移り行く風景を楽しむのも一興です。
■送電線技術に感服
鶴見川は 鉄塔ウォッチのベストポイントです。

送電鉄塔に関しては下記推奨ブログがあります。
http://blog.livedoor.jp/sawdensen/
(フィニッシュ)
残念ながら 鶴見川は河口まで自転車では行けません。
河口付近は工場敷地のため立ち入りができないからです。
ただ、迂回すればしっかり河口の絶景を堪能できます。
横浜市高齢者保養研修施設『ふれーゆ』
「ふれーゆ」まで自転車で行けます。
http://yfure-yu.com
高齢者保養研修施設とありますが、誰でも入場できます。実際子供からオトナまで幅広く利用されています。
サイクリングの途中に“入浴”“温泉プール”も最高です。冬場は湯冷めに気をつけてください。

リバーサイドアートも楽しめます。

作品は?実際に出かけて観てみましょう!他にも多数川辺にアート作品が。
ヒントこの橋あたりから散策してみては?

※このルートに「国道駅」も入っていますがディープな物語は別建てで!!
※もうひとつ 杉山神社巡りも鶴見川流域スポットの一つです。

No.369 1月3日(木)自転車乗ってますか?

今日のテーマは自転車。
横浜に自転車が似合います。でも谷戸の多い横浜では坂道も覚悟しなければなりません。
私は、水辺サイクリングを楽しんでいます。鶴見川、大岡川、柏尾川、そして海辺サイクリングです。

マイちゃり
大岡川

今、自転車を手軽に借りて横浜を走る「横浜コミュニティサイクル」(通称ベイバイクbaybike)が人気です。レンタサイクルなんて言いません。ベイバイクする!です。

自転車といえば、神奈川県津久井出身の梶野 甚之助が設立した高島町の「自転車製造所」をまず紹介しておきましょう。「明治成功名誉鑑」(明治43年)等の資料によりますと
梶野 甚之助は1856年(安政3年)に津久井郡太井村に生まれ、8歳で丁稚見習いとして醤油醸造業に従事します。

1871年(明治4年)には奉公先の醤油樽を使って見よう見まねで木製の自転車を作ったそうです。
1877年(明治10年)21歳の時に当時最先端技術に触れることが出来た燈台局に就職します。
1879年(明治12年)蓬莱町4-8に工場を設け、自転車製造を創業します。
米国ヴァンタイン社をベースに純正国産品を製造し、「金日本号」「銀日本号」のブランド名で逆に中国・米国に輸出するまでに至った技術者・企業家です。
諸説ありますが、ここが日本最初の自転車製造企業(メーカー)といわれています。
会社は、1888年(明治21年)高島町5丁目10番に移転します。
この頃が、梶野自転車製造、絶頂期に入ります。
1890年(明治23年)には第3回内国勧業博覧会・東京に自転車を出品し第4回内国勧業博覧会では有功賞を受賞ます。
新聞広告等にも積極的に出稿し販売も順調に伸びますが、次第に部品供給力・価格力に押されていきます。
(関連プログ)
No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本

「明治成功名誉鑑」(明治43年)には、自転車関係の成功者が他に3名紹介されています。
真砂町1丁目3番
高木 壽次「喬盛館」(明治26年創業)
「クリヴランド号」の輸入特約店

相生町1丁目3番
根津 酒造蔵「根津自転車店」(明治29年創業)
英国製“ストレート”自転車の輸入特約店

尾上町4丁目
松浦 精一郎「キンリン社」(明治36年創業)
英国モノポール社特約店
明治42年には大手自転車メーカーとなった丸石商会(現在の丸石自転車)も尾上町に横浜支店を出します。

これら 横浜生まれの自転車企業は残念ながら全国展開した大手メーカーに駆逐されていきますが、1874年(明治7年)6月1日に野毛で生まれた『河本商店』は現在も“まちの自転車店”で健在です。

じてんしゃ102かわもと
http://jitensha-102.com
私の自転車も、ここで購入・メンテナンスしています。

鶴見川、大岡川初め横浜市内を走り回っています

自転車店はホームドクターが必要です。
自転車購入は、点検・修理が可能な店にしましょう。
今年もサイクリングイヤーでいきます。

No.53 2月22日 アーティストツーリング

 

No.368 1月2日(水)横浜入門書

今日は、良く聞かれる質問から。
横浜を始めて勉強する参考書はありますか?

私は横浜に住民票を移してちょうど二十五年になります。
最初の五年は、正直ほとんど横浜の事を知りませんでしたし、現在ほど興味もありませんでした。職場が主に東京でしたから、横浜は余暇のひと時を過ごす空間でした。
キッカケは1995年(平成7年)の阪神淡路大震災でした。その詳しい経緯は別にして、18の区がある横浜の多面性に驚いたところから始まりました。
初めて本格的に横浜の事を調べ始めた時に、参考になるものが中々ありませんでした。それこそ、図書館で市史でも読めば詳しくなるのでしょうが、手軽な入門書?は無いのか。それも単に歴史だけじゃない、横浜の様々な『顔』がわかるには?
当時はネットも“パソコン通信”の横浜フォーラムがありましたが、ネットにありがちな「オタク縄張り」みたいな入りにくい世界でした。

本日明らかにする 本邦初公開?というほと大げさではありませんが、
私の最初の横浜虎の巻を紹介します。

「港都横浜そのうつりかわり」川口正英 著 ブックス二宮発行
残念ながら絶版の入手困難本ですが、改訂版を出してもかなり反響があると思います。
川口正英氏は横浜市瀬谷の旧家の出身で、
元横浜市会議長、市会議員を長らく務めた方が横浜の概略をまとめあげた著作です。
※息子さんの正寿さんも現在、瀬谷区から市会議員として活躍されています。

この本を手にした時、まず奥付けの著者経歴をチェックして
議員さんの本は基本的に面白くないし、族議員のPR本の類ではないか?と思いましたが、どっこい ものすごい本です。半端じゃありません。
発行は1983年(昭和58年)ですが、当時横浜検定があったらこの本が教科書になっても不思議ではありません。
また私家版の市政要覧としても読み応えのある一冊です。
歴史から、当時の横浜市の事業、課題が的確にまとめてあります。
(1)開港とそれに関わる種々相
(ここでは開港から昭和までの概略をまとめてあります)
(2)横浜港と貿易編
(3)下水道と河川事業編
(4)横浜水道編
(5)道路編
(6)清掃編
(7)教育編
(8)消防編
(9)公園編
(10)農業編
(11)横浜中央卸売市場編
(12)交通機関編
(13)開発関係編
※どうやら当時の横浜市の組織別にまとめているようです。

今、この本を読めといっても多少無理があります。

実は無料で横浜市の概要をつかむことが出来る冊子があります。
「横浜市暮らしのガイド」
http://www.city.yokohama.lg.jp/shimin/koho/lifeguide/
PDF版もあります。
新たに転入してきた新市民には配布されているようですが、一般市民は自ら配布場所に出向いて入手する必要があります。(またはダウンロード)
冒頭の
■私たちが住む「横浜市」って?
は横浜の基本中の基本がまとめてあります。

横浜初学者には「わたしたちの横浜」を推薦しています。

小学校児童のための社会科副読本の年度版で、市販されています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/koho/
次にもうワンランク上の横浜を学ぶには
「横浜市立中学生用副読本 わかるヨコハマ」がおすすめです。

ここでは、
「横浜市立小学校用副読本 わたしたちの横浜」を紹介しましょう。
2009年に開港150年を記念して編纂された横浜市立小学校の「横浜の時間」に使われる副読本です。

歴史から、横浜の現在まで横浜市全般の基礎知識をコンパクトに判りやすくまとめてあるのが最大の特徴です。
ちょっと自慢ネタもまぶされています。

No.367 1月1日(火)この駅「日ノ出町駅」

あけましておめでとうございます。
今年2013年(平成25年)1月1日から一年、
よろしくお願いします。
正月だからまず何から始めようか?
初日の出ということで、今年は京浜急行「日ノ出町駅」からのんびり始めます。

プロローグ
(湘南と東京を結ぶ駅)
「日ノ出町駅」は1931年(昭和6年)12月26日 に「湘南電気鉄道」と「京浜電気鉄道」が結ばれ誕生した駅です。
前年の1930年(昭和4年)2月に「京浜電気鉄道」の高輪駅と横浜駅間が開通し、同年4月に「湘南電気鉄道」が黄金町駅と浦賀駅の間を結んでいました。
No.88 3月28日 京浜湘南電鉄連結地点

当初「湘南電気鉄道」は黄金町駅から大岡川に沿って「国鉄桜木町駅」まで延伸する予定でした。その名残が現在も日の出町、野毛の道筋として残っています。


「京浜電気鉄道」「湘南電気鉄道」軌間規格が異なる二社の決定的違いを乗り越えた開拓精神が、現在の京浜急行を誕生させることになります。


(トンネルを抜けて)

横浜駅から京浜急行下り線に乗り、戸部駅を過ぎると連なる三つのトンネルがあります。
御所山トンネル、上原トンネル、野毛山トンネルです。
横浜市西区南部の丘陵地帯を一気にくりぬいたトンネルを抜けると、崖にへばりつくように「日ノ出町駅」が出現します。


日ノ出町はカーブした駅で、しかも道路(県道)の上にプラットフォームがあるかなり無理をして造った駅のなごりが今も残っています。


二社の規格を揃え1933年(昭和8年)4月1日に品川と浦賀間の直通運転が実現し横浜市内南西部の重要な首都交通路線となります。

この駅の象徴、昔から残っているタイル模様の三浦半島。

1964年(昭和39年)に国鉄根岸線が桜木町駅から磯子駅まで延伸するまで、日ノ出町駅は伊勢佐木町界隈に出かける最寄り駅でした。

※昔、日ノ出町駅前には山手英学院という予備校がありました。駅前という便利さもあり横浜市内有数の独立系予備校でした。山手英学院は、港南台に「山手学院(中・高】」を作り、日ノ出町の英学院は有隣堂の経営を経て廃校となりました。

 この頃、予備校に通う生徒の食欲を満たした小さなラーメン店が「いろは」で、一時期ご主人が体調を崩し閉店していましたが、現在場外馬券売場「WINS横浜」横で復活しています。


(ぶらり散歩には最適)

京急日ノ出町駅はふだん目的が無い限りあまり降りない駅ですが、ぶらり降り立つにはかなり魅惑的な街です。
簡単に日ノ出町駅前ぶらり観光情報を紹介しましょう。
■聖俗アダルトからキッズまで
今、日ノ出町駅前は再開発計画がようやく実を結び、大改装中です。

駅前の「不二家」も無くなりました。現在整地が終了し、基礎工事が始まったところです。(2013年1月)


この街は、ストリップ劇場「浜劇」、アダルト専門映画館「横浜光音座」、場外馬券売場「WINS横浜」などがありその先には、福富町・野毛界隈が拡がるオトナの街です。

一方で、伊勢山皇大神宮、横浜市立中央図書館、野毛山公園、野毛山動物園、大岡川河畔などもあり聖俗混合の不思議な(本来の街?)味わいがある界隈です。

■記念碑

日ノ出町界隈には、美空ひばり、長谷川伸の記念碑があり昭和という時代を感じることができます。
1948年(昭和23年)5月に美空ひばりが横浜国際劇場会館一周年記念特別興行で前座として笠置シヅ子の「セコハン娘」を歌い大喝采を浴びます。この劇場支配人福島博との出会いから、横浜国際劇場の客員としてデビューし後に準専属となり大スターの道がここから始まります。
この横浜国際劇場は現在JRA場外馬券売場となっています。
一方の長谷川伸は昭和前期に活躍した日本の小説家、劇作家です。この日の出町で生まれました。


「股旅物」というジャンルを築き、彼の作品中の「仁義」を切るシーンは実家が没落して若い頃に横浜ドックで働いていた頃に覚えたものをモデルにしたというエピソードがあります。

彼の文学的評価は昭和の大衆小説に輝くものですが、もう一方で新鷹会という文学学校を主宰し村上元三、山手樹一郎、山岡荘八、戸川幸夫、平岩弓枝、池波正太郎、西村京太郎らを育てたことは特筆に値します。
※日本丸ドックの一角にも長谷川伸文学碑があります。

■アートの実験エリア
湘南電気鉄道「黄金町駅」から京浜電気鉄道「日ノ出町駅」の高架線周辺をアートで新しい街づくりを行っているゾーンがあります。
黄金町エリアマネジメントセンターが運営しています。
http://www.koganecho.net/
名称は「黄金町」ですが日ノ出町駅の方が最寄り駅です。
詳しく紹介したいところですが、別の機会にします。HP等で確認の上、イベントやショップに行ってみると良いでしょう。

■100円ワンコインバスなら日ノ出町

みなとみらい100円バスの赤レンガ倉庫行は、始発が日ノ出町駅前です。