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横浜の駅」カテゴリーアーカイブ

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第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所(加筆)

初代横浜駅が開業したのは1872年6月12日(明治5年5月7日)考えてみれば、開港以来十数年で産業革命の象徴を導入したことになる。
わが国の鉄道発祥の駅舎は新橋駅と共にアメリカ人建築家、R・P・ブリジェンスが設計した。
ここに横浜駅前、鉄道開業後の写真に写る<謎>の建物を発見?

初代横浜駅前

明治25年に発行された絵地図にも駅前噴水の先、大岡川に面した場所に何か建造物がある。
私はこれは新しい「公衆便所」ではないかと推理した。
撮影時期は、初代横浜駅開業期から
1902年(明治35年)に初代大江橋が架替されるまでの間であることは間違いないだろう。
さらに絞りこめるか、果たして公衆便所なのか
資料を漁ってみた。
まず簡単に横浜公衆便所史から
開港後、欧米人が出会った日本の風習の中で、
庶民が平気でどこでも<立ちション>するという行為には閉口したという。
そこで外国人たちは<公衆便所>の設置を時の行政府に強く要望した。
早速動いたのが横浜町会所、現在の横浜商工会議所だった。
1871年(明治4年)11月に横浜町会所の費用で町内83カ所に小便所を設置。
掲示板を使って設置場所を掲示し
「右之通りに付旅人は別して心得居可申事也」と示した。
この小便所は四斗樽大の桶を地面を掘り下げて埋め込み、板囲いをした程度の簡単なものであったため臭いがきつく外国人にはかなり不評だったようだ。
「主要地区には瓶(かめ)を埋め込み、男女両用に供し、屋形式のやや完全なるものに改造するなど、統廃合の結果、多くは橋詰に設置する事となり、其の数も四十数箇所となった。」
これが写真にある初代横浜駅前広場、大江橋詰に設置された公衆便所ではないか?
<横浜駅前公衆便所>
確証は無いがその他にこの当たりに必要な<建築物>が考えつかない。邏卒所=交番も考えたが、川沿いに建てる必要があるのか?窓がない、川に向かって蓋らしき構造、などなど疑問が残る。
拡大してみると人影が見え”立ちション”に見えないこともない。
写真左側には「大江橋」が架かっている。下流右岸から「大江橋」を見ている。
反対側からの風景でも確認してみたい。

大江橋上流の右岸から「大江橋」を写している。
恐らくこの風景の方が新しいものだろう。電信柱が増えているのが判る。
ちょうど樹木が遮っていて、正確に確認することができないが、角度的には橋詰の<建造物>は無いように見える。
短期間で撤去された可能性もある。

明治二十年代の初代横浜駅周辺。横浜電気鉄道はまだ開通していない。

1872年(明治5年)2月17日の横浜毎日新聞には
「仮名垣魯文、立ち小便で科料(とがりょう)とられる。仮名垣魯文、当港へ来たり、本町辺にて風と立小便為し、邏卒に見咎められ、科料申付けられし由、西洋膝栗毛の趣向を一寸実施に見せたるは面白し。」と時の有名人も”立ちション”で捕まったようだ。
(参考資料:荒井保男『日本近代医学の黎明 横浜医療事始め』2011 中央公論新社)
※番外編
偶然の一致?

桜木町公衆便所遠景
桜木町公衆便所

大江橋近くに2016年までなかなか良いデザインの公衆便所があったが、廃止されてしまった。
位置的にも古地図の位置と合っている(若干大江橋寄りではあるが)!んだけどな。
さらに追いかけてみるか?

第855話 1983年(昭和58年)7月21日二俣川

相鉄線「二俣川」駅は 運転免許試験場があることから横浜市民に広く知られています。
ここで相鉄線は<いずみの線>に分かれ「湘南台駅」につながっています。lightP7311095 lightP7311117 旭区役所は相鉄線の一つ横浜より「鶴ヶ峰駅」にありますが、乗降客数は圧倒的にここ「二俣川駅」が多く旭区の中心駅となっています。
今日この駅を取り上げたのは
市内二番目のCATV局「横浜ケーブルビジョン株式会社」が
横浜市旭区二俣川2−91に
1983年(昭和58年)7月21日の今日設立されました。
(開局ラッシュ)
1980年から90年代にかけて横浜市内でも
CATV(Common Antenna TeleVision および Community Antenna TeleVision (共同受信)の略)事業が始まり市内15区に渡って7局が開局します。
最初のCATV局は
◆緑区・青葉区。都筑区エリアに
Tokyu Cable TV「株式会社東急ケーブルテレビジョン」1987年10月開局
※現在はイッツコム-テレビ(1983年3月2日設立)
当時:加入31,500円 月額3,150円
◆旭区と泉区の全域・戸塚区の一部エリアに
YCV「横浜ケーブルビジョン株式会社」1988年4月開局

当時:加入21,000円 月額3,150円
◆南区・磯子区・中区の一部エリアに
Bay Wave 「株式会社横浜テレビ局」1992年10月開局
※現在ジェイコムイースト傘下「J:COM横浜」に

当時:加入52,500円 月額3,150円
◆鶴見区・神奈川区・港北区の一部エリアに1993年10月開局
YOUテレビ「YOUテレビ株式会社」

当時:加入26,250円 月額1,260円
◆金沢区全域エリアに1996年4月開局
TOWN TV Kanazawa「株式会社タウンテレビ金沢」

当時:加入52,500円 月額3,650円
◆戸塚区・栄区エリアに1997年7月開局
タウンティ「株式会社タウンテレビ横浜」

当時:加入51,500円 月額3,675円
◆青葉区の一部エリアに1987年12月開局
OCV小田急ケーブルテレビジョン「株式会社小田急情報サービス」

当時:加入52,500円 月額3,150円
★上記料金には有料チャンネルは含まれていません。

局によって視聴できるチャンネル数も微妙に異なっていました。
「横浜ケーブルビジョン株式会社」は
1988年(昭和63年)4月2日
横浜市旭区エリアで営業放送を開始します。
その後戸塚区の一部エリア、保土ケ谷区、西区にエリアを拡大し、現在は横浜市保土ヶ谷区神戸町134 横浜ビジネスパークに本社があります。創業の地旭区にもさちが丘事業所を残し相鉄沿線の拡充拠点となっています。

(二俣川駅)
1926年(大正15年)5月12日開業の二俣川駅
No.695【横浜路線バスの旅】市民に最も利用されている路線は?

現在駅ビルの建て替えが始まっています。
将来 相鉄線の東急東横線との接続が計画され、二俣川が拠点駅となっていきます。
湘南台から日吉・渋谷までの連結で、大きく変わっていく可能性を秘めています。
※慶應義塾の湘南台、日吉、三田を!
文教大学の湘南、旗の台、越谷、石川台を結んでくれ!
って要望が強かったんですかね??

No.203 7月21日 (土)エーゲ海に捧ぐ

最近何かと話題のギリシアですが、
日本とギリシャの間にはいくつかの姉妹都市があります。その中で、姉妹提携のある横浜の街が大倉山商店街です。
1988年(昭和63)7月21日の今日、「エーゲ海フェスティバル」が開催され姉妹提携が行われました。

第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い

京浜急行神奈川駅は京急線の中で一番“狭い”ホームのある駅です。(感覚です。実際測っていません)
開業は1905年(明治38年)12月24日、歴史ある駅です。
light20150211神奈川駅 lightP2110494 lightP2110514今日は駅そのもののエピソードは別の機会に譲ります。
神奈川駅のある一帯は明治期に鉄道を敷設する際、丘陵の一角を大きく削りました。
神奈川駅を挟んで両側が繋がっていました。light台場神奈川駅東京に向かって右側(東側)の駅際にある小高い丘が「幸ケ谷公園(権現山)」、反対側の西側が高島台にあたります。
今日は横浜の歴史を一気に戦国時代へと時間を戻しましょう。
時は16世紀初め、永正7年(1510年)7月19日の今日は、9日間も壮絶な権現山(ごんげんやま)の戦いが終わった日です。
「権現山の戦い」とは、上杉連合軍がここ権現山を居城とした上田勢と支援した北条氏を破った戦いです。
江戸時代に本格的に整備された東海道ですが、それ以前から東海道は太田道灌の開いた江戸と西国を結ぶ重要な道でした。東京駅から東海道線に乗ると品川近辺の御殿山を過ぎると、平坦な道が続きます。
神奈川県に入り最初の丘陵がここ<神奈川>です。
中世から、権現山は街道の要衝にあたり、戦略的に重要な場所でした。
当時武蔵の国一帯は上杉一族の勢力下にありました。その南端にあたる城が権現山城で扇谷上杉朝良家臣<上田蔵人政盛>が城主として一帯を治めていました。ここに、波乱が起こります。伊豆にあった北条早雲が、鎌倉まで勢力を伸ばし、さらには武蔵の国へと侵攻します。
この時、早雲は権現山城主であった上田 政盛に、上杉傘下から我が北条の仲間になれというメッセージに呼応し兵を挙げます。
この権現山の戦いに関しては上田 政盛が早雲の策略に乗って主君<上杉>を“裏切る”といった表現が多いようです。
「伊勢宗瑞(北条早雲)の調略に応じて相模国境に近い武蔵国権現山城で挙兵した。」
「まず扇谷上杉朝良の家臣・上田政盛を寝返らせ、修築したばかりの相模国<ママ>権現山城に据えた。」(文中相模国→武蔵国)
「早雲は永正4年(1507)、越後の守護代長尾為景(ながおためかげ、1489〜1543・上杉謙信の父)と守護上杉房能の戦いに乗じて、扇谷上杉氏家臣の権現山城主上田政盛(うえだまさもり、生没不詳)を寝返らせます。」
資料を読むと事態はそれほど単純では無く、関東上杉家の<内紛>が<上杉家>に反旗を翻す要因と考えるのが妥当と思われます。元々、権現山城主 上田政盛は扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家臣でした。ところが、同じ上杉家の<山内上杉家>によって領地だった神奈川湊を奪われてしまいます。ここに<山内上杉家>に対する反感(恨み)が生まれ、新たなる勢力となってきた北条早雲に与します。
ただ悲劇なのは、この反旗によって仲違いした扇谷上杉家の上杉朝良と山内上杉家の上杉憲房が連合で上田政盛の挙兵した権現山城を圧倒的陣容で包囲し壮絶な戦いが行われ、早雲の援軍が到着する前に陥落します。
※一説では上田政盛は生き残り、後に扇谷上杉家家臣として復活したという説もあります。

この権現山の戦いをキッカケに関東全域をめぐって伊勢氏(後の北条氏)と上杉氏との同盟関係が完全に破綻、戦国時代の覇権争いが激化していくことになります。

(神奈川台場)
この権現山の戦いの舞台となった場所は現在幸ヶ谷公園となっています。ただ戦いのあった当時よりかなり<低く>なっています。
ペリー来航後、急遽神奈川台場を構築するにあたり、埋立て用の土砂がこの権現山の山頂部分を削って使用されたため低くなり<台形>に変わっています。

※余談
この権現山の戦い、2万の上杉勢に対し2000の将兵で迎え撃った上田政盛陣営は圧倒的大軍の前に惨敗しますが、そこに
「19日上杉勢がなだれのごとく城内に乱入した時、城中より「我こそ神奈河の住人間宮の某」と叫びつつ上杉に突入した勇ましい武士がいた。神奈河(今は神奈川と書く)住民間宮とは信冬もしくは子の彦四郎信盛と伝えられている。」
この間宮は討ち死にせず戦のあと笹下に居を構え、北条政権下磯子一帯の領主となります。この間宮家が杉田家となり産業の少ないこの地で梅林などの殖産に務めました。

No.201 7月19日(木)港を感じる絶景ポイント
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=406
横浜港のある東京湾は、船舶の航行が集中するポイントにあたります。
船舶通航信号所として
1986年(昭和61年)7月19日(金)「横浜港シンボルタワー」が完成しました。

2015年7月18日快速運転開始

2015年(平成27年)7月18日市営地下鉄ブルーラインの快速運転開始、
併せてダイヤ改正も行われました。
内容は
平 日の10時〜16時
土休日の9時半〜16時
おおよそ一時間に1〜2本の快速車両が追加登場。
これまでの運行本数を減らさず、合間を快速が縫うダイヤグラムとなっています。

☆横浜〜新横浜
11分が8分に短縮
☆戸塚〜関内
22分が17分に短縮

これに合わせて7月18日あざみ野駅構内で
 記念式典がありました。
平成27年7月18日(土)9時15分~9時30分
9時15分から始まり<2番線から9時29分発>を見送る中行われます。

あざみ野駅発 最初の快速が9時29分湘南台行き
一方の湘南台駅発の最初の快速は9時32分あざみ野行き
最初に出発するからなのか?
横浜市内で式典を挙行したかった?からか

(あざみ野駅)
市営地下鉄「あざみ野」駅が開業したのは
1993年(平成5年)3月18日で、90年代田園都市線の乗換に度々利用しました。確か
当時「あざみ野」駅は急行が停車しなかった記憶があります。しかも、当時(今も?)大型SCもあり賑わっているたまプラーザ駅ではなく隣の小さな「あざみ野」が終着駅なんだろうと疑問に思った記憶があります。
この市営地下鉄3号線(ブルーラインの一部)はあざみ野より先(新百合ヶ丘)に延伸する予定の都合で、ここになったという話を聞いたことがあります。鉄道計画というのは様々な思惑も含み中々難しい問題です。
一時期この延伸計画は眠っていましたが現在少し前進しているようです。
昭和38年に専門家委員会で検討されたプランでは横浜から新横浜を経由し荏田(延伸計画中の東急田園都市線)までを結ぶ予定で答申されていました。この答申をベースに飛鳥田市政六大事業における高速鉄道計画が組まれます。
この時のプランでは
1)荏田付近〜綱島付近〜鶴見付近
2)綱島付近〜新横浜駅付近〜横浜駅付近〜桜木町・関内付近〜戸塚付近〜長後付近
という青写真が描かれています。
現在の路線と比較すると終着点が両端とも変わっています。
長後ではなく六会付近へそして最終的に<湘南台>
荏田ではなく、元石川近辺に修正され最終で<あざみ野>
と変化します。
新横浜からあざみ野間の事業免許が認可されたのが
昭和61年2月のことでした。
最初の目論見が昭和30年代後半ですから約25年四半世紀もの時間が費やされました。
気の長い話です。
調べていたら相鉄ネタもでてきました。
特別列車「相鉄JAZZトレイン」が旭区誕生40周年・旭ジャズまつり20周年を記念して、
2009年7月18日に運行なんて記事がヒットです!
https://www.youtube.com/watch?v=TM5WQXdtbrI
相模鉄道・鉄道カンパニーでは、相鉄グループ横浜開港150周年記念事業 「SOTETSU GROUP 横浜開港150 (イチ・ゴー・マル) PROJECT」の一環として車内のジャズコンを挙行!
この企画は いろいろこじつけて 時折実施してほしいな。

(過去の7月18日ネタ)
No.200 7月18日(水)無限の境界
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=407
1997年(平成9年)7月18日(金)
横浜市西区西区みなとみらい2丁目に複合商業施設「クイーンズスクエア横浜」が開業しました。
2012年で創業15周年を迎えました。

第849話 横浜・新橋、横浜が先?

日本鉄道事始め、この辺に詳しい方には当たり前のことですが
日本最初の駅「横浜」「新橋」は全く同じファサード(顔)を持っていました。

初代横浜駅
初代横浜駅
初代新橋駅
初代新橋駅

設計は共にアメリカ人建築家リチャード・ブリジェンス、設計者が同じなんだから同じでもおかしく無いけれども、普通<格>をつけてしまうのが近代日本の定番。ところが「横浜」「新橋」は本当にうりふたつ。
横浜駅には<噴水><ガス灯>が写っています。

鉄道の歴史をざくっと
1872年6月12日(明治5年(旧暦)5月7日)
「横浜」「品川」間の鉄道路線が開通し、横浜駅(初代)が開業。
品川駅は「木造平屋2棟、現在の位置よりやや横浜方、海に面したのどかな駅」だったそうです。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/Shinagawa_Station_in_early_Meiji_era.jpg

1872年10月14日(明治5年9月12日)
四ヶ月後に「横浜駅」と「新橋駅」が開業。初日は式典と明治天皇御座乗特別列車の運行のみで営業は翌日からなので営業は1872年10月15日ってことです。
この間を<仮営業>と呼んでいますが、個人的には前述の1872年6月12日からしっかり<営業>しているのでこの日を鉄道の発祥の日にして欲しいところです。
さらに!さらに ここがポイント!
手元の資料だけですが
リチャード・ブリジェンス設計の「横浜駅舎」「新橋駅舎」
1872年6月12日開業が「横浜駅舎」
1872年10月14日開業が「新橋駅舎」
ってことは リチャード・ブリジェンス設計の横浜駅は新橋(汐留)より古い、最初ってことですね。
まあ どうでもいいことですが この辺はっきりしておきたいところです。

旧新橋駅再現
旧新橋駅再現

light2016-04-15-18-28-07light初代横浜駅前

第847話 1945年(昭和20年)7月13日「海芝浦駅」空爆

1945年(昭和20年)7月13日、
戦争も末期となったこの日
連日実施されていた米軍による空襲が鶴見エリアにも行われました。
京浜運河に沿った工場群が目標となり東芝鶴見工場も被曝します。20396_1016499725060798_44193696028520643_n

「土砂降りの雨の中を午前零時ごろから二時ごろまで、川崎市を主目標とした
B29五十機が、高度二千メートル以下の低空で侵入、鶴見区内でも百発以上の爆弾を投下、岸谷では五十余名の死傷者を出し、安善の日本石油が全焼、東京ガスのタンクにも直撃弾、末広町の旭硝子、日本鋼管が損害を受け、鶴見発電所も被害があった。生麦・潮田・旭町の爆弾の穴は直径二十メートルもあり、人々を恐怖に陥れた。(鶴見区史)」
この時、東芝鶴見工場の一角には捕虜収容所の東京第14分所(旧第11派遣所)がありました。空襲によって宿舎が直撃を受け捕虜が28人死亡、16人負傷、負傷者の2人は後日死亡します。
「国内の捕虜収容所の組織はたびたび改編され、大戦期間中に開設された本所・分所・派遣所・分遣所などは約130ケ所に及ぶ。その一方、途中で閉鎖されるものもあり、終戦時においては7ヶ所の本所の傘下に、分所81ケ所、分遣所3ケ所があり、合計32,418人の捕虜が収容されていた。そして、終戦までに約3,500人が死亡している。(笹本妙子)」
(その後)
東芝工場内の収容所が空襲によって破壊された後、ここに収容されていた捕虜たちは鶴見区末広町1ー12ー4にあった第3派遣所に数日滞在し、その後<総持寺>前の施設に移され終戦を迎えます。
GHQはここでの30人の捕虜の死亡に対し、
軍当局が収容所を工場地帯に残すことを許した結果と判断します。ただ、ここに捕虜収容所があったことを米軍も認識しており、低空投下でも誤爆の可能性も高かった悲劇といえるでしょう。ここに労働力を確保するために捕虜収容所を設けた<日本>と無差別に近い爆撃を行った<米国>共に、戦争末期のヒステリックな措置であったことは間違いありません。11742779_1016499518394152_2219478854530783594_n ◆横浜市内の捕虜収容所
東芝鶴見
日清製粉鶴見航空機
日本鋼管鶴見造船
大阪造船鶴見
日本鋼管鶴見造船
日本鋼管浅野ドック横浜
日清製油横浜
三菱造船横浜
横浜船舶荷役
横浜対価レンガ
(大船海軍)他
上記のように、工場の集中していた鶴見エリアは捕虜収容所も集中していました。隣接する川崎を合わせると15か所にも及ぶ捕虜施設が設置されました。

(出口のない改札)
横浜市内にある鉄道の<駅>の中で、マニアに人気の不思議な駅があります。
ここに紹介した東芝鶴見工場のある鶴見線海芝浦駅(うみしばうらえき)です。
1940年(昭和15年)11月1日に開設した「海芝浦駅」は一般乗客が改札を出ることができません。駅構内の敷地を含め、隣接する東芝京浜事業所の敷地内にあり改札は東芝関係者しか利用できないからです。11039104_1016499238394180_2853717237091536787_n
ただ
ここには、「海芝浦駅」に隣接して一般開放された「海芝公園」が設置されています。公園管理運営は東芝京浜事業所が行っています。開園時間は9時〜20時30分で、一度駅を(改札とは別)出て、園内に入るようになっています。11693844_1016499385060832_1281891388955046405_n 11695737_1016499455060825_7531981560549839583_n 11698598_1016499431727494_899603435215712311_n

(過去の7月13日ブログ)
No.195 7月13日(金)BRAVE HEARTS
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=412
海上保安官の「仙崎大輔」を主人公にした超人気漫画「海猿」の映画第4作が 2012年7月13日(金)の今日、ロードショー公開されました。

第845話 横浜駅「京急西口通路」完成

私は都度、目標を決めて達成する“横浜コンプリート”を楽しんでいます。
その達成メニューの一つが<市内の鉄道全駅に降り立つ>ことです。横浜図版 横浜市内には135の駅があり、21の路線、8つの会社(市営含む)があります。市内全駅踏破は最初から意図したわけではありません。90年代の後半に仕事で市内18の区役所を訪問する機会があり、鉄道機関を使ったことがキッカケです。
<無人駅>から9路線が乗り入れる<大ターミナル>までそれぞれの駅に不思議な味わいがあります。
135の駅に降り立った後は、それぞれの駅の<歴史>というと大げさですが、生い立ちに関心が出てきました。
駅を語りだすと「横浜駅」だけでも話題が尽きません。
いずれ市内全駅の紹介をしたいので、今日の横浜駅はゴクゴク手短なブログとします。
1987年(昭和62年)7月10日の今日
横浜駅「京急西口通路」(地下)が完成という記事を発見。
「京急西口通路」って 何処かご存知ですか?
京浜急行のホームと<西口・相鉄線方面>を結ぶ連絡地下通路です。
恐らく乗換に利用する人以外この地下通路は知られていない“迷路”ではないでしょうか。
“迷路”とはいささか失礼な表現かもしれません。
かつて横浜駅は、東西を繋ぐ自由通路が限られていて大変不便でした。(現在もわかりにくい)
横浜駅は、jRを囲むように東に京浜急行、西に相模鉄道、地下に東急・みなとみらい線(かつては西側)が乗り入れています。相模鉄道線から京急に、東急線から京浜急行への乗り換えは<至難の技?>でした。(現在もかなり大変です)light1974年1974年(昭和49年)

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     上図は1979年発行の横浜駅近辺マップ
1980年(昭和56年)11月20日に東西自由通路が全面開通し連絡こ線橋が撤去されます。
私はこの京急こ線橋を利用していなかったので殆ど記憶がありません。
東京寄りの今も残されている<跨線橋>は頻繁に利用していました。
「京急西口通路」を示すマップは無いか?

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1996年の駅周辺詳細図に点線で示してありました。この「京急西口通路」は<横浜駅みなみ通路>が完成した現在も一部がそのまま活用されています。
それにしても、横浜駅は工事していない時期があったのでしょうか?と言いたくなるくらい工事中駅です。
今日はさらっと小さなネタで失礼します。

(過去の7月10日ブログ)
No.192 7月10日(火)もう一つの大岡川
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=415
都市には必ず川の歴史があり氾濫と治水の歴史でもあります。
1976年(昭和51年)7月10日(土)の今日は、大岡川治水工事の一貫として着工した「大岡川分水路」(全長3,640m)の部分通水(笹下川から根岸湾まで)を開始した日です。

第832話 1934年(昭和9年)6月26日流血の暴動事件

1934年(昭和9年)6月26日の今日
「日吉村合併問題にからむ流血の暴動事件がおき検事・神奈川署員が出動した(横浜歴史年表)」
この日は、橘樹郡日吉村で臨時村会が開かれます。全日吉村は「横浜市」に入る意見書が緊急動議として提案され決選投票の結果<横浜市合併>が議決されます。
この知らせを聞いた日吉村の一部の村民が異議を申し立て
上記の<暴動事件>が起こります。
日吉村は予てから<川崎・横浜分割合併派><全域横浜派>分かれていましたが川崎市・横浜市、そして仲介に入った神奈川県が条件を協議しますが日を追うごと対立が先鋭化します。
この日、<川崎・横浜分割合併派>は「日吉村川崎市合併期成同盟会」を組織しさらに行動を過激化し、最終的に<川崎・横浜分割合併>となり矢上川を境に川崎市と横浜市に分かれ合併されることになります。
横浜市の市域拡大の過程で紛糾し村を分割した形で合併が決定するケースは<橘樹郡日吉村>だけでした。ただ同時期、横浜市は南の合併にも悩みの種を抱えていました。
久良岐郡六浦荘の合併問題です。(1936年(昭和11年)10月1日磯子区に編入)
この<日吉村顛末>は別立てのテーマで横浜市・川崎市の市域拡大史を整理しているところです。
キーワードは<都市化>に伴う水問題でした。
関東大震災後、多くの都市中心部に暮らしていた住民が郊外へ移り始めます。郊外化が始まる中、鉄道が拍車をかけます。
東京横浜電鉄の<目論見>はまさにここにありました。
一方、工業都市を目指す川崎市、貿易から重工業へ産業の厚みを求める横浜市は昭和に入り首都圏の産業構造の転換を図ります。工場を誘致し自治体の財政基盤を安定させようとする試みが東京を取り巻く首都圏で盛んになります。
結果、そこに必要とされるインフラが<水道設備(利水)>と<洪水に強い(治水・下水)>です。
川崎市は工業都市を目指す上で、多摩川と鶴見川のエリアを整備し市域拡大を目指します。1929年(昭和4年)に中原町と日吉村に対して合併を申し入れます。
中原町内で独立派と川崎市編入派に分かれ対立が激化します。結果、中原町は水道事業の財政負担に耐えられなくなり川崎市との合併を受け入れることになります。

日吉村は、意見がまとまりませんが時間の問題だろうと川崎市側も静観し<粛々と>日吉村を含めた都市計画案を作成していきます。
昭和7年、ここに東急東横線の日吉への慶應義塾誘致計画が持ち上がります。

しかも東急は横浜市に水道の提供を求め、事態が複雑化します。
市域外に市営水道を提供する訳にはいかないということで、横浜市は日吉村に
1933年(昭和8年)6月10日 正式に合併提案を行います。
これに慌てた川崎市は すぐさま7月13日に対案を提示し、一気に村を分けた大問題となっていきます。
川崎市は 生活圏のことなる矢上川を境に<分割案>
横浜市は 元々提案していた日吉村<全域編入案>を提示し
村は二分、神奈川県も仲裁に入りますが
4年に渡って紛糾を重ね
1937年(昭和12年)4月
横浜市は第5次市域拡大として橘樹郡日吉村の一部を
川崎市は第3次市域拡大として橘樹郡日吉村の一部を編入することになります。
この日吉村が<地政学的>に川崎市の重要エリア(喉元)であったことはいうまでもありません。

(関連ブログ)
No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=526

(過去の6月26日ブログ)
No.178 6月26日(火)孟買への道
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=430
1965年(昭和40年)6月26日(土)
インド共和国の最大都市ムンバイと横浜市は姉妹都市締結を行いました。

【番外編】川崎駅前は狩猟場だった?

ジャパンパンチ川崎駅この画像は《ジャパン・パンチ》1875年(明治7年)10月号に掲載されていたものだ。[川崎駅]がバックに描かれている。
《ジャパン・パンチ》は
1862年(文久2年)特派員画家だったチャールズ・ワーグマンが横浜で創刊し1887年(明治9年)まで刊行した日本初の風刺雑誌といわれている。ジャパンパンチ表紙1875cotこの記事の舞台は絵の通り川崎駅近辺であることがわかる。風刺画誌なので実際の事件記事なのか、何かの風刺の題材として<川崎駅>が使われたのか資料を類っていないので分からない。
制服警官(仏軍人?)を<狩猟>しているようにも見える。<制服組>への批判・皮肉とも見える。スクリーンショット 2016-02-13 11.01.19キャプション
スクリーンショット 2016-02-13 11.26.32Shooting in Japan
Wonderful sagacity of the dog.
defeat of the Tulrie !
と読めるが
筆記体なので正確にはよく解らない。
「日本での狩猟は 優秀な(猟)犬が素晴らしい。<トーリー>の負け!」かな
???
とりあえず判る範囲で絵柄を眺めてみよう。
川崎駅あたりが狩猟場のような場所であったのか?
好奇心に惹かれ調べてみることにした。
(国鉄川崎駅)
川崎駅は神奈川駅と共に日本で3番目の鉄道駅として1872年7月10日(明治5年6月5日)に開業。
開業した場所は当時の東海道筋<川崎宿>の西はずれだった。川崎市史によると、宿場近くに駅ができたため、宿場は大きなダメージを受けたらしい。川崎駅M14年さらに歴史を遡ると、江戸時代も品川宿と神奈川宿に挟まれた「川崎宿」の経営も大変だったらしい。
現在の川崎駅東口界隈に広がる繁華街は東海道線と街道<砂子(いさご)一帯>を繋ぐような形で発展してきた。川崎駅前明治40年代<明治40年頃の川崎>
一方、駅の反対側(西口)は戦前から大手企業の事業所で埋め尽くされていた。この絵に描かれた<狩猟場>は川崎駅西口だと言えそうだ。横浜行きの汽車の姿も描かれている。
現在のラゾーナのある一帯はかつて狩猟場だったと推察できる。light_8193851ここが本当に狩猟場として使われていたとしたら、流れ弾の危険など<下世話>な心配をしてしまう。

【横浜の橋】№6 大江卓橋1

今回「大江橋」をテーマにしようと思った。ところがスタートから躓いてしまったのでこのあたりを少し整理しながら「大江橋」を紹介していこうと思う。
長くなるので二回に分けたい。
前段は史実の整理なので後段の方が面白いかも。
■大江橋 誕生
まずは紹介されている「大江橋」のプロフィールから
「大江橋(おおえばし)は、神奈川県横浜市中区の大岡川に架かる、国道16号(尾上町通り)の道路橋である。中区桜木町一丁目と尾上町六丁目とを結ぶ。初代の橋は1870年に開通し、現在の橋は1973年に完成した4代目である。(wikipedia)」
◯初代
1870年(明治3年)新橋〜横浜間の鉄道建設が開始。
内田清七が吉田橋北詰から野毛浦・石崎までの埋立に着手。
※ここから先神奈川までが高島嘉右衛門によって造成。 関内と同様に現在の桜木町エリアは桜川・石崎川と大岡川に挟まれた島状だった。
横浜駅を作るにあたって関内と結ぶ橋が必要であるため
4月に内田清七が着工、5月「大江橋」完成。スクリーンショット 2016-02-06 16.58.54 初代は木造橋であった。
※この年代がPOINTあとで悩みの種となる。
1871年(明治4年)「弁天橋」完成。
1872年(明治5年)本町通・大江橋間にガス灯が点灯
◯二代目
1902年(明治35年)プラットトラス橋スタイルに架け替えられる。light大江橋11904年(明治37年)7月15日に横浜電気鉄道が初めて「神奈川〜大江橋」間に電車開通。
※なぜ?「神奈川〜横浜駅」ではなかったのか?疑問。
1905年(明治38年)7月24日に電気鉄道「大江橋」から大岡川を越え関内エリアに延伸。この時、大江橋の上に軌道を通すことができず、橋に並行して路面電車専用橋が架けられた。light20150710122357_0011915年(大正4年)8月15日
現在の地下鉄高島町駅付近に横浜駅が移転し二代目となる。
初代横浜駅は現在まで「桜木町」駅に改称。
この時鉄道の中心軸は現在の横浜駅方向に移動。
◯三代目
1921年(大正10年)に三代目架け替え工事着工。
1922年(大正12年)7月1日に完成。
横浜電気鉄道の事業を市が受け継ぎ市電となった路面電車の軌道も大江橋の中央部に移されることになる。
「大江橋」は初代から関内のウェルカムゲートの役割を果たしてきた。
※実質、港に近くビジネス街だった弁天通につながっていた「弁天橋」の方が交通量は多かったと思う。
「大江橋」は、(初代)横浜駅に降り立った多くの人を「関内」に招き入れてきたのだが、横浜駅が移動することで、少しずつ軸がずれていかざるを得なかった。
ここで敢えて横浜の中心地に相応しい<親柱>が求められたのか分からないが三代目「大江橋」には橋梁の親柱としては珍しい鷹のブロンズ彫刻「瑞鷹(ずいよう)」が飾られた。img117大江橋
全国の数ある橋の中でもこの大江橋のブロンズ像の威容はすごかったようだ。そろそろ東京との都市間競争(東京港開港問題)が表面化(激化)する中、横浜の力を示したかったのかもしれない。
スクリーンショット 2016-02-06 17.03.07「瑞鷹(ずいよう)」の作者は新海竹太郎(しんかい たけたろう)
慶応4年2月10日(1868年3月3日)〜昭和2年(1927年)3月12日
現在の山形県山形市生まれの彫刻家。
「初め後藤貞行に師事、次いで浅井忠にデッサン、小倉惣次郎に塑造を学び1896年に軍の依頼により北白川宮能久親王騎馬銅像を製作。彫刻家としての第一歩を示す。」「朝倉文夫・中原悌二郎・堀進二など多くの後進を育てた。」
朝倉文夫・中原悌二郎 両人も横浜と深く繋がっていく。
No.355 12月20日(木)瞑想・ザンギリ・赤い靴
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=232 竣工直後 関東大震災が起こる。
「大江橋」は被災しながらも崩壊は免れたが、「桜木町」駅舎を含め周囲は壊滅状態となった。この大江橋から先の関内地区も殆どが灰燼に帰した。lightよこはま絵葉書011 震災復興事業として修復工事が行われ、復活しその後横浜大空襲にも大きな被害を受けず昭和40年代まで現役で活躍する。
戦後の横浜大改造計画の中で「派大岡川」を使い首都高速道路地下化工事の折、架替計画が持ち上がった。
1973年(昭和48年)に完成した現在の「大江橋」はプレートガーダー橋で、両端の歩道の幅が大きく異なっている(理由はわからない)のが面白い。まだ、昔の橋脚跡が一部残っている。スクリーンショット 2016-02-06 16.10.31lightP3040133lightP3040139 (つづく)【横浜の橋】№7 大江卓橋2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8234