No.458 相摸のもののふは杉田を目指す?
今日は 横浜市磯子区南部に位置する“杉田”エリアを紹介します。
現在の杉田エリアは、京浜急行「杉田」駅とJR根岸線「新杉田」を結ぶ「ぷらむろーど」を中心に商店街が拡がっています。歴史ある時代で表情が変化した
時をさかのぼれば 広大な歴史の舞台「杉田」が浮かびあがってきます。
調べれば調べる程、面白い杉田です。
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杉田妙法寺の蓮(今が見頃です) |
(東西南北)
■東は海。
かつては船で杉田観光に!
■西は笹下川(ささげがわ 大岡川の支流)流域
鎌倉武士の城があった“金沢道”周辺は面白い!
■南は金沢区富岡に隣接する起伏のある丘陵地
梅で有名な杉田の梅林は富岡との境あたりに群生?
■北は中原(屏風ヶ浦)あたり
現在の「杉田エリア」明治期、久良岐郡屏風ヶ浦村の一部でした。
杉田の名は 江戸時代から梅の名所で有名でした。
(意外な?因縁)
杉田(すぎた)といえば?昔を良く知る人は「梅」と答えます。
商店街も「ぷらむろーど」ショッピングビル名も「プララ」と名付けられています。
「梅林小学校」「杉田梅林トンネル公園」といった名称もあります。
かつて広大な「梅林」が杉田にはありました。
「梅林小学校」絶景ポイントでもあります。
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梅林小学校近くの眺望 |
この杉田梅林を創り上げたのがこの地の領主「間宮信繁」という人物です。
天正年間頃16世紀後半の時代です。杉田という土地柄は、起伏が多いため稲作に向いた田畑に恵まれませんでした。漁業が中心の貧しい寒村でしたが
この地を治めた間宮信繁が地域の産業として梅の植林を奨めます。小田原の曾我梅林に習ったといわれています。梅を地域産業として鎌倉時代から梅を育ててきた曽我に習い、「杉田梅」は小田原から移植したのではなく、逆に今 磯子で失われた「杉田梅」が小田原に残っている状況です。
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曾我梅林2013 |
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曾我梅林と冨士 |
数十年後には見事な梅林が育ち、年ごとに梅林が拡がっていきました。
最盛期には三万六千本にも達したそうです。
江戸初期は梅の実が農民を助け、
江戸後期から明治期には「梅の花の名所」として観光地となります。
多くの文人墨客もこの「杉田梅林」を愛でます。
「我等が郷土神奈川県下には由来天恵的に名勝或は史蹟の地として指を屈するの 地洵に多く,従って之れ等各勝地に遊杖せる古今の俳人墨客の数も相当多く,又 それらの人々に依って残された吟詠も決して少なくありません。今茲に編する杉 田金澤両地の内,杉田は往古より杉田梅林として其名高く例へば吟江の 吉野の みか梅の杉田もこれはこれはの句の如く,又「杉田の梅林に遊びて」と題書せる 抱一上人の これはこれはこゝをや梅の吉野山の句の如き,ともに花の吉野と梅 の杉田を対立させてゐるあたり全く梅花の名所として立派に立証し得る事が出来 うると存じます。又金澤は金澤八景として天下に其の名高く,其の昔兼好法師は 此の地の佳景を愛して住み,画聖巨勢金岡は此の地の妙景に絶倒して筆を松に擲 つたと云ふ事であります。又心越禅師は勝景西湖に似たる故を以て,八勝の詩を 賦し,尭恵法師は神異絶妙と,唱へて居ります程の勝れた地区であります。」
(飯田九一「杉田金澤古今俳句集」)
吉野のみか梅の杉田もこれはこれは 夏目吟江
「間宮信繁」の菩提寺杉田妙法寺には
この地を訪れた俳人の句碑が残されています。
門をくぐると直ぐに句碑に出会います。
さびしさは星をのこせるしぐれかな 飛鳥田 麗無公
「また寒き 月のひかりや 梅の花」 松竹庵 梅月
「簾越し居るこゝろして梅のもと」 内野 月朶(げつだ)
■牛頭山妙法寺(ぎゅうとうさん みょうほうじ)
1352年(文和元年)創建。2月〜3月上旬には、名木「照水梅(しだれうめ)」をはじめ多くの梅の木が咲きほこります。
(スパイも医者も登場)
杉田に梅林を奨励した間宮?
この名から連想する教科書に出てくる人物といえば
間宮林蔵という“冒険家=隠密”でしょうか?
彼は杉田の間宮氏と遠縁にあたります。
「間宮 林蔵(まみや りんぞう、安永9年(1780年)〜天保15年2月26日(1844年4月13日))は江戸時代後期の隠密、探検家である。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。名は倫宗(ともむね)。農民出身であり、幕府隠密をつとめた役人であった。」(Wikipedia)
常陸国筑波郡上平柳村出身で、先祖は後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏の流れを持つ間宮家の一族で武士から帰農した人物です。
杉田村で間宮から杉田姓を名のった一族の親戚にあたります。
間宮氏の一部は杉田に暮らし
「杉田姓」を名乗った一族がいました。
間宮一族は 近江佐々木氏にルーツがあり遠くは近江の出身です。
鎌倉時代、相摸のもののふの一族として歴史に登場します。
北条氏に仕え、笹下エリアに山城と陣屋を建て 杉田・笹下・田中他 一帯を治めます。
その後 北条氏滅亡で間宮氏は
杉田間宮氏、氷取沢間宮氏、三ツ沢、鶴見、房総下総、三浦、川崎、静岡 等に分かれて居を移していきます。
一方、初期に杉田村に生まれた遠縁の間宮長安という人物が
間宮姓から杉田に氏を変え暮らします。
この杉田氏の子孫が福井若狭藩(酒井家)の藩医となり幕末期江戸で活躍します。
ここに登場したのが
一度は歴史教科書で聞いたことのある「杉田玄白」です。
杉田玄白(1733年〜1817年)
間宮林蔵(1780年〜1844年)
少し前後しますが
二人はほぼ同時代を生きた人物で共に杉田に縁のある人物です。
(杉田のヘソ)
江戸時代まで、杉田・屏風ヶ浦のヘソは笹下にありました。明治初期には現在の「横浜刑務所」あたりに久良岐郡役場と村役場がありました。
その後、堀割川流域の発展に伴い市電の開通などもあり磯子・屏風ヶ浦・杉田地域は海岸線が発展していきます。
市電の終着「杉田駅」ができることで、海岸線に近い杉田は大きく発展していきます。その後に、湘南電気鉄道(後の京浜急行)「杉田駅」が開通します。
湘南電気鉄道の当初の計画では
「屏風ヶ浦駅」が最初に開設する予定でしたが、地元の猛反対に遭い「杉田」が先に開設されます。(よくある歴史の皮肉ですね)
ここで
少しヘソが変わります。
市電「杉田駅」から「聖天橋駅」周辺に繁華街の中心が移り、市電廃止でバス中心となると「京急杉田」を軸に街が拡大していきます。
上大岡からの旧道に沿って開通した“湘南電気鉄道”は昭和初期、日の出町で京浜電気鉄道とつながり、一気に首都圏の重要な動脈となっていきます。
一方、戦後になり念願の桜木町から先に伸びる「根岸線」が開通すると
第一段階で「磯子駅」が開設し駅前が変わります。
その後「大船駅」全通に伴い「新杉田駅」が開設され、「杉田駅・新杉田駅」界隈には独特の賑わいが生まれます。
平成に入り、
シーサイドラインの開通等で、杉田のヘソは少し「新杉田」寄りにシフトしましたが、まだまだ京急杉田周辺のデープさは残っています。
※余談
京急杉田駅横には「お稲荷さん」があります。
この杉田駅稲荷?(というのか不明ですが)には
秘話が隠されているのをご存知ですか?
この秘話は 別のところで紹介することにしましょう。
今日はちょっと長くなりました。おつきあいありがとうございます。
【バス旅】横浜18区路線バスの旅(日曜版)
横浜18区路線バスの旅第二弾!【北回り編】<追記版>
「路線バスを使い横浜18区を走り抜ける」日曜版(休日ダイヤ)
さらに短縮コースも探しました。
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緑ラインが今回の修正ルート |
(前回)No.449 横浜18区路線バスの旅
前回は平日実験的にチャレンジしました。
今回は、さらに距離と時間を短縮しました。
また「休日ダイヤ」でチャレンジしてみました。
このチャレンジは
一般的な バス遊びとしてはハードすぎますが、
バスを気軽に使って市内ツアーをする際の課題が明確になったツアーでした。
(課題点)
バスは現状“地元の人が良く判っていること”を前提にしています。
同名のバス停が離れて設置されていることもあり
<バス停探し>に苦労しました。
全く初めて【それぞれの】地域路線バスを利用する人にとって
バスは まだまだハードルが高いかも知れません。
■料金設定
[区間均一]と[距離別]
市内の多くが210円均一(前乗り前払い中降り)
■乗車方法
[前乗り前払い]と[中乗り前払い]
●バス停が判りにくい場所が かなりありました。
特に<交差点>でのバス停は 位置が探しにくい。
→これに関しては バス亭設置の限界もありますが
乗りにくい、戸惑いました。
同じ名前のバス停が路線毎に別な場所に設置されているケースがまだ残っています。
●それぞれの駅前のバスロータリーにあるバス乗り場案内板のデザイン(フォーム)
キャッチサインに工夫が欲しい
→案内板に【バスインフォ】の統一サインかなにかできませんかね!
●時々 車内(バス停案内)放送にポカがあった!!
実際運行と案内放送がズレたケースが数回、
窓外を確認していないと降り損ねる可能性がありました。
事前にスマホ等で時刻表をダウンロードしておくと便利ですが、
市営バスは 停留所にバス時刻表をダウンロードできるQRコードが付いています。これで、休憩のタイミング等を図れたので行動がぐっと気楽になりました。
横浜18区路線バスの旅(日曜版)記録
以下のデータは2015年(平成27年)9月30日時点です。
【北回り】
■①横浜駅西口6:56発38系統 鶴見駅西口行き
通過区[西区][神奈川区][鶴見区]
内路(うつろ)7:22着
■②内路(うつろ)7:36発41系統 川向町折返場行き
通過区[港北区][都筑区]
東方町8:02着
■③東方町8:18発41系統 中山駅北口行き
通過区[緑区]
中山駅北口8:41着(トイレ)
■④中山駅北口8:53発90系統 青葉台駅行き
通過区[青葉区]
青葉台営業所前9:02着
■⑤青葉台営業所前9:10発65系統 若葉台中央行き
通過区[旭区]
若葉台近隣公園前9:25着
■⑥若葉台近隣公園前9:32発相鉄バス三ツ境駅
通過区[瀬谷区]
三ツ境駅北口9:50着
■⑦三ツ境駅10:00発戸17系統 戸塚駅東口行き
通過区[泉区][戸塚区]
戸塚駅東口10:45頃着
■⑧戸塚駅東口11:07発江ノ電バス 見晴橋行き
通過区[栄区]
見晴橋11:25着
(徒歩400m)
■⑨小菅ケ谷橋11:31発神奈中138系統港南台駅前行き
通過区[港南区]
横浜女子短期大学前11:45着
(昼食)
■⑩横浜女子短期大学前12:19発45系統洋光台駅前行き
通過区 [磯子区]
南公園前 12:28着
■⑪南公園前 12:44発107系統さわの里小学校行き
通過区[磯子区]
随縁寺前12:52着
(徒歩200m)
■⑫京急富岡住宅西口13:20発京急富岡駅行き
通過区[金沢区]
京急富岡駅13:33着
(徒歩)駅またぎ
■⑬富岡13:44発京急4系統磯子行き
通過区[金沢区][磯子区]
磯子車庫前13:58着
■⑭磯子車庫前14:05発市営113系統桜木町駅前行き
通過区[磯子区]
滝頭14:18着
■⑮滝頭14:38発市営68系統横浜駅西口行き
通過区[中区][南区]
浅間下15:08着
■⑯浅間下15:14発市営87系統横浜駅西口行き
通過区[保土ケ谷区]※
横浜駅西口15:41着
全行程 1,950円(市営一日乗車券使用)
16路線 9時間 昼食時間約35分
ポイント:保土ケ谷区をどのタイミングで通過するか?
三沢上町交差点は[保土ケ谷区]
今回、日曜ダイヤの関係で最終ルートに組み込みました。
その後大きくダイヤ改正が行われていますので、再挑戦してみます。
さらには【南回り】ルートにも。南回りはザクッと時刻表を見た感じ、かなり苦戦しそうです。ではまた。
No.444 “Choshu five”NOMURAN,Yokohama
“Choshu five”と聞いて、直ぐに5人の名前が出てくる方はかなりの幕末通です。
映画にもなった幕末期の若者5人(長州五傑)
井上馨、山尾庸三、遠藤謹助、伊藤博文、野村弥吉 のことです。
今日はこの長州五傑の中で最も横浜と関係の深いNOMURANこと“野村弥吉”を紹介しましょう。
改めて、
明治に入り日本近代化の父と呼ばれそれぞれの分野で活躍した5人を簡単に紹介します。
●井上 聞多→馨(当時28歳)写真(下段左)
外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣などを歴任した「外交の父」
●遠藤 謹助(当時27歳)写真(上段左)
大阪にある造幣局の初代局長となって、有名な「桜の通り抜け」をつくった「造幣の父」
●山尾 庸三(当時26歳)写真(下段右)
帰国後に工部権大丞・工部少輔、大輔、工部卿として活躍、後の東京大学工学部の基礎をつくり、明治政府の盲聾教育施設の設立にも貢献した「工学の父」
最も著名な政治家となった
●伊藤 俊介→博文(当時22歳)写真(上段右)
初代、第5代、第7代、第10代と4回にわたり内閣総理大臣を務め明治憲法制定にも尽力した「内閣の父」
最年少の
●野村 弥吉 後の井上 勝(当時20歳)写真(上段中央)
日本鉄道会社を創設し、初代鉄道庁局長となった「鉄道の父」
(横浜から密航)
この5名は、藩の了解を取り付け
横浜で長州財政を支えた御用商人「大黒屋榎本六兵衛」の横浜支店にあたる横浜本町2丁目の「伊豆倉商店」から密航費用を調達しますが必要経費に全く届きませんでした。
そこで藩の重要な鉄砲調達資金から5,000両(今の数億円)を無理矢理理屈を付け借り受けたエピソードは有名です。
直談判の相手が村田蔵六(大村益次郎)。
若き五人は、自分たちは未来の武器である!俺たちに賭けろ!と説得して留学費用を調達したと伝わっていますが、理由はともあれ貸すほうも借りるほうもスケールがでかいですね。
伊豆倉商店は早くから居留地1番に居を構えるジャーディン・マセソン社と取引があり、5人の密航に必要な“洋銀”の準備も行います。特に尽力したのが番頭の佐藤貞次郎で、マセソン社とは長州藩の軍艦購入の手配を行った人物でした。
このあたりの顛末は多くの「長州ファイブ」エピソードとして紹介されていますのでぜひお楽しみ下さい。
http://shogiku.sakura.ne.jp/choshufive1.htm
(英国へ!)
1863年6月27日(文久3年5月12日)土曜日深夜
徳川幕府のルールを破り、横浜港※から英国船に乗込み密航を決行します。
※ここで簡単に横浜港としましたが、
この横浜港とは<東波止場=仏蘭西波止場>のことです。
その際、上記写真にもあるように、横浜居留地で髪を切り洋装になり乗船します。
→だから仏蘭西波止場付近に<ザンギリ碑>がある 訳ではありませんが偶然ですね。
(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン)
英国に無事到着した後、UCL(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン)教授アレキサンダー・ウィリアムソン夫妻の絶大な支援のもとUCLで学びます。
オックスフォード大学でもケンブリッジ大学でも無く
University College Londonに学んだことが、長州ファイブにとって重要な選択となります。
当時の英国では、1827年創設のUCLだけが、信仰、人種、国籍の違いを越えて、すべての学徒に開かれていた大学だったそうです。
※夏目漱石、小泉純一郎もUCLに学んでいます。
(横浜と野村弥吉と井上勝)
長州五傑の中で最年少、後に「鉄道の父」と呼ばれた野村弥吉(井上勝)は
1843年8月25日(天保14年8月1日)長州藩士井上勝行の三男として萩城下に生まれました。幼名は卯八、6歳で同藩の野村家養子となり、野村弥吉となります。
1868年(明治元年)英国から戻り、生家の井上姓に戻り「井上勝」と名のります。
※戦前まで、養子縁組は頻繁に行われていました。フルネーム変わってしまう場合もあり、歴史を調べる際に混乱する場合があります。
野村弥吉は、長州五傑の中で横浜と縁の深い人物です。
いち早く洋学に関心を持ち横浜の外国人居住地で英語を勉強します。
この無謀とも言える英国留学(密航)を決行した長州五傑の中で唯一片言の英語が話せた人物です。
1863年(文久3年3月)横浜で調達された長州藩艦船「癸亥丸(きがいまる)」の船将を命じられたのが野村弥吉で、測量方を務めたのが長州五傑の一人、山尾庸三です。
野村、後の井上勝が横浜を舞台に活躍したのが新橋駅〜横浜駅間の鉄道敷設事業の日本側責任者としてです。
彼は若いころからかなりの酒豪でもあったようで、
英国留学時代、仲間達に「呑乱(のむらん)」と呼ばれていたことを自分でも楽しんでいたようです。自らを「NOMURAN」と称し彼のUCL(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン)卒業証書にはMr.Nomuranと記される遊び心?もあったようです。
(鉄道ことはじめ)
1872年10月14日(明治5年9月12日)
日本初の鉄道路線である新橋駅〜横浜駅間が開業します。
明治新政府は1869年12月12日(明治2年11月10日)の廟議で
「幹線は東西両京を連絡し、枝線は東京より横浜に至り、又琵琶湖辺より敦賀に達し、別に一線は京都より神戸に至るべし」
という日本最初の鉄道建設計画を決定します。
枝線の東京横濱間から計画がスタートしますが、幹線計画は政府の危機的財政難で大幅に遅れます。
この日本初の鉄道路線計画の技術責任者がエドモンド・モレルです。モレルは日本の実情に即した提案、外貨の節約や国内産業の育成に貢献した外国人技術者(お雇い外国人)として日本鉄道史に足跡を残しますが、残念なことに夢半ば
1871年11月5日(明治4年9月23日)満30歳の若さで亡くなります。
Wikiでは
「1870年(明治3年)、イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任し、本格的工事が始まった。日本側では1871年(明治4年)に井上勝(日本の鉄道の父。鉄道国有論者としても著名)が鉱山頭兼鉄道頭に就任し、建設に携わった。」
と井上 勝に触れていますが、その評価は低すぎるような気がします。
モレルより3歳年下の同世代、モレルの母国イギリスで鉱山技術、化学等を学んだ井上とモレルのコミュニケーション無しに、この重要なミッションは成功しなかったでしょう。
当時、鉄道敷設反対派は暗殺も計画していた時代、全くスタンダードモデルのない日本に鉄道技術を根付かせるために、「現場主義」の井上は、横浜と東京間を何度も往復したに違いありません。
※井上はかなりの頑固者で、時の政府首脳ともかなり衝突したそうです。幕末に共に軍艦を運んだ「工学の父」山尾庸三とは真正面から衝突、辞表を叩き付けたエピソードも残っています。
No.288 10月14日(日)仮の借りを返す
(余談)
小岩井農場の井は井上のイです。
http://www.koiwai.co.jp
井上勝は視察で岩手県を訪れ、岩手山中腹にある温泉宿に泊まります。
この時に、この地を開拓して農場を造れないだろうかと考えます。
これが小岩井農場の出発点です。
日本鉄道会社副社長・小野義真
三菱社社長・岩崎弥之助
そして 井上勝、三人の頭文字から 「小岩井」となります。
(余談2)
鉄道のゲージ問題
線路の幅を決めるにあたって 日本は何故狭軌を選んだか?
「日本鉄道史最大の失敗」とも言われていますが
ここにも井上勝が大きく関わっています。
当時の判断で 狭軌の選択は 正しかったと
私は 評価している一人です。
No.434 【横浜の河川】帷子川物語(2)
No.433に引き続き帷子川を紹介します。
別な機会に紹介する予定でしたが、過去にも紹介すると予告して忘れてしまった例もあり、連続で忘れないうちに紹介しておきます。
帷子川(かたびらがわ)
現在 横浜市旭区から保土ケ谷区、西区(一部神奈川区)を流れています。
前回紹介した通り、横浜市内のほぼ中央部を西から東に流れています。
江戸時代は 産業の物流動線として活躍しました。
No.433 帷子川物語(1)
明治以降は 帷子川に沿って工業が集中し
物流動線として相鉄線が開業します。
川と鉄道の街として発展してきました。
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相鉄線と帷子川と鴎 |
相鉄本線の横浜市域エリアは帷子線と表現しても過言ではないでしょう。
■沿線工業史
(駅名は現在のものです)
判る範囲内で現状も記載しました。
星川駅近辺には
古河電池横浜工場→住宅地
日本製糖→住宅地
天王町駅近辺には
富士(瓦斯)紡績
1903年(明治36年)操業、1920年(大正19年頃)に最盛期を迎えます。
従業員6,000名を超える世界最大級の生産量だったそうです。
1945年の空襲で操業停止し戦後、米軍に接収されます。
(→戦後一時 北辰化学工業となりますが、その後大型ショッピングセンターになります)
大日本ビール→ヨコハマビジネスパーク
宝田石油製油所→?正確な場所を特定していません
東京電気横浜工場→公団住宅(西久保町公園ハイツ)
日本金属横浜工場→テニス倶楽部→マンション
保土ケ谷化学工業→集合住宅
日本ガラス(大日本ビールから独立)→住宅?
保土ヶ谷曹達会社→住宅?
西横浜・平沼駅近辺には
古河電気工業横浜電線→(一部)TVKハウジング
→(一部)横浜イングリッシュガーデン
http://www.y-eg.jp
東京瓦斯横浜支社(瓦斯工場)
二俣川駅近辺には
高梨乳業本社工場
バラ園で有名です。
■中流域から上流域の紹介は4月に現地踏破してから紹介します。
(余談)
帷子川は暴れ川でした。
天王町付近は帷子川が蛇行していたんですね!
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現在「天王町駅」前に昔の橋をモニュメント化しています。 |
No.433 【横浜の河川】帷子川物語(1)
かたびらの衣纏てカッパ住む
帷子川(かたびらがわ)は、様々な歴史物語と共に歩んできました。
カッパ伝説も残っています。水運、工場、街道…
一話では語り尽くせませんが
今日は、帷子川の一断片を紹介しましょう。
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河口付近です |
帷子川は、横浜市内を流れる8つの水系の一つです。
この帷子(かたびら)の名は難読地名の一つですが、
歴史を感じさせる名ですね。
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今回紹介する周辺位置図 |
帷子の語源は音からきた「からひら」→片平が有力です。
「片方が山で、片方が田畑であったため、昔『かたひら』と呼ばれていた。その地を流れていたので『かたびらかわ』と呼んだのが名の由来だとされている」(Wiki)
江戸時代の頃から「帷子」の漢字が使われてきたそうです。
この帷子とは?
麻や苧麻(からむし)で織った布で仕立てた単衣(ひとえ)のことを江戸時代の頃から「かたびら」と言うようになりました。
古来、装束をつけるときに汗とりとして着たものをさし、材質は生絹(すずし)・練り絹(ねりぎぬ)または麻糸で織った布でした。
色は白が正式なものだったそうですが紅帷子も用いられていました。
古来「辻が花」の柄は帷子(かたびら)に紅を基調にした草花文様を染め出したものです。
※縫い締め絞りによる「辻が花染」とは異なります。
このように
帷子の名は、染め布のことを指しますが
明治以降「帷子川」は横浜を代表する地場産業「捺染」を育てた川でした。
→横浜捺染(別テーマで特集します)
横浜には8つの水系があります。
No.378 1月12日(土)川辺の横浜
さらに大きく分けると4つのグループに分けることが出来ます。
図のように
帷子川は、ちょうど横浜市域の真ん中を横断するように流れています。
江戸時代中期まで、帷子川は重要な水運の川として活躍し町が開けました。
特に河口付近(現在の天王町)は、当時深い入江となって、江戸に向けた物流拠点として栄えたそうです。
ところが
江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起った
富士山の宝永大噴火で、川と町の様子が一変します。
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現在の予想図です。 |
新井白石が「折りたく柴の記」に
「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。」
と江戸の宝永大噴火の様子を記述しているように、大量の火山灰が神奈川一帯にも降り注ぎました。
この噴火による降灰で、帷子川河口付近に灰が溜まり港の機能を失うことになります。
これをきっかけに、江戸後期に帷子川の入江が整備され芝生(しぼう)村に新しい港ができ、明治まで干拓・埋立が進みます。
開港時、この芝生村が開港場と東海道を結ぶ拠点となります。
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江戸後半の帷子川流域 かなり河口が変化しています。 |
かなり“暴れ川”だった帷子川も次第におとなしくなっていきますが、横浜で最後まで
大暴れした川でもあります。
平成に入り 二度の氾濫を起こしました。横浜駅西口(平成16年10月9日)周辺の浸水を記憶されている方も多いと思います。
帷子川のもう一つの特徴が
河口付近の複雑な水路です。
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河口付近拡大図 |
帷子川本流に支流が
新田間川(あらたまがわ)
石崎川(いしざきがわ)
幸川(さいわいがわ)
と図のように複雑に分かれています。
この水路は江戸時代に原型が出来上がり
明治になり埋立整備が進み現在の流れに固定されました。
それぞれの川には全く異なった風景を見ることができます。
梅も桜も散ってしまいましたが、初夏に散策してはいかがでしょう。
洪水ハザードマップ
http://www.city.yokohama.jp/me/shobo/kikikanri/hmap/
No.423 Up down鉄道
1985年(昭和60年)3月14日(木)
横浜市営地下鉄の横浜〜新横浜間と上永谷〜舞岡間が開業します。
今日3月14日は昨年、
No.74 3月14日 東京に近過ぎ、横浜中心部に遠い駅の物語
で「新横浜」を話題にしましたが
この日に合わせて市営地下鉄1・3号線の一部が開通し、
「舞岡〜新横浜間」が開通します。
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上永谷〜舞岡・戸塚 |
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上大岡〜上永谷 |
※上記図は工事に伴う断面図ですが、
「上大岡〜上永谷〜舞岡間」かなりの高低差があることに驚かされます。
上永谷で地上に出ますが、上永谷駅までかなり上ります。
かなり強引に地上へ出たことが判ります。
起伏の成り行き上地上にでるのか?
と思っていました。意外でした。
(市営地下鉄ブルーライン年表)
1972年(昭和47年)12月16日(土)
伊勢佐木長者町駅〜上大岡駅間(1号線)が開業します。
大通り公園となった運河と鎌倉街道を活用しています。
1000形が営業運転開始。
1976年(昭和51年)9月4日(土)
上大岡駅〜上永谷駅間(1号線)と
伊勢佐木長者町駅〜関内駅〜横浜駅(1・3号線)間が開業。
1985年(昭和60年)3月14日(木)
上永谷駅〜舞岡駅間(1号線)と
横浜駅〜新横浜駅間(3号線)が開業します。
1987年(昭和62年)5月24日(日)
舞岡駅〜戸塚駅間(1号線)が開業します。
1993年(平成5年)3月18日(木)
新横浜駅〜あざみ野駅間(3号線)が開業します。
1999年(平成11年)8月29日(日)
戸塚駅〜湘南台駅間(1号線)が開業します。
これでブルーライン全線が開通します。
市営地下鉄の初期延伸プランは、環状線の充実でした。
No.422 【舞台の横浜】妙蓮寺と野毛
1968年(昭和43年)横浜を舞台にした人気テレビドラマ「三人家族」が放映されました。
高視聴率となったこのドラマは、いろいろな意味で横浜を知るには興味深い作品です。
三人家族のシーンとテーマからどうぞ
http://www.youtube.com/watch?v=u6EZ4o107ns
http://www.youtube.com/watch?v=LVdZQmllvJ8
(やっぱり著作権でクレームがつきましたか…)ビジネス的に30秒とかイントロだけでも許諾していただけると 逆にDVDの購入に結びつくとおもいますが。
https://www.youtube.com/watch?v=mNHP-qstGYI
https://www.youtube.com/watch?v=tH2XWh6XlhM
まず上映された時代
団塊世代の先輩世代、高度成長の入口の時代です。
1968年(昭和43年)横浜市の人口が200万人を突破した都市です。
首都圏では急速にベッドタウン化が進みつつありました。
さらに、
「ブルーライトヨコハマ」と「伊勢佐木町ブルース」のダブルヒット
そしてこのドラマをはじめ
横浜が全国に音楽と映像でPRされ続けた年でもあります。
(正確には1968年1月に「伊勢佐木町ブルース」12月25日に「ブルーライトヨコハマ」がリリースされました)
「ブルーライトヨコハマ」
「伊勢佐木町ブルース」
テレビドラマ「三人家族」
山田太一が「これが当たらなかったら職がえだ」と背水の陣で臨んだ作品だったそうです。
おそらく山田太一自身、十分に調査・ロケハンをしたに違いありません。
ここに登場する家族、横浜の風景の多くは山田太一が指定したものでしょう。
「早春スケッチブック」でも脚本には詳細な情景指定をしています。
No.421 ふぞろいの隣人たち?
簡単な概要を紹介しましょう。
TBS系列日産火曜劇場 木下恵介アワー というシリーズ作品の
「おやじ太鼓」の後に放映されました。
放送期間は
1968年(昭和43年)10月15日〜1969年(昭和44年)4月15日で
まさに「ブルーライトヨコハマ」リリースとシンクロしています。
放送時間は21:00〜21:30で全26回でした。
制作は松竹をバックに「木下恵介プロダクション」
(妙蓮寺と野毛)
横浜を舞台に独特な対比構造を構成しています。
急激に変化する戦後の日本、郊外化する横浜
そこに象徴的な二つの地域
![]() |
旧東横線とその後の新線 |
妙蓮寺の一軒家に暮らす「柴田家」男三人家族と
野毛の新築マンションに暮らす「稲葉家」女三人家族の
現在のスピードでは<じれったい恋愛>をベースにした家族物語です。
柴田家長男 雄一(竹脇無我)は
東急東横線「妙蓮寺駅」から横浜駅経由で新橋駅で乗り換え<西新橋(田村町)>にある商社に通うビジネスマンの設定(三井物産か?)。
社内ではテレックス担当の通信部員ですが花形の営業職を希望しています。
稲葉家長女 敬子(栗原小巻)は
国鉄「桜木町駅」から「新橋駅」乗り換えで<霞が関ビルディング>の旅行代理店(たぶん日本交通公社)に通うOLの設定。
当時はビジネスガールと言ったかもしれません(渡航時に問題となり変更されましたが)。
霞が関ビルディングは放映された1968年(昭和43年)の4月12日にオープンしたばかりの当時はじめての高層ビルとしてこれまた話題になりました。
<商社と旅行代理店><一戸建てと新築マンション>
<家庭用電話がまだないがテレビはある家庭>と
<全てが洋風(死語?)スタイルの家庭>
あえてステレオタイプな対称軸の設定で構成しています。
内容に関して詳細な情報は下記のサイトに掲載されています。
http://syowa40stvdrama.com/kinoshitatv_ipn/page043.html
※一部閉鎖されていますが この情報で十分に「三人家族」の概要を知ることができます
ここでは地元ならではの切口で補足しておきます。
妙蓮寺の一軒家に暮らす「柴田家」男三人家族は
1968年は戦後23年の時間が流れています。
長男の年齢設定が26歳なので
恐らく、出征前に結婚し 戦中に長男が生まれたのでしょう。
※妙蓮寺は疎開先だったかもしれません。弟がお祭りに参加するなど、
地元(地域)とのコミュニティがしっかり形成されています。
*余談 妙蓮寺とは妙仙寺と蓮光寺が合併してできたお寺です。
1908年(明治41年)に「横浜線」建設のために移転を迫られ蓮光寺と合併します。
ところが、1926年(大正15年)に今度は東急が転地を申し出るが
再度移転することを嫌った妙蓮寺側が門前を駅にすること選択します。
駅前が門前となります。
一方、
野毛の新築マンションに暮らす「稲葉家」女三人家族は
父親が13年前に(海外へ)蒸発した設定になっています。
女性家族が自立していく姿が背景にあります。
野毛のロケに使われたマンションは現在もあります。(ということは築40年)
マンションの予測はできていますがここでは内緒にしておきます。
<2017年1月位置も再度確認してきました>
桜木町はもう過去ネタになってきましたが、東急東横線の終着駅でしたね。
二人のデートにも程よい距離でした。
このドラマに映された横浜
昭和30年代から昭和40年代前半の良き時代の一断片だったようです。
港の“やくざ映画”イメージからも脱却しつつある横浜でもありました。
ドラマには時折ピンキーとキラーズの流行曲が流れたり、崎陽軒のシウマイが登場したりします。
横浜はこの蜜のような時代から 急激な人口爆発都市となっていきます。
横浜の商店街もこの時の“賑わい”残照から脱却しなければいけないのですが
No.337 12月2日(日)日本最大級の人口爆発都市
No.421 ふぞろいの隣人たち?
「鋭い電車の警笛。
下り急行電車から見た天王町駅前のスカイビル第一第二第三と続くアパート群、みるみる角度をかえていく。」
山田太一作品、フジテレビで1983年(昭和58年)に放映されたテレビドラマ「早春スケッチブック」の冒頭シーンです。
視聴率としては苦戦をしましたが、視聴者から大きな反響を呼び山田太一代表作『ふぞろいの林檎たち』へと繋がっていきます。
この「早春スケッチブック」の舞台となったのが、相鉄線「希望ヶ丘駅」。
登場人物の設定には実在の会社、学校等が使われ不思議なリアリティに包まれた作品でした。
望月家四人
父は八千代信用金庫瀬谷支店
長男は神奈川県立希望ヶ丘高等学校
異父兄弟の長女は横浜市立南希望が丘中学校
母は希望ヶ丘商店街にある花屋でパート勤め
といった家族構成が登場します。
あらすじはここでは紹介しませんが、80年代の家族の姿を山田太一流に料理した秀作として評価されています。
脚本家山田太一は、倉本聡と並ぶ80年代90年代を代表する作家ですが
(現役で現在も両者、時代への問いかけ作品を書かれています)
脚本家“山田太一”のドラマデビューは木下恵介アワー「三人家族」です。
この作品の舞台は60年代の横浜です。
DVDを見直してみると、様々な横浜エピソードを掘り起すことができます。
→「三人家族」については次号で紹介します。
もう一つ、
60年代の相鉄線を舞台にしたドラマがあります。
1967年(昭和42年)10月29日放映の連続テレビドラマ「泣いてたまるか」の一作です。
タイトルは「ある日曜日」
脚本は映画監督木下惠介が担当しています。
監督は大槻義一
出演者は渥美清、市原悦子、新克利、清水良英、中村美代子、野中マリ 他
「ある日曜日」はこのシリーズでは珍しくシリアスな社会批判で、悲劇として描かれています。
相鉄線で横浜駅まで出る!シーンがありますが 駅はどこか?
未確認ですが鶴ケ峰と天王町間あたりの感じがします。
作品では家族揃って「横浜駅前」のデパート(たぶん髙島屋)にショッピングに出かけ、そこで悲劇の事件に遭遇するという筋立てです。
シリーズ「泣いてたまるか」は
野村芳太郎、橋田壽賀子、早坂暁、山田洋次、清水邦夫、橋本忍、山中恒、佐藤純彌、深作欣二、木下惠介、山田太一、内田栄一
戦後日本を代表する脚本家・映画監督が名を連ねる実験ドラマでした。
TBS系列で1966年(昭和41年)から1968年(昭和43年)まで放映され、1話完結形式の連続テレビドラマで渥美清、青島幸男、中村嘉津雄が主演を務めます。
このドラマから渥美清と山田洋次のコンビが生まれ、「寅さん」に繋がったドラマでもあります。
「泣いてたまるか」の中で、渥美清が先生を演じるシリーズがありました。
「先生ラブレターを書く」(橋田壽賀子)
「先生ニッポンへかえる」(深作欣二)
「先生海で溺れる」(佐藤純彌)
「先生勇気を出す」(家城巳代治) 他
ここに登場する高校が、開通したばかりで造成真っ盛りの田園都市線「青葉台」を舞台にしていました。
(さらに舞台としての横浜)
1980年(昭和55年)にフジテレビ系列で放映された事件モノに
『87分署シリーズ・裸の街』
警視庁(東京管内)87分署が都内設定で横浜青葉台が舞台として使われました。
昔の記憶なので曖昧ですが 確か警察署が「横浜加田町署」で(加賀町警察)を想定?していたような気がします。TBSと横浜は縁が深く
No.76 3月16日 東京放送と横浜市
1981年(昭和56年)の3月16日
横浜市青葉区緑山に(株)緑山スタジオ・シティ(MSC)が竣工しました。
ここで「ふぞろいの林檎たち」「金曜日の妻たちへシリーズ」が生まれました。
※横浜ドラマといえば 「あぶない刑事」ですがここでは触れませんでした。
No.417 Tram Tin Tim Street Car1
商人が作った
浜のちんちん電車
横浜市電物語 創世時代編2
横浜にちんちん電車が走ったのは、他市に比べて遅いスタートでした。
No.114 4月23日 貝から生まれた市電の物語
若干重なる部分もありますが、今日は少し違った目線から市電を紹介します。
理由は幾つかありますが、幕末開港以来いち早く「馬車」や「人力車」による交通網が整備されたことが逆に路面電車(電気鉄道)導入が遅れた大きな要因です。
ちなみに 一番早く路面電車を導入した都市は「京都市」
1895年(明治28年)2月のことです。
京都がいち早く電気鉄道を導入できた要因の一つに
京都 蹴上水力発電所の創業があります。当時の発電技術では、水力発電が圧倒的に高電圧発電にすぐれていました。
遠距離の送電には高電圧が必要で、火力に比べ自然エネルギーに富む日本、とりわけ京都が立地上優位にありました。
また、1900年代までに、各地で電気事業がスタートしますが京都の電気技術はトップクラスだったそうです。その背景には
びわ湖疎水事業がありました。横浜とは直接関係がありませんが、横道に逸れると
明治維新まである意味日本の中心地だった「京都」は、東京遷都という試練を受けます。街が一気に衰退しはじめ、京都では東京以上に近代化を進める運動が起ります。
そこで、京都が取り組んだ計画が“インフラ整備”だったことが、今日の京都を支えています。
(実は日米ほぼ同時期)
日本の電力事業は、水力も火力もほとんど
イギリス・アメリカと同時期だったことは知られていません。
東京電灯会社の創設と米国のエジソン電灯会社の創設は殆ど変わりませんでした。
日本は、電気エネルギーに関しては、欧米とほぼ同時に実用化への道を歩んできた事になります。
※余談 アメリカで発電事業が発展する段階で交流・直流の配発競争、論争が行われます。その影響が、日本にも及び
大阪の交流、東京の直流方式採用という事業方針の違いが今日の60ヘルツ、50ヘルツ問題の原点があります。過去に何度かヘルツの統一のチャンスがありましたが、結果的に一世紀以上の間一国ニ制度のまま来てしまった訳です。
(その他の都市では)
名古屋電気鉄道 1898年
大師電気鉄道 1899年
小田原電気鉄道 1900年
東京電気鉄道 1903年
大阪市営 1903年
東京市街鉄道 1903年
横浜で最初の路面電車は「横浜電気鉄道(株)」が1904年(明治37年)7月15日に神奈川(現 青木橋)〜大江橋(現 桜木町)間 1哩60鎖の距離で運行しました。
![]() |
創業期から明治に開設された路線図 |
この「横浜電気鉄道(株)」の設立に関わった人たちの多くが
いわゆる横浜の起業家たちでした。
平沼専蔵(埼玉出身の実業家)
田中平八(天下の糸平と呼ばれた相場師)
高島嘉右衛門(横浜最後の政商)
原富太郎(生糸商)
木村重太郎・渡辺和三郎・矢野甚吉 他多くの横浜を代表する商人達がこの
「横浜電気鉄道」創設発起人達でした。
横浜電気鉄道、創業期から厳しい事業となり大正の大戦恐慌で経営不振に陥り、横浜市が電気鉄道事業を買取り現在に至ります。
鉄道事業そして電気事業をを含め、
明治期様々な事業に、維新の起業家たちが関わりますが、
横浜電気鉄道を例にとれば 船頭多く事業計画がまとまらない
個人商店の域をでない
ことで、急激な経済環境の変化に対応できませんでした。
横浜経済史上、大正不況(大戦不況)が大きな曲がり角になっていきました。
No.416 一枚の案内パンフ
今日は大枚800円もはたいて購入した
一枚のパンフレットから見える風景を紹介します。
【注目1】湘南アルプス
最近は
高麗山(168m)〜八俵山(160m)〜浅間山(181m)〜湘南平(160m)の丘陵を「湘南アルプス」と表現するらしい。
ところが、
昭和12年頃、金沢文庫から「湘南アルプス」の上り口があったようです。
現在は「横浜の屋根」 という呼び名をするそうです。
“釜利谷”の金沢自然公園、釜利谷市民の森〜氷取沢あたりと推定できます。
峯の灸寺は円海山護念寺・峯の灸のことです。
【注目2】湘南電鉄
湘南電気鉄道(略して湘南電鉄)わが国最初の1,435mm軌間の採用
運行期間は黄金町 – 浦賀間と金沢八景 – 湘南逗子間が1930年(昭和5年)4月開通し翌年の1931年(昭和6年)黄金町 – 日ノ出町間が開業しました。
1933年(昭和8年)4月から京浜電気鉄道と相互乗入れを実現しました。
1941年(昭和16年)11月に合併解散し京浜電気鉄道に一本化され現在の京浜急行電鉄の前身となります。
だから!
正確にはこの地図が作られた昭和12年は相互乗入れ期ってことですね。
京浜電気鉄道の名が無い!!!???
この頃は、京浜より湘南の方が強かったのかな?
【注目3】裏面にも
緑と水の魅惑!
湘南電気沿線の新緑!!
軽快な「最新式展望電車」とあります。
手元に資料が無いので 後日探してみます。
当時、モテハ220形とい う木造展望車が東北宮城を走り
ガイドガールが乗務し、熱い紅茶のサービスがあったそうです。
モテハ220形?これもどんな車両だったのか
知りたい!
1941年(昭和16年)11月1日に)3社合併、社名をを京浜電気鉄道(株)に。
11月25日には、五島慶太が取締役社長に就任します。
一時、京浜急行は東急傘下に入りますが
戦後すぐに 財閥解体時に独立します。
一枚の小さな チラシ 衝動買いしたので
無理矢理 紹介しました。お粗末様。