No.464 昭和5年頃の横浜
よく歴史書や教科書では、時代区分をします。
横浜史を区分する際、
最大の分岐点が「開港場」ができる幕末期です。
開港から一世紀半の歴史で、
横浜は幾つもの試練の時期がありました。
横浜近代史の中で、今回は震災復興期の昭和初期に注目してみました。
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復興ビジョンが絵はがきになっています。 |
中でも昭和3年から5年頃の横浜の姿をざくっと追ってみます。
※詳細もいずれまとめて発表する機会があると思います。
(鉄道の時代)
横浜の鉄道網が充実したのが昭和期です。
神中鉄道、東横線、京浜電気鉄道、湘南電気鉄道
そして横浜市電がレール網を最も充実させた時代です。
1926年(大正15年)
東京横浜電鉄が丸子多摩川駅(現・多摩川駅)〜神奈川駅間を開業します。
神中鉄道が星川駅(現上星川駅)〜厚木駅間を開業します。
鶴見臨港鉄道が浜川崎駅 – 弁天橋駅間を開業します。
昭和に入り
1927年(昭和2年)
神中鉄道が北程ヶ谷駅(現・星川駅)まで延伸します。
市電浅間町車庫開設。
1928年(昭和3年)
東横線が神奈川駅〜高島駅(後の高島町駅)間を開業します。
※神奈川駅が横浜駅として移転します。
鶴見臨港鉄道が浜川崎駅〜扇町駅間を開業します。
市営バスが開業します。(生麦車庫・麦田車庫完成)
1929年(昭和4年)
神中鉄道が北程ヶ谷駅(現・星川駅)から西横浜駅まで延伸します。
1930年(昭和5年)
京浜電気鉄道が高輪駅〜横浜駅間を開業します。
※「京浜電気鉄道 横浜駅は、現在の臨海セミナー等予備校が並ぶあたりです)
一方、
湘南電気鉄道が黄金町駅〜浦賀駅間、金沢八景駅〜湘南逗子駅間で営業を開始します。
鶴見臨港鉄道も全線電化し、鶴見仮停車場〜弁天橋駅間を延伸開業します。
1931年(昭和6年)
神中鉄道が西横浜駅〜平沼橋駅間を開業し
湘南電気鉄道も桜木町接続を目指し日ノ出町駅まで延伸しますが、
京浜電気鉄道がゲージの違いを乗り越え
日ノ出町駅まで延伸された湘南電気鉄道と接続します。
1933年(昭和8年)12月27日にようやく神中鉄道が横浜駅に乗り入れます。
◇市電の時代
ここでは詳細を掲示しませんが、昭和初期に市電網の大半が開業します。横浜市内のアクセス網が一気に整備されます。
ちょうどこの頃、横浜市は周辺町村を合併し市域も一気に拡大します。
1927年(昭和2年)第3次市域拡張
■久良岐郡
屏風浦村、大岡川村、日下村
■橘樹郡
鶴見町、城郷村、大綱村、旭村、保土ケ谷町
■都筑郡西谷村を編入します。
※区制が施行され
市域が5区に分けられます。
横浜最初の5区が誕生します。
※鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷区、磯子区
1936年(昭和11年)第4次市域拡張
1937年(昭和12年)第5次市域拡張
1939年(昭和14年)第6次市域拡張
(復興事業)
震災復興でインフラが整備されていくに伴い 民間のビル建設ラッシュが起ります。住宅政策では「同潤会アパート」が作られていきます。
例えば 1930年(昭和5年)の建造物は
都南ビル(旧都南貯蓄銀行本店)(静岡中央銀行)
No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南
ジャパンエキスプレスビル
同潤会アパート 多数
No.376 1月10日(木)中島敦のいた街
横浜競馬場一等観覧席遺構
インペリアルビル
No11 1月11日(水) KAAT開場
綜通横浜ビル
横浜地方裁判所・簡易裁判所
No.50 2月19日 横浜地裁で注目の公判
ベーリックホール
No.167 6月15日(金) 自然、単純、直裁、正直、経済的
東(あずま)隧道
松屋横浜支店
No.30 1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
※氷川丸もこの年に横浜船渠株式会社で竣工しました。
1930年(昭和5年)は震災復興事業の一つ「公園整備計画」の「神奈川公園」と「神奈川会館」の開園式が行われた年です。
No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶
(御大典記念)
昭和天皇の即位の礼・大嘗祭が1928年(昭和3年)11月6日に行われました。昭和天皇即位を祝い、全国で様々な形で祝賀が行われます。
その一環として記念碑、記念造営が行われます。横浜市内にも多くの御大典記念に関係する記念碑等が残されています。
■芝生浅間神社では、1928年(昭和3年)御大典記念事業として社殿が御造営されます。
■横浜市立市場小学校では1928年(昭和3年)御大典記念として校旗を作成します。
■伊勢山皇大神宮の太鼓場(?)は1928年(昭和3年)に御大典記念として建設されます。
(観艦式)
横浜港で昭和に入り集中的に「観艦式」が開催されます。
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
日本の観艦式は明治元年に始まり戦前は18回実施されました。
第一回は大阪天保山沖で行われ、以降“横浜沖”が最も多く9回、次いで6回“神戸沖”で実施されました。
昭和期になり観艦式は6回、内4回が横浜沖で実施されます。
1927年(昭和2年)10月30日、横浜沖。
1928年(昭和3年)12月4日、横浜沖。
1930年(昭和5年)10月26日、神戸沖。
1933年(昭和8年)8月25日、横浜沖。
1936年(昭和11年)10月29日、神戸沖
1940年(昭和15年)10月11日、横浜沖。
(磯子八幡神社)
1930年(昭和5年)磯子八幡橋近くにある「八幡神社」にある御大典記念碑が建立されます。
御大典記念
正三位 勲二等 有吉忠一
この記念碑は、碑の上部に鉄の玉が飾られています。
文献や近所の方の話しでは
“昭和の代になり、5年6月には、御大典記念碑が建ちました”。
“漁師の人たちが奉納した大きなブイ(浮標)が石塔の上にのせられています”
「機雷の外側という話もあります」
ここに名が出ている有吉忠一氏はちょうどこの記念碑が作られる直前の1930年(昭和5年)4月11日に市長として貴族院議員に勅撰されます。
その祝いも兼ねたのでしょう。
裏側にはこの記念碑建立に関わった方々の名が掘られています。
禅馬鉄工所、當所 伊達鉄鋼所
おそらく この鉄球を作った所と推理すると
「機雷」ではなく「ブイ」が妥当なのではないでしょうか。
あくまで推論ですが
観艦式には 数多くの「ブイ」が必要とされるので、その製造を地元の鉄工所が請け負い、その御礼も含めここに奉納したのではないでしょうか。
(この時代)
昭和初期の横浜は、震災から立ち上がりつつある中
昭和恐慌、急激な円安デフレのまっただ中にありました。
復興資金として借り受けた米国債の支払いに苦慮します。
こんな時に
1929年(昭和4年)8月19日
飛行船ツェッペリン伯爵号が 急遽計画を変更して
横浜上空に現れます。
かたくなに進路変更を拒んだ「ツェッペリン伯爵号」がなぜ?
横浜を上空から視察したのか?世界の(特に米国の)メディアを乗せたこの
飛行船の目的は 何だったのでしょう。
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命
No.422 【舞台の横浜】妙蓮寺と野毛
1968年(昭和43年)横浜を舞台にした人気テレビドラマ「三人家族」が放映されました。
高視聴率となったこのドラマは、いろいろな意味で横浜を知るには興味深い作品です。
三人家族のシーンとテーマからどうぞ
http://www.youtube.com/watch?v=u6EZ4o107ns
http://www.youtube.com/watch?v=LVdZQmllvJ8
(やっぱり著作権でクレームがつきましたか…)ビジネス的に30秒とかイントロだけでも許諾していただけると 逆にDVDの購入に結びつくとおもいますが。
https://www.youtube.com/watch?v=mNHP-qstGYI
https://www.youtube.com/watch?v=tH2XWh6XlhM
まず上映された時代
団塊世代の先輩世代、高度成長の入口の時代です。
1968年(昭和43年)横浜市の人口が200万人を突破した都市です。
首都圏では急速にベッドタウン化が進みつつありました。
さらに、
「ブルーライトヨコハマ」と「伊勢佐木町ブルース」のダブルヒット
そしてこのドラマをはじめ
横浜が全国に音楽と映像でPRされ続けた年でもあります。
(正確には1968年1月に「伊勢佐木町ブルース」12月25日に「ブルーライトヨコハマ」がリリースされました)
「ブルーライトヨコハマ」
「伊勢佐木町ブルース」
テレビドラマ「三人家族」
山田太一が「これが当たらなかったら職がえだ」と背水の陣で臨んだ作品だったそうです。
おそらく山田太一自身、十分に調査・ロケハンをしたに違いありません。
ここに登場する家族、横浜の風景の多くは山田太一が指定したものでしょう。
「早春スケッチブック」でも脚本には詳細な情景指定をしています。
No.421 ふぞろいの隣人たち?
簡単な概要を紹介しましょう。
TBS系列日産火曜劇場 木下恵介アワー というシリーズ作品の
「おやじ太鼓」の後に放映されました。
放送期間は
1968年(昭和43年)10月15日〜1969年(昭和44年)4月15日で
まさに「ブルーライトヨコハマ」リリースとシンクロしています。
放送時間は21:00〜21:30で全26回でした。
制作は松竹をバックに「木下恵介プロダクション」
(妙蓮寺と野毛)
横浜を舞台に独特な対比構造を構成しています。
急激に変化する戦後の日本、郊外化する横浜
そこに象徴的な二つの地域
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旧東横線とその後の新線 |
妙蓮寺の一軒家に暮らす「柴田家」男三人家族と
野毛の新築マンションに暮らす「稲葉家」女三人家族の
現在のスピードでは<じれったい恋愛>をベースにした家族物語です。
柴田家長男 雄一(竹脇無我)は
東急東横線「妙蓮寺駅」から横浜駅経由で新橋駅で乗り換え<西新橋(田村町)>にある商社に通うビジネスマンの設定(三井物産か?)。
社内ではテレックス担当の通信部員ですが花形の営業職を希望しています。
稲葉家長女 敬子(栗原小巻)は
国鉄「桜木町駅」から「新橋駅」乗り換えで<霞が関ビルディング>の旅行代理店(たぶん日本交通公社)に通うOLの設定。
当時はビジネスガールと言ったかもしれません(渡航時に問題となり変更されましたが)。
霞が関ビルディングは放映された1968年(昭和43年)の4月12日にオープンしたばかりの当時はじめての高層ビルとしてこれまた話題になりました。
<商社と旅行代理店><一戸建てと新築マンション>
<家庭用電話がまだないがテレビはある家庭>と
<全てが洋風(死語?)スタイルの家庭>
あえてステレオタイプな対称軸の設定で構成しています。
内容に関して詳細な情報は下記のサイトに掲載されています。
http://syowa40stvdrama.com/kinoshitatv_ipn/page043.html
※一部閉鎖されていますが この情報で十分に「三人家族」の概要を知ることができます
ここでは地元ならではの切口で補足しておきます。
妙蓮寺の一軒家に暮らす「柴田家」男三人家族は
1968年は戦後23年の時間が流れています。
長男の年齢設定が26歳なので
恐らく、出征前に結婚し 戦中に長男が生まれたのでしょう。
※妙蓮寺は疎開先だったかもしれません。弟がお祭りに参加するなど、
地元(地域)とのコミュニティがしっかり形成されています。
*余談 妙蓮寺とは妙仙寺と蓮光寺が合併してできたお寺です。
1908年(明治41年)に「横浜線」建設のために移転を迫られ蓮光寺と合併します。
ところが、1926年(大正15年)に今度は東急が転地を申し出るが
再度移転することを嫌った妙蓮寺側が門前を駅にすること選択します。
駅前が門前となります。
一方、
野毛の新築マンションに暮らす「稲葉家」女三人家族は
父親が13年前に(海外へ)蒸発した設定になっています。
女性家族が自立していく姿が背景にあります。
野毛のロケに使われたマンションは現在もあります。(ということは築40年)
マンションの予測はできていますがここでは内緒にしておきます。
<2017年1月位置も再度確認してきました>
桜木町はもう過去ネタになってきましたが、東急東横線の終着駅でしたね。
二人のデートにも程よい距離でした。
このドラマに映された横浜
昭和30年代から昭和40年代前半の良き時代の一断片だったようです。
港の“やくざ映画”イメージからも脱却しつつある横浜でもありました。
ドラマには時折ピンキーとキラーズの流行曲が流れたり、崎陽軒のシウマイが登場したりします。
横浜はこの蜜のような時代から 急激な人口爆発都市となっていきます。
横浜の商店街もこの時の“賑わい”残照から脱却しなければいけないのですが
No.337 12月2日(日)日本最大級の人口爆発都市
No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発
3月も終わりです。91話目です。
鉄道の開通は地域の活力を一気に高めますが、紛争の種にもなります。
新線開通でにわかに活気づく村に大騒動が起りました。
この小さな村に当初関心の無かった横浜市と川崎市の両市が
神奈川県橘樹郡日吉村をめぐって争奪戦を繰り広げました。
熾烈な騒動は4年に渡って起ります。
中傷合戦、暴力事件まで起き、最終的には神奈川県が仲裁に入り矢上川をはさんで東西に村が二分され決着を迎えました。
1934年(昭和9年)のこの日、
横浜市にとって国取り合戦に有利な一つの契約が結ばれます。
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平成元年日吉上空 |
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明治14年矢上地区は起伏に富む丘陵地帯でした。 |
この日結ばれた契約は、
横浜市長(大西一郎)と慶応義塾塾長(小泉信三)、
そして東京横浜電鉄の取締役(五島慶太)の三者で出資し
日吉村に開設準備中の「慶応義塾大学日吉キャンパス」に
横浜市が水道供給しますという内容です。
第一条
甲(横浜市)はその経営に係る上水道に依りて乙(慶応)が神奈川県橘樹郡日吉村地内に新設したる校舎その付属施設に給水するものとす。
(経緯)
横浜市と川崎市の日吉争奪合戦は、1933年(昭和8年)6月にまず横浜市が日吉村にラブコールしたことに始まります。
これに対して遅れをとった川崎市が7月あわてて日吉村に合併を申し入れます。
そもそものキッカケは、東横線の開通と日吉駅の大変身計画で町が急激に変化しようとしていたからです。
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田園調布ほどではありませんが、放射状の宅地開発を設計 |
(東急の鉄道戦略)
大東急、五島慶太戦略は、沿線にリゾート施設、例えば温泉(綱島)を開発、大学を誘致し地域ブランド力をアップし周囲に住宅地を分譲するという戦後多くのデベロッパーが手本とした地域開発手法を駆使しします。
五島慶太は日吉駅の東側43万平米をかねてから分校用地を探していた慶応義塾に無償提供するので大学を開設して欲しいと提案し昭和3年に内定します。
それまで林野だったこの地域に学校と住宅地を造る訳ですから、インフラ電気水道が必須条件になります。
五島は平沼亮三を介して横浜市に水道施設を依頼します。
この時、横浜市は日吉合併がスムーズに行くとは考えていなかったようです。
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現在も後者の背後に広大な林野があり大学の体育施設が集中しています。 |
日吉村は矢上川をはさんだ7つの集落が明治初期に合併してできた村で、村民の主な生活圏は川崎市中原町でした。
鉄道の開通で地域が代わったとしても、日吉駅開発が無ければ恐らく川崎市中原区日吉町になっていたのではないでしょうか。
横浜市が水道施設契約で一歩リードすることで、形勢が逆転します。
川崎市より早く合併を申し入れたことも横浜市編入派が優位に立ちます。
しかし川崎市の巻き返しも熾烈でした。
住民投票が何度も行われますが、集落ごとに意見が分かれます。
4年に渡ってすったもんだしますが、昭和12年4月をもって、橘樹郡日吉村は矢上川東村落を川崎市、日吉駅を含む西側が横浜市となり現在に至ります。
これでしゃんしゃんといったわけではありません。
日吉村分裂騒動は半世紀、1989年まで引きずります。
(かどうか???????)
横浜市港北区日吉の市外局番は、横浜市内(045)にも関わらず1989年まで044でした。
理由はNTT中継局がこのエリア中原局管轄だったために044にせざるを得なかったということですが、単純にそれだけでは無かった?
と勘ぐるのは悪い癖ですね。
慶応義塾は昭和9年、インフラ整備の見通しが立つと一気に学校建設を開始しますが、事前調査を行うと敷地から古墳や弥生式住居跡が発見され周辺からは国宝「秋草文壷」他、重文となる様々な出土品がありました。
創生期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いたコンドルの弟子、曽禰 達蔵とその後輩 中條 精一郎や博物館明治村の初代館長となった谷口吉郎らが
精力的に日吉キャンパスの施設設計に携わりその作品が残っています。
学校建築でも、近代から現代へ
作品制作の場に地域開発が深く関わっていく始まりといえるでしょう。
No.90 3月30日 環状鉄道の夢
路線図を見れば明らかですが、
370万人都市にしては横浜の鉄道網はまだまだ未完成です。
横浜駅を中心に放射状に延びる路線網に対し、環状線が未整備のため不便さが際立っています。
環状線の整備は市民の利便性、アクセスを高める重要な要素です。
利便性の確保は1960年代から計画されていましたが2008年(平成20年)の今日、環状鉄道の一部である市営地下鉄グリーンラインが開業しました。
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新幹線を除いてあります。 |
市営地下鉄グリーンライン(全長13.1km、地下区間10.7km、地上区間2.4km)は東急東横線「日吉駅」とJR横浜線「中山駅」を結ぶ「横浜環状鉄道」の一部です。
建設コストダウンのため一般的な地下鉄より小型化しリニア方式を導入しているので「ミニ地下鉄」とも呼ばれ全国の政令指定都市の公営地下鉄に多く用いられています。
このグリーンラインは最高速度80km/hを出し、鉄輪式リニア方式のトップクラスの速度を誇ります。リニア鉄道というと、581km/hを出したJRの東海道リニア計画が有名ですが、東海道リニアは磁気浮上式でグリーンラインで採用している方式とは異なります。
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同形式最高速のリニア地下鉄10000形 |
(余談)この磁気浮上式で日本初の営業運転は、
1989年(平成元年)の横浜博覧会開場を縦断したYES’89線です。
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中央通りの右側をリニアが走っています。 |
このリニア誘導モータは従来の方式に比べ、消費電力が増えるため311以降この方式の優位性が下がっています。
今後はドイツ ストラスブールで有名な低床LRT(次世代型路面電車システム)に代わっていくでしょう。
この「横浜環状鉄道」の一部であるグリーンライン線は当初、鶴見駅から日吉駅経由、中山駅から二俣川駅、東戸塚駅、上大岡駅、根岸駅方面へ延伸する計画が組まれました。
さらには現在開通している「みなとみらい線」と繋がる計画でしたが、路線規格が異なるため横浜環状の夢は崩れました。
現在、市営地下鉄グリーンラインの一日平均乗降客数は208,178人(平成22年度)で事業計画時に想定した平均利用者数を越える事業実績を達成していますので、新たな延伸計画が持ち上がる日もそう遠くないでしょう。
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環状計画含め鉄道計画予想図(現状とかつての計画を重ねました2010現在) |
最近ブルーラインの延伸計画が急浮上していますので、どちらが先になるのか?
沿線住民は気になるところです。
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飛鳥田市長時代の交通網計画 |
鶴見・日吉間も捨てがたいものがあります(すでにインフラ競争が始まっているような?個人感)。
横浜市内の環状鉄道計画は、都市設計者の夢です。既に、相鉄線から新横浜経由日吉計画が実施されていますが日吉駅経由東横線のキャパシティもあります。
東京への導線をどうするか?
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東急日吉駅 |
鉄道計画とは息の永い事業であることは間違いありませんね。
(2012年3月)以降かなり新線計画は進展しています。
No.32 2月1日 みなとみらい線開通
さあ二ヶ月目に突入です。この間励まし ありがとうございます。
平成16年のこの日横浜と元町中華街を結び、東横線で渋谷に繋がる「みなとみらい線」が開通しました。4.1Kmの短い路線ですが、東急東横線の横浜駅〜桜木町駅間に代わり作られた路線です。
1985年(昭和60年)に提出された運輸政策審議会答申に基づき、横浜高速鉄道株式会社が設立され着工しました。
みなとみらい線の駅についてエピソードをご紹介します。「みなとみらい線」の特徴は、「横浜」「新高島」「みなとみらい」「馬車道」「日本大通り」「元町・中華街」の6駅のデザインが全て違うことです。路線の駅舎デザイン設計は統一感をもたせるのが一般的ですが、「みなとみらい線」は、デザイン委員会が各駅毎に選定した建築設計事務所が行いました。
「新高島駅」は山下昌彦氏(UG建築設計)
「みなとみらい駅」は早川邦彦氏
「馬車道駅」は内藤廣氏
終点「元町・中華街駅」は伊藤豊雄氏が担当しました。
途中「日本大通駅」は鉄道施設・運輸施設整備支援機構※が担当しました。
※みなとみらい線の工事を担当した組織です。
それぞれ異なる設計者ではありますが、全体的に吹き抜けのある大空間を活かした開放的なデザインは横浜らしい雰囲気をかもしだしています。「駅」自体が観光の重要な空間になる楽しい路線となっています。
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢
1953年(昭和28年)のこの日、
東急電鉄会長、五島慶太は大山街道沿いの地主58名を招き「城西南地区開発趣意書」を自ら発表した。
五島慶太(1882年(明治15年)〜1959年(昭和34年))が語った「城西南地区開発趣意書」は今読んでも新鮮な中々の名文である。
トップセールス、プレゼンテーションドキュメントとしてもかなり質が高いものとして評価されている。
この説明会後、
五島は神奈川県北東部を中心とした地域の多摩田園都市開発に次々と着手する。
まず簡単に「強盗慶太」こと五島慶太について紹介しておく。
「西の小林・東の五島」と呼ばれた五島慶太、
西の小林とは「阪急の小林一三」のことである。
西の小林とは対照的な経営手法で、次々と東急をまとめあげ最終的に東京急行電鉄を最大手の私鉄企業に育て上げた。
強引な手口から「強盗慶太」の異名をとったが、鉄道事業の経営手腕は歴史に残る評価を得ている。
東京帝国大学時代、大正期に活躍した外交官で横浜とも関係が深い政治家、加藤高明の息子の家庭教師をしていた時期もある。
大学卒業儀、鉄道官僚となった五島は平凡な仕事に我慢できず、
役所を辞め「武蔵電鉄」の常務となる。
転機のキッカケは西の小林からもたらされた。
当時、実業家の渋沢栄一らによって設立された「田園都市株式会社」が経営不振に陥り、再建を阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)総帥の小林一三に依頼された。
ところが小林が多忙のため代わりに五島が推薦されたことが大東急の出発点となる。
東京府荏原郡の田園調布や洗足等に分譲用として45万坪の土地を購入していた田園都市株式会社は「荏原電気鉄道」を設立していたが、事業が頓挫した。
五島はその荏原電気鉄道に目をつけた。元鉄道官僚の慧眼だった。
目黒蒲田電鉄と変更し事業を開始するが関東大震災が起る。
震災後も決してあきらめず
1924年(大正13年)に全線開通させた結果、関東大震災で被災した人々が沿線に移住し始めたため一気に沿線が郊外化したのである。
この勢いを受け目黒蒲田電鉄の経営が好転することになる。
ここで得た利益を勤め先であった「武蔵電鉄」の株式に投入、過半数を買収し実質の経営者になる。
この時点で、名前を「武蔵電鉄」から「東京横浜電鉄」と変え、
渋谷〜桜木町間を開通させる。東急の背骨「東横線」の登場である。
昭和恐慌(1930年(昭和5年)〜翌1931年(昭和6 年))のため
業績は悪化するが、五島は誘致計画を立案し長期的な視点で経営を行った。
例えば、東横沿線に学校を誘致し「学園都市」としての付加価値をつける戦略である。
大学を中心に、多くの学校を沿線に誘致するという当時大胆な計画が功を奏する。
●東京工業大学を蔵前から目蒲電鉄沿線の大岡山に誘致。
●日本医科大学に武蔵小杉駅近くの土地を無償で提供し誘致。
●東京府立高等学校を八雲に誘致。
●慶應義塾大学に日吉台の土地を無償提供し誘致。
●東京府青山師範学校を世田谷・下馬に誘致。
自らも東横商業女学校を設立、
武蔵高等工科学校(現東京都市大学)、
東横学園女子短期大学(現東京都市大学へ統合)を創設する。
さらに五島は、駅に百貨店等の商業機能を直結させる。(渋谷駅開発)
しかし五島は成功ばかりではない。
数多くの失敗も重ねている。
当時の財閥「三井・三菱」を相手に闘いを挑んだが大敗北する。
長年の夢だった“伊豆の開発”も決して成功したとは言えない。
※西武とも東西戦争も有名だ。
特に
この「城西南地区開発」構想した時代の10年、決して上手く事業が進んだとは言えない。
しかし、後継者によって実を結んだ「五島慶太の夢」が城西南地区開発構想である。
五島慶太の基本プランはかなり大風呂敷だが、
田園都市構想を現実にした偉大な都市プランナーである。
■城西南地区開発構想での開発予定地域(1953年当時の地名)
地区名:対象地区
宮前:川崎市字馬絹・字梶ヶ谷・字野川・字有馬・字土橋・字宮崎(旧宮前村)
中川:横浜市港北区中川町・南山田町・北山田町・牛久保町(旧中川村)
山内:横浜市港北区元石川町・荏田町(旧山内村)
中里:横浜市港北区寺家町・鉄町・鴨志田町・成合町・上谷本町・下谷本町・西八朔町・北八朔町・市ヶ尾町・黒須田町・大場町・小山町・青砥町(旧中里村)
田奈:横浜市港北区恩田町・奈良町・長津田町(旧田奈村)
新治:横浜市港北区十日市場町・新治町・三保町(旧新治村)
都田:横浜市港北区川和町(旧都田村)
「城西南地区開発」は、まずこれらの地域内に核となる街区を建設する事から始め、これらの北部地域を貫通する交通機関(高速道路または鉄道)と、渋谷から開発対象地域の東部を貫通して、小机、横浜駅西方を経由し湘南方面を連絡する高速道路を建設して、一気に新都市を建設するという大構想(ターンパイク(有料道路)プラン)※であった。
現在の「田園都市線沿線の開発」「港北ニュータウン構想」の出発点がここにある。
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
※ターンパイク(有料道路)プラン
渋谷〜江ノ島間の一般自動車道「東急ターンパイク」(昭和29年免許申請)
小田原〜箱根間の一般自動車道「箱根ターンパイク」(昭和30年免許申請)
藤沢〜小田原間の一般自動車道「湘南ターンパイク」(昭和32年免許申請)
と次々と有料道計画を立てるが
ことごとく「建設省プラン」と競合する。
箱根のみ実現する。「箱根ターンパイク」は日本初のネーミングライツ道路「TOYO TIRES ターンパイク」となっている。(現在は営業譲渡)
No9 1月9日(月)【桜川】野毛カストリ横町立退き騒動
(リライト版)
野毛はテーマの宝庫です。
横浜最大の飲食店街として成長してきた戦後野毛の歴史は、さまざまなエピソードとともに刻まれてきました。
1950年(昭和25年)1月9日(月)のこの日、
「櫻川埋立工事で立退きを迫られる野毛ガス橋寄りの数軒、市に無断で埋立てた同橋反対側に移転」
桜木町近くを流れていた櫻川の野毛ガス橋付近の埋立て工事で不法占拠していた屋台が立退きを迫られ数件がしぶしぶ対岸に移転することになります。
終戦直後の横浜、
特に桜木町近辺は職を求める多くの失業者が集まっていました。
理由はそこに中区役所(現桜木町駅前駐車駐輪場)と職安があったからです。
しかも、戦前の繁華街や港湾施設(特に関内・関外)の大半が米軍に接収されたため、日本人が自由に飲み食いできる“街の繁華街”として野毛が賑わいました。
多くが不法で、空き地という空き地には屋台と闇市が広がっていました。取締と不法占拠の繰返しでした。
1947年(昭和22年)10月には伊勢佐木警察がカストリ横町を一斉検挙します。
大岡川には水上ホテルが浮かび、川岸にはバラックが建ち並びます。
特に埋めて中の櫻川沿いには貴重な動物性たんぱく質源だった“クジラカツ”を販売する「くじら横丁」が出現します。
別名クスブリ横丁またはカストリ横丁などとも呼ばれました。
日本中が物資不足にあえいでいる時「野毛に来ればなんでも揃う」と言われるほどの賑わいだったそうです。
多くの人が復員兵、労働者などで、食と職を求めました。
櫻川が排水、ゴミ等で極めて不衛生な状態にになり、埋立工事が始まり
上図のように「桜木町デパート」が建てられます。
一方、「櫻川の野毛ガス橋付近」(現在の宝光寺付近)は、最後まで不法占拠のバラック店舗が建ち並びます。
ガス橋(瓦斯橋)は明治期に高島嘉右衛門のガス工場(現在の本町小学校近辺)があったことに由来します。
この櫻川は埋立てられ「新桜川道」になっていますが、
当時は(埋め立てられた)道の上に不法屋台ができていたため、
立退きを迫られた訳です。
しかし追い立てはイタチごっこ、モグラたたきにも似て埒があかなかったそうです。
野毛界隈は
1950年(昭和25年)6月25日に始まった朝鮮戦争をキッカケに大きく変化して行きます。
1955年(昭和30年)10月には櫻川バラック集落は市によって南区に強制移動させられます。
道が整備され、街並も急速に復活して行きます。
終戦後どこも同じ状況だったドヤ街、
寿町はその後も厳しい状況を引きずっていくことになります。
※ドヤ街は「宿(ヤド)」街の逆さ言葉で、簡易宿所が多く立ち並んでいたエリアをそう称しました。
明治のころの瓦斯橋周辺古地図
「DOYA!ことぶきの町は。」