ホーム » 【横浜テーマ】横浜の〜 (ページ 12)
「【横浜テーマ】横浜の〜」カテゴリーアーカイブ
【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
ここにある一枚の絵葉書には、弁天橋に大きなモニュメント(ゲート)が建てられ、日米の国旗が飾られています。上にはWELCOM 下には
「BANKERS & MERCHANTS YOKOHAMA」という看板が掛かっています。
横浜の商工会こぞって歓迎 という感じでしょうか。
位置的には、初代横浜駅側から 関内方向を向いていると思われます。 時期は 1908年(明治41年)10月
米国大西洋艦隊が世界一周の途中で横浜に来航する際、横浜の歓迎模様を記念絵葉書にしたものです。
米国大西洋艦隊は16隻の軍艦で構成され、白く塗られていたことから「白船」Great White Fleetと呼ばれました。
米国大西洋艦隊の日本来航「白船艦隊」については別項で紹介します。
ここではその当時の横浜を中心に紹介しましょう。
開港50周年を翌年(1909年)に控えた横浜市では、全体的にお祭りムードでしかも当時の“険悪になった日米関係”を吹き飛ばすウェルカム感覚だったのかもしれません。市長は開口50周年を担当した三橋信方、ハマ市章や市歌を制定しました。
1908年(明治41年)崎陽軒が(初代)横浜駅構内の営業許可を得た年でもあります。また「横浜鉄道(後の横浜線)」もようやく(9月23日)開業し、横浜市内のインフラも少しずつ整備されてきた時期にあたります。
(弁天橋)
かながわの橋100選に選ばれている弁天橋、初代横浜駅から関内に渡る“玄関の橋”として多くの人が利用してきました。現在の橋は1976年(昭和51年)3月に竣工しました。
弁天橋が最初に大岡川に架かったのは1871年(明治4年)のことです。弁天橋は早期に整備された横浜港に向かう<港國道>の一つ「國道第一号」が通る横浜最初の国道に架かる橋です。現在は国道133号線となっています。
初代は木造の桁橋でした。
1873年(明治6年)にレンガを巻いた鉄筋コンクリート製の橋台と橋脚の上に木造のアーチ橋が掛け替えられます。この時に歩道も設けられ四隅の橋柱にはガス灯がありました。
そして、「白船来航」に合わせた?のか開港50周年記念事業だったのか調べていませんが1908年(明治41年)9月にしっかりとした“プレートガーダー橋”に架け替えられました。
この絵葉書は その竣工記念の意味合いもあるのかもしれません。
その後の弁天橋は1923年(大正12年)の関東大震災で被災しますが倒壊することはなく多くの人命を救うことになります。
1928年(昭和3年)10月に復旧工事が完了します。
(ウェルカム弁天通)
明治初期にこの弁天橋が架かることで、市民の多く利用した「吉田橋」に対し、横浜駅を中心にした表玄関として本町通り・弁天通りが栄えます。関内の横軸として<本町通り>が交通のメインストリートとなり、<弁天通り>は関内のショッピングストリートとなっていきます。
明治・大正・昭和前半、この通りは<ウェルカム弁天通り>と呼ばれ、横浜関内の銀座通り的な商店街として賑わいます。ここでも庶民の伊勢佐木、来訪者の弁天通りといった役割分担が出来上がっていました。
いまでこそ 関内の横軸は あまり違いが無くなってしまいましたが、昭和期まで関内の横軸線の各通りには個性がありました。
再度 縦軸と横軸を活かしたまちづくりを編んでみる時期でしょう。
当時発行された「米国大西洋艦隊(白船艦隊)」歓迎の絵葉書
【今日の横浜2015】1月20日県立第三横浜中学校
1923年(大正12年)の今日
県立第三横浜中学校が中区本牧緑ヶ丘に創立されました。現在の神奈川県立横浜緑ヶ丘高等学校の創設記念日にあたります。
この県立第三横浜中学校の歴史は、横浜が遭遇した悲劇と同じ<三重苦>を乗り越えてきた学校です。
<関東大震災>
1923年(大正12年)開校直後に関東大震災に見舞われます。
<横浜大空襲>
1945年(昭和20年)横浜大空襲で校舎のすべてが焼失します。
<接収>
戦後は、立地が良かったことから駐留軍によって校地が接収されるなど
横浜の三重苦を経験しました。
校名を「県立緑が丘高校」に変更したのは1950年(昭和25年)の学校制度改革ですべての旧制中等学校が廃止となり新制高等学校(男女共学)となります。
創立以来の精神は初代校長が掲げた『三徳一誠』です。
知;正しい判断力を持て
仁;人のために尽くせ
勇;人間らしくあれ
ちなみに市内の旧制中学は
県立第一横浜中学校は神奈川県立横浜一高を経て神奈川県立希望ヶ丘高等学校に
県立第二横浜中学校は神奈川県立横浜二高を経て神奈川県立横浜翠嵐高等学校に
県立鶴見高等学校も旧制中学の系譜です。
一方 高等女学校は
神奈川県立横浜第一女子高が神奈川県立横浜平沼高等学校へ
神奈川県立横浜第二女子高が神奈川県立横浜立野高等学校へとつながります。
横浜市立では
程谷町立実科高女が市立実科高女→市立第一高女を経て市立桜丘高等学校に。
戸塚町立実科高女が市立戸塚実科高女⇒市立戸塚高女⇒市立戸塚高等学校
横浜らしいといえば
横浜商法学校→市立商→市立横浜商業高等学校(Y高)です。
No.20 1月20日 鶴見線「73型電車サヨナラ運転」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=603
1971年(昭和46年)の今日
『市民生活白書 昭和46年 横浜と私』が発行されました。
No.100 4月9日 市民生活の実像は描ききれたのか
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=517
【ミニミニ今日の横浜】3月3日
1925年(大正14年)の今日3月3日

横浜市神奈川区子安にアジア初の「日本フォード」製造工場が開設されました。
このフォードの進出が、日本自動車産業界に大きなインパクトを与えました。日本の自動車生産革命が<横浜>から始まったといっても過言ではありません。
(超簡単 自動車史)
日本の自動車産業は戦後、トヨタ自動車を筆頭に日本メーカーは戦後日本経済を牽引してきた、戦後経済復興のシンボルでした。急成長を遂げた自動車産業、その基盤は戦前の横浜に築かれました。
簡単に自動車産業史を追ってみます。
ヨーロッパで生まれた自動車は、アメリカで産業として確立します。
日本が開港によって近代化の道を歩むことになりますが、自動車市場が花開くには様々な社会構造の近代化が必要でした。フォードも対アジア市場として日本に対し日露戦争が終結した1905年(明治38年)に輸出を開始します。
国内自動車製造業も次々と設立されますが個人工場の域を出ることができませんでした。
1925年(大正14年)2月17日に資本金400万円で「日本フォード社」が横浜市緑町4番地に設立されます。そして
3月3日の今日、
工場を開設、当初は本国モデルの左ハンドルT型フォードをノックダウン生産します。
遅れること二年、ゼネラル・モーターズが大阪に拠点を置き生産を初め米国二大自動車メーカーによる東西競争が始まります。
昭和初期、日本の道路は
横浜産のフォード、
大阪産のシボレーが席捲します。
日本のモータリゼーションが、米国の大手二社によって始まった事実はあまり知られていません。勿論、日本メーカーも国産自動車の増産と販売に努めます。
1933年(昭和8年)自動車製造(株)が横浜に設立され、翌年から年間1,000台ペースで生産開始しますがフォード横浜工場の生産能力は年間1万台、規模の違いは圧倒的でした。
その後、フォード(横浜工場)は、神奈川区守屋町2丁目1343番地に、敷地11,266.98坪規模の子安新工場を立ち上げ、右ハンドルのモデルAの本格的な生産を開始します。最盛期には一日当り200台の生産能力を持っていたそうです。
1936年(昭和11年)に、日本政府は自国の自動車産業の保護育成を目的とする「自動車製造事業法」を制定。この法律により、国内資本が50%以上の企業のみ自動車製造が制限されたことで、
1939年(昭和14年)12月にはトヨタ・日産・フォード間の合弁企業設立交渉が行われたこともありましたが、軍部からの強い横槍があり夢の合弁はたち消えとなってしまいます。
日本フォード社は1940年(昭和15年)に操業停止を余儀なくされます。1941年(昭和16年)12月から1945年(昭和20年)8月終戦までの期間は日本政府に接収され、戦後の連合国軍接収を経てフォードに返還、現在はマツダのR&D(研究開発)センターとなっています。
1933年(昭和8年)12月26日、横浜に設立された自動車製造(株)が、後の日産自動車となります。
日産自動車も横浜ルーツの企業で、現在横浜に本社が移転(戻って)しました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7846
(3月3日関連ネタ)
■1854年3月31日(嘉永7年3月3日)
「神奈川にて日米和親条約締結」
とありますが、<神奈川にて>ではなく<横浜で神奈川条約>を結んだと表現するほうが正しい。この条約によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港することを決定します。
米国側
漢文担当の主席通訳官サミュエル・ウィリアムズ
オランダ語通訳アントン・ポートマン
日本側
第1通訳担当が森山栄之助
<森山栄之助関連>
No.412 多吉郎、横浜に死す。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=166
<日米和親条約締結>
No.63 3月3日 日本初の外交交渉横浜で実る
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=556
<日米和親条約締結関連>
No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=521
【ミニミニ今日の横浜】3月7日
1978年(昭和53年)の今日
「首都高速道路横浜市道1号横羽線・2号三ツ沢線が開通。」
横浜駅西口出入口(金港JCT)から神奈川区の三ツ沢(第三京浜との接続)が開通しました。これによって首都高速神奈川2号三ツ沢線が全線開通します。
広い意味での「狩場インターチェンジ」の機能が完成し、
首都高速道路、保土ヶ谷バイパス、第三京浜道路、横浜新道に接続します。この時点では「横浜横須賀道路」は未完成です。
2号三ツ沢線 金港JCT〜三ツ沢JCT間 2.3Kmの短い区間ですが、この2号線の開通で、横浜の道路網の重要な区間がつながったことになります。
<関連年表>
1959年(昭和34年)10月28日
国道1号横浜新道の全線が開通します。
1965年(昭和40年)12月19日
第三京浜が全線開通します。
1968年(昭和43年)7月5日
第三京浜と横浜新道との連絡路が開通します。
1972年(昭和47年)8月7日
横羽線、金港JCTまで開通します。
1973年(昭和48年)4月17日
保土ヶ谷バイパスが開通し、新保土ヶ谷インターチェンジの一部が供用開始となります。
1974年(昭和49年)9月25日
新保土ヶ谷インターチェンジ〜狩場インターチェンジ間が開通し、新保土ヶ谷インターチェンジが全面通行可能となります。
1978年(昭和53年)3月7日
横羽線・2号三ツ沢線が開通し横浜新道・第三京浜と接続しました。
同時に横羽線・1号の金港JCT〜横浜公園出入口区間が開通します。
1979年(昭和54年)12月6日
有料道路「横浜横須賀道路」日野IC〜朝比奈IC間が開通します。
1984年(昭和59年)2月2日
横羽線が横浜公園出入口〜石川町JCT開通で、全線開通。
1985年(昭和60年)4月1日
横浜新道と首都高速神奈川2号三ツ沢線とを連絡する「三ツ沢ジャンクション」を新設。
1993年(平成5年)3月1日
首都高速神奈川2号三ツ沢線三ツ沢ジャンクション改良
(3月7日関連年表)
No.67 3月7日 教育会館にて夜露死苦!
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=552
下記の
No.43 2月12日 “浮浪者狩り”
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=578
では、荒廃する子供達の姿が浮き彫りにされました。
金属バット事件から校内暴力へと拡大していく時代です。
あなたにとって 80年代はどんな時代だったでしょうか?
その他
1948年(昭和23年)の今日
新警察法の公布に伴い、自治体警察として「横浜市警察」が発足します。市内各警察署は例えば「横浜市加賀町警察署」と名乗ることになります。
同時期に消防組織も自治消防組織となり1948年(昭和23年)の今日、横浜市消防本部が設置されます。
※加賀町警察といえば横浜最初の警察署です。
No.185 7月3日(火) 実録「居留地警察」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=422
【ミニミニ今日の横浜】3月4日
今日は簡単に
1947年(昭和22年)の今日
「野毛にマッカーサー劇場(実演と映画封切り)開場」
野毛の一角に戦後一時期占領軍司令官<マックアーサー>の名の劇場が野毛にありました。
位置は現在の桜木町JRAあたりで
美空ひばりが本格デビューを果たした「横浜国際劇場」に隣接した場所に同時期開館しました。 ※横浜国際劇場 5月5日開館
「マッカーサー劇場」は地図・写真記録等から<マックアーサー劇場>となっていましたが、記録ではマッカーサーとなっています。
Douglas MacArthur 確かにマックアーサーと読むのが素直ですが、スコットランド・ゲール語で息子を意味する<アーサーの子MacArthu>は一般的にマッカーサーと表記されています。
http://www.hamakei.com/photoflash/816/
野毛の「横浜国際劇場」は日本映画・演芸・歌謡ショー中心の劇場で
「マッカーサー劇場」は洋画専門館としてオープンしました。
(占領の時代)
1945年(昭和20年)に戦争が集結し、米軍が横浜市域の多くを接収します。米国駐留軍は軍事施設を初め、住宅施設・補給施設そして文化施設を横浜に設置します。
特に住宅が多かったためか<映画館、劇場、スポーツ等>の文化施設が横浜中心部に開設します。
占領文化施設の一部を下記に示します。
「横浜赤十字クラブ」「バンカー ズ・クラブ」「ゴールデ ンドラゴン・クラブ」「ク ロスロード・クラブ」「ゼブラ・クラブ」「コロニアル・クラブ」「セブ・メス・ホール」「ルー・ゲーリックスタジアム(平和球場→横浜球場)」
伊勢佐木町に開設された「オクタゴン劇場(横浜松竹劇場の跡廃止)」
開港記念会館は「メモリアル・ホール」
松屋伊勢佐木町店は「横浜PXメインストア」
米軍施設ではない「マッカーサー劇場」は、アメリカの民間企業が建てたものなのか?
当時の神奈川新聞では
「其の名も”マッカーサー劇場”元帥を讃へ横濱野毛に開館」とタイトルが書かれていますので、戦後日本が占領軍司令官を多く<讃え>た施設の一つといえるでしょう。
戦後の日本、アメリカに対し<節操が無い>のか<日本独特の柔軟性>なのか議論の別れるところですが、占領軍へのプレセンスをいち早く行った横浜市民の受容性には感服します。
「一般からその館名を公募してゐたところ、廳募は1万7千通に上った。二十三日にその審査を開催、堀内敬三(音楽家)北林透馬(作家)中山富久(作曲家)橘正禄(舞踊家)青木純二(神奈川新聞文化部長)平古壽次(瑞穂興業社長)などが厳選入選候補としてマッカーサー劇場、ミューズ劇場、希望劇場、セントラル劇場、オリンパス劇場などが残った、さらに審査の上で確定するが、進駐軍当局の認可を得てマッカーサー劇場と命名されると、日本では最初のマックアーサー元帥を讃える劇場が横濱に誕生するわけ、尚この劇場では横濱で最初のダンシングチームや市民演劇團も育成していくといふ。
(昭和21年9月26日付神奈川新聞)」
ちなみにこの1947年(昭和22年)時代
横浜市役所は、マッカーサー劇場から徒歩5分
五代目市庁舎(1944 年~1950年)として旧老松国民学校(老松中学校)にありました。
(関連ブログ)
No.139 5月18日 マッカーサーに嫌われた男
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=476
No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=352
No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=363
(3月4日関連過去ブログ)
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=555
No.702 【横浜バスめぐり】バス停に見る街の記憶
地名からその土地の歴史を読み解くことができますが、バス停の名からもその土地の様子がうかがえることがあります。その時々の土地の記憶が「バス停」に残されたケースを追いかけてみましょう。
まずは市内には失われた(暗渠化した)川に架かっていた「橋」の名からいきましょう。
■名残橋
「阪東橋」「横浜橋」「千歳橋」
吉田新田の真ん中にあった水路「吉田川」に架かっていた橋の名残です。
関内外エリアは運河の街だった歴史から「橋」の名が残っているバス停が多い地域です。
「吉浜橋」「東橋」、旧桜川に架かった「雪見橋」「花咲橋」も川のない橋ですね。
神奈川区片倉に近いところには「六角橋」「日枝橋」というバス停があります。現在はまったく川の面影がありません。
この他 磯子16号線には
「芦名橋」「境橋」「聖天橋」といった<橋>の名が残っていますね。
「芦名橋」は橋梁の名残を残しています。
■数え歌「バス停」なんていうのもあります。
旭区今宿には「ニュータウン第一」〜「ニュータウン第七」まで繋がります。
瀬谷では「細谷戸第一」〜「細谷戸第五」と続きます。
■バス停名称いろいろ
→企業名
「高周波前」「松下通信」「明治製菓研究所」このほか多数ありますね!!
→ちょっと微笑む
港北区の「吉田新田」そして次のバス停が「神隠」
「新羽営業所庚申堀」も面白いですね。江戸時代の庚申塚と営業所の名が合体しているなんてユニークです。
→ダブり?
103系統の本牧車庫行きには同じバス停名が並んでいるんです。
「本牧市民公園前」→「本牧市民公園前」ですね。
■会社の事情?
同じ場所なのに営業会社でバス停名が異なるところもかなりあります。
先日足を運んだ市営36系統途中に「道路碑前」バス停は相鉄バスでは「道路碑」でしたこれをきっかけに調べてみたらあるは あるは
バス会社の事情なのか?逆に迷わないための<区別>なのか?
→「駅・駅前」の違いを明確に出しているのがなぜか「横浜線」沿線のバス停名です。
「十日市場駅(神奈中)」「十日市場駅前」
「中山駅(神奈中・東急)」「中山駅前」
「長津田駅(神奈中・東急)」「長津田駅前」
「小机駅(東急・相鉄)」「小机駅前」
「新横浜駅」「新横浜駅前(神奈中・市営)」
「泉谷寺前(東急・市営)」「泉谷寺入口(相鉄)」
「屏風浦駅」「屏風浦駅前(神奈中)」
→その他「前」「入口」の表記も多いバス停名の一つですが会社でバス停名が異なるのは珍しいですね。
「港北年金事務所前」「港北年金事務所入口(臨港)」
「鶴ヶ峰小前」「鶴小前(相鉄)」
「稲荷通」「稲荷り(神奈中)」
「山内中(東急)」「山内中前(小田急)」
「桐蔭学園(小田急)」「桐蔭学園前(東急)」
「ストアー前(京急)」「汐見台ストアー前」
バス停名を巡る話はまだまだありますが、今日はこんなところで失礼します。
No.701 運河の街誕生(序章)
江戸時代の日本は、同時代の世界経済史上からもユニークな経済体制だったといわれています。
幾つか理由が挙げられますがその一つが17世紀から2世紀半もの間、戦争(領土拡張も)が無かったことです。緩やかに成長しながら循環型社会が出来上がったことで日本を比較的安定した経済状態を維持することができました。
この近世経済の中核を担ったのが<米(こめ)>でした。
江戸時代の経済は絶妙な「石高制」が支えたのです。
ここに<戦国時代>に進化した利水・治水技術の革新と普及が土地活用の変化を起こします。
耕作地の改善と増加、<稲作>への転換により米の増収が可能となる河口部の干拓事業を全国の諸藩は積極的に推進します。
(河口干拓)
現在のような河口域の青田風景は近世に出来上がります。
それまで河口域は豊富な水があることにはまちがいありませんが、一度大雨となると田畑は根こそぎ流されるハイリスクな場所となっていました。
中世から近世にかけて日本の農業とりわけ稲作は、谷あいの筋に作られ<谷戸田><谷池田>と呼ばれるエリアに集中します。
江戸時代に入り、河口部、湖沼部の開墾事業が<官><民>で盛んに行われるようになります。特に民間の事業者は開墾事業(干拓・埋立て)をすることで新たな土地の所有権や、名字帯刀などの名誉も受けられたため積極的に事業申請が行われます。
この頃、江戸に港都横浜誕生の恩人が登場します。
千住中村の音無川流域の湿原の干拓事業に成功し、木材・石材の販売や新田の農業経営に才能を発揮した江戸の木材・石材問屋「吉田 勘兵衛良信」です。
彼は、江戸での事業を果敢に進めますが、幕府に申請した目標千石に至りませんでした。
そこで勘兵衛は関東近在の候補地から久良岐郡戸部村近くの大岡川河口に広がる深い入海に着目します。
十七世紀中頃の話です。
この頃、多くの事業家達が江戸近辺の候補地探しを実施していました。簡略図をみても明らかなように、江戸時代に河口は「帷子川」「大岡川」の二つありました。勘兵衛は何故「大岡川」河口を選んだのでしょうか?
詳細な理由は資料が無いため判りませんが、この大岡川河口地を選択したことが後に都市横浜を育てた大きな要因となっていきます。仮説がありますが、いずれまとまった時点で紹介します。
(干拓事業)
1656年(明暦2年7月17日)に干拓事業を開始し釣鐘形の入り海を挫折を含め11年の歳月をかけて完成させます。
大岡川入海に誕生した新田は約35万坪、横浜近辺の干拓事業の中では一番早い<大普請>となりました。
横浜の歴史で必ず習う「吉田新田」が開拓されることで、<横浜開港>が現実のものとなります。干拓前の入海状態では、国際港を支える<開港場>の形成は難しく日本側も欧米列強側も<横浜港>議論にはならなかったに違いありません。
もし?帷子川河口が先に<干拓>されていたら、その後の横浜史が大きく変わったことは間違いないでしょう。
ここに歴史の<イフ>の面白さが広がっていきます。
大岡川河口域の<入海>と帷子川河口域<入海>=袖ヶ浦を比較すると
農業経営に適した新田事業候補地として考えた時
帷子川河口域<袖ヶ浦>干拓は非現実的でした。
神奈川宿(湊)に近い帷子川河口域芝生村近辺は、東海道筋にあたり帷子川を使った水運経済が盛んだったことで干拓する理由がありませんでした。
一方の大岡川河口域の<入海>は、江戸中期には河口域の半分が遠浅で船の利用が難しくなっていたようです。
しかも<入海>全体をまとめて干拓するスケールメリットがある点も
勘兵衛はこの地に着目した点でしょう。
これに対して帷子川河口域<袖ヶ浦>の干拓事業は、江戸後期に沿岸部が徐々に部分的に進められます。事業の直接のきっかけが宝暦の「富士山噴火」でした。神奈川県一円に大量の火山灰が降り落ち、上流の支川に流れ込み入江に沈殿するようになります。
川を使っていた帷子川河口域の人たちは必要に迫られて河岸の整備(埋め立て)を幕府に申請します。一方で、河口でこれまで水運事業をすすめてきた勢力とは、入海の利用を巡って係争の記録も残っています。
帷子川河口域は挑戦しつつも失敗、挫折を繰り返し新田を開拓していきました。
(帷子川河口域の新田史)
1707年(宝永4年)
宝永大地震の49日後に、富士山が中腹から大噴火が起こります。
徳川吉宗の新田開発推奨により尾張屋新田・藤江新田・宝暦新田など帷子川河口の岸沿いに「塩除け堤」を築き小さな新田開拓が行われます。
1761年(宝暦11年)
検地を受け宝暦新田(大新田)<干拓洲>となる。
1779年(安永8年)
検地を受け尾張屋新田<2町7反>となる。
→開発者の尾張屋九平次、その子武平治に引き継がれますが、頓挫し開発権は藤江、平沼両氏に譲ることになります。
1780年(安永9年11月)
検地を受け安永新田<干拓洲>となる。
1817年(文化14年)
検地を受け藤江新田となる。
→藤江新田を手掛けた藤江茂右衛門も挫折。残りの権利を岡野勘四郎に譲ります。
(岡野・平沼)
1830年(天保年間)
程ヶ谷宿の豪商 平沼家と岡野家が大規模な干拓事業を開始します。
1833年(天保4年)
岡野新田鍬入れ
1839年(天保10年)
検地を受け岡野新田となる。
1845年(弘化2年9月)
検地を受け弘化新田となる。
1864年(元治元年)
さらに検地を受け岡野新田拡大。
しかし、完全に帷子川河口埋め立てが完了したのは大正時代でした。
(大岡川河口新田史)
1656年(明暦2年)
吉田勘兵衛、江戸幕府から、新田開発の許可を得た。
1656年9月5日(明暦2年7月17日)
吉田新田 鍬入れ式
1657年6月21日(明暦3年5月10日)から13日(6月24日)まで
大雨で潮除堤が崩壊
1659年4月2日(万治2年2月11日)
吉田新田 工事を再開 土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島
1667年(寛文7年)
吉田新田 完成
1669年(寛文9年)
功績を称え新田名を吉田新田と改称
1674年(延宝2年)
公式の検地、新田村となった。
1804年〜文化年間
横浜新田完成
1850年代
太田屋新田事業着工、完成
1859年11月10日(安政6年)
太田屋新田沼地を埋め立てて港崎町を起立し、港崎遊郭開業。
1859年7月1日(安政6年6月2日)
横浜港が開港する。久良岐郡横浜村が「横浜町」と改称。運上所周辺には駒形町が、太田屋新田の横浜町隣接地には太田町
1864年(元治元年11月)
野毛山下海岸を埋立て石炭倉庫6棟が竣工。桜川の誕生。
(まとめ)
吉田勘兵衛が、江戸で成功し新たな事業として大岡川河口干拓に着手。
農業事業として干拓を考えたため事業リスクはありましたが一気に<入海>全体の干拓事業を構想したおかげで まとまった港の後背地が誕生します。
宝暦の富士山噴火で入江に大量の灰が流れ込み帷子川河口域の埋立てが促進されます。沿岸の人たちが必要に応じて順次埋立てを進めていきます。
なかなか全域の埋め立てには至りませんが、入江の埋立て全体の骨格が形成されていきます。この入江のエッジが開港場の要となった<横浜道>筋となります。
ペリーが来航し、一気に横浜開港へと歴史が展開します。
二つの大きな入江が、それぞれの自然条件とここに関わる人々の情熱が重なり合うことで、横浜が<開港場>として誕生することができたのです。
※斎藤司先生の講演を元に構成させていただきました。
No.699 【横浜 失われた風景】ある総菜店
1990年代、戸部駅近辺に事務所があって良く買った総菜店があります。
当時は写真なんて考えていなかったので記録はありませんが、魚のフライがめちゃくちゃ美味しいお店でした。
コンビニでライスだけ購入して総菜はここで揃えるランチに凝った時期もありました。
この店の名は「たかさご亭」。国道一号線沿いにある知るヒトぞ知るお店でした。
横浜の総菜店として紹介したことがあります。
この時お店の名は伏せて欲しいとの要望があり「店名は秘密」としました。
<横浜18区のほん「横浜の食材」>
国道一号線を戸部駅あたりから保土ケ谷駅方向に走ると左手に、セットバックせず拡張工事から取り残されているような“一見 立ち退き反対のような”建物が2軒あって、その一つが総菜店「高砂亭」看板は「たかさご亭」とひらがなになっていました。
一方反対側にはこれまた取り残されたように「理容店」と「酒屋」が営業中で、他に数軒閉店した店舗が並んでいました。時系列ははっきり記憶していませんが
理容店・酒屋が閉まった後も「たかさご亭」は営業していて、コロッケを買いました。
お店には 時折 笑顔がすてきなおばあちゃんがいらして立ち話をしたものです。
このあたりの国道1号線拡幅工事のための土地買収が始まったのがバブルの直前で、以来四半世紀遅々として進んでいないのが現状です。京急戸部駅の拡幅に対応した工事が終了してるので、そろそろ最終工事に入るかな?という状況ですね。
元々 このあたりは1928年(昭和3年)9月に扇田町となり戦後の1966年(昭和41年)に西区中央となったエリアです。扇田のなごりは石崎川に架かる「扇田橋」くらいですね。
おばあちゃんの話では「たかさご亭」は戦後まもなく義理のお兄さんが開店したお店が始まりだとか。区役所があり市電「扇田駅」近くということもあり商売は順調だったようです。
先日、閉店した「たかさご亭」前を通ったら閉店の張り紙に多くの方の書込みがありました。心温まるメッセージですね。
もったいないので記念に撮っておきました。
人づての話では、国道拡幅計画に対し、反対ではないがお店を移転して営業するつもりは無いので、ぎりぎりまで営業したいという意向があったようで、計画進行が遅れることにともなってこの店の命も長らえたというところのようです。また一つ 横浜から時代の記憶が消えていきました。
No.697 【一枚の横浜絵葉書】昔の絵葉書風景を読む。
戦前の絵葉書の役割は現在の絵葉書とは少し異なります。<観光>に加えて<ニュース性>のある絵葉書が多く発行されています。
今回は一枚の読み解きにくい<風景>を探索します。
「Yokohamashi Zenkei 横浜市全景」
<港>や<水際>の無い横浜の全景絵葉書です。あまりに場所がわかりにくい<風景>ですね。ランドマークが良く判らない風景です。横浜全景なのに港がありません。港の無い「横浜」は市域拡張後の横浜では普通ですが、「横浜市全景」をタイトルにしているところから開港場周辺であるとは疑いがないでしょう。ということは、戦前の<組絵葉書>の可能性があります。
港の風景と住宅街の風景を対比させているかもしれません。
が、この絵葉書に写し出されている情景のみで“すこし”読み解いてみましょう。
(ヒントとなるものを探す)
「横浜市全景」という表現からこの風景が1889年(明治22年)から1927年(昭和2年)の市域拡大前の時期ではないかと推理しました。さらに1923年(大正12年)の関東大震災以前ではないかとも推理できそうです。
次に遠景から、地平線に稜線があり、この風景の撮影ポイントもある程度の高いところからと思われます。初期の横浜の特徴を良く顕している<山手側>か<野毛山側>であることは間違いないでしょう。
では、山手側・野毛側?どちらでしょうかと推理してみます。その前に、
ここで一点考えておかなければならない“要素”が「逆版」です。一応逆版画像も紹介しておきます。
<トーンを変えています>
昔の写真や絵葉書には時折この<逆版>がありますので注意しなければなりませんが、今回は参考程度に留めておきます。
稜線の高さが一定に見えるように視界が開け、さらには開港場の洋館などがあまり見えない場所はどこか?
その前に、この風景に写っている<ポイント>を探します。
画像を右下から左上に向け対角線状にかなり広い道路が走っています。
※電信柱から十四・五連の大きさを読み取ることができます。
この通りに沿って、商家の家が連なっています。
ここに通りと川筋を私の推測で引いてみました。
遠景に教会・仏閣が見えます。さらに目を凝らしてみると 左上ゾーンには和風の甍が無いことがわかりますので、もしかしたら元町方向かも?しれません。
稜線の上には建物らしき影もあります。
さらに基本的な風景情報としてこの<光景>は朝焼け?夕焼け?
これらの情報をもう少し織り込んで さらなる謎解きを続けます。
(今回はここまで)
さらに探索を続けます。
この情景は、震災で崩れた「百段坂」上からの開港場風景です。目前に堀川端がはっきり見えています。今回の謎解き風景には道路が一切見えておりません。おそらくもう少し低い位置からの風景と推理できます。
<百段坂>階段中腹としても目前に広がる風景には少し違和感を感じます。では上記画面左端のあたりから見たらどうでしょうか?そうすると<遠景>の建物がかなりマッチするように思えます。
(20150120)時点での中間報告です。
No.695【横浜路線バスの旅】市民に最も利用されている路線は?
最近、路線バスに少しハマっています。
市内で最も広く・多くの市民に愛用、利用されている路線バスはどこだろう?と考えました。
私の直感的推理では<旭23系統>と考えています。
乗降者総数では他にナンバーワン路線があると思いますが“広く・多くの市民に愛用、利用”となるとこの<旭23系統>でしょう。
理由は至ってシンプルで「運転試験場」と「がんセンター」があるからです。
<旭23系統>=二俣川駅〜運転試験場〜二俣川駅の循環バスです。
神奈川県警察運転免許試験場、多くの利用者には「二俣」または「二俣川」で通じるでしょう。
二俣川運転免許試験場、1963(昭和38)年10月に開設していらい半世紀50年が経っていることになります。
https://www.police.pref.kanagawa.jp/mes/mes83001.htm
統計からアバウト計算すると、神奈川県の年間免許交付数が約97,000人(平成24年度)ですから半世紀で人口変動や書き換え等の利用者も加味し約500万人位?
内横浜市民が人口比から200万人位の利用かな?
冒頭にも書きましたが
人数は別にして、市内全域から市民が利用するバス路線はここしか無い!
と思っているのですがどうでしょう。
「運転免許試験場」のある横浜市旭区中尾周辺は<旭区神奈川県>
と呼んでも良いくらい県有地と県関係の施設が集中しています。
行政用語でいう「広域利用圏をもつ公共施設」が多く立地しています。
このエリアの県有地は総面積で約26.7haもあるそうです。
●神奈川県立産業技術短期大学校
●神奈川県立二俣川看護福祉高等学校
●神奈川県立よこはま看護専門学校
●神奈川県立公文書館
●神奈川県国際研修センター
●県立保健福祉大学実践教育センター
●神奈川県立がんセンター
●がんセンターあゆみ園
●神奈川県ライトセンター
●県立がんセンター医療従事者公舎
●災害救助用備蓄物 資保管倉庫
●公益財団法人神奈川県少年少女育成指導協会
※日本ボーイスカウト神奈川連盟事務局
※公益社団法人ガールスカウト神奈川県連盟
※一般社団法人神奈川県子ども会連合会事務局
■県職員二俣川アパート
ざくっと探しただけですのでこの他にもあるかもしれませんが、行政機関集中地区です。ここへの利用者も加味すると、<旭23系統>は広範囲の利用率が高い路線バスといえるのではないでしょうか?
その割にといってはなんですが、バス利用が不便ですね。二俣川ライフ(駅ビル)の一階にバスターミナルがありますが、初めての方にはちょっと探しにくい場所ですね。
駅ビルの途中で この案内指示を見逃すと彷徨ってしまいます!!!!
改札には大きく掲示されていますが?出て見ると 一瞬わからなくなります。
この「二俣川駅」
開業は神中鉄道時代の1926年(大正15年)5月12日と古く、交通の要衝でもあったため歴史的にも面白いエリアです。現在は相鉄いずみの線との分岐点です。
神奈川県施設集中の中で地味ですが気になっていたのが
「神奈川県ライトセンター(指定管理者:日本赤十字社)」です。
http://www.kanagawalc.org
ここでいう“ライト”が視覚障害福祉のための“ひかり”を表すものだったとは知りませんでした。
「ライトセンターは神奈川県内の視覚障害福祉の向上のために、日本赤十字社の基本理念である「人道」「公平」を掲げ視覚障害の皆様のために、視覚障害援助ボランティアの皆様のために、積極的に業務を行わせていただいています。」
「神奈川県ライトセンター」は県内の視覚障害者に対して、「点字・録音図書」などの情報提供や各種相談・指導を行っている施設です。
さらに視覚障害者へのボランティア活動を志す人達の育成・指導なども行ってるそうです。設立は1974年(昭和49年)4月、運営は日本赤十字社が指定管理者として行っています。この神奈川県ライトセンターの特徴の一つが“視覚障害者を対象とした点字図書館と体育館・プール等の利用施設機能を併設したセンター”で他県には例がないと言われています。
現在の建物は1993年(平成8年)10月に竣工し現在に至っています。
(バリアフリー商店街)
もう一つ「二俣川銀座商店街」は90年代に「地域と人にやさしい躍動感あふれる街づくり」をコンセプトに、高齢者や障害者にもやさしい街づくりを推進し別名”フラット通り”商店街としていち早くスタートしましたが、完全にバリアフリー化まで達していません。これは商店街の責任ではありませんが、せっかくパイオニアとして”フラット通り”商店街を推進したのですから、ライトセンターとコラボし もっとやさしい街づくりを推進して欲しいですね。
※バスはまだまだ 高齢者や障害者には厳しい乗り物です。
ベストは<低床車両>ですがこれに関しては抜本的計画が必要になってきますね。
(南口再開発)
二俣川駅というのは何気なく利用していますが、断崖絶壁中腹に線路があるって感じの駅です。
駅南口は改札を出て登り!
駅北口は改札を出て降り。
南側には「グリーングリーン」というショッピングビルがありましたが、2014年9月に閉店し、目下再開発が始まるところです。
新線計画も進んでいるところですので もう少し伸びるか?
注目しておきたい駅です。
路線バス<旭23系統>から少し離れましたが、追々市内路線バスも紹介していきます。