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No.320 11月15日(木)ラッピングが似合う街

11月15日をネタに軽く「乗り物」系を紹介しましょう。
今日は、2000年(平成12年)11月15日(水)から横浜市「車体利用広告物特例許可実施要領」が実施されました。ついでに、
1984年(昭和59年)11月15日(木)に金沢シーサイドラインの起工式が行われた日でもあります。開通は横浜博のあった1989年(平成元年)7月5日(水)でした。

2008年 森日出夫さんの写真がラッピングされた相鉄線

(屋外広告規制)
先に横浜市「車体利用広告物特例許可実施要領」について。
条文によると
1 趣旨
この要領は、横浜市屋外広告物条例施行規則第6条第1項第8号オの「市長が特に認める広告物等」の適用に係る特例許可広告物の取り扱いについて、必要な事項を定める。

これだけではよくわかりませんが、

「2 適用範囲」ではっきりします。
「この規定に及ぶ範囲は、横浜市内を走行するものに限る。」
要は、
市内の電車、バスの車体全面広告(ラッピング)が可能になった日です。
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/kigyo/newstopics/2011/t20120301-8711-03.html

 

 

最近、バスや電車の車両を広告媒体にしている「ラッピング車両」が増えました。バス停、ネーミングライツ等々、行政の収入源拡大施策の一つです。
「ラッピング車両」は(お辞めになった)石原東京都知事の“一声”で2000年(平成12年)東京都交通局が路線バスに採用したことで、これまで全面広告バスに消極的だった自治体にも普及し、現在では日本各地で見られるようになっています。「ラッピング車両」は別にそれまで禁止されていた訳では無く、諸条例の整備で簡単に実施できる案件でした。
現実に、2000年以前にローカルバスや鉄道を“町おこし”でペインティングしたケースがありました。古くは江ノ島電鉄が有名です。
2000年の東京都交通局の「ラッピングバス」実施は、前例に倣う突破口となった訳です。

現在横浜市内では、市営地下鉄が定例の「ラッピング電車」を走らせています。なんと、
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/sub/tokubetsu/
日別時刻表まで公開しています。

他に、市内鉄道会社もイベント等で都度「ラッピング電車」を実施しています。


バスの「ラッピング」も広告・イベント告知・キャンペーン等に随時利用されています。

2008年(平成20年)9月 
トリエンナーレデザインラッピングバス
最近では「2012映画プリキュアオールスターズ」タイアップ

 


プリキュアラッピングバスが2012年(平成24年)3月3日(土)〜5月6日(日)まで運行され、確かにファンがカメラを持っていた記憶があります。
その他「FIFAワールドカップ」「虐待防止キャンペ ーン」「ヨコハマはG30」といったキャンペーンを見たことがあります。注意深く観察すればもっと運行していると思います。

(ラッピングが似合う)
横浜市内唯一の案内軌条式鉄道※「金沢シーサイドライン」にもデザインされた車両が走っています。開放感のある景色に溶込む(私は)ラッピングが似合う路線と感じています。


※走行路面上を中央または側壁にある案内軌条に案内輪をあてて、ゴムタイヤで走行する交通機関。
「金沢シーサイドライン」は冒頭にも表記したように1984年(昭和59年)11月15日(木)に起工式が行われ、5年かかって完成しました。JR根岸線「新杉田駅」と京浜急行「金沢八景」駅を結んでいます。当時の建設省・運輸省の指導による「新交通システムの標準化」第一号事例として進められましたが、開業当初から乗客数が伸び悩み赤字路線として市議会でも議論となりました。

Wiki

現在は、周辺住宅の増加、三井のアウトレット開業、八景島シーパラダイスの奮闘等により徐々に黒字化しています。

 

 

 

現在「金沢八景駅」は仮駅扱いととなっています。計画路線では、京急金沢八景駅まで乗り入れる予定でしたが、地権者との交渉が進展せず未着工のままで運行されていました。


2008年度、金沢八景駅東地区土地区画整理事業が認可され、2016年(平成28年)度の完成を目指し2012年(平成24年)に京急駅舎付近までの延伸に着工しています。


※開業以来、22年間連続10期にわたり無事故運転で表彰されています。
一昔前、金沢八景駅から更に延伸して「大船駅」までつながるという“噂”を聞きましたが(本当だとしても)この状況では難しいでしょうね。この辺の話しは別の機会に…。

No.319 11月14日(水)東のヨコシネ(加筆修正)

今日は映画に因んだ話しを紹介します。
たまたま「ハマことば」(伊川公司)神奈川新聞社を読んでいたら
「ヨコハマシネマ」という項目が出てきました。
今日はこの「ヨコハマシネマ」こと「横浜シネマ商会」の話しです。

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横浜シネマ商会は1923年(大正12年)に創業した現像・映像企業です。
現在は(株)ヨコシネ ディー アイ エー(英文名:YOKOCINE D.I.A. INC.)と商号を変更しています。
http://www.yokocine.com

(ヨコハマシネマ)
「ハマことば」(伊川公司)の「ヨコハマシネマ」の項には、
「戦前の記録映画とアニメーション映画には必ず「ヨコハマシネマ(横浜シネマ)」という文字があります。(中略)横浜市神奈川区の素封家に生まれた佐伯永輔という人が大正十二年(一九二三)年一月に横浜シネマ商会を創立し、同区栗田谷の土地一万三千二百平方メートルに現像所を新築して映画製作を始めたとあります。」

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(創業者 佐伯永輔と仲間達)
横浜シネマは映画オールドファンにはよく知られた企業で、
映画黎明期に現像の世界で西の極東フィルム研究所(東洋現像所、現在イマジカ)、東の横シネと呼ばれていました。
横シネ創業者の佐伯永輔(さえきえいすけ)は米国留学後、
横浜市中区の都橋際で
1920年(大正9年)「都商会」という写真器材店を創業しました。
写真材料の「都商会」から映像(動画)制作・フィルム現像の企業を立ち上げ国内トップクラスに育て上げたのは彼の人柄から生まれた“出会い”からでした。

(風来坊)
横シネに欠かせない人がいます。
広島県出身でカメラ技術を独学で習得した後、
長谷川伸二郎(後の長谷川伸)の下で横浜毎朝新聞社の記者として働いていた“相原隆昌”という人物です。
ブッキラボウな彼は、広告の撮影をしながら個人でフィルムの現像、焼付けも行なっていたカメラマンでした。横浜毎朝新聞社を辞め、中央新聞横浜支局に転じ花柳界・演芸関係を担当しますがまもなく辞職し姿見町にしる粉店を開業します。
経営は上手くいかず1918年(大正7年)オデヲン座に就職します。
座主平尾榮太郎に見いだされた相原隆昌は、同座の仕切り場員に就き動画に深く関わることになります。

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この頃、都橋の「都商会」に来店し いきなり佐伯永輔に
「活動写真をやっているそうだが、カメラを貸してくれないか」と持ちかけたそうです。佐伯は商売の機材として撮影機を扱ったことはあるが技術的には未熟だったためこのブッキラボウな相原隆昌からノウハウを入手しようと「現像現場」も見せてもらうことを条件に、貸し出します。

(風呂場で現像)
動画フィルムの現像技術を知るために相原の現像所を訪れると、「横浜シネマ商会」という看板のあるそこは病院の看護婦が使用する“お風呂場”だったそうです。場所はともかく現像の腕前は中々のものだったのでしょう、二人は意気投合し終生のパートナー上野幸清(カメラマン)と「合資会社横浜シネマ商会」を1923年(大正12年)1月に設立します。
同年5月に会社を神奈川区栗田谷に自宅兼現像所を置きます。

Wikiより現在の社屋

その後、震災前にオデヲン座の絵看板やタイトル画家だった
天才アニメーター村田安司が加わり、アニメーションの世界にも進出します。
※村田安司(1896〜1966)は、動体の切り紙を背景画の上に載せて撮影する切り抜き漫画映画の名手と言われた。1923年に設立された横浜シネマ商会(現在は横シネDIA)に長く勤め、34年に切り紙とは思えない緻密で流麗な動きの代表作『月の宮の王女様』を制作したほか、数多くの作品を残した。

(アニメとドキュメンタリーのハマシネ)
「横浜シネマ商会」が制作する村田アニメ、
上野幸清の撮る報道映画は当時のオデヲン座始め全国で大ヒットします。
中でも報道ドキュメンタリー映画は当時各社競争の中、行動力が鍵でした。
例えば「横浜シネマ商会」の佐伯、上野コンビは 1936年(昭和11年)アマゾンとブラジル移民を現地取材します。
当時の新聞には
「先ずブラジルでは邦人のコーヒー栽培、ついでアマゾニア移住地に向い、小ボートでマナオス一帯の大処女林まで遡航し珍奇な土人の生活や猛獣、さては飛行機上からアマゾンの全貌を収める等の活躍をなし 更にこんど新たに我移民を送ることになったパラグアイ国その他ウルグアイ、アルゼンチン、チリー、ボリビア、ペルーの七ケ国を歴訪」(神戸新聞)
この取材は「南十字星は招く」(昭和13年)として発表され「海の生命線」(昭和8年)、「北進日本」(昭和9年)と併せて横浜シネマ三部作として歴史にその名を残します。

(戦後も独自技術を活かす)
戦後、1953年のテレビ放送開始に先立ってNHKは機動性や速報性を重視しし35ミリではなく16ミリフィルムを使うことを決めます。ところが16ミリフィルムの現像施設が少なかったことから、横浜・神奈川区に現像所と編集室を整備していた「横浜シネマ」が受託し東京・内幸町の放送会館と横浜とを自動車で往復してフィルムを運んだというエピソードが残っています。(その後NHK独自の設備が整備され特急受注はなくなります)

(シェアする心)
1936年(昭和11年)いち早く海外の最先端機器を導入し使いやすく機能アップの改善改造しその技術の普及にも貢献します。
この改善型は1955年(昭和30年)に新型が米国から導入されるまで日本国内の主流現像機として活躍します。

※長谷川 伸
(はせがわ しん、1884年(明治17年)3月15日〜1963年(昭和38年)6月11日)は日本の小説家、劇作家である。本名は長谷川 伸二郎(はせがわ しんじろう)。使用した筆名には他にも山野 芋作(やまの いもさく)と長谷川 芋生(はせがわ いもお)があり、またそのほか春風楼、浜の里人、漫々亭、冷々亭、冷々亭主人などを号している(筆名が多いのは新聞記者時代の副業ゆえ名を秘したためである)。
「股旅物」というジャンルを開発したのはこの長谷川であり、作中できられる「仁義」は実家が没落して若い頃に人夫ぐらしをしていた際に覚えたものをモデルにしたという。

この「横浜シネマ商会」は1923年(大正12年)1月1日創業で、戦後1950年(昭和25年)11月14日(火)の今日、「株式会社横浜シネマ現像所」として設立されます。
1993年(平成5年)CI導入と同時に株式会社ヨコシネディーアイエー
(YOKOCINE D.I.A. INC.)に商号変更されました。

No.315 11月10日(土)オンリーワンEV

先ほどまで“横浜市営バス運行が始まった日”で原稿をすすめていましたが、
記念日一覧で思い出したことがあってこちらに急遽します。
11月10日はいろいろな記念日になっています。
その中から横浜に因んだ記念日を紹介します。
「11月10日エレベーターの日」です。
日本エレベーター協会が1979年(昭和54年)に制定しました。由来は1890年(明治23年)の今日、東京・浅草の「凌雲閣」に日本初の電動式エレベーターが設置され一般公開された日に因んでいます。

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(エレベーターといえば)
横浜にも創業90年の歴史を誇る「横浜エレベータ株式会社」という会社があります。この会社、数ある大手エレベーター会社には無い「オンリーワン」で勝負しています。
www.yokohama-elevator.jp
創業は1923年(大正12年)エレベーターの専業メーカーとして神奈川・東京首都圏を中心に全国各地に多様なエレベーターを納入しています。
特に荷物用・油圧式エレベーターに強みを持つ会社です。
「2007年にはかごの中をガラス張りにし、油圧ジャッキのみの昇降路とガイドレールをなくした『テレスコ式』エレベーターを制作納入。特許を得ているほか、業界誌『Elevator World』(エレベーターワールド)Project of the yearを受賞している。」(Wiki)
このガラス張りエレベータが最も似合う場所が「横浜国際客船ターミナル」で米国の業界紙「エレベーターワールド」主催のコンテストで1位になった実績があります。

2009年『Elevator World』
Category 1: Elevators, New Construction (tie)
Nicolas G. Hayek Center — Yokohama Elevator Co., Ltd.
http://www.elevatorworld.com/Extras/01_09/extras.html

1923年 – 横浜エレベータ商会として創業。
1946年 – 富士美興業株式会社設立。戦後、GHQより日本全国のGHQ施設のエレベーターの復旧工事と性能検査を受託することにより事業を発展させ、今日の基礎を固めた。
1949年 – 横浜エレベータ富士美興業株式会社に社名変更。
1952年 – 自社製エレベーター開発、販売開始。
1959年 – 横浜エレベータ株式会社に社名変更。
1963年 – パウルシュミット社(ドイツ)と販売技術提携。
1966年 – 油圧エレベーターの開発、販売開始。
1976年 – 寶組勝島倉庫に積載量50トンの油圧式エレベータを納入。
1995年 – エスカレーター販売開始。
2004年 – 横浜国際客船ターミナルに納めたエレベーター(ガラス張り・ガイドレールレス)が米国の業界紙「エレベーターワールド」主催のコンテストで1位に。

(実績)
横浜高速鉄道みなとみらい線 日本大通り駅(乗用/機械室レス、シースルー)

大さん橋国際客船ターミナル(人荷用/シースルー、テレスコフレーム)

磯子区総合庁舎(乗用)

横浜市交通局立場駅地下鉄1号線(乗用)

横浜市営勝田住宅 (住宅用/階段室型エレベーター)
横浜市立大学医学部付属市民総合医療センター (寝台用/ヘリポート)
かながわ労働プラザ(乗用/3台群管理)

http://www.zai-roudoufukushi-kanagawa.or.jp/~l-plaza/
横浜市営 勝田住宅第7期1工区 (住宅用/階段室型エレベーター)
神奈川県警察 港北警察署 (乗用/機械室レス・トランク付)
横浜ランドマークタワーロイヤル (人荷用)
川崎市立岡本太郎美術館 (乗用)
横須賀市美術館(乗用/シースルー)

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金沢21世紀美術館 (乗用/シースルー、テレスコフレーム)
津久井赤十字病院 (寝台用)
東京都現代美術館 (乗用/シースルー)
羽田空港 第1旅客ターミナルビル (乗用)
東京ドームシティMEETS PORT (荷物用/3枚戸上方開き)
東京ドームシティMEETS PORT (人荷用/機械室レス、3枚戸横開き)

※さすがにエレベーターに関しては撮影していないものだ!と実感。
観察力アップしないと反省しきり。

【番外編】横浜の橋物語 (改訂版)

横浜市内に1,700橋がありますが
橋の数が一番多い区はどこでしょうか?
そして 一番橋の少ない区は?

■横浜市内の橋梁数、区別数字が少々異なります。
第90回横浜市統計書による市内橋梁数
※( )内は道路局2004年度の所在地別カウント
旭土木事務所管内 158(154)
戸塚土木事務所管内 146(154)
青 葉土木事務所管内 135(136)
泉土木事務所管内 119(124)
保土ケ谷土木事務所管内 135(117)
神奈川土木事務所管内 110(115)
港南土木事務所管内 117(112)
都 筑土木事務所管内 99(105)
金沢土木事務所管内 97(101)
栄土木事務所管内 95(92)
緑土木事務所管内 84(83)
瀬谷土木事務所管内 81(76)
港北土木事務所管内 61(58)
磯子土木事務所管内 64(56)
西土木事務所管内 58(51)
中土木事務所管内 65(47)
鶴見土木事務所管内 33(46)
南土木事務所管内 43(45)
横浜市内総計  1,700(1,672)

※旭区が一番多いというのは、横浜通の方にも意外だったのでは?

旭区橋梁マップ

では一番橋の少ない区は?
鶴見土木事務所管轄で33です。
意外?だと思いませんか?
鶴見川がイメージされますから、橋も多いような感じですが一級河川「鶴見川」は河口に近い一部分が鶴見区でしかありません。

(都橋雑景 横浜で超有名な橋?の一つです。)

(都橋の鳩?ここは鴎が似合います)

■鶴見区東寺尾・北寺尾 響橋
通称「めがね橋」かながわの橋100選
1941年(昭和16年)竣工
鉄筋コンクリート製アーチ橋
橋長は48メートル

■鶴見区梶山 梶山橋
 スペック?私のお気に入り橋の一つです。

■横浜で最も有名なベイブリッジです。
No.381 1月15日(火)素材ベイブリッジ

私は「つばさ橋」の方が好きですね。

No.356 12月21日(金)世界一の斜張橋■中区 港1号橋梁(汽車道に架かっています)

 
(万国橋も良いですね)
 

■中区 桜川橋 桜が似合います

自動車専用道路に架かる橋 さてどこでしょうか?

歩行者専用の橋を「人道橋」といいます。
結構多い!

■横浜駅東口長い歩道橋

橋の色にも個性があります。

線路を跨ぐ高架橋も橋ですね。架け替えに10年以上かかった平沼橋です。

橋?というべきなのか?シーサイドラインの風景です。

シーサイドラインの風景もいいですね!

歴史を感じる橋梁が横浜にも多く架かっています。

■すごいデザインですね。

一見 心もとない基礎の上に架かる橋ですがしっかりしてました。

大岡川の風景です。

最近橋もPRするように?大きな看板が架かっています。

橋がじゃま?似合う?見る人で変わる風景です。

ここはどこでしょう??
自転車ではすれ違うことが難しい細い歩行者専用道です。
通学路として架けられたと地元の人が教えてくれました。(鶴見川)

■新田間川河口に架かる「みなとみらい大橋」です。

※さて ここはどこでしょう。高速道路も橋の連続ですね。私の隠れスポットです。

No.306 11月1日(木)戸塚駅東口小史

nn1983-E5-B9-B4-E6-88-B8-E5-A1-9A-E9-A7-851今、東海道本線戸塚駅西口再開発が終盤を迎えています。
戸塚駅は東海道の宿場町にできた駅で、市内2番目の乗降客数を誇る横浜市内中核都市の一つで
しかし、駅前の不便さは長らく市内最悪の状態でした。
1986年(昭和61年)11月1日の今日、
再開発ビル「ラピス戸塚」が完成オープンしたのを皮切りに
戸塚駅東西再開発が本格的に始動します。

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東口にラピスが完成した頃の戸塚駅周辺

戸塚駅前はとにかく不便でした。日立村と呼ばれるほど、数多くの日立関連工場がある中、駅前は地権者の合意形成ができませんでした。(今日は東口の話しなのでこの辺の話しは控えめに)
駅横を二級河川境川支流「柏尾川」が流れ、江戸時代から栄えた宿場町があったことも起因してか、駅前の整備にはかなりの時間を必要とします。
都市計画上の戸塚駅再開発事業が計画されたのは昭和30年代です。再開発着工に半世紀以上の時間がかかりました。現在国道1号線の地下化(「開かずの踏切」解消)等が進み全ての計画完了には更に時間を必要とします。

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No.142 5月21日 戸塚は鎌倉?

(戸塚競馬に行こう)
東海道本線戸塚駅は開設された当初、宿場側の西口しかありませんでした。戸塚駅の開業は1887年(明治20年)7月11日、東京と国府津が開業した時にできた駅です。その後、1937年(昭和12年)に東口ができますがキッカケは「戸塚競馬場」を利用する客が急増したためです。

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戸塚競馬場は1933年(昭和8年)吉田町の水田を埋め立てて開場します。
現在の日立横浜工場がある場所で、一周1,600mだったそうです。競馬場に因んだ「駒立橋」のみが当時の痕跡として残っています。
年に二回、3月と9月の4日間しか開催されませんでしたが、
大踏切を渡るための人で埋め尽くされたため地元の要求で「東口」ができます。

 

「戸塚競馬場」は戦争中に軍用馬訓練場となり
1942年(昭和17年)に西口側の駅から離れた汲沢に移転します。
現在は汲沢団地横の戸塚高校となっていますが若干その名残(痕跡)が地図上からも確認できます。

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昭和の競馬場があった頃
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現在
県営汲沢団地

1949年(昭和24年)川崎に新しく競馬場が作られるのを機に、
1950年(昭和25年)戸塚競馬は閉幕します。
吉田町にある駒立橋の地名は、戸塚競馬場に因んだ名です。

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戸塚駅前を大きく変えるキッカケは、
1987年(昭和62年)に横浜市営地下鉄1号線(ブルーライン)が開通するにあたり、東口再開発計画が一気に進んだ事です。
駅前広場とバスターミナルが整備され、
1986年(昭和61年)11月1日にラピス戸塚が開店し戸塚の動線が変わります。
ただ、開通した市営地下鉄は、仮開業の状態でホームが短く後部2両の扉を閉鎖したまま停車する状態でした。
YES89会期中の1989年(平成元年)8月27日、ホームが完成します。
翌年の1990年(平成2年)3月に一応の東口地区第一種市街地再開発事業は完了します。

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さあ、次は西口か?
1994年(平成6年)に戸塚駅西口第1地区第二種市街地再開発事業都市計画が決定しますが、変更に次ぐ変更が続き事業着手は2007年(平成19年)、1962年から半世紀、都市計画事業決定から15年かかりました。
現在、西口開発の影響で東口は厳しい状況になっていますが、
東口のポテンシャルはまだまだあるので、今後の整備計画がスムーズに行く事を祈っています。

No.302 10月28日(日)全ての道は横浜に

今日は群馬県民の日です。
横浜と群馬の深い繋がりを紹介しましょう。

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(前段)地域ブランド力最下位
「7月、4回目の「地域ブランド調査」として都道府県の魅力や認知度など72項目をアンケートした。インターネットを通じて3万375人から有効回答があり、群馬については591人の回答を反映。過去調査で群馬の魅力度は40位台で推移しており、初めて最下位に転落した形になった。」
さらには
http://www.tsurumoto.com/tourism/2011/02/post-36.php
なんて調査も。上州人立ち上がれ!!!
草津や尾瀬、高崎、前橋では認知度があるのに「群馬」が弱いのはどうして?北軽井沢だって群馬県だよ!南関東の人間なら群馬産の野菜無しには「鍋」もできませんぜ!
この評価軸 神奈川県より横浜市という現象にも似てますね。県単位なんてナンセンスだと私は思うんですがね。まだ県民性(幕藩体制)は重いのかな?
群馬の観光
http://gtia.jp
→世界遺産に「富岡製糸場」が!これが群馬県の知名度に繋がれば良いのですが。
(序段)シルクロード
横浜と群馬の繋がりはまさに「シルク」、絹の道でつながっています。陸路でいけば国道407号線と国道16号線を使って一気に横浜まで南下する道がつながっています。

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一方水路は利根川下りで江戸前経由で横浜まで「絹の水路」がありました。
高島嘉右衛門が提言したといわれている日本最初の私鉄「日本鉄道」(現在の東北本線や高崎線、常磐線)も、絹の道があったからです。
その後東武鉄道が久喜と北千住を結ぶ区間で営業を開始しますが、これも絹産業があったためです。
■全ての道は横浜に
明治初期、日本の外貨獲得は殆ど「絹」残りを「お茶」で占めていました。絹とお茶無くして明治維新は成功しなかったのです。
その一大生産地が「群馬県」でした。
横浜から輸出される上州産の絹は厩橋(うまやばし)を語源に持つ前橋に集積され、鉄路、陸路、水路を使って横浜に運ばれました。

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前橋市マーク なんとシンプルな

そのため今も前橋には煉瓦の歴史的建造物が多く残されてます。横浜も前橋も最先端の煉瓦の街でした。

No.2669月22日(土)ハマの赤レンガ

ここで少し紹介した「旧下野煉化製造会社(シモレン)」は住所こそ栃木県ですが、群馬県に隣接しています。(下都賀郡野木町)

(中段)上州生糸商人見参
横浜を切り開いた実業家の中で、甲州と上・武州(同じ活動圏)の商人達は絹の取引を元に財を築きあげますが、街づくりに必要な資金を積極的に提供したことでも評価されています。横浜は商人によって整備されてきた街ともいえるでしょう。
群馬県出身で横浜と関係のある商人といえば
初代茂木惣兵衛(野澤屋)
伏島近蔵(初代前橋市長)
中居屋重兵衛
下村善太郎
左右田金作(銀行家)

埼玉県神川町出身の原善三郎と
富岡製糸場を経営した原三溪(富太郎)
http://www.sankeien.or.jp

(はまぎんに生きる上州)
シルク取引には金融機関が必要でした。当時の生糸商人は、銀行も設立します。第二国立銀行(原善三郎、茂木惣兵衛、吉田幸兵衛ら)そして第七十四国立銀行(伏島近蔵)
いずれも生糸貿易のために設立され、その後合従連衡の末、このシルクバンクは横浜銀行になっていきます。

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支店マップ左上に「群馬県」が

横浜銀行支店群の中で「群馬県」があるのは長いシルクの歴史があるからです。
http://www.boy.co.jp/cgi-bin/area.cgi?ac=15000
桐生支店群馬県桐生市本町6丁目371番地の2(0277)22-7131
高崎支店群馬県高崎市連雀町8番地の1(027)322-4411
前橋支店群馬県前橋市本町2丁目11番2号(027)221-9221
南群馬の拠点を現在でもおさえています。全て川の港近くに形成された中心部に位置しています。

No.283 10月9日 (火)三角菱のちから

1917年(大正6年)10月9日の今日、
創業期の三菱財閥の核となった三菱合資会社造船部の一切を引き継いだ(初代)三菱造船株式会社が設立されました。
この三菱造船株式会社はまだ長崎に拠点を持っていましたが、
東への拠点づくりの第一歩となりました。

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(三菱財閥の誕生)
簡単に「三菱」の歴史をレビューします。
“三菱”は戦前三大財閥の一つです。
土佐(高知県)出身の創始者、岩崎弥太郎と弟の岩崎弥之助(二代目)から四代の岩崎家によって築かれました。

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三菱社史

「三菱重工」の社史を読む中である特徴に気がつきました。
代が変わる毎に社名が変わっていきます。

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社史をもとに自作のためもしかしたら違っているかも

※三菱前史(1870年 明治3年九十九商会→1872年 明治5年三川商会)
初代(彌太郎)→三菱商会に改組し初代社長に就任
二代(彌之助)→就任の翌年に三菱社に改組
   日本郵船の誕生
三代(久彌)→就任時に三菱合資会社に改組
持株会社として造船業・鉱業・鉄道・貿易などあらゆる分野に進出します。

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四代(小彌太)→就任の翌年1917年(大正6年)10月9日に三菱造船株式会社を独立させます。
この三菱造船株式会社の独立こそが、後の「三菱重工業」1934年(昭和9年)につながります。

(横浜と三菱)
“三菱”は三井・住友と同様に西日本(長崎・大阪)を中心に拡大した財閥ですが、明治中期日本全国の貿易額の七割が横浜で取引されていました。三大財閥は「三井の番頭政治」「三菱の独裁政治」「住友の法治主義」とは言われていましたが、横浜を巡って仁義なきビジネスに火花を散らしました。中でも三井の渋沢、益田と三菱の岩崎の競争は横浜を舞台に様々な形で繰り広げられました。
 三菱が先手を握ります。横浜で日本郵船を(創業)独立させ、海運市場を席巻します。三井商船も巻き返しを図りますが、両社ともにネックを抱えていました。
横浜港には本格的な船舶修理・造船を行うドックがありませんでした。三菱は1875年(明治8年)に上海の造船業者ボイド商会と共同で横浜に三菱製鉄所を設立し船舶の小修繕にあたっていました。4年後には買収し三菱傘下の修理工場を運営しますが本格的ドックの必要性に迫られていました。そこで、日本郵船が核になり、地元経済界に有志を募り1891年(明治24年)に横浜船渠会社を内田町に設立します。

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三菱はこの年の前年1890年(明治23年)3月に
丸の内の兵営跡と三崎町の練兵場併せて約10万坪を購入。
これが現在の丸の内三菱界隈の基礎となります。
 ※東京駅1914年(大正3年)竣工

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(三菱造船 横浜製作所の誕生)
横浜船渠会社から横浜船渠株式会社となり
1897年(明治30年)に2号ドックが完成します。

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これが現在のドッグヤードガーデンです。

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追って1899年(明治32年)には現在日本丸が係留されている1号ドックが完成します。
三菱が丸の内に本社を構え、
横浜の港を確保し、
長崎から横浜に、
大阪から東京に比重をシフトした瞬間です。

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そして、財閥として事業拡大の中、
この横浜船渠株式会社は、1935年(昭和10年)三菱重工業に吸収され、
三菱重工業株式会社横浜船渠となります。

 

ここから氷川丸 、秩父丸(鎌倉丸)他数々の船が誕生しますがその多くが戦争で失われます。
奇跡的に「氷川丸」が残り、現在も山下公園先で、輝ける航路の記憶を伝えています。

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みなとみらいにある三菱重工ビル

(その他の三菱と横浜)
なんといっても、「麒麟麦酒株式会社」でしょう。
三代目岩崎久彌社長肝いりのビール会社です。
このキリンビールと共に横浜から大きくなった食品商社が「明治屋」です。
2月23日 麒麟麦酒株式会社創立

No.113 4月22日 甘辛両党おまかせ!

(番外編)
三菱マークの由来

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(余談の余談)

横浜線大口に本社工場がある三菱鉛筆は「三菱重工G」とは全く関係がありません。

スリーダイヤ・マークを使ったのは三菱鉛筆の方が先です。

No.277 10月3日(水)皮肉な緑地

10月2日に引き続き
米軍接収地返還の現状を紹介しましょう。
1948年(昭和23年)10月3日の今日、
旧日本海軍施設だった金沢区柴町他にある526,205 ㎡の敷地「小柴貯油施設」と水域約470,000 ㎡「小柴水域」が米軍により接収されました。

1977年現在の「小柴給油所」航空写真

(小柴貯油施設の経緯)
小柴貯油施設は米軍用の航空燃料用タンクが34基設置されていました。
この航空燃料を積み出すために、海までの運河と海上の水域も接収されていました。
10月2日に紹介した「根岸森林公園」の接収地域と同様に、飛び地のようなエリアです。


(平成16年)10月に日米合同委員会で、一部(約10ヘクタール)返還で合意しますが、全面返還を求め継続協議になります。
一年後の平成17年10月18日の米合同委員会で、陸地部分全域と水域の一部の返還が合意されます。
http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kichitaisaku/shisetsu/kyuukoshiba.html

(小柴水域)
http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kichitaisaku/shisetsu/koshiba.html
なぜ?この水域だけ残されたのでしょうか?
日米間の取り決めでは
使用条件
1 本水域は、合衆国船舶の停泊及び積荷の積み卸しのために使用される。
2 本水域が合衆国船舶によって使用されていないときは、一般船舶の通過を認める。ただし、本水域においては、合衆国政府の承認がない限り、ブイ、停泊用の鎖等に損傷を与えるような海底しゅんせつ、掃海、投びょう、魚釣り、底引き網及びその他同様の作業を厳重に禁止する。
とありますが、小柴貯油施設は返還し、
わざわざ海上で積荷の積み卸しもないでしょう?
潜水艦の休憩所???ですかね。
校舎の窓から海が良く見える高校時代を過ごしました。
相模湾ですが
授業中に沖にポッコリ潜水艦が浮かび上るのを見たことがあります。
  (昭和40年代のことですが)

小柴貯油施設返還が決定し、跡地活用の計画が現在調査を含め進捗中です。
「つながりの森」構想


横浜市南部の円海山周辺を中心とし、北西はいたち川から南東の小柴地区までを構想の対象エリアと設定しています。
目的は「横浜の生物多様性の宝庫」である「つながりの森」を 市民全体で、体感・感動し、次代、次々代につないでいく」ことにあります。
このプランから、返還された小柴貯油施設地域は、残された自然を生かした水辺や緑地の整備というイメージでしょうか。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/mamoru/tayou/tsunagari/

現在の空撮
敷地内、右が崖になり上部が給油施設
返還?されているのに
無人?ですが 米軍施設!って感じです。
小柴水域に続く運河、前をシーサイドラインが走ってます

「横浜市と米軍基地」
http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kichitaisaku/shiryo/pdf/h24/h24sassi/24sassi01.pdf
現在日米安全保障条約の下での日米防衛戦略上
 効果的な米軍配置がマネジメントされているのか?
防衛大臣
スリムで効果的な防衛計画を御願いするものであります。

No.272 9月28日(金)横浜の中の世界のノナカ

楽器業界屈指のラインナップを誇る
国内最大規模の楽器輸入会社といえば?
横浜に本社を置く「野中貿易株式会社」をご存知でしょうか?
世界中から弦楽器や打楽器、管楽器など様々な楽器製品を輸入している
専門貿易会社としてはわが国トップックラスの企業です。
1953年(昭和28年)9月28日の今日創業した、
横浜生まれの企業を紹介しましょう。

横浜は音楽が似合う街です。
童謡が育ち、国産ピアノが生まれ、ジャズやブルース、ライブハウスなど開港以来横浜に音楽は欠かせません。
野中貿易株式会社は、
1953年(昭和28年)9月28日に創業し、サクソフォンのBerg Larsen社の極東総代理店をきっかけに管楽器のノナカが華開きます。
以後、Wittner社、Puchner社、Vandoren社、Calato / Regal Tip社、H.Selmer社、Mayer Mouthpieces社、Springer Oboe社他数多くの楽器のトップブランド代理店として日本の音楽業界に貢献してきました。
この会社を知ったキッカケは、昨年山下公園で開催されていた「YOKOHAMA STEEL PAN FESTA2011」でした。つい最近、そういえば今年は行われたのだろうか?と情報を調べていく内に「野中貿易株式会社」ただ者ではない会社だと知りました。
キッカケのイベントは、
2002年から始まったノナカ共催の「YOKOHAMA STEEL PAN FESTA」
横浜の夏の音楽シーンを湧かせ2011年まで十回に渡って「赤レンガ倉庫」「金沢区海の公園」「ドックヤードガーデン」「山下公園」等で開催されました。
ここに登場する楽器が「スティールパン」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/スティールパン

wikiから

YOKOHAMA STEELPAN FESTA 2011
http://www.youtube.com/watch?v=6Z7BdajZNqY

Yokohama Steelpan Festa 2002
http://www.youtube.com/watch?v=u4hqowR07WA

「Steinway & Sons」は世界のピアノメーカー御三家の一つです。”世界のピアノの代名詞”と言われるブランドを扱う正規取扱店としてショールームを展開。
http://www.pfpf.jp

サクソフォンの野中貿易主催の“ノナカ・サクソフォン・コンクール”からは
西本淳
http://saxo-pokkun.blog.so-net.ne.jp
土井徳浩
http://blogs.yahoo.co.jp/tokuhirodoi
小山弦太郎、貝沼拓実、江川良子など現在のサクソフォン界をリードするソリストが登場しました。

「輸入プロフェッショナルサクソフォンの市場占有率は90%以上、輸入プロフェッショナルトランペットの60%、その他管楽器、マウスピース、リードなどのアクセサリー類において相当のマーケットシェアを占有し、海外有名メーカー総代理店契約および代理店契約も約50社を数えます。」(HPより)
http://www.nonaka.com/

野中貿易株式会社
本社住所: 横浜市中区太田町4-46 野中ビル
TEL 045-211-2022

2013年(平成25年)9月28日には設立60周年を迎えました。
横浜生まれのトップランナーの一社です。
横浜には、意外なオンリーワン企業が多くある街です。
今後も横浜が誇るオンリーワン企業をおりに触れ紹介していきます。

【番外編】(ざくっと横浜その1)村は川に沿って生まれる

【その1】村は川に沿って生まれる

※とにかくざくっと横浜を知るには?
と以前からいろいろ資料を組み合わせ
作ってみました。

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横浜も集落は川に沿って誕生しています。
横浜は谷戸(山と谷)の多い地域です。
横浜は大きく4つ(プラス)の川(水系)で構成されています。
鶴見川、帷子川(かたびらがわ)、大岡川、柏尾川(境川支流)
プラス(市境の)境川、入江川、侍従川、宮川
この図は
大正初期の横浜の村落と川の図です。
地名には谷、岡、川の名が多いですね。
一つの村にそれぞれ川筋が入っているのが判りますか?
川は「境界」でもあり、集落のヘソの部分でもありました。
①鶴見川流域 綱島・鶴見

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②帷子川流域 横浜駅・保土ケ谷・二俣川

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③大岡川流域 上大岡・関内・元町

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④柏尾川流域 東戸塚・戸塚・大船

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今後もざくっと行きます。