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No.48 2月17日 さよならYDL

本日も昨日に続き「さよならネタ」です。2002年(平成14年)のこの日、横浜ドリームランドが閉園しました。1964年にオープンし、38年の歴史に幕を降ろしたのです。(黄金時代にデートコースにした方も多いのでは)

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1983年YDL上空半分以上宅地化

横浜ドリームランドは、佐賀出身の歌舞伎役者、松尾國三が一代で築いた日本ドリーム観光が手がけたテーマパークの一つです。当時いち早くディズニーランドを模倣した奈良ドリームランド開園に引き続き三年後の1964年、横浜市戸塚区俣野町700番地に約1,320,000m²の規模でオープンしました。
「昭和の興行師」、「芸能界の黒い太陽」の異名を持った松尾國三の一生は、盟友だったダイエー創業者の中内功と大きく重なります。ワンマンの決断力が時代を切り開き、そのワンマンが自社を潰すという典型的な悲劇の企業モデルです。
約1,320,000m²が閉園時には145,776m²しか無く、土地を切売りしながら必至に活路を見出そうとした姿はあわれな末路というほかありません。
横浜ドリームランドをめぐる顛末はネットで様々な情報が提供されています。貴重な教訓として一度レビューされることをお勧めします。
横浜ドリームランド、開園当初の方向は正しかったと思います。(ディズニーランドコピーの是非は別ですが)遊園地やボウリング場、スケート場、ショッピングモール、映画館そして高級ホテルを備えたレジャー施設でした。
決定的失敗要因は、モノレールの欠陥による運転休止につきます。というより、送客設計の甘さです。原宿のボトルネックを軽くみたことが全ての運命を決定づけました。
車社会が急速に発展する中、国道一号線原宿交差点付近は神奈川有数のボトルネックと当時も認識されていました。原宿はXポイント、つまり二方向から車が集中し、二方向に分かれるネック部分にあたっていました。横浜新道と一般国道が合流する「戸塚」と、湘南地方と藤沢市内に分かれる「俣野」の根元に原宿が位置していたからです。

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最寄り駅「大船」からバスで土日は一時間かかることもありました。当初のモノレール計画では8分を予定していました。この差は決定的でした。
現在、原宿交差点立体化は実現しましたが、周辺の道路計画は遅々として進んでいません。

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一つ、横浜ドリームランドが残した価値ある遺産があります。ホテルエンパイヤの建築です。当時68mの高さを誇る高層ホテルは画期的でした。しかも現在、現役で活躍しています。
1962年8月に高さ規制が解かれたものの施主が二の足を踏んでいた頃、高層ビルの設計はゼネコン各社が是非手がけてみたい事例でした。外観を五重塔のようにしたい、という施主のリクエストに対し設計者は構造も五重塔にヒントを得ます。この経験値が現在の高層建築に役立っていることはいうまでもありません。

ホテルエンパイヤー( 現在大学図書館として再利用)

1968年に完成した世界を日本を驚かせた「霞ヶ関ビル」36階の設計にこのホテルエンパイヤ(地上21階、地下2階)完成が大きな自信を与えました。
※旧横浜ドリームランドは横浜薬科大学になっています。
http://www.hamayaku.jp

ホテルエンパイア
http://www.obayashi.co.jp/works/work_H727

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大林組百年史より建設当時の姿

 

No.29 1月29日 福沢諭吉の横浜ワンデーマーチ

福沢諭吉は慶応義塾創立者で多くの言論活動を行った思想家ですが、ここでは家庭での福沢諭吉についてご紹介しましょう。
1888年(明治21年)の今日、 福沢諭吉(53歳)は、家族と約束していた横浜ワンデーマーチを、五人娘のうち三人と実行します。

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福沢は筆まめでした。
確認されているだけでも2,600以上の書簡があります。
彼は日記を付けなかったので書簡が彼の日常を追う日々の記録になっています。
「今日は兼ねての約束にて、子供の内、おふさ、おしゅん、おたきと同道、徒歩にて神奈川まで東海道を通行して、夕景に可相成、そこで神奈川発の汽車に打ち乗り帰宅と、唯今支度最中なり。右要用のみ、早々不一。  一月二十九日朝八時  諭吉」
息子達に送った手紙の一部です。

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福沢諭吉書簡集第五巻

福沢諭吉には四男五女、9人の子供がいました。
福沢の特技は居合いの名手でした。趣味は、玄米を精米する「米つき」が健康のための日課で、自宅の改装、増築が好きな普請道楽でもあり、観劇、落語、相撲の観戦も大好きだったそうです。
家庭では、子供達を「さん」付けで呼び、自由放任主義の子煩悩だった様子も手紙で確認することができます。
横浜ワンデーマーチの実像にせまりましょう。
いっしょにでかけた娘三人。 

次女 房(ふさ)は18歳、
三女 俊(しゅん)は15歳、
四女 滝(たき)は12歳でした。
長女の里(さと)はすでに結婚して家を離れていました。五女の光(みつ)は9歳でまだ徒歩旅行には幼かったのでしょう。
ワンデーマーチの内容ですが、出発地は福沢の自宅である港区三田(慶応義塾内に自宅がありました)から明治時代の「神奈川駅」あたりまでと想定します。
距離計算すると約24キロです。
歩き慣れていれば徒歩で時速4キロですが
12歳の足では3キロでも早いかもしれません。

約八時間くらいかかると計算しましょう。
食事の時間もあり9時間で少なくとも夕方(日没)までに「神奈川」に到着するには?
当時の横浜の日没時間を調べてみました。17時6分頃です。
福沢の手紙では八時に「唯今支度最中なり。」とありますので、手紙を書いていますからすぐに出発してちょうど夕方到着というところでしょう。
実際はなりゆきで
道中「鶴見」あたりで時間となり汽車に乗って帰宅するのが安全な選択でしょう。

東海道は箱根駅伝でも分かるように、保土ケ谷まではほぼ平坦ですので歩くのは無理がありません。晴れていれば少し小高い場所から富士山を眺め、鶴見近辺では東京湾を見ながら生麦事件や黒船の話しでもしながら歩いたのかもしれません。
※(当時の鉄道)明治21年当時は横浜(桜木町)と田町間を汽車が走っていました。
その間には東京から「品川」「大森」「川崎」「鶴見」「神奈川」駅がありました。昔の「神奈川」駅は現在の京浜急行神奈川駅ではなく現在の横浜駅そばにある台町近辺です。

同じ「神奈川駅」あたりのエピソードとしては
No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン

福沢は大変子煩悩で家族を大切にしました。
忙しい中でも時間を作り家族旅行、自宅でのパーティを楽しんでいます。
この膨大な書簡集からは 新しい福沢像を見出すことができます。

No.26 1月26日 横浜東京間電信ビジネス開始

今日1870年1月26日(明治2年12月25日)のこの日
横浜と東京間の商用電信網がビジネスを開始します。
電信創業の地の記念碑が現在の横浜地検前に建てられています。

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18世紀に蒸気機関による動力(産業)革命が起きた世紀です。
19世紀は通信技術による情報革命の世紀となりました。モールスの電信の発明の次にはグラハム・ベルの電話が実用化され世界経済に情報という新しい波が大きく影響力をもたらすようになります。
このイノベーションは幕末・明治の日本を直撃しますが、世界が驚嘆する技術力(キャッチアップ能力)を発揮し、一気に世界レベルに追いついて行きます。
J38TelegraphKey 1873年(明治6年)には東京~長崎間に電信線が開通し、その後約4年間で国内の電信線網の骨格を完成させます。このインフラ整備が、生糸を始めとする国内市場の形成に重要な役割を果たしたことはいうまでもありません。
(おやとい)
この技術力は明治初期に政府が巨額の資金をつぎ込んだ「お雇い外国人」から集中的に学びます。同時に、日本政府は技術官僚を育てるために人材育成を行い飛躍的な発展を遂げることになります。

No.293 10月19日(金)Citizen of No Country

No.204 7月22日 (日)一生を世界一周に賭けた男

No.78 3月18日 横浜公園に野球場完成

No.121 4月30日  日本にCivil engineeringを伝えた英国人

No.294 10月20日(土)防災道路を造れ!

No.154 6月2日(土) 華麗なる居留地ビジネス

(英才教育は「寮」から)
当時、短期間で大量の技術者を養成したのが明治4年工部省の下に開設された「寮」という専門機関でした。
鉱山寮、製鉄寮、造船寮、鉄道寮、灯台寮、電信寮など「寮」という名の各部門からは多くの人材が育って行きます。
中でも「電信寮」からは、沖電気の創業者沖牙太郎、東芝の前身である白熱舎を創設した三吉正一、珍器製造所の田中久重、後に横浜市長となり横浜市歌を依頼した三橋信方も明治5年電信寮に入りその後、外務官僚となっています。
No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い

No.194 7月12日(木)ソシアルビジネスの鏡


1880年(明治13年)の予算削減で工部省は大幅な組織変更を迫られ、次第に役割を他に移管して行くことになります。

話しを電信と横浜に戻します。
実は、慶応3年暮れ(1867年か68年)に「横浜の貞次郎と東京の栄蔵なる商人が、江戸・横浜間の電信架設を出願」して許可されましたが(維新による)政権交代のために実現しませんでした。
その後、ブラントンの主導でイギリス人ギルバート(J.M.Gilbert)が招聘され、1869年(明治2年)横浜元弁天にある灯台「弁天灯明台役所」と横浜裁判所(現在の税関)の間760mに電信設備を架設し通信技術の教育を行い、これが日本最初の電信施設となります。
この時の電信施設建設要請は、神奈川県知事“寺島宗則”が建議し前述の「寮」の一つ「灯台寮」から政府に出されました。

横浜と東京間の電信通信は大変人気で、開業三ヶ月で3,000通の申込があったそうです。
(飛脚より安く早いということですが、昔から安くて早いはビジネス原則ということですね)
国際電信も同時に進められます。
1871年(明治4年)には長崎から上海とウラジオストクが海底電線で結ばれ日本最初の国際通信網が引かれます。また韓国(李氏朝鮮)とは1883年に呼子町(佐賀県)〜釜山間が結ばれます。

(電話交換)

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電話利用者が増え、回線が急増します。そこに必要となったのが「電話交換業務」です。1890年(明治23年)12月16日横浜と東京間にわが国で初めて電話交換業務が開始されました。

 

No.25 1月25日 馬車道の華

「横浜の酒場に 戻ったその日からあなたがさがして くれるの待つわ昔の名前で 出ています」 (「昔の名前で出ています」作詞星野哲郎、作曲叶弦大、編曲斉藤恒夫) 小林旭のヒット曲です。
資料を探していると、地名や施設名が時を経て変わることが往々にしてあります。
名称の変化は時代を特定するヒントになりますが、逆に事実が見えにくくなることもあります。 でもこれが歴史を調べる時の愉しみのひとつです。
1970年(昭和45年)のこの日、中区馬車道にある「横浜宝塚劇場」が改装オープンし「市民ホール」となりました。その後
1986年(昭和61年)に老朽化などを理由に新しく建て替えられたのが現在の「関内ホール」です。 「横浜宝塚劇場」から「市民ホール」へ。そして現在「関内ホール」として馬車道の華となっています。

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個人的には常々「馬車道ホール」という名が良いなと思っています。 正式名称は「横浜市市民文化会館」といいます。指定管理者でテレビ神奈川が管理していますから「馬車道TVKホール」ってネーミングライツしたらどうでしょう?(そんな話しは出ていません。)

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馬車道界隈は開港のころ、文字通り「馬車」が走り抜け大きな金融機関、様々な商店が立ち並ぶ最先端のガス灯が明るいモダンな通りでした。
横浜開港場には外国船が停泊するイギリス波止場とは別に、国内をつなぐ船が数多く利用する日本波止場がありました。馬車道はこの日本波止場と居留地を支えた関外エリアをつなぐ吉田橋を一直線に結ぶ開港場のメインストリートでした。
戦後その界隈性を残すため、いち早く通りをモール化した都市デザインの先駆的商店街でもあります。現在も万国橋からイセザキまで、ブラリ歩きには最高の道です。

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昔から 賑わいには劇場がつきものです。
1935年(昭和10年)4月1日、横浜宝塚劇場(通称ヨコホウ)が住吉町4-42に開館しました。1スクリーン、1,305席(別資料では1,440名)を擁する大劇場・映画館でした。
「関内馬車道に出現した待望の東宝直営横浜宝塚劇場はいよ々々明後四月一日咲く桜に魁て華やかに蓋を明ける。昨年十月廿八日着工して以来、完成開場まで僅五ヶ月といふスピード建築の恐らく記録をつくつた清水組設計に成るこの横宝劇場は鉄筋鉄骨コンクリートの三階建で建坪四百十坪、延坪八百三十坪収容人員は千四百四十名このうち階下が九十一名定員となつてゐる(後略)」(『横浜貿易新報』1935年(昭和10年)3月30日付)
劇場前にあったうなぎの老舗「わかな」が人気の店だったとあります。 現在はすこし場所が移動しています。
劇場には食も欠かせませんね。

戦争を挟んで人気劇場でした横浜宝塚劇場は、
1960年(昭和45年)横浜市に譲渡され改装「市民ホール」としてオープンします。
その後、
1986年(昭和61年)宝塚劇場時代から約50年経たこともあり老朽化などを理由に建て替えが行われます。 これが現在の「関内ホール」です。
関内ホールと言えば、正面玄関と楽屋口の赤いオブジェでしょう。
この赤いオブジェは第13回 高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した世界的彫刻家マルタ・パン(Marta Pan)の作品、「平和1」「平和2」です。(時には近づいてみましょう)
座席数は1,102席。主に落語などの寄席、ミュージカル、演劇、講演会等に利用されています。
志の輔の横浜拠点、関内寄席 『立川志の輔 独演会』はもう何回目になるでしょうか。 ホール玄関前広場の「馬車道ショートパフォーマンスライブ」も大きく育って欲しいと思います。ヨコハマ映画祭も1987年以降関内ホールで開催されています。

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■今また、このホールを軸に馬車道の賑わいが欲しいものです。
※番外編
もう一つの馬車道映画館。
戦後横浜で映画と言えば、馬車道の横浜東宝会館でした。東宝会館は1956年(昭和31年)3月27日に開館しイセブラと映画鑑賞が当時の定番デートコースとなりました。残念ながらシネコン時代の到来とともに2001年(平成13年)11月29日に閉館し、現在はビジネスホテル「リッチモンドホテル(オープン当時はロイネットホテル)横浜馬車道」が建っています。

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(ホテル外観)
 
冒頭の歌詞に関して
引用としての利用(著作権法第32条)許諾を得ずに複製、口述などによる引用ができる条件に入っている?引用も文化論として議論すべきテーマかな。
①公正な慣行に合致する引用であること
(自分の著作物と他人の著作物との間に妥当な主従の関係があること)
(引用する部分が明確に区分されること)
②引用の目的上正当な範囲内で行われること(引用の必然性があること)
③公表された著作物の利用であること
許諾を得ずに引用できる場合であっても、原則として出所を明示しなければならない

No10 1月10日(火) 横浜元町SSで歩行者天国

横浜の商店街の牽引的役割を担ってきた元町、横浜エピソードには書かせない場所の一つです。

1971年(昭和46年)のこの日 元町でもいち早く歩行者天国を導入、毎週日祭日午後1時から5時の間歩行者のショッピングストリートとして解放しました。

戦前戦後を通して先進的な商店街づくりのエピソードを数多く持つ元町物語は今後に譲り、時代の空気を感じる歩行者天国と横浜のまちづくりのことを少し書き添えておきます。
1970年代を象徴する歩行者天国。
この時代のテレビ映像には必ず銀座か新宿東口のホコ天風景が流れます。子供連れの若い夫婦、1号店が開店した(1971年6月)マクドナルド銀座店(三越)前でマックを食べる若者達の光景です。車道を歩行者に開放し、歩くことが出来る「ホコ天」に歩行者は最初戸惑いながらも自由を味わったものです。
この歩行者天国、大規模なものは1969年(昭和44年)8月6日から12日間、北海道旭川市平和通で実験的に実施されたのが始まりです。東京では1970年8月2日に銀座、新宿、池袋、浅草で初めて実施され、全国に広がりました。実施エリアは次第に延長し一時期世界最長の5.5km、銀座から上野まで道路が開放されました。
このように
高度成長期以降、都市整備の課題の一つが歩行者空間の整備でした。横浜はいち早く専門部署を設け新しいまちづくりに挑戦しました。
(横浜市都市デザイン室の誕生)
初期の実験的試みが市庁舎横の「くすのき広場」整備でした(昭和49年6月)。若き日の国吉、(故)北沢コンビそして岩崎の野心的作品でした。
歩くことが楽しい街を確保するために、歩行者優先ゾーンの整備が市内中心部を手始めに行われました。

歩行者天国は交通地獄からの<つかの間>の解放でしかありませんでした。一歩踏み込んだ恒久的な街の魅力づくりには「壁面線の指定」「モール整備」「まちづくりのルール」「公園再整備」「歩車分離」といった様々なソフトとハードの整備が必要でした。
横浜の歩行者専用道の先駆的事例と言えば、
汽車道から赤レンガ倉庫、山下公園、港の見える丘公園を横断的につなぐ「開港の道」です。
桜木町から港の見える丘公園まで歩行者専用道としてつないだ試みが現在横浜シーサイドの重要な観光スポットにもなっています。
また港北NTの試み(1月19日)にも恒久的「歩行者天国」のまちづくり例を見ることが出来きます。

No9 1月9日(月)【桜川】野毛カストリ横町立退き騒動

(リライト版)
野毛はテーマの宝庫です。
横浜最大の飲食店街として成長してきた戦後野毛の歴史は、さまざまなエピソードとともに刻まれてきました。
1950年(昭和25年)1月9日(月)のこの日、
「櫻川埋立工事で立退きを迫られる野毛ガス橋寄りの数軒、市に無断で埋立てた同橋反対側に移転」
桜木町近くを流れていた櫻川の野毛ガス橋付近の埋立て工事で不法占拠していた屋台が立退きを迫られ数件がしぶしぶ対岸に移転することになります。


終戦直後の横浜、
特に桜木町近辺は職を求める多くの失業者が集まっていました。
理由はそこに中区役所(現桜木町駅前駐車駐輪場)と職安があったからです。
しかも、戦前の繁華街や港湾施設(特に関内・関外)の大半が米軍に接収されたため、日本人が自由に飲み食いできる“街の繁華街”として野毛が賑わいました。
多くが不法で、空き地という空き地には屋台と闇市が広がっていました。取締と不法占拠の繰返しでした。
1947年(昭和22年)10月には伊勢佐木警察がカストリ横町を一斉検挙します。
大岡川には水上ホテルが浮かび、川岸にはバラックが建ち並びます。
特に埋めて中の櫻川沿いには貴重な動物性たんぱく質源だった“クジラカツ”を販売する「くじら横丁」が出現します。
別名クスブリ横丁またはカストリ横丁などとも呼ばれました。
日本中が物資不足にあえいでいる時「野毛に来ればなんでも揃う」と言われるほどの賑わいだったそうです。
多くの人が復員兵、労働者などで、食と職を求めました。
櫻川が排水、ゴミ等で極めて不衛生な状態にになり、埋立工事が始まり
上図のように「桜木町デパート」が建てられます。
一方、「櫻川の野毛ガス橋付近」(現在の宝光寺付近)は、最後まで不法占拠のバラック店舗が建ち並びます。
ガス橋(瓦斯橋)は明治期に高島嘉右衛門のガス工場(現在の本町小学校近辺)があったことに由来します。

この櫻川は埋立てられ「新桜川道」になっていますが、
当時は(埋め立てられた)道の上に不法屋台ができていたため、
立退きを迫られた訳です。
しかし追い立てはイタチごっこ、モグラたたきにも似て埒があかなかったそうです。

野毛界隈は
1950年(昭和25年)6月25日に始まった朝鮮戦争をキッカケに大きく変化して行きます。
1955年(昭和30年)10月には櫻川バラック集落は市によって南区に強制移動させられます。

道が整備され、街並も急速に復活して行きます。
終戦後どこも同じ状況だったドヤ街、
寿町はその後も厳しい状況を引きずっていくことになります。
※ドヤ街は「宿(ヤド)」街の逆さ言葉で、簡易宿所が多く立ち並んでいたエリアをそう称しました。

明治のころの瓦斯橋周辺古地図
「DOYA!ことぶきの町は。」

 

映画雑談「ブレードランナー」

このブログを始める際、特に横浜とは関係なく、まだ横浜関係に絞り込むことも考えていなかった2011年ごろのもの。
いろいろ書き込んだ中からたまたま現在公開中の映画となったので、気恥ずかしいが公開しておく。

内容的にはサンフランシスコっぽい舞台設定。
ここではファイナル・カット (2007)版と劇場版について雑談。
BLADE RUNNER: THE FINAL CUT
上映時間 117分
製作:アメリカ
ファイナル・カット版はブレードランナー製作25周年となる2007年、これを記念してリドリー・スコット監督が自ら新たに再編集したバージョン。

監督:リドリー・スコット
製作:マイケル・ディーリー、チャールズ・デ・ラウジリカ
製作総指揮:ハンプトン・ファンチャー、ブライアン・ケリー
原作:フィリップ・K・ディック
脚本:ハンプトン・ファンチャー、デヴィッド・ピープルズ
撮影:ジョーダン・クローネンウェス
特撮:ダグラス・トランブル、リチャード・ユリシック、デヴィッド・ドライヤー
音楽:ヴァンゲリス
ハリソン・フォード(リック・デッカード)
ルトガー・ハウアー(ロイ・バティー)
ショーン・ヤング(レーチェル)
エドワード・ジェームズ・オルモス(ガフ)
ダリル・ハンナ(プリス)
ブライオン・ジェームズ(リオン・コワルスキー)
ジョアンナ・キャシディ(ゾーラ)
M・エメット・ウォルシュ(ブライアント)
ウィリアム・サンダーソン(J・F・セバスチャン)
ジョー・ターケル(エルドン・タイレル)
ジェームズ・ホン(ハンニバル・チュウ)(眼球製作者)
モーガン・ポール(ホールデン)

ファイナル・カット版と劇場版は別物と考えた方が良いかもしれない。映像は同じものが多々使われているが 総合イメージは全く異なっている。
この作品は監督リドリー・スコットが何回かリメイクし今日に至っているので、ややっこしいがマニアにはたまらない「隠しネタ」の宝庫だ。
特撮の品質は1982年製作とは思えない秀逸なできばえ。
アバターもインセプションも真っ青。
この特撮を未体験の方は
必見!まず観て 笑って欲しい。その隠し味が たまらない。
主役のハリソンフォードは最初この作品が気に入らなかったらしい。一時期DVD化が無い!という噂が流れビデオ版を探してあわててダビングした記憶がある。
(現在は発売されている というよりいろいろなバージョンが出ている)
4年しか生きることのできない人工人間(レプリカント)は人間と区別できないが限られた生の期限に生きる。そこに感情を持った数人(6人とも5人とも。この人数が作品によって異なる)のレプリカントが反抗を試みる。

この違法?レプリカントを探して処分するのがBLADE RUNNERだ。
設定されている2019年のシュールな下町が数多く描かれながらストーリーは進む。この下町描写を鑑賞するだけでも愉快な旅にでた気分になれる。
大まかなストーリーは ネットに一杯アップされているので参照されたし。

このブレードランナー設定年が2019年のオリンピック直前、
いささか 映画のほうが先にいっているようで2017年10月
「ブレードランナー2049」が公開された。

【番外編】横浜市歌の真実

■横浜市歌に秘められた謎
横浜で最もポピュラーな歌は「横浜市歌」です。

わが日の本は島国よ (わがひのもとはしまぐによ)
朝日かがよう海に (あさひかがよううみに)
連りそばだつ島々なれば (つらなりそばだつしまじまなれば)
あらゆる国より舟こそ通え (あらゆるくによりふねこそかよえ)
されば港の数多かれど (さればみなとのかずおおかれど)
この横浜にまさるあらめや (このよこはまにまさるあらめや)
むかし思えば とま屋の煙 (むかしおもえばとまやのけむり)
ちらりほらりと立てりしところ (ちらりほらりとたてりしところ)
今はもも舟もも千舟 (いまはももふねももちふね)
泊るところぞ見よや (とまるところぞみよや)
果なく栄えて行くらんみ代を (はてなくさかえてゆくらんみよを)
飾る宝も入りくる港 (かざるたからもいりくるみなと)

この横浜市歌の作詞者は「森林太郎」文豪森鴎外です。
作曲は南能衞(みなみよしえ)で
1909年
明治42年)開港五十周年記念式典で披露されました。

開港五十年紀年絵はがき

この辺りについてはネットでもいろいろ資料がありますので参照して下さい。
ここでは、森林太郎がなぜ作詞を引き受けたのだろうか?という素朴な疑問に迫ってみたます。
森の日記からは「横浜市長三橋信方に頼まれた」とあります。
1909年(明治42年)3月21日横浜市長名で代理が森林太郎に作詞を依頼したことに始まります。
市長名代「三宅成城」氏が開港50周年記念事業の一つとして依頼し、森林太郎が受けるのはごく自然ことですが、何故森鴎外だったのでしょうか?
選定過程の資料は関東大震災で失われてしまい残っていません。
想像が楽しくなります。
(以前から知合い?)
当時の第五代市長「三橋信方」と軍務医「森林太郎」は知り合いだったのか?
旧知の仲まではいかないにせよ何らかの繋がりがあったのでは?
という仮説を立て調べ始めました。
日記、記事等を読む限り、直接的な史実は見当たりませんでした。
傍証はかなり出てきました。
ここで素人探偵飛躍を承知で この二人の関係に迫ってみることにします。

■キーワードは水
「鴎外」と「三橋」をつなぐキーワードに「水」があります。
さらに掘り下げれば「虎列刺(コレラ)」がこの二人を結びつけていたことは間違いありません。幕末から明治にかけて、日本にとって国家存亡の危機は「コレラ」でした。
開国によって世界が航海で繋がると同時に
疫病も世界レベルになる「コレラ パンデミック」が世界を襲います。
明治に入り何度もコレラが上陸・伝搬し、中でも数回大規模に蔓延し非常事態が宣言されます。「コレラ対策」は国家の最重要課題でした。
当時の「公衆衛生」の最先端医学情報はドイツにありました
そこで森林太郎はドイツで公衆衛生を学ぶために留学します。ドイツではコレラ菌の発見者コッホ博士にも学んでいます。

公衆衛生の要は
「上下水道」の整備に尽きます。つまり「安全な水の確保」がこの伝染病の拡大を防ぐ解決法です。森は日本に戻り、上下水道の普及と『改善』を報告します。
一方、第5代横浜市長「三橋信方」もまた水の専門家でした。
市長になる前、官僚時代には横浜水道経営の立役者となり、パーマーが構築した日本初の水道経営を軌道に乗せる実績を残します。
横浜が良港として、国際都市として発展するには安心できる大量の水確保が必須でした。
「森林太郎」「三橋信方」は共に都市経営における水道整備を同時代に担ったテクノラートでした。
また、
三橋信方はベルギー公使を歴任するなど外交官としての国際感覚も持ち合わせていました。ベルギーは鴎外が学んだドイツの隣国ですが、時間的な接点はありません。
「森林太郎」「三橋信方」そこには両者の直接的関係はなかったかも知れませんがが
公衆衛生に対する“
信頼感”と“シンパシー”があったことは間違いないでしょう。
市歌を作る話しがあがった時、市長「三橋信方」が最初に浮かんだ人物は文壇においても活躍し始めていた「森林太郎」だったのではないでしょうか。

1909年明治42年)7月1日に横浜市歌は「開港式典」で発表されました。
式典からしばらくして
7月31日に市長三橋信方は鴎外の自宅を訪れます。
形式的には、作詞依頼等の事務は官吏三宅成城氏にまかせましたが、
無事市歌も完成し一段落した頃に訪問した訳は?
そこで話された話題は何だったのでしょうか?
当時世の中を騒がせた森の発禁問題も話題に出たのでしょうか?
それとも「水」談義だったのでしょうか。

■意外な出来事
横浜市歌は、1966年(昭和41年)歌いにくいという理由で 音階の一部を変更しています。変更には異論も多かったようですが当時の関係者の強い意向で
 子供達が歌いやすいようにという理由で変えられています。
この事実には 驚きました。
つい最近まで横浜市歌の<楽譜>にそのことが記述されていませんでしたが、ある時から記載されています。指摘があったのでしょうか?(2011年投稿2018年補足)

■元となったもの
横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る 後編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る 後編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編

■(ブログを始める前2009年ごろに書いたものです)
「わが日の本は島國よ 朝日輝ふ海に 連り峙つ島々なれば あらゆる國より舟こそ通へ」と続く歌詞は、文豪森林太郎(鴎外)作詞による横浜市歌です。街のどこかでこの歌が流れると、思わず口ずさむ市民に出会うことができます。そう、平成になって音頭やブルースにもなったこの歌は日本一歌唱人口の多い市の歌といえるのではないでしょうか。
横浜市歌は小雨降る新港埠頭で行われた「開港50周年記念大祝賀会式典」で市民に披露されました。1909年(明治42年)7月1日のことです。

開港五十年紀年絵はがき

市民に愛されているこの市歌、作詞者鴎外は有名ですが、作曲者についてはほとんど知られていません。作曲は当時東京音楽大学助教授であった南能衞(みなみよしえ)です。何故、この二人が横浜市歌を作ることになったのか詳細は不明ですが、二人とも「反骨の精神」を持つ気概ある芸術家であったことは間違いありません。

南能衞は明治14年徳島に生まれ、この横浜市歌を作曲した時は28歳でした。作詞者の鴎外が47歳でしたから親子に近い年の差がありました。小さい頃から数学が得意で、徳島師範学校を卒業し尋常小学校教員資格を得ました。すでに徳島市富田尋常小学校訓導に任命されていましたが、休職し好きな音楽教育の道に進むことを選び東京音楽学校甲種師範科に入学します。卒業後、教員となり郷里徳島中学から和歌山師範に移り師範では初の男女混声合唱を指導します。この成果が評価され1908年、母校東京音楽学校に戻り助教授に就任します。順風満帆でしたが、数年後人事で辞表を叩き付けます。
一方、作詞の森林太郎(鴎外)は、明治大正の文豪として多くの作品を残していますが、大秀才で、二歳年齢を多く申告し帝国大学医学部に入ります。語学に堪能で、19歳で本科を卒業後陸軍軍医となりドイツに留学します。この時の異国の恋を描いたのが代表作「舞姫」ですが、軍医との二足のわらじで書いたものでした。1909年『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」等も執筆した夏目漱石と並ぶ文豪となります。
横浜市歌制作時、南能衞は東京音楽学校助教授になり、森林太郎(鴎外)は文学へと傾倒し始めた頃です。鴎外は、軍医の職を持ちながらも、フェノロサのもとに開設された東京美術学校(現東京藝術大学)に1889年(明治22年)美術解剖学講師となり、1892年(明治25年)9月には慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師を委嘱され日本の美学の基礎を切り開きます。鴎外の偉大な遺産は、文学であり美学ですが、発禁処分、左遷、戒飭(かいちょく)後彼も人事問題で辞表を叩き付けます。
共に正義感が強く、反骨精神の塊だったようです。(後編へ)

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る 後編
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