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第862話 【絵葉書の風景】番外編<子守という仕事>

【傘を差す子守女】
この風景を紹介するにあたり、かなりの時間を要しました。14463223_1300541403323294_2839478932620437198_n少女が二人、和傘を差しながら歩く姿として紹介すればそれだけのことなんですが、この風景を絵葉書にした<意図>は何だったのか?
写真家は外国人なのか?日本人なのか?
絵葉書には画像しか無く、何時の時代の何処の風景か推測するには情報が少なすぎます。傍証から撮影時期は大正初期と推察できましたが確証はありません。
少なくとも この風景から想像できるのは
この二人の少女は<子守>を仕事として働いているだろうということです。
服装から、季節は寒い時期で秋から初冬と思われます。
手前の少女は「叶田」と書かれた傘を差していますが、屋号でしょうか。
◆児童労働としての子守
子守が労働であった時代があります。現代の<ベビーシッター>ではなく、10歳前後の少女が労働として子供を子守することが江戸時代から普通に行われてきました。
子守の労働歌としては「竹田の子守唄」が有名です。
 守りもいやがる 盆から先にゃ
 雪もちらつくし 子も泣くし
 盆がきたとて なにうれしかろ
 帷子(かたびら)はなし 帯はなし
 この子よう泣く 守りをばいじる
 守りも一日 やせるやら
 はよもいきたや この在所(ざいしょ)越えて
 むこうに見えるは 親のうち
統計的に見ると
大正9年の国勢調査によればたとえば12歳から14歳までの年齢層で男女の有業率(職についている率)はそれぞれ30.6% 28.8%に達していました。
昭和13年神奈川県中郡成瀬村における農家児童の労働時間分析では
女子の子守は
尋常5年 36.25(時間.分) 総労働時間78.23(時間.分)
尋常6年 7.24(時間.分) 総労働時間72.43(時間.分)
高小1年 8.10(時間.分) 総労働時間96.17(時間.分)
高小2年 0.56(時間.分) 総労働時間114.50(時間.分)
といった数字が出ています。
◆では「児童労働」は問題だったのか?
子守奉公という児童労働が一般化したのが江戸時代後期で、明治以降も前述の数字も出ているように、子守労働が女子児童の大きな役目でした。
では、この幼児労働が過酷な労働であったかのかどうか?
これに関しては資料を読み漁った結果、子守が<女工哀史>的なステレオタイプな労働像として良いのかも検討が必要だということに帰結しました。
事実、竹田の子守唄の背景にあるような被差別部落における<子守労働>もあります。現在の<子供の権利>という視点でも問題点を多く含んでいますが、地域の役割分担と通過儀礼的な役割も担っていた側面もありました。確かに就学年齢の女子がこの時期に<子守労働>を強いられることで義務教育が維持できない現実が起こってきます。地域によっては女子就学率が極端に下がっています。
ここには「子守学校」という女子の就学奨励も過渡的なものながら女子就学向上に大きな役割を果たした試みもありました。
※一部では男子も子守労働に多くの時間を割いている地域もあります。
◆ジェンダー・バイアス
現代の視点で、この時代の子守労働を論じるのは無理があるように思えます。
女子が子守・家事、男子が農作業等を担う近代までの農村部においては、地域の役割分担として、子どもたちが年齢に応じて様々な労働に就いていたからです。
戦前絵葉書には子守をしている子供が登場するものも多くあります。日常の風景だったようです。
一枚の絵葉書から少し大風呂敷を拡げてしまいました。

第860話 RE name Yokohama 大岡川

(あらためて解説表現を考えてみる)
「大岡川」とは?
こう尋ねられたときにどう答えるだろう?
一般的にはどう説明されているのでろう?
詳しくではなく 簡単にである。
てっとり早いのは<wikipedia>
「大岡川(おおおかがわ)は、神奈川県横浜市を流れ横浜港に注ぐ二級河川。上流の日野川と笹下川の合流地点より下流を本来は大岡川と呼ぶ。」
この説明ちょっと引っかかる。
ここで説明されているキーワードは
“横浜港に注ぐ二級河川”
“日野川と笹下川”
「本来は」  とある。日野川と笹下川の合流地点から下流が大岡川だと説明している。%ef%bc%91%ef%bc%93%ef%bc%93%e5%a4%a7%e5%b2%a1%e5%b7%9d
<Wikipedia>では歴史的経緯から本来は<笹下川>の方が由緒ある名だと主張している。
無理無理の部分もあるが一読に値する。
基礎データにも相違が見られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/大岡川_(神奈川県)

横浜市はどのような説明だろうか?
ワンキャッチフレーズには少し長い説明だが引用する。
(横浜市 環境創造局 大岡川水系)

「大岡川は、全長14.04km、流域面積27.25km2の二級河川です。
川のはじまりは,横浜で2番目に高い円海山(えんかいざん)にあります。山からしみだした水は氷取沢(ひとりざわ)市民の森を流れ出て、港南区の上大岡で日野川と合流し、南区で中村川と堀割川(ほりわりがわ)に分流します。大岡川の本流は、中区の日の出町、野毛の市街地(しがいち)を流れ、みなとみらい21で横浜港に注ぎます。
大岡川と中村川に囲まれたところには、伊勢佐木町(いせざきちょう)・馬車道・中華街・横浜スタジアムがあり、市役所や県庁・横浜税関(ぜいかん)・県警(けんけい)本部などもあります。大岡川は、横浜の心臓部にあたるところを流れる川といえます。」
キーワードはwikipedia に加え
全長14.04km、流域面積27.25km2
横浜で2番目に高い円海山
氷取沢市民の森
南区で中村川と堀割川に分流
みなとみらい21で横浜港に
大岡川は、横浜の心臓部

もう一つ区域の真ん中を大岡川が流れる港南区(南区もそうだが)はどのような説明をしているか?
(横浜市港南区)

「大岡川(おおおかがわ)
大岡川は、円海山周辺の金沢区、磯子区、港南区に源を発し、上大岡駅近くの笹野橋で合流、南区、中区を経て、みなとみらい地区で横浜港にそそぐ川です。
港南区内では、日下小学校前を流れる通称笹下川と、日野地区を源とする日野川がおもな流れです。
昭和44年から工事を始めた大岡川放水路は、下流域の洪水対策として平成 年に完成しました。
日野川の日野立体近くから笹下川打越付近を経て、JR磯子駅近くの磯子区森で根岸湾に注いでいます。」
さらにデータも用意されている。
管理区分: 二級河川・準用河川
起点: 大岡川:(磯子区栗木)
終点: 大江橋(中区)
河川延長: 14.04キロメートル
流域面積: 27.25平方キロメートル

大岡川放水路
起点: 大岡川:笹下二丁目
日野川:日野五丁目
終点: 森
河川延長: 3.64キロメートル

大岡川は二級河川にあたるので管理は神奈川県が行っている。
神奈川県はどのような説明か?
神奈川県の説明もかなり長いので冒頭部分を紹介する。
(神奈川県)

「大岡川は、横浜市内の中でも豊かな自然の残されている磯子区の円海山(標高153m)の氷取沢にその源を発し、丘陵地帯に挟まれた谷を下り上大岡で左支川の日野川を合わせた後に、平地部をゆるやかに流下し横浜市南区山王町のお三の宮付近で中村川を分派し、横浜市中区の桜木町駅付近で横浜港に注いでいる。お三の宮付近で大岡川から分派した中村川はすぐに堀割川を分派した後に、大岡川の南側を大岡川とほぼ平行に横浜の中心市街地を挟む形で流れ、西の橋付近で堀川と名前を変え、中区の山下町で横浜港に注いでいる。堀割川は国道16号に沿って南下し、根岸湾に注いでいる。幹川流路延長は約14km、流域 面積約35.6km2 の二級河川である。」

河川図を見て分かるように
大岡川は支流が合流し、下流域で再度分流してるため説明が難しいので神奈川県の苦労がよく分かる。
これに続く神奈川県の説明からキーワードを一部列記してみる。
・大岡川流域は南北に長い形状
・横浜市西区、中区、南区、港南区、保土ケ谷区、磯子 区、金沢区、栄区の8区
・大岡川は住民の身近な河川
・港町横浜の発展を支えた運河の面影が残る川
・お三の宮から下流の大岡川と中村川に囲まれた区域は、江戸時代初めまで「洲乾の湊」と呼ばれた遠浅の入り江
・水上ネットワーク都市横浜lightp9210039 light%e7%b4%85%e8%91%89%e3%81%ae%e5%a4%a7%e5%b2%a1%e5%b7%9d (その他の大岡川解説文)

■大岡川は横浜市南部の円海山を源流とする二級河川で、港南区や南区を通り、中区を抜けて横浜港へと至る。
かつて今の横浜港から伊勢佐木町あたりは入江の海で、中村川と分岐するお三の宮のある吉野町、蒔田公園あたりが大岡川の河口であった。
1656年(明暦2年)から材木商の吉田勘兵衛によって始められた新田開発により現在に続く地盤が造られ、それまで入江となっていたところの沿岸部が現在の大岡川と中村川となり、大岡川の河口も現在の桜木町辺りの下流まで延びた。
そんな大岡川は上流から中流にかけてはごく普通の河川と変わりないが、下流になると少々趣が異なってくる。
中村川と分岐し京急線と並行する南太田付近からは、春は京急線車内からもその美しい桜並木を堪能できる反面、近年まで黄金町から日ノ出町付近あたりには近寄りがたい、戦後から続く古い「昭和」の雰囲気が残っており、京急線のガード下から川沿いまで特殊飲食店が立ち並ぶ風俗エリアとしての顔をもっていた。(ヨコハマ経済新聞アンテナ)

■下流が横浜のもっともメジャーな地区を流れる大岡川は全長14kmの典型的な都市型河川である。源流のある円海山は標高153m、磯子区峰町にあり、港南区・栄区・金沢区との境の緑地帯にある山だ。大岡川はこの円海山に端を発して横浜港に注ぐ中規模河川である。横浜の都会の超近代的な風景と横浜の最後の秘境?を結ぶ川、大岡川の姿を楽しんでいただきたい。
http://www.geocities.jp/kk810558/ooka.htm

■神奈川県横浜市の大岡川は、流域面積約35.6㎢、延長約28kmを有する2級河川である。該当河川は、源流を市内南部の円海山とし、市内5つの区を通り東部の横浜港へ流れる。
■「大岡川」とは 横浜市内を流れる川磯子区円海山周辺が源流の二級河川。
■大岡川は、神奈川県横浜市を流れ横浜港に注ぐ二級河川。上流の日野川と笹下川の合流地点より下流を本来は大岡川と呼ぶ。
■大岡川とは、一時ゴマあざらしの“タマちゃん”が出没して話題となった河川
■大岡川とは・・・源流は横浜市磯子区にある円海山。
港南区→南区→中区→横浜港へと注ぐ全長役12kmの二級河川。
■大岡川は、全長14.04km、流域面積27.25㎢の二級河川です。
磯子区氷取沢町、横浜で2番目に高い円海山を源に、笹下川として、
氷取沢市民の森を流れ、港南区上大岡で日野川と合流、大岡川となります。
■大岡川は源流を円海山に発し、ゲンジボタルが自生する氷取沢市民の森を流れて笹下川となり、上大岡の手前で日野川と合流し大岡川となり、南区、中区を経て横浜港に注ぐ流路延長約12kmの二級河川です。
■大岡川は、全長14.04km、流域面積27.25km2の二級河川です。
■大岡川は、円海山周辺の金沢区、磯子区、港南区に源を発し、上大岡駅近くの笹野橋で合流、南区、中区を経て、みなとみらい地区で横浜港にそそぐ川です。
■大岡川は、横浜市南部にある標高153メートルの円海山近くの「氷取沢市民の森」付近に端を発し、横浜港に注ぐ全長約14キロメートルの2級河川。
■大岡川は、横浜市南部にある標高153メートルの円海山近くの「氷取沢市民の森」付近に端を発し、横浜港に注ぐ全長約14キロメートルの2級河川。「横浜水辺マップ」は、中区・西区付近の、かつて「吉田新田」と呼ばれた下流域をカバーしている。
■大岡川は、磯子区の円海山あたりを源流にして途中で上大岡を通り、京急「南太田駅」付近でY字型に分岐します。北の流れは桜の並木を従えて流れくだり桜木町駅の脇から日本丸近くで海に出ます。南の流れは中村川と名前を変え、首都高と共に石川町から元町に沿って流れ、山下町で首都高と別れて海に出ます。
■大岡川は円海山に源を発し、横浜市の磯子区、南区を貫流し、桜木町付近で東京湾に注ぐ河川である。
流路延長14km、流域面積27.25㎞2で、流域の土地利用のほとんどは宅地であり、横浜の市街地を流れるいわゆる都市河川である。都市河川である大岡川周辺は人口密集地で治水重要性も高く、人の生命と財産が集中している。土地に余裕がないため、雨をどう流すかが治水上重要になってくる。そんな川を管理する上で一番重要なのは洪水対策でいかにして洪水を安全に流下させるかであり、水系には様々な治水上の工夫がされている。都市河川ならでは謎めいた川

(結び)
川の名というのは、上流と下流で呼び名が変わることはママあることだ。
川の規模の大小に関わらず、時代の流れで川の名が変わってしまうこともある。
横浜で一例を挙げるなら
一級河川支流 宇田川の名は 上流で「村岡川」と呼ばれ、現在もその名残を残している。本流は支流が集まっているので、多くの支流を合わせて<本流>の名が付けられている。大きい川となると<水系>という表現もある。
大岡川水系は 笹下川・日野川が合流し一本となり大岡川と呼ばれ蒔田に深い入り江の河口があったのが江戸時代中期まで。
その後、吉田勘兵衛が入り江を埋め立てる大事業に挑戦し、吉田新田が誕生します。ここで大岡川と中村川が誕生します。
まさに大岡川は、中世から近世、近代に至るまで 市街化する河川の歴史を明確に表していると言えるだろう。
大岡川下流域が近代化する過程で「運河の街」であったことを忘れてはいけないだろう。
大岡川を説明するキーワードは
・現在も自然ゆたかな円海山周辺の源流域
・吉田新田の誕生と横浜港に欠かせない川
・住宅が密集する都市河川という宿命
・都市発展に欠かせなかった「運河」
これらが説明されることが望ましいと思う。

(関連ブログ)
No.192 7月10日(火)【横浜の河川】もう一つの大岡川

No.2148月1日(水)開港場を支えた派川工事

No.435 大岡川物語(1)

【番外編】(ざくっと横浜その1)村は川に沿って生まれる

No.700  【横浜の河川】川いろはのイ

第859話【絵葉書の風景】観艦式に見る日本の歴史

戦前、海軍の大セレモニー観艦式が20回近く行われました。
今回は観艦式を<横浜絵葉書+資料>で整理し戦前の戦争史を振り返ってみます。
観艦式とは1341年に英国で始まった軍事デモンストレーションで、当時のエドワード3世が英仏戦争の際に指揮を鼓舞するために艦隊出撃の際に観閲したことが始まりです。
明治から昭和にかけて 日本海軍は「観艦式」を計18回実施しています。
この内、横浜で9回(半数)実施されました。
観艦式一覧
当時は第 回という名称では無く多くの場合年号で示しました。
○1868年4月18日(明治元年3月26日)
大阪天保山沖。参加艦艇数7隻
○1890年(明治23年)4月18日
神戸沖。海軍観兵式 参加艦艇数6隻
○1900年(明治33年)4月30日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数19隻
○1903年(明治36年)4月10日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数49隻

■1905年(明治38年)10月23日lightm38%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f316light%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e9%96%a2%e9%80%a3%e9%9b%91%e8%b3%87%e6%96%99m38m38%e6%96%b0%e8%81%9e%e8%a8%98%e4%ba%8b 横浜沖。凱旋観艦式 (日本海海戦勝利)参加艦艇数168隻
横浜で最初に観艦式が行われたのが日露戦争終結(9月5日)に伴う凱旋観艦式 で「日本海海戦勝利」を祝う形で開催されました。
日露戦争は、第一次世界大戦につながる(近代)総力戦の始まりでした。
日露戦争終結は日本勝利という形でしたが、日露共々厖大な戦費負担と経済疲労に喘いでいて、当時の常識であった<賠償金>を得ることができなかった勝利でした。
国内世論は戦利品のない勝利の不満に沸騰し、暴動が起こり東京で初めて戒厳令(緊急勅令)が出されました。
このような中での戦勝をPRするために「凱旋観艦式」が行なわれました。艦隊の最高責任者(艦隊長官)は東郷平八郎(大将)、英米艦隊も参加しました。
観艦式に参加した艦艇数の多さからも、この観艦式の意味合いがわかります。

○1908年(明治41年)11月18日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数123隻
■1912年(大正元年)11月12日lightt%e5%85%83%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f013-1 横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数115隻 航空機2機
7月30日から大正となり初めて行われた観艦式です。ここで航空機が登場します。
○1913年(大正2年)11月10日
横須賀沖。恒例観艦式 参加艦艇数57隻 航空機4機
→1914年6月28日 第一次世界大戦(〜1918年11月11日休戦協定)
1914年8月23日 日本ドイツに宣戦布告
■1915年(大正4年)12月4日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft4%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e9%96%a2%e9%80%a3%e9%9b%91%e8%b3%87%e6%96%99009light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft4%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e5%8f%b2%e6%96%99017
横浜沖。御大礼特別観艦式 (大正天皇即位式)
参加艦艇数 124隻 航空機9機
■1916年(大正5年)10月25日
横浜沖。恒例観艦式 参加艦艇数 84隻 航空機4機
→1918年(大正7年)8月2日 シベリヤ出兵
11月11日第一次世界大戦終結
○1919年(大正8年)7月9日
横須賀沖。御親閲式 (欧州派遣艦隊慰労) 参加艦艇数 26隻
※日本海軍駆逐艦隊が対ドイツ潜水艦のため地中海に派遣された。
1918年12月19日、7隻のドイツ潜水艦が日本海軍第二特務艦隊に引き渡され英米仏が不可能と見ていた日本への曳航に成功し1919年6月18日に横須賀港に到着した。light20150423115800%e3%83%89%e3%82%a4%e3%83%84%e6%bd%9c%e6%b0%b4%e8%89%a6%e6%88%a6%e5%88%a9%e5%93%81
■1919年(大正8年)10月28日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft8%e5%b9%b420151125143751light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft8%e5%b9%b420151125143801
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数 111隻 航空機12機
→1920年(大正9年)1月10日
日本、国際連盟に正式加入。常任理事国となる。(アメリカ不参加)
4月6日 ハバロフスクで日ソ軍事激突。(〜29日)
■1927年(昭和2年)10月30日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs2%e5%b9%b4%e8%b3%87%e6%96%99%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f%e7%b5%b5%e8%91%89%e6%9b%b8002
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数 158隻 航空機83機
→1928年(昭和3年) 張作霖爆死事件。
■1928年(昭和3年)12月4日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs3%e5%b9%b4201312%e7%b5%b5%e3%81%af%e3%81%8c%e3%81%8d038light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs3%e5%b9%b4201312%e7%b5%b5%e3%81%af%e3%81%8c%e3%81%8d041
横浜沖。御大典記念 参加艦艇数 186隻 航空機132機
御大礼特別観艦式 (昭和天皇即位式)※史上最大
○1930年(昭和5年)10月26日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs5%e5%b9%b4%e8%b3%87%e6%96%99%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f%e7%b5%b5%e8%91%89%e6%9b%b8006
神戸沖。特別大演習観艦式 参加艦艇数164隻 航空機72機
→1931年(昭和6年)9月18日 満州事変勃発
■1933年(昭和8年)8月25日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs8%e5%b9%b420150508141624
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数159隻 航空機200機
→3月24日 日本が国際連盟脱退を通告。
→1934年(昭和9年)12月19日 ロンドン軍縮会議決裂。
→1936年(昭和11年)1月15日 ロンドン軍縮会議を脱退。
○1936年(昭和11年)10月29日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs11%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e5%8f%b2%e6%96%99013
神戸沖。特別大演習観艦式 100隻 航空機約100機
→1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件。7月28日支那事変へ。
→1937年(昭和12年)11月6日日独伊の三国防共協定。light2016%e5%b9%b407%e6%9c%8805%e6%97%a501%e6%99%8216%e5%88%8611%e7%a7%92
→1939年(昭和14年)5月11日ノモハン事件。日ソ軍衝突、日本大敗。
→1939年(昭和14年)9月1日ドイツ軍がポーランド侵攻、第2次世界大戦始まる。
■1940年(昭和15年)10月11日lights15%e7%b4%80%e5%85%83%e4%ba%8c%e5%8d%83%e5%85%ad%e7%99%be%e5%b9%b4%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f017-1light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f%e8%a8%98%e4%ba%8b
横浜沖。参加艦艇数 98隻(推定) 航空機527機
紀元(皇紀)二千六百年特別観艦式
【日本海軍最後の観艦式】
■関連ブログ
戦前観艦式資料
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5064
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=315
【横浜側面史】 観艦式
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5286

第858話 横浜から下野へ<煉瓦街道をゆく>野木編

横浜開港場のイメージキーワードに<煉瓦>があります。
煉瓦は古代から現在に至るまで建築パーツの代表として活用されています。日本では、明治期に多くの煉瓦仕立ての建物が建てられました。都市部の重要な建造物はもちろん、日本全国の<港>における建造物には煉瓦が多用されています。
横浜の場合、残念ながら震災と戦災で多くの煉瓦建造物が失われましたが、全国に多くの煉瓦による近代化資産が残っています。
横浜港・東京都心部・埼玉(深谷)・栃木(野木)をつなぐ道(水運を含め)は<煉瓦街道>と呼ぶことができます。
以前
No.266 9月22日 (土)ハマの赤レンガ
で、1888年(明治21年)9月22日(土)に創業した横浜煉化製造会社を紹介しました。
この「横浜煉化製造会社」
日本煉瓦製造会社(埼玉県)と下野煉化製造会社(栃木県)に並ぶ大量生産を可能にしたホフマン窯の煉瓦工場でした。
「横浜煉化製造会社」の経営は10年足らずで行き詰ってしまいます。
現在ほぼ原型をとどめているホフマン窯が栃木県野木町に近代化産業遺産として残されています。

野木町煉瓦窯
野木町煉瓦窯

完全な形で国内に残るのは野木町だけです。
旧・下野煉化製造会社・ホフマン式輪窯
1889年(明治22年)築窯
1890年(明治23年)6月15日操業開始
1971年(昭和46年)まで82年間稼働※
途中関東大震災等で休業期があります。
1979年(昭和54年)2月 国指定重要文化財
2016年(平成28年)5月公開

現存するこのホフマン式輪窯は、旧・下野煉化製造会社構内の東西に2基あった窯の内、東窯といわれていたもの。他に登り窯が一基ありました。
煉瓦工場を成功させるには幾つかの条件が必要といわれています。
・良質な粘土
・良質な川砂
・輸送拠点、輸送手段
この三条件を備えた「下野煉化」は、最盛期年間400万トンを製造し需要が少なくなった戦後も煉瓦を製造し続けます。現在、下野煉化製造会社のあった敷地は大半が<乗馬クラブ>となり<輪窯>部分が町によって2016年(平成28年)5月に公開されています。
lightp9070113 lightp9070123 lightp9070121 lightp9070071 lightp9070179
<どこにも書かれていないアクセスポイント>
非常に見応えのあるホフマン窯、いかんせん 電車でのアクセスが大変。
栃木県下都賀郡野木町は<栃木県>の最南端、茨城県古河市に隣接し経済圏・生活圏は古河市です。
ところが古河市から<栃木県>野木エリアへの公共交通が全くありません!!徒歩で約一時間はかかるでしょうか?
バス活用法
県をまたぐのでよくありがちな<路線バスが無い>他県とはつながりません。
ところがぐるりん号
JR古河駅から市内各地にコミュニティーバスが走っています。
これを利用すると、比較的近くまで行くことができます。
※本数が少ないので注意。それでも程々に走ってます。

<野木町交流センター「野木ホフマン館」>
「野木町煉瓦窯」に隣接する町営施設。lightp9070027施設ガイド案内(時間設定あり)
レンタサイクル(マウンテンバイク・電動)無料!!!!
ここから渡良瀬遊水地まですぐ!だけど 広いので一周するには数時間かかります。でもオススメ!
併設されているコーヒーショップ・レストランがこれまた オススメです。
自家製パン・ピザが人気で、近隣の方々で平日も来客いっぱいでした。dsc_0488 dsc_0494

●埼玉県深谷市の
日本煉瓦製造会社関連は後日紹介します。→未だ訪問ならず!来年(2018年)になりそうですが、訪れたい煉瓦遺産です。

◆渡良瀬遊水地
渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)は、渡良瀬川の治水と足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に渡良瀬川下流に作られた遊水池で、2012年(平成24年)7月3日、ラムサール条約に登録されました。dsc_0510 dsc_0511

第857話【絵葉書の風景】謎解き大日本水産会

ここに「大日本水産会創立二十五年紀念」の絵葉書があります。

大日本水産会創立二十五年紀念
大日本水産会創立二十五年紀念

水産共進会発行
Pablished by the Fishery Exposition in Commemoretion of the twenty-fifth Anniversary of the Japan Fisherv Society.
(※英文には一部誤植がありますがそのまま転記しました)
発行時期:1906年(明治39年)10月ごろ
発行年確定の根拠は後述します。
絵柄:明治15年(設立時)と23年後の明治38年の輸出水産物金額比較
明治15年235万円
明治38年957万円
背景には 海藻と魚がイラストで描かれています。
海産物に占める<昆布類>の割合が大きかったのでしょうか海藻類(昆布とワカメ)中心ですね。
(見本市)
近年、首都圏では幕張メッセ・東京ビッグサイト・パシフィコ横浜が様々な見本市(Trade Show)開催が競われています。
戦後以上に業界Trade Showが全国各地で開催されました。
その名も
博覧会に加えて共進会・五二会(織物・陶器・銅器・漆器・紙の5品目に雑貨と敷物の2品目を加えた製品産物等の品評会)・実業大会 等々。
ちなみに1879年(明治12年)第一回製茶共進会、第一回糸繭共進会が横浜で開催されました。(正確には調べていませんが横浜初の共進会ではないでしょうか)
No.259 9月15日(土)全国お茶の品評会開催
【芋づる横浜物語】縁は異なもの味なもの2

(水産共進会)
共進会は、日本の産業振興を図るため、産物や製品を集めて展覧し、その優劣を品評する会のことで水産共進会は
1882年(明治15年)に設立された「大日本水産会」が主催した共進会です。
この大日本水産会は現在も社団法人として活動を続けています。
http://www.suisankai.or.jp
「大日本水産会は水産業の振興をはかり、経済的、文化的発展を期することを目的として、明治15年(1882年)に設立された、我が国唯一の水産業の総合団体です。」
※水産業に関係する生産者、加工業者、流通業者、小売販売会社など、約400の会員で構成されています。
であれば
創立25年となっているこの絵葉書は明治15年+25年で、明治40年ごろだろう。
明治40年に何か大きな「水産共進会」が開催されてはいないか?
明治40年9月に発行された「大日本水産会報300号」目次に
第2回関西九州府県連合水産共進会とあり、その他の資料からも
「明治40年(1907)、関西・九州の各県を中心に20の府県が参加し、「第二回関西九州府県連合水産共進会」が長崎市で開かれた。」
とありましたから、この創立25年紀念も長崎で行われたのかな?
と推理しました。
どうも腑に落ちない。何か変だと感じ、ここで一旦書くことを休止しました。

理由は、
この絵葉書が入手時<数枚の他の絵葉書>と一緒に袋に入っていたからです。
light2016年08月24日04時23分51秒_002 light2016年08月24日04時24分00秒 light2016年08月24日04時24分18秒開港五十年紀念絵葉書2点
東京勧業博覧会
第十回関東区実業大会
そしてこの一枚でした。
この五枚がまとまっているのは偶然か?何かの理由があったのか?
ここで再度、資料を探ってみることにしました。
同封の他の絵葉書に関して調べ始めると
実にお恥ずかしい話、簡単に謎が解けてしまいました。
時系列に並べました。
1906年(明治39年)10月〜
第十回関東区実業大会
1907年3月20日(明治40年)〜
東京勧業博覧会
1909年(明治42年)
開港五十年紀念絵葉書
(同時開催)
第十回関東区実業大会
1906年(明治39年)10月〜
日露戦争が集結した明治38年、国家破産寸前の戦争を米国の仲介で終えた日本は、国民の猛烈な批判を浴びつつも、なんとか勝利宣言し国家財政の立て直しのために産業振興策を打ち始めます。
関東区実業大会は、東京・神奈川・埼玉・群馬・千葉・茨城・栃木・長野の1府7県が参加し、毎年秋に開催され区切りとなる第10回は横浜で開催。
この第十回関東区実業大会と同時開催されたのが
「大日本水産会創立二十五年記念水産共進会」ということが判りこの絵葉書の謎が判明しました。
「大日本水産会」の沿革に記載して欲しい!!
(一連のイベント)
この絵葉書群をいっしょにされていた方は、恐らく数年間の大きなイベントの記憶のために一緒にされていたのかもしれません。この時期は、前述の通り、日露戦争終結後から第一次世界大戦までの戦間期です。
経済も変動が多く、人々の意識もうつろい生活に変化が起こっていきます。
絵葉書の魅力は、統一されたサイズに時代の情報が記載されていることです。
(略年表)
明治15年2月
大日本水産会創立、小松宮彰仁親王を会頭に奉戴。品川弥二郎氏を初代幹事長に選出
明治15年4月
「大日本水産会報告」第1号発刊
明治16年3月
第一回水産博覧会上野で開催
明治19年3月
水産共進会 東京上野公園で開催(第三回?)
明治20年
大日本水産学校 設立(短命)
明治21年
石巻を会場として水産共進会が開かれ、これが起爆剤となって石巻の水産業が発展
明治22年1月
水産伝習所(東京水産大学→東京海洋大学)の開所式を挙行
明治23年7月
水産功績者の第一回表彰を行う、戦後数年を除き毎年実施
明治25年8月
大日本水産会報告を「大日本水産会報」と改題
明治28年1月
本会幹事長が帝国議会に漁業法案を提出、本法案が漁業諸法制制定の端緒になる
明治30年
水産伝習所、農商務省の水産講習所に組織変更
明治30年3月
遠洋漁業奨励法制定
明治34年4月
漁業法公布
明治36年
神奈川県水産共進会
明治37年2月
対露宣戦布告
明治39年10月14日
第10 回関東区実業大会(から16日)※毎年秋に開催
会議に合わせて大日本水産会の創立25年記念水産共進会と、
横浜港輸出品の改良発展をはかる目的で横浜輸出品品評会が開かれた。
明治39年11月
大日本水産会創立25年記念水産共進会審査報告
明治40年
水産共進会三重県 津で開催
明治40年12月3日
水産共進会本県受賞者 一等古賀辰四郎他
明治40年9月
第2回関西九州府県連合水産共進会(塩)大日本水産会報300号(明治40.9)
明治41年
第二回関西九州府県連合水産共進会
明治42年5月
社団法人許可、漁業模範船「水産丸」を7月に進水
明治44年4月
農商務省設置
大正5年5月
「水産宝典」発行 大日本水産会報を11月に「水産界」と改題
大正12年3月
中央卸売市場法公布
大正12年9月
関東大震災
大正12年10月
朝鮮水産共進会。10月10日から31日にかけて開催。
朝鮮水産共進會総裁 有吉忠一※ 朝鮮政務総監(〜大正13年)
朝鮮水産共進會長 和田純 慶尚南道知事
朝鮮水産共進會協賛會会長 香椎源太郎
朝鮮水産共進會事務総長 小西恭介
朝鮮水産会長 西村保吉
※大正14年、第10代横浜市長に就任、復興事業を推進。
大正15年1月
石垣産業奨励会(現農林水産奨励会)を設立
昭和7年5月
「日本水産動植物図集」完成
昭和7年10月
全国漁業組合大会の開催、漁業法改正、重油対策等を検討
昭和8年5月
「水産デー」を設定、毎年行事を開催
昭和8年12月
東京中央卸売市場竣工
昭和16年12月
対米英宣戦布告
昭和20年5月
三会堂ビル戦災により焼失
昭和20年8月
終戦
昭和20年9月
トルーマン宣言(大陸棚地下資源等)
昭和22年7月
水産振興会議を設置し水産庁の設置、資材確保、金融問題等検討を行う
昭和23年7月
水産庁発足
昭和24年12月
新漁業法制定
昭和26年10月
戦後最初の全国水産大会の開催
以下省略

第855話 1983年(昭和58年)7月21日二俣川

相鉄線「二俣川」駅は 運転免許試験場があることから横浜市民に広く知られています。
ここで相鉄線は<いずみの線>に分かれ「湘南台駅」につながっています。lightP7311095 lightP7311117 旭区役所は相鉄線の一つ横浜より「鶴ヶ峰駅」にありますが、乗降客数は圧倒的にここ「二俣川駅」が多く旭区の中心駅となっています。
今日この駅を取り上げたのは
市内二番目のCATV局「横浜ケーブルビジョン株式会社」が
横浜市旭区二俣川2−91に
1983年(昭和58年)7月21日の今日設立されました。
(開局ラッシュ)
1980年から90年代にかけて横浜市内でも
CATV(Common Antenna TeleVision および Community Antenna TeleVision (共同受信)の略)事業が始まり市内15区に渡って7局が開局します。
最初のCATV局は
◆緑区・青葉区。都筑区エリアに
Tokyu Cable TV「株式会社東急ケーブルテレビジョン」1987年10月開局
※現在はイッツコム-テレビ(1983年3月2日設立)
当時:加入31,500円 月額3,150円
◆旭区と泉区の全域・戸塚区の一部エリアに
YCV「横浜ケーブルビジョン株式会社」1988年4月開局

当時:加入21,000円 月額3,150円
◆南区・磯子区・中区の一部エリアに
Bay Wave 「株式会社横浜テレビ局」1992年10月開局
※現在ジェイコムイースト傘下「J:COM横浜」に

当時:加入52,500円 月額3,150円
◆鶴見区・神奈川区・港北区の一部エリアに1993年10月開局
YOUテレビ「YOUテレビ株式会社」

当時:加入26,250円 月額1,260円
◆金沢区全域エリアに1996年4月開局
TOWN TV Kanazawa「株式会社タウンテレビ金沢」

当時:加入52,500円 月額3,650円
◆戸塚区・栄区エリアに1997年7月開局
タウンティ「株式会社タウンテレビ横浜」

当時:加入51,500円 月額3,675円
◆青葉区の一部エリアに1987年12月開局
OCV小田急ケーブルテレビジョン「株式会社小田急情報サービス」

当時:加入52,500円 月額3,150円
★上記料金には有料チャンネルは含まれていません。

局によって視聴できるチャンネル数も微妙に異なっていました。
「横浜ケーブルビジョン株式会社」は
1988年(昭和63年)4月2日
横浜市旭区エリアで営業放送を開始します。
その後戸塚区の一部エリア、保土ケ谷区、西区にエリアを拡大し、現在は横浜市保土ヶ谷区神戸町134 横浜ビジネスパークに本社があります。創業の地旭区にもさちが丘事業所を残し相鉄沿線の拡充拠点となっています。

(二俣川駅)
1926年(大正15年)5月12日開業の二俣川駅
No.695【横浜路線バスの旅】市民に最も利用されている路線は?

現在駅ビルの建て替えが始まっています。
将来 相鉄線の東急東横線との接続が計画され、二俣川が拠点駅となっていきます。
湘南台から日吉・渋谷までの連結で、大きく変わっていく可能性を秘めています。
※慶應義塾の湘南台、日吉、三田を!
文教大学の湘南、旗の台、越谷、石川台を結んでくれ!
って要望が強かったんですかね??

No.203 7月21日 (土)エーゲ海に捧ぐ

最近何かと話題のギリシアですが、
日本とギリシャの間にはいくつかの姉妹都市があります。その中で、姉妹提携のある横浜の街が大倉山商店街です。
1988年(昭和63)7月21日の今日、「エーゲ海フェスティバル」が開催され姉妹提携が行われました。

第854話 改めて横浜市役所移転史

いよいよ新市庁舎移転工事が始まります。
このブログでも取り上げています。改めて移転の歴史後半4代目以降を整理してみました。

No.256 9月12日(火)どこも本庁舎引越は大問題
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=348
(移転地)
[初代(1889年〜1911年)本町1丁目(横浜電信分局)]→
[2代目(1911年〜1923年)港町(魚市場跡地)]→
[3代目(1923年〜1925年)桜木町一丁目(中央職業紹介所)]→
[4代目(1925年〜1944年)港町]→※1
[5代目(1944年〜1950年)老松町(老松国民学校)]→ ※2
[6代目(1950年〜1959年)反町(日本貿易博覧会神奈川会場)]→ ※3
[7代目(1959年〜現在)港町]→ ※4
[北仲へ]
※1 現在の市庁舎敷地に木造2階建てとして建設。

4代目市庁舎
4代目市庁舎
終戦直後の市電路線図一部
池に建つ市役所?

※2 第二次世界大戦で、空襲を避けるため野毛山の老松国民学校(老松中学校)に疎開する。
鉄筋コンクリート造り3階建て。
スクリーンショット 2016-07-20 11.01.19 ※3 日本貿易博覧会神奈川会場(現在の反町公園一帯)の建物へ移転。
木造2階建て。
light神奈川会場46
※4開港100周年を記念して建設、設計は村野藤吾。
鉄筋コンクリート造り、地上8階・地下1階。light市庁舎映画の市庁舎映画「わが心の旅路」に登場する新しい市庁舎と「港橋」

第846話 1914年(大正3年)7月12日「新避暑地十二勝磯子海岸」

1914年(大正3年)7月12日
横浜貿易新報社選(神奈川県内の)「新避暑地十二勝」が発表されました。
この内容に関しては以前、下記のブログで紹介しました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7816

今日7月12日、違うテーマを予定していましたが
第12位 末席に選ばれた「磯子海岸」に関しては紹介してなかったので簡単ですが紹介しておきます。

磯子エリア(磯子海岸)は、堀割川が完成するまでは不便な陸路の他は本牧沖経由の海運しかありませんでした。明治期から大正期には、河川水路の他 市電(全身の横浜電気鉄道)が開通することで横浜(開港場)とのつながりが深くなっていきます。
横浜市域の海岸線が工業化に伴い埋立事業が行われる中、磯子海岸(根岸湾)と、隣接する富岡海岸は戦後まで大型埋め立て事業が行われませんでした。6横浜の埋立堀割川河口にパラオ行きの飛行場が開設されたり杉田・富岡エリアに軍関係の工場が進出しましたが、大幅に海岸線が埋立られることはありませんでした。
戦前から風光明媚なこのエリアは、湘南電気鉄道や市電の開通で<海水浴場>」として人気スポットとなっていきます。light_市電案内磯子海水浴

戦後、高度成長に伴い、磯子海岸が工場用地として注目されます。lightスクリーンショット 2016-07-11 11.49.55light磯子5
下記に磯子海岸関係の歴史を簡単に列記してみました。
1928年8月4日(昭和3年)
磯子町・滝頭町地先埋立第一次工事完成
1929年1月17日(昭和4年)
森・磯子町地先埋立完成
1929年7月1日(昭和4年)
市営磯子水泳場(海水浴場)を公開
1930年4月1日(昭和5年)
湘南電気鉄道(現京浜急行電鉄)、黄金町〜浦賀、金沢八景〜逗子間開通、森駅(現屏風浦駅)開業
1930年7月1日(昭和5年)
湘南電鉄杉田駅開業
1931年12月26日(昭和6年)
湘南電鉄と京浜電鉄が日ノ出町駅で結ばれ、横浜〜浦賀間の直通運転を開始
1933年4月1日(昭和8年)
京浜電鉄の軌道拡張により品川〜浦賀間の直通運転を開始
1941年2月1日(昭和16年)
軍が杉田町地先5万坪を埋立。また、中根岸町を埋立、飛行場を開場する
1941年11月22日(昭和16年)
大日本航空会社磯子支社新館が鳳町に落成
1950年12月14日(昭和25年)
重油禍で屏風ケ浦、富岡、金沢の海苔全滅
1955年4月1日(昭和30年)
市電、八幡橋〜間門間開通
1956年8月3日(昭和31年)
杉田貝塚の発掘開始
1956年10月9日(昭和31年)
屏風ヶ浦漁協及び同海岸埋立反対期成同盟、「磯子海岸埋立反対決議」を市に手渡す
1956年10月17日(昭和31年)
国鉄根岸線建設並びに磯子・杉田地先埋立に地元漁協が反対、国鉄に陳情
1956年11月29日(昭和31年)
根岸湾埋立反対漁民総決起大会開催される
1956年12月25日(昭和31年)
市会、根岸湾埋立を決定
1957年4月3日(昭和32年)
国鉄根岸線建設事業を国鉄建設審議会が決定
1958年10月14日(昭和33年)
根岸の米軍飛行場が接収解除
1958年12月11日(昭和33年)
根岸湾埋立補償覚書調印
1959年1月25日(昭和34年)
根岸湾埋立で漁業補償協定に調印し根岸湾埋立問題協議会を解散
1959年2月21日(昭和34年)
根岸中学校で根岸湾埋立事業の起工式を挙行
1959年5月23日(昭和34年)
根岸線建設工事に着工
1960年2月15日(昭和35年)
鳳町の接収解除
1960年6月30日(昭和35年)
中根岸町の接収全面解除
1961年1月28日(昭和36年)
磯子団地(汐見台団地)の起工式を挙行
1962年10月10日(昭和37年)
市会、磯子団地の新町名を「汐見台」と決定
1963年2月1日(昭和38年)
磯子町、森町の地先埋立地に新磯子町、新森町を新設
1963年5月25日(昭和38年)
汐見台団地入居開始
昭和38年6月(昭和38年)
屏風ヶ浦漁協が根岸湾埋立記念碑を白旗に建立
1963年12月24日(昭和38年)
根岸湾第1期埋立事業竣工
1964年3月24日(昭和39年)
杉田町、中原町地先埋立地に新杉田町、新中原町を新設
1964年5月19日(昭和39年)
磯子駅前広場で根岸線第1期工区(桜木町〜磯子間)の開通式を挙行
1964年11月18日(昭和39年)
区住民運動連絡会議が東京電力の火力発電所建設に反対の決議
1964年11月27日(昭和39年)
屏風ヶ浦漁協の解散式挙行
1964年12月15日(昭和39年)
根岸湾第2期埋立事業竣工
昭和40年2月(昭和40年)
根岸湾漁協が根岸湾埋立記念碑を根岸駅前に建立
1966年7月19日(昭和41年)
南部下水処理場が竣工(昭17.4.1から「南部水再生センター」に名称変更)
1966年8月9日(昭和41年)
根岸線第2期工事(磯子〜大船間)の許可
1967年6月23日(昭和42年)
科学技術庁が根岸湾埋立予定地に原子力船母港建設の方針を横浜市に申し入れ
1967年7月31日(昭和42年)
市電、葦名橋〜杉田間廃止
1967年9月5日(昭和42年)
政府は原子力船母港の建設で横浜市を断念し、むつ市に決定
1968年8月31日(昭和43年)
市電、八幡橋〜間門間廃止
1970年3月17日(昭和45年)
根岸線磯子〜洋光台間が営業を開始
1970年8月28日(昭和45年)
大岡川分水路建設工事起工式挙行

第843話 1898年(明治31年)7月8日開港港則公布

1898年(明治31年)7月8日の今日、
開港港則が(勅令)公布されました。

開港港則
開港港則

第一条 左ニ記載スル外国通称ヲ許シタル諸港ノ経界ハ左ノ如ク之ヲ定ム
「横浜ノ港界ハ、十二天(マンダリン・ブラフ)ヨリ燈船マデ、夫ヨリ正北ニ向イ鶴見川口ノ東岸マデ引キタル一線内ニ含マル」と規程されました。(勅令第百三十九号)官報7月8日
港湾に関する原則的なことを決めた国の法律です。
第一条には、上記の通り、横浜港の範囲が明記されました。

赤線が「横浜港の範囲」
赤線が「横浜港の範囲」

「境界線は鶴見川河口域から真南に下ります。」
「南端は本牧十二天、小港のあたりです。」

横浜“港はどこからどこまで”というごく当たり前のルールが初めて規定されました。
外国との港湾に関する規則は
1869年5月(明治2年)に大阪を国際港と認め開港する際に4カ国領事と協議し「大阪港規則」を決定し布告します。明治政府になって初めての<港則>の成立です。

ところが、この「大阪港規則」は、曖昧な部分が多く、例えば港の境界が示されていませんでした。つまり外国船が入港する際の停泊地<碇泊位置>に関する規定が無く、乱暴に言えば何処に停泊しても規制できないものでした。
当然、様々なシーンで日本と外国、そして外国同士の紛争が多発します。ルールが曖昧なゆえに各国の思惑がまかり通る、緊迫した港湾行政が全国の<開港場>で行われ、特に最大の開港場であった横浜居留地がクローズアップされます。
当時明治政府は、不平等条約を抜本的に改定することを目的としていたため、港湾規則に関しても、現行ルール(不平等条約下)での運用で紛争を乗り切ろうとしていました。
現実に起こる紛争は国レベルから港の直接管轄者である<県>に預けてしまいます。
横浜港を例に取れば 港湾行政に神奈川県・税関(大蔵省)・外務省・内務省、(後に横浜市)など関係者が関わっている状態が長く続きます。
ここに、居留地内の諸外国のパワーバランスが加わり、事態はかなり複雑な様相を呈します。
幕末、南北戦争で日本(横浜)で静かにしていたアメリカが明治に入り、俄然発言力を増してきます。明治初頭、居留地自治をめぐりイギリスとアメリカの主導権争いは明治横浜の様々な政策に影響を及ぼします。
明治期の<神奈川県令・知事>は日本の外交政策の最前線に立たされた役職なので、個々に追っていくと知事によって個性も出て面白い。
港の規則に話を戻します。
港の範囲を示す国内のルールは1870年(明治3年)に「横浜港内規則」によって規定されていましたが、あくまで列強が<参考>にしていたルールで、暗黙の了解、慣例化されていたルールだったようです。
ところが事態はこの慣例が次第に破られていきます。

いろいろ調べてみると、諸外国の商船が勝手に貿易を始める<税関>から見れば密貿易・脱税にあたりますから 当然対処しようと考えます。税関にとって港の境界は生命線でもありますから、当然国の問題として政府に何とかしろ!と上申します。
ところが、政府は事態を明確にせず、不透明なまま問題を先送りします。これは政府が怠慢であった訳ではなく、天下の不平等条約を元から改定したい政府にとって、不平等の一部で諸外国と交渉し<妥協>を強いられることを嫌ったからです。ここで港湾規則制定が転機を迎えます。

外務大臣に大隈重信が就任します。

大隈重信
大隈重信

彼は、港湾ルールの早期確定(制定)のため<不平等条約撤廃>とは分離して交渉にあたります。
これが横浜港<大築港計画>のキッカケになりました。
大隈は、かねて懸案であった横浜港の整備を国が責任をもって行うから、港の使い方も同時に考えましょう!
という方策を示します。
→第一期横浜港築港計画が1890年に始まります。
この横浜港築港計画に関しては、国内問題として内務省と外務省、さらには横浜税関(大蔵省)・神奈川県を巻き込んだ論争(と抗争の間くらい)があり
日本各地の築港計画に関わったオランダとの競争があった結果、英国のパーマー設計で築港計画が行われます。
時代は、開港以来30年もの時が流れ、世界の海運状況が劇的に変化していました。
大型商船が世界各国で増産され、大海運時代が到来していたのです。
港湾ルールの早期確定を狙った大隈のチャレンジは国内外の議論沸騰と<大隈の襲撃事件>によって挫折します。しかし、一度始まった港湾ルール策定の流れは国内外のニーズとも合致し、
1898年(明治31年)7月8日の今日、
開港港則 勅令 という形で結集することになりました。
そしてこの「開港港則」にもとづき「横浜港規定」が設定されさらに詳細な港のルールが明文化されていきます。
少し後半端折った感があります。「開港港則」制定への道のりは実に興味深い事項です。ここには作家有島武郎の父、横浜税関長有島武や実は明治以降にも大活躍した後藤象二郎らも登場し、さらに資料を読み込んでみたいエピソードです。
また、この「開港港則」における<横浜港の範囲>が後の東京・横浜開港闘争!?にも重要な役割を担ってきます。
今日はここまでとします。

(過去の7月8日ブログ)
No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=417
1958年(昭和33年)7月8日の今日
伊勢佐木から横浜公園に移築された米軍用の室内運動場フライヤー・ジムの …

(参考資料)

■開港港則は

港内における船舶交通の安全と整頓を図ることを目的として制定された法律(1948公布)。本法制定以前に存在した旧開港港則(1898年公布の勅令)が,開港のみを対象とし,また関税や検疫事務に関する規定を含んでいたのに対して,本法は,その内容を交通警察的見地からの規定に純化するとともに,その適用対象を開港以外の港も含め港一般に拡張した。適用対象となる港およびその区域は政令(港則法施行令)によって定められることとされており,1997年現在その数は500余港となっている。
■開港港則中改正
明治31年勅令139号として開港港則が制定されました。本則は開港(海外との貿易が可能とされた港)における船舶交通と衞生上の安全を図ることを目的としていました。また、開港の指定が同則の第1条でなさえていたことから、開港の指定は、同則の改定として実施されました。

第842話 毎年7月7日は「川の日」

毎年7月7日は「川の日」です。
国土交通省「川の日」
私も横浜に関係するブログを3年書く中で、<川>の重要性に気が付きました。
横浜にとって<川>は欠かせません。
特に横浜は<結晶>が作られていくように、1859年に誕生した<開港場>を核とし、川を軸に大きくなった街です。
(ダブルリバー)
横浜は<大岡川>と<帷子川>よって基盤が出来上がりました。
【横浜の視点】ダブルリバー

江戸袖ヶ浦近辺 さらに市域拡大の過程で鶴見川と多摩川の存在も横浜市の形成に欠かせません。現在相模川(寒川)から横浜に欠かせない水も運んでいます。
川から見た横浜形成史を考えてみるのは大変面白いテーマです。
開港場を包みこむ<大岡川>も横浜駅を回り込む<帷子川>もダブルリバーです。

ダブルリバー
ダブルリバー

都市、そして港に川は必要ですが<治水>も必要でした。大岡川河口域に形成された開港場最初の治水工事が<堀川工事>です。堀川は開港場の出島化という役割もありましたが、一方で吉田新田によってできた中村川の分水路の役割も担っていました。
明治に入り、<堀割川工事>が始まります。
「水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため」だけではなく“大岡川の分流”も必要となっていたからではないでしょうか。
吉田新田を<田畑>から居住地にしていくにはしっかりとした治水工事が必要になります。掘割川と吉田新田のなかに整備された<運河>により横浜の関内外が発展できますが 治水の悩みはその後も長く続きました。
ただ、上流では利水源として活用されていた<水>が都市化によって水はストレートに川へ注ぎ込み邪魔になってきます。
終戦直後、62万人だった人口が7年(1952年)で100万人、1968年には200万人を突破、谷戸の多い横浜で宅地は河川域から丘陵地に拡大していきます。
そこで抜本的な治水工事が求められ、
「大岡川分水路」計画が立てられました。
関内外の治水に莫大な予算とエネルギーがかかっていることを少なくとも<下流域>の人々は知っておく必要があるでしょう。
<横浜の水系>
横浜は4つの大きな水系によって形成されています。
■鶴見川
(入江川・滝ノ川)
■帷子川
■大岡川
■柏尾川・和泉川(境川水系)
(侍従川・宮川)
それぞれに個性豊かな川です。川と人が分離してしまいました。距離は益々開いています。小さな川は<蓋>をして暗渠化して見えなくなっています。
今日、川の日 近くにある<ドブ川?>のふるさととこの先の<河口域>そして海に関心を持つ一日にしてみてはいかがでしょうか?
No.701 運河の街誕生(序章)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6364
No.700  【横浜の河川】川いろはのイ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6336
No.435 【横浜の河川】大岡川物語(1)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=136
No.192 7月10日(火)【横浜の河川】もう一つの大岡川
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=415

(絵葉書に見る昔の川の風景)
戦前の横浜市内の川の風景

(過去の7月7日ブログ)
No.189 7月7日(日) ぼくは日本人を信じます
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=418
歴代43人目の内閣総理大臣「大平正芳」は、
1937年(昭和12年)7月1日(木)横浜税務署長の辞令を受け、
7月7日(水)横浜市に赴任しました。