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【横浜の人々】」カテゴリーアーカイブ

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【市電ニュースの風景】1931年 №21

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。
21号1931年(昭和6年)5月
東横電鐵直営 日吉台苺園開園中(二十五日前後が最盛)
二十一日 『郵船』龍田丸入港出航(午後三時四号岸壁発 桑港へ)
※この「龍田丸」でフェリス女学校校長シェーファー、日本ミッションを代表して米国伝道局100年祭出席のため帰米しました。
21日 越前屋新館(8階建・延坪2200坪)伊勢佐木町通りに開店
二十二日より二十四日まで 横濱書道展覧会(電車及バス桜木町駅下車)
=市内有名書家並各学校生徒作品陳列並席上揮毫=
=桜木町中央授産所階上にてー入場無料=
二十二日 剣道聯合会五月例会
(午後六時半北仲通二丁目三菱倶楽部にてー観覧随意)
二十二日 三州豊川いなり大祭
(前里町豊川閣出張所にてー電車初音町下車)
22日 日清製粉鶴見工場全焼
二十三日 一高對横濱高商野球戦(電車花園橋下車)
=入場無料ー午後三時より横濱公園球場にて=
二十四日 第八回マンドリン大演奏会(電車及バス本町一丁目下車)
=午後七時より本町開港記念会館にてー入場無料=
二十五日 岡村天満宮大祭(電車天神橋假停留所下車)
二十四日 全関東中等学校剣道大会
(午前八時横濱商業専門学校にてー入場無料)
二十七日 神奈川高等女学校大運動会(電車花園橋下車)
=午前十時より横濱公園運動場にてー入場無料ー雨天翌日に延期=

懸賞標語
不断の注意は最大の公徳(当選者 松永 伊吉 君)
※アラビア数字は別の年表から追記したものです。

[キーワード]
■東横電鐵直営 日吉台苺園
1926年(大正15年)2月14日に開業した「日吉駅」は、東急が新しい都市開発をイメージしたエリアで、東側に慶応義塾大学を誘致し西側に放射状の街区を持った街を計画します。スクリーンショット 2015-05-19 19.15.08■三州豊川いなり
「三州豊川稲荷」のことですが、何故「いなり」とひらがなにしたのか?
前里町に戦前の地図を見ると「豊川稲荷」があったことが判ります。戦後20年代から30年代に何らかの事情で無くなっているようです。
※市内の豊川稲荷
埋地連合町内会集会所横に小さな祠がありここが「埋地豊川稲荷」です。中区史によると扇町三丁目七番地に「一説には明治七年の創建」され戦災で消失し昭和38年に現在の地に再建されたとのこと。
神奈川高等女学校大運動会スクリーンショット 2015-05-19 19.06.21「神奈川高等女学校」は現在、沢渡にある神奈川学園高等学校の前身です。
1914年(大正3年)に「横浜実科女学校」として創設されます。
創設の地は南吉田にあった<リンネル工場>跡地の仮校舎だったそうです。
1915年(大正4年)に「横浜実科高等女学校」となり
1921年(大正10年)から「神奈川高等女学校」と改名します。
戦後の新学制から「神奈川高等学校」に1990年(平成2年)から神奈川学園高等学校となり現在に至ります。
http://www.kanagawa-kgs.ac.jp

この「市電ニュース」に登場した運動会の写真が「東急沿線」のサイトで確認できます。
http://touyoko-ensen.com/syasen/kanagawa/ht-txt/kanagawa18.html

ここで一瞬勘違いするのが
1900年(明治33年)10月10日に創立された
 <神奈川県高等女学校>です。翌年に神奈川県立高等女学校となり
1930年(昭和5年)4月1日に「神奈川県立横浜第一高等女学校」となり「第一高女」と呼ばれました。
この「市電ニュース」発行時の昭和六年時点では
「神奈川高等女学校」(沢渡)
「神奈川県立横浜第一高等女学校」(平沼)
の二校が近くにあり間違いやすかったと思います。

【今日の横浜2015】1月22日

Facebookブログ アーカイブ用に転載します。画像等は追々追加します。

1987年(昭和62年)の今日
財団法人「横浜博覧会協会」が発足し第1回理事会が開催されました。
開催後については下記のブログで紹介しています。
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催

No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催

ここでは少し「横浜博覧会YES89」前史を紹介しておきましょう。
開催の契機
横浜で博覧会開催の構想が生まれる契機となったのが1981年(昭和56年)に当時の細郷道一市長が掲げた「よこはま21世紀プラン」でした。
「市制 100周年を記念する国際的な行事等について検討する」と具体的に目標が掲げられたことがスタートラインとなります。
1983年(昭和58年)11月8日「みなとみらい21」起工式
調査・検討が重ねられた結果
1984年(昭和59年)市長は
「昭和64年の市政100周年記念事業は、国際文化都市横浜のイメージアップ、文化的な都市環境づくりとなるものを行う。構想づくりに際しては民間組織や有識者を含めた検討組織を設けて、大いに民間の知恵を活用していく」と市会で大枠を示します。今でこそ<民間の知恵を活用>するのは常識“常態化”していますが、これまでとは一歩踏み込んだフレームといえるでしょう。
1985年(昭和60年)
「横浜市制100周年記念事業基本構想検討委員会」 設置
「横浜・丘と海の祭り」100人委員会 設置(会長 牧野昇<三菱総合研究所会長>)
11月20日実行計画案提出
「みなとみらい21地区で世界的スケールのビッグイベントを〜市民参加型の新しい博覧会を開催」と提案します。
1986年(昭和61年)
提案を具体化するために市長を会長とする
「横浜・丘と海の祭り協会」が設立され開催準備が具体化されるようになりました。
そして
1987年(昭和62年)
「横浜・丘と海の祭り協会」を財団法人化し財団法人「横浜博覧会協会」が発足します。
会長には経団連生え抜きの花村仁八郎副会長が、副会長には高木文雄株式会社横浜みなとみらい21社長が選出されました。
略称をYES’89とすることや、会期、テーマ「宇宙と子供たち」などを決定し、首都圏に残された<空間=みなとみらい21>を使った壮大な博覧会計画が始まります。

※この時、実質横浜博覧会を仕切った高木文雄は、傍系から大蔵省事務次官(1974年6月26日〜1975年7月8日)となった異色官僚で、その後1976年(昭和51年)3月に第8代総裁に就任し国鉄再建に辣腕を振るいます。
彼もエピソードの多い 90年代の横浜を語る上で欠かせない人物です。

(1月22日関連ブログ)
No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って(加筆)

No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って(加筆)

【今日の横浜2015】1月21日

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1922年(大正11年)1月21日
小倉石油店が横浜に原油貯油所を開設。現在もJX日鉱日石エネルギー横浜製造所として稼働しています。
現住所は横浜市神奈川区子安通三丁目です。
この「小倉石油店」は埼玉県深谷出身の小倉常吉が12歳の頃、日本橋の油問屋の枡屋・長谷部商店に奉公後、
1889年(明治22年)に独立して石油業を開き日本屈指の製油事業にまで育て上げました。
戦前戦後、日本の石油会社も<金融機関>同様に離合を重ね大手数社に絞られてきました。現在業界第1位の占有率を持つ「JX日鉱日石エネルギー」の前身だった<日本石油=日石>が戦前有数の石油精製事業者となる過程で、最大のエポックが
1921年(大正10年)10月1日新潟の「宝田石油」との合併でした。
宝田石油は新潟に操業した当時日本最大級の石油企業です。
この国内最大の合併が行われた翌年、小倉石油店が横浜に原油貯油所を開設します。生き残りをかけた事業拡張でしたが、
1941年(昭和16年)6月1日、日本石油と合併し「小倉石油横浜製油所」は「日本石油横浜製油所」となります。

(沿革)
1922年(大正11年)1月21日ー小倉石油店が横浜に原油貯油所を開設。
1925年(大正14年)4月10日ー小倉石油店が小倉石油株式会社に改組。
1929年(昭和4年)12月ー小倉石油横浜製油所として操業開始。
1941年(昭和16年)6月1日ー小倉石油と日本石油が合併、日本石油横浜製油所が発足。
1946年(昭和21年)11月30日ーGHQの指令により、石油精製を停止。
1951年(昭和26年)10月1日ー日本石油精製設立に伴い、同社横浜製油所となる。
1997年(平成9年)7月ー日本石油精製が日石三菱石油精製に社名変更。
2002年(平成14年)4月1日ー日石三菱精製が新日本石油精製に社名変更、同社の横浜製油所となる。
2008年(平成20年)4月1日ー横浜製造所に改称。
2010年(平成22年)7月1日ーJX日鉱日石エネルギー発足により、同社の横浜製造所となる。(wikipedia参考)

関連ブログ
No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者<岸田吟香>

No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者(加筆文体変更)

1933年(昭和8年)の今日
鶴見ユタカ橋が開通しました。
この「鶴見ユタカ橋」は生麦のエピソードで紹介しています。
No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験

No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験

【今日の横浜2015】1月19日

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1874年(明治7年)の今日 星亨が第4代目の横浜税関長に就任した日です。
星は「高島学校」で英学を学び英語教師となるが陸奥宗光の推挙で明治政府に入り税関長となります。
あだ名は『押し通る(おしとおる)』と呼ばれた豪腕無双”で「明治の傑物」と評されました。その星を「押し」たる所以のエピソードが「女王事件」です。
税関長に就任早々英国のクイーン“Her Majesty”を「女王」と訳し、当時のイギリス公使パークスが激怒し「女皇」と訳せ!と抗議しましたが、星は自説を一歩も譲りませんでした。パークスは訴訟を起こし日本政府側は2円の罰金を科し横浜税関長の職務を解任することで問題解決を図ります。これが「女王事件」です。
この事件がきっかけかどうかは明確ではありませんが、星は税関長を辞任した後、大蔵省に戻りますが、まもなく英国に留学することを決意します。敵陣に乗り込むって感んじですね。
英国では難関のバリスター資格(Barrister=at=Law)「法廷弁護士資格」を取得し帰国します。帰国後、司法省附属代言人(弁護士)となります。
その後明治23年衆議院議員に当選し明治25年には衆議院議長。
29年に米国駐在特命全権公使、同33年に逓信大臣を歴任します、
明治34年の6月21日、東京市議会議長在任中に、東京市役所内で伊庭想太郎(いば・そうたろう、心形刀流剣術第十代宗家)に暗殺されてしまいます。

1月19日をテーマにした時、私の過去ブログがすぐに蘇ってきます。
恐らく700話書いてきたブログ中 アクセス数の多かったのが五島慶太をテーマにした
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢

No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢


1日1話を始めた最初の頃のもので、
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)

No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)

実は五島慶太が昭和28年1月19日付で
「城西南地区開発趣意書」という神奈川西部及び中部を含む開発計画ビジョンを提示します。
http://ja.wikisource.org/wiki/城西南地区開発趣意書
このエリアに関心のある方は ぜひこの「城西南地区開発趣意書」よ読まれることをお勧めします。

その他の1月19日
1920年(大正9年)の今日
横浜高等工業学校が市内 大岡町字中町・久能下(現在の横浜市南区大岡)に設置されました。この横浜高等工業学校は、1949年(昭和24年)5月31日に新制大学制度施行にともない「横浜国立大学工学部」となります。
この場所は現在 市営地下鉄「弘明寺駅」出口、鎌倉街道沿いにある「横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校」が設置されています。
記念碑が校門脇に建っています。

【ミニミニ今日の横浜】2月28日

この日、2月の終わり28日も取り上げてみたい出来事が多くあります。

■■1881年(明治14年)の今日
左右田 喜一郎が横浜で生まれました。
左右田(そうだ)の名で<銀行>と連想された方はかなりの横浜通ですね。
左右田銀行を一代で築いた左右田金作の長男、喜一郎は幼い頃から優秀で、1887年(明治20年)に入学した横浜小学校では第1学年を飛ばし2年生として入学、飛び級入学の草分け?といえるでしょう。
経済学者、経済哲学者であり新カント主義者の哲学者でもありました。
横浜商業学校(Y校・現横浜市立横浜商業高等学校)を経て
東京高等商業学校(現一橋大学)を優秀な成績で卒業します。
卒業後英国とドイツに学びます。留学中、父「左右田金作」の病気を知り、
1913年(大正2年)家業を継ぐために留学先より帰国します。
1914年(大正3年)父の創設した左右田銀行の取締役及び株式会社左右田貯蓄銀行の取締役に就任し父の銀行を引き継ぎます。
1915年(大正4年)3月26日、創業者 左右田金作は死去し喜一郎は頭取に就任、横浜経済界の様々な役職にも就きます。
また実業家でありながらも経済哲学の研究も続け
1918年(大正7年)からは京都帝国大学(現京都大学)文学部講師も務めました。
1920年(大正9年)の経済恐慌で横浜の有力総合商社「茂木商店」が破産し取り付け連鎖が起こります。市内の有力金融機関「七十四銀行」「神奈川銀行」「戸塚銀行」などが取り付け騒ぎとなり経営危機に。
この一連の取付騒ぎに連鎖し「左右田銀行」も経営危機となりますがなんとか倒産までは免れます。ところが大震災がそれに拍車をかけ、ついに銀行が経営破たん状態となり、喜一郎も母校東京商科大学講師や、京都帝国大学講師、貴族院議員という一切の公職をやめ事後処理にあたりますが、苦難の中、
1927年(昭和2年)8月11日病気のため46歳の若さで死去します。
リーダーを失った左右田銀行は1927年(昭和2年)12月7日に横浜興信銀行(後の横浜銀行)に引き取られ(営業譲渡)ます。

■■1902年(明治35年)の今日
「茶輸出米国商モリアン・ハイマン商会、横浜支店閉鎖(横浜歴史年表)」
この「モリアン・ハイマン商会」は神戸では有名な商社でした。ここでは米国商と表記されていますが、英国人2名が作った商社です。
(グラバーが残したパイオニア)
幕末に活躍したグラバーとフランシス・グルームが設立したグラバー商会に勤めていた二人の英国人が神戸に商社を開きます。
グラバー商会創設者の一人フランシス・グルームの弟アーサー・ヘスケス・グルームと同僚のハイマンが設立した会社で、主に日本茶の輸出とセイロンティーの輸入を手掛けます。幕末の武器を扱う政商だったグラバーの時代が終わり1870年(明治3年)にグラバー商会は倒産します。残された二人は居留地101番地にモリアン・ハイマン商会を設立し着実にビジネスを拡大していきます。
その後、アメリカに対しお茶のビッグビジネスが行われていた横浜に1883年(明治16年)本拠地を移します。
ところが横浜でのビジネスはあまり上手くいかず、
1902年(明治35年)の今日<横浜支店>を閉鎖し、神戸へ引き返すことにします。神戸居留地内の播磨町34・35番地に商社を構え改めて茶の輸出を続け利益を上げていきます。グルーム個人はリゾートビジネスに進出「オリエンタルホテル」を買収しゲオルグ・デ・ラランデの設計による新館を建設、「東洋一の洋館ホテル」と呼ばれました。ゴルフクラブの経営等、六甲山エリアの整備開発に私財を投じ順調に伸びていきますが、第一次世界大戦後の恐慌のあおりを受けオリエンタルホテルの経営状態が悪化、
1916年(大正5年)に経営権を横浜と縁の深い浅野総一郎に売却し破産を免れます。しかし、1918年(大正7年)1月2日に神戸倶楽部で開かれた新年会に出席したとき泥酔し転倒、傷口から破傷風に感染したことが原因で9日に死亡してしまいます。

■■1891年(明治24年)の今日
「川上音次郎一党は壮士芝居を吉田町蔦座で旗上興行したが幕間に演説をしてその筋の忌諱にふれた。オッペケペー節はこの時から初まつたものである(横浜歴史年表)」
こに記事にある「川上音次郎」は「川上音二郎」の誤りと思われます。私のブログでもいくつかの違った視点で紹介しています。
川上音二郎は筑前黒田藩(福岡藩)出身、「オッペケペー節」で一世を風靡した当時のパフォーマンス・アーティストの代表格です。
過去のブログでも書きましたが、wikipediaの川上紹介には横浜・茅ヶ崎との関連が全く触れられていません。このあたりに詳しい方、ぜひ追記されてはいかがでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/川上音二郎

No2 1月2日(月) ニュース芝居、最先端劇場で上演
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=621

1895年(明治28年)1月2日の話
No.415 横濱的音楽世界
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=162

No.397 横浜「座・樓・亭」探し
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=182

No.155 6月3日(日) パリ万博と神奈川沖
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=458

(2月28日関連ブログ)
1961年(昭和36年)の今日
日本郵船、氷川丸を氷川丸観光に売却。氷川丸観光株式会社を設立し6月1日に開業しました。(NYK資料)

No.59 2月28日 アジア有数の外為銀行開業
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=561
1880年(明治13年)この日横浜正金銀行開業

 
川上 音二郎
(かわかみ おとじろう、1864年2月8日(文久4年1月1日) – 1911年11月11日)は、筑前黒田藩(福岡藩)出身の「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家、新派劇の創始者。川上の始めた書生芝居、壮士芝居はやがて新派となり、旧劇(歌舞伎)をしのぐ人気を博した。「新派劇の父」と称される。 Wikipedia

【ミニミニ今日の横浜】3月6日

今日3月6日の話題は全て じっくり紹介したい濃厚なテーマですが、
この【ミニミニ今日の横浜】では残念ですがさらっとアウトラインを。

■1911年(明治44年)の今日
「神奈川の神風閣(元神風楼)が焼失した。その際イギリス人および邦人3名が焼死した(横浜歴史年表)」
神風楼は遊郭です。横濱の遊郭移動史を一度整理して紹介せねば!!と思っているだけで中々まとまっていませんが、市役所同様(比較が悪い)引越しの歴史です。
最初は太田屋新田(現在の横浜公園あたり)に港崎遊郭(代表が「岩亀楼」)を作り最も華やかな時代でした。
火災で関外の吉田新田北一ツ目に移動、吉原遊郭といわれました。
またまた火災で焼失、高島町に移転して高島町遊郭となります。
この時の代表が「神風楼」で、経営者は高島嘉右衛門。
その後また火災で焼失吉田新田の南三ツ目に移動。戦後の1958年(昭和34年)まで永真遊郭街として引き継がれます。この他にも、市内には幾つか遊廓が存在した地域がありました。弘明寺とか台町とか。
この辺は別途紹介します!
light_横濱絵葉書021 light_横濱絵葉書025 「神風楼」は「No.9」という看板を掲げ有名になりますが、この神風楼にまつわる話(人物)はたとえば清水次郎長(山本長五郎)、若き野口英世、箱根富士屋ホテル創業者 山口仙之助の養父は山口粂蔵で、ここ神風楼の支配人でした。
No.197 7月15日(日)老舗ホテルを支えた横浜

■1928年(昭和3年)の今日
「戸塚実科高等女学校が創立された(横浜歴史年表)」
1928年(昭和3年)3月6日認可  戸塚町立戸塚実科高等女学校
1939年(昭和14年)4月1日  横浜市立戸塚実科高等女学校
1943年(昭和18年)4月1日  横浜市立戸塚高等女学校
1948年(昭和23年)4月1日  横浜市立戸塚高等学校
校歌は佐佐木信綱作詞、信時潔作曲共に校歌づくりの巨匠で晩年の作。

■1936年(昭和11年)の今日
「チャップリンが横浜に上陸した(横浜歴史年表)」
当時世界的な有名人だったチャップリンはアジア紀行の際、北太平洋の女王「氷川丸」を選びます。その理由は<氷川丸の「天麩羅」がチャップリンを虜にした>からだといわれています。

No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=500

■1940年(昭和15年)の今日
「横浜・サイパン・パラオ間の定期航空が開始された(横浜歴史年表)」
これが今日の一番ネタです。
「南洋群島とわが本土とを結ぶ横浜〜サイパン〜パラオ間四千百二十キロの空の制覇に向った大日本航空旅客輸送は六日横浜、サイパン間を見事征服し日本航空界の輝かしい躍進振りを見せている時、六日の決算委員会で福田関次郎氏(民政)が航空路の拡充、航空不安の除去その他につき質問、藤原航空局長官、桜井航研技術部長からそれぞれ答弁があった、その答弁の中で最も注意を引くものに南洋島を空から結ぶいわゆる南洋島内線の拡充で、これは現在横浜からサイパン、パラオまでの航空路をヤルートまで延長しさらにパラオ、ヤルート間のトラック島とサイパンを結ぶことになっているが、この実現は来る七月から十二月まで毎月一回試験飛行を行い昭和十六年一月から定期空路を確立すべく努めることになった(大阪毎日新聞)」
と当時の新聞記事にもあるように、
かつて横濱、磯子から国際線が飛び立っていたという事実だけでも驚きです。
根岸飛行場あたり 横濱で教鞭をとっていた作家「中島敦」も作品の中で横濱の飛行場を描いたシーンがあります。
No.692 世界一周機「ニッポン」(号)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6006
No.214 8月1日 (水)開港場を支えた派川工事
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=393
暦で語る今日の横浜【9月10日】
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=75
No.376 1月10日(木)中島敦のいた街
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=207
いずれじっくり紹介したいと思います。

(3月6日関連ブログ)
No.66 3月6日 ラーメンがなくなる日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=553

【ミニミニ今日の横浜】3月5日

タイムリーなネタから

1854年(嘉永7年3月5日)
「吉田松陰、海外渡航を狙って保土ケ谷宿にくる。」
数え年・25歳の時のことです。

ペリーが来航した際、一年後の再来を予告し去りますが、
半年も早くペリーは
1854年2月13日(嘉永7年1月16日)
琉球を経由して再び浦賀に来航し幕府を慌てさせます。その後も次々と艦船が江戸湾に入港、
3月19日(嘉永7年2月21日)
最終的に総勢9隻のペリー艦隊が江戸湾に集結します。
この時 ペリーに直接会う!と決めた人物が吉田松蔭です。足軽の金子重之輔と二人で、まず東海道の「保土ケ谷宿」に入り、そこから横濱に入ります。(おそらく 保土ケ谷道から戸部に出た?)
light_吉田松陰 ところが横濱では沖のペリー艦隊に近づくことが実行できず失敗。
ペリーが下田に移動したことを知り、伊豆に向かった松蔭らは海岸につないであった漁民の小舟を盗み艦船に向かい旗艦ポーハタン号に乗船、渡航を直訴しますが拒否され、断念。幕府の命で萩の野山獄に幽囚されることになります。下田踏海事件というそうです。
これを美談とするのか、愚行とするのか? 意見が別れるところです。
日米ワシン

No.65 3月5日 サルビアホール一周年(改訂)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=554
今日は 短く 失礼します。

【ミニミニ今日の横浜】3月4日

今日は簡単に

1947年(昭和22年)の今日
「野毛にマッカーサー劇場(実演と映画封切り)開場」
野毛の一角に戦後一時期占領軍司令官<マックアーサー>の名の劇場が野毛にありました。
位置は現在の桜木町JRAあたりで
美空ひばりが本格デビューを果たした「横浜国際劇場」に隣接した場所に同時期開館しました。 ※横浜国際劇場 5月5日開館

「マッカーサー劇場」は地図・写真記録等から<マックアーサー劇場>となっていましたが、記録ではマッカーサーとなっています。
Douglas MacArthur 確かにマックアーサーと読むのが素直ですが、スコットランド・ゲール語で息子を意味する<アーサーの子MacArthu>は一般的にマッカーサーと表記されています。
http://www.hamakei.com/photoflash/816/

野毛の「横浜国際劇場」は日本映画・演芸・歌謡ショー中心の劇場で
「マッカーサー劇場」は洋画専門館としてオープンしました。
(占領の時代)
1945年(昭和20年)に戦争が集結し、米軍が横浜市域の多くを接収します。米国駐留軍は軍事施設を初め、住宅施設・補給施設そして文化施設を横浜に設置します。
特に住宅が多かったためか<映画館、劇場、スポーツ等>の文化施設が横浜中心部に開設します。
占領文化施設の一部を下記に示します。
「横浜赤十字クラブ」「バンカー ズ・クラブ」「ゴールデ ンドラゴン・クラブ」「ク ロスロード・クラブ」「ゼブラ・クラブ」「コロニアル・クラブ」「セブ・メス・ホール」「ルー・ゲーリックスタジアム(平和球場→横浜球場)」
伊勢佐木町に開設された「オクタゴン劇場(横浜松竹劇場の跡廃止)」
開港記念会館は「メモリアル・ホール」
松屋伊勢佐木町店は「横浜PXメインストア」

米軍施設ではない「マッカーサー劇場」は、アメリカの民間企業が建てたものなのか?
当時の神奈川新聞では
「其の名も”マッカーサー劇場”元帥を讃へ横濱野毛に開館」とタイトルが書かれていますので、戦後日本が占領軍司令官を多く<讃え>た施設の一つといえるでしょう。
戦後の日本、アメリカに対し<節操が無い>のか<日本独特の柔軟性>なのか議論の別れるところですが、占領軍へのプレセンスをいち早く行った横浜市民の受容性には感服します。
「一般からその館名を公募してゐたところ、廳募は1万7千通に上った。二十三日にその審査を開催、堀内敬三(音楽家)北林透馬(作家)中山富久(作曲家)橘正禄(舞踊家)青木純二(神奈川新聞文化部長)平古壽次(瑞穂興業社長)などが厳選入選候補としてマッカーサー劇場、ミューズ劇場、希望劇場、セントラル劇場、オリンパス劇場などが残った、さらに審査の上で確定するが、進駐軍当局の認可を得てマッカーサー劇場と命名されると、日本では最初のマックアーサー元帥を讃える劇場が横濱に誕生するわけ、尚この劇場では横濱で最初のダンシングチームや市民演劇團も育成していくといふ。
(昭和21年9月26日付神奈川新聞)」

ちなみにこの1947年(昭和22年)時代
横浜市役所は、マッカーサー劇場から徒歩5分
五代目市庁舎(1944 年~1950年)として旧老松国民学校(老松中学校)にありました。

(関連ブログ)
No.139 5月18日 マッカーサーに嫌われた男
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=476

No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=352

No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=363
(3月4日関連過去ブログ)
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=555

No.708 【1月15日】神奈川県令の交代

1874年(明治7年)の今日
神奈川県令の交代がありました。
「マリアルス号」事件で英断を下した神奈川県(権令)「大江卓」が大蔵省五等出仕の任命を受け転任します。後継には横浜運上所在勤、租税権頭だった20代の若き「中島信行」が就任します。(〜1876年(明治9年)3月28日)
権令(ごんれい)とは県令に次ぐ県の地方長官のことです。
大江卓は、ペルー船籍の「マリアルス号」事件で、事態解決のため担当(県令)だった「陸奥宗光」の代わりに急遽神奈川権令となり日本の司法権を守ったことで有名な人物です。
大江卓の妻は後藤象二郎次女、小苗で、後藤象二郎が義父にあたります。
この大江卓は横浜に名を残しています。桜木町駅前から関内方向に走る16号線の「大江橋」です。現在は「大江橋」に隣接して「桜川橋」が架かっているため特に目立ちませんが、横浜が<運河の時代>だったころは初代横浜駅と関内を結ぶ重要な橋でした。

「マリア・ルス事件〜大江卓と奴隷解放」武田八洲満 著 (有隣堂、1981年5月)
No.257 9月13日(水)司法とアジアの独立

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(着任の中島信行)
1874年(明治7年)の今日、若き神奈川県令となった彼を簡単に紹介しておきましょう。
1846年10月5日(弘化3年8月15日)生まれ1899年(明治32年)3月26日に亡くなります。「日本の政治家。男爵。通称は作太郎。長男は中島久万吉。最初の妻は陸奥宗光の妹中島初穂(1877年死去)で、後妻は女性解放運動家の岸田俊子。(Wikipedia)」

この表現では、本人より長男と二人の妻にフォーカスがあたっているようですが、中島は1887年(明治20年)12月26日に公布された悪名高き治安法「保安条例」で<江戸所払い※>を命じられたバリバリの自由民権運動家でもありました。

※<江戸所払い>は冗談ですが、
皇居から3里(約11.8km)以外に退去させるという途方も無い法律。
保安条例
第四条 皇居又ハ行在所ヲ距ル三里以内ノ地ニ住居又ハ寄宿スル者ニシテ内乱ヲ陰謀シ又ハ教唆シ又ハ治安ヲ妨害スルノ虞アリト認ムルトキハ警視総監又ハ地方長官ハ内務大臣ノ認可ヲ経期日又ハ時間ヲ限リ退去ヲ命シ三年以内同一ノ距離内ニ出入寄宿又ハ住居ヲ禁スルコトヲ得

(公務員から政治家へ)
「外国官権判事や兵庫県判事を経て、ヨーロッパ留学をした後は神奈川県令や元老院議官をつとめた。自由民権運動が高まりを見せると、板垣退助らとともに自由党結成に参加して副総理とな(Wikipedia)」った中島信行は「保安条例」で1887年(明治20年)横浜へ<所払い>となります。
この<所払い>で以前県令となり知人の多かった横浜に移った中島は、地元横浜で政治活動を開始、1890年(明治23年)7月1日に行われた第1回衆議院議員総選挙で神奈川県第5区から立候補し当選します。
※第1回衆議院議員総選挙(投票率は93.91%)
神奈川小選挙区当選者
1区で島田三郎
2区で山田泰造
3区で石坂昌孝・瀬戸岡為一郎
4区で山田東次
5区で中島信行
6区で山口左七郎
この当時、神奈川県は現在の県域とは少々異なっていました。都下三多摩地区が神奈川県に属していました。

第1回衆議院議員総選挙でみごと当選した日本初の衆議院議員について
明治24年に発刊された「明治新立志編」に当選直後の中島信行以下当選者の評伝が書かれています。

★この「明治新立志編」で中島信行が 麦酒の酒税増税反対を主張した件について詳しく説明しています。ビールの事業化を日本で初めて成功した<横浜>が地盤? だったからでしょうか?機会があれば調べてみたいところです。

(通算648話)横浜火災海上保険を創った男

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中島信行関連
No.475 点・線遊び「足利尊氏からフェリスまで」

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※中島信行夫婦の墓(神奈川県中郡大磯町大磯・大運寺)

No.153 6月1日(金) 天才と秀才

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No.320 11月15日(木)ラッピングが似合う街

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No.704 《横浜本》「幕末日本探訪記」

横浜に関係する書籍から外国人が記録した“ある日の横浜を知る一冊”を紹介しましょう。
タイトルは「幕末日本探訪記」
light_201501060026この本は世界的プラントハンター ロバート・フォーチュン(Robert Fortune)の日本探訪記の訳本です。彼は、1812年9月16日(文化9年)スコットランドに生まれ、エディンバラ王立植物園で園芸を修めた後、ロンドン園芸協会で温室を担当していました。比較的貧しい家に育った彼にとって、ロンドン園芸協会の職はかなり恵まれたものでしたが、彼の非凡な才能は30歳を過ぎて大きく開花します。
1840年代、フォーチュンが30代の頃、英国の富裕層は限りなき欲望の果てに新しいお茶の贅
を求めていました。“新種のお茶”であれば貴族たちは目の色を変え欲しがる贅沢品となっていました。当時、英国から独立したばかりの“アメリカ”でもお茶の人気は高まるばかり、このお茶ブームが後に開国する日本(横浜)を左右する貿易品となります。
<新しいお茶がほしい!>
大英帝国の東アジア貿易を担っていた「東インド会社」からフォーチュンは中国の<お茶の木>ハントを依頼されます。輸入しないで自国生産するためでした。
背景にはアヘン戦争(1840年〜1842年)があります。この忌まわしき戦争の要因は、大英帝国による茶、陶磁器、絹等の輸入超過解消でした。欲しいものを入手する代わりに<インド産麻薬>を中国に売ることで帳尻を合わせようとしたのです。→三角貿易
アヘン戦争終結後の<南京条約>によって無理やりこじ開けられた中国は外国人(英国人)の国国内往来が自由になります。これをきっかけに彼は中国に派遣されることになります。お茶を輸入するより自国の植民地で作るためのプラントハントでした。
中国に派遣されたロバート・フォーチュンは<郷に従う>優れた才能がありました。中国語を素早く習得し、中国人の服装で茶の産地をくまなく調査し多くの品種を(プラントハント)採取しインドに移植するというミッションを見事にこなします。
中国からインドに移植された<お茶>で現在も世界のお茶市場で人気ブランドとなっているのがダージリンです。このダージリンの登場で中国茶の人気が急落し、お茶市場は中国からインドに移ります。
<新しい花を求めて>
お茶だけではなく珍しい花、新しい花の品種も欧州市場で人気でした。菊、蘭、ユリなど東洋を代表する観賞植物を英国にもたらしたのもフォーチュンでした。
Fortune’s Double Yellowというバラの品種をご存知ですか?
この品種は彼が発見したものです。
http://www.paulbardenroses.com/teas/fortunes.html
http://www.helpmefind.com/rose/l.php?l=2.2808
またFortunella japonica、和名をキンカン。
Fortunellaはプラントハンター「フォーチュン」がこの品種をヨーロッパに紹介したことで献名されました。
<開国とともに>
前置きが長くなりましたが、
世界的プラントハンター ロバート・フォーチュン(Robert Fortune)は、
1860年10月(万延元年)開国した日本を二度訪れています。このときの記録が「江戸と北京ー幕末日本探訪記」(A Narrative of a Journey to the Capitals of Japan and China)として発刊されます。当時、開港(開国)から明治初期には多くの外国人が訪日し<日本滞在記>を著していますが「江戸と北京ー幕末日本探訪記」は、プラントハンターという職業柄かなり異なった視点で<日本>を見つめている点が興味深いところです。

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No.470 パーセプションギャップを読む

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No.402 JIMAE TABI

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(日中比較)
この本はタイトル通り、「江戸と北京ー幕末日本探訪記」(A Narrative of a Journey to the Capitals of Japan and China)日本と中国を訪れた記録の全訳ですが“中国滞在記”の占める割合は少なく主に日本訪問記となっています。
フォーチュンは、日本を訪問する前の1840年代から50年代に中国を長期間中国に滞在していました。ちょうど列強が中国を舞台に植民地化を進めていた時期です。
フォーチュンにとっても外国との交易のなかった未知の国日本には特に別の感情が働いていたのかもしれませんが、この本の中では中国は簡潔に、日本は驚き“発見”のニュアンスが感じられます。

(フォーチュンの横浜)
簡単にフォーチュンの横浜記の一部を紹介しましょう。
フォーチュンは長崎に上陸した後、数日を過ごし「風光明媚の長崎に別れを告げて」「江戸に近い神奈川港に出発」します。
江戸湾を目指した多くの外国人が<富士山>に出会いこの美しさに様々な形容を残していますがフォーチュンは意外とさっぱりした「内陸50〜60マイルの地点にそびえ立つ富士山は、日本人にとって、無二の崇高な山である。山の北面は雲におおわれていたが、南側に鮮やかな緑の線が見えた」とそっけない表現でした。
フォーチュンの視点は、山よりも<森>にあり、森よりも<樹木>に向いていました。

■貿易港としての横浜
彼が横浜沖(神奈川沖)に到着したのは1860年10月30日(万延元年9月17日庚申丁未)です。彼は、日本政府と各国との攻防が修好通商貿易で明記された<神奈川湊>と開港場の<横浜>を往復しながら広く周辺地域にも足を伸ばします。
<横浜開港場>は開港直後に堀川が作られ出島のようになります。この出島を<囚人扱い>とする外国人も多かったようですが、彼は「われわれ外国人を攘夷党の危害から守ってくれる、何物にも勝る適切な計らいだったと言える。」と評価しています。
また神奈川湊ではなく横浜となった開港も
「もし神奈川に決定されたとなると、この海岸は港として不適切なので、天候の状態によって、船はしばしばはるか沖合に停泊しなければならないだろう、というのである。そこで概括すると、横浜は彼らの貿易に適した場所ということができる。言うまでもなく、彼らは日本に商売をするために来たのだから。」と現実的な評価を下しています。
開港後1年余しか時間が経っていない時点で、横浜開港場の位置づけを科学者(植物学者)の視点で冷静に分析しています。実際一時的にせよ“外国人商人”は開港場に居を構え、建前にこだわる“各国政府関係者”は神奈川宿と江戸に拠点を置いて活動していました。

1860年10月30日(万延元年9月17日)フォーチュン日本到着。
1861年7月5日(文久元年5月28日)第一次東禅寺事件<イギリス公使館襲撃>
1862年6月26日(文久2年5月29日)第二次東禅寺事件<イギリス公使館襲撃>
1862年9月14日(文久2年8月21日)生麦事件<イギリス人殺傷>
これら外国人殺傷事件が起こる前、日本滞在中のフォーチュンは「横浜」「神奈川」「江戸」「江戸近郊」「瀬戸内」「長崎」「湘南・鎌倉」と精力的に旅行し、プラントハントをしながらこの国を満喫します。
彼の記述から面白い事実も知ることが出来ました。
「開港場」から「神奈川」に移動する際、船を使っている記述がありました。当時重要な東海道都の連絡路であった<横浜道>を通行するだけではなかったことには少し驚きも感じました。
確かに、外交官たちは神奈川湊の寺に公館を設置していましたから、民間外国人の暮らす開港場と神奈川は移動が自由だったといっても不思議はないでしょう。

幕末明治期の外国人日本論には偏見も多く見られますが、フォーチュンの日本分析には「外国人襲撃事件」の起こる中でも冷静で的確な観察と分析が行われている点で興味ある一冊といえるでしょう。

「江戸と北京ー幕末日本探訪記」三宅馨 訳 講談社学術文庫