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「【記憶に残るスポット】」カテゴリーアーカイブ
【ミニミニ今日の横浜】3月7日
1978年(昭和53年)の今日
「首都高速道路横浜市道1号横羽線・2号三ツ沢線が開通。」
横浜駅西口出入口(金港JCT)から神奈川区の三ツ沢(第三京浜との接続)が開通しました。これによって首都高速神奈川2号三ツ沢線が全線開通します。
広い意味での「狩場インターチェンジ」の機能が完成し、
首都高速道路、保土ヶ谷バイパス、第三京浜道路、横浜新道に接続します。この時点では「横浜横須賀道路」は未完成です。
2号三ツ沢線 金港JCT〜三ツ沢JCT間 2.3Kmの短い区間ですが、この2号線の開通で、横浜の道路網の重要な区間がつながったことになります。
<関連年表>
1959年(昭和34年)10月28日
国道1号横浜新道の全線が開通します。
1965年(昭和40年)12月19日
第三京浜が全線開通します。
1968年(昭和43年)7月5日
第三京浜と横浜新道との連絡路が開通します。
1972年(昭和47年)8月7日
横羽線、金港JCTまで開通します。
1973年(昭和48年)4月17日
保土ヶ谷バイパスが開通し、新保土ヶ谷インターチェンジの一部が供用開始となります。
1974年(昭和49年)9月25日
新保土ヶ谷インターチェンジ〜狩場インターチェンジ間が開通し、新保土ヶ谷インターチェンジが全面通行可能となります。
1978年(昭和53年)3月7日
横羽線・2号三ツ沢線が開通し横浜新道・第三京浜と接続しました。
同時に横羽線・1号の金港JCT〜横浜公園出入口区間が開通します。
1979年(昭和54年)12月6日
有料道路「横浜横須賀道路」日野IC〜朝比奈IC間が開通します。
1984年(昭和59年)2月2日
横羽線が横浜公園出入口〜石川町JCT開通で、全線開通。
1985年(昭和60年)4月1日
横浜新道と首都高速神奈川2号三ツ沢線とを連絡する「三ツ沢ジャンクション」を新設。
1993年(平成5年)3月1日
首都高速神奈川2号三ツ沢線三ツ沢ジャンクション改良
(3月7日関連年表)
No.67 3月7日 教育会館にて夜露死苦!
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=552
下記の
No.43 2月12日 “浮浪者狩り”
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=578
では、荒廃する子供達の姿が浮き彫りにされました。
金属バット事件から校内暴力へと拡大していく時代です。
あなたにとって 80年代はどんな時代だったでしょうか?
その他
1948年(昭和23年)の今日
新警察法の公布に伴い、自治体警察として「横浜市警察」が発足します。市内各警察署は例えば「横浜市加賀町警察署」と名乗ることになります。
同時期に消防組織も自治消防組織となり1948年(昭和23年)の今日、横浜市消防本部が設置されます。
※加賀町警察といえば横浜最初の警察署です。
No.185 7月3日(火) 実録「居留地警察」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=422
【ミニミニ今日の横浜】3月4日
今日は簡単に
1947年(昭和22年)の今日
「野毛にマッカーサー劇場(実演と映画封切り)開場」
野毛の一角に戦後一時期占領軍司令官<マックアーサー>の名の劇場が野毛にありました。
位置は現在の桜木町JRAあたりで
美空ひばりが本格デビューを果たした「横浜国際劇場」に隣接した場所に同時期開館しました。 ※横浜国際劇場 5月5日開館
「マッカーサー劇場」は地図・写真記録等から<マックアーサー劇場>となっていましたが、記録ではマッカーサーとなっています。
Douglas MacArthur 確かにマックアーサーと読むのが素直ですが、スコットランド・ゲール語で息子を意味する<アーサーの子MacArthu>は一般的にマッカーサーと表記されています。
http://www.hamakei.com/photoflash/816/
野毛の「横浜国際劇場」は日本映画・演芸・歌謡ショー中心の劇場で
「マッカーサー劇場」は洋画専門館としてオープンしました。
(占領の時代)
1945年(昭和20年)に戦争が集結し、米軍が横浜市域の多くを接収します。米国駐留軍は軍事施設を初め、住宅施設・補給施設そして文化施設を横浜に設置します。
特に住宅が多かったためか<映画館、劇場、スポーツ等>の文化施設が横浜中心部に開設します。
占領文化施設の一部を下記に示します。
「横浜赤十字クラブ」「バンカー ズ・クラブ」「ゴールデ ンドラゴン・クラブ」「ク ロスロード・クラブ」「ゼブラ・クラブ」「コロニアル・クラブ」「セブ・メス・ホール」「ルー・ゲーリックスタジアム(平和球場→横浜球場)」
伊勢佐木町に開設された「オクタゴン劇場(横浜松竹劇場の跡廃止)」
開港記念会館は「メモリアル・ホール」
松屋伊勢佐木町店は「横浜PXメインストア」
米軍施設ではない「マッカーサー劇場」は、アメリカの民間企業が建てたものなのか?
当時の神奈川新聞では
「其の名も”マッカーサー劇場”元帥を讃へ横濱野毛に開館」とタイトルが書かれていますので、戦後日本が占領軍司令官を多く<讃え>た施設の一つといえるでしょう。
戦後の日本、アメリカに対し<節操が無い>のか<日本独特の柔軟性>なのか議論の別れるところですが、占領軍へのプレセンスをいち早く行った横浜市民の受容性には感服します。
「一般からその館名を公募してゐたところ、廳募は1万7千通に上った。二十三日にその審査を開催、堀内敬三(音楽家)北林透馬(作家)中山富久(作曲家)橘正禄(舞踊家)青木純二(神奈川新聞文化部長)平古壽次(瑞穂興業社長)などが厳選入選候補としてマッカーサー劇場、ミューズ劇場、希望劇場、セントラル劇場、オリンパス劇場などが残った、さらに審査の上で確定するが、進駐軍当局の認可を得てマッカーサー劇場と命名されると、日本では最初のマックアーサー元帥を讃える劇場が横濱に誕生するわけ、尚この劇場では横濱で最初のダンシングチームや市民演劇團も育成していくといふ。
(昭和21年9月26日付神奈川新聞)」
ちなみにこの1947年(昭和22年)時代
横浜市役所は、マッカーサー劇場から徒歩5分
五代目市庁舎(1944 年~1950年)として旧老松国民学校(老松中学校)にありました。
(関連ブログ)
No.139 5月18日 マッカーサーに嫌われた男
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=476
No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=352
No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=363
(3月4日関連過去ブログ)
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=555
No.707 野毛「海員碑」について
野毛成田山横浜別院から一つのモニュメントが消えました。
海員悼逝の碑です。
新本堂造営のために設置場所が無くなったからでしょう。
本堂の脇にこの「海員悼逝の碑」が建ったのは1903年(明治36年)6月のことです。明治維新以来の海難に殉じた多くの船員の霊を慰めるために明治32年、当時の海員倶楽部所属の船員が呼びかけで同じ職の船員たちの拠出によって建立されたものです。題字は伊藤博文の筆によるものだそうです。
横浜都市発展記念館にある絵葉書コレクションには
「横浜野毛山ヨリ市街ヲ望ム」というタイトルでこのモニュメントが写っているものがあります。
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a01_001-16.htm
「備考:正面の塔は1903(明治36)に野毛山不動尊内に建立された海員悼逝碑。碑には国際信号旗がはためいている。悼逝碑の左側に横浜停車場が、画面右奥に指路教会が見える。絵葉書は1907(明治40)〜1918(大正7)年の発行。トンボヤ刊。」
その他
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a13_028_34.htm
「震災で上部に見えている飾りを失う。」
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a13_028_20.htm
■当時の観光ガイドブックより:
「山号を成田山 寺号を延命院と云ふ 成田山新勝寺の末寺で準別格本山である 明治三年南太田の普門院に遥拝所を設けたが同九年高島嘉右衛門氏から敷地の寄附を受け現在の場所に移つた」(『横浜名勝』横浜市銃後奉公会、1939年)
解説:海員悼逝碑(画面右)上部に設置されていた碇の飾りが見えないことから関東大震災以降の撮影か。絵葉書は1918(大正7)〜33(昭和8)年刊。
このようにこの「海員悼逝の碑」は関東大震災で倒壊してその後再建されますが、中が空洞になっていて震災直後は避難場所になっていたという記録も残っています。
ここにある絵葉書には
震災前の上部に設置されていた碇の飾りが見えるところから、震災前に撮影され発行されたものといえるでしょう。
碑の横には国文学者の重野 安繹(しげの やすつぐ)が書いた海員悼逝之碑文が設置されていました。
今後、塔の再建予定があるのか?ない場合でも碑文等の保存がされるのか?
確認していないのでわかりません。
すでに取り壊しているので 遅いかもしれませんが、できればこの碑は何らかの形でこの地に残してほしいと希望するものです。
[野毛関連ブログ]
No.323 11月18日(日)歓楽街の住まい方 (加筆修正)
No.703 【閑話休題】ちょいと東西比較
703番目の投稿にしては軽すぎ?ですが、
大目標1000話までは軽く飛ばしていかんがための助走とご勘弁ください。
横浜の名産?といえば 何を思い起こしますか?
横浜といえば「シウマイ」でしょ。でもここではシウマイは横浜名物!?のカテゴリーに入れておきましょう。名産と名物、違いに厳密な定義はありませんが、
ここでは名産とは 農水産物のことを指すことにします。
横浜名産といえば 浜梨、小松菜、キャベツが注目されています。
海の物といえば <小柴の蝦蛄>が有名ですが、野島の「海苔」も頑張っています。
酪農も元気が出てきたようです。
それでは ここで大昔の横浜名産の話をちょっと紹介しておきます。
■西の岡山、東の綱島といえば!何のことでしょう?
【桃】ですね。
かつて東西で「西の岡山、東の綱島」と比較されるほど 美味しい桃が<綱島>で生産されていました。現在の生産農家はごく少数となってしまいました。
綱島の桃を使ったビールも作られています。
なぜ綱島の「桃」が名産となったのでしょうか?
桃は水害に強く、鶴見川が良く氾濫した綱島エリアに適した農産品でした。
■西の月ノ瀬(奈良)、東の杉田といえば!?
これは【梅】のことです。
「杉田梅」かつて東西で名を馳せた東の名産品のひとつです。江戸から明治にかけて「杉田(すぎた)」といえば梅のことでした。杉田梅最盛期は30,000本といわれていたほどの梅の観光名所で時の有名人が「杉田」を訪れています。
No.53 2月22日 アーティストツーリング
一方の西の月ノ瀬(つきがせ)村は、現在の奈良市月ヶ瀬にあたります。奈良県の北東端に位置し現在も梅の名所です。奈良県ですが、地勢的には三重県伊賀地域との結びつきが強いエリアで梅の木が広がる様から「月ヶ瀬梅渓」とも呼ばれ、古くから有名な梅林として日本政府が最初に指定した名勝の一つです。
杉田といえば!
江戸時代の特産品!で横浜産の輸出の花形!!がありました。
<煎海鼠(イリコ)>です。煎海鼠とは、中国で人気の高級素材で<なまこ>のことです。
江戸時代後期、杉田村の名物といえば「梅」と「煎海鼠(イリコ)」だったのですが、梅に少し名残がある程度です。
この<煎海鼠(イリコ)>は江戸時代、中国への貴重な輸出品だったそうです。
横浜の名産品
もっともっと増やしたいものですね。
No.699 【横浜 失われた風景】ある総菜店
1990年代、戸部駅近辺に事務所があって良く買った総菜店があります。
当時は写真なんて考えていなかったので記録はありませんが、魚のフライがめちゃくちゃ美味しいお店でした。
コンビニでライスだけ購入して総菜はここで揃えるランチに凝った時期もありました。
この店の名は「たかさご亭」。国道一号線沿いにある知るヒトぞ知るお店でした。
横浜の総菜店として紹介したことがあります。
この時お店の名は伏せて欲しいとの要望があり「店名は秘密」としました。
<横浜18区のほん「横浜の食材」>
国道一号線を戸部駅あたりから保土ケ谷駅方向に走ると左手に、セットバックせず拡張工事から取り残されているような“一見 立ち退き反対のような”建物が2軒あって、その一つが総菜店「高砂亭」看板は「たかさご亭」とひらがなになっていました。
一方反対側にはこれまた取り残されたように「理容店」と「酒屋」が営業中で、他に数軒閉店した店舗が並んでいました。時系列ははっきり記憶していませんが
理容店・酒屋が閉まった後も「たかさご亭」は営業していて、コロッケを買いました。
お店には 時折 笑顔がすてきなおばあちゃんがいらして立ち話をしたものです。
このあたりの国道1号線拡幅工事のための土地買収が始まったのがバブルの直前で、以来四半世紀遅々として進んでいないのが現状です。京急戸部駅の拡幅に対応した工事が終了してるので、そろそろ最終工事に入るかな?という状況ですね。
元々 このあたりは1928年(昭和3年)9月に扇田町となり戦後の1966年(昭和41年)に西区中央となったエリアです。扇田のなごりは石崎川に架かる「扇田橋」くらいですね。
おばあちゃんの話では「たかさご亭」は戦後まもなく義理のお兄さんが開店したお店が始まりだとか。区役所があり市電「扇田駅」近くということもあり商売は順調だったようです。
先日、閉店した「たかさご亭」前を通ったら閉店の張り紙に多くの方の書込みがありました。心温まるメッセージですね。
もったいないので記念に撮っておきました。
人づての話では、国道拡幅計画に対し、反対ではないがお店を移転して営業するつもりは無いので、ぎりぎりまで営業したいという意向があったようで、計画進行が遅れることにともなってこの店の命も長らえたというところのようです。また一つ 横浜から時代の記憶が消えていきました。
No.698 【横浜 橋物語】幻の橋?、吉田橋。
「橋」の定義はなんだろう?
「人や物が、谷、川、海、窪地や道路、線路などの交通路上の交差物を乗り越えるための構造物である」
「河川・渓谷・運河などの上に架け渡し、道路・鉄道などを通す構築物。橋。」
「土木工学ハンドブック」では
「橋梁とは、道路、鉄道、水路等の輸送路において、輸送の障害となる河川、渓谷、湖沼、海峡あるいは他の道路、鉄道、水路等の上方にこれらを横断するために建設される構造物の総称である。」「市街地において効率的な土地利用の観点から、道路上あるいは河川上の空間に連続して建設される高架橋も橋梁の一形態である。」
今日は<橋>の話です。江戸から明治に<近世>から<近代>になった大きな変化の一つに橋梁の歴史があります。江戸幕府は橋梁設置に消極的でした。一方で近代に入り、橋梁は政府の重要政策となります。ちなみに大阪も東京も<橋都(きょうと)>です。城下町には橋がシンボルですね。
前置きが長くなりましたが、横浜も新田の町、運河の町として発達してきました。特に開港時からは<橋>が重要になってきます。
横浜開港場の<橋>といえば、
『吉田橋』です。ここは関門橋ですから、まさに横浜開港場の<関内><関外>を繋ぐ橋でした。このあたりに関しては、多くの歴史情報、観光情報がありますので<吉田>の名を含めて調べる楽しみがあると思います。実際に『吉田橋』脇に解説看板も記念碑もありますので参考にしてください。
今日は 吉田橋の歴史的解説をするためにブログを書き始めた訳ではありません。
もう少しひねくれた 素朴な疑問です。
冒頭に橋ってなんだろう?と疑問を提示しました。
(川は濁って橋は濁らない?)思いっきり寄り道します。
ちなみに、行政的に<橋>は<はし>で<ばし>とは表記されていません。
川の表記は<おおおかがわ><つるみがわ><かたびらがわ> 何故なんでしょうね?
本論に行く前に横路にそれていますが どんどん行きます。
当たり前ですが橋には一つ一つ名前があります。それぞれ橋を渡る時 橋の名を確認することができます。(面倒でなければ)
橋=橋梁には 両脇に欄干=高欄(こうらん、hand rail)があります。この高欄の端々(四隅)に親柱というものを立てたり、プレートを設置したりします。
この高欄の四隅に着いている橋に関する<プレート>河川橋の場合、全て異なっています。
1橋梁名称の正式名称(漢字かな表記)
2橋梁名称のふりかな(ひらがな表記)
3設置河川名称
4設置年月
では?陸橋や架線橋の場合は?
→謎解きは ご自分の目で!確認してみましょう。(別の機会にじっくり紹介します)
はなしが捩れてきましたので元に戻します。
横浜が開港した際、治外法権の居留地(関内)と市街地(関外)を結ぶ橋が「吉田橋」です。
<派大岡川>の上に架けられ、その後ここを首都高速が通ることになりましたので、河川橋から架道橋に変身します。
【架道橋】道路や鉄道を立体交差で越えるために架けられた橋。跨道(こどう)橋・跨線橋など。
吉田橋、(首都高道)路の上を渡る<橋>であるはずなんですが、
「吉田橋」は橋じゃない?かもしれないという 疑問が湧いてきたのです。
いやー どうみても 橋でしょ!
でも、横浜市の橋梁リストに「吉田橋」がありません!!!!
「吉田橋」を横から見たことありますか?

<改装後の 吉田橋 マリナード入口あたり>
構造は、マリナード地下街の入口通路の上に<屋根>のように吉田橋、通路の下に首都高速が通っています。地下街の下を通過する道路にイチイチ橋梁名は付いていないですし、ここは<暗渠>なの?
この天井が吉田橋ですね。
リストには無いし、橋の下は広場?だし…
なぞは深まるばかり。
期待させといて つづく!
<吉田橋関連ブログ>(他にもいろいろありますが)
【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇
第687話 オリンピックと横浜
先日、「1964年東京オリンピックのころ」と題された大衆文化評論家の指田 文夫さんのレクチャーに参加しました。映画と音楽を通して東京オリンピックの時代を遡る楽しいひと時でした。東京オリンピックというと私が小学校の時に開催されました。その時の記憶が音楽と映像でこんなにも鮮明に蘇るのか?というほど記憶を楽しみました。
学校でも入場券の当たった?近所の家族が出かけることを羨ましく感じたことや、前年に起こった吉展ちゃん誘拐殺人事件で集団登下校となったときにオリンピックの話をみんなで話したことを思い出したりしました。
東京オリンピックは、1940年(昭和15年)に一度決定し開催権を返上した幻の「東京オリンピック」がありました。それから約25年後の1964年に改めて立候補した東京オリンピックが行われまます。この幻のオリンピック、1964年の時、共に横浜はオリンピック関連の出来事がいろいろありましたので少し関連エピソードを紹介しましょう。
1940年(昭和15年)の夏季オリンピック東京大会開催に際し、横浜市はヨット競技の誘致に成功し、ヨット競技開催の準備を進めます。
1937年(昭和12年)東京オリンピックに備えてヨットハーバーの設計コンペが開かれます。詳細のデータは手元にありませんが中区新山下町にオリンピック用の仮ヨットハーバーが9月に落成し、本格的な横浜ヨット港(ヨットハーバー)建設が計画されます。この時に、ヨット競技の開催に尽力したのが横浜ヨットクラブ(YYC)です。
オリンピックは中止となってしまいますが、横浜ヨット港建設は継続し、幻のオリンピックの翌年1941年(昭和16年)に竣工し「海の記念日」となった7月20日に海洋競技大会が開催されました。
この横浜ヨット港は1968年(昭和43年)まで使用され、その後1977年(昭和52年)磯子区に移転され新規開設されます。
現在も残っている幻の「東京オリンピック」の証?が
京濱國道のバイパスとして計画された新京浜国道(第二京浜国道)に残っています。
鶴見区の響橋(通称めがね橋)です。
この新京浜国道は、施行時期がオリンピック開催決定時期とも重なったため、東京オリンピックのマラソンコースとして使用されることを想定して設計されます。42.195kmの折り返し点を横浜市鶴見区の響橋(通称めがね橋)近辺にしていたそうです。そのために、デザイン性の高い橋梁が造られました。残念ながら実際この響橋が完成したのは、1941年(昭和16年)3月で幻のオリンピック予定年の後でした。
戦後、日本は直にオリンピックに参加できませんでした。1948年ロンドン大会、1952年ヘルシンキ大会、1956年メルボルン大会、そして1960年が敗戦国初のローマオリンピックに決まります。
第18回となった「東京大会」で横浜が会場となったのが「三ツ沢公園」。
横浜市神奈川区三ツ沢に広がる運動公園で、サッカー(現在ニッパツ三ツ沢球技場で)が行われました。
またバレーボールが横浜文化体育館で行われました。
東京オリンピックの聖火リレーは1964年(昭和39年)10月7日に横浜も通りしました。(全県回ったのであまり特記事項ではありませんが)
街中にも東京オリンピックの記憶が残っています。
オリンピック開催に伴い、野毛本通りの街並みを美しく(いわゆる浄化)するために、露店、屋台を収納して出来たのが都橋商店街ですね。
また、
大岡川に架かる太田橋の袂に、「オリンピック開催記念昭和39年7月吉日、吉田町末
吉三・四町内会」の碑が置かれています。もう一方に元外相、藤山愛一郎書の「この旗のもとに」の石碑があります。
※なぜこのようなタイトルになったのか?不明です。
「オリンピックビルの屋上からみた伊勢佐木町」1953年
http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/1311/
【絵葉書が語る横浜】吉田橋脇2
このブログは、調べながら書き、書きながら調べるという自転車操業が常態化しています。先日【絵葉書が語る横浜】と題して吉田橋際の鶴屋呉服店の風景を探ってみました。
改めて、吉田橋界隈の写真・絵葉書を探していたところ別の「絵葉書」を発見しましたので、簡単ですがパート2として紹介します。
※専門家が探れば簡単な時代考証ですが、ここでは素人の試行錯誤の様子を紹介しています。(毎度の事です)
<上記写真が以前紹介した吉田橋界隈>
【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇ここでは横浜亀の橋生まれの「鶴屋呉服店」の吉田橋店を推理しました。
亀の橋から亀屋にせず“鶴”としたのは鶴と亀にひっかけたかったのですかね。
そしてさらに東京の“松屋”ですから、縁起が良いといえば中々のものです。
事の真偽は別にして
亀の橋「鶴屋」は 当時の大繁華街「伊勢佐木」入口に店舗を出します。
ここで紹介した「絵葉書」には低層の鶴屋の店舗が写り込んでいることと
1927年(昭和2年)に竣工した「イセビル」が写っていることから昭和初期の風景だという事がわかります。
今回の吉田橋脇の絵葉書をご覧ください。
さらに時間が経ち「鶴屋呉服店」が「松屋」となり五階建ての当時としては近代的なビルとして登場しています。
松屋横浜支店が竣工したのが記録では1930年(昭和5年)です。
振り返って、
【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇
で紹介した風景の年代を確定しないままにしましたが、ここでもう少しはっきりさせておきます。
「イセビル」竣工と「松屋横浜店」竣工の間
1927年(昭和2年)〜1930年(昭和5年)の間の風景です。
さて、
今回の「吉田橋より伊勢佐木町を望む」の風景も、かなり撮影時期を絞り込む事ができました。
まず季節ですが、半袖と日傘の服装から暑い時期、夏頃ではないでしょうか。
年代は
1930年(昭和5年)〜1941年(昭和16年)ごろの10年に絞り込めます。
横道にそれますが「中区わが街 中区地区沿革外史」に戦前戦後の町並みを「記憶絵図」として収録されています。(PDFですが画像は解読に難)
http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/archive/reference/wagamachi.html
ここに昭和10年頃の伊勢佐木一丁目マップがあり照らし合わせてみると いろいろ情報が見えてきます。
※薬「わかもと」の広告塔のあるビルは「丸高十銭ストアー」とか。
この風景の時代特定は、意外に簡単でした。
画像に映画の上演案内の看板があり、そこから時期を特定する事ができます。
「2013年12月16日 一枚の絵葉書から」
このブログでも、重要なヒントは「映画」でした。
都市発展記念館のサイトには
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a12_021_03.htm
『備考:画面左の建物は松屋横浜支店(1930年竣工)。垂れ幕には「祈皇軍武運長久」と書かれている。中央の広告塔の看板は「わかもと」。絵葉書は1933(昭和8)〜45年刊。』
とありますが、もう少し時期をしぼる事ができます。
(開戦前夜の夏)
この「絵葉書」には、読みにくいですが
映画の上演案内が写っています。
「小島の春」と「南風交響楽」です。
二本の邦画作品が並んで掲げられています。
「小島の春」1940年(昭和15年)7月31日公開
「南風交響楽」1940年(昭和15年)7月24日公開
特に
「小島の春」はヒットしこの年の暮れに発表されたキネマ旬報年間ランキングで第一位となります。
1940年(昭和15年)この年は皇紀二千六百年でもあります。
この「絵葉書」はこの時期に映された映像をプリントしたことになります。
※「小島の春」は女医小川 正子(おがわ まさこ)が描いたハンセン病在宅患者のノンフィクション小説を映画化した作品で、1937年(昭和12年)に長崎出版より発刊しまたたくまにベストセラーとなります。
この「小島の春」大ヒット、研究者荒井英子は『小島の春』現象と呼び「ハンセン病とキリスト教」(岩波書店)の中で70p以上に渡って分析しています。
ファシズム化の進む中、ハンセン病患者の“囲い込み”政策に上手く利用された疑念は拭えません。
→ここではテーマがずれてしまいますが、
メディアとしての映画が、弱者を切り捨てていく“美談”を謳い、酔いしれる大衆の怖さを学ぶ良いケースです。
もう少し時期を絞り込める情報がこの「絵葉書」には写り込んでいます。「松屋横浜店」の壁面に架かっている懸垂幕です。
7月23日より8月3日まで
「●銀 即金買上げ 取扱い」
→おそらく “満州事変”勃発以降始まった「金銀 (強制)買上」政策の一つを百貨店が代行していたと考えられます。
もう一面の壁には「祈皇軍武運長久」の幕が架けられています。
→同じく戦時下となり国内に緊迫感が次第に高まってきている時期です。
1940年(昭和15年)か
1941年(昭和16年)のつかの間の夏。
あらためて
肩幅の広い「吉田橋」の存在感を感じる一枚です。
【一枚の地図から】昭和27年の観光地図
手元に一冊の観光案内書があります。
「日本案内記」関東編
昭和二十七年四月発行
監修は運輸省
編集は運輸省の外郭団体の観光事業研究会。
発行も財団法人 日本交通公社です。
日本交通公社は
1912年(明治45年)3月に外国人観光客誘客促進を目的として設立された団体です。
1942年(昭和17年)財団法人東亜旅行社に改組
1945年(昭和20年)財団法人日本交通公社に改称し
英文名称(Japan Travel Bureau) JTBに改称します。
「この法人は、旅行及び観光の健全な発達と観光関係事業の向上発展に関
する事業を行い、我が国の観光文化の振興に寄与することを目的とする。」
この観光ガイドに折込まれている横浜の地図を元にこの時代を旅してみましょう。
この観光案内が発刊された時期は昭和27年4月です。観光マップは昭和26年頃のものをたたき台にしていると思われます。昭和26年という時期は、
□ マッカーサーが、朝鮮戦争の対応でトルーマン大統領と対立し解任
□大惨事となった国鉄桜木町電車火災事故(4月24日)
□ラジオ東京(現:TBSラジオ)が開局。
未だ 朝鮮戦争中の日本で、横浜の接収まっただ中の状態でした。
(山下公園)
当時、山下公園は接収地で米軍宿舎が建っていました。
山下町の海岸通り・水町通り周囲は市街地の区分は無く空白が目立ちます。この周辺の多くが米軍によって接収されていた状態を表しています。
ホテルニューグランドがポツンと表記されているのが分かります。
山下公園は1954年(昭和29年)から段階的に接収解除され、1961年(昭和36年)には再整備が完了し、ほぼ現在の姿となります。この地図は解除直前ですね。
(東神奈川)
東神奈川駅周辺を拡大してみました。
現在とどこが大きく変わっているでしょうか?
鉄道路線から見ていきましょう。
横浜市電の路線があります。
京浜急行路線には旧名「京浜神奈川駅」が表記されています。
1956年(昭和31年)現「神奈川駅」に改称します。
この「京浜神奈川駅」は位置と名称が変わるので歴史的にはやや面倒な駅です。
ここでは京急の「神奈川駅」についてざくっと変更の歴史を紹介しましょう。
[]内の駅名は全て旧または廃止された駅名です。
※川崎駅より東京方面は省略します。
1905年(明治38年)に
[川崎駅]〜[神奈川駅]( 神奈川停車場前)が開通します。この時、路線内に幾つか駅が開業し神奈川寄りに[(京急)反町駅]が開業します。
1925年(大正14年)に
[神奈川駅]が[京浜神奈川駅]に変更されます。
→この時は[川崎駅]〜[京浜神奈川駅]が営業区間です。
[京浜神奈川駅]から路線が少し延伸します。
1929年(昭和4年)に
[京浜神奈川駅]〜[(仮)横浜駅]が月見橋近くに開業します。
この間約200mです。
1930年(昭和5年)に
[(仮)横浜駅]が300m延伸し【横浜駅】が開業します。
[(京急)反町駅]を廃止。
[青木橋]を開業します。
[京浜神奈川駅]を廃止し[青木橋駅]を[京浜神奈川駅]に改称します。
1956年(昭和31年)に
[京浜神奈川駅]が【神奈川駅】に改称し現在に至ります。
※かえって複雑で分かりにくくなった感じですが?
横浜駅が桜木町から二度引越をしている影響で、伝統ある!「神奈川駅」が国鉄東海道から無くなり、京急も変更しなごりが少し移動し「神奈川駅」として残っています。かつての偉大な「神奈川駅」はほんの少し“なごり”が残っています。
(仲木戸陸橋)
京浜急行「仲木戸駅」にも語り尽くせない物語があります。
1905年(明治38年)
最初は[中木戸駅]という名で開業します。
「仲木戸駅」となったのは1915年(大正4年)[京浜神奈川駅]となった時期と同じ頃だそうですが資料は未確認です。
現在
「仲木戸駅」の近くに京浜東北線「東神奈川駅」がありペデストリアンデッキで結ばれています。
この京浜急行線と京浜東北線に挟まれたエリアは戦後未整備のまま時間が流れ、整備されたのはごく最近のことです。合意形成に長い時間がかかり神奈川区の重要懸案事項でしたが、関係者の努力で現在の区画整理が実現しました。
「東神奈川駅」は横浜線の乗換駅として利用者が多い駅ですが、
歴史的には「仲木戸駅」の方が先輩です。
1908年(明治41年)
横浜鉄道株式会社が「八王子」「東神奈川」を開通させます(現横浜線の開通)。
この時、
東海道本線のメインが「神奈川駅」だったので
その東にある駅ということで「東神奈川」と命名されます。
(高架化せよ)
横浜鉄道線が後に開設しますが、貨物線を海岸まで延伸させるために
京浜電気鉄道は“高架化工事”を余儀なくされます。
「横浜鉄道」が「京浜電気鉄道」を横切るので
「京浜電気鉄道」は高架にしろ!
ということになります。
現在の京急に乗ると良くわかります。
現在の神奈川新町を過ぎたあたりから徐々に高くなり、「仲木戸駅」を過ぎたあたりから下がりはじめ滝野川あたりで地上に戻ります。
なぜこのような無理が通ったのか?当時の横浜鉄道も“民営”で国鉄ではありませんでしたが開業して2年、1910年(明治43年)国有化され「八浜線(はっぴんせん)」となります。
鉄道路線として
国鉄「八浜線(はっぴんせん)」の計画が京浜電気鉄道より法律的に上位になるため、「八浜線」の路線計画が優先されることになります。
京浜電鉄は開設が手軽だった「軽便鉄道法」
横浜鉄道のちの国鉄「八浜線」は「私設鉄道法」の制約を受けました。
京浜電鉄が高架化し、「仲木戸駅」近くを「八浜線」から繋がる貨物支線が「海神奈川駅」まで開設します。
1959年(昭和34年)4月1日に
貨物支線の「東神奈川駅」〜「海神奈川駅」間は廃止され
この路線のなごりが現在も残っています。
(つづく)
横浜・公園物語
今日は横浜の公園について紹介します。
まず メジャーな公園に関しては
「ヨコハマ公園物語」「横浜山手公園物語」というすばらしい本が出ています。
この本に紹介されている横浜市内の代表的な公園をまず画像で紹介しましょう。
「掃部山公園」
「山手公園」
「横浜公園」
「三渓園」
「山下公園」
その他「港の見える丘公園」「大通公園」「上海横浜友好園」「臨港パーク」
ここで紹介された横浜の公園はぜひ一度は訪れてみることをお勧めします。
「三渓園」は有料ですが神奈川県内屈指の日本庭園です。
(横浜の公園概要)
横浜市内には市の管理する公園と県が管理する公園合わせて2,625あります。単純に計算しても1区あたり145ある計算です。(平成25年現在)
※こどもの国は含まれていません。
この2,600の公園の中で多数を占めるのが「街区(公園)」で約2,300弱あります。昔「街区公園」は「児童公園」と呼ばれていました。
横浜市内には
街中の小さな公園から
50ヘクタールを超える規模の公園まで整備されています。
(広い公園ベスト10)
第1位「金沢自然公園」横浜市金沢区釜利谷東五丁目15ー1
第2位「横浜動物の森公園」横浜市旭区上白根町1145ー3
第3位「新横浜公園」横浜市港北区小机町3300
第4位「海の公園」横浜市金沢区海の公園10
第5位「こども自然公園」横浜市旭区大池町65
第6位「県立四季の森公園」横浜市緑区寺山町
第7位「県立保土ケ谷公園」横浜市保土ケ谷区花見台
第8位「三ツ沢公園」横浜市神奈川区三ツ沢西町3ー1
第9位「県立三ツ池公園」横浜市鶴見区三ツ池公園
第10位「舞岡公園」横浜市戸塚区舞岡町1703
※横浜市・神奈川県 緑地資料から
これらの公園、広いだけではなくそれぞれに個性のある公園として整備されています。
「金沢自然公園」と「横浜動物の森公園」は共に動物園のある広域公園です。
第1位「金沢自然公園」公園面積577,593平米
http://www2.kanazawa-zoo.org/service/map/
第2位「横浜動物の森公園」公園面積541,132平米
※現在整備中ですので修正しました。
「横浜動物の森公園」一体は現在整備中で全体公園計画の一部が公開されています。整備途中の公園面積をランキング2位としました。
予定では総面積約103.3haになり横浜最大級の公園になります。
予定面積は動物園(ズーラシア)53.3ha 植物園が50.0haの規模です。
現在の整備公開部分のほとんどが「ズーラシア」として開園しています。
http://www2.zoorasia.org
第3位の「新横浜公園」公園面積535,363平米
どこかお分かりですか?
「日産スタジアム」を含む鶴見川岸の広大な運動公園です。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/shinyoko/b000.html
第4位の「海の公園」公園面積470,155平米
金沢区にある総合公園で
「市内で唯一海水浴ができ、春先には潮干狩りが楽しめる、美しい人工の砂浜」です。
http://www2.umino-kouen.net
第5位の「こども自然公園」公園面積464,118平米
横浜市旭区大池町にある広域公園で、個人的にはバーベキューできる都市公園のベスト3に入る環境です。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/yokohama/ko-sizen.html
第6位の「県立四季の森公園」公園面積453,000平米
名称の通り神奈川県立公園の一つです。神奈川県は横浜市内に大きい公園を4つ管理しています。その中の3つがベスト10に入っています。ここは広大な傾斜地に横浜の持つ谷戸の原風景を堪能できる風致(里山)公園です。
http://www.kanagawaparks.com/shikinomori/
第7位の「県立保土ケ谷公園」公園面積340,000平米
神奈川県立公園の一つです。音楽ホールや様々なスポーツ施設が整備されています。
http://www.kanagawa-park.or.jp/hodogaya/
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f6599/p19722.html
第8位の「三ツ沢公園」公園面積300,055平米
横浜市神奈川区三ツ沢に広がる運動公園で、東京オリンピックの会場となり現在も多彩な運動環境を持っています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/yokohama/mitsuzawa.html
第9位の「県立三ツ池公園」公園面積297,000平米
1,600を超える桜の木が咲き誇る総合公園です。
http://www.kanagawaparks.com/mitsuike/
第10位の「舞岡公園」公園面積285,000平米
戸塚区にある広域公園ですが、公園を取り巻くエリアも総合的に保全されていて、公園そのものも大きさよりもスケール感があります。
http://maioka-koyato.jp
ここまで 横浜市内の広い公園を紹介してきましたが、お気づきでしょうか?
「広域公園」「運動公園」「風致公園」「総合」という区分が公園にはあります。
私たちが気軽に利用している「公園」ですが、この区分・分類となるとかなり複雑なしくみになっていることに驚かされます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/公園
このwikiを読んで「公園」を定義できる人は少数派(一部専門家)でしょう。
■公園緑地は大きく三つに分かれます。
(公園)
営造物公園
地域性公園
(緑地)
地域性緑地
上記の区分の中で、都市公園の領域がさらに細かく区分されています。
◇基幹公園
(住区基幹公園)
街区公園
近隣公園
地区公園
(都市基幹公園)
総合公園
運動公園
◇特殊公園
風致公園
歴史公園
◇広域公園
◇緩衝緑地等
特殊公園
緩衝緑地
都市緑地
緑道
◇広場公園 他
ここの説明は省略します。
長くなりましたので一つだけ
横浜のスポットニュースを!
全国初の「立体都市公園」が横浜にあります。
どこだかご存知ですか?
(撮影時期が造営直後、現在はもう少し変わっています)
※山手に新しくできた「アメリカ山公園」です
今年は 公園巡りをしてみようか と思っています。
小さな小さな街区公園から「お宝」を探し出してみようかと。
今回は解説ばかりで面白みに欠けたかもしれませんが、
近所に変わった公園ありませんか?
(こどもの公園関連ブログ)
No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶
No.215 8月2日 (木)継続は力なり
ちょっと面白公園ネタ
No.133 5月12日 餌の勝ち!(加筆修正)