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【ミニミニよこはま】No.4 国際港を楽しむ
横浜港にぶらっと出かけたおり、
船舶を見かけることも多いでしょう。
今日は、船舶の楽しみ方の一つ
「船舶 煙突鑑賞」を紹介しましょう。
船の煙突は、もともとはといえば近代以降、蒸気船から始まり
煙りを出すだけで
多くの煙突が煤の汚れが目だたないように黒く塗られていました。
この煙突(ファンネル)を「国籍」や「船会社」の識別用に使い始めます。
実は、
最近の船舶に煙突(ファンネル)はあまり重要な機能を担っていません。
もちろん燃料を燃やした煙を外へだすためにあるのですが、船舶エンジンの進化で、外に排出させる“煙”がほとんど出なくなっています。
実際には、あの大きな煙突はダミーの場合がほとんどで、
客船などでは内部が展望台になっていることもあるくらいです。
それでも 必要ないのに何故?
モクモク煙突時代に定型化したファンネル・マークが現在でも重要な役割を果たしているからです。
まあ、船体とか旗とか方法は他にもあるのですが、
船には真ん中に「ファンネルとマーク」がないと
バランスが悪いというか あったほうが カッコいい
という理由が本当の所でしょう。
(家紋のようなファンネル・マーク)
ファンネル・マークは船舶会社の数だけあります。
家紋のように、デザインも様々です。
http://www.jsanet.or.jp/kids/mark/
(横浜港といえば)
横は港といえば
「ニ引きの赤」の日本郵船。
「橙色」一色の商船三井。
その他にも多くの船が出入りします。
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ロイヤルウィング |
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第三管区海上保安庁の基地もあります |
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海保のマークです |
地元横浜の海運会社の一つ
「熊沢海運」のマークは「濱菱とK」です。
関連会社
ケーエムシーコーポレーションといえば
ご存知の方も多いのでは?
「工場夜景萌」の先駆者で、火付け役でもあります。
http://www.reservedcruise.com
No.468 横浜で学ぶ(神社編3)
神社編1、2に続き久しぶりですが
(神社編3)で、神社巡りの人気アイテム
狛犬(こまいぬ)を紹介しましょう。
狛犬全般、全国の狛犬紹介サイトはかなり多くあります。
ここでは限定的「横浜の狛犬」巡りを!
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皇紀2600に建てられた日枝神社の狛犬 |
まず、狛犬とは?
神社に奉納、設置された空想上の守護獣像で、
参道や拝殿の前に対(つい)で配置されています。
本来は「獅子・狛犬」といい、獅子と狛犬が対になっているのが日本独特の姿です。
神殿に向かって
右側が 口を開いた角なしの「阿像(あぞう)」で獅子、
左側が 口を閉じた角ありの「吽像(うんぞう)」で狛犬が設置されています。
この阿吽(あうん)の形は、日本独特のスタイルだそうです。
ところが、姿は阿吽共に“獅子”に、
逆に呼称は“狛犬”とする傾向にあります。
姿は凛々しく!呼び方は親しみやすく ということでしょうか。
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鞠を抑える阿像 |
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子どもと一緒の吽像 |
元々、インドから中国に伝わり、沖縄経由で日本に定着したようです。
中国の獅子像は一対になっているもの、単体のものありますが
対のものはほとんどが相似形で同じものが並んでいます。
※日本文化は、比較的左右非対称を好む傾向があるようです。
「左近の桜 右近の橘」
※参考サイト
http://www.asahi-net.or.jp/~dw7y-szk/bunrui0.htm
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凛と立つ牙をむき出しにする吽獅子 |
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吠える阿獅子 |
(狛犬だけじゃない)
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お稲荷さんでは「きつね」の場合も |
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ねずみが鎮座する「杉山神社」 |
横浜市西区中央にある「杉山神社」には対のネズミが神殿を守っています。
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かなり現代っぽい獅子像 |
No.427 横浜で学ぶ(神社編2) 「横浜で鳥居に出会う」
No.156 6月4日(月) 三ツ池公園「コリア庭園」開園
(狛犬の隣人?ヘッテ)
(中国の座獅子、風鎮)
中国の廈門、台湾の金門に多く建っている風の神様「風鎮」は
狛犬の原型?ともいわれています。
沖縄に伝わり「シーサー」となっていきます。
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金門島の風鎮 |
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金門島の風鎮 |
【横浜雑景】グランモール公園
みなとみらいの中心部を南北に貫く都市公園グランモールが
整備されて四半世紀の時間が流れたそうです。
今日は、思い出の写真を含めて
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少々古いMMマップですが 。 |
グランモール雑景をランダムに並べてみました。
ランドマークプラザとクイーンズスクエアの中間部分にあたるヨーヨー広場から閉鎖された(る)GENTO YOKOHAMA手前まで、
約700mあります。
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フィルムを探していたら発見。美術館前から山手方向。先に何もありません。 |
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みなとみらい建設開始!の時期ですかね |
かつて ジャックモールというショッピングモールがありました。
【雑景シリーズ】イセザキ界隈その1(一部改筆)
横浜市中区から南区につながるイセザキ界隈。
この通りは不思議な味わいを持っています。
明治から続く繁華街ですが、歴史に翻弄された通りでもあります。
もしかしたら、
とっくの昔に寂れてしまった「商店街」だったかもしれません。
ある時期、伊勢佐木商店街は苦悩していました。
次第に商業のヘソが横浜駅に移り始めたからです。
JRは昭和39年まで桜木町駅止まりでしたが、商店街の中心は「ザキ」でした。
大きかったのが市電の廃止です。特に伊勢佐木4丁目以降の地盤沈下が進みはじめました。
この商店街をどうするか?
議論を重ね、通りを“開放”することに決めました。開放とは?
通りを覆うアーケードではなく空を開放するストリートにすることにしたのです。この意思決定には勇気が必要だったと思います。商店街の店主たちは
空の美しい商店街を目指したのです。
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伊勢佐木は夜景も似合います |
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ついついシャッターを切りたくなるイルミネーション。 |
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カレーミュージアムがあったんですね。 |
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大道芸でも人気スポットとなりました。 |
No.137 5月16日 全店サマークリアランスセール開催中
No.467 なんでここにこんな?(戸塚編)
東海道(国道一号線)下り路線、戸塚から原宿交差点に向かう途中、
左手のマンションの脇に「記念碑」らしきものがあります。
昔からマイカー、バス(の方が良く見える!)で気になっていました。
先日 気がついてから三十数年目に確認してきました。
ちょうどこの記念碑のあるあたりは 東海道戸塚宿を過ぎた馬の背になっています。
事前に「Google」でこのあたりを確認してみようとしたら
ストリートビューで ちょうど 見えない!なんで追い越し車線から撮影するかなー。
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ストリートビュー手前だと見えます。 |
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近づくと車がじゃま! |
やっぱり実地検分しか無い!
戸塚駅から藤沢駅行きのバスに乗って、
「西横浜国際総合病院前」で下車します。
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戸塚方面バス停 |
ありました、ありました。
「お軽・勘平の碑」でした。しっかり囲みもあり、丁寧に作られていることがわかります。
「碑石の由緒」には昭和四十六年七月とありました。
文学博士 松本亀松氏による由緒が記されています。
「伝統芸能研究者。1901年10月27日〜1985年4月。東京生まれ。東京高等工業学校中退。日大教授。1960年「狂言六儀の研究」で日大文学博士。72年定年退任。演劇学会理事。」
碑が建立されてから半世紀近くなりますがメンテナンスも行き届いています。
「お軽・勘平」って?
歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」四段目、塩谷(えんや)判官の家臣早野勘平と腰元お軽が、お軽の所への道行の途中で
「鎌倉を出てやうやうと、ここは戸塚の山中、石高(いしだか)道で足は痛みはせぬかや」と勘平が優しくお軽に問うところに因んでいるらしい。
鎌倉から落ち行くお軽・勘平のふたりが桜と菜の花が咲き乱れる戸塚山中で見せる美しく華やかな所作事なんですが、なぜここなのかが明記されていません。
ここは「桜と菜の花が咲き乱れる戸塚山中」なんですかね。
昭和50年代の地図には「日本石油」のガソリンスタンドがありました。
現在はマンション(?→未確認)が建っていますが、ガソリンスタンドがあった頃からこの記念碑はありましたから、スタンド脇に記念碑が設置されたことになります。
さらに疑問なのが「東京急行電鉄」が記念碑の賛助社と記されている点です。
「お軽・勘平」は、創作です。
【仮名手本忠臣蔵】の『道行旅路の花聟』(みちゆき たびじの はなむこ)は本来のストーリーではなく、後から追加されたものです。
幕末以降、二段目や三段目などに挿入されてきましたが、最近では「判官切腹」の場と五段目「山崎街道」の場」の間に挿入されています。
語り出しが「落人と、見るかや野辺に若草の」と始まるので、通称『落人』(おちうど)といわれています。
http://www.youtube.com/watch?v=L2_26wsZ4_A
内容は「おかる」と「勘平」が駆け落ちを決意し、おかるの故郷山城国の山崎へと目指す途中、そのあとを追いかけてきた「鷺坂伴内」が二人にからむ場面です。色彩豊かな所作事で、軽やかな清元を聞きながら華やかな気分が人気定番となりました。
舞台は「一面の菜の花の春景色、遠くに富士が見える」見事なシーンが拡がります。
歌舞伎舞台では、舞台装置は“どうみても”平地ですね。
周辺に観光資源、無いことはないのですが 孤立感ヒシヒシ。何か関連で活かす方法ないでしょうかね。戸塚宿尾根歩きコースですか ね。
No.464 昭和5年頃の横浜
よく歴史書や教科書では、時代区分をします。
横浜史を区分する際、
最大の分岐点が「開港場」ができる幕末期です。
開港から一世紀半の歴史で、
横浜は幾つもの試練の時期がありました。
横浜近代史の中で、今回は震災復興期の昭和初期に注目してみました。
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復興ビジョンが絵はがきになっています。 |
中でも昭和3年から5年頃の横浜の姿をざくっと追ってみます。
※詳細もいずれまとめて発表する機会があると思います。
(鉄道の時代)
横浜の鉄道網が充実したのが昭和期です。
神中鉄道、東横線、京浜電気鉄道、湘南電気鉄道
そして横浜市電がレール網を最も充実させた時代です。
1926年(大正15年)
東京横浜電鉄が丸子多摩川駅(現・多摩川駅)〜神奈川駅間を開業します。
神中鉄道が星川駅(現上星川駅)〜厚木駅間を開業します。
鶴見臨港鉄道が浜川崎駅 – 弁天橋駅間を開業します。
昭和に入り
1927年(昭和2年)
神中鉄道が北程ヶ谷駅(現・星川駅)まで延伸します。
市電浅間町車庫開設。
1928年(昭和3年)
東横線が神奈川駅〜高島駅(後の高島町駅)間を開業します。
※神奈川駅が横浜駅として移転します。
鶴見臨港鉄道が浜川崎駅〜扇町駅間を開業します。
市営バスが開業します。(生麦車庫・麦田車庫完成)
1929年(昭和4年)
神中鉄道が北程ヶ谷駅(現・星川駅)から西横浜駅まで延伸します。
1930年(昭和5年)
京浜電気鉄道が高輪駅〜横浜駅間を開業します。
※「京浜電気鉄道 横浜駅は、現在の臨海セミナー等予備校が並ぶあたりです)
一方、
湘南電気鉄道が黄金町駅〜浦賀駅間、金沢八景駅〜湘南逗子駅間で営業を開始します。
鶴見臨港鉄道も全線電化し、鶴見仮停車場〜弁天橋駅間を延伸開業します。
1931年(昭和6年)
神中鉄道が西横浜駅〜平沼橋駅間を開業し
湘南電気鉄道も桜木町接続を目指し日ノ出町駅まで延伸しますが、
京浜電気鉄道がゲージの違いを乗り越え
日ノ出町駅まで延伸された湘南電気鉄道と接続します。
1933年(昭和8年)12月27日にようやく神中鉄道が横浜駅に乗り入れます。
◇市電の時代
ここでは詳細を掲示しませんが、昭和初期に市電網の大半が開業します。横浜市内のアクセス網が一気に整備されます。
ちょうどこの頃、横浜市は周辺町村を合併し市域も一気に拡大します。
1927年(昭和2年)第3次市域拡張
■久良岐郡
屏風浦村、大岡川村、日下村
■橘樹郡
鶴見町、城郷村、大綱村、旭村、保土ケ谷町
■都筑郡西谷村を編入します。
※区制が施行され
市域が5区に分けられます。
横浜最初の5区が誕生します。
※鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷区、磯子区
1936年(昭和11年)第4次市域拡張
1937年(昭和12年)第5次市域拡張
1939年(昭和14年)第6次市域拡張
(復興事業)
震災復興でインフラが整備されていくに伴い 民間のビル建設ラッシュが起ります。住宅政策では「同潤会アパート」が作られていきます。
例えば 1930年(昭和5年)の建造物は
都南ビル(旧都南貯蓄銀行本店)(静岡中央銀行)
No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南
ジャパンエキスプレスビル
同潤会アパート 多数
No.376 1月10日(木)中島敦のいた街
横浜競馬場一等観覧席遺構
インペリアルビル
No11 1月11日(水) KAAT開場
綜通横浜ビル
横浜地方裁判所・簡易裁判所
No.50 2月19日 横浜地裁で注目の公判
ベーリックホール
No.167 6月15日(金) 自然、単純、直裁、正直、経済的
東(あずま)隧道
松屋横浜支店
No.30 1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
※氷川丸もこの年に横浜船渠株式会社で竣工しました。
1930年(昭和5年)は震災復興事業の一つ「公園整備計画」の「神奈川公園」と「神奈川会館」の開園式が行われた年です。
No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶
(御大典記念)
昭和天皇の即位の礼・大嘗祭が1928年(昭和3年)11月6日に行われました。昭和天皇即位を祝い、全国で様々な形で祝賀が行われます。
その一環として記念碑、記念造営が行われます。横浜市内にも多くの御大典記念に関係する記念碑等が残されています。
■芝生浅間神社では、1928年(昭和3年)御大典記念事業として社殿が御造営されます。
■横浜市立市場小学校では1928年(昭和3年)御大典記念として校旗を作成します。
■伊勢山皇大神宮の太鼓場(?)は1928年(昭和3年)に御大典記念として建設されます。
(観艦式)
横浜港で昭和に入り集中的に「観艦式」が開催されます。
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
日本の観艦式は明治元年に始まり戦前は18回実施されました。
第一回は大阪天保山沖で行われ、以降“横浜沖”が最も多く9回、次いで6回“神戸沖”で実施されました。
昭和期になり観艦式は6回、内4回が横浜沖で実施されます。
1927年(昭和2年)10月30日、横浜沖。
1928年(昭和3年)12月4日、横浜沖。
1930年(昭和5年)10月26日、神戸沖。
1933年(昭和8年)8月25日、横浜沖。
1936年(昭和11年)10月29日、神戸沖
1940年(昭和15年)10月11日、横浜沖。
(磯子八幡神社)
1930年(昭和5年)磯子八幡橋近くにある「八幡神社」にある御大典記念碑が建立されます。
御大典記念
正三位 勲二等 有吉忠一
この記念碑は、碑の上部に鉄の玉が飾られています。
文献や近所の方の話しでは
“昭和の代になり、5年6月には、御大典記念碑が建ちました”。
“漁師の人たちが奉納した大きなブイ(浮標)が石塔の上にのせられています”
「機雷の外側という話もあります」
ここに名が出ている有吉忠一氏はちょうどこの記念碑が作られる直前の1930年(昭和5年)4月11日に市長として貴族院議員に勅撰されます。
その祝いも兼ねたのでしょう。
裏側にはこの記念碑建立に関わった方々の名が掘られています。
禅馬鉄工所、當所 伊達鉄鋼所
おそらく この鉄球を作った所と推理すると
「機雷」ではなく「ブイ」が妥当なのではないでしょうか。
あくまで推論ですが
観艦式には 数多くの「ブイ」が必要とされるので、その製造を地元の鉄工所が請け負い、その御礼も含めここに奉納したのではないでしょうか。
(この時代)
昭和初期の横浜は、震災から立ち上がりつつある中
昭和恐慌、急激な円安デフレのまっただ中にありました。
復興資金として借り受けた米国債の支払いに苦慮します。
こんな時に
1929年(昭和4年)8月19日
飛行船ツェッペリン伯爵号が 急遽計画を変更して
横浜上空に現れます。
かたくなに進路変更を拒んだ「ツェッペリン伯爵号」がなぜ?
横浜を上空から視察したのか?世界の(特に米国の)メディアを乗せたこの
飛行船の目的は 何だったのでしょう。
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命
No.463 高島嘉右衛門 風聞記
北海道と横浜を結ぶ政商「高島嘉右衛門」を追いかけている内に、不思議な人間関係に辿り着きました。
今日は 想像の領域!のセミフィクション仕立てです。
賀茂真淵、本居宣長と並ぶ国学者、平田篤胤(ひらた あつたね)。
その考えは尊皇攘夷の支柱となり、倒幕後の明治維新変革期の原動力ともなりました。
幕府の暦制を批判したことで江戸から追放された人物です。
平田篤胤は
1776年10月6日(安永5年8月24日)に生まれ
1843年11月2日(天保14年閏9月11日)郷里秋田で亡くなります。
彼が江戸処払いを命じられ、1841年(天保12年)故郷秋田に蟄居するまで京橋三十間堀に居を置いていた頃
近隣の子供達を集め一種の英才教育をしていた時期があります。
ちょうどその頃 近所(三十間堀八丁目)に暮らしていたのが
薬師寺嘉衛門一家です。この薬師寺家六男が
後に高島嘉右衛門と名乗ります。
嘉右衛門は 易断家としても有名で自伝によれば獄中で学んだとありますが、
そのキッカケとなったのは
平田篤胤か その養子となり優秀だった平田 銕胤(ひらた かねたね、1799年12月31日(寛政11年12月6日)〜1880年(明治13年)10月25日)ではないか?と推理しています。
高島 嘉右衛門は1832年12月24日に生まれます。
平田 銕胤は1824年25歳の時に篤胤の養子となります。
銕胤は嘉右衛門の親くらいの年齢ですから 嘉右衛門は彼から易学を学んだのかも知れません。
これだけでは ただ単に 時代と育った場所が近いというだけです。
ところが 意外な所で この点と線が結ばれたのです。
舞台は 一気に北海道に移ります。
北海道の西南海岸に“せたな町”という小さな街があります。平成に入って市町村合併する前は“瀬棚町”と漢字で表記しました。
この“瀬棚町”を もしかしたら テレビか新聞で知っている方も多いかもしれません。過疎地における予防医療の実践で多くの報道があった村上智彦医師で有名になった町で、彼が一時期勤めていたのが「荻野吟子記念瀬棚町医療センター」です。
ここでは村上医師ではなく記念病院名となった「荻野吟子(おぎのぎんこ)」がキーワードになります。
■荻野吟子
荻野吟子は日本における近代医学を学び女医となった第1号です。北海道久遠郡瀬棚町で開業し10数年この瀬棚地域に貢献した記念すべき人物ですが、その人生は波瀾万丈そのものでした。
荻野吟子の功績をしのび 1967年(昭和42年)北海道百年を記念して女史の顕彰碑が開業地跡に建てられます。
1851年4月4日(嘉永4年3月3日)武蔵国幡羅郡(現在の埼玉県熊谷市)に生まれ
1913年(大正2年)6月23日東京府本所区小梅町の自宅で亡くなります。
62歳でした。
彼女の足跡を簡単に追います。
1870年(明治3年)19歳のとき夫からうつされた淋病がもとで離婚し、治療のため上京します。ところが、婦人科治療を行った医師は全て男性医師だったため“屈辱的な体験”をします。そこで荻野は女医を志します。
1875年(明治8年)24歳で東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)一期生として入学します。
1879年(明治12年)首席で東京女子師範学校卒業し医学を習得するために私立医学校・好寿院に特別に入学を許されます。その時も男子学生に様々ないじめにも遭いながら優秀な成績で卒業します。
当時 医師資格受験が許認可制だったため、
荻野吟子は東京府、埼玉県に医術開業試験願を提出しますが
ことごとく“却下”されてしまいます。
1884年(明治17年)9月多方面への働きかけが実り医術開業試験前期試験を受けることができます。他に3人受験者がいましたが吟子だけ合格します。
1885年(明治18年)3月34歳で後期試験に合格し同年5月湯島に「産婦人科荻野医院」を開業します。近代日本初の公許女医の誕生です。
1886年(明治19年)田口卯吉らとともにキリスト教の洗礼を受けます。
さらに荻野吟子は自ら波瀾万丈の人生を選びます。
1890年(明治23年)39歳の時13歳年下の同志社の学生、志方之善(しかたゆきよし)と周囲の猛反対を押し切り再婚します。
夫、志方之善が理想郷をつくるという信念から北海道へ渡る決意をし
1891年(明治24年)単身渡道します。
キリスト教徒のための理想郷を求めて志方之善の他、丸山要次郎らが神丘地区(イマヌエル)に調査に入り、
1893年(明治26年)に会衆派と日本聖公会の教徒約60戸が入植します。
1896年(明治29年)吟子も診療所を閉鎖し之善のいる神丘地区(イマヌエル)に入植しますが、諍いを嫌った吟子は海辺の瀬棚合津町に移転し診療所を開業し夫、志方之善と距離をおきます。
※当時 今金町は一種のゴールドラッシュで、砂金、メノウ、マンガン、マンガン採掘採集地として入植者が殺到しますが同時に争いも絶えない時代でした。
志方之善はマンガン採掘にも失敗し京都の同志社に戻り神学を学び、牧師として北海道浦河教会に赴任することになります。
1905年(明治38年)志方之善は敗残の思いの中、病死します。
1908年(明治41年)吟子は帰京するまでこの地瀬棚町で診療活動を行います。
ここまで「荻野吟子」の簡単な生涯を追ってきましたが、どこに高島 嘉右衛門との接点があったのでしょうか?
吟子は医術開業試験願を提出しますがことごとく“却下”されてしまいます。
「…願書は再び呈して再び却下されたり。思うに余は生てより斯の如く窮せしことはあらざりき。恐らくは今後もあらざるべし。時方に孟秋の暮つかた、籬落の菊花綾を布き、万朶の梢錦をまとうのとき、天寒く霜気瓦を圧すれども誰に向かってか衣の薄きを訴えん。満月秋風 独り悵然として高丘に上れば、烟は都下幾万の家ににぎはへども、予が為めに一飯を供するなし。 …親戚朋友嘲罵は一度び予に向かって湧ぬ、進退是れ谷まり百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す。見ずや中流一岩の起つあるは却て是れ怒涛盤滑を捲かしむるのしろなるを。」(せたな町HPより)
万策尽き、最後の手段として外国での資格取得も考えていた荻野吟子に救いの手を差し伸べたのが、
高島嘉右衛門です。
嘉右衛門と荻野吟子の接点は不明ですが、
当時の医師資格に関する政府トップ衛生局局長「長与専斎」との接点を
嘉右衛門は国学者で政府に発言力のある
井上 頼圀(いのうえ よりくに天保10年2月18日(新暦1839年4月1日)〜大正3年(1914年)7月4日)に依頼します。
井上 頼圀は国学者で文部省、宮内省に出仕し、私塾神習舎で教えた教育者です。
1882年(明治15年)には松野勇雄らと皇典講究所(のち國學院)を設立します。
國學院教授、女子学習院教授を務めました。
ここで、冒頭の推理が登場します。
国学者、井上 頼圀は
平田 銕胤の弟子にあたります。
高島嘉右衛門より7歳年下の井上 頼圀は、平田 銕胤を介して親交があったのではないでしょうか。
荻野吟子が 北海道久遠郡瀬棚町で医療活動を行いながら過ごした10年
1898年(明治31年)から1908年(明治41年)の頃
高島嘉右衛門は
1889年(明治22年)「北海道炭礦鉄道会社」に出資
1892年(明治25年)4月4日に二代目社長に就任。
1906年(明治39年)10月1日に国有化。
この時期に、荻野吟子と高島嘉右衛門との交流が 北海道で無かった方が不自然ではないでしょうか。
山師、政商 かなりダーティなイメージのある「高島嘉右衛門」ですが、
単純に腹黒い人物像では解けない部分も多く、
人間 高島嘉右衛門の実像が 今後の研究であぶり出されていくことを
大いに 期待するところです。
●今回は 殆ど横浜とは関係ありませんでしたが、
点と線がつながった感動をそのまま掲載しました。
次回から また横浜ローカルに戻ります。
(余談)
高島嘉右衛門のもう一つの謎が
時の総理大臣 伊藤博文と 姻戚関係にありながらも
その関係が 易経で伊藤の暗殺を予言した!という話ばかりです。
伊藤博文の汚れ役を一部担っていたとも考えられます。
幕末明治はまだまだ 謎だらけです。
No.461 北海道=横浜を結ぶ点と線
北海道と横浜を結ぶ点と線、
幾つかご紹介しましょう。
北海道(ほっかい・どう)と使っていますが
他の都府県とは少し使われ方が違いますね。
「北海道」は「東京」「大阪」「神奈川」といったように略して表現することがありません。
「北海道」は「ほっかい」と「どう」ではなく
「ほっかいどう」と、一体となって歴史を歩んできました。
(北海道)
明治2年8月15日が北海道の記念日です。
1869年6月27日(明治2年5月18日)戊辰戦争の最後の戦場ととなった“箱館”の戦争が終結します。この箱館戦争の影に「咸臨丸」の悲劇があり
横浜・静岡そして函館を結ぶ物語を紹介しました。
No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!
1869年9月20日(明治2年8月15日)
明治新政府は太政官布告によって蝦夷地に「北海道」の名前を与えます。
また北蝦夷地を「樺太」と改名します。
命名に際しては六つのネーミング案が提案されます。
1 日高見
2 北加伊
3 海北
4 海島
5 東北
6 千島
この中から 2の「北加伊(ほっかい)」をベースに
律令制の五幾七道(東海道、東北道、北陸道、山陰道、山陽道、西海道、南海道)にのっとり「北海道」の字をあてて採用されました。
「北海道」は、「道」と一体として現在まで使用されています。
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この地図解説は次号で詳しく |
(冒険家の北国)
江戸時代、正確な形で蝦夷地の地図を測量し制作した人物といえば
「伊能忠敬」と「間宮林蔵」ですね。
間宮林蔵は1799年(寛政11年)幕府の命で蝦夷地に20年以上滞在し、
蝦夷地、千島、樺太の測量にあたります。
最大の成果は、1809年(文化6年)に間宮海峡を発見したことです。
何故か?
ロシアの南下に対し領土の保全に苦慮、躍起になっていた幕府にとって蝦夷の地がロシアと陸続きではないことが判ったことが重要な国土防衛情報となったからです。
同時期、オランダ出島経由で日本に入ったシーボルトも
北方に地勢に重大な関心をよせていました。
シーボルトは林蔵の樺太の地図を複製し、海外に持ち出し林蔵の樺太の地図(複製)が世界地図にのるようになります。結果
アイヌ、和人の生活用具など、文化遺産、蠣崎波饗の夷酋列像の絵など収集した北海道の文化資産の存在や、間宮林蔵 本人の名が世界に知られることになります。
No.458 相摸のもののふは杉田を目指す?
※間宮林蔵は終生 独身だったと伝えられていましたが
1813年(文化10年)上川のタナシ(現・当麻スカイパーク付近)でアイヌ女性アシメノコを見そめ、翌年の文化11年に娘ニヌシマツが生れます。
子孫の(間見谷 喜昭)さん(72歳)が平成14年、林蔵の五代目に当ることがわかったそうです。
No.212 7月30日 (月)ある“日本人”の学究心
スコットランド人の医師Neil Gordon Munro(ニール・ゴードン・マンロー)は、横浜三ツ沢貝塚研究で本格的な発掘調査をした人物ですが
1933年北海道に渡り、平取町二風谷(にぶたに)にマンロー邸を建てて医療活動を行いながらアイヌ文化を研究し保存に尽力します。
アイヌ民具などのコレクションの他、イオマンテ(熊祭り、1931年製作)などの記録映像を残したことは貴重な資料となっています。
さて、横浜と北海道の点と線
これは イントロに過ぎません。
さらにつづく 北海道と横浜を繋ぐ点と線は 次回に
No.460 横浜と福島をつなぐもの
ひらめきは素晴らしい!でもどう表現したら良いのか。
時々出会うラッキーなネタなんですが
料理ができない歯がゆさが先立ってしまいます。
今日は 言い訳から始まります。
かつて、福島出身の震災復興に関し優秀な“テクノラート”が居ました。
堀切 善次郎(ほりきり ぜんじろう)
1884年(明治17年)9月2日福島県飯坂温泉の豪農豪商の堀切家に生まれた堀切 善次郎は、東京帝国大学卒業後内務省に入り法律、技術官僚として事務官・監察官・参事官・書記官を経て都市計画局長・土木局長など歴任します。
その後、渡欧(1919年大正8年〜1921年大正10年)し
ドイツで革命後のワイマール憲法の選挙法を調査研究し帰国します。
最近某財務大臣発言で物議を醸した「ワイマール憲法」ですが
それまで婦人参政権が無かった日本の普通選挙制導入に大変尽力された政治家です。
※婦人参政権の実現は戦後になりますが、彼の手で法案が提出されます。
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堀切邸 |
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天井のカーブをもたせる贅! |
一方、堀切 善次郎は、都市政策にも明るく
震災直後から復興計画に関わることになります。
その結果、復興局長官に抜擢された清野長太郎知事の後任として
1925年(大正14年)震災で焦土化した神奈川県復興のために知事に赴任します。
当時の有吉忠一横浜市長と二人三脚で精力的に復興施策を実施していきますが、
前任の神奈川県知事だった復興局長官“清野長太郎”が就任中に急死します。
そのため、堀切は清野長太郎の後任として 着任早々1926年(大正15年)復興局長官に任命されます。さらに1929年(昭和4年)には13代東京市長となり
横浜と東京で 復興の優先に関して“ライバル関係”になります。
東京政財界からは 横浜に限定されていた“国際港”としての独占権を廃止する“東京開港運動”が起ります。
ここで、横浜市長「有吉忠一」と「堀切 善次郎」は、
同じ神奈川で以前タッグを組みましたが、
その後全く利害を異にする立場で争うことになります。
No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?
国策を理由に1941年(昭和16年)5月20日“東京港が開港”します。
東京開港運動は大正期に高まり
昭和早々からは強い政治運動となります。
横浜港にとって“致命傷”だった“東京開港”が戦争直前までもつれこんだ背景には
もしかしたら堀切 善次郎の横浜への思いがあったのかもしれません。
こればかりは判りません。
横浜と福島は
野口英世(のぐちひでよ)、星一(ほしはじめ)のエピソードが劇的ですが
この堀切 善次郎と横浜も 静かなる因縁があったかもしれません。
No.457 ザンギリ野毛
野毛界隈。
酔いにまかせて彷徨うと、床屋が多い?!
やたら床屋(理容院)のサインポールが目に入ります。
気のせいか?酔いのせいか?それとも真実か?
ちょっと調べてみました。
野毛界隈で、果たして何店床屋(理容室)はあるのでしょうか?
調査結果をお知らせする前に、横浜の床屋についてのエピソードを少々ご紹介しましょう。
No.80 3月20日 西洋理容発祥の地、横浜
1873年(明治6年)3月20日、
明治天皇は自ら範を示すということで断髪します。
これによって一気に「床屋」(理容室)が時の職業になっていきます。
横浜開港資料館発行「もののはじめ考」(第3版)によると
開港早々1864年(元治元年)横浜ホテルに外国人の理容師が開業した記事が掲載されているそうです。
日本人による理容室開業については中々誰が“はじめて”かどうか判っていません。
諸説あるようです。
少なくとも 開港した横浜港に入港する外国船向けに西洋理髪師を見習った日本人が散髪業を始めたのは自然の成り行きです。
日本人の間に「西洋理髪」が定着していくのは、
No.80 3月20日 西洋理容発祥の地、横浜
で紹介したように、法令で断髪令が施行されてからのことです。
「市史稿」では、
桜木町に「西洋髪苅所」を富岡浅次郎という人物が開業し
「理髪業の嚆矢」とする説に触れています。
この説に従えば???????
桜木町=野毛界隈に理髪業が多いのも?
野毛界隈に理髪業が目立つ理由は、
「場外馬券場」があるからでしょう。
縁起かつぎや、負け癖を切る!という理由から競馬人は床屋が好きだとか?
だから野毛界隈に「理髪店」が多いんですね。
(野毛界隈の理髪店)
完全ではないかもしれませんが
野毛界隈に理髪店は12店ありました。
以前営業していた店を1店知っていますので
13店も集中していたことになります。
範囲は JR線より内陸、大岡川、京急、紅葉坂に挟まれたエリアを
野毛界隈としました。
価格もバラバラです。
ここにさらに「美容院」が最近次々と開店しています。
野毛は現在 整髪激戦区となっているようです。
(余談 理容室は何時休み?)
理容業はを独占禁止法の例外業種に指定され、理髪店の業界団体である全国理容生活衛生同業組合連合会が、1996年ごろまで都道府県単位で定休日や営業時間などの基準を決めていました。最近は拘束されること無く自由な営業形態になっています。横浜は火曜日定休が多いのでは?