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第846話 1914年(大正3年)7月12日「新避暑地十二勝磯子海岸」
1914年(大正3年)7月12日
横浜貿易新報社選(神奈川県内の)「新避暑地十二勝」が発表されました。
この内容に関しては以前、下記のブログで紹介しました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7816
今日7月12日、違うテーマを予定していましたが
第12位 末席に選ばれた「磯子海岸」に関しては紹介してなかったので簡単ですが紹介しておきます。
磯子エリア(磯子海岸)は、堀割川が完成するまでは不便な陸路の他は本牧沖経由の海運しかありませんでした。明治期から大正期には、河川水路の他 市電(全身の横浜電気鉄道)が開通することで横浜(開港場)とのつながりが深くなっていきます。
横浜市域の海岸線が工業化に伴い埋立事業が行われる中、磯子海岸(根岸湾)と、隣接する富岡海岸は戦後まで大型埋め立て事業が行われませんでした。堀割川河口にパラオ行きの飛行場が開設されたり杉田・富岡エリアに軍関係の工場が進出しましたが、大幅に海岸線が埋立られることはありませんでした。
戦前から風光明媚なこのエリアは、湘南電気鉄道や市電の開通で<海水浴場>」として人気スポットとなっていきます。
戦後、高度成長に伴い、磯子海岸が工場用地として注目されます。
下記に磯子海岸関係の歴史を簡単に列記してみました。
1928年8月4日(昭和3年)
磯子町・滝頭町地先埋立第一次工事完成
1929年1月17日(昭和4年)
森・磯子町地先埋立完成
1929年7月1日(昭和4年)
市営磯子水泳場(海水浴場)を公開
1930年4月1日(昭和5年)
湘南電気鉄道(現京浜急行電鉄)、黄金町〜浦賀、金沢八景〜逗子間開通、森駅(現屏風浦駅)開業
1930年7月1日(昭和5年)
湘南電鉄杉田駅開業
1931年12月26日(昭和6年)
湘南電鉄と京浜電鉄が日ノ出町駅で結ばれ、横浜〜浦賀間の直通運転を開始
1933年4月1日(昭和8年)
京浜電鉄の軌道拡張により品川〜浦賀間の直通運転を開始
1941年2月1日(昭和16年)
軍が杉田町地先5万坪を埋立。また、中根岸町を埋立、飛行場を開場する
1941年11月22日(昭和16年)
大日本航空会社磯子支社新館が鳳町に落成
1950年12月14日(昭和25年)
重油禍で屏風ケ浦、富岡、金沢の海苔全滅
1955年4月1日(昭和30年)
市電、八幡橋〜間門間開通
1956年8月3日(昭和31年)
杉田貝塚の発掘開始
1956年10月9日(昭和31年)
屏風ヶ浦漁協及び同海岸埋立反対期成同盟、「磯子海岸埋立反対決議」を市に手渡す
1956年10月17日(昭和31年)
国鉄根岸線建設並びに磯子・杉田地先埋立に地元漁協が反対、国鉄に陳情
1956年11月29日(昭和31年)
根岸湾埋立反対漁民総決起大会開催される
1956年12月25日(昭和31年)
市会、根岸湾埋立を決定
1957年4月3日(昭和32年)
国鉄根岸線建設事業を国鉄建設審議会が決定
1958年10月14日(昭和33年)
根岸の米軍飛行場が接収解除
1958年12月11日(昭和33年)
根岸湾埋立補償覚書調印
1959年1月25日(昭和34年)
根岸湾埋立で漁業補償協定に調印し根岸湾埋立問題協議会を解散
1959年2月21日(昭和34年)
根岸中学校で根岸湾埋立事業の起工式を挙行
1959年5月23日(昭和34年)
根岸線建設工事に着工
1960年2月15日(昭和35年)
鳳町の接収解除
1960年6月30日(昭和35年)
中根岸町の接収全面解除
1961年1月28日(昭和36年)
磯子団地(汐見台団地)の起工式を挙行
1962年10月10日(昭和37年)
市会、磯子団地の新町名を「汐見台」と決定
1963年2月1日(昭和38年)
磯子町、森町の地先埋立地に新磯子町、新森町を新設
1963年5月25日(昭和38年)
汐見台団地入居開始
昭和38年6月(昭和38年)
屏風ヶ浦漁協が根岸湾埋立記念碑を白旗に建立
1963年12月24日(昭和38年)
根岸湾第1期埋立事業竣工
1964年3月24日(昭和39年)
杉田町、中原町地先埋立地に新杉田町、新中原町を新設
1964年5月19日(昭和39年)
磯子駅前広場で根岸線第1期工区(桜木町〜磯子間)の開通式を挙行
1964年11月18日(昭和39年)
区住民運動連絡会議が東京電力の火力発電所建設に反対の決議
1964年11月27日(昭和39年)
屏風ヶ浦漁協の解散式挙行
1964年12月15日(昭和39年)
根岸湾第2期埋立事業竣工
昭和40年2月(昭和40年)
根岸湾漁協が根岸湾埋立記念碑を根岸駅前に建立
1966年7月19日(昭和41年)
南部下水処理場が竣工(昭17.4.1から「南部水再生センター」に名称変更)
1966年8月9日(昭和41年)
根岸線第2期工事(磯子〜大船間)の許可
1967年6月23日(昭和42年)
科学技術庁が根岸湾埋立予定地に原子力船母港建設の方針を横浜市に申し入れ
1967年7月31日(昭和42年)
市電、葦名橋〜杉田間廃止
1967年9月5日(昭和42年)
政府は原子力船母港の建設で横浜市を断念し、むつ市に決定
1968年8月31日(昭和43年)
市電、八幡橋〜間門間廃止
1970年3月17日(昭和45年)
根岸線磯子〜洋光台間が営業を開始
1970年8月28日(昭和45年)
大岡川分水路建設工事起工式挙行
第838話 1989年(平成元年)7月3日ミッドナイトアロー号
1990年代の初め、JR新宿駅南口脇にあったバスターミナルから「深夜急行バス」を良く利用したことがあります。最近は、めちゃくちゃわかりにくかった様々な長距離・深夜バスがほぼまとまりました。
「バスタ新宿」
http://shinjuku-busterminal.co.jp
私の利用した「深夜急行バス」は東京駅から新宿経由で湘南に向かう系統で、運行会社は小田急か神奈中か記憶は曖昧です。
当時、新宿発の深夜急行バスにはかなり制限があり横浜駅近くに停車する路線がありませんでした。新宿を出発すると最初の停車が横浜新道の保土ケ谷区今井町で、唯一自宅に近く(新道上の)「今井町」バス停から一般道に降り、そこからタクシーを拾わなければ自宅には辿りつけませんが重宝しました。
この「深夜急行バス」は
1990年代初めから徐々に拡大した新しいサービスで、
“70年代”から始まった「深夜バス」とは異なります。
「深夜バス」は首都圏の郊外に大型団地が急増した60年代、通常の路線バス運行ルートを使って終電に近い時間帯で運行が求められた結果始まったサービスです。
当時の運輸省も検討に入りますが、1970年に神奈川中央交通が独自の判断で日本最初の「深夜バス」を町田で運行します。この年の暮れに運輸省から深夜枠の路線バス運行に関してガイドラインが出され、1971年から一気に深夜時刻の「深夜バス」運行が全国に拡大します。
これに対して、
1989年(平成元年)7月3日の今日、
終電後の交通手段としてターミナル駅から自社の営業路線まで新たにバス路線を開く「深夜急行バス」<ミッドナイトアロー号>が日本で初めて運行されました。
運行会社は東急バス、運行区間は「渋谷〜青葉台間」です。この路線は現在も運行されています。


深夜運行なので正確には<7月4日>未明ということになりますが、運行上の日付は7月3日出発となるそうです。
前述の通り、初期の運行はかなりルート設定に制限があったようで、新宿駅から横浜駅ルートはありませんでした。しかも途中のバス停設定も自社の路線が運行されているエリアに限られました。
※この原則は現在も変わっていないようです。
この<ミッドナイトアロー号>を皮切りに、全国で終電後の都心部と郊外、そしてターミナルとターミナルを結ぶ「深夜急行バス」が多く運行されるようになりました。
(過去ブログ7月3日)
No.185 7月3日(火) 実録「居留地警察」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=422
1877年(明治10年)7月3日の今日、
神奈川県は居留地の各国領事に対し6月30日付けで横浜外国人居留地取締役(居留地警察のトップ)Edward.S.bensonを解傭(雇用解除)した旨を居留地各国領事に通知しました。
第835話 1875年(明治8年)6月29日小学校と呼ぶ
1875年(明治8年)の今日6月29日
「学舎の名を<学校>と改称(横浜歴史年表)」
横浜の小学校は制度として1872年(明治5年)から寺院等を使って始まりました。それ以前に江戸時代からの<寺子屋>として地域の教育機関だったものもあります。新学制が導入され小<学舎>と呼ばれてその後1875年(明治8年)の今日、小学校と呼ばれるようになりました。
上記の(横浜歴史年表)表記によると
壮行学舎→横浜学校<注1>
存心学舎→吉田学校
立志学舎→太田学校
養賢学舎→石川学校
三到学舎→元街学校
就蘭学舎→北方学校
洗心学舎→本牧学校
主敬学舎→根岸学校※
(正)※志敬学舎→根岸学校
真照学舎→磯子学校
弘照学舎→鶴見学校※
(正)※弘明塾→鶴見学校
と紹介されていますが、調べていくと誤記(文字変換誤作動)等があり整理に手間取りました。一部確認できたものを修正しました。
明治期にかなりの小学校が地域に設立されています。日本の近代化を支えた柱の一つです。
<注1>横浜小学校
https://ja.wikipedia.org/wiki/横浜小学校
(明治前期創設の小学校)
明治前期に<現横浜市域>に設立され現在もある小学校リストを一覧化してみました。(廃校は略しています)
※印は創設時の<学舎>
1872年(明治5年)
山下小学校 北八朔町1865-3※中村学舎
石川小学校 中村町1-66※養賢学舎
豊岡小学校 豊岡町27-1※弘明塾
1873年(明治6年)
子安小学校 新子安一丁目24-1※子安学舎
都岡小学校 都岡町4-8※今宿学舎・川井学舎
北方小学校 諏訪町29※就蘭学舎
鉄小学校 鉄町427※鉄学舎
星川小学校 星川三丁目18-1
元街小学校 山手町36※三到学舎
末吉小学校 上末吉一丁目9-1※末吉学舎
谷本小学校 藤が丘一丁目55-10※谷本学舎
保土ケ谷小学校 神戸町129-4※程谷学舎
磯子小学校 久木町11-1※真照学舎
杉田小学校 杉田一丁目8-1※森田学舎→森中原学校
根岸小学校 西町2-46※志敬学舎
金沢小学校 町屋町26-26※知足学舎・柴村小学舎・野島学校
釜利谷小学校 釜利谷東六丁目37-1※赤井学舎(万蔵院)
六浦小学校 六浦三丁目11-1※三分学舎(光伝寺)
大綱小学校 大倉山4丁目2-1※地域の四学舎(大乗寺・東照寺・本乗寺・観音寺)
日野小学校 日野七丁目11-1※日野学舎
田奈小学校 田奈町51-13※??
富岡小学校 富岡西七丁目13-1※富岡学舎
日吉台小学校 日吉本町一丁目34-21※清林学舎
長津田小学校 長津田町2330※壮行学舎
戸塚小学校 戸塚町132※富塚学舎
市場小学校 元宮一丁目13-1※真明学舎
潮田小学校 向井町三丁目82-1※潮田学舎
山内小学校 新石川一丁目20-1※荏田学舎
青木小学校 桐畑17※青木学舎
市沢小学校 市沢町781※市野澤学舎
二俣川小学校 二俣川1-33※宮沢学舎
石川小学校 中村町1-66※養賢学舎
大岡小学校 大橋町3-49※大岡学舎
太田小学校 三春台42※立志学舎
日下小学校 笹下3丁目9−1※笹下東樹学舎
1874年(明治7年)
高田小学校 高田町1774※高田学舎
中川小学校 牛久保東二丁目21-1※大棚学舎
鴨居小学校 鴨居四丁目7-15※ 鴨居学舎
桜岡小学校 大久保1丁目6−43※最岡学舎
1875年(明治8年)
川島小学校 川島町1162※川島学舎
神奈川小学校 東神奈川二丁目35-1※神奈川学舎
1876年(明治9年)
千秀小学校 田谷町1832
1879年(明治12年)
戸部小学校 伊勢町2-115※戸部学舎
1880年(明治13年)
今井小学校 今井町981-1(3月25日)
白根小学校 中白根一丁目9-1(7月5日)※今宿学舎(本立寺)より分校
1889年(明治22年)
新治小学校 新治町768※久保学舎より分校
1890年(明治23年)
瀬谷小学校 相沢四丁目1-1(11月15日)※ 瀬谷学舎・二つ橋学舎・若宮学舎・新道学舎・阿久和学舎などが統合?
1892年(明治25年)
豊田小学校 長沼町125-4(5月1日)※龍臥学舎(明治5年2月)
中和田小学校 和泉町3721(5月17日)※岡津学舎
中山小学校 中山町925(9月1日)※移転し「森の台小学校」中山第二小学校が「中山小学校」に※中山学舎
川上小学校 秋葉町203-2(10月1日)
本郷小学校 中野町16-1(10月5日)
永野小学校 上永谷二丁目21-10(11月3日)※棲心庵学舎(明治5年)
このように、明治前期に地域の学校が多く設立されます。
学校の敷地は地元の協力で(寺社、私有地等)を寄付し開校された学校が多かったようです。
※各小学校・区役所の資料から表記を整理したものです。表記以外に<学舎>として歴史があるものも散見されます。
(その他の6月29日ブログ)
No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=427
1959年(昭和34年)6月29日(月)の今日、米軍に接収されていた山下公園が“一部解除”されたことを祝う式典が行われました。
この接収時期の山下公園風景が絵葉書にされています。
制作当時、この風景が未来永劫?続くと思ったのでしょうか?
それとも、貴重な風景ととらえたのでしょうか?
14年に渡る接収は当時の横浜中心部接収事情からはかなり長い接収期間といえるでしょう。
第819話【横浜の橋】No.14 国際橋(横浜港)
横浜の橋シリーズNo.14
横浜港に架かる橋 国際橋
国際橋は 国際大通りの港湾部に架かる橋。

大岡川の河口域にあるが、河川撟ではない。西区と中区の区界に架かっている。新港埠頭とみなとみらいエリアを結ぶ湾岸の幹線道としてこのエリアの整備が始まった1994年(平成6年)に竣工した。
しばらく、東神奈川方面に続く道が未完成のため、行き止まりの道だった。
上下線分離型の桁橋である。
[橋長]78.833m
[幅員]12.6m
橋下には両岸に遊歩道があり、ジョギングや散歩道として活用されている。ここが完成したことで、帆船日本丸は外港に出ることが不可能になった。
銘板は「こくさいはし」「国際橋」のみで、竣工年等の掲示はなし。
次回から汽車道、そして大岡川に架かる橋を紹介していこう。
【横浜の橋】No.13 村岡川に架かる橋
橋にすべて<名>があるわけではない。無名の橋も多くある。
また、小河川となると<川の名>も無いことが多い。近代化で、ドブ川という汚名を背負った川も多い。
<川の名>や<橋の名>の命名に関して 色々ドラマもあるようだ。

今回紹介する「村岡川」は一般の地図から消えてしまった川である。
名前が変わってしまった<川>なのだ。
暗渠化して川そのものが姿を隠し、川の名がなくなるケースは多いが、近代になってあるときにそれまで使われていた<川の名>が変わってしまったのは珍しいのではないだろうか。
大きな河川には別名称が使われることもある。
例えば 相模川は<馬入川>とも呼ばれ今でも使われている。
「村岡川」
現在は(とりあえず)「宇田川」と呼ばれている。
境川水系二級河川一次支流として横浜市泉区中田町から境川合流点まで4キロ程度の小河川である。
泉区サイトには
「泉区中田町付近に源を発し、ほぼ南西に流下、戸塚区俣野町で横浜と藤沢の市境となっている境川に合流しています。
かつて、宇田川は村岡川と呼ばれていました。村岡は地域の郷の名で、大正時代に川下に堤を設けた宇田氏の功績を讃えて、宇田川名が生まれました。」
橋の紹介なので<川の名>には特に触れないつもりだったが、
(とりあえず)「宇田川」と表記したのは、
上流域の泉区と下流域の戸塚区では表記の温度差が感じられたからだ。
現在河川管理上の名称は「宇田川」となっているが、<泉区>では「宇田川」ではなく「村岡川」にこだわっているように感じるのだ。
地元のお年寄りに話を聞くことはできなかったが
(村岡川)に架かる橋にその気持ちが感じられるのだ。
河川橋梁の多くは、橋の欄干に表示がある。
「橋の名」「読み方(かな)」「竣工年」そして<川名>が橋の四隅(大きい橋梁の場合親柱)にそれぞれ標記されている。
泉区内に架かっている下記の□印十二の橋には<川の名>が掲示されていない。
■中田橋(宇田川)
□睦月橋(記載無)
□如月橋(記載無) □弥生橋(記載無)
□卯月橋(記載無)
□皐月橋(記載無)
□水無月橋(記載無)
□かばた橋(記載無)
ここに一連の十二の橋に関して説明版があるが文面には<川の名>について触れられていないのも不自然? □文月橋(記載無)
□葉月橋(記載無)
□長月橋(記載無)
□神無月橋(記載無)
□霜月橋(記載無)
さらに上流に架かっている2橋には
■中下橋(宇田川)
■広中橋(宇田川)
ではこの「宇田川」の源流はどこか?小河川が集まっているので、源流を特定するのは難しいが、幾つか川筋がある。
その中で、御霊神社から湧き出る流れが最も象徴的で、ここを源流としている文献もあるのでここを訪ねてみた。
確かに御霊神社内には「村田川源流」とされている「弁天池」がある。
少なくとも御霊神社から「村田川」が始まっていることは間違いないようだ。
(つづく)
【横浜の視点】ダブルリバー
横浜の街は、大岡川河口域に誕生し、帷子川河口域とのコラボで港都を形成した。全国の大都市でこれほど明確にダブルリバーが街を包み込むように発展した例を見ない。
江戸時代から風光明媚な洲干弁天に詣でたこの街は富士山の噴火により降灰したダブルリバーが次第に浅くなり、大岡川河口域では吉田勘兵衛が新田開発のために干拓を行うことで基盤が出来上がる。
横浜は集落の数こそ少なかったが<寒村>では無かった。静かな村で弁天と姥ヶ岩と言った景勝地だった。昭和の市域拡大まで<横浜>はこの二つの川と河口域を中心に発展したのだ。現在の市域となったのが1936年(昭和十六年)、今年でちょうど80年を迎えた。
横浜ダブルリバーについて考えてみたい。
(大災害)
前々から感じていたが、この街がダブルリバーの都市であることを再認識した。帷子川下流域は支流の今井川が合流後すぐに分岐する。
元々はこのあたりが河口域だった。
大岡川下流域は蒔田公園あたりで中村川と本流に分岐する。
元々はこのあたりが河口域だった。
1707年(宝永四年)今から約三百年前、富士山が噴火する。宝永火口から噴出した火山礫や火山灰などの噴出物は、偏西風にのって静岡県北東部から神奈川県北西部、東京都、さらに100km以上離れた房総半島にまで降り注いだ。
この大噴火で、神奈川・東京の河川にも降灰が流れ込むことでその後も引き続き様々な影響が出た。河川流域で盛んに行われるようになった稲作は直接・間接的に影響を受けた。
江戸中期、治水技術の向上と普及が日本の<財源>である稲作を変え、棚田から平田へと水田が飛躍的に広がり始めた頃の大災害だった。当時、江戸近郊は川や近海の船による物流も盛んになり豊かな江戸幕府の基礎経済を支えていた。
そんな中での富士山噴火は
田畑への直接的な被害はもちろん、川へ流れ込んだ火山灰が氾濫や河口域の急激な吃水変化をもたらす。
結果、河口域の急激な変化が起き、大岡川の吉田新田、帷子川の宝暦・安永・弘化新田等の新田開発が相次いで始まる。
(河口域の変化)
横浜誕生の背景には、噴火による河口域の急変があった。そして
大岡川河口域の絶妙な<横浜岬>と吉田新田。帷子川河口域の絶妙な<浅瀬>と横浜道が可能だったからこそ港都横浜であり続けた。
港都横浜はダブルリバーによって形成されたと言っても過言ではない。
都市計画として“ダブルリバーシティ”を構想した人物がいる。
震災後、横浜の復興計画を立案した牧彦七だ。
彼はこのダブルリバーの真ん中に横浜市の中心を置くことを考えた。
「牧案」の特徴は、横浜港を内包する関内と鉄道・国道の要となる現在の<横浜駅>エリアの中間に当たる丘の上に中央公園を造り、囲むように官公庁と会社銀行が並ぶ<新都心>を創り、そこから各地区を幅員50~60mの「逍遙道路」で結ぶというものだった。まさに横浜の都市構造を的確に判断したからではないだろうか。残念ながら彼の夢は実現しなかった。もし実現していたら、横浜はダブルリバーに運河が張り巡らされた世界一の運河都市となってかもしれない。
牧彦七に関しては下記ブログに少し触れている。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=58
【横浜の橋】No.12 万国橋(新港埠頭)
橋のデザインには個性がある。構造上の課題をクリアすれば橋のデザインは多くの場合設計者に委ねられる。
幕末から大正にかけて、横浜にも多くの橋が架けられた。居留地と外を結ぶ「吉田橋」のエピソードは有名。
この時代で<最も>派手な橋はどれか?
文句なく『万国橋』だろう。現在の橋は1940年(昭和15年)11月に完成した二代目の地味なアーチ橋だが、当時は、上物が凄かった。
ちょっと笑ってしまいそうな上物でもある。税関=大蔵省の威光を示す目的もあったのだろう。
まずは百聞は一見なので当時の絵葉書を何点か紹介する。
開港50年祭の際に鉄骨アーチを覆うように<城櫓>のハリボテを組み立てたもの
『万国橋』は1904年(明治37年)に税関埠頭(現在の新港埠頭)と関内を結ぶために架設されたアーチ型鋼橋(トラス橋)だった。大さん橋を含め横浜港築港計画で設計された時には唯一の橋だった。
全長は36.6メートルで幅が15.9メートルあり、関東大震災でも耐え震災後もすぐに使用できた優れもの。
完成後、鉄道を埠頭内に引き込むために<汽車道>が作られ、税関本館脇から「新港橋」が架けられ、1994年(平成5年)みなとみらいエリアの開発に伴い「国際橋」ができるまで汽車道を除きこの二つの橋しか無かった。
万国橋は関内の中の<関内>、居留地時代の吉田橋みたいな役割を担っていた。移民船も大さん橋だけではなく新港埠頭から多くの人々が旅立ったに違いない。
現在は<みなとみらい>エリアを撮影するベストポイントにもなっている。
【横浜の橋】№11宮崎の橋(帷子川)
橋には色々種類がある。
一般的なイメージは河川に架かる道路の橋、 人専用なら人道橋、 鉄道橋梁、 そして鉄道を跨ぐ跨線橋、や道路を跨ぐ跨道橋(陸橋)などがある。 このような色々な道路がほぼ一箇所に集中している場所がある。<だからなに?>
なんだが、高速道路などが絡む場所では珍しいことではない。
ただ小さな川の小さな橋のあるところで<橋Gallery化>しているのは結構珍しい。
「宮崎橋」「宮崎橋人道橋」「宮崎跨線橋」「第三帷子川橋梁」(+地下道)が本日の紹介する橋だ。場所は横浜市保土ケ谷区仏向町、相鉄線和田町と上星川駅の中間にあたる。
位置を帷子川を中心にして説明する。
帷子川左岸に国道16号線が平行して走り、すぐに丘陵が迫っている。一方右岸は旧道とわずかだが平地が続き、このあたりは野毛山から続く水道道の役割も果たしている明治からの道だ。 国道16号には「宮崎橋入口」という交差点名が掲示されている。すぐ横にあるバス停名は「保土ケ谷中学校前」そこにはサブタイトルとして「仏向杉山社入口」とある。 歴史に準ずると、鎌倉街道から川を渡る神社への橋があり、相鉄線の橋が架かり、橋の架け替えに伴い人道橋ができ、その後しばらくしてから大規模な跨線橋と歩行者用の相鉄線を潜る地下道が完成し念願の渋滞解消が実現した。
この宮崎橋近辺は帷子川と相鉄線の和田町一号踏切があり昔から大渋滞の場所だった。 私は地元民ではなく車での通過客だったので地元にとっては迷惑千万の一台だったかもしれないが、とにかくこの辺りは渋滞が激しくイライラした記憶がある。
国道1号線から16号に合流する車両と、帷子川左岸から右岸エリアに向かう車がぶつかり合うポイントで、相鉄線の開かずの踏切が加わり身動きできないほどの渋滞地となっていた。 ここに帷子川と相鉄線と小さな道路をまとめて越える<跨線橋>を作る計画が持ち上がったが、予定地には仏向杉山社があり大変だったようだ。
冒頭にも<橋Gallery化>と表現したように、この辺りはとにかく構造が複雑になっている。
苦肉の策で現状となった?のかどうかは判らないが、かなりの強引な跨線橋作りであったことは現地を見れば明らかなので橋梁や道路設計に関心のある人は見学の価値あり??かも。
(歴史資産だらけ)
□和田村道橋改修碑 国道16号線は近世の重要な海道<八王子街道>をほぼトレースしている。古道時代は曲がりくねっていた箇所を地元の村民達が改修し、街道が次第に整備されていく。その改修碑が16号に沿ってひっそり建っている。
『村地先の難路を、江戸の住人桜井茂左衛門が資金を提供し、村民および隣村川島村民の協力を得て改修し、あわせて道筋に橋を架けて往来の難儀を救いました。本碑は、この工事の由来を記したものです。碑高は103cm、碑幅34.5cm、碑厚21cm。建立は元文2年(1737)11月。道筋改修の経緯を知る上で貴重な碑です。』
□仏向町の石塔(仏向杉山社跡)
ちょうど宮崎跨線橋が帷子川右岸側に降りるあたりにはかつて丑寅の方位に向かう「仏向町杉山社」があったがこの跨線橋工事のために遷座することになった。 平成5年8月のことだ。 その神社跡地の角が交差点となり敷地の一部が仏向町町内会の「ふれあい広場」となっている。
この角に三つの「石塔」が設置されている。 三つの石塔は神社跡地に残った(残した?)もので
(1)「観音庚申塔」
寛保2年(1742)11月造立。庚申信仰の石仏で舟形をしているのが特徴。
(2)「斎上地神塔」
文化9年(1812)8月造立。角塔浮彫形
(3)「出羽三山供養塔」
安政2年(1855)8月造立。
□正福院
かつての「宮崎橋」を渡り、まず杉山社が右手にあり、少し軸がずれ寺への参道が続く。
参道を進み、山門をくぐると 正面に樹齢300年と言われている二本の大銀杏の木が高々とそびえている。曹洞宗仏向山「正福院」だ。
『新編武蔵風土記稿』によると、
「出家の身は他に志願なし、唯、常に仏に向かうこそ桑門の本意とするところなれば、寺の山号およびその村里にも『仏向』の二字をもって名付け賜るべしとの願いにより、かく名付けられしとぞ」 と仏向の名について記されている。
□「宮崎跨線橋」
1993年(平成5年)に杉山社が遷座されてから6年、 1999年(平成11年)3月にようやく立体交差化「宮崎跨線橋」が完成する。 その後、どの程度混雑が緩和されたかは定かではないが、2016年に現地に立った時にはあまり渋滞は感じなかった。 この事業には踏切解消の目的もあり、歩行者用の「地下道」も新設、跨線橋の周囲が親水ゾーンとして整備されたが現在はシャッタアウトされた状態になっている。 実に勿体無い。
【横浜の橋】№9 天神橋(堀割川)
堀割川に架かる天神橋は現在架け替え工事が行われている。
震災で倒壊した天神橋は大正15年の6月に工事が始まり昭和2年4月22日に竣工と震災復興記録には記されている。工事前は市内でも最古参に入る<古株>の橋だった。
撮影した橋の画像が見つからないので画像はパス!見つかり次第掲載予定。
堀割川は1874年(明治7年)に完成した大岡川の小派川で、中村川から分かれ根岸湾に注いでいる。
明治に入って着工された「堀割川」分水路作りにはいくつかの目的があった。
一つは、江戸中期に新田開発された<吉田新田>では開墾しきれなかった海の部分を埋め立てるために<土>が必要だったこと、もう一つは根岸湾(磯子・金沢)開発のために横浜開港場を繋ぐ目的があった。完成には吉田家涙の物語があるがここでは省略する。
堀割川には現在六つの橋と一つの人道橋が架かっている。
①中村橋
②天神橋
③根岸橋
④坂下橋
⑤磯子橋
磯子橋人道橋
⑥八幡橋
今日は「弁天橋」の風景を紹介する。
構造は<I型鋼桁(ガーター)橋>架替後も変らない。
橋の銘板には「大正15年3月」とあるが 復興資料では大正15年着工の「昭和2年4月22日」完成とある。
(天神橋の由来)
天神橋の名は天満宮に繋がる<橋>の意として全国で多く命名されている。
ここに架かる「天神橋」は岡村天満宮に繋がるのだが、社殿まではかなり遠い。資料によると、堀割川が完成すると、<船>で天神橋近辺にあった<船着場>を経由して参拝にでかけたことから命名されたようだ。
明治45年に電気鉄道が開通し、船便は廃れてしまうが橋の名は残った。岡村天満宮には横浜電気鉄道(後の市電)滝頭で降り、途中の一の鳥居をくぐり天神道を歩き向かった。
震災で堀割川護岸はかなり崩れ、参道の道筋も新しく作られることになった。例祭の時にはちょうど天神橋と下流の根岸橋の中間に「天神前仮停留所」が開設され、臨時停車し参拝客は皆ここで降りた。(堀割川左岸)
岡村天満宮は堀割川の右岸側にあり、電気鉄道も右岸に沿って八幡橋まで走っていた。江戸時代は根岸台の崖下から岡村一帯は丘の多いこの地域の重要な<平地>だったが、堀割川によって分断されてしまった。
「左岸」は背後に根岸の崖が迫り 分断された土地となっている。そのためかどうか分からないが 左岸には工場が多い事と関係があるかもしれない。
戦前の「天神橋」が写っている絵葉書がある。といってもかなり遠景なので、橋そのものはその存在が確認できる程度だ。(日本ビチュマルス株式会社)
ビチュマルスとはあまり聞き慣れない言葉だ。
道路舗装の欠かせないアスファルトの乳剤のことをビチュマルスという。日本での事業展開の歴史は古いが飛躍のきっかけとなったのが<関東大震災>による復興需要だった。道路舗装の先進国であったアメリカの持つ技術を導入し、日本では幾つかビチュマルス製造会社が誕生した。
その一つが日本ビチュマルス株式会社で、
1930年(昭和5年)に設立された。現在は東亜道路工業株式会社と改名(1951年)し日本有数の道路舗装企業である。
この他にも幾つか大手道路舗装企業があるが、独立系である日本ビチュマルス株式会社に対し、ゼネコン系の関連企業が殆どである。
大林組の関連会社「大林道路」はかつて「日本ビチュマルス株式会社」から分かれた道路舗装企業である。
絵葉書の発行は昭和9年夏である。ちょうどこの頃の地図があったので地図と比較しながら、ここに映る風景を少し読み解いてみたい。
工場脇を堀割川が流れている。川にそって道が整備され、そこを市電が走っている。左側が下流で根岸湾方向を指す。下流に「天神橋」が写っている。
工場内には<ドラム缶>が多く並んでいるのが判る。
地図から「日本ビチュマルス株式会社」の周囲には「大和染色工場」「四菱食品会社」「落合ガラス工場」「石川工場」など製造会社が立ち並んでいる。
対岸(右岸)には広い空き地が目立っている。
半分削られた小山の手前が現在 「横浜商業高等学校 別科」がある辺りと思われる。
小山の奥には「脳血管医療センター(かつて万治病院)」があったが周囲は殆ど空き地のように見える。昭和初期はまだまだ農地中心で住宅は限られていたようだ。
この風景はどこから撮影されたものか?
地図から根岸の丘の上、現在米軍住宅のはずれ標高56.7mポストあたりから見下すように撮影されたと思われる。工場の屋根にビチュマルスと大きく書くということは、航空機を意識したのだろうか?それとも根岸の丘からの眺めを考えてのことだったのだろうか?
最後に花見の時期も迫ってるので
かつての堀割川の桜風景を紹介する。
【横浜の小さな橋】№8 日影橋
今日は「日影橋」を紹介する。恐らく地元の人しか記憶に無い実に地味な橋だが、私のお気に入りPOINTの一つとして紹介しておきたい。
この【横浜の橋】シリーズを始めようと思ったキッカケの一つがこの「日影橋」だった。もう3年前のことだ。2013年の夏、田奈駅から市境ぶらり歩きをするために恩田川を遡上中に出会ったのが「日影橋」だった。 地味ながら横浜の風景、川と橋の関係を考える上で大切な<橋>との出会いだった。
「日影橋」は一級河川「鶴見川」一次支川「恩田川」に架かっている。
二次支川「奈良川」との合流点に設置されているごく普通の桁橋だ。<写真左奥の青い橋が「日影橋」全体の映像は後段で>
竣工:昭和43年3月
橋長:26m
幅員:4m
恩田川は現在の「青葉区」と「緑区」の境となっている。合流する奈良川は恩田(青葉区)一帯を潤す支川で、長津田(緑区)の河岸段丘による台地にぶつかるかたちで恩田川に合流している。
グーグルアースでこの橋周辺をご覧頂きたい。
青葉区の奈良川流域に広がる農地が美しい。実は横浜は近郊農業の町でもある。横浜産の小松菜やキャベツは<かくべつ>だ。住農工商のバランスを考える際、農地の風景は都市にも重要な風景である。すぐ近くには住宅地が迫っている。
日影橋
「日影橋」の名は、古い地名から採っている。旧恩田村字日影山の「日影」を橋名にしているそうだ。因みに、日影は<日陰>ではない。陽の光が影を生む場所を指している。
「日影橋」横には河辺降りることができる階段があり、橋の下のちょっとした<親水空間>が暑い夏の日差しを凌ぐには最適な場所となっている。 私はここで真夏のランチタイムを楽しんだ。川の水も澄んでいてウォーキングの疲れを癒やすにはもってこいの空間だったのでこの橋が気に入ったのかもしれない。
(市境めぐり)
日影橋から二つ橋を過ぎると恩田川は東京都町田市成瀬に入る。ここから県境をしばらく歩くことができる。左右に<杉山神社>があり、しばらくすると見事な<尾根境>に入る。市内有数の地境が実感できる散策ルートといえるだろう。ぜひ「恩田川」とセットでお薦めする。