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「横浜絵葉書」カテゴリーアーカイブ
「時」の風景(更新)
今日は「時」の話題から始めます。
古典落語に「時蕎麦」という滑稽話があります。屋台の蕎麦屋でお勘定をす際、「七(なな)、八(はち) 今何どきだい? 」「ここのつで」「十(とう)、十一(じゅういち)」というだましを使うネタです。
時代は江戸、
屋台の蕎麦屋はなぜ時間を正確に言えたのでしょうか?
江戸時代の時報は<鐘>の音でした。江戸では公認の時報を打つ場所が九カ所あったそうです。初めに捨て鐘三回の後に、時刻に応じてその数だけ鳴らしました。
ではその打つ時刻はどうしたのか?
当初は線香の燃え方で、その後「水時計」が設置されていて、時計に従って鳴らしたということですから、秒単位の正確さは無いものの社会生活には全く問題がありませんでした。
江戸時代の暦、太陰暦も季節感にそったカレンダーで農家には便利な<暦>でした。
時報の知らせ
鳴らす間隔は、当初「明け六つ」(午前6時)、「暮れ六つ」(午後6時)をドーンと太鼓で知らせるだけでしたが、2代将軍 徳川秀忠の時代から鐘に代わります。昼夜十二の刻を打つようになります。
「時そば」の九つ時、午(うま)の刻(午後零時)か子(ね)の刻(午前零時)のことです。落語には近くで様子を見ていた<与太郎>が登場していますので、午(うま)の刻(午後零時)の九つ時が自然かもしれません。
※「時そば」はyoutubeに多く収録されていますのでどうぞお楽しみください。
この時に使われていた時刻は江戸以前の「和暦」に基いて不定時法を用いていましたが、明治六年以降太陽暦を使うことになります。
定時法(24時間を均等に分ける)時刻となり西洋式の時計が大量に輸入されます。ところが、
時計があっても、すぐに時計は役に立ちません。
基準時と「時報」が必要だったからです。
日本の基準時間をどうするのか?
教科書では「東経135度 明石標準時」と習います。
この明石標準時は、東経135度の時刻を日本の標準時とすることを定める勅令「本初子午線経度計算方法 及標準時ノ件」が1886年(明治19年)公布され決定します。
英国のグリニッジを基準とした日本の上を通る9時間の時差となる135度とすることになります。
この英国グリニッジ標準時も、国際会議でかなりもめます。
フランスも自国の国立天文台を基準にすることを主張したからです。
1884年(明治17年)国際子午線会議の投票で僅差の結果、英国に決定します。
もし、フランスに決まっていたら 明石では無くなった可能性が高かったでしょう。
1884年(明治17年)以降、一気に国際標準時の整備が世界レベルで推進されます。
二年後の
1886年(明治19年)に明石が標準時地点と正式に決まり、
国際標準時を必要とする国際港に<時報>が求められるようになります。
1903年(明治36年)の3月2日
「横浜」と「神戸」の国際港にタイムボール(報時球)が設置され運用開始しました。
<かなり前置きが長くなりました>
横浜港のタイムボール(報時球)は皮肉にも<フランス波止場>近くにありました。
現在で推測すると、氷川丸とホテルニューグランドの間、山下公園の中央広場あたりです。
ちなみに横浜のタイムボールは<黒色>で、神戸は<赤色>だったそうです。この絵葉書が赤なのは<手彩色>で目立つことを意識したのかもしれません。
1913年(大正3年) 航海指針 山田正良 編 (海員協会版)
横浜報時球信号手続
1.報時球は日曜日及大祭日を除き毎日本邦中央標準時の正午時(東経135度に於ける平時正午時即ち英国経威平時の15時)に墜下せしむ
2.報時球の位置は北緯35度26分40秒988 東経139度39分零秒330トス
3.報時球の色ハ黒色に塗り櫓は白色とす
4.球は常に下部横木上に据置き正午時約5分前(午前11時55分)より之を上部横木下まで引揚げ東京天文台より電気作用を以て之を降下し始むる瞬時を以て正午時とす
5.報時信号に過誤ありたるとき又は故障の為め該信号を為し能はざるときは球櫓の下桁端に萬国船舶信号W旗を掲ぐ
「横浜報時球信号手続」でも表記されているように作動は
「東京天文台より電気作用を以て之を降下し始むる」
電信により遠隔操作されていたことになります。
<球>が知らせる時刻に合わせて 少し前に上に上がり、ジャストタイムに球が落下するしくみだったようです。港に停泊中の船舶は<望遠鏡>で報時球の落下を待ちます。落ちた瞬間「タイム!」と叫び 船舶内の時計の時刻の誤差確認をしたそうです。
■横浜報時球信号の位置
「神奈川県港務部報時信号所及暴風雨標」神奈川県港務要覧(明治43年)より
【さらに時報の余談】
現在調査中の話も ちょっと紹介してしまいましょう。
本町1丁目にあった町会所(現:開港記念会館)は1874年(明治7年)に竣工し石造亜鉛葺二階建て、一部四階建て延765㎡の壮大な洋館として開港場(関内)のランドマーク的役割を果たしました。特に時計台と時報を告げる音が<寺の鐘>だったそうです。
洋式の建物・時計台に西洋の鐘ではなく寺の鐘!
何故 和式だったのか?知りたいところです。
この鐘 どんなものだったか? 一枚の絵葉書で発見しました。
わかったことはここまで、さらに詳しくは 別の機会に紹介します。
20211205更新 誤字修正 画像とリンクを追加
【横浜の橋】№3-2 震災と横浜の橋
1月17日は阪神淡路大震災から21年目だった。
私たちは9月1日、3月11日と共に忘れてはならない震災の日である。
“災害は忘れた頃にやってくる”のではなく
“災害は忘れなくてもやってくる”ことを自覚しておく必要がある。
地震災害はこの3回だけではない。明治以降地震災害は何回も何回も起こっている。
「関東大震災」における関内外の橋を吉田橋を中心に少し考えてみたい。
関東大震災で横浜市中心部は未曾有の被害を受けた。川(運が)の街である関内外のほとんどの橋が震災によって倒壊、半倒壊のために人々は避難路を失ってしまった。ここに台風の影響による強い南風が木造の家屋から出火した火災を煽り立てる結果となってしまった。
湾岸の油槽からは油が漏れ出て、運河の一部が炎の道となる。
関東大震災の被害は東京が都市規模から最も大きかったが、震源地に近い「横浜市(神奈川県)」の被害もかなりのものだった。
震災誌によると
「更に橋梁を見れば、全市総数八十六橋の中、僅かに大江橋・吉田橋・辨天橋の三橋のみを残して他は殆ど墜落或は焼失しその骸型も止むるに過ぎなかった。」 市内にまず86しか橋がなかったこと。その中で資料にもあるように三つの橋以外は全て渡ることができなかった。
運河の町の避難する経路の多くを失ったということだ。
「大江橋」
この橋は、震災直前に竣工し最新の橋梁技術が導入されてこともあり、倒壊を免れた。
「辨天橋」
皮肉ではないがさすが大蔵省(現財務省)管轄の橋梁、丈夫にできていた。現在も橋脚部分は残っている。
「吉田橋」
下記の表を見て分かるように、吉田橋付近での避難中の被災死者数は関東大震災最大級であったことがわかる。当時の第繁華街<伊勢佐木>や関内の人口集中地区での被災となったことや、吉田橋の袂には「伊勢佐木警察署」があったことも避難者の心理に逃げる方向をここに向けさせたかもしれない。
橋脚は無事だったが、街灯、欄干等はその後補修され一部デザイン変更があった。
<震災前>
<震災後>
吉田橋際にあった伊勢佐木警察も倒壊し出火、全焼する。
少々余談になるが、被災した「伊勢佐木警察」について紹介しておこう。
現在大通公園脇(中区山吹町2番地の3)に位置しているが、市内警察署の中で最も移転した警察署ではないか(しっかり確認していない)
1877年(明治10年)1月25日
市政が始まり横浜市内に6つの警察署が設置された。
長者町・松影町・戸部・山下町・高嶋町そして伊勢佐木警察の母体となった堺町である。堺町警察署は当時、現在の「横浜地方裁判所」がある位置にあり関内の中心にあった。
1878年(明治11年)2月
横浜区内の6警察署(堺町、高島町、山手、松影町、長者町、戸部町)が統合し、横浜堺警察署に改称する。
1882年(明治15年)7月1日
横浜警察署に改称された。
1884年(明治17年)7月
堺町から伊勢佐木町25番地(吉田橋南詰)に移転。当時「鉄の橋(かねのはし)」として有名な吉田橋のたもとにあったことから、俗に「鉄の橋の大屯所(おおたむろ)」と呼ばれた。
1893年(明治26年)12月
地名にちなんで伊勢佐木町警察署に改称。
1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で倒壊。二日後久保山→9月7日太田尋常小学校→10月5日初音町→大正13年9月に本願寺境内と4回にわたり仮庁舎が移転。
1925年(大正14年)10月
名称を伊勢佐木警察署に改称。
1926年(大正15年)11月
長者町5丁目に用地を買収
1927年(昭和2年)12月
本庁舎完成。
1945年(昭和20年)6月18日
戦災のため加賀町警察署へ一時統合。
1946年(昭和21年)9月
伊勢佐木警察署として再開。
1974年(昭和49年)
現在地に現庁舎が落成、移転。
最後に
横浜で最大の死者が出たのは中華街だった。狭隘道路に木造住宅と昼食時も重なり避難すらできなかった中華街の被害が推測でも2,000人を超えたという悲劇も忘れてはいけない。
【横浜の橋】№3 横浜を語るなら吉田橋を知れ

横浜の橋といえば「吉田橋」を採り上げない訳にはいかない。横浜開港場が誕生した時に架けられて以来、この町の成長を見守ってきた横浜の代名詞といっても過言ではない。今回から数回に分けて「吉田橋」を紹介する。
まずは簡単に「吉田橋」アウトラインを確認しておく。
現在の「吉田橋(よしだはし)」は中区伊勢佐木町と中区港町の境を走る首都高速道の上に“ある”。
「吉田橋」いわゆる橋梁なのか地下施設の構造物の一部なのか?いささか疑問に思っている。橋梁の専門家ではないので 詳細はわからないが事実吉田橋はマリナード地下街の天井部にあたる。
首都高速道建設時の
1977年(昭和52年)10月29日にマリナード地下街が開業する際に上部を「吉田橋」としてかつてのトラス構造をモチーフにした欄干のある屋根に<建替え>られたからだ。ここにはベランダ?もあれば窓もある。 この詮議は別の機会にし、簡単な歴史を整理することにする。
<吉田橋の歴史>
安政六年(1859年)開港時に<開港場>と<東海道>を繋ぐ横浜道が突貫工事ですすめられた。この時、横浜道の一端となる開港場と吉田町を繋ぐ仮橋が架かった。これが後の吉田橋である。同時に野毛の街と新田を繋ぐ都橋(野毛橋)も架かり、横浜道が完成した。
翌年の1860年(庚申万延元年)、開港場の<出島化>を図り中村川を延伸。
堀川を完成させ、そこに「谷戸橋」と「前田橋」を新設し<山手>と開港場の往来を確保する。
(当然関門も設置)
※当時、開港場はまだ整地もままならない農地だった。
開港はしたものの、かろうじて外国人と江戸を中心とした商人たちが(仮)仕事場を作り始めたばかり。この時に、開港場に暮らす農民たちの土地を<地上げ>し、山手のもとに強制移住させたのが横浜元町である。
横浜沿革誌によると万延元年二月に「堀割の東山下へ農家九十余軒を移転せしめ、名を横浜元町と称す」とある。
◆初代
文久二年(1862年)に正式な橋として初代の「吉田橋」が設置される。
その後、横浜開港場を認めていなかった英国他の欧米各国も実質的に便利で安全な開港場を認めるようになり急速に変貌を遂げる。
※この年文久二年八月に「生麦事件」
明治維新を挟み、横浜開港場の物流は急激に増加し、
“おそらく”吉田橋はキャパを超えていたのだろうと想像できる。日本の近代化を支えた“お雇い外国人”による早期のインフラ整備事業の中に「吉田橋」の改築がある。
◆二代目
1869年(明治2年)「吉田橋」は灯台技師リチャード・ブラントンにより錬鉄製の無橋脚トラス橋に掛け替えられた。これが日本で2番目の鉄橋、二代目「吉田橋」である。 一番目の鉄橋は、長崎のプレートガーター構造の「くろがね橋」。
「吉田橋」は当時世界トップクラスの橋梁技術を誇った英国の主流橋梁様式だったワーレントラス(正確には下路ダブルワーレントラス)桁構造で作られた。
サイズは
長さは「80フィート(約24.4m)
支間78フィート(約23.8m)
桁高5フィート2 1/3インチ(約1.6m) 「五十畑レポートより」
当時の吉田橋(かねはしと呼ばれた)
現役の鉄製下路式ダブルワーレントラス桁橋は
県内では「箱根登山鉄道早川橋梁」で見ることができる。

◆三代目
1911年(明治44年)三代目「吉田橋」が完成。この橋が最も有名、絵葉書や写真に残っている。
日本最初のカーン式鉄筋コンクリート橋に架け替えられた。
このとき歩道と車道、電車道が分離設計された。
設計は工手学校(現在の工学院大学)長に就任していた石橋絢彦(いしばし あやひこ)
※石橋絢彦
彼はイギリスに留学し灯台建築の技術を学び灯台局に勤務。その後、1889年(明治22年)に神奈川県庁内に横浜築港掛が設置され総監督がヘンリー・パーマーとなった際に臨時横浜築港北水堤現場監督として任に就いた。
三代目「吉田橋」については下記ブログも参考にしてほしい。
【しりとり横浜巡り】6月10日(火)吉田橋
三代目、文献には関東大震災で倒壊を免れ、多くの人命を救ったといった記述が見られるが、これは事実誤認だろう。かろうじて倒壊を免れたが、関内外から避難者が殺到し多くの死者がでた現場となったという皮肉な結果となってしまった。 ◆四代目
1958年(昭和33年)開港100年祭に際し、老朽化していた「吉田橋」の架け替え工事が行われた。この時、仮設の人道橋が設置された。場所は吉田町商店街に入る分岐点あたりだった。
◆五代目?
1978年(昭和53年)3月竣工。
1977年(昭和52年)に派大岡川を埋め立て首都高速が代わりに走ることとなった。
この首都高速道建設に際しマリナード地下街が10月29日に開業。上部が道路になり「吉田橋」としてかつてのトラス構造をモチーフにした橋に建替えられた。
冒頭の繰り返しになるが
現在の「吉田橋」が橋なのか地下施設の構造物の一部なのか?私は橋梁の専門家ではないので 詳細はわからない。
名は残っているが、ここはもう橋ではない、かもしれない。
さて 五代に渡る吉田橋の歴史を簡単に追ってきた。
なんとか全五代の吉田橋画像も手元の資料で紹介したが、三代目は震災と戦災で一部変更されているようだ。このあたりをもう少し詳細に詰めたかった。
次回は吉田橋150年の歴史の中から、エピソードをいくつか掘り出してみたい。
金玉均(キム・オッキュン)
今日のテーマは一時期横浜に滞在した金玉均(キム・オッキュン)についてです。
1886年(明治19年)7月26日
「朝鮮の亡命志士金玉均が神奈川県で拘留された」という簡単な記事を元に数日前から資料を読んでいますが、<明治以降の朝鮮と日本>に関しては異論の多いこと。
なので 事実関係を紹介する程度に留めました。ある程度理解した時点で改めてまとめてみたいと思います。
朝鮮、革命の志士「金玉均」は日本との関係が深く四回来日しています。
(最初の来日)
金玉均は1851年2月23日に忠清南道公州市で生まれました。俊英だった彼は22歳で科挙に合格、中堅官僚として近代化を推進するために開化思想に目覚めていきます。
1882年(明治15年)年2月から7月にかけて初来日し大阪に滞在、福沢諭吉ら多くの支援者と出会います。既に朝鮮からは前年の1881年(明治14年)に2名の留学生が慶應義塾で学び、1名が同人社に入学していました。
(二度目)
1882年(明治15年)9月から翌年3月にかけて金玉均は日朝間で締結された済物浦(チェムルポ)条約批准の修信使の顧問として二度目の来日を果たします。この時、彼は横浜正金銀行から17万円の借款を得ます。
(三度目)
1883年(明治16年)6月、金玉均は国王の国債委任状を携え、日本での三百万円の借款を得ようとして来日します。
残念ながら借款には失敗し翌年の5月に失意の帰国となります。
(四度目)
1884年(明治17年)12月4日に 金玉均ら数名は日本公使館も加わりクーデター(甲申事変)を起こしますが清国の介入で失敗。井上角五郎らによって日本に亡命(密航)します。<亡命中>日本政府冷遇の中、玄洋社の頭山満ら多くの支援者に出会うことになります。
https://kotobank.jp/word/甲申政変-261601
クーデターに失敗した金玉均は本国の刺客にも狙われ、日本国内の支援者を頼ながら亡命生活を送ります。
1886年(明治19年)に入り日本国政府は、冷遇はしていましたが、庇護状態していた彼の存在が外交上の<お荷物>という評価に変わり対応が大きく変わり始めます。
6月2日 警視総監命で国外退去を口頭で伝えます。
6月4日 東京にいた金玉均は列車で横浜に向かい
この頃、まだ治外法権だった横浜居留地のグランドホテルに滞在します。
6月9日 内務大臣であった山県有朋は書面でグランドホテルの金玉均に対し退去命令を執行するように要請します。
6月12日 神奈川県令から本人に退去命令が令達されますが、本人は“国外退去の金が無い”という理由で拒否します。
そして
7月26日
<国外不退去>の金玉均をグランドホテルより拘致、野毛山(伊勢山?)の三井別荘に連行、強制抑留します。
(その後)
勾留した金玉均を日本政府は”国外追放“できませんでした。
井上馨外務大臣は山県内相に「内地ヨリ隔然セル小笠原嶋二送置」を要請し、
8月8日に身柄を神奈川県から東京府に移します。
その後 事実上の<島流し>である小笠原に送られ保護観察となった金玉均はしばらく小笠原で生活し、その間日本の友人が彼の元を訪れています。
しかし気候風土が合わなかったのか 体調を崩し 北海道に転送されます。
明治23年に北海道から<内地>で暮らすことを認められ、国内で多くの支援者と交流します。
明治27年周囲の制止を振り切り上海に渡りますが 暗殺されその生涯を終えます。
(最初の亡命者)
当時の日本政府にとって金玉均の取り扱いは<初めての政治亡命受入>だったそうです。
この時に彼を支援した福沢諭吉をはじめ、大アジア主義者と呼ばれた玄洋社の頭山満、孫文や蒋介石を支援した宮崎滔天らの行動が脈々と民間の手で受け継がれ、孫文やボーズの支援に繋がっていきます。
※孫文の初期日本滞在<横浜時代1897年〜1907年>を支えたのも華僑や民間の日本人でしたね。
Louis Eppingerの時代
1908年(明治41年)6月14日ドイツ系アメリカ人で居留地のグランドホテル支配人を務めたLouis Eppingerが心臓病により山手一般病院で亡くなりました。77歳でした。
このニュースはすぐに海を渡り彼が育ったサンフランシスコの新聞にもしっかりと掲載されます。
日本の新聞には79歳とありますが米国の訃報から計算すると正しくは77歳と思われます。
彼の勤めた「グランドホテル」について簡単の紹介しておきましょう。
1873年(明治6年)に英国資本によって開業します。
(マネージングディレクターはWHスミス、支配人はリオンズ)
1877年(明治10年)
グランドホテル出資者の一人ベアト※が出資者から撤退します。
※ベアトは写真家としても有名です。
「The Grand Hotel Yokohama」の創業に関わった人物の一人が写真家として有名なベアト
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/univj/list.php?req=1&target=Beato
フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)
http://ja.wikipedia.org/wiki/フェリーチェ・ベアト
1878年(明治11年)6月1日
グランドホテルがオークションにより$22,100でJ.von.Hemertによって落札されます。
(実質仏人ボナによるフランス資本となります)。
7月1日に改装しオープン。
1879年(明治12年)
経営者だったボナは健康上の理由で帰国しますが途中の米国で死亡します。
1881年(明治14年)
ボナ商会がグランドホテルから撤退しボワイエ商会に経営が移ります。
1882年(明治15年)
1月1日からグランドホテルはボワイエ商会による三代目の経営者を迎え営業が始まります。
当時の居留地にあったフラッグシップホテルは「クラブホテル」でした。
1886年(明治19年)
グランドホテル隣接のウィンザーハウス(居留地18番19番)が失火により焼失しグランドホテルと経営統合が図られます。
ここまで、経営者がめまぐるしく変わり、個人経営レベルの安定しない経営が続きます。
1887年(明治20年)
この年、パーマーが築港意見書を提出するなど、本格的な横浜築港計画が進み始めます。
さらには
「横浜〜バンクーバー」定期航路も就航し横浜も本格的な国際都市としての機能を果たすようになります。
1889年(明治22年)
この頃
横浜にも本格的なホテルニーズが求められるようになりますが、個人経営レベルの「グランドホテル」は設備投資力を失い業績不振で売却を決めます。
2月25日に資本金25万ドルのグランドホテル(株)を設立し会社組織となります。
この時にサンフランシスコでホテルに勤めていたLouis Eppingerが米国より招聘されグランドホテルに着任します。
彼は1891年〜1905年までの間、約15年間支配人を勤めます。
この直後 最大のライバルとなる「クラブホテル」も法人化を図り英国人のハーンが支配人となります。
1890年(明治23年)
建築家サルダにより別館を新築します。
グランドホテル客室は100を超え、300人収容の食堂やビリヤード室、バーも設けられ横浜を代表するホテルになります。
※設計者サルダ(Sarda,Paul)は、指路教会会堂を設計した建築家です。設計を巡ってはグランドホテル側と係争となり裁判も起こります。
1893年(明治26年)
横浜港築港工事もほぼ完了するころ
グランドホテルは一泊食事付き4円を設定、国内最高級価格のフラッグシップホテルの座を獲得するまでになります。
1905年(明治38年)
Louis Eppingerは現場から離れマネージングディレクターとなります。
この年 横浜港は日露戦争凱旋観艦式で賑わい、その後も海軍観艦式の多くが横浜港で開催され集客力となります。
1906年(明治39年)4月18日
米国サンフランシスコで午前5時12分に大地震が起こります。
数日間にわたって火災が続き街の4分の3以上が灰燼に帰し、ダウンタウンの中心部はほとんど焼けてしまいます。
横浜グランドホテルはEppingerが退きH.E. Manwaringがホテル支配人に就任します。
1907年(明治40年)
グランドホテルに転機が生まれます。
11月5日グランドホテルはさらに拡張のための50万円増資を決定します。
一方ライバルの「クラブホテル」が
11月28日近隣の火事を受け類焼してしまいます。
1908年(明治41年)6月14日
Louis Eppingerが亡くなります。
<彼Eppingerの残したもの>
彼の残した中で現在も世界にその名を残しているのが
カクテルの「アドニス」をアレンジした「バンブー」です。
これはEppingerがアメリカ時代に大流行したライトオペラ「アドニス」に因んでニューヨークで誕生したカクテルです。「アドニス」「バンブー」は共にドライ・シェリー ベースのカクテルですが「アドニス」にはスイート・ベルモット、
「バンブー」には ドライ・ベルモットを使い、少しすっきり系に仕上がっています。
※ホテルニューグランドで誕生したという記述がありますが、
私はEppingerがグランドホテルで提供したカクテル説を採ります。
Eppinger説に寄り添うと
Eppingerは何故「アドニス」を「バンブー」と名づけたのでしょうか?
資料が無く不明ですが 推測してみました。
1880年(明治13年)Eppingerがサンフランシスコで働いていた時期
一人の米国人竹採りハンターが来日します。
彼の役割はエジソンの電球フィラメント素材探しでした。ハンターは京都石清水八幡宮の竹を持ち帰り、フィラメントに採用されます。日本製のフィラメントは点灯時間が一気に伸び一躍エジソン電球が有名になります。
この時、Eppingerがサンフランシスコの職場で日本の<竹=バンブー>の事を知ったかもしれません。
京都岩清水八幡宮脇の竹林から採取した竹のこと
https://iwashimizu.or.jp/about/story/
先達はあらまほしきことなり
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=302
長々と書いてしまいましたが、もう少し続けます。
Louis Eppingerと次のH.E. Manwaringが築いたグランドホテル黄金時代にはまだまだエピソードがあります。その後 横浜グランドホテル支配人であったH.E. Manwaringは退任し母国アメリカに戻り、サンフランシスコの「パレスホテル」支配人に着任します。
※このパレスホテルがまた、日本そして横浜と因縁深いホテルです。
サンフランシスコのゴールドラッシュ時代に財を成したWilliam Ralstonが関わっています。
目下資料整理中です。
横浜グランドホテル支配人には<三代目>が着任しますが
残念ながら1923年(大正12年)関東大震災で焼失し再建を諦めます。
その後 横浜にフラッグシップホテルとして全く新しく誕生したのが
ホテルニューグランドです。
Louis Eppingerが亡った1908年(明治41年)6月14日からちょうど半世紀50年
1958年(昭和33年)6月14日に北大西洋の女王と呼ばれた「氷川丸」が昭和28年7月に改装されてから44の航海を終えた、ちょうど輸送船客が一万名を突破した日となります。
関連ブログ
【横浜オリジナル】カクテル・ミリオンダラー
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8461
甲乙2種の記念絵葉書(アーカイブ再掲)
1909年(明治42年)6月28日(月)
「横浜開港50年史」上下2巻ならびに甲乙2種の記念絵葉書を発行する。(横浜商工会議所百年史)」
「横浜商業会議所発行」
※上記絵葉書は記念絵葉書の一部です。
この他
★「開港五十年記念博覧会の開会式が挙行された(横浜歴史年表)」
★「開港記念史料展覧会が万国橋内でひらかれた(横浜歴史年表)」
★「開港記念史料展覧会税関新埋立地で開催(〜7月5日)(総合年表)」
★「五十年祭に参列の英艦マンモウス号入港(総合年表)」
と開港記念日前にプレイベント的に様々な催しが行われます。
メインイベントは
1909年(明治42年)7月1日(木)に式典が行われました。
有名な話ですが、昭和3年まで開港記念日は7月1日に行われ、
その後
6月2日に変更され現在に至っています。
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更
この日に合わせて「井伊直弼像」の開幕式を元彦根藩のメンバー他、薩長土肥の藩閥政治に不満をもつ人達の手で挙行する計画でしたが<時の政府>には中止命令を受けます。
横浜の商業会議所(後の商工会議所)発行の絵葉書にはしっかり井伊直弼像がペリーと一緒に描かれていますから、横浜は薩長土肥出身者とは一線を画していたのかもしれません。
※「横浜開港50年史」上下2巻は
近代デジタルライブラリーでダウンロードできます。
http://kindai.ndl.go.jp
(風景を読みとく)
明治から大正にかけて 世界は絵葉書の時代でした。日本も年に<億>単位の絵葉書が国内外に流通し市民メディアとして多くの状況を伝えました。
ある時代の重要な映像資料となりますが、<複製>も多く、正確な年代推定が難しい資料であることもありつい最近まで<歴史資料>としては中々認知されませんでした。
その浜で、「横濱絵葉書」は火災・震災・戦争・接収等を経て街の風景がめまぐるしく変化していることもあり、<時代資料>としての絵葉書研究が早くから行われてきました。
この商業会議所発行の「開港五十年記念絵葉書」、
写された<税関桟橋>の時代推定に重要な判定基準となってきます。
絵葉書に見る<税関桟橋>の変遷は別立てで 紹介します。
横浜製自動車 雑話(改訂)
1925年(大正14年)3月3日
アジア初の「日本フォード」製造工場が横浜市神奈川区子安に開設されました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6947
このフォードの進出は、日本自動車産業界に大きなインパクトを与えました。
日本の自動車生産革命が国内メーカー、アメリカメーカーの下で<横浜>から始まりました。
1925年(大正14年)2月に資本金400万円で「日本フォード社」が横浜市緑町4番地に設立されます。
そして3月3日、新子安に「日本フォード」の製造工場が生産を開始します。
当初は本国モデルの左ハンドルT型フォードをノックダウン生産しますがここでは右ハンドルモデルAの生産をおこないました。
遅れること二年、ゼネラル・モーターズが大阪に拠点を置き生産を初め米国二大自動車メーカーによる東西競争が始まります。
1936年(昭和11年)に、日本政府は自国の自動車産業の保護育成を目的とする「自動車製造事業法」を制定。この法律により、国内資本が50%以上の企業のみ自動車製造が制限されたことで、
1939年(昭和14年)12月にはトヨタ・日産・フォード間の合弁企業設立交渉が行われたこともありましたが、軍部からの強い横槍があり夢の合弁はたち消えとなってしまいます。
日本フォード社は1940年(昭和15年)に操業停止を余儀なくされます。
1941年(昭和16年)12月から1945年(昭和20年)8月終戦までの期間は日本政府に接収され、陸軍収容財産となり全ての生産設備は解体され、倉庫だけが残ったそうです。
戦後の連合国軍接収を経てフォードに返還され、東洋工業の所有となり現在はマツダのR&D(研究開発)センターとなっています。
一方、自動車製造(株)が1933年(昭和8年)に資本金1000万円で横浜に設立されます。(社長 鮎川義介)
翌年の1934年(昭和9年)6月に日産自動車(株)と社名を変更。翌年から生産に入ります。
1937年(昭和12年)2月には販売体制を確立するために「日産自動車販売」を設立します。
現在の日産自動車横浜本社
戦前 メディアとしての【絵葉書】
1910年(明治43年)6月13日
「内国郵便葉書の外国あて発送」が認められました。明治の近代化の荒波の中、郵便制度はこの国にも影響を与えました。欧米でスタンダードだった「絵葉書」日本では
明治後期、大正に入って空前の絵葉書ブームが訪れます。その後10年以上絵葉書の発行は脅威の数字を示します。
ブームというより絵葉書が日常の伝達ツールとなっていきます。中でも横浜は国際港のため国内外の絵葉書が多く流通しました。
このブログにも良く登場する戦前の絵葉書について簡単年表にしました。
1873年(明治6年)12月1日
最初の官製葉書(ポスタル・カード)が初めて発行されます。
1879年(明治12年)6月30日
国際郵便葉書の始まり
万国郵便連合葉書<唐草>2銭・3銭葉書を発行
1880年(明治13年)4月
葉書の表裏に関する規則がきまります。
例えば、葉書の表裏を墨で塗りつぶし、その上に<朱><白墨>等で文字を記載したものは、葉書として扱わない、表面は住所姓名しか記載できない、ただし至急とか年月日の記入は構わないとか。
※住所を書く方が<表面>です。
1885年(明治18年)3月26日
万国郵便連合条約調印
1898年(明治31年)12月10日
毎年1月1日から7日までの間、外国来を除き、葉書の到着印を省略
※この年賀状に消印を押さない ルールはここからです。
1899年(明治32年)2月13日
私製葉書の国外通信使用が認められる。
1900年(明治33年)9月17日
私製葉書の制式を告示、絵葉書自由化
1902年(明治35年)6月18日
最初の官製絵葉書発売
※万国郵便連合加盟25年紀念郵便絵葉書<6種1組で5銭>
1904年(明治37年)2月1日
日露戦争時の戦地と内地との通信用に軍事郵便葉書を発行
これによって絵葉書使用が全国に普及し始める。
1906年(明治39年)
絵葉書ブームは最高潮に達し、様々な戦時絵葉書が発行され空前のブームを引き起こします。
1906年(明治39年)8月9日
<風景印>の原点となった
絵葉書に相当額の切手を貼付り記念のため日附印の押印の申出があれば事務支障ない限り応じなさい と通達が有ります。外国人旅行客からの要求?
1907年(明治40年)3月28日
郵便絵葉書の表面下部3分の1以内に通信文の記載を認める。
<時代判定の基準となっています>
1910年(明治43年)6月13日
内国郵便葉書の外国あて発送を認める
1918年(大正7年)3月1日
郵便絵葉書表面記載部分を3分の1から2分の1に拡大
<時代判定の基準となっています>
ブログに登場した絵葉書コレクション
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?cat=41
【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?
「一寒村に過ぎなかった横浜が〜」
枕ことばとして使われる横浜開港のフレーズです。
小さな村でしたがそれを<寒村>という枕詞で形容するのは止めよう派です。
<小さな村>たしかにその通りですが、横浜村が小寒村であれば、日本の大半の村は<寒村>となってしまうでしょう。
日本全体が近世から脱却したいがための強調だったのではないでしょうか。
私はもうこの苔むした表現は卒業したほうが良いなと考えています。
開港前の横浜村は風光明媚な<観光地>でもあり、そこそこ豊かな暮らしをしていました。
<開港特区横浜時計台>
開港によって横浜は開港特区となり、その中心地となった開港場は国内外のビジネスが集積する都市となっていきます。明治になり、開港場でビジネスを展開する貿易商人たちが日々起こる案件を評議する目的で「町会所」が設立されます。
横浜商工会議所の原点です。
1874年(明治7年)に竣工した町会所は、石造亜鉛葺二階建て、一部四階建て延765㎡の壮大な洋館として明治38年に撤去されるまで開港場の「時計台」としてもランドマークの役割を果たします。
鐘塔はドーム風に設計され、時計はスイスの商社<ファーブルブラント商館>が輸入したものを取り付けます。
町会所は1890年(明治23年)に「横浜貿易商組合会館」と改称し
その後「横浜会館」と呼ばれるようになります。
明治30年代半ばにはこの「横浜会館」も老朽化し明治38年に改修工事のため解体工事が始まります。
この時「時計台」も撤去されます。
翌年明治39年に隣接する鍛冶場のもらい火で焼失し、改修を断念します。
1909年(明治42年)横浜開港50周年を機に、「横浜会館」再建計画が持ち上がり資金集めが始まり大正3年9月に起工、同6年6月に竣工したのが現在の愛称ジャック「横浜市開港記念会館」です。当時は「開港記念横浜会館」と呼ばれました。
今回のテーマは、この「町会所」にあった<鐘>です。
平野光雄の「時計亦楽」(昭和51年10月25日、青蛙房刊)横浜町会所時計塔の項に下記のような記述がありました。
「付記。『開港記念横浜会館図譜』(大正六年十一月刊)を見ると、旧町会所時計塔に設置された時報用釣鐘(梵鐘風の和鐘)の写真が掲載されており、当然、大正六年までは釣鐘が存在していたことを物語っている。(以下略)p98」
<え?梵鐘風の和鐘?!>
この町会所は1874年(明治7年)に竣工、石造亜鉛葺二階建て、一部4階建て延床765㎡の壮大な洋館でした。ここには町役所や歩合金徴収所、貿易商組合事務所などが入っていました。4階には文明開化を象徴する巨大な時計塔が設置され、鐘塔はドーム風に設計され、前述の通り時計台の機械はファーブルブラント商館が輸入しジェームス・ファーブルブラント自ら塔屋に登って取り付けを指揮したそうです。
※JamesFavre-Brandt
http://www7b.biglobe.ne.jp/~scemo3440/favre-brandt.html
http://www7b.biglobe.ne.jp/~scemo3440/favre-brandt2.html
時計は時刻を刻みますが、見える範囲でしか活用できません。
そこで、<和製の梵鐘風の釣鐘>を撞き<時報>とした訳です。
鳴らされた時刻はわかりませんが、例えば正午に「ゴーン」と鐘が鳴ったお寺の無い開港場はどんな感じだったのでしょう。居留地の外国人には<クールジャパン>だったのかもしれません。
「時計亦楽」の著者も疑問を呈していますが、
この「釣鐘」は何故和風だったのか?
その後、この釣鐘はどのような運命をたどったのか?
1909年(明治42年)開港五十周年の年、市内では様々なお祭り、式典が開催されます。開港五十周年を祝う<弁慶の絵柄の鐘楼が写った絵葉書>
この絵葉書には「この鐘の由来」がおぼろげに見えます。
「旧横浜会館時計台時報に用いたる者なり」
新しく制定された市章<ハマ>マークの提灯と、横浜会館で時報として使われていた釣鐘が弁慶に担がれている光景です。その後の調べで、弁慶の鎧は陶磁器で作られているそうです。
現代のように、プラスチック素材ではなく当時の最適技術としての陶磁器技術が用いられていたことに感銘と納得感がありました。
さて、ここに登場する「弁慶の鐘」とはどんな意味合いだったのでしょうか?
「弁慶の釣鐘伝説」という話は全国にあるようで、そもそもは
三井寺(園城寺)金堂に伝わる
弁慶が“比叡山に持ち帰った”という伝(つたえ)のある鐘のことで
「ある日、弁慶一行が三井寺にやってきて、ひと暴れした後、このお堂の釣鐘を引っ張り出して比叡山に持って帰りました。この鐘は、俵籐太が琵琶湖の竜神の頼みで、百足を退治して、そのお礼に竜宮から貰い、三井寺に寄付したと言伝えがあります。さすがの弁慶も簡単には持ち上がらず、引き摺っているのが、よくわかります。
それで、この鐘を「弁慶の引き摺り鐘」と言うようになりました。」 とあります。
この他
●鳥取県の大山寺の釣鐘
弁慶の釣鐘(寿永の鐘)
弁慶の怪力 鳥取県の大山寺の釣鐘を、一日で島根県平田市鰐淵寺まで担ぎ持ち帰った。18歳の修行僧時代のことで、なんと 101Kmの距離を担いで運んだそうです
●石川県金沢市石浦神社拝殿
「石川県金沢市石浦神社拝殿弁慶に伝わるエピソードに、「弁慶の釣鐘引き」の話がある。?〜1189。源義経(1159〜1189)の家来といわれているが、大体が室町時代成立の『義経記』によるもので、その生涯は明らかではない。
主君に最期まで尽くし、かつ怪力無双の豪傑ということから人気が高く、能「安宅」や歌舞伎「勧進帳」では主役である。」
と解説されています。
●出雲市の鰐淵寺
にも伝承があります。
大切な梵鐘を移動させた<因縁>を伝えるための物語のようです。こんなに大切な梵鐘を弁慶によって移動させたのは<これこれしかじか>という訳です。
「横浜会館」の時計塔(横浜町会所時計塔)の鐘は
どこから来て どこに行ったのか?
残念ながら いまだもって謎のママです。何かの資料が発見されわかる日がくるかもしれません。開港場の時報が<ゴーン>だったことは、当時の開港場の音の風景としてはかなり面白いエピソードではないでしょうか。
1915年(大正4年)6月4日
時折断片的な史実がつながり始めることがあります。
点が線に線がある形になっていく時に背中がゾクゾクッとします。
これまで900話位の史実をさがす横浜ブログを書いていますが、ゾクゾクッとすることは中々ありません。
今日のネタは調べている過程で少しゾクッとしました。
三人の詩人が横浜で出会った様子を<小説>のように書いてみました。
1915年(大正4年)6月4日(金)
当時藤棚の山頂にあった<神奈川一中>に通っていた熊田 精華(17歳)は、学校で知り合いになった一歳年上の北村 初雄(18歳)の自宅を初めて訪ねました。
中区住吉町に暮らしていた熊田 精華の自宅から 南太田にあった北村 初雄の家まで約2.3キロ、開通したばかりの路面電車に乗ったかどうかわかりませんが徒歩でも40分位の距離は熊田にとって通学路より平坦で楽だったに違いありません。
※神奈川一中は現在の希望が丘高校 北村の住む南太田は、”久良岐郡太田村”として古くからの村でした。
開港後急速に宅地化し、1913年(大正2年)10月1日から11月19日まで「神奈川県横浜市勧業共進会」が近くで開催され、その後共進町となっていきます。
熊田が訪れた北村 初雄の父 北村七郎は日本大通りに竣工したばかりの三井物産横浜支店長でしたので、丘の上の洋館に暮らしていたかもしれません。
一方の熊田 精華の自宅は海岸にほど近い入船通りで父熊田源太は耳鼻科の開業医でした。
この二人を結びつけたのが<詩>でした。すでに露風詩会に参加していた 北村 初雄に熊田が強く影響されたのかもしれません。
北村 初雄は中学時代から詩人三木露風に師事し「未来」に属し露風門下生で三木と同じ歳で兄のような存在の<柳沢健>と横浜で出会います。
北村は1917年(大正6年)7月に中学卒業記念詩集として『吾歳と春』を刊行、<推薦文(序文)>を三木露風が贈り<詩人>としてデビューします。彼は“父の意向で”神奈川一中卒業後 東京高商(現在の一橋大)に進み卒業時(大正9年)にも卒業記念詩集「正午の果実」を刊行します。若さを前面に出した詩風は当時の萩原朔太郎と対比され詩壇に登場します。
残念なことに北村は25歳の若さで結核に罹り夭逝します。
彼が残した詩集は4冊しかありません。
中学卒業記念のデビュー作『吾歳と春』、大学の卒業記念詩集『正午の果実』、死後に発刊された遺稿詩集『樹』
そして1918年(大正7年)11月に柳澤健と 熊田精華と三人で出した共同詩集『海港』の4冊でした。
詩集『海港』に寄せた
北村 初雄21歳の作 「印度洋」から
心地よい朝の日光を浴びて、
Laughter(ラフター)と云う遊戯を行なってゆく、
輪を圍んだ子供達が笑って居る、
空に投げられた手布(はんけち)が地に落ちる迄。
僕は將棋の駒の王様といふ風に、
細長い顔を四角張らせて、身動きもせず、
この庭の薔薇の葉の間から見透かされる、
青い海をば みつめて居る、
其處には確(きっ)と嬉しさうに泳いで居るに違いない、
竹麥魚(はうぼう)や■(かさご)や帯魚(たちのうを)や鯛の群れ。
※■は旧字で表示
栂(とが)の角(かど)ばった葉が日光(ひ)に映えて、
僕を全(すっか)り愉快に.ならせる、彼(あ)の子供達の笑ひ聲。
僕は黙って其れを聞き分けてゆく、
風を孕んだ帆の滑車(せみ)の軋りや櫓の音から。
「初雄さん、遊ばない?」此時、
芝生づたひに走り寄って来る、
真白な真白な可愛い子。
僕はその手を取ながら、静かに尋ねる、
「君のお父様は船乗だってね?」
「ああ僕のお父様は大きな汽船の船長だったの、
だけれどお父様が汽船に乗って、
印度洋を渡って居られるときにね、
お酒を澤山頂いて直ぐにお風呂に入って、
脳充血と云ふ病気に罹って死んで仕舞ったの。」
子供の眼に這入る青筒(ブリュファンネル)の大きな汽船たち、
其は青い空の上に、大きな雲と成って懸って居る。
ああ、巨(おおき)い海洋(うみ)! 巨い海洋!
そうだ、僕が一橋を卒業して、
里昂(リヨン)の会社(みせ)にでも勤務(つとめ)る様に成ったなら、
僕は印度洋を渡って行かう、
そうして、汽船が船長の水葬された所を通過(とほ)るとき、
僕は帽子を脱って挨拶しよう!
「僕は貴君(あなた)の可愛いお子様のお友達で、
姓なら北村、名ならば初雄と申します。」
薔薇の花の揺(ゆす)れが止まった。海は凪いで居る。
子供の眼からは曇りが去った。
僕は自分が話し始めるお伽噺の世界に引込まれて、
青い潮流や人魚のむれや薄紫の貝殻の中で、
印度洋と子供の顔とをじつと見較べる。
●実に素直な 青春詩という感じです。
ここで北村の兄弟子で共同詩集を出した柳澤健について触れておきます。
柳澤健は福島県会津若松市に旧会津藩士の長男として生まれ、一高、東京帝国大学仏法科を経て逓信省の官僚になります。詩人三木露風門下には大学時代に参加し、横浜郵便局長心得在職中に北村と出会うことになります。
1918年(大正7年)11月に
互いに親交を深めた三人 北村 初雄、柳澤 健、そして熊田 精華は最初にして最後の詩集を刊行します。
柳澤健はこの詩集を出した翌年の
1919年(大正8年)4月に逓信省を辞職し大阪朝日新聞社に入社、その後外務省に勤務。フランス、イタリア、メキシコ、ポルトガルなどに駐在し退官後は日本ペンクラブの創設や評論家として活躍すると同時に詩人としても多くの作品を発表しました。
1953年(昭和28年)5月29日没。
エピローグ
熊田 精華は第一中学校を卒業後上智大学哲学科へと進み詩人として活動し、昭和19年には長野県飯山高女で教職につきます。
この間に、一つ年上の山名 文夫と親交を深め、終生の親友となります。
熊田 精華 <七月>
アンナベルリイの午后(ひる)の寝顔に
風が落す淡紅色(ときいろ)の花・
身軽に逃げる小魚(こうを)の後をおひまわして居る私の手・
可愛い猫・一羽の鸚鵡(あうむ)・
それに沢山の糖菓(キャンディ)と
チョコレェトとをのせて居る、
合歓(ねむ)の葉かげの白いボオト。
緑色の「コロンビア」と
形姿(かたち)のいい「エンプレスオブエイシア」・
桟橋のカッフェの卓子(テイブル)では、
帽子をまげたアメリカ人と陶器(せともの)の様な支那人との
切れめの多いのろい会話・
間のびな音をひびかせるNYKの汽艇(ランチ)の笛。
川口の石崖(いしがけ)・警視所の屋根・
広い芝生をのぞいている、
海軍病院の病室(へや)の窓に一つ置かれたアマリリスの花・
旗竿(ポール)をとりまく木椅子の群・
ユニオンジャックをゆるがす風・
RとFを組みあはせた仏蘭西(フランス)領事館の門の金具が、
まぶしい程にうつる水。
ボオトの中にはいま醒(お)きたアンナベルリイの
可愛い瞳(め)・ふりかかる髪をはらひながら
陽にむけておくる優しい微笑(えみ)・
私の両手に音たてる櫂(かい)・
海鳥(みづどり)たちのゆるいはばたき、
その時に山をこぼれて来るクライストチャーチの鐘の響。
水先案内(パイロット)の船の小さな旗と、
グランドホテルの日徐(ひよけ)の影をよりあはせては
踊らす波・海堡の口にならんで居る赤い燈台と白い燈台・
帆(カンバス)の上にもたれる雲・示午球の柱・
碧い海・鸚鵡(おうむ)の声が長く引く、
GO AHEADにおどろく猫。
(七月が二人の前に笑ひ、喜びあふれた、
おお、その時。
世界を両手にささへながら、
私たちは二人は幸福でした。
私たちは二人は幸福でした。
眼には涙があったけれど。
・・・・・・ )
(詩集『海港』から)
熊田 精華には10歳以上離れた年の弟<五郎>がいてとても可愛がります。
親友の山名 文夫に弟を紹介し、弟<五郎>はデザインの道に入り、後に
世界の熊田千佳慕としてアートの世界に大きな足跡を残します。
1981年(昭和56年)のこの日、熊田 千佳慕が70歳でイタリア・ボローニャ国際絵本原画展に出品
(以上、ここには若干私の想像も含まれています。
セミフィクションとしてご理解ください)
(その他の6月4日)
1983年(昭和58年)6月4日
県内で最初の緩衝緑地,金沢緑地がオープン[横浜の埋立]
1983年(昭和58年)6月4日
金沢産業振興センター完成(36)[横浜市会の百年]
1983年(昭和58年)6月4日
都市計画道路「新横浜・元石川線」開通(36)[横浜市会の百年]
1870年(明治3年)6月4日
山手公園が居留地の外国人によって整備されます。
No.120 4月29日 庭球が似合う街
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=496No.156 6月4日(月) 三ツ池公園「コリア庭園」開園
1990年(平成2年)6月4日に開園した桜の名所として名高い横浜市鶴見区の三ツ池公園の中に「コリア庭園」を紹介します。