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横浜絵葉書」カテゴリーアーカイブ

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【市電ニュースの風景】1931年 №20

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。№201931年(昭和6年)5月
十四・五・六日 伊勢山皇大神宮大祭(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂下車)
十五日 『郵船』浅間丸入港(ホノルルより午前中四号岸壁へ)
十五日 弘法大師誕生会ならびに詠歌大会(電車及バス本町一丁目下車)
=午前十一時より本町開港記念会館にてー入場無料=
十五日より十八日まで
第四回掃部山バザー(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂又は雪見橋下車)
=マネキン劇場支那獅子舞其他余興沢山=
十六日 名古屋高商對横濱高商野球戦(午后三時横濱公園球場にて)
十六日 基督教婦人講演会 入場無料(午后二時尾上町指路教会にて)
十六・七日 神奈川金毘羅神社大祭(電車及バス 青木橋下車)
十六・七日 横濱専門学校記念祭(電車 六角橋終点より約四町)
=中等学校陸上競技会、音楽会、野球試合、提灯行列等ー入場無料=
18日シボレー大キャラバン隊(20数台)到着、元横濱駅裏広場で展覧

懸賞標語
「おつと危い左右(当選者 松本藤四郎君)」
※アラビア数字は別の年表から追記したものです。

[キーワード]
■伊勢山皇大神宮
横浜の総鎮守「関東のお伊勢さま」と呼ばれている伊勢山皇大神宮は、開港後現在の場所に遷座されてものです。現在の位置する場所からほど近い戸部村海岸伊勢の森の山上にあった神社を明治初年に国費を以て創建したもので、開港場の総鎮守として明治から今日まで多くの参拝者が訪れます。light_横浜商店街通り077 light_横浜商店街通り071No.691 【横浜神社めぐり1】伊勢山皇大神宮

No.691 【横浜神社めぐり1】伊勢山皇大神宮

No.426 横浜で学ぶ(神社編1)

No.426 横浜で学ぶ(神社編1)

No.338 12月3日 (月)八の1418(加筆)

No.338 12月3日 (月)八の1418(加筆)

■電停 紅葉坂・野毛坂
横浜は坂の多い都市です。light_紅葉坂-1light_伊勢山電停

■『郵船』浅間丸
「太平洋の女王」と呼ばれた浅間丸。主に横浜-ホノルル-サンフランシスコ航路に就航し多くの日本人と訪日外国人を運びました。
ロサンゼルスオリンピックに出場した西竹一男
ハリウッドスターのダグラス・フェアバンクス
ヘレン・ケラー
交換船・海軍徴用船となった後
1944年(昭和19年)2月24日に魚雷を受けて損傷しますが沈没は免れます。修復後マニラから高雄へ向けて航行中魚雷が命中し沈没。

■四号岸壁
新港埠頭で客船用に多く使用された埠頭です。light_20150408165442 light_新港埠頭上空

■掃部山(かもんやま)
別の機会に詳しく紹介します。
■尾上町指路教会
指路教会は最初の横浜居住地39番から、現在地、太田町、住吉町を経て1892年(明治25年)再び現在地に戻り、ヘボンの尽力により赤レンガの教会堂が建てられました。初代指路教会は
設計:サルダ 1892年(明治25年)竣工
関東大震災で倒壊。現在の建物は大正15年竹中工務店の設計により再建されました。横浜市認定歴史的建造物です。

■神奈川金毘羅神社
大綱金刀比羅神社
「横浜の金刀比羅(こんぴら)さん、大神様の尊き御神徳を知る数多くの会社経営者を始め、船舶関係、農業関係、建築関係、医療関係、民衆に至るまで、十六神の大神様の御神徳を頂ける神社であります。」
旧東海道、神奈川宿台の坂に鎮座、街道の安泰と袖が浦神奈川港に出入りする船は海上安全を祈願した神社です。light_神奈川金毘羅

■横濱専門学校
神奈川大学の前身の校名。light__9145936light_P2090159(戦前の歩み)
1928年(昭和3年)
米田吉盛が横浜市中区桜木町に「横浜学院」を開設
現在の西区桜木町6丁目34番地にあった「桜木会館」の1階と2階を借り学校を開校。
同年12月
横浜学院、中区西戸部町富士塚に移転。スクリーンショット 2015-05-18 16.36.43スクリーンショット 2015-05-18 16.36.061929年(昭和4年)
専門学校令により「横濱専門学校」(法学科、商業理財科)を開設
1930年(昭和5年)
六角橋校地(現在の横浜キャンパス(横浜市神奈川区六角橋)へ移転
1939年(昭和14年)
工学系の3学科(機械、電気、工業経営)を新設
1945年(昭和20年)
GHQによって一時的に六角橋校地が接収
大倉山の大倉精神文化研究所と三ツ沢の県立第二横浜中学校(現横浜翠嵐高校)にて授業を再開。

【市電ニュースの風景】第一号その2

前回に続き【市電ニュースの風景】第一号から今日はその2
この「市電ニュース」は毎週木曜日
市電車両内に掲示されました。
雑誌で言えば創刊号!ですが そんな派手な告知もなく
さり気なく掲示されたのではないでしょうか。
■第一号
1930年(昭和5年)12月25日発行
<1930年(昭和5年)12月〜1931年(昭和6年)正月>
二十五日(木)
「納の岡村天神詣(天神道假停留所下車)」
「市電ニュース」は156号までアーカイブされています。その中で、季節のイベント記事が多く告知されています。中でも神社仏閣関係の例祭や<市(いち)・縁日>などが多く紹介されました。
※岡村天神詣
岡村天満宮は「岡村の天神さま」として地域に親しまれています。創建は不詳ですが縁起によると鎌倉時代の建久年間(1190〜1198)に源頼朝の家臣が京都の北野天満宮の分霊をいただいて、この地に社を創建したことに始まるとされています。
ここも横浜に多い<杉山>天満宮から「岡村天満宮」と名称が変わり現在に至っているそうです。
light_横浜資料144※天神道假停留所下車
当時この岡村天神のお祭りがほぼ毎月25日に開かれ、多くの人達がここを訪れるために市電の臨時停留所が開設されたのが「天神道假停留所」です。
位置は「根岸橋」と「天神橋」の間でです。図にも示した通りこの臨時停留所から比較的(当時としては)広い道が滝頭小学校方向に繋がり参道(天神道)となったようです。
スクリーンショット 2015-04-23 4.51.02 この岡村天神の25日のお祭りを含め、岡村関係は頻繁に登場しますので都度紹介していくことにします。

二十八日(日)
「神戸市(電車バス保土ケ谷終点下車)」★
神戸市は「ごうどいち」と読みます。で現在復活して 保土ケ谷駅近くの会場で毎月第1日曜日に<宿場朝市 ごうどいち>として開催されています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/hodogaya/kyutokaido/goudoiti.html

同 日 電車久保町延長線開通(予定)

三十日(火)
「郵船」大洋丸出港(午後三時桑港へ)
light_大さん橋風景083 light_大洋丸 =二十九日午前中 四号岸壁着=
light_新港埠頭上空(日本郵船の客船が停泊しているところが四号岸壁)
「大洋丸」はサンフランシスコ航路に就航した当時国内最大級の客船でした。ここに「郵船」とありますが、大洋丸は最初東洋汽船船籍の客船でした。
この「大洋丸」は波瀾万丈の船歴を持ちます。
1911年(明治44年)11月18日ドイツで建造され「カップ・フィニステレ(Cap Finisterre)en」の名で南米航路客船(ハンブルク〜ブエノスアイレス)間に就航しました。
※「カップ・フィニステレ(Cap Finisterre)」
http://de.wikipedia.org/wiki/Cap_Finisterre_(Schiff,_1911)#/media/File:Blucher_HAL.jpg
※フィニステレ岬(スペインの名所)
http://fr.wikipedia.org/wiki/Cap_Finisterre
1914年(大正3年)7月に始まった第一次世界大戦に8月1日ドイツ帝国がロシアに対して宣戦布告することで局地戦から世界を巻き込む大戦となります。
この時、カップ・フィニステレ号を所有するハンブルク・サウスアメリカ・ライン社(HSDG)は経営と船体保全のためハンブルグ港に<係船>を決定します。
この人類史上最初の世界レベルの大戦は1918年(大正7年)11月11日に休戦協定が成立し集結します。
1919年(大正8年)に入り、第一次世界大戦終結を受けてパリ講和会議が開催され、敗戦国ドイツに厳しいヴェルサイユ条約(対ドイツ講和条約)が調印されます。
※アメリカ議会は国際連盟を提唱したウィルソンのヴェルサイユ条約批准を否決。
この間、ハンブルグ港に<係船>されていたカップ・フィニステレ号は
戦後アメリカ海軍籍として軍用輸送船となり間もなく英国に引き渡されます。
この第一次世界大戦に日本は英米側の一員として参戦、結果戦勝国となります。ヴェルサイユ条約によって日本も賠償を得ることとなり権益や領土の他、
船舶や潜水艦など<物納>を受けることになります。(殆ど金がなかった)
light_20150423115800(戦勝賠償で横浜港に運ばれ係留されたドイツ潜水艦)

その中の賠償船割当客船舶が「カップ・フィニステレ(Cap Finisterre)」号でした。東洋汽船が国から引き受け(借受け)「大洋丸」と命名、太平洋航路に就航します。
1926年(大正15年)に東洋汽船の旅客船部門が日本郵船に吸収され、日本郵船船籍となります。
この「市電ニュース」に掲示された1930年(昭和5年)は日本郵船となっています。
大洋丸に関しても まだまだ紹介したいことがあります。その後の顛末を含め追々紹介します。

三十一日(水)
福引付全市聯合大売出最終日
=一月七日より景品引換(於市役所勧業課)=
※市役所勧業課
「市役所勧業課」は横浜市が区制後1935年に「産業課」→「産業部」→「経済部」→「経済局」その後は色々変わったので追いかけていません。

一月
二、三、四日(金土日)
羽田穴守稲荷神社臨時出張
=於伊勢佐木町四丁目(電車曙町下車)

「人は人道 車は車道 注意一瞬怪我一生」
この頃も交通事故が社会問題だったようです。
余談ですが この当時のタクシーのほとんどが「クライスラー車」だったそうです。昭和10年代は50銭、ちなみに市電は大人7銭、子供3銭だったそうです。
※( )曜日は今回追加したものです。また便宜上旧字と新字が混じっています。

次回は第二号へ

【横浜の国道】133開港の道物語  

目下横浜市内の国道を巡っています。横浜市内の国道は
1号、15号、16号、133号、246号、357号、466号があります。
かなり昔ですが自動車では市内全て走破しました。通過しただけですが。
さらに自転車では246号・357号の一部を除いて全て踏破しました。357号は厳密に言うと自転車では走行できない専用道が含まれているからです。466号は第三京浜なので自動車のみです。
246は自転車走行には適さない!道ですね。
今日はこの中から「国道133号」を紹介します。

スクリーンショット 2015-04-07 13.31.57

(国道133号)
全国数ある『国道』の中で、横浜市内に起点と終点のある超短い国道が133号線です。
総延長は1.4 kmで、歩いても2〜30分
「国道133号」一般国道の路線を指定する政令に基づく起点が横浜港なんです。
横浜港といっても横浜市内における横浜港といったら?
「大さん橋」です。
「国道133号」はこの大さん橋に入る交差点「開港広場前」が起点になります。

133起点

そして終点ですが、住所では横浜市中区桜木町一丁目(桜木町一丁目交差点)にあたります。
「開港広場前」から「桜木町一丁目交差点(JR根岸線鉄橋下)」までが国道133号線。
全国ランキングでもベスト5に入る短い国道の一つです。
国道174号(0.187km)
国道130号(0.482km)
国道198号(0.6km)
国道177号(0.7 km)
国道133号(1.4 km)
これらの短い国道に共通するのが、港から基幹(主要)国道まで繋がっているということです。港国道(みなとこくどう)と呼ばれています。
「国道133号」の歴史は古く、
1876年(明治9年)6月8日に出された太政官達第60号「道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム」という<お達し>から始まります。
■國道
一等 東京ヨリ各開港場ニ達スルモノ
二等 東京ヨリ伊勢ノ宗廟及各府各鎭臺ニ達スルモノ
三等 東京ヨリ各縣廳ニ達スルモノ及各府各鎭臺ヲ拘聯スルモノ
□縣道
一等 各縣ヲ接續シ及各鎭臺ヨリ各分營ニ達スルモノ
二等 各府縣本廳ヨリ其支廳ニ達スルモノ
三等 著名ノ區ヨリ都府ニ達シ或ハ其區ニ往還スヘキ便宜ノ海港等ニ達スルモノ
◯里道
一等 彼此ノ數區ヲ貫通シ或ハ甲區ヨリ乙區ニ達スルモノ
二等 用水堤防牧畜坑山製造所等ノタメ該區人民ノ協議ニ依テ、別段ニ設クルモノ
三等 神社佛閣及田畑耕耘ノ爲ニ設クルモノ

「國道」は一等から三等に分けられ、
一等は幅七間 二等は幅六間 三等は幅五間と決められました。
※一間は約1.818m
現在の「国道133号」は、かつて「一等 東京ヨリ各開港場ニ達スルモノ」にあたりました。
といっても当時は<道路>より<鉄道>の時代でした。本格的に道路整備が始まったのが1885年(明治18年)のことです。
1885年(明治18年)1月6日 太政官布達第壹號
「今般國道ノ等級ヲ廢シ其幅員ハ道敷四間以上並木敷濕抜敷ヲ合セテ三間以上總テ七間ヨリ狹少ナラサムモノトス   但國道路線ハ内務卿ヨリ告示スヘシ」
1885年(明治18年)2月24日  内務省告示第六號
1月6日の太政官布達第壹號を受けて「國道表」が作られ、明確な路線が確定します。
その中で第一号が
「壹號 東京ヨリ横濱ニ達スル路線」
日本橋・品川・川崎・神奈川・横濱  となり国道整備が始まりました。
現在の道路整備の骨格となったのが大正8年に公布された
「法律第五十八號」最初の(道路法)です。
例えば
第二條
左ニ掲クルモノハ道路ノ附屬物トシ道路ニ關スル本法ノ規定ニ從フ但シ命令ヲ以テ特別ノ定ヲ爲スコトヲ得
一 道路ヲ接續スル橋梁及渡船場
二 道路ニ附屬スル溝、竝木、支壁、柵、道路元標、里程標及道路標識
三 道路ノ接スル道路修理用材料ノ常置場
四 前各號ノ外命令ヲ以テ道路ノ附屬物ト定メタルモノ
道路に関係する「橋梁及渡船場」「溝、竝木、支壁、柵、道路元標、里程標及道路標識」「道路修理用材料ノ常置場」等も道路法の下で管理されると明記されます。
区分も
國道、 府縣道 、郡道、市道 、町村道の5つに分けられます。明治の「里道」がより細かく市道 、町村道に分けられることになりました。
国道1号線は
一號 東京市ヨリ神宮ニ達スル路線
經過地
横濱市 神奈川縣足柄下郡箱根町 靜岡縣田方郡三島町 靜岡市 濱松市 豐橋市 岡崎市(八丁橋經由) 名古屋市 四日市市 三重縣三重郡日永村 津市(宇治山田市宮川町通經由)
となり現在の東海道(国道1号)に近くなります。
その後
「三十六號 東京市ヨリ横濱港ニ達スル路線」(現在の国道15号と国道133号)
国道の名称は戦前戦後で何回か変更になりますが、
1965年(昭和40年)4月1日
道路法改正により一般国道133号として現在に至ります。
現在の「国道133号」を紹介しましょう。
(ルート133)
開港広場: 起点となった開港広場はペリーが上陸し、日米交渉が行われた場所です。税関桟橋(大さん橋)の入口でもあります。
「国道133号」はある意味開国の道ですね!

ペリー上陸の図3

歴史的な建造物を抜けていきます。
起点の標識は開港資料館の前に建っています。

133日本大通り

(日本大通・本町通)
次の「開港資料館前」交差点の信号を左に曲がり「日本大通り」に入ります。

133神奈川県庁133昭和20年代

右手に神奈川県庁本館が建っています。ここから横浜三塔が見えます。<横浜三塔の見える国道>ですね。右手に日本最初の外国郵便を取り扱った「港郵便局」

この「港郵便局前」交差点を右に曲がり本町通りに入ります。次の信号で「開港記念会館」となり、さらに本町通りを進むと左右に銀行が立ち並び、横浜の中心街であった(?)ことを感じます。

※「日本大通」「日本大通り」二種類の表記が使われていますね。

light_PA267435

133銀行会館

(馬車道)

「国道133号」は<本町通>と重なり馬車道駅のある交差点で左に曲がりますが、この道はかつてはみなとみらいに向かう道がありませんでしたので道なりに桜木町方向に曲がっていました。

133馬車道から

この馬車道交差点界隈も横浜開港史の原点となる施設が集中していた<北仲エリア>に沿って日本最初の鉄道駅「初代横浜駅」に向かいます。

light_初代横浜駅前822

(弁天橋)
弁天橋は1871年(明治4年)に吉田橋など開港に伴う関内外を結ぶ橋として架けられました。最初は木造の<桁橋>でした。

1873年(明治5年)橋台と橋脚がレンガ巻の鉄筋コンクリート製、上部に木造のアーチ構造の橋に掛け替えられます。四隅の橋柱にはガス灯が設けられていました。
1908年(明治42年)9月にプレートガーダー橋に架け替えられ
1923年(大正12年)の関東大震災で被災しましたが落橋は免れ、
1928年(昭和3年)10月に復旧工事が完了しました。
1976年(昭和51年)鋼材の腐食により鋼床板鋼鈑桁3連ガーダー橋に架け替えられ現在に至ります。

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(初代横浜駅)

明治5年5月7日〜大正4年8月15日まで初代横浜駅として開設、営業していました。

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(国道16号)

「国道133号」の終点は、桜木町駅前の国道16号線との合流点です。現在の位置で根岸線高架線の真下にあたります。

133終点

横浜史を巡る<国道133号>のウォーキングは如何ですか?

【今日の横浜】1月23日横浜輸出洋傘工業組合設立

1931年(昭和6年)の今日
横浜歴史年表に「横浜輸出洋傘工業組合が設立」されたとありました。
明治以降、和洋が区別された生活が多くあります。
和洋食、和服(和裁)、洋服(洋裁)、洋学に対しては国学としました。
洋食・洋裁は現在も残っていますが洋傘とはほとんど言いません。
完全に和傘が淘汰された結果です。
戦前の風景をみると 和傘あり、洋傘あり。
女性の服はなかなか洋風になりませんでしたが、洋傘はいち早く女性の間に普及していきました。
普及とは不思議な現象ですね。

洋傘のことを一昔前まで、こうもり傘と言いました。
語源は多説あり、開いた形がコウモリの飛ぶ姿に似ているので,明治初年にこの名がついたという説、「傘をかぶる」が「こうむる」からコウモリ説。
最も有力なのがペリーが来航した際、持ち込んだ洋傘を「その姿、蝙蝠(こうもり)のように見ゆ」と比喩したことから始まったという説です。
明治末に出版された「明治事物起原」では
万延元年にアメリカに渡った咸臨丸の提督木村摂津守(きむらせっつのかみ)が米国で一本の黒い傘を購入し帰国した際、外で使っては攘夷浪人に狙われるから屋敷の中でばかり使ったのが洋傘の使い始めと記録されています。

優れた和傘文化のあった日本ですが、最初は輸入商品でした。まもなく洋傘を作り始め、安さと職人の技術力で、瞬く間に洋傘は<輸出商品>の花形となります。特に東京横浜で多く作られましたが、関東大震災で洋傘製造は関西に移行します。
昭和に入り、産業も次第に復興し横浜の傘職人さん達が、材料の調達や外国のニーズに対応するため輸出組合を設立することになったようです。
(1月23日関連ブログ)
No.23 1月23日 大正の正義

【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗

light_20150408120248_001ここにある一枚の絵葉書には、弁天橋に大きなモニュメント(ゲート)が建てられ、日米の国旗が飾られています。上にはWELCOM 下には
「BANKERS & MERCHANTS YOKOHAMA」という看板が掛かっています。
スクリーンショット 2015-04-09 6.30.48横浜の商工会こぞって歓迎 という感じでしょうか。
位置的には、初代横浜駅側から 関内方向を向いていると思われます。スクリーンショット 2015-04-09 6.38.47 時期は 1908年(明治41年)10月
米国大西洋艦隊が世界一周の途中で横浜に来航する際、横浜の歓迎模様を記念絵葉書にしたものです。
米国大西洋艦隊は16隻の軍艦で構成され、白く塗られていたことから「白船」Great White Fleetと呼ばれました。
light_Great White Fleet米国大西洋艦隊の日本来航「白船艦隊」については別項で紹介します。
ここではその当時の横浜を中心に紹介しましょう。
開港50周年を翌年(1909年)に控えた横浜市では、全体的にお祭りムードでしかも当時の“険悪になった日米関係”を吹き飛ばすウェルカム感覚だったのかもしれません。市長は開口50周年を担当した三橋信方、ハマ市章や市歌を制定しました。

1908年(明治41年)崎陽軒が(初代)横浜駅構内の営業許可を得た年でもあります。また「横浜鉄道(後の横浜線)」もようやく(9月23日)開業し、横浜市内のインフラも少しずつ整備されてきた時期にあたります。
(弁天橋)
かながわの橋100選に選ばれている弁天橋、初代横浜駅から関内に渡る“玄関の橋”として多くの人が利用してきました。現在の橋は1976年(昭和51年)3月に竣工しました。
light_P2030273スクリーンショット 2015-04-09 6.32.17弁天橋が最初に大岡川に架かったのは1871年(明治4年)のことです。弁天橋は早期に整備された横浜港に向かう<港國道>の一つ「國道第一号」が通る横浜最初の国道に架かる橋です。現在は国道133号線となっています。
初代は木造の桁橋でした。
1873年(明治6年)にレンガを巻いた鉄筋コンクリート製の橋台と橋脚の上に木造のアーチ橋が掛け替えられます。この時に歩道も設けられ四隅の橋柱にはガス灯がありました。
そして、「白船来航」に合わせた?のか開港50周年記念事業だったのか調べていませんが1908年(明治41年)9月にしっかりとした“プレートガーダー橋”に架け替えられました。
この絵葉書は その竣工記念の意味合いもあるのかもしれません。
その後の弁天橋は1923年(大正12年)の関東大震災で被災しますが倒壊することはなく多くの人命を救うことになります。
1928年(昭和3年)10月に復旧工事が完了します。

(ウェルカム弁天通)
明治初期にこの弁天橋が架かることで、市民の多く利用した「吉田橋」に対し、横浜駅を中心にした表玄関として本町通り・弁天通りが栄えます。light_よこはま絵葉書001関内の横軸として<本町通り>が交通のメインストリートとなり、<弁天通り>は関内のショッピングストリートとなっていきます。light_20150301182246明治・大正・昭和前半、この通りは<ウェルカム弁天通り>と呼ばれ、横浜関内の銀座通り的な商店街として賑わいます。ここでも庶民の伊勢佐木、来訪者の弁天通りといった役割分担が出来上がっていました。

いまでこそ 関内の横軸は あまり違いが無くなってしまいましたが、昭和期まで関内の横軸線の各通りには個性がありました。
再度 縦軸と横軸を活かしたまちづくりを編んでみる時期でしょう。
スクリーンショット 2015-04-09 6.36.21
当時発行された「米国大西洋艦隊(白船艦隊)」歓迎の絵葉書light_2014122419-1908年米艦隊歓迎0light_20141224194306light_20150408120240light_20150428121720

【ミニミニ今日の横浜】3月3日

1925年(大正14年)の今日3月3日

フォード横浜工場

横浜市神奈川区子安にアジア初の「日本フォード」製造工場が開設されました。
このフォードの進出が、日本自動車産業界に大きなインパクトを与えました。日本の自動車生産革命が<横浜>から始まったといっても過言ではありません。
フォード工場位置 (超簡単 自動車史)
日本の自動車産業は戦後、トヨタ自動車を筆頭に日本メーカーは戦後日本経済を牽引してきた、戦後経済復興のシンボルでした。急成長を遂げた自動車産業、その基盤は戦前の横浜に築かれました。
簡単に自動車産業史を追ってみます。
ヨーロッパで生まれた自動車は、アメリカで産業として確立します。
日本が開港によって近代化の道を歩むことになりますが、自動車市場が花開くには様々な社会構造の近代化が必要でした。フォードも対アジア市場として日本に対し日露戦争が終結した1905年(明治38年)に輸出を開始します。
国内自動車製造業も次々と設立されますが個人工場の域を出ることができませんでした。
1925年(大正14年)2月17日に資本金400万円で「日本フォード社」が横浜市緑町4番地に設立されます。そして
3月3日の今日、
工場を開設、当初は本国モデルの左ハンドルT型フォードをノックダウン生産します。
遅れること二年、ゼネラル・モーターズが大阪に拠点を置き生産を初め米国二大自動車メーカーによる東西競争が始まります。
昭和初期、日本の道路は
横浜産のフォード、
大阪産のシボレーが席捲します。
日本のモータリゼーションが、米国の大手二社によって始まった事実はあまり知られていません。勿論、日本メーカーも国産自動車の増産と販売に努めます。
1933年(昭和8年)自動車製造(株)が横浜に設立され、翌年から年間1,000台ペースで生産開始しますがフォード横浜工場の生産能力は年間1万台、規模の違いは圧倒的でした。
その後、フォード(横浜工場)は、神奈川区守屋町2丁目1343番地に、敷地11,266.98坪規模の子安新工場を立ち上げ、右ハンドルのモデルAの本格的な生産を開始します。最盛期には一日当り200台の生産能力を持っていたそうです。
1936年(昭和11年)に、日本政府は自国の自動車産業の保護育成を目的とする「自動車製造事業法」を制定。この法律により、国内資本が50%以上の企業のみ自動車製造が制限されたことで、
1939年(昭和14年)12月にはトヨタ・日産・フォード間の合弁企業設立交渉が行われたこともありましたが、軍部からの強い横槍があり夢の合弁はたち消えとなってしまいます。
日本フォード社は1940年(昭和15年)に操業停止を余儀なくされます。1941年(昭和16年)12月から1945年(昭和20年)8月終戦までの期間は日本政府に接収され、戦後の連合国軍接収を経てフォードに返還、現在はマツダのR&D(研究開発)センターとなっています。

1933年(昭和8年)12月26日、横浜に設立された自動車製造(株)が、後の日産自動車となります。
日産自動車も横浜ルーツの企業で、現在横浜に本社が移転(戻って)しました。
light_201503020002

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7846
(3月3日関連ネタ)
■1854年3月31日(嘉永7年3月3日)
「神奈川にて日米和親条約締結」
とありますが、<神奈川にて>ではなく<横浜で神奈川条約>を結んだと表現するほうが正しい。この条約によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港することを決定します。
米国側
漢文担当の主席通訳官サミュエル・ウィリアムズ
オランダ語通訳アントン・ポートマン
日本側
第1通訳担当が森山栄之助

<森山栄之助関連>
No.412 多吉郎、横浜に死す。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=166

<日米和親条約締結>
No.63 3月3日 日本初の外交交渉横浜で実る
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=556

<日米和親条約締結関連>
No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭
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【ミニミニ今日の横浜】3月6日

今日3月6日の話題は全て じっくり紹介したい濃厚なテーマですが、
この【ミニミニ今日の横浜】では残念ですがさらっとアウトラインを。

■1911年(明治44年)の今日
「神奈川の神風閣(元神風楼)が焼失した。その際イギリス人および邦人3名が焼死した(横浜歴史年表)」
神風楼は遊郭です。横濱の遊郭移動史を一度整理して紹介せねば!!と思っているだけで中々まとまっていませんが、市役所同様(比較が悪い)引越しの歴史です。
最初は太田屋新田(現在の横浜公園あたり)に港崎遊郭(代表が「岩亀楼」)を作り最も華やかな時代でした。
火災で関外の吉田新田北一ツ目に移動、吉原遊郭といわれました。
またまた火災で焼失、高島町に移転して高島町遊郭となります。
この時の代表が「神風楼」で、経営者は高島嘉右衛門。
その後また火災で焼失吉田新田の南三ツ目に移動。戦後の1958年(昭和34年)まで永真遊郭街として引き継がれます。この他にも、市内には幾つか遊廓が存在した地域がありました。弘明寺とか台町とか。
この辺は別途紹介します!
light_横濱絵葉書021 light_横濱絵葉書025 「神風楼」は「No.9」という看板を掲げ有名になりますが、この神風楼にまつわる話(人物)はたとえば清水次郎長(山本長五郎)、若き野口英世、箱根富士屋ホテル創業者 山口仙之助の養父は山口粂蔵で、ここ神風楼の支配人でした。
No.197 7月15日(日)老舗ホテルを支えた横浜

■1928年(昭和3年)の今日
「戸塚実科高等女学校が創立された(横浜歴史年表)」
1928年(昭和3年)3月6日認可  戸塚町立戸塚実科高等女学校
1939年(昭和14年)4月1日  横浜市立戸塚実科高等女学校
1943年(昭和18年)4月1日  横浜市立戸塚高等女学校
1948年(昭和23年)4月1日  横浜市立戸塚高等学校
校歌は佐佐木信綱作詞、信時潔作曲共に校歌づくりの巨匠で晩年の作。

■1936年(昭和11年)の今日
「チャップリンが横浜に上陸した(横浜歴史年表)」
当時世界的な有名人だったチャップリンはアジア紀行の際、北太平洋の女王「氷川丸」を選びます。その理由は<氷川丸の「天麩羅」がチャップリンを虜にした>からだといわれています。

No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク
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■1940年(昭和15年)の今日
「横浜・サイパン・パラオ間の定期航空が開始された(横浜歴史年表)」
これが今日の一番ネタです。
「南洋群島とわが本土とを結ぶ横浜〜サイパン〜パラオ間四千百二十キロの空の制覇に向った大日本航空旅客輸送は六日横浜、サイパン間を見事征服し日本航空界の輝かしい躍進振りを見せている時、六日の決算委員会で福田関次郎氏(民政)が航空路の拡充、航空不安の除去その他につき質問、藤原航空局長官、桜井航研技術部長からそれぞれ答弁があった、その答弁の中で最も注意を引くものに南洋島を空から結ぶいわゆる南洋島内線の拡充で、これは現在横浜からサイパン、パラオまでの航空路をヤルートまで延長しさらにパラオ、ヤルート間のトラック島とサイパンを結ぶことになっているが、この実現は来る七月から十二月まで毎月一回試験飛行を行い昭和十六年一月から定期空路を確立すべく努めることになった(大阪毎日新聞)」
と当時の新聞記事にもあるように、
かつて横濱、磯子から国際線が飛び立っていたという事実だけでも驚きです。
根岸飛行場あたり 横濱で教鞭をとっていた作家「中島敦」も作品の中で横濱の飛行場を描いたシーンがあります。
No.692 世界一周機「ニッポン」(号)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6006
No.214 8月1日 (水)開港場を支えた派川工事
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=393
暦で語る今日の横浜【9月10日】
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=75
No.376 1月10日(木)中島敦のいた街
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=207
いずれじっくり紹介したいと思います。

(3月6日関連ブログ)
No.66 3月6日 ラーメンがなくなる日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=553

No.707 野毛「海員碑」について

野毛成田山横浜別院から一つのモニュメントが消えました。
海員悼逝の碑です。
新本堂造営のために設置場所が無くなったからでしょう。
light_成田山旧本堂海員碑本堂の脇にこの「海員悼逝の碑」が建ったのは1903年(明治36年)6月のことです。明治維新以来の海難に殉じた多くの船員の霊を慰めるために明治32年、当時の海員倶楽部所属の船員が呼びかけで同じ職の船員たちの拠出によって建立されたものです。題字は伊藤博文の筆によるものだそうです。
横浜都市発展記念館にある絵葉書コレクションには
「横浜野毛山ヨリ市街ヲ望ム」というタイトルでこのモニュメントが写っているものがあります。
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a01_001-16.htm
「備考:正面の塔は1903(明治36)に野毛山不動尊内に建立された海員悼逝碑。碑には国際信号旗がはためいている。悼逝碑の左側に横浜停車場が、画面右奥に指路教会が見える。絵葉書は1907(明治40)〜1918(大正7)年の発行。トンボヤ刊。」
その他
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a13_028_34.htm
「震災で上部に見えている飾りを失う。」
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a13_028_20.htm
■当時の観光ガイドブックより:
「山号を成田山 寺号を延命院と云ふ 成田山新勝寺の末寺で準別格本山である 明治三年南太田の普門院に遥拝所を設けたが同九年高島嘉右衛門氏から敷地の寄附を受け現在の場所に移つた」(『横浜名勝』横浜市銃後奉公会、1939年)
解説:海員悼逝碑(画面右)上部に設置されていた碇の飾りが見えないことから関東大震災以降の撮影か。絵葉書は1918(大正7)〜33(昭和8)年刊。
このようにこの「海員悼逝の碑」は関東大震災で倒壊してその後再建されますが、中が空洞になっていて震災直後は避難場所になっていたという記録も残っています。
light_成田山旧本堂大正期01 light_成田山旧本堂LM方向

ここにある絵葉書には
震災前の上部に設置されていた碇の飾りが見えるところから、震災前に撮影され発行されたものといえるでしょう。
碑の横には国文学者の重野 安繹(しげの やすつぐ)が書いた海員悼逝之碑文が設置されていました。
スクリーンショット 2015-01-13 15.42.41スクリーンショット 2015-01-13 15.42.55

今後、塔の再建予定があるのか?ない場合でも碑文等の保存がされるのか?
確認していないのでわかりません。
すでに取り壊しているので 遅いかもしれませんが、できればこの碑は何らかの形でこの地に残してほしいと希望するものです。
[野毛関連ブログ]

■野毛
No.371 1月5日(土)ノゲ的 (加筆修正)

No.371 1月5日(土)ノゲ的 (加筆修正)

No.457 ザンギリ野毛

No.457 ザンギリ野毛

No.422 妙蓮寺と野毛

No.422 【舞台の横浜】妙蓮寺と野毛

No.323 11月18日(日)歓楽街の住まい方 (加筆修正)

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No.398 野毛山公園句碑を訪ねる

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No9 1月9日(月) 野毛カストリ横町立退き騒動

No9 1月9日(月)【桜川】野毛カストリ横町立退き騒動

No.701 運河の街誕生

No.701 運河の街誕生(序章)

No.424 琉球バル

No.424 琉球バル

【番外編】成田山ただいま新築造営中。

【番外編】成田山ただいま新築造営中。

No.697 【一枚の横浜絵葉書】昔の絵葉書風景を読む。

戦前の絵葉書の役割は現在の絵葉書とは少し異なります。<観光>に加えて<ニュース性>のある絵葉書が多く発行されています。
今回は一枚の読み解きにくい<風景>を探索します。

light_資料絵葉書001 「Yokohamashi Zenkei 横浜市全景」
<港>や<水際>の無い横浜の全景絵葉書です。あまりに場所がわかりにくい<風景>ですね。ランドマークが良く判らない風景です。横浜全景なのに港がありません。港の無い「横浜」は市域拡張後の横浜では普通ですが、「横浜市全景」をタイトルにしているところから開港場周辺であるとは疑いがないでしょう。ということは、戦前の<組絵葉書>の可能性があります。
港の風景と住宅街の風景を対比させているかもしれません。
が、この絵葉書に写し出されている情景のみで“すこし”読み解いてみましょう。
(ヒントとなるものを探す)
「横浜市全景」という表現からこの風景が1889年(明治22年)から1927年(昭和2年)の市域拡大前の時期ではないかと推理しました。さらに1923年(大正12年)の関東大震災以前ではないかとも推理できそうです。
次に遠景から、地平線に稜線があり、この風景の撮影ポイントもある程度の高いところからと思われます。初期の横浜の特徴を良く顕している<山手側>か<野毛山側>であることは間違いないでしょう。
では、山手側・野毛側?どちらでしょうかと推理してみます。その前に、
ここで一点考えておかなければならない“要素”が「逆版」です。一応逆版画像も紹介しておきます。

light_横浜全景逆版     <トーンを変えています>
昔の写真や絵葉書には時折この<逆版>がありますので注意しなければなりませんが、今回は参考程度に留めておきます。
稜線の高さが一定に見えるように視界が開け、さらには開港場の洋館などがあまり見えない場所はどこか?
その前に、この風景に写っている<ポイント>を探します。
画像を右下から左上に向け対角線状にかなり広い道路が走っています。
※電信柱から十四・五連の大きさを読み取ることができます。
この通りに沿って、商家の家が連なっています。
ここに通りと川筋を私の推測で引いてみました。

light_横浜市全景通り筋light_横浜市全景通り筋川筋予想 遠景に教会・仏閣が見えます。さらに目を凝らしてみると 左上ゾーンには和風の甍が無いことがわかりますので、もしかしたら元町方向かも?しれません。
稜線の上には建物らしき影もあります。

M五年開港場 さらに基本的な風景情報としてこの<光景>は朝焼け?夕焼け?
これらの情報をもう少し織り込んで さらなる謎解きを続けます。
(今回はここまで)
さらに探索を続けます。
light_百段坂遠景この情景は、震災で崩れた「百段坂」上からの開港場風景です。目前に堀川端がはっきり見えています。今回の謎解き風景には道路が一切見えておりません。おそらくもう少し低い位置からの風景と推理できます。
light_百段元町<百段坂>階段中腹としても目前に広がる風景には少し違和感を感じます。では上記画面左端のあたりから見たらどうでしょうか?そうすると<遠景>の建物がかなりマッチするように思えます。
(20150120)時点での中間報告です。

第694話【一枚の横浜絵葉書】「桜木町横浜市授産所ノ偉観」

区役所は、歴史的地勢や例外を除いて概ね区の中心に近いところに設置されていますが、
中には様々な事情で区役所が移動した区があります。
区役所位置図今日は<一枚の絵葉書>から一時期桜木町駅前に中区役所があった風景を紹介します。
約20年間、桜木町駅前に中区役所がありました。かなり『西区』よりにあったんですね。
No.326 11月21日(水)彷徨える中区役所
※近年でいえば、南区役所は端っこに移転しますね。ほぼ中区といっても良いくらいの位置です。
中区役所位置図

さて、ここで一枚の絵葉書を紹介しましょう。
「桜木町横浜市授産所ノ偉観」です。
light_資料絵葉書009

(撮影位置)
このシーンが撮影されたのは恐らく、下図の位置でしょう。
撮影位置

現在ならJRガード下近くの公衆トイレ近くでしょうか。
鉄道発祥の地「初代横浜駅」(現 桜木町駅)前には当初から噴水がありました。
Y校イラストマップ

No.428 Y校創設地はどこだ?

No.429 Y校創設地はどこだ?2

(授産所)
ここに写っている煉瓦作りの建物が「興産館」で1929年(昭和4年)に竣工しました。

「興産館」は震災復興政策の一つとして建設されました。ここに「市中央授産所」がありました。<授産所>あまり聞き慣れない言葉かも知れませんが、
「授産所(じゅさんじょ)とは、身体障害者や知的障害者、ならびに家庭の事情で就業や技能取得が困難な人物に対し、就労の場や技能取得を手助けする福祉施設である。施設の設置は、おもに社会福祉法人などの団体によって行なわれている。(wikipedia)」
授産所=授産施設は<生活弱者のための就労支援施設>です。

1927年(昭和2年)横浜市が復興社会事業費より28万円を捻出して着工します。
1929年(昭和4年)「興産館」桜木町駅前授産所の場所に開館。
1929年(昭和4年)6月11日に「市中央授産所」として桜木町に設置されます。
1930年(昭和5年)5月11日「 横浜興産館主催の国際文化映画大会が5日間開催」※こんな記事も見つけました。
この絵葉書の情景、拡大してみると看板に人が写っています。「●●展覧会  」という看板を製作しているように見えます。最初、『復興記念横浜大博覧会』の看板かな?と思いましたが、拡大してみると違っていました。この博覧会もついでに紹介しておきます。
看板製作中

(復興記念横浜大博覧会)
1935年(昭和10年)3月26日から『復興記念横浜大博覧会』が5月24日まで山下公園を中心に開催されます。
大正12年の<関東大震災>から立ち直った横浜市を国内外にアピールするために横浜市が復興を記念して産業貿易振興を含め様々な催しが開催されました。
山下公園に約10万平方メートルを会場を設置し開催されました。来場者は3,299,000人とされています。
light_横浜式典001 light_横浜式典009 light_横浜式典011第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント

(中区役所)
1942年(昭和17年)3月 中区役所が港町1丁目(市役所内)より桜木町1丁目の興産館へ移転します。
1944年(昭和19年)4月1日西区が中区より分区して誕生しました。
※これによって、中区役所は<中区>の端に位置することになります。
1961年(昭和36年)に住吉町4丁目の横浜銀行ビルを改装し移転するまで、約20年中区役所は桜木町駅前にありました。
1983年(昭和58年)11月21日(月)三度目、現在の場所に引越します。前川國男建築設計事務所の設計です。

(市役所去って)
桜木町駅前から「中区役所」が去ってしまい、
1968年(昭和43年)4月30日に「桜木町ゴールデンセンター」が竣工します。
現在の「ぴおシティ」です。

No.99 4月8日 陸の孤島対策はあるのか?

(まとめ?)
冒頭に明示しておきませんでしたが、この<興産館>の跡地は現在桜木町駅前の立体パーキングになっています。

Google earthで確認しておきます。
スクリーンショット 2014-11-14 3.54.08 Googleearth桜木町再度この絵葉書を眺めてみると、
light_資料絵葉書009中々良い姿ですよね。横浜は震災と空襲で多くの味わいのある建物が失われてしまいました。復古趣味になることには異論がありますが、失いたくなかった風景です。
この味わいを今後どう活かして行ったらいいのでしょうか?
少子高齢化で都市が萎縮して行くことは間違いありませんね。
ちょっと 時代を振り返るヒントが あったほうが これからはなお良いと思います。