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「横浜絵葉書」カテゴリーアーカイブ
第975話【絵葉書の風景】横浜港魚釣
横浜沖で釣りの風景。
同じ原版で手彩色が施された二枚の絵葉書画像を紹介します。


絵葉書は明治期、日清・日露戦争で軍事郵便として数億枚が戦地と本国を流通しました。結果、定額で使える絵葉書は日本人の愛用品となり庶民のパーソナルメディアになっていきます。
オフセット印刷の前は、石版や凹版、凸版が主流でした。
当時、絵葉書はモノクロ中心からそこに手彩色が施されるなど、今では考えられない程、手間がかかっていました。最初の彩色見本を基準に一枚一枚、女性の<職工>が安い工賃で作業していたのです。
彩色時期、版元、担当等によって彩色の雰囲気が変わることから、資料性に欠けるとされた時期がありましたが、現在はそれも含めて時代を読む重要な資料となっています。違った絵葉書を集める、コレクターとしても愉しみの一つです。
手彩色絵葉書は明治後期から大正初期までの間に多く発行されました。
絵葉書に使われる<風景>は現代の絵葉書や観光写真のそれとはかなり違っています。
何故この風景・モチーフとなったのか?
切り取られた風景を読み解く過程で、時代を垣間見ることができます。
(風景)この絵葉書の風景を読み解きます。
タイトルがなければ横浜風景とは一瞬わかりません。
横浜港をかなり沖から見た風景です。
撮影は横浜港防波堤あたりでしょうか。



メインは沖に係留して「波止釣り」をする小舟です。
遊漁船のようにも見えますが、判りません。
少し奥に帆舟が一艘。
地平線には全面に横浜岸が広がっています。
左端が山手から本牧の外れ、
右寄りに二代目横浜税関が見えます。

もう少し拡大してみると、山手に双塔の建物が見えます。
恐らく山手カソリック教会の聖堂と推測できます。
海岸線には「横浜港」を利用する大型船が多く停泊しています。船の周りには<艀はしけ>曳船(タグボート)と思われる小舟も確認できます。
大型船は「蒸気機帆船」(推進用の動力として蒸気機関を併用した帆船)が殆どです。
(時代類推)
ではこの風景がいいつ頃撮影されたものか?
■山手カトリック教会双塔は、
1906年(明治39年)から1923年(大正12年)
■二代目横浜税関庁舎
1885年(明治18年)11月竣工から1923年(大正12年)
ここから、この風景は
1906年(明治39年)から1923年(大正12年)に絞り込むことができます。
■海岸通りは拡大してもぼやけていて正確な判断ができませんが、
大桟橋たもとの測候所や、大桟橋、
殆ど当て推量ですが、報時球らしき影が見るような気がします。
というか、この時代なら、仏蘭西波止場あたりに
報時球が無い訳がない!と思うと見えてくる影も感じます。
<タイムスケール>
このエリアに建造物が完成した時期を確認します。
※1894年(明治27年)に大桟橋 完成
※1890年(明治23年)グランドホテル(サルダ設計)
※海岸通りの報時球 1903年(明治36年)3月から1923年(大正12年)?
「時」の話題(更新)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6945
※1905年(明治38年)12月28日には新港埠頭の第1期の埋立が完成。
※1906年(明治39年)5月22日には「新港町」が新設され、港湾施設建造が進みます。
※1911年(明治44年)から1913年(大正2年)にかけて、国営保税倉庫(赤レンガ倉庫)が建てられます。
赤レンガ倉庫の高さは約18m ですので、二代目横浜税関と並ぶ存在感があるので、着工前かもしれません。
ということから、この時点でのアバウトな撮影時期の推計は
1906年(明治39年)から1910年(明治43年)くらいかな!
■手前の小舟四艇
そもそも、明治期から大正期の写真撮影の技術的な課題から、
船上にカメラを置いて撮影したとは考えにくいので、
カメラは防波堤の上に設置して、堤防に係留した釣り船をメインに撮影。
方角は南向き、やや西より向きにカメラを設置したと推定できます。
構図の中心、四艇の小舟をじっくり観察してみました。
・最前列の舟
船上には四名、何もしていないように見えますが、船尾に網を巻き上げる装置のようなものが見えます。
・二番目の舟
船上には二名、ハッピのような服装で作業中。一人は麦わら帽子。
・三番目の舟
三名の人物が見えますが、釣りをしているようには見えません。
それぞれ、<カンカン帽>を被っています。
カンカン帽、素材は麦藁を平たくつぶして<真田紐>のように編んだ麦稈真田で、横浜が生産拠点(特産)の一つでした。明治末期から男性の間に流行したものです。この船上のカンカン帽紳士は、かなり<粋>な釣り人?
・四番目の舟
画面左手に係留中の舟には、三名の人物が確認できます。
中の一人は女性のようにも見えます。
(まとめ)
撮影時期:1906年(明治39年)から1910年(明治43年)
撮影位置:横浜港北防波堤(赤灯台側)内側あたり
撮影時間:不明だが早朝か
天候季節:やや北風、曇り。真夏ではない。
小舟は、網漁の舟と思われる。
第972話 白秋の横浜
前回に引き続き
白秋を追いかけます。
北原白秋の門下生「薮田義雄」がまとめた「評伝 北原白秋」
には何箇所か横浜に関する記述がありました。
薮田義雄
「(やぶた よしお、1902年4月13日‐1984年2月18日)神奈川県小田原市生まれ。小田原中学三年の時、その地に住む北原白秋の門人となる。法政大学に学ぶ(卒業したかは不明)。詩のほか、白秋の初の本格的伝記などを書いた。wikipedia」
ここでは一章を使って「所謂 「桐の花事件」の真相」について書いています。
一般的には、北原白秋が「姦通罪」で訴えられ、約二週間収監されその後放免された事件前後に作った作品集が「桐の花」。
当時、スキャンダルネタとして大きく取り上げられたこともあり、白秋の評判が一気に落ちたという彼の人生最大の逆風期でした。
引越し好きという表現が適切かどうかわかりませんが、白秋はとにかく転居の連続でした。
1912年「桐の花事件」のあった年の数年前に遡ってみます。
1907年(明治40年)5月千駄ヶ谷に転居。年末牛込北に転居。
1908年(明治41年)10月に神楽坂二丁目
1909年(明治42年)10月本郷動坂
1910年(明治43年)2月牛込小川町
9月青山原宿に転居。
1911年(明治44年)2月木挽町で下宿生活を始める。
9月<旅館住まい>
年末京橋新富座裏に転居。
1912年(明治45年)1月浅草聖天横町
5月越前堀に転居
★7月姦通罪で告訴
★8月10日の公判で免訴放免。
この事件前後の作品をまとめたものが「桐の花」でした。
[刑法旧規定第183条 姦通罪]
① 有夫ノ婦姦通シタルトキハ2年以下ノ懲役ニ処ス 其相姦シタル者、亦同シ
② 前項ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス 但、本夫姦通ヲ縦容シタルトキハ告訴ノ効ナシ
※夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス
(事件の顛末)
白秋が1910年(明治43年)牛込から青山原宿に引っ越した隣家に
国民新聞社写真部に勤める松下長平、その妻 俊子が住んでいました。国民新聞とは、徳富蘇峰が1890年(明治23年)創刊した日刊新聞で、明治後期から大正初期にかけて政府・軍部とのつながりが強くなり政府系新聞の代表的存在となります。
隣家の松下俊子(旧姓福田俊子)と北原白秋の
<禁断の恋>というのが当時の醜聞となり、メディアの格好の材料にされました。
新聞は「詩人 白秋起訴さる 文藝汚辱の一頁」と書き立てます。
真実はわかりませんが、傍系資料などから、当時の理不尽な夫が浮き彫りになってきました。新聞社写真部に勤める松下長平なる人物から妻の俊子は今で言うDV(ドメスティック・バイオレンス)を受けていました。
さらには夫には愛人(妾では無く?)がおり、間には子供がいました。
俊子が妊娠・出産するなか、DVが続いたことと、俊子自身が詩歌に関心があったことなどから、出会った「北原白秋」への思いを膨らませます。
この頃、白秋は極貧生活と体調不良の中、上田敏に作品を絶賛され、一気に詩壇に登場します。旅館住まいから京橋新富座裏に転居、浅草聖天横町、越前堀と短い間に数回転居する中、二人の思いが募ります。
どんなにひどい夫でも<姦通罪>は「夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス」しかなく、今から考えればすごい時代でした。
冒頭の参考にした「評伝 北原白秋」では、二人の思い、関係を詳細に資料から分析しています。
二人の<ふしだらではない恋>は姦通罪で罪となり、彼女は離縁、故郷の伊賀に帰り、白秋は死に場所を求めて彷徨し、三浦三崎を訪れたりしていました。
この<三浦三崎訪問>が後に白秋一家がこの地に移るキッカケにもなっています。
私はもう一つ、時代背景も少し加味してみました。
1912年(明治45年)1月浅草聖天横町
5月越前堀に転居
★7月姦通罪で夫松下長平が告訴。
☆7月30日 明治天皇 崩御。大正時代へ。
★8月10日の公判で免訴放免。
近代日本が初めて天皇の死を迎え、一世一元の大正を迎えた時期にあたります。
坂野潤治の説く明治近代化の軋轢が再編成の欲求として噴火した「大正政変」が起こった1910年代は税制・経済、外交・軍備、護憲・藩閥等の多元化欲求の衝突の時代でした。

一連の<姦通罪>で離れ離れになった二人は、大正2年になり
劇的な再会をします。
伊賀に戻ったはずの福田俊子が横浜南京町(中華街)で暮らしていることを白秋は知ります。
白秋は彼女を迎えに行き、家族の了解を得て正式に結婚し、居を三浦に移します。
ここで生まれた詩が「城ヶ島の雨」でした。
https://www.youtube.com/watch?v=ZI4ebUR2hLU
評伝では
西村陽吉の回想録から
白秋は本牧三渓園の通りに面した桜並木に<隠れ家>があったと書かれていました。
「本牧で電車を降りて海岸の三渓園まで行く道は、両側に桜が植わって、(中略)三渓園の通りには、おでんや団子や目かつら風船玉などを売る露天が並んで、白秋の仮寓は、そのにぎやかな通りの中の、茶店のような家だった。」
この時期が大正2年4月ごろと推理しています。
1906年(明治39年)5月から三渓園外苑が一般公開されるようになり、桜の季節は特に多くの見学者が訪れるようになりました。
1908年(明治41年)には「横笛庵」が完成し、梅林も整備され”梅の三渓園”としても有名に。
1911年(明治44年)12月26日に元町(西ノ橋)から本牧原町(三渓園)まで横浜電気鉄道本牧線が開通し、さらに多くの人が三渓園を訪れ横浜最大の行楽地になっていきます。
この時期に、俊子とその子供が三渓園近くで白秋と共に暮らしていた時期があったことは驚きでした。この暮らしぶりを詠った詩歌を探していますが、まだ未明です。



その後、妻俊子とは貧困も影響し離婚し、白秋はまた一つの転機を迎えます。
この先の白秋に関しては、触れませんが、作曲家山田耕筰と組んで多くの校歌を手がけています。その中で神奈川県内の学校は三校あります。
■神奈川県立湘南高等学校
http://www.shonan-h.pen-kanagawa.ed.jp/zennichi/gaiyo/kouka.html
■神奈川県三浦市立三崎小学校
http://www.city.miura.kanagawa.jp/kyouiku/misaki/documents/e-misaki-kouka.pdf
※PDFがダウンロードされます。
■川崎市立川崎小学校
http://www.keins.city.kawasaki.jp/2/ke202001/
第970話【絵葉書の風景】山下公園
山下公園 船溜りに傘を差す和装の女性
神奈川県庁と横浜税関の塔が見える絵葉書。
1000話に向けて閑話休題ちょっと軽く流します。

この絵葉書は私の好きな一枚です。
携帯の待受画面にもしています。
風景
右側が岸壁で、現在氷川丸が係留されているあたりです。
撮影時期は横浜税関(クィーン)が建っているので昭和9年以降で、
(大横濱名所)のタイトルから戦前だろうと推測しました。


この船溜りは、幕末から明治期にかけて仏蘭西波止場と呼ばれていました。幕末、開港以来、フランス人の多く暮らすエリアで大桟橋ほどではありませんが小さな船着場があり、このあたりでヨットレースや水泳大会も盛んに行われた場所です。
関東大震災の後、震災の瓦礫を使って海岸通りに親水公園を整備、これが山下公園となった訳で、その際、仏蘭西波止場の構造を活かしてこの船溜りとなります。
<復興記念横浜大博覧会>
1935年(昭和10年)3月から5月まで開催
震災復興の博覧会ではこの「船溜り」前に無理やりクジラを運んできたけれども、すぐに死んでしまったという、現在なら大騒ぎとなった場所でもあります。


現在は埋め立てられて沈床花壇になっていますが、完全に埋めてしまうのは残念だったのか、船溜り部分を沈床とし花壇整備しています。
現在はどうなっているか?
<実際に訪れてみてはいかがでしょう>
■山下公園船溜りの風景
手元にある絵葉書を調べてみると
いくつか「山下公園船溜」が写っている風景がありましたので紹介します。



さて
ここまでは「山下公園」を説明する定型文でした。
この絵葉書で実は私が気になるのは、
<白い傘の女性>!よーく見ると結構派手な着物です。
ではなく、左遠景に写り込んでいる丘の風景です。
絵葉書を眺めると背景に丘陵が写り込んでいるのが判ります。

手前の近代資産
右手に建つ県庁の塔屋高は48.60m
開港記念横浜会館が36m
横濱税関が51m
さて?いわゆる三塔の奥に見えるこの丘は野毛山なのだろうか?
先ず地形的には 野毛山しか考えられないのですが、妙に存在感がある点、少し疑ってしまいたいのがヨノツネ。
たぶん 野毛山は 高いビルがなにもない時代は このように見えたのでしょうね。
第967話 【市電ニュースの風景】1931年 №37・38


※「市電ニュース」は、車内吊り広報紙で、市内で開催される講演会、音楽会、展覧会、祭り、野球などの情報や、市政情報を乗客に伝えるメディアサービスとして掲載した。
№37は
1931年(昭和6年)9月13日(日)から9月18日(金)まで
№38は
1931年(昭和6年)9月18日(金)から24日(木)まで
【市電ニュースキーワード】
№37
■元町横濱プール
前回紹介
■山王町日枝神社(お三の宮)大祭
第968話【絵葉書の風景】お三の宮
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11786
「関外総鎮守お三の宮日枝神社」
http://www.osannomiya-hie.or.jp ■全国特産品國際市演芸開始
=芝居、茶番、洋楽、舞踊
※茶番=こっけいな即興寸劇。
江戸歌舞伎の楽屋内で発生し、18世紀中ごろ一般に広まった。口上茶番と立ち茶番とがある。茶番狂言。
■四号岸壁へ
明治後期から大正にかけて建設・整備されてきた「新港埠頭」には12号まで岸壁が設置されていた。その中でも外海に最も近く接岸しやすかったのか、四号岸壁が客船用に多く利用された。



=東京三越本店四階にて=
現在も東京で地方PRブース、物産展が開催されるが戦前も県物産展が開催された。
何が展示されたのか、知りたい! №38
■暁鳥 敏(あけがらす はや)
1877年〈明治10年〉7月12日〜1954年〈昭和29年〉8月27日
真宗大谷派の僧侶、宗教家
http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kankoubunkabu/bunkasinkou/senzin/akegarasu.html
■横浜公園
横浜公園は、開港してまもなく遊郭ができた空間(港崎遊郭)が慶応の大火で消失し遊郭は移動。その跡地はしばらく放置、居留地の外国人から生活環境改善要求があり、土木技師リチャード・ブラントン設計による海岸から日本大通・横浜公園一帯が整備された。本質的な狙いは<防火帯>だったが、本格的な近代公園として、現在まで残る貴重な公共空間である。横浜公園は開園当時、我も彼もという意味で「彼我公園」と呼ばれた。園内には外人居留地運動場、噴水、回遊歩道などが整備された。
1931年(昭和6年)当時は※音楽堂 ※球場があり多くの人々に利用された。
No.78 3月18日 横浜公園に野球場完成
第956話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第一話
■■関連ブログ
第966話 【市電ニュースの風景】1931年 №35・36
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11764 第920話【市電ニュース】市電域と市電ニュース
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10847 【市電ニュースの風景】第一号その1
1930年(昭和5年)12月25日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7276 【市電ニュースの風景】1931年 №21
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7482
第968話【絵葉書の風景】お三の宮

まもなく1000話になりますが、お三の宮はうっかり紹介していませんでした。
昔のお三ノ宮付近の絵葉書・地図を少し紹介しながら
「関外総鎮守お三の宮日枝神社」に触れます。
多くの方は「お三の宮」と略して呼んでいます。
関外総鎮守の名からわかるように
横浜関外地区=吉田新田域の鎮守様です。
約360年前、江戸の木材・石材商の吉田勘兵衛が、深い入り海部分を干拓する願いを幕府に出し、新田事業に成功します。この「吉田新田」の鎮守(守り神)として、寛文十三年 (1673年)に建てられたのが「関外総鎮守お三の宮日枝神社」です。
なぜ「お三の宮」なのかは諸説あります。
(1)お三の宮の旧社名である「山王社」が転詑して、「山王(さんのう)の宮」から「おさんのうのみや」「お三の宮」になった。
(2)お三の宮は江戸赤坂の山王社からの勧請で、日吉大社→東京赤坂の日枝神社→お三の宮、と三番目にあたる。
(3)江戸の山王社は、近江日吉山王二十一社の中の、大宮・ニノ宮・三ノ宮であるから、お三ノ宮もその分霊を祀ったので。
以上は「山王」に関係するもの。
(4)明治初期の古地図には、お三の宮の位置に、「お産の宮」と当て字をしたものもあり、お産の信仰があったのではないか。
(5)古田新田埋立ての際の人柱「おさん」を祀ったので。
(4)(5)は庶民信仰の中から呼ばれるようになったようです。
定説となりそうなのは「山王社」の<さんのう>→<おさんのう>
このあたりではないでしょうか。

日枝神社には<池>がありました。
明治から大正時代の地図をみると日枝神社裏には大きな池がありました。
現在はどうなっているか?
吉野町市民プラザになっています。



日枝神社は古くから猿が神様の使い「神猿(まさる)」信仰がありました。
中世から近世にかけて山王信仰のなかでサルは神の使いとしての役割を担うとされ、
外部からの侵入を排除して村内を守る役割や、音から難がサル、「神猿(まさる)」は勝るに繋がるとして縁起物となりました。




日枝神社周辺の風景


第966話 【市電ニュースの風景】1931年 №35・36


1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を
何回かに分けて読み解いている。
※「市電ニュース」は、車内吊り広報紙で、市内で開催される講演会、音楽会、展覧会、祭り、野球などの情報や、市政情報を乗客に伝えるメディアサービスとして掲載した。
№35は
1931年8月29日(土)から9月4日(金)まで
№36は
1931年9月4日(金)から10日(木)まで
【市電ニュースキーワード】
■元町横濱プール
元町横濱プールは1930年(昭和5年)5月20日に完成、6月1日(日)に開場式が行われた。夜間施設を持っていたので開場の翌月(7月)には日本初の夜間水上競技会が開催された。現在は「元町公園プール」と呼ばれている。
水源は井戸水を使っていたためにかなり冷たく真夏でも凍る!プールで有名だったが現在は<水道>で温かい?!。
戦後1946年(昭和21年)3月1日に米軍に接収され「オリンピックプール」とネーミングされ1952年(昭和27年)に解除、返還された。

■9月1日は震災八周年記念日 久保山で慰霊祭
記念日はめでたいものに対するものだと思っていたが、記念とは忘れないぞ!ということなので震災を忘れないぞ!ということだろう。
■日本郵船 日枝丸出航
新港埠頭 四号岸壁 シャトルへ(特別シャトル便のことか)
■4日 朝鮮音楽と舞踊の会
第二隣保館

■横濱洋画展覧会 横濱興産館
第694話【一枚の横浜絵葉書】「桜木町横浜市授産所ノ偉観」
■満蒙問題講演会
和田亀治 元第1師団帳陸軍中将
(わだ かめじ)大分県出身、陸軍士官学校(6期)陸軍大学校(15期)
日露戦争に第1師団参謀として出征。
1928年(昭和3年)8月29日、予備役へ。帝国在郷軍人会副会長。
■日本郵船 秩父丸
大桟橋C発 桑港へ
秩父丸は1939年(昭和14年)1月に鎌倉丸と改名。
詳しい本文は画像で確認お願いします。
★同時期の出来事
8月29日(土)
濱口雄幸 前首相告別遥拝式 民政党県本部で執行
※1931年(昭和6年)8月26日 東京駅で銃撃され、それが遠因で死亡。
横浜市、市内9箇所でルンペン※調査実施。
(総数224人。内女性4人、子供3人)
※浮浪者。また比喩的に、失業者。本来《ぼろ切れの意》
9月2日(水)
<朝鮮古代音楽と舞踏の会>横浜公園音楽堂で開催。
※市電ニュースで告知の「朝鮮音楽と舞踊の会」第二隣保館
と同じものか? 会場変更になったのか 別のものか不明
9月4日(金)
銀座のカフェ・バー<クロネコ>が女給150人を引き連れ伊勢佐木町に進出
9月5日(土)
第1回女子中等学校水上競技大会開催。
9月6日(日)
戸塚町矢沢に野球場が新設された。
9月7日(月)
空の英雄、リンドバーク夫妻来浜。市民の熱狂的歓迎を受ける。
夫妻は数日間、東京で過ごす間、日本政府機関との打ち合せの合間をぬって、リンディ夫妻は横浜市民の好意に感謝の意を伝えるために訪れた。
■■関連ブログ
第920話【市電ニュース】市電域と市電ニュース
【市電ニュースの風景】第一号その1
1930年(昭和5年)12月25日
【市電ニュースの風景】1931年 №21
1931年(昭和6年)5月21日から27日まで
第963話 8月3日(金)
戦前の歴代市長に関して自分の記憶の整理をします。
まず戦前期の歴代横浜市長一覧
開港50周年記念事業を担当。市章、市歌の制定。
(12代市長 青木周三)
横浜市が横浜電気鉄道を買収。電気局を発足。

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
紀元(皇紀)二千六百年特別観艦式(横浜)
第962話 8月2日(木)
1930年(昭和5年)8月2日(土)の今日、
午前9時半、横浜港に日本郵船の北大西洋航路定期船「龍田丸」が桑港(サンフランシスコ)から入港しました。
この年の春4月25日に初就航した「龍田丸」は浅間丸姉妹船として三菱造船で建造。隔週運行し、米国サンフランシスコからロスアンジェルス・ハワイを経由し、横浜・神戸そして上海・香港を結ぶ花形航路でした。
この日到着した「龍田丸」に83歳になる日本を代表する実業家が乗り合わせていました。
浅野総一郎。
このブログでも様々なテーマに登場する、近代横浜経済を語る上で重要な人物です。
意外に、浅野自身に関しては殆ど触れることは無く、彼のビジネス展開を紹介する程度でした。
といって浅野総一郎をガチンコで紹介しようとすると
それだけで 数十回のボリュームを必要とするほど、マルチスーパー実業家です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/浅野総一郎
アウトラインはウィキペディアでごめんなさい。
彼の業績をザクッと絞ると
安田財閥と関係が深く
基本は「セメント」
知る人ぞ知る現在も浅野セメント(現在は太平洋セメント)
浅野製鉄→日本鋼管株式会社(現:JFEスチール)
浅野造船
東洋汽船
※日本郵船に挑戦し、孤軍奮闘、最終的に客船部門は日本郵船に。貨物部門は残り戦後まで続きます。
東亜建設工業
https://www.toa-const.co.jp/company/introduction/asano/
沖電気工業 →意外でしょう?
関東運輸株式会社
浅野物産株式会社(現在は 丸紅や株式会社NIPPOなどに分社)
この他にも鉄道関係にも深く関わり
青梅鉄道、五日市鉄道、南武鉄道
そして 教育機関として「浅野学園」
といった企業群を挙げるだけでも、浅野財閥と呼ばれた理由がわかります。
しかもこれらの企業群を一代で築いたのですから、すごい人物でありすごい時代でした。これ以外に
浅野総一郎の果たした最大の功績は
横浜港整備と京浜埋立事業の立役者であったと思います。
浅野総一郎が安田善三郎と出会い、渋沢栄一に信頼された”大風呂敷”は
横浜港の整備される前、
東京と横浜をつなぐエリアを整備し運河機能を活かした一大インフラ計画をいち早く考え、夢を実現、実際に成功させたことでしょう。
とにかく横浜は開港したまでは良かったのですが、その後の横浜港はとにかく使い勝手が悪く、幕末の海運事情はあっという間に過去のものとなってしまったため近代港湾施設整備が急務でした。19世紀末から20世紀は
世界が産業革命以降の技術革新の荒波に揉まれていた時代でした。
大消費地「東京」へスムースに荷が運べない。
湾岸は多摩川の土砂が蓄積しペリーが測量で確認した通り、遠浅で海運には向きませんでした。鉄道など陸路の整備もままならない中、横浜から東京までの回漕費は、ロンドンより横浜までの運賃とほぼ同額という実に非効率の時代がしばらく続いたのです。当時の神奈川県に話を持ち込んでもなかなか埒が明かず、最終的には自分で資本を集めて事業化してしまったのが浅野総一郎でした。
話を1930年(昭和5年)8月2日に戻します。
この日、浅野総一郎の帰国は大きく新聞紙上にも取り上げられました。
「若返った浅野翁」
「十億外資借入旅から帰国」
若返ったのはそのファッションでした。真っ赤なネクタイを締めた姿が、83歳の日本人には見えなかったのでしょう。また十億外資借入旅とは、震災で打撃を受けまた昭和に入り恐慌が起こるなど、経済状況が厳しい中、80歳を過ぎた浅野総一郎は、事業発展のために
「セメントを輸出するために、今年はアメリカとイギリス、ドイツに支店を作るぞ。世界恐慌といってもいつまでも続くとは思えない。それにアメリカ政府は景気対策として、公共事業を始めるだろう。セメント需要は一段と高まるだろう。不況のときこそチャンスだ。」
「安田さんが亡くなったから、俺はこれからは海外から資金を借りて仕事をする」とぶち上げ、昭和5年5月18日にシベリア大陸経由で欧米視察(資金調達)の旅に出ます。ところが、ドイツで体調異変に気が付き、食道がんの可能性があると診断されます。ドイツでは友人の野村大使らの歓迎を受けますが、旅半ばで急遽日本へ帰ることを決断、アメリカ経由で
8月2日のこの日横浜に帰ってきたのです。帰国後すぐに診察、結果は食道がん。
その後 大磯に戻り療養しますが11月19日
83年の波乱に満ちた生涯を遂げました。
今日はここまで。
浅野総一郎と築港の父パーマーの話も紹介しておきたいところですが、別の機会にしておきます。
第961話 8月1日(水)
1000話まで後40話となったので、力まずブラブラ書いていくことにしました。
そもそもこのブログは私が<横浜>を一から学ぶ、確認していくという作業の一つとして始めたものです。1000話まではこのスタンスで進め、それ以降はじっくり深掘り横浜を始めたいと決めました。そもそもが自分にノルマを与え、プレッシャーをかけ、書いていく作業を始めた第一話が
No.1 1月1日(日) 奇跡の1998年(前半)
これはネタとしてもかなり劇的な始まりでした。
ということで、
今日は8月1日
手元のネタ帳から
1896年(明治29年)8月1日の今日、大桟橋のたもと、後の山下公園脇に位置する海岸通一丁目に、「神奈川県測候所」が設立されました。
1923年(大正12年)の関東大震災により被災消失し、1927年(昭和2年)に現在の横浜地方気象台のある場所に移り再建され11月から観測業務を開始しました。
海岸通りに測候所があった風景は、当時の絵葉書に多く残されています。
2018年の夏は、7月梅雨が明けるかどうかの時期から熱帯状態が続いています。多くの人が天気予報やニュースから連日続く暑さにうんざりしているところですが、この情報の源泉は”気象観測体制”がしっかり整備されているからに他なりません。
現在気象庁は国土交通省に所属する組織ですが、気象観測の重要性は明治以降意外と冷遇されてきた経緯があったようです。
近代国家を歩み始めるにあたり、国家運営上必須の情報が<国土情報>でした。土地の正確な把握は税制の根幹であり、国防の基礎でもありました。
明治政府は
1871年(明治4年)7月工部省に測量司を置き、東京府下の三角測量を始めることにしました。国土を測量するために外国人技師の力を借ります。
測量・土木・鉄道等に関しては当初、英国から多くの技師が来日しました。
横浜で言えば、ブラントン、パーマー、そしてモレルの名が出てくるでしょう。
1870年(明治3年)に来日した英国人H.B.Joyner(ジョイネルまたはジョイナー)は、京浜間の鉄道布設に係る測量がミッションでしたが、彼は気象観測の必要性を明治政府に建議します。
日本には、西欧諸国が驚く正確な測量力を江戸時代から認識していましたが、インフラ整備をするための精度と国全体の詳細地図のモジュールを求めました。
一方で国を管理するためにも地図が必要で1873年(明治6年)に設置された内務省は早速「地理寮」を置きます。工部省がインフラのために始めた外国人技術者による測量部門は一旦ここで内務省に移管されることになります。
ただ ここに日本近代化の欠点が露呈します。河川・灌漑・護岸等に関係することは<測量>も含めて工部省管轄のオランダ人技術者たちに委ねられます。
チグハグさを簡単にまとめておきます。
1869年(明治2年)民部省に戸籍地誌掛設置
同年、北海道開拓使ではアメリカ人技術者の下で三角測量が始められた。
1870年(明治3年)同省に地理司測量掛設置。工部省が民部省から分離。
十寮一司が設置される。
1871年(明治4年)大蔵省と合併。租税寮地理課が設置。租税用の地図作成に乗り出す。
同年 大蔵省と合併する前の民部省に山林局が置かれ山林・地形測量が始まる。
同年 工部省は三角点設置の測量を開始する。
1872年(明治5年)8月日本最初の気象観測所、北海道函館に開設。
1873年(明治6年)5月工部省測量司が気象台設置を決定。ロンドン気象台長に気象器械のあっせんを依頼。翌年観測機器を携え、技師が来日。この時、地震の多い日本ということで、気象器械とともにイタリアから地震計を調達した。
同年11月10日大・大蔵省への反発が強く内務省が分離設置。
1874年(明治7年)工部省の測量・地図事業が内務省測量司に移る。
内務省地理寮となりそこに地質関係を調べる部門が登場。
1875年(明治8年)三角測量の所管が内務省地理寮に移り「関八州大三角測量」開始。
同年 機器の取り付けが完了し、東京気象台が日本初の気象観測を始める。同時に地震観測も開始する。
※観測場所は内務省地理寮内。現在の東京都港区虎ノ門
1877年(明治10年)指導にあたったジョイネル帰国後、伝習生だった正戸豹之助が日本人観測主任に就任。
1881年(明治14年)内務省地理局地質課が農商務省農務局地質課となり
鉱山技術に強いドイツ人技術者の指導を受けることになる。地質図の基礎となる地形図作成が、ドイツスタンダードで進められる。
同年、内務省地理局から五千分の一「横濱實測圖」発行。
1883年(明治16年)ドイツ人技術者クニッピング(E.Knipping)の指導で毎日1回午前6時の気象電報を全国から収集できるようになった。
1884年(明治17年)陸軍参謀本部測量局、一等三角測量を開始。
1887年(明治20年)東京気象台が「中央気象台」と改称される。
1895年(明治28年)4月内務省から文部省に移管。
そして
1896年(明治29年)8月1日 神奈川県測候所、海岸通一丁目に設立。
(その後の気象庁)
1943年(昭和18年)11月運輸通信省に移管。
1945年(昭和20年)5月運輸省に移管。
1956年(昭和31年)運輸省所管 気象庁となる。
だいぶ、気象観測から逸れましたが、
インフラ整備や、税制、地質調査、開拓等々様々な理由から測量や観測が始まり、明治中頃になってようやく全体の統一感がでてきます。
海岸通りの測候所風景に戻ります。
上掲の絵葉書の発行時期は確定できませんが、電信柱や建造物から前後関係は推理できます。全て関東大震災前の風景です。
現在はここにパイロットビルが建っています。
さきの時代の面影を現地に見つけることは出来ませんが、日本最大級の国際港だった横浜港の運行に欠かせない気象情報がこの場所で観測され、天気図となり活用された当時の様子を想像すると、周りの風景を含めて懐かしき良き時代だったという感傷に浸ってしまいます。
本日はこれまで。
その他の8月1日
1915年(大正4年)8月1日
神奈川県鎌倉郡に大正村が起立。
1939年(昭和14年)第6次市域拡張で横浜市に編入された4月1日に「大正村」は消滅します。現在は学校名や施設、住宅にその名が残されています。
二級河川「大岡川小派川 堀割川」完成の日です。
第960話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第五話
今回は
横浜真景一覧図絵に見る「橋梁」を追いかけてみた。
明治期に大岡川で架橋された多くの<橋>は現在も少し位置の変更はあるものの残っている。運河が廃止されたことで消え去った橋梁も多いが、1974年(昭和49年)まで大岡川下流域は運河の街だった。
この絵図から橋梁部分をズームアップしてみた。
辨天橋は三連橋脚の桁橋で、片側に四つのガス灯がある。絵地図では片側三灯となっているが、概ね構造をとらえている。
都橋の袂に小屋が確認できます。邏卒所と思われます。現在もここは交番になっているので、横浜の中でも歴史ある<交番>といえるでしょう。
全く根拠はないが、一枚の撮影場所不明の横浜写真は「長者橋」ではないか?と推理している。明治四十三年時の横浜市域で川筋を調べてみると「横浜真景」での橋脚図が正確という前提で当てはめてみた。左岸に住宅、右岸に材木業、4つの橋脚あたりから「長者橋」が導き出された。
かなり乱暴な推理なので、新しいことが分かり次第 撤回!?確定!?どちらかへと向かうことになるだろう。
【撤回】本牧の長澤さんから新資料によるご指摘が在り、この橋は「長島橋」だということがわかりました。