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第868話 【ある日の氷川丸】
山下公園に係留されている氷川丸(ひかわまる)
1930年(昭和5年)竣工。日本郵船の12,000t級貨客船だ。
北太平洋航路で活躍、戦後まで残った貴重な船である。
現在は博物館船として公開され国の重要文化財(歴史資料)に指定されている。
ここに数枚の係留された氷川丸風景を紹介する。
これらの風景の違いがお分かりになるだろうか?
氷川丸は、
1960年(昭和35年)8月27日に横浜からシアトルへ出港し10月1日に横浜・3日に神戸着で最終航海となった後、横浜港に戻ってその後の処置を待つ身の上となった。廃船の計画も出たが、各方面からの熱いリクエストがあり存続が決定。
翌年の1961年(昭和36年)に ユースホステルとして再登場した。この時、船体下部が黄緑色に塗られた。
その後、繋留のために作られた<桟橋>先端に1963年(昭和38年)<白灯台>が設置された。
これに関する顛末は
No.105 4月14日 白の悲劇(加筆)
1960年代以降の「氷川丸」も様々な表情を変化させながら現在に至っている。
85年の輝かしい歴史を辿るには
「氷川丸ものがたり」は最新刊だ。
第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所(加筆)
初代横浜駅が開業したのは1872年6月12日(明治5年5月7日)考えてみれば、開港以来十数年で産業革命の象徴を導入したことになる。
わが国の鉄道発祥の駅舎は新橋駅と共にアメリカ人建築家、R・P・ブリジェンスが設計した。
ここに横浜駅前、鉄道開業後の写真に写る<謎>の建物を発見?

明治25年に発行された絵地図にも駅前噴水の先、大岡川に面した場所に何か建造物がある。
私はこれは新しい「公衆便所」ではないかと推理した。
撮影時期は、初代横浜駅開業期から
1902年(明治35年)に初代大江橋が架替されるまでの間であることは間違いないだろう。
さらに絞りこめるか、果たして公衆便所なのか
資料を漁ってみた。
まず簡単に横浜公衆便所史から
開港後、欧米人が出会った日本の風習の中で、
庶民が平気でどこでも<立ちション>するという行為には閉口したという。
そこで外国人たちは<公衆便所>の設置を時の行政府に強く要望した。
早速動いたのが横浜町会所、現在の横浜商工会議所だった。
1871年(明治4年)11月に横浜町会所の費用で町内83カ所に小便所を設置。
掲示板を使って設置場所を掲示し
「右之通りに付旅人は別して心得居可申事也」と示した。
この小便所は四斗樽大の桶を地面を掘り下げて埋め込み、板囲いをした程度の簡単なものであったため臭いがきつく外国人にはかなり不評だったようだ。
「主要地区には瓶(かめ)を埋め込み、男女両用に供し、屋形式のやや完全なるものに改造するなど、統廃合の結果、多くは橋詰に設置する事となり、其の数も四十数箇所となった。」
これが写真にある初代横浜駅前広場、大江橋詰に設置された公衆便所ではないか?
<横浜駅前公衆便所>
確証は無いがその他にこの当たりに必要な<建築物>が考えつかない。邏卒所=交番も考えたが、川沿いに建てる必要があるのか?窓がない、川に向かって蓋らしき構造、などなど疑問が残る。
拡大してみると人影が見え”立ちション”に見えないこともない。
写真左側には「大江橋」が架かっている。下流右岸から「大江橋」を見ている。
反対側からの風景でも確認してみたい。
大江橋上流の右岸から「大江橋」を写している。
恐らくこの風景の方が新しいものだろう。電信柱が増えているのが判る。
ちょうど樹木が遮っていて、正確に確認することができないが、角度的には橋詰の<建造物>は無いように見える。
短期間で撤去された可能性もある。

1872年(明治5年)2月17日の横浜毎日新聞には
「仮名垣魯文、立ち小便で科料(とがりょう)とられる。仮名垣魯文、当港へ来たり、本町辺にて風と立小便為し、邏卒に見咎められ、科料申付けられし由、西洋膝栗毛の趣向を一寸実施に見せたるは面白し。」と時の有名人も”立ちション”で捕まったようだ。
(参考資料:荒井保男『日本近代医学の黎明 横浜医療事始め』2011 中央公論新社)
※番外編
偶然の一致?


大江橋近くに2016年までなかなか良いデザインの公衆便所があったが、廃止されてしまった。
位置的にも古地図の位置と合っている(若干大江橋寄りではあるが)!んだけどな。
さらに追いかけてみるか?
第865話 【絵葉書の風景】<開戦前夜の伊勢佐木?>
[横濱名勝]伊勢佐木町通りの夜景
Night view of the Isezaki street,amuzement centre,
..(The famous place of Yokohama)
■撮影場所
横濱最大の繁華街だったイセザキの夜景。
一番手前の伊勢ビルからオデヲンまでがベタに写っている。
カメラの位置は 松屋屋上かと考えたがもう少し手前馬車道入口あたりから
望遠で撮影されたものと思われる。
下の風景、中央奥のビルから撮られたのではないか?
■撮影時期
昭和8年〜10年頃か
時刻は 不明
横浜市が震災復興事業が正式に完了し、伊勢佐木が戦前最も輝いていた時期。
■絵葉書の風景
遠くにオデヲン。さらに奥にはネオンサインで「レートクレーム」がはっきり見える。
「レートクレーム」は東京に本社を置いた平尾賛平商店の看板商品で1954年(昭和29年)に廃業するまで「レート」ブランドで国内を始め、中国大陸でも事業を拡げた。
ちなみに「レート」ブランドの最大ライバルは「クラブ」ブランド。
「東のレート、西のクラブ」と言われ化粧品メーカーの2大ブランドだった。
オデヲンの屋上にはビクターの看板が見える。
この日本ビクター蓄音機株式会社(現在のJVC)は横浜に縁の深い企業だ。
<入口左手>
高級果実万太(MANTAFRUITS)
柳屋小間物店 小間物とキリ
玉木屋洋服店
名物●●→博雅亭(名物 シューマイ)ではないか?
有隣堂では「古本市」が開催されている
かすかに天賞堂
(サロン)店名不明
<入口右手>
伊勢ビルには
大きな地球儀を模した球体に<キネマ石鹸><キネマ黒砂糖石鹸>の看板が見える。
その下には「キリンビアホール」の看板が。
●●新聞→読売新聞か?
美容院
パーマネントウェーブ
フィンガーウェーブ
(都屋)の洋傘
写真部
高島屋●● ストア
戦後横浜駅に進出する前、伊勢佐木に店舗を持っていた。
洋食・すしの看板(三好野食堂か?)
野澤屋百貨店
寿百貨店
ジャズ●●
→オデヲンに近いので 喜楽座か?
といった風景の読取りができたが、詳細判読は難しい。
戦災で多くを失い戦後は長い接収を受け、現在の横浜駅西口開発と共に
イセザキはその中心地としての賑わいを失う。
市電を失った後、イセザキの商店主達が再結集しモール化など新しい商店街づくりに奔走。
現在のイセザキがある。
【横浜の風景】元町百段坂を数えてみた!
あまりに急階段で高かったので<多い>というときにまとめて<百段>と表現することが ママある。





中からわかりやすい一枚を拡大、下から数えてみた。




第859話【絵葉書の風景】観艦式に見る日本の歴史
戦前、海軍の大セレモニー観艦式が20回近く行われました。
今回は観艦式を<横浜絵葉書+資料>で整理し戦前の戦争史を振り返ってみます。
観艦式とは1341年に英国で始まった軍事デモンストレーションで、当時のエドワード3世が英仏戦争の際に指揮を鼓舞するために艦隊出撃の際に観閲したことが始まりです。
明治から昭和にかけて 日本海軍は「観艦式」を計18回実施しています。
この内、横浜で9回(半数)実施されました。
観艦式一覧
当時は第 回という名称では無く多くの場合年号で示しました。
○1868年4月18日(明治元年3月26日)
大阪天保山沖。参加艦艇数7隻
○1890年(明治23年)4月18日
神戸沖。海軍観兵式 参加艦艇数6隻
○1900年(明治33年)4月30日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数19隻
○1903年(明治36年)4月10日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数49隻
■1905年(明治38年)10月23日 横浜沖。凱旋観艦式 (日本海海戦勝利)参加艦艇数168隻
横浜で最初に観艦式が行われたのが日露戦争終結(9月5日)に伴う凱旋観艦式 で「日本海海戦勝利」を祝う形で開催されました。
日露戦争は、第一次世界大戦につながる(近代)総力戦の始まりでした。
日露戦争終結は日本勝利という形でしたが、日露共々厖大な戦費負担と経済疲労に喘いでいて、当時の常識であった<賠償金>を得ることができなかった勝利でした。
国内世論は戦利品のない勝利の不満に沸騰し、暴動が起こり東京で初めて戒厳令(緊急勅令)が出されました。
このような中での戦勝をPRするために「凱旋観艦式」が行なわれました。艦隊の最高責任者(艦隊長官)は東郷平八郎(大将)、英米艦隊も参加しました。
観艦式に参加した艦艇数の多さからも、この観艦式の意味合いがわかります。
○1908年(明治41年)11月18日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数123隻
■1912年(大正元年)11月12日 横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数115隻 航空機2機
7月30日から大正となり初めて行われた観艦式です。ここで航空機が登場します。
○1913年(大正2年)11月10日
横須賀沖。恒例観艦式 参加艦艇数57隻 航空機4機
→1914年6月28日 第一次世界大戦(〜1918年11月11日休戦協定)
1914年8月23日 日本ドイツに宣戦布告
■1915年(大正4年)12月4日
横浜沖。御大礼特別観艦式 (大正天皇即位式)
参加艦艇数 124隻 航空機9機
■1916年(大正5年)10月25日
横浜沖。恒例観艦式 参加艦艇数 84隻 航空機4機
→1918年(大正7年)8月2日 シベリヤ出兵
11月11日第一次世界大戦終結
○1919年(大正8年)7月9日
横須賀沖。御親閲式 (欧州派遣艦隊慰労) 参加艦艇数 26隻
※日本海軍駆逐艦隊が対ドイツ潜水艦のため地中海に派遣された。
1918年12月19日、7隻のドイツ潜水艦が日本海軍第二特務艦隊に引き渡され英米仏が不可能と見ていた日本への曳航に成功し1919年6月18日に横須賀港に到着した。
■1919年(大正8年)10月28日
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数 111隻 航空機12機
→1920年(大正9年)1月10日
日本、国際連盟に正式加入。常任理事国となる。(アメリカ不参加)
4月6日 ハバロフスクで日ソ軍事激突。(〜29日)
■1927年(昭和2年)10月30日
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数 158隻 航空機83機
→1928年(昭和3年) 張作霖爆死事件。
■1928年(昭和3年)12月4日
横浜沖。御大典記念 参加艦艇数 186隻 航空機132機
御大礼特別観艦式 (昭和天皇即位式)※史上最大
○1930年(昭和5年)10月26日
神戸沖。特別大演習観艦式 参加艦艇数164隻 航空機72機
→1931年(昭和6年)9月18日 満州事変勃発
■1933年(昭和8年)8月25日
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数159隻 航空機200機
→3月24日 日本が国際連盟脱退を通告。
→1934年(昭和9年)12月19日 ロンドン軍縮会議決裂。
→1936年(昭和11年)1月15日 ロンドン軍縮会議を脱退。
○1936年(昭和11年)10月29日
神戸沖。特別大演習観艦式 100隻 航空機約100機
→1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件。7月28日支那事変へ。
→1937年(昭和12年)11月6日日独伊の三国防共協定。
→1939年(昭和14年)5月11日ノモハン事件。日ソ軍衝突、日本大敗。
→1939年(昭和14年)9月1日ドイツ軍がポーランド侵攻、第2次世界大戦始まる。
■1940年(昭和15年)10月11日
横浜沖。参加艦艇数 98隻(推定) 航空機527機
紀元(皇紀)二千六百年特別観艦式
【日本海軍最後の観艦式】
■関連ブログ
戦前観艦式資料
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5064
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=315
【横浜側面史】 観艦式
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5286
第857話【絵葉書の風景】謎解き大日本水産会
ここに「大日本水産会創立二十五年紀念」の絵葉書があります。

水産共進会発行
Pablished by the Fishery Exposition in Commemoretion of the twenty-fifth Anniversary of the Japan Fisherv Society.
(※英文には一部誤植がありますがそのまま転記しました)
発行時期:1906年(明治39年)10月ごろ
発行年確定の根拠は後述します。
絵柄:明治15年(設立時)と23年後の明治38年の輸出水産物金額比較
明治15年235万円
明治38年957万円
背景には 海藻と魚がイラストで描かれています。
海産物に占める<昆布類>の割合が大きかったのでしょうか海藻類(昆布とワカメ)中心ですね。
(見本市)
近年、首都圏では幕張メッセ・東京ビッグサイト・パシフィコ横浜が様々な見本市(Trade Show)開催が競われています。
戦後以上に業界Trade Showが全国各地で開催されました。
その名も
博覧会に加えて共進会・五二会(織物・陶器・銅器・漆器・紙の5品目に雑貨と敷物の2品目を加えた製品産物等の品評会)・実業大会 等々。
ちなみに1879年(明治12年)第一回製茶共進会、第一回糸繭共進会が横浜で開催されました。(正確には調べていませんが横浜初の共進会ではないでしょうか)
No.259 9月15日(土)全国お茶の品評会開催
【芋づる横浜物語】縁は異なもの味なもの2
(水産共進会)
共進会は、日本の産業振興を図るため、産物や製品を集めて展覧し、その優劣を品評する会のことで水産共進会は
1882年(明治15年)に設立された「大日本水産会」が主催した共進会です。
この大日本水産会は現在も社団法人として活動を続けています。
http://www.suisankai.or.jp
「大日本水産会は水産業の振興をはかり、経済的、文化的発展を期することを目的として、明治15年(1882年)に設立された、我が国唯一の水産業の総合団体です。」
※水産業に関係する生産者、加工業者、流通業者、小売販売会社など、約400の会員で構成されています。
であれば
創立25年となっているこの絵葉書は明治15年+25年で、明治40年ごろだろう。
明治40年に何か大きな「水産共進会」が開催されてはいないか?
明治40年9月に発行された「大日本水産会報300号」目次に
第2回関西九州府県連合水産共進会とあり、その他の資料からも
「明治40年(1907)、関西・九州の各県を中心に20の府県が参加し、「第二回関西九州府県連合水産共進会」が長崎市で開かれた。」
とありましたから、この創立25年紀念も長崎で行われたのかな?
と推理しました。
どうも腑に落ちない。何か変だと感じ、ここで一旦書くことを休止しました。
理由は、
この絵葉書が入手時<数枚の他の絵葉書>と一緒に袋に入っていたからです。
開港五十年紀念絵葉書2点
東京勧業博覧会
第十回関東区実業大会
そしてこの一枚でした。
この五枚がまとまっているのは偶然か?何かの理由があったのか?
ここで再度、資料を探ってみることにしました。
同封の他の絵葉書に関して調べ始めると
実にお恥ずかしい話、簡単に謎が解けてしまいました。
時系列に並べました。
1906年(明治39年)10月〜
第十回関東区実業大会
1907年3月20日(明治40年)〜
東京勧業博覧会
1909年(明治42年)
開港五十年紀念絵葉書
(同時開催)
第十回関東区実業大会
1906年(明治39年)10月〜
日露戦争が集結した明治38年、国家破産寸前の戦争を米国の仲介で終えた日本は、国民の猛烈な批判を浴びつつも、なんとか勝利宣言し国家財政の立て直しのために産業振興策を打ち始めます。
関東区実業大会は、東京・神奈川・埼玉・群馬・千葉・茨城・栃木・長野の1府7県が参加し、毎年秋に開催され区切りとなる第10回は横浜で開催。
この第十回関東区実業大会と同時開催されたのが
「大日本水産会創立二十五年記念水産共進会」ということが判りこの絵葉書の謎が判明しました。
「大日本水産会」の沿革に記載して欲しい!!
(一連のイベント)
この絵葉書群をいっしょにされていた方は、恐らく数年間の大きなイベントの記憶のために一緒にされていたのかもしれません。この時期は、前述の通り、日露戦争終結後から第一次世界大戦までの戦間期です。
経済も変動が多く、人々の意識もうつろい生活に変化が起こっていきます。
絵葉書の魅力は、統一されたサイズに時代の情報が記載されていることです。
(略年表)
明治15年2月
大日本水産会創立、小松宮彰仁親王を会頭に奉戴。品川弥二郎氏を初代幹事長に選出
明治15年4月
「大日本水産会報告」第1号発刊
明治16年3月
第一回水産博覧会上野で開催
明治19年3月
水産共進会 東京上野公園で開催(第三回?)
明治20年
大日本水産学校 設立(短命)
明治21年
石巻を会場として水産共進会が開かれ、これが起爆剤となって石巻の水産業が発展
明治22年1月
水産伝習所(東京水産大学→東京海洋大学)の開所式を挙行
明治23年7月
水産功績者の第一回表彰を行う、戦後数年を除き毎年実施
明治25年8月
大日本水産会報告を「大日本水産会報」と改題
明治28年1月
本会幹事長が帝国議会に漁業法案を提出、本法案が漁業諸法制制定の端緒になる
明治30年
水産伝習所、農商務省の水産講習所に組織変更
明治30年3月
遠洋漁業奨励法制定
明治34年4月
漁業法公布
明治36年
神奈川県水産共進会
明治37年2月
対露宣戦布告
明治39年10月14日
第10 回関東区実業大会(から16日)※毎年秋に開催
会議に合わせて大日本水産会の創立25年記念水産共進会と、
横浜港輸出品の改良発展をはかる目的で横浜輸出品品評会が開かれた。
明治39年11月
大日本水産会創立25年記念水産共進会審査報告
明治40年
水産共進会三重県 津で開催
明治40年12月3日
水産共進会本県受賞者 一等古賀辰四郎他
明治40年9月
第2回関西九州府県連合水産共進会(塩)大日本水産会報300号(明治40.9)
明治41年
第二回関西九州府県連合水産共進会
明治42年5月
社団法人許可、漁業模範船「水産丸」を7月に進水
明治44年4月
農商務省設置
大正5年5月
「水産宝典」発行 大日本水産会報を11月に「水産界」と改題
大正12年3月
中央卸売市場法公布
大正12年9月
関東大震災
大正12年10月
朝鮮水産共進会。10月10日から31日にかけて開催。
朝鮮水産共進會総裁 有吉忠一※ 朝鮮政務総監(〜大正13年)
朝鮮水産共進會長 和田純 慶尚南道知事
朝鮮水産共進會協賛會会長 香椎源太郎
朝鮮水産共進會事務総長 小西恭介
朝鮮水産会長 西村保吉
※大正14年、第10代横浜市長に就任、復興事業を推進。
大正15年1月
石垣産業奨励会(現農林水産奨励会)を設立
昭和7年5月
「日本水産動植物図集」完成
昭和7年10月
全国漁業組合大会の開催、漁業法改正、重油対策等を検討
昭和8年5月
「水産デー」を設定、毎年行事を開催
昭和8年12月
東京中央卸売市場竣工
昭和16年12月
対米英宣戦布告
昭和20年5月
三会堂ビル戦災により焼失
昭和20年8月
終戦
昭和20年9月
トルーマン宣言(大陸棚地下資源等)
昭和22年7月
水産振興会議を設置し水産庁の設置、資材確保、金融問題等検討を行う
昭和23年7月
水産庁発足
昭和24年12月
新漁業法制定
昭和26年10月
戦後最初の全国水産大会の開催
以下省略
第856話 【絵葉書の風景】<ある日の弁天橋>
1000話まで残り144話となりました。ここから少しスピードアップして950話まで飛ばします。ゴール50話はじっくり振り返ってみたいと思っています。
大岡川河口近くに架かる弁天橋はブログでも複数取り上げています。
今日は、横浜絵葉書を含め<弁天橋の風景>を紹介します。
<弁天橋>の名は開港時に横浜村弁天社があったことに由来します。
かながわの橋100選では
「桜木町の“玄関の橋”として親しまれ、橋の親柱の意匠に人気がある。現在の橋は昭和51年の竣工で、橋長54mの鋼鈑桁橋。床組は鋼床版である。弁天橋が初めて架けられたのは明治4年で、横浜から新橋間に汽車が開通する1年前であった。当時の横浜駅は今の桜木町駅で、当時の弁天橋はまさに横浜の玄関というべき橋であった。」
【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7201
【横浜橋物語】弁天橋(横浜市中区)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5832
第849話 横浜・新橋、横浜が先?
日本鉄道事始め、この辺に詳しい方には当たり前のことですが
日本最初の駅「横浜」「新橋」は全く同じファサード(顔)を持っていました。


設計は共にアメリカ人建築家リチャード・ブリジェンス、設計者が同じなんだから同じでもおかしく無いけれども、普通<格>をつけてしまうのが近代日本の定番。ところが「横浜」「新橋」は本当にうりふたつ。
横浜駅には<噴水><ガス灯>が写っています。
鉄道の歴史をざくっと
1872年6月12日(明治5年(旧暦)5月7日)
「横浜」「品川」間の鉄道路線が開通し、横浜駅(初代)が開業。
品川駅は「木造平屋2棟、現在の位置よりやや横浜方、海に面したのどかな駅」だったそうです。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/Shinagawa_Station_in_early_Meiji_era.jpg
1872年10月14日(明治5年9月12日)
四ヶ月後に「横浜駅」と「新橋駅」が開業。初日は式典と明治天皇御座乗特別列車の運行のみで営業は翌日からなので営業は1872年10月15日ってことです。
この間を<仮営業>と呼んでいますが、個人的には前述の1872年6月12日からしっかり<営業>しているのでこの日を鉄道の発祥の日にして欲しいところです。
さらに!さらに ここがポイント!
手元の資料だけですが
リチャード・ブリジェンス設計の「横浜駅舎」「新橋駅舎」
1872年6月12日開業が「横浜駅舎」
1872年10月14日開業が「新橋駅舎」
ってことは リチャード・ブリジェンス設計の横浜駅は新橋(汐留)より古い、最初ってことですね。
まあ どうでもいいことですが この辺はっきりしておきたいところです。

第847話 1945年(昭和20年)7月13日「海芝浦駅」空爆
1945年(昭和20年)7月13日、
戦争も末期となったこの日
連日実施されていた米軍による空襲が鶴見エリアにも行われました。
京浜運河に沿った工場群が目標となり東芝鶴見工場も被曝します。
「土砂降りの雨の中を午前零時ごろから二時ごろまで、川崎市を主目標とした
B29五十機が、高度二千メートル以下の低空で侵入、鶴見区内でも百発以上の爆弾を投下、岸谷では五十余名の死傷者を出し、安善の日本石油が全焼、東京ガスのタンクにも直撃弾、末広町の旭硝子、日本鋼管が損害を受け、鶴見発電所も被害があった。生麦・潮田・旭町の爆弾の穴は直径二十メートルもあり、人々を恐怖に陥れた。(鶴見区史)」
この時、東芝鶴見工場の一角には捕虜収容所の東京第14分所(旧第11派遣所)がありました。空襲によって宿舎が直撃を受け捕虜が28人死亡、16人負傷、負傷者の2人は後日死亡します。
「国内の捕虜収容所の組織はたびたび改編され、大戦期間中に開設された本所・分所・派遣所・分遣所などは約130ケ所に及ぶ。その一方、途中で閉鎖されるものもあり、終戦時においては7ヶ所の本所の傘下に、分所81ケ所、分遣所3ケ所があり、合計32,418人の捕虜が収容されていた。そして、終戦までに約3,500人が死亡している。(笹本妙子)」
(その後)
東芝工場内の収容所が空襲によって破壊された後、ここに収容されていた捕虜たちは鶴見区末広町1ー12ー4にあった第3派遣所に数日滞在し、その後<総持寺>前の施設に移され終戦を迎えます。
GHQはここでの30人の捕虜の死亡に対し、
軍当局が収容所を工場地帯に残すことを許した結果と判断します。ただ、ここに捕虜収容所があったことを米軍も認識しており、低空投下でも誤爆の可能性も高かった悲劇といえるでしょう。ここに労働力を確保するために捕虜収容所を設けた<日本>と無差別に近い爆撃を行った<米国>共に、戦争末期のヒステリックな措置であったことは間違いありません。 ◆横浜市内の捕虜収容所
東芝鶴見
日清製粉鶴見航空機
日本鋼管鶴見造船
大阪造船鶴見
日本鋼管鶴見造船
日本鋼管浅野ドック横浜
日清製油横浜
三菱造船横浜
横浜船舶荷役
横浜対価レンガ
(大船海軍)他
上記のように、工場の集中していた鶴見エリアは捕虜収容所も集中していました。隣接する川崎を合わせると15か所にも及ぶ捕虜施設が設置されました。
(出口のない改札)
横浜市内にある鉄道の<駅>の中で、マニアに人気の不思議な駅があります。
ここに紹介した東芝鶴見工場のある鶴見線海芝浦駅(うみしばうらえき)です。
1940年(昭和15年)11月1日に開設した「海芝浦駅」は一般乗客が改札を出ることができません。駅構内の敷地を含め、隣接する東芝京浜事業所の敷地内にあり改札は東芝関係者しか利用できないからです。
ただ
ここには、「海芝浦駅」に隣接して一般開放された「海芝公園」が設置されています。公園管理運営は東芝京浜事業所が行っています。開園時間は9時〜20時30分で、一度駅を(改札とは別)出て、園内に入るようになっています。
(過去の7月13日ブログ)
No.195 7月13日(金)BRAVE HEARTS
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海上保安官の「仙崎大輔」を主人公にした超人気漫画「海猿」の映画第4作が 2012年7月13日(金)の今日、ロードショー公開されました。
第842話 毎年7月7日は「川の日」
毎年7月7日は「川の日」です。
国土交通省「川の日」
私も横浜に関係するブログを3年書く中で、<川>の重要性に気が付きました。
横浜にとって<川>は欠かせません。
特に横浜は<結晶>が作られていくように、1859年に誕生した<開港場>を核とし、川を軸に大きくなった街です。
(ダブルリバー)
横浜は<大岡川>と<帷子川>よって基盤が出来上がりました。
【横浜の視点】ダブルリバー
さらに市域拡大の過程で鶴見川と多摩川の存在も横浜市の形成に欠かせません。現在相模川(寒川)から横浜に欠かせない水も運んでいます。
川から見た横浜形成史を考えてみるのは大変面白いテーマです。
開港場を包みこむ<大岡川>も横浜駅を回り込む<帷子川>もダブルリバーです。

都市、そして港に川は必要ですが<治水>も必要でした。大岡川河口域に形成された開港場最初の治水工事が<堀川工事>です。堀川は開港場の出島化という役割もありましたが、一方で吉田新田によってできた中村川の分水路の役割も担っていました。
明治に入り、<堀割川工事>が始まります。
「水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため」だけではなく“大岡川の分流”も必要となっていたからではないでしょうか。
吉田新田を<田畑>から居住地にしていくにはしっかりとした治水工事が必要になります。掘割川と吉田新田のなかに整備された<運河>により横浜の関内外が発展できますが 治水の悩みはその後も長く続きました。
ただ、上流では利水源として活用されていた<水>が都市化によって水はストレートに川へ注ぎ込み邪魔になってきます。
終戦直後、62万人だった人口が7年(1952年)で100万人、1968年には200万人を突破、谷戸の多い横浜で宅地は河川域から丘陵地に拡大していきます。
そこで抜本的な治水工事が求められ、
「大岡川分水路」計画が立てられました。
関内外の治水に莫大な予算とエネルギーがかかっていることを少なくとも<下流域>の人々は知っておく必要があるでしょう。
<横浜の水系>
横浜は4つの大きな水系によって形成されています。
■鶴見川
(入江川・滝ノ川)
■帷子川
■大岡川
■柏尾川・和泉川(境川水系)
(侍従川・宮川)
それぞれに個性豊かな川です。川と人が分離してしまいました。距離は益々開いています。小さな川は<蓋>をして暗渠化して見えなくなっています。
今日、川の日 近くにある<ドブ川?>のふるさととこの先の<河口域>そして海に関心を持つ一日にしてみてはいかがでしょうか?
No.701 運河の街誕生(序章)
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No.700 【横浜の河川】川いろはのイ
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No.435 【横浜の河川】大岡川物語(1)
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No.192 7月10日(火)【横浜の河川】もう一つの大岡川
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(絵葉書に見る昔の川の風景)
戦前の横浜市内の川の風景
(過去の7月7日ブログ)
No.189 7月7日(日) ぼくは日本人を信じます
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歴代43人目の内閣総理大臣「大平正芳」は、
1937年(昭和12年)7月1日(木)横浜税務署長の辞令を受け、
7月7日(水)横浜市に赴任しました。