ホーム » 横浜絵葉書 (ページ 9)
「横浜絵葉書」カテゴリーアーカイブ
第836話 7月1日(木)開港記念日
1859年7月1日は横浜が開港した日です。
50周年(半世紀)の開港記念式典も
1909年(明治42年)7月1日(木)に開催されました。
このブログでも開港記念日を巡るエピソードを紹介しました。
No.183 7月1日(日) 7月のハマ?
それが
6月2日に変更され現在に至っています。
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更
この開港記念式典に合わせて、彦根藩OBや関係者が<井伊直弼像>を建立しようと企画します。ところが、そもそも明治の政権を担っていた薩長のメンバーが<安政の大獄>で多くの先輩を失った恨み?で
井伊直弼を開港の祝いに加えたくない!開港式典から排除されます。
それでも井伊直弼<顕彰像>を建てたいメンバーは諦めることなく数日ずらして現在の<掃部山>に銅像を建てます。
横浜の商業会議所(後の商工会議所)発行の開港50周年記念の絵葉書にはしっかり井伊直弼像がペリーと一緒に描かれていますから、横浜商工会議所は薩長土肥出身者とは一線を画していたのかもしれません。
※「横浜開港50年史」上下2巻は
近代デジタルライブラリーでダウンロードできます。
http://kindai.ndl.go.jp
第835話 1875年(明治8年)6月29日小学校と呼ぶ
1875年(明治8年)の今日6月29日
「学舎の名を<学校>と改称(横浜歴史年表)」
横浜の小学校は制度として1872年(明治5年)から寺院等を使って始まりました。それ以前に江戸時代からの<寺子屋>として地域の教育機関だったものもあります。新学制が導入され小<学舎>と呼ばれてその後1875年(明治8年)の今日、小学校と呼ばれるようになりました。
上記の(横浜歴史年表)表記によると
壮行学舎→横浜学校<注1>
存心学舎→吉田学校
立志学舎→太田学校
養賢学舎→石川学校
三到学舎→元街学校
就蘭学舎→北方学校
洗心学舎→本牧学校
主敬学舎→根岸学校※
(正)※志敬学舎→根岸学校
真照学舎→磯子学校
弘照学舎→鶴見学校※
(正)※弘明塾→鶴見学校
と紹介されていますが、調べていくと誤記(文字変換誤作動)等があり整理に手間取りました。一部確認できたものを修正しました。
明治期にかなりの小学校が地域に設立されています。日本の近代化を支えた柱の一つです。
<注1>横浜小学校
https://ja.wikipedia.org/wiki/横浜小学校
(明治前期創設の小学校)
明治前期に<現横浜市域>に設立され現在もある小学校リストを一覧化してみました。(廃校は略しています)
※印は創設時の<学舎>
1872年(明治5年)
山下小学校 北八朔町1865-3※中村学舎
石川小学校 中村町1-66※養賢学舎
豊岡小学校 豊岡町27-1※弘明塾
1873年(明治6年)
子安小学校 新子安一丁目24-1※子安学舎
都岡小学校 都岡町4-8※今宿学舎・川井学舎
北方小学校 諏訪町29※就蘭学舎
鉄小学校 鉄町427※鉄学舎
星川小学校 星川三丁目18-1
元街小学校 山手町36※三到学舎
末吉小学校 上末吉一丁目9-1※末吉学舎
谷本小学校 藤が丘一丁目55-10※谷本学舎
保土ケ谷小学校 神戸町129-4※程谷学舎
磯子小学校 久木町11-1※真照学舎
杉田小学校 杉田一丁目8-1※森田学舎→森中原学校
根岸小学校 西町2-46※志敬学舎
金沢小学校 町屋町26-26※知足学舎・柴村小学舎・野島学校
釜利谷小学校 釜利谷東六丁目37-1※赤井学舎(万蔵院)
六浦小学校 六浦三丁目11-1※三分学舎(光伝寺)
大綱小学校 大倉山4丁目2-1※地域の四学舎(大乗寺・東照寺・本乗寺・観音寺)
日野小学校 日野七丁目11-1※日野学舎
田奈小学校 田奈町51-13※??
富岡小学校 富岡西七丁目13-1※富岡学舎
日吉台小学校 日吉本町一丁目34-21※清林学舎
長津田小学校 長津田町2330※壮行学舎
戸塚小学校 戸塚町132※富塚学舎
市場小学校 元宮一丁目13-1※真明学舎
潮田小学校 向井町三丁目82-1※潮田学舎
山内小学校 新石川一丁目20-1※荏田学舎
青木小学校 桐畑17※青木学舎
市沢小学校 市沢町781※市野澤学舎
二俣川小学校 二俣川1-33※宮沢学舎
石川小学校 中村町1-66※養賢学舎
大岡小学校 大橋町3-49※大岡学舎
太田小学校 三春台42※立志学舎
日下小学校 笹下3丁目9−1※笹下東樹学舎
1874年(明治7年)
高田小学校 高田町1774※高田学舎
中川小学校 牛久保東二丁目21-1※大棚学舎
鴨居小学校 鴨居四丁目7-15※ 鴨居学舎
桜岡小学校 大久保1丁目6−43※最岡学舎
1875年(明治8年)
川島小学校 川島町1162※川島学舎
神奈川小学校 東神奈川二丁目35-1※神奈川学舎
1876年(明治9年)
千秀小学校 田谷町1832
1879年(明治12年)
戸部小学校 伊勢町2-115※戸部学舎
1880年(明治13年)
今井小学校 今井町981-1(3月25日)
白根小学校 中白根一丁目9-1(7月5日)※今宿学舎(本立寺)より分校
1889年(明治22年)
新治小学校 新治町768※久保学舎より分校
1890年(明治23年)
瀬谷小学校 相沢四丁目1-1(11月15日)※ 瀬谷学舎・二つ橋学舎・若宮学舎・新道学舎・阿久和学舎などが統合?
1892年(明治25年)
豊田小学校 長沼町125-4(5月1日)※龍臥学舎(明治5年2月)
中和田小学校 和泉町3721(5月17日)※岡津学舎
中山小学校 中山町925(9月1日)※移転し「森の台小学校」中山第二小学校が「中山小学校」に※中山学舎
川上小学校 秋葉町203-2(10月1日)
本郷小学校 中野町16-1(10月5日)
永野小学校 上永谷二丁目21-10(11月3日)※棲心庵学舎(明治5年)
このように、明治前期に地域の学校が多く設立されます。
学校の敷地は地元の協力で(寺社、私有地等)を寄付し開校された学校が多かったようです。
※各小学校・区役所の資料から表記を整理したものです。表記以外に<学舎>として歴史があるものも散見されます。
(その他の6月29日ブログ)
No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=427
1959年(昭和34年)6月29日(月)の今日、米軍に接収されていた山下公園が“一部解除”されたことを祝う式典が行われました。
この接収時期の山下公園風景が絵葉書にされています。
制作当時、この風景が未来永劫?続くと思ったのでしょうか?
それとも、貴重な風景ととらえたのでしょうか?
14年に渡る接収は当時の横浜中心部接収事情からはかなり長い接収期間といえるでしょう。
第827話 1876年(明治9年)6月21日張り棹禁止
1876年(明治9年)の今日
前に紹介しました神奈川県史料によると
沿海各区と正副区戸長に対し
「第三十
船乗渡世之者張り棹禁止之事」と題した禁止令を出しています。
船乗を仕事としている者、張り棹を使って石垣の透間へ棹を差し込み
船を繋ぎ碇泊したり
あるいは潮の満ち干を待つなどするものがいるが
これは石垣損傷の原因となるのでこれからは行ってはいけない
指定地域での船待、船宿および船乗乗などに
もれなく伝える!
って感じですかね。
内容は河川の石垣損傷の原因となるので棹をむやみやたらに隙間に挿すな!!という内容です。
昔の船の風景を追いかけてみます。
小舟による水運が盛んな明治から大正にかけて、堀に係留する際<棹>は重要な役割を果たしました。棹を石垣の隙間に挿すな!と言われた船乗りたちは どうしたのでしょうか?
※ついでに第三十一号禁令では
早染めあるいは染め粉という理由で有毒の薬品を使うのは禁止する!
という行政命令も出ています。
横浜は輸出用の<染物>捺染の工場が集中した地域でもありますから、違法行為も多く出てきたのでしょう。
(過去の6月21日ブログ)
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=435
1964年(昭和39年)6月21日(日)の今日、
横浜市神奈川区にある三ツ沢公園(みつざわこうえん)で、
この年の10月10日開催予定の「第18回夏季東京オリンピック」に向けた横浜フェスティバルが開催され約45,000人が参加しました。
第818話【横浜2345】大横浜の時代
今日は2016年6月1日です。
明日は「開港祭」ですね。だからというわけではありませんが
【横浜2345】シリーズ 「大横浜の時代」を紹介します。
開港記念日が7月から6月にが変わったということを知らない方も意外に多いのでは?
開港記念日は昭和3年から6月2日となりました。
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更
この開港記念日を変える動議を提出した人物が当時の市長<有吉忠一>でした。彼は当時も大物市長と呼ばれた政財界に通じた辣腕行政マンだったそうです。
有吉市長は小さな<横浜>を<大横浜>に仕上げた立役者でした。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?(加筆)
上記のブログに少し加筆します。
1927年(昭和2年)4月1日から
横浜市は3回目の市域拡張を行います。
「橘樹郡鶴見町」「旭村」「大綱村」「城郷村」「保土ヶ谷町」
「都筑郡西谷村」
「久良岐郡大岡村」「日下村」「屏風浦村」が
横浜市に編入されました。
この市域拡大は 第一回・二回と比べると大規模な市域拡大となります。実はこの<大横浜>計画は大正時代震災前に計画されていいました。
同時期 横浜に限らず
大東京・大大阪計画が推進されていました。
政治学者で歴史家でもある原武史は 民都「大阪」帝都「東京」と定義し
歴史学者 石井孝は「港都 横浜」と称しましたが
まさに<大都市構想>はこの三都によって推進されていきます。
大東京計画を強く推進した政治家が後藤新平(ごとう しんぺい 安政4年6月4日(1857年7月24日)〜1929年(昭和4年)4月13日)そして民間は横浜の基盤作りにも尽力した浅野総一郎(あさの そういちろう 1848年4月13日(嘉永元年3月10日)〜1930年(昭和5年)11月9日)でした。
一方、私鉄網が全国で最も濃密に発展した大阪は 関一(せきはじめ1873年(明治6年)9月26日〜1935年(昭和10年)1月26日)が推進し、

民間は小林 一三(こばやし いちぞう1873年(明治6年)1月3日〜1957年(昭和32年)1月25日)です。
※震災後日本最大都市となった大阪(市民)は<大大阪>とは自らあまり名乗らなかった?!
では大横浜を推進した政治家は前述の有吉忠一ですが民間は?
大正後期に商工会議所を率いた井坂孝(いさか たかし(明治2年12月8日)1870年〜1949年(昭和24年)6月19日)か、有吉を市長に担ぎ出した一人、中村房次郎(なかむらふさじろう)でしょう。
井坂孝は有吉と震災復興に尽力し「ホテルニューグランド」設立の中心的役割を果たしました。
横浜火災保険、横浜興信銀行(現横浜銀行)、東京瓦斯等の社長として活躍した「井坂孝」
横浜製糖、松尾鉱業(硫黄)、日本カーボン等の工業を推進した「中村房次郎」らの下支えで<大横浜計画>は進められましたが、震災復興予算の大削減や大東京(帝都)との開港問題で中々計画通りには推進できませんでした。
横浜市を振り返る中で、都市として最も輝いていた時代は?と考えると
復興を目指しながら大横浜を目指した1923年から戦争の始まる1940年頃ではないでしょうか。
■6月1日に関するブログ
No.153 6月1日(金) 天才と秀才
1889年(明治22年)6月1日、25歳だった二人の俊才がフェリス女学校の大講堂で演説を行いました。
明治期のフェリス女学院のエネルギーを伝える若松賤子(島田かし子)と同じく中島湘烟(岸田俊子)の短くも激しい人生を追います。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=46
【芋づる横浜】輿地誌略(後編)
幕末から明治に至る開国直後の日本は劇的な変化が起こります。幕末の幕府、明治以降の政府関係者はもちろん、多くの人々が外国の情報を広く求めました。「輿地誌略」もまた、当時の国民の知的欲求やニーズに見事応えた内容でした。
【芋づる横浜】輿地誌略(前編)
(洋才の時代)
19世紀後半、欧州は産業革命後の技術革新の荒波に大きく揺れます。産業革命にによる技術革新の国威発揚が各国の「万国博」でした。国威発揚の現場に遭遇した最初の政府使節団は
1862年(文久二年)遣欧使節団が現地で(第二回)ロンドン万博に出会ったことに始まります。
引き続き
1867年(慶応三年)の(第二回)パリ万博開催に際し日本も早速参加表明します。ただ、徳川幕府・薩摩藩・佐賀藩はそれぞれ別々に参加することになりました。幕府の弱体化・瓦解寸前の万博参加でした。
日本使節団が万国博にで会う直前、後に「輿地誌略」を編纂した内田恒次郎が15人の留学生と共にオランダに向かいました。幕府海軍の軍艦「開陽丸」を回航するためでした。途中の1862年(文久2年)9月11日でトラブルに遭いますが無事1863年(文久3年)4月にオランダに到着します。
15人の留学生は以下の通りです。
榎本釜次郎(榎本武揚)、澤太郎左衛門、赤松大三郎、田口俊平、津田真一郎、西周助(西周)、古川庄八、山下岩吉、中島兼吉、大野弥三郎、上田寅吉、林研海、大川喜太郎(現地で病死)そして伊東玄伯らです。明治以降要人として活躍した人物も多く含まれています。
この中であまり知られていないエピソードを紹介しておきましょう。
日本人で最初に欧州で電信を利用したと言われているのが医師として留学していた医師「伊東玄伯」でした。1867年(慶応三年)10月17日に留学生仲間の「赤松則良」の処へ「明日お訪ねするするからお待ち下され」という内容の電信をオランダ語で送っています。
この電信技術も、二年後の明治二年にイギリスから通信技師を招いて、横浜燈台役所と横浜裁判所に日本で初めての電信回線を開通させました。<ちょっと横浜に関係しました>
幕府がオランダに発注した軍艦「開陽丸」が現地で進水したのが1865年(慶応元年)9月14日
全ての艤装が完了した1866年(慶応2年)10月25日にオランダを出港し日本(横浜)に向かいます。
この三年半のオランダ留学中に、メンバーの中で身分も高かったリーダー格の内田恒次郎は前編でも紹介したように、様々な欧州の基礎資料を収集し持ち帰ります。また、同時期にフランスやイギリスにも入国し、パリ万博参加の幕府側出品交渉役や<横浜鎖港談判使節団(完全に失敗)>の現地調整役も担い国際舞台で大活躍します。
※横浜鎖港談判使節団は池田使節団とも呼ばれ、スフインクスで写真を撮ったことでも有名。
オランダより軍艦「開陽丸」に乗り母国に戻り地位も軍艦頭にまで昇進しますが、幕府は消滅寸前でした。幕府が瓦解し明治政府となった時点で、幕府の役人だった立場に<こだわり>内田恒次郎は全ての職を辞め名前を内田正雄と改名します。
維新後、政府から彼の得た知識を活かすよう「大学南校」に勤めることを勧められます。「大学南校」は当時<洋学教育>を中心に人材育成する機関で、彼はここで知見を活かし『輿地誌略』他多数の教科書となる書籍を著します。
1873年(明治六年)墺国(ウィーン)博覧会に日本が参加する際事務局へ出向し博物局長で東京国立博物館の初代館長となった町田久成をサポートし美術品の鑑定に関わります(日本初の文化財調査とされる壬申検査)。
この時の記録係の一人が油絵画家の高橋由一です。1873年(明治六年)墺国(ウィーン)博覧会に深く関わる<横浜ブランド>があります。現在も横浜を代表するシルクスカーフのパイオニア椎野正兵衛です。
『当時の日本では、「博覧会」という概念そのものが、一般には知られていなかったらしい。参加者を募っても意義が理解されず、政府は大変な苦労したことが、澳国博覧会事務局が残した刊行物に詳しい。事務局では道具の目利きなどを各地に派遣し、海外に披露するに足る特産品や工芸品、美術品を収集、購入した。
美術品と書いたが、明治初期の人が考える「美術品」とは、現代の人が考える「芸術作品」とは様子が大分違っている。工房や商店の製造した実用品であっても、美的な装飾や価値の高いものは「美術品」に括られた。作家が製作し署名したものが美術品とは限らないので注意が必要だ。
椎野正兵衛は、この渡欧使節団に選ばれ、弟の賢三を伴い19世紀のヨーロッパを目の当たりにした。正兵衛34歳、賢三は、若干23歳だ。』(日本初の洋装絹織物ブランド S.SHOBEY より)
まさに事務局で全国の<美術品>を探していたのが内田正雄でしたので、両者に接点があった可能性が高いと推理できます。
(博覧会の時代)
明治初期、日本政府は全国で博覧会を実施し、多くの人々に<文明開化>のインパクトを与えました。
1871年(明治四年)から1876年(明治九年)までの六年間で府県主催による博覧会は32回も開催されます。
1871年(明治四年)5月には西洋医学所薬草園にて大学南校主催「物産会(博覧会)」開催。10月京都博覧会(京都博覧会社主催)
1872年、3月湯島聖堂にて「勧業博覧会」を開催。
東京をはじめ、京都・和歌山・徳島・名古屋・金 沢・木曽福島・大宰府など全国各地で様々なテーマで展開しました。
第一回内国勧業博覧会
1877年(明治十年)8月〜東京・上野公園454,168人
第二回内国勧業博覧会
1881年(明治十四年)3月〜東京・上野公園823,094人
第三回内国勧業博覧会
1890年(明治二十三年)4月〜東京・上野公園1,023,693人
第四回内国勧業博覧会
1895年(明治二十八年)4月〜京都・岡崎公園1,136,695人
第五回内国勧業博覧会
1903年(明治三十六年)4月〜大阪・天王寺今宮4,350,693人
東京大正博覧会
1914年(大正三年)3月〜東京・上野公園7,463,400人
平和記念東京博覧会
1922年(大正十一年)3月〜東京・上野公園11,032,584人
万博に関する「横浜ブログ」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=345
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5810
大正・昭和を経て現在まで
博覧会開催熱は冷めていませんが、国民の関心はどうでしょうか?
【横浜の橋】No.12 万国橋(新港埠頭)
橋のデザインには個性がある。構造上の課題をクリアすれば橋のデザインは多くの場合設計者に委ねられる。
幕末から大正にかけて、横浜にも多くの橋が架けられた。居留地と外を結ぶ「吉田橋」のエピソードは有名。
この時代で<最も>派手な橋はどれか?
文句なく『万国橋』だろう。現在の橋は1940年(昭和15年)11月に完成した二代目の地味なアーチ橋だが、当時は、上物が凄かった。
ちょっと笑ってしまいそうな上物でもある。税関=大蔵省の威光を示す目的もあったのだろう。
まずは百聞は一見なので当時の絵葉書を何点か紹介する。
開港50年祭の際に鉄骨アーチを覆うように<城櫓>のハリボテを組み立てたもの
『万国橋』は1904年(明治37年)に税関埠頭(現在の新港埠頭)と関内を結ぶために架設されたアーチ型鋼橋(トラス橋)だった。大さん橋を含め横浜港築港計画で設計された時には唯一の橋だった。
全長は36.6メートルで幅が15.9メートルあり、関東大震災でも耐え震災後もすぐに使用できた優れもの。
完成後、鉄道を埠頭内に引き込むために<汽車道>が作られ、税関本館脇から「新港橋」が架けられ、1994年(平成5年)みなとみらいエリアの開発に伴い「国際橋」ができるまで汽車道を除きこの二つの橋しか無かった。
万国橋は関内の中の<関内>、居留地時代の吉田橋みたいな役割を担っていた。移民船も大さん橋だけではなく新港埠頭から多くの人々が旅立ったに違いない。
現在は<みなとみらい>エリアを撮影するベストポイントにもなっている。
【横浜の橋】№10 残った紅葉橋(陸橋)
横浜に初めて鉄道を敷設する際、野毛浦・伊勢山・鉄道山沖の海辺を埋立て鉄道用地を確保する。その際に埋立地と陸部の狭間に排水路(運河)を作った。
最初は「桜木川」と呼ばれ、後には「桜川」と呼ばれた。
明治に誕生した「桜川」は次第にその役割を終え、水量の少ないドブ川に変身、昭和20年代には空堀となりそこに戦後の闇市が建ち並び立ち退き訴訟にまでなった。
その後「桜川新道」(新横浜通り)が誕生し橋は無くなることになる。大岡川と石崎川(帷子川)を繋ぐ桜川に架かっていた橋の数は少し変わるが、
「錦橋」「緑橋」「瓦斯橋」「紅葉橋」「雪見橋」「花咲橋」「戸部橋」「桜橋」と八つありその中で市電の停留所だった「雪見橋」「花咲橋」が現在もバス停として残っている。そして唯一残った橋が紅葉坂と桜木町・内田町を繋ぐ<紅葉橋>である。まさに過去と(みなと)みらいを繋ぐ橋だ。
「紅葉橋」
この橋は、坂の橋である。橋が急傾斜しているのだ。傾斜角度を測ったことは無いが、自転車での登攀は電動でない限りかなり厳しい。降雪時は徒歩でも危険な傾斜角である。
急な紅葉坂を下った先に「紅葉橋」が架かっているのだが、坂の下が出っ張った崖っぷちになっているために、坂の橋で繋ぐしか無かったのだろう。
もう一つの特徴は上下線が分かれている双橋であることだ。<赤い線が丘稜線>
実は、この紅葉橋は、乱暴な表現だが「架け足し」た橋である。拡張ではなく、旧橋の横に新橋を加え、上下分離線となっている。
手元の神奈川県資料によると
1982年に旧紅葉坂(幅員9m)が架け替えられ現在に至っていて
2001年に新紅葉坂(幅員6m)が横に架けられている。ただ 見る限り共に2000年の工事で取り替えらたような仕立てなので旧紅葉坂はリフォームされているのだろう。
上の写真と比べるとJR高架橋下の道路が拡張されていることは判る。
<1990年ごろの紅葉坂・紅葉橋>
このあたりは歴史の<ネタ>が満載。
キーワードだけも紹介しておこう。
近代日本で最初に国賓が泊まった横浜離宮・鉄道山・高島嘉右衛門・井伊直弼・伊勢山皇大神宮・ユースホステル・税関宿舎(大平正芳、福田赳夫)・前川國男・金星・神奈川奉行所・米軍倶楽部
2014年(平成26年)7月1日に北改札が完成したことで大きく人の流れも変わりつつある。 まもなく旧東横線高架橋の遊歩道も出来上がるとこの橋を上から眺めることができるだろう。
散策におすすめのエリアだ。
追々これらのテーマも紹介していきたい。
【横浜オリジナル】カクテル・ミリオンダラー
横浜グランドホテル支配人、ルイス・エッピンガーは二つの横浜カクテルを発案したことでその名を今に残している。
その名はバンブーとミリオンダラー。
標準的なレシピは
(バンブー)
ドライ・シェリー : ドライ・ベルモット = 2:1
オレンジ・ビターズ = 1dash
(ミリオンダラー)
ドライ・ジン:40ml
パイナップルジュース:15ml
スイート・ベルモット(ドライ・ベルモット):10ml
レモンジュース:10ml
グレナデン・シロップ:1tsp
卵白:1/2個
<スライスしたパイナップルを飾る>
※ベルモット:フレーバードワイン
イタリア発祥のスイート・ベルモット
フランス発祥のドライ・ベルモットとがある。
【レシピ2】
ビーフィータージン:45ml
チンザノベルモット ロッソ:15ml
パイナップルジュース:15ml
グレナデンシロップ:1tsp
卵白:1個分
バンブーに関しては、当時ニューヨークで大ヒットした「アドニス」をエッピンガーがアレンジした<姉妹カクテル>だ。 このバンブー誕生に関しては推論だけ簡単に記しておく。
カクテルうんちく界では 日本らしさを表すために<バンブー=竹>としたとある。
私は<竹>そのものの話題性に着目した。
同時期 <発明王エジソンが電球フィラメントに日本の竹を短期間だが使用した>背景があるからではないか?
と推理している。
また竹の物語とアドニスの物語にも一捻りありそうだとも考えている。
さて本日の主題、ミリオンダラー
ルイス・エッピンガーはミリオンダラーレシピをどのような背景でイメージしたのか?
ジンとベルモットが基本になっているので<マティーニ>のアレンジカクテルと言っても良いかもしれない。
ミリオンダラー最大の特徴は パイナップル及びパイナップルジュースだ。
このパイナップルはアメリカの誕生期に重要な意味を持っていたフルーツである。
「植民地時代のアメリカではパイナップルはとても珍しい果物だったため、特別なお客様のいるテーブルに置くのは最上級のおもてなし」というエピソードも残っている。このスタイルはその後のゴールドラッシュに酔った49年組(フォーティナイナーズ)によって開拓された<西海岸>のホテルでもおもてなしのシンボルとしてパイナップルが使われたに違いない!この時エッピンガーは18歳だった。彼がどのような仕事に就いていたかどうか不明だが、ドイツ系アメリカ人だった彼らの多くは<金鉱探し>のバックヤードで雑貨商や食品、酒の販売を営んだ。ドイツ系移民の一人リーバイ・ストラウスが金鉱で働く人々の愚痴話からあの<ブルージーンズ>を商品化したことは有名だ。
贅沢=成功の象徴だったパイナップルはコロンブスがアメリカ大陸から持ち帰り、めずらしさと栽培の難しさから当時「王の果実」とも言われた。パイナップルに<ミリオンダラー>一攫千金の夢をエッピンガーは重ね合わせたのかもしれない。
「原産地はブラジル、パラナ川とパラグアイ川の流域地方であり、この地でトゥピ語族のグアラニー語を用いる先住民により、果物として栽培化されたものである。15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の大陸に伝わった。 1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。 次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して行った。そして1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾に導入された。日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年にオランダ船が長崎へもたらした記録もある。(wikipwdia)」
ここからも判るように、20世紀初頭には東南アジアと交易が盛んになっていた日本でもパイナップルを入手できたようだ。
インド洋から東南アジアの海洋覇権を握っていた英国と、太平洋の覇権を握ろうとしていた米国の衝点となっていた日本=横浜には多くの一攫千金の夢を持った商人が集まってきていたのだろう。
1889年(明治22年)に新生会社組織に生まれ変わったヨコハマグランド・ホテルのスタッフとして着任したルイス・エッピンガーはこの時すでに58歳だった。(支配人に就任したのは60歳)
この年、英国人技師パーマーによる築港計画が着工する。この時の神奈川県横浜築港担当が30代の若き三橋信方(後の横浜市長)だった。
新しい国際港の時代到来に備え、グランドホテルは海軍省の招きで来日していたフランス人建築家サルダに新館(別館)設計を依頼する。これによってヨコハマグランド・ホテルは客室は100を超え、300人収容の食堂、ビリヤード室、バーが整備された。
恐らく新館竣工期にオリジナルカクテル「バンブー」「ミリオンダラー」のどちらかまたは両方がお披露目されたのではないだろうか。
この時期、京都岩清水で採取されエジソンの白熱電球に採用された日本の竹は1894年(明治27年)まで輸出されていたので、<バンブー>が当時の話題に上がっていたに違いない。
また1894年(明治27年)に完成した「鉄桟橋」を含めた横浜築港財源が米国より返還された賠償金であったことも、狭い居留地では大きな話題となっていただろう。アメリカ人エッピンガーにとっても誇りに思っていた出来事だったに違いない。
日露戦争が始まった翌年の1905年(明治38年)、
74歳になった彼は、ホテルマネジメントの最前線から退き、マネージング・ディレクターとなり後任の支配人H.E.マンワリング(Manwaring)を母国アメリカから招聘する。
1906年(明治39年)に新しい支配人が着任した後の1908年(明治41年)6月14日
ルイス・エッピンガーはその生涯を終え、外国人墓地に眠る。
このニュースはすぐさま彼の出身地サンフランシスコに伝えられ、新聞にも訃報が掲載された。77年の生涯、後半の約20年を日本で過ごしたことになる。 関東大震災で焼失するまで横浜のフラッグシップホテルだったヨコハマグランド・ホテル。そこに関わった二人の支配人ルイス・エッピンガーとH.E.マンワリングは共にサンフランシスコと深い関係にあった。
1871年(明治4年)に横浜港を旅だった岩倉使節団が最初に訪れた外国、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコで宿泊したホテルがミリオンダラーホテル「グランド・ホテル」であった。 オーナーはこの街で大富豪となったチャップマンこと「ウィリアム・チャップマン・ラルソン」というオハイオ州生まれのアメリカンドリームを実現させた男だった。岩倉使節団一行を自宅のゲストハウスに招いた様子が「米欧回覧実記(久米邦武)」にも記されている。
もしかするとミリオンダラーはサンフランシスコグランドホテルにあやかったものとも推理できる。このテーマは今後も追いかけて行きたい。
【記念式典】横浜、金のシャチホコ
ここに一枚のお城の写真があります。
城郭ツウであれば<金の鯱>がトレードマークの「名古屋城」らしい?と推理されたかもしれません。
この名古屋城は、横浜市の復興イベントのために建てられた<フェイク>ハリボテです。
場所は山下公園、時は1935年(昭和10年)の出来事です。
(復興記念横浜大博覧会) 『復興記念横浜大博覧会』が1935年(昭和10年)3月26日から5月24日まで山下公園を中心に開催されました。
1923年(大正12年)に起こった<関東大震災>から立ち直った横浜市を国内外にアピールするために横浜市が復興記念と謳い実施されたものです。
メイン会場となった『山下公園』は、震災復興のシンボル的存在でした。 山下公園と通りを挟んだ山下地区約10万平方メートルを会場にして開催され来場者は、のべ3,299,000人に達し横浜市内で開催された戦前最大のイベントとなりました。
※乃村工芸の博覧会データベースによれば
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。」とあります。
最初に登場した<名古屋城>はこの『復興記念横浜大博覧会』山下公園会場の大さん橋寄りに設置されました。ここに登場した<地方館>は、
地元神奈川館、北海道館、東京館、奈良館、(静岡茶)。統治下にあった台湾館、朝鮮館でした。
全体を通して、特徴的なのは<海>に関するテーマ館が目立つことです。
海女館、水族館、海洋発展館、ウォーターシュート、そして特に際立っているのが戦後貨客船「氷川丸」が係留されたあたりに設置された「生鯨館」でしょう。 山下公園先の海を囲って鯨を泳がせたようですが、飼育環境が悪かったのかすぐに死んでしまったそうです。現在なら保護団体から厳重な抗議がきたことでしょう。
さらには、かつて仏蘭西波止場(下図 東波止場)だった汐だまりを活かした池には<水上遊戯>施設と『蟹罐』という名の謎の水上施設が記載されています。
『復興記念横浜大博覧会』開催内容を絵図や記念絵葉書を元に探ってみるといろいろ興味深いことがわかってきます。
(記憶)
現在も残っている当時の施設は「ホテルニューグランド」だけです。一部モニュメントが残されているのが「産業貿易センター」前の香港上海銀行と、イギリス系海運・貿易商社バターフィールド&スワイヤ商会の事務所だった建物の一部を保全した「創価学会戸田平和記念館」です。公園内には震災復興に関する記憶は殆どありません。
この山下公園が震災復興のシンボルだった?ことを改めて思い起こす空間にする必要があると感じています。

(山下公園)
メイン会場となった山下公園は、
関東大震災の復興事業として1930年(昭和5年)3月15日に誕生しました。面積は 74,121m²あり現在も多くの利用者で賑わっています。完成以来、湾岸の工業化に伴い殆どの海岸線が工場用地、埠頭用地となる中、公園機能が残された横浜の貴重な臨海施設です。
戦後一時期、米軍の接収地となりオーシャンビューの住宅が建ち並んだ時もあります。
No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体
■1935年の出来事をピックアップ
2月18日
菊池武夫が貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を反国体的と糾弾
3月7日
村山助役再選を決定 日吉・富岡の一部地域へのガス供給案可決 私営バス強制買収に関する意見書を関係行政庁に提出する建議可決
●皇紀2600年記念オリンピック大会招致に関する意見書を市長に提出する建議可決
3月16日
アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄し、ナチス・ドイツの再軍備を宣言
3月20日
復興博浜踊り発表会が野沢屋で開催された
復興記念横浜大博覧会開催
3月26日
西条八十作詞杵屋佐吉作曲「はまちどり」が発表
4月1日
横浜宝塚劇場が住吉町に開館した
4月4日
日中両国の経済状態視察などを目的とした米極東産業視察団の一二人、横浜に到着。
4月6日
満洲国皇帝溥儀が来日。靖国神社参拝
4月7日
美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発される
4月9日
美濃部達吉の「憲法概要」など著書3冊が発禁となるも買手殺到し書店で売切れ
4月14日
太平洋最大の豪華客船エンプレス・オブ・ブリテン号、五百余人の観光客を乗せて横浜へ入港。
8月12日
永田鉄山暗殺事件(相沢事件)
9月15日
ナチス・ドイツにおいてニュルンベルク法制定(ユダヤ人公民権停止・ドイツ人との通婚禁止)
9月15日
ハーケンクロイツ旗が正式にドイツの国旗とされる。
12月9日
第二次ロンドン海軍軍縮会議開催
【横浜の橋】№9 天神橋(堀割川)
堀割川に架かる天神橋は現在架け替え工事が行われている。
震災で倒壊した天神橋は大正15年の6月に工事が始まり昭和2年4月22日に竣工と震災復興記録には記されている。工事前は市内でも最古参に入る<古株>の橋だった。
撮影した橋の画像が見つからないので画像はパス!見つかり次第掲載予定。
堀割川は1874年(明治7年)に完成した大岡川の小派川で、中村川から分かれ根岸湾に注いでいる。
明治に入って着工された「堀割川」分水路作りにはいくつかの目的があった。
一つは、江戸中期に新田開発された<吉田新田>では開墾しきれなかった海の部分を埋め立てるために<土>が必要だったこと、もう一つは根岸湾(磯子・金沢)開発のために横浜開港場を繋ぐ目的があった。完成には吉田家涙の物語があるがここでは省略する。
堀割川には現在六つの橋と一つの人道橋が架かっている。
①中村橋
②天神橋
③根岸橋
④坂下橋
⑤磯子橋
磯子橋人道橋
⑥八幡橋
今日は「弁天橋」の風景を紹介する。
構造は<I型鋼桁(ガーター)橋>架替後も変らない。
橋の銘板には「大正15年3月」とあるが 復興資料では大正15年着工の「昭和2年4月22日」完成とある。
(天神橋の由来)
天神橋の名は天満宮に繋がる<橋>の意として全国で多く命名されている。
ここに架かる「天神橋」は岡村天満宮に繋がるのだが、社殿まではかなり遠い。資料によると、堀割川が完成すると、<船>で天神橋近辺にあった<船着場>を経由して参拝にでかけたことから命名されたようだ。
明治45年に電気鉄道が開通し、船便は廃れてしまうが橋の名は残った。岡村天満宮には横浜電気鉄道(後の市電)滝頭で降り、途中の一の鳥居をくぐり天神道を歩き向かった。
震災で堀割川護岸はかなり崩れ、参道の道筋も新しく作られることになった。例祭の時にはちょうど天神橋と下流の根岸橋の中間に「天神前仮停留所」が開設され、臨時停車し参拝客は皆ここで降りた。(堀割川左岸)
岡村天満宮は堀割川の右岸側にあり、電気鉄道も右岸に沿って八幡橋まで走っていた。江戸時代は根岸台の崖下から岡村一帯は丘の多いこの地域の重要な<平地>だったが、堀割川によって分断されてしまった。
「左岸」は背後に根岸の崖が迫り 分断された土地となっている。そのためかどうか分からないが 左岸には工場が多い事と関係があるかもしれない。
戦前の「天神橋」が写っている絵葉書がある。といってもかなり遠景なので、橋そのものはその存在が確認できる程度だ。(日本ビチュマルス株式会社)
ビチュマルスとはあまり聞き慣れない言葉だ。
道路舗装の欠かせないアスファルトの乳剤のことをビチュマルスという。日本での事業展開の歴史は古いが飛躍のきっかけとなったのが<関東大震災>による復興需要だった。道路舗装の先進国であったアメリカの持つ技術を導入し、日本では幾つかビチュマルス製造会社が誕生した。
その一つが日本ビチュマルス株式会社で、
1930年(昭和5年)に設立された。現在は東亜道路工業株式会社と改名(1951年)し日本有数の道路舗装企業である。
この他にも幾つか大手道路舗装企業があるが、独立系である日本ビチュマルス株式会社に対し、ゼネコン系の関連企業が殆どである。
大林組の関連会社「大林道路」はかつて「日本ビチュマルス株式会社」から分かれた道路舗装企業である。
絵葉書の発行は昭和9年夏である。ちょうどこの頃の地図があったので地図と比較しながら、ここに映る風景を少し読み解いてみたい。
工場脇を堀割川が流れている。川にそって道が整備され、そこを市電が走っている。左側が下流で根岸湾方向を指す。下流に「天神橋」が写っている。
工場内には<ドラム缶>が多く並んでいるのが判る。
地図から「日本ビチュマルス株式会社」の周囲には「大和染色工場」「四菱食品会社」「落合ガラス工場」「石川工場」など製造会社が立ち並んでいる。
対岸(右岸)には広い空き地が目立っている。
半分削られた小山の手前が現在 「横浜商業高等学校 別科」がある辺りと思われる。
小山の奥には「脳血管医療センター(かつて万治病院)」があったが周囲は殆ど空き地のように見える。昭和初期はまだまだ農地中心で住宅は限られていたようだ。
この風景はどこから撮影されたものか?
地図から根岸の丘の上、現在米軍住宅のはずれ標高56.7mポストあたりから見下すように撮影されたと思われる。工場の屋根にビチュマルスと大きく書くということは、航空機を意識したのだろうか?それとも根岸の丘からの眺めを考えてのことだったのだろうか?
最後に花見の時期も迫ってるので
かつての堀割川の桜風景を紹介する。