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【幕末明治の横浜】」カテゴリーアーカイブ

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【歴史エピソード】電話交換史

今日は横浜風景の歴史、過去と現在の風景から横浜を読み解きます。

No.26 1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始
●1890年(明治23年)12月16日
横浜と東京間にわが国で初めて電話交換業務が開始されました。
2014 【ミニネタ番外編】横浜電信柱 探索
ここでは電柱のミニネタを紹介しました。
今日はその後の“電話交換”ネタを発見しましたので紹介します。

lig_寺島
<寺島宗則>

明治早々に電話が導入され、普及していきます。
導入に積極的だった人物は
寺島宗則です。

初期は交換手による回線交換でした。
電話を使うには、2つの電話機の間で通信回線がつながっている必要があります。
まず 各電話機から電話局と接続します。
この時に昔の映像にあるように手元のミニハンドルを回し簡易発電を行い交換台まで“使用信号”を送る磁石式が使われていました。
lig_PC190003.jpg
交換台がその信号を受けると口頭で相手の電話番号を告げて、人手で接続してもらう方式です。
lig_PC190012.jpg 交換手に依頼するタイプなので初期の電話機にはダイヤルがありませんでした。1890年代はこの方式が主流だったそうです。ところが、関東大震災で人による交換機能が全面ストップし、電話線は無事でも繋がらない事態が生じました。そこで
1926年(大正15年)復旧をきっかけに自動電話交換機が採用されることになります。
国内で初めて導入された自動交換機に採用されたのが「ステップ・バイ・ステップ」という方式です。仕組みに関しては各自調べてください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/電話交換機

その後、順次自動化されていきますが、
当初は自動交換は市内電話に限られていました。それでも
市外電話にまで採用されるようになったのは戦後かなりたってからです。
自動交換機の導入にあたり
技術面の統一を重視する一方式案と
競争原理による経済性を重視する複数方式案が検討されます。
結果、
英国ATM社製のストロージャ式(A形)と
ドイツのジーメンスハルスケ式(H形)の2方式が導入されます。
英国ATM社製のストロージャ式(A形)は、
1926年(大正15年)1月20日
東京の京橋電話局に導入します。
一方
ドイツのジーメンスハルスケ式(H形)は、
1926年(大正15年)3月25日
横浜中央電話局(長者町局)に導入されます。
lig_長者町電話局 <昭和初期の長者町電話局>
lig_PB290008.jpg <現在の長者町NTT>
ジーメンスハルスケ式は1934年(昭和9年)から国産化ができるようになります。
正式にH形交換機と呼ばれ自動交換用の電話機普及につながります。
※自動電話は、加入者が交換手に頼らず通話することになるため
その講習会がデパートや学校で開催されたそうです。

戦後、「ステップ・バイ・ステップ方式」はメンテが楽な「クロスバ方式」に代わり、市内から遠距離通話も自動化が導入されていきます。

ここに一枚の大正15年4月に出されたはがきがあります。
lig_絵はがき昭和15年4月8日034 文面には
「横浜も去る三月二十五日から自働電話になり大変便利になりました。東京も二三局だけ自働式になったようでこれはその機械の内部の写真です」(独学読みなのでてにをは?)

絵柄には
ジーメン ハルスケ式
自働式電話交換機室
自働式電話開通記念 横浜中央電話局
とあります。
lig_201312絵はがき035 「絵葉書が語る」震災復興期の横浜です。

(通算648話)横浜火災海上保険を創った男

(プロローグ)
日本は世界の船舶保険において一位二位を競う“保険大国”です。この保険制度は十字軍遠征時代の冒険貸借から始まった金銭消費貸借制度に原点があります。その後、海洋貿易の契約制度の試行錯誤を繰り返しながら、近代保険制度が確立していきます。
日本では江戸末期に福沢諭吉※により、西欧における保険知識が紹介され、その後、明治初頭から海上保険の研究が行われ「海上請負」と呼ばれる荷主への貨物補償制度の試みが行われるようになりました。
※『西洋旅案内』
実は制度としては朱印船貿易時代にすでに「抛金」(なげかね)という海上保険制度が行われていました。これは前述の「冒険貸借」とほぼ同じ考えしくみの金銭消費貸借制度でした。
明治に入り最初の海上保険会社が1879年(明治12年)に設立されます。「東京海上保険会社」(現在の東京日動)です。
その後大小様々な海上保険会社が創業しますが、合従連衡を繰り返しながら現在につながってます。
1881年(明治14年) 明治生命保険会社(生保関連の草分け)。
1893年(明治26年)に住友海上火災保険(株)・日本海上保険(株)
1918年(大正7年)に大正海上火災保険(株)→三井海上火災保険(株)
1919年(大正8年)に三菱海上火災が設立。

1897年(明治30年)に横浜でも海上保険会社が設立されます。
横浜火災海上保険です。
後の戦時経済下に関西の保険会社と合併し同和火災海上保険となりますが、貿易港横浜を代表する海上保険会社として創業以来各地に支店を出し貿易の潤滑油の役割を担っています。
横浜火災海上保険を偲ぶ形としてとして現存するのが神戸にある毎日新聞ビルです。ここはかつて横浜火災海上保険 神戸支店(1925年竣工、設計:河合浩蔵)でした。
lit_横浜海上保険001横浜火災海上保険(株)本店は、「横濱成功名誉鑑」(1910年 明治43年刊)によれば太田町3丁目50番地となっています。同和火災海上保険(株)『同和火災50年史. 資料集』によれば「横浜火災創業の地(現在の横浜市中区弁天通一丁目付近)」です。
微妙な違いについてはここでは精査しません。
light_横浜火災海上運送借用

この横浜火災海上保険の初代社長は富田鐵之助(とみた てつのすけ)、副社長で二代目社長となったのが土子金四郎(つちこ きんしろう)です。
話は横道に逸れます。社長となった富田鐵之助なる人物もかなり魅惑的な人物のようです。彼の簡単なエピソードを集めるだけでも たっぷり歴史の面白さを楽しむことができそうです。
富田鐵之助
Wikipediaでは
「富田 鐵之助(とみた てつのすけ、天保6年10月16日(1835年12月5日)〜大正5年(1916年)2月27日)は、幕末の仙台藩士・明治期の外交官・実業家。諱は実則。号は鉄畊。日本銀行初代副総裁・第2代総裁を務めるが、大蔵大臣松方正義と対立して罷免された。後に貴族院議員・東京府知事を歴任する。」

とありますが、ここに紹介した内容以外が富田を紹介する上で重要な側面だと思います。明治政府の経済政策の台所となる「日本銀行」の設立に深く関わり、初期の重要な金融政策に関わった冨田は総裁になって早々大蔵大臣松方正義に明治22年罷免されます。
以後在野で生きることになります。彼の生き方、日銀時代の数年以外(前後)が面白いのですが、あまり紹介されていないようです。横浜とも横浜火災海上保険以外で繋がっています。

<第一エピソード>
富田 鐵之助は日銀を首! になった二年後の1891年(明治24年)、東京府知事に就任します。
この時に彼が断行した「神奈川県」との大げんか!※ が『神奈川県に属していた「三多摩(南多摩郡・北多摩郡・西多摩郡)」を東京府に併合』したことです。これは東京と神奈川の水源戦争でもあり、東京(府)になっていなかったら、多摩川の上流域は神奈川県で、横浜の水源地も道志川・相模川水系に加え多摩川水系も横浜・川崎の水!ということになっていたらその後の都市発展は大きく変わってきたかもしれませんね。東京にとっては三多摩確保が生命線であったことは間違いありません。

※大げんかではなく、政治的思惑で神奈川県から自由党の強かった三多摩を分離したという資料もあり、明治維新以来この三多摩地区の政治的視点からの動きもかなり面白そうです。

<第二エピソード>

じゃあ 富田 鐵之助は神奈川の宿敵!か? というと一方で
(東京府知事就任以前ですが)日本の生糸産業が対米輸出に深く関われるよう尽力しています。この生糸紡績に関しては、知事辞任後 横浜に大いなる貢献をしています。
保土ケ谷、現在の天王町にあった大工場「富士紡績」の設立に関わっていました。
「富士紡績」は戦災で焼失するまで天王町一帯の基幹産業として、地域と深い関わりがありました。
No.434 帷子川物語(2)

(エピローグ)
へろへろとワンタンすするクリスマス
カチカチと義足の歩幅八・一五
ライターの火のポポポポと滝涸るる

オノマトペ(擬声語・擬態語など)の不死男といわれるほどリズム感のある俳句を残した秋元不死男は戦前戦後を通してアリズムを指向した俳人として活躍します。
大桟橋埠頭ビルに秋元不死男の句碑があります。目立たないので見逃している方も多いかもしれません。

lit_秋元不死男句碑
「北欧の船腹垂るる冬鴎」
Whirl winter-seagulls yonder
While rests a huge Nordic liner
With her impending wall of hull,at anchor.
秋元不死男は、横浜市元町生まれで彼の作品活動で山手警察署に逮捕、半年後東京拘置所に移され二年間勾留された時代もありました。
俳人 秋元不死男、本名は秋元 不二雄。彼が職場として23年間勤めたのが、
横浜海上火災保険でした。1941年(昭和16年)、治安維持法違反の嫌疑で検挙され会社を辞職。戦後は俳句の世界に生き、1968年句集『万座』にて第2回蛇笏賞を受賞しました。

No.35 2月4日 秋元不死男逮捕、山手警察に勾留

No.35 2月4日 秋元不死男逮捕、山手警察に勾留

No.640 6月12日(木)横浜茶業物語

今回でちょうど640話なので1000話まで360話

諸君、日本茶飲んでいますか?
飲料の近代史は世界史そのものです。国家間の戦争・政争が人々の飲料のし好を変えてきました。中国茶の味を知ってしまった欧州(英国)は、貿易赤字解消のためにアヘンを売り戦争まで起こします。米国独立のエピソードにボストン茶会事件があります。イギリスに高額の茶税を掛けられアメリカンコーヒーの文化が生まれます。
幕末、日本が開港されたニュースが欧米に伝わると、多くの商社が横浜に押し寄せます。
既に日本茶の品質と存在は、長崎を通じて九州のお茶(嬉野茶など)が知られていました。最大の関心を示したのが英国でした。東インド会社は香辛料とお茶を求めてアジアを物色していた真っ最中でした。今日は少し乱暴ですが、横浜茶業史のドラマを紹介しましょう。
幕末、幕府が開港した開港場を通じて日本は一気に国際社会の渦に巻き込まれます。
垂涎の「生糸」「茶」で儲けようとしたら、当時江戸幕府が各国と結んだ通貨設定のおかげで「ぼろ儲け」システムに気がつきます。
No.466 19世紀の「ハゲタカファンド」

日本は約50万両分=(一両約8万円として400億円)の金貨を国外に放出し、通貨危機が起ります。舞台は横浜開港場でした。単純に両替するだけで儲かったのですから日本人の商人もかなり両替に加担します。その中に、横浜が生んだ政商「高島嘉右衛門」もいました。彼はこれで大もうけし、明治維新以降のビジネス資源にします。
話をお茶に戻します。
日本のお茶産業は、生糸に次ぐ重要な輸出商品でした。幕末の幕府財政危機を引き継いだ明治政府の稼ぎ頭として「生糸」も「製茶」も横浜港から開港場の外国人商館を経由して輸出されました。
お茶の大消費地はアメリカでした。英国のお茶の商社も日本で調達したお茶の殆どを米国に再輸出されました。この傾向は幕末期に米国史上最大の内乱南北戦争(1861年〜1865年)が起こり、海外との貿易実務が停滞したことでピークに達します。
そして、内乱の終わった米国が、国際市場で復活し日本に向けても海路を開き直接日本から「お茶」を輸入することになります。
(表1)→調整中
別表でも明らかなように、米国の南北戦争終了に輸出量が激増し太平洋に向かう「横浜港」は、対米向けお茶輸出港として取扱量が激増します。
財政危機を救う「製茶産業」でしたが、輸出が増えても生産地はそのメリットを享受できませんでした。
お茶の製品化には、生茶葉を加工する必要があります。この再製加工は全て外国商社が独占的に行っていました。再製加工工場(=お茶場と呼ばれました)の労働条件は最悪で、女工哀史は生糸だけではなくお茶場にもあてはまりました。
「野毛山の鐘がゴンと鳴りゃガス灯が消える
早く行かなきゃ釜がない」
「慈悲じゃ情けじゃ開けておくれよ火番さん
今日の天保をもらわなきゃ
ナベ・カマ・へっつい皆休む
箸と茶碗がかくれんぼ
飯盛りちゃくしが隠居して
お玉じゃくしが身を投げる」
といった 労働歌も生まれました。

明治に入り、大量の輸出用のお茶生産が求められる中、居留地での欧米商社が引き起こす不当な取引に不満の声が高まります。流通構造は生産者がお茶売込商に販売し、幾つか流通を経て外国人商社が強気、強引なビジネスを展開していました。従来の売り込み商も下流(生産者)への強引な生産要求を行い市場が荒れはじめます。
こんな時に、生産者の中で直接外国人商社に売込む者達が登場します。
さらには、直接米国に向かい直輸出の交渉を行う日本の売込み商も登場します。
1874(明治7)年静岡でお茶を生産する仲間達が横浜の本町三丁目に製茶の売込み商「謙光社」を設立します。創設に関わったのは静岡県榛原郡出身の“原崎茂吉”ら数人で、お茶の生産地としては新参であった静岡という条件も影響したのでしょう。
自力でお茶取引の改善を求める初期の動きでした。しかし中々上手くビジネスは進まず、明治16年頃までは損失を重ねていました。
中興の祖となったのが丸尾文六という人物で、一度為替相場で失敗していましたが、その経験を活かして「謙光社」を株式会社に改組し、近代経営に乗り出します。
丸尾文六の参画により、横浜における「謙光社」は飛躍的な成長を示します。
1885(明治18)年には総扱量百万斤を越え、当時の大手売込商達の仲間入りをします。大谷・中条・岡野・吉永というビッグ4に次ぐ5位になり自他ともに認める大手売込商社となります。
翌年の1886(明治19)年には、総扱量百五十五万斤となり、第四位の吉永仁蔵商店を抜き「謙光社」は第四位に躍り出ます。
lig_歴史資料明治製茶輸出資料1lig_明治製茶輸出資料日本商人

手元にある明治19年に「謙光社」が発行した「横浜港製茶輸出入表」では、外国商社は“居留地住所”のみで記載しているのには驚きました。
商社第一位は居留地178番「スミス・ベーカー商会」(米国)で、いち早くお茶の取引で、日本最大の取引量を誇りました。この「スミス・ベーカー商会」に幕末から明治初年まで勤めていたのが“大谷嘉兵衛”で、その後の横浜製茶業界、財界の重鎮となった人物です。

(茶業界の偉人 原崎 源作)
丸尾文六によって押も押されぬ大店となった「謙光社」を立ち上げたとき創設者の“原崎茂吉”の実家静岡県榛原郡の縁者が彼を頼ってこの「謙光社」に勤めます。
原崎 源作(はらさきげんさく)1858(年安政5)年生まれで16歳でした。お茶の生産地で育った源作は、「謙光社」で勤める前から製茶加工の機械改良に関心があり、特に悲惨な作業の一つだった釜入れし炭火で熱する作業を女子工員が素手で40分位行う行程を楽にできる機械はできないものか考えていました。
改良は失敗を重ねに重ねますがついに原崎式再生釜を発明し明治32年に特許権を取得し、その後の製茶業を大きく変えることになります。
原崎 源作は茶業界にとって偉大なパイオニアですが、横浜にはちょっと残念な結果をもたらした人物でもあります。
生産力と生産品質を飛躍的に向上させた指導者、原崎 源作は一方で横浜にイチイチ運ばず直接清水港からアメリカにお茶を輸出すれば時間もコストもダウンできるではないか!と清水港国際港化に尽力し、国際港を認めさせた人物でもあります。
清水国際港のオープンで、横浜の茶業輸出量は下がり、次第に下火になっていきます。生糸は関東大震災まで横浜港の花形でしたが、製茶の輸出は明治末期から減少の一途をたどります。
静岡県菊川市には 茶業の往事を偲ぶことができる「赤レンガ倉庫」が保全されているとのこと、機会があれば訪問してみたいと思います。

No.259 9月15日(土)全国お茶の品評会開催

No.112 4月21日 濱にお茶は欠かせない

【しりとり横浜巡り】6月10日(火)吉田橋

1911(明治44)年→http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=4877
前回紹介した三井物産ビルが建った1911(明治44)年、ビルの近くで市民垂涎のイベントが挙行された。新しい「吉田橋」の開通(渡橋)記念行事だ。
lig_吉田橋関連絵葉書吉田橋といえば幕末開港時、江戸時代に架けられた「関門の橋」として横浜史に必ず登場する超有名な橋だ。
この吉田橋は出島のような開港場(関内)と開港場を支える吉田町一帯(関外)を繋ぐ唯一の橋で交通の要衝だった。
lig_吉田橋開港直後

吉田橋

初期の「鉄橋」をモチーフにした現在の吉田橋

開港場から吉田橋を渡ると道は二手に分かれる。右へ向かうと吉田町を抜けて野毛に入る。その先には東海道に続く野毛坂から「横浜道」「保土ケ谷道」がある。
一方 まっすぐ進むと芝居小屋や商店で賑わう「伊勢佐木町通」になる。
吉田橋、
現在は地下化された首都高速の上に架かっているがかつては“派大岡川”の橋で関内外を分ける川の上にあり外国人居留地への出入りをチェックする関所の役割を負っていた。
この吉田橋、当初は木橋だったがあまりに交通量が多かったためにすぐに痛んでしまいもっと丈夫な橋が検討されていた。
ちょうどその頃、横浜港の築港計画のために様々な調査を行っていたイギリスの土木技士リチャード・ヘンリー・ブラントンに依頼し日本初のトラス構造の鉄橋となった。(残念ながら単純な鉄橋のお初は長崎)
1869(明治2)年10月に鉄橋として生まれ変わった吉田橋は、当時珍しくまた通行料金も徴収されたので人々はこれを鉄と金を重ねて「カネの橋」と呼び、横浜名物の1つとなったそうだ。

(鉄からRCへ)
明治2年に鉄橋として完成した「吉田橋」も10年を越えると痛みがひどくなり架け替えが必要となり鉄筋コンクリートに作り替えられることになった。鉄筋コンクリートの「(新)吉田橋」の完成披露が
1911(明治44)年、11月1日から3日にわたって行われた。
lig_吉田橋近代の風景編002表面 lig_吉田橋近代の風景編004スタンプこのイベントはかなり多くの観光客で賑わい多数の絵葉書も販売された。ちょうどこの頃、日露戦争を契機に大ブームが起こり日本各地の観光施設を始めイベントには「絵葉書」が欠かせないアイテムとなっていた。
因みに絵葉書が登場したのは1900(明治33)年10月のことだ。
さらに伊勢佐木界隈は
1911(明治44)年の12月25日に羽衣線(馬車道〜駿河橋)が開通し、一気に繁華街が拡張する。
ここに当時の絵葉書が一枚ある。
吉田橋三代家族三代の家族が移っている写真絵葉書だ。当時、三代目となった「吉田橋」“渡り初め”に因んで、三代の家族を記念絵葉書にしたものかもしれない。
「三代家族写真」といったスタイルは他の橋でも写された写真葉書が発行されているので、当時の流行だったのかもしれない。

No.159-2 6月7日(土) 三井物産ビル

開港場のある5つの都市は「もののはじめ」が大好き。
というか、お初好きは徳川時代の“江戸っ子”気質から?
真偽の程は専門家に任せるとして…。

今日は横浜開港場に現存する「お初」を一つ紹介しましょう。
日本初の鉄筋コンクリートビルディングが横浜にあります。
(正確には「日本初の鉄筋コンクリート製オフィスビル」らしい)
1911(明治44)年、日本大通り中程に建った「三井物産横浜支店」です。

日本大通旧三井物産ビル<旧三井物産横浜支店>
このビルなら知ってるよ!という方も多いでしょう。
この「旧三井物産横浜支店」は、「震災・戦災・占領」という横浜の危機を幾度となく乗り越えてきた建造物の一つです。
冒頭「旧三井物産横浜支店」は、
1911(明治44)年、日本大通り中程に建ったと紹介しましたが、実は半分が明治時代のもので残りは昭和に入って増築されたものです。
外観を観る限り全く違和感のない明治の設計意匠をそのまま活かしています。
歴史性(古さ)でいえば、前年の1910(明治43)年にこの建物の裏手にあたる場所にレンガとコンクリートを使って建てられた「三井物産倉庫(現 日東倉庫)」が現存しています。
→この日東倉庫が今 解体の危機にあります。残念ですね。(20140731)→解体されました。

日東ビル(旧三井物産倉庫)
インフォメーションが無いと見過ごし通り過ぎることの多いこの倉庫、明治から建っている歴史的建造物です。
明治の建造物が現役で存在していることに驚きと敬意を感じます。
■建築概要
☆旧三井物産横浜支店
設計:遠藤於菟、酒井祐之助
竣工:1911(明治44)年→一号館
改修増築:1927(昭和2)年→二号館
構造:鉄筋コンクリート造り4階建て
所在地:横浜市中区日本大通14
★旧三井物産横浜倉庫
設計:遠藤於菟
竣工:1910(明治43)年
構造:煉瓦造、一部コンクリート使用
所在地:横浜市中区日本大通14
※遠藤於菟(えんどうおと)
主な作品
横浜正金銀行(技師として現場監督を務めた)
帝蚕倉庫本社事務所
横浜生糸検査所

(斬新なデザイン)
遠藤於菟設計、明治の建築物としては斬新なデザインでした。華美でなくシンプル・質素なスタイルは100年経っても現在を感じます。
同時代
1917(大正6)年7月1日に開館した開港記念横浜会館(現在は横浜市開港記念会館)と比較すると使用目的は異なるがシンプルさが際立っています。
同時代の商業ビル建築デザインとして比較してみると意匠のシンプルさは良く判ります。
旧兼松商店本店「日濠館」(現・海岸ビルヂング)

■少し横道に逸れます。
建築家 遠藤於菟の作品は残念ながら殆ど残っていません。

http://modern-building.jp/endo_oto.html
ここでも横浜の作品しか紹介されていませんが、
三井物産横浜支店造築設計とほぼ同時期(大正14年)に北海道札幌の老舗丸井今井本店ビルの設計を担当していることに驚きました。
(丸井今井本店ビルは連続改築のため原型を留めていません)
丸井今井札幌本店
「丸井今井」は輝かしき北海道の歴史を刻んできた老舗百貨店でした。
残念ながら経営破綻し現在は三越伊勢丹HG傘下となっています。
No.462 北海道と横浜を結ぶ点と線2

このブログで少し紹介しましたが、丸井今井は 北海道・新潟そして横浜を結んでいます。
機会があれば追跡したいテーマです。

(竣工当時)
さて、この三井物産横浜支店の竣工当時の姿(一号館)を観たいと思っていました。
現在の姿は、昭和2年に震災復興を兼ね造築(二号館)・一号館を改修したものです。
ほぼ竣工当時の姿を守っているとのことですが、どこか変わっているのではないか?

一号館だけのときは正面玄関が日本大通脇にあったのが、二号館が造築されることで日本大通側になったようです。よく見ると 一号館と二号館は完全に左右対称ではないことに気がつきます。
微妙に意匠が変わっている。壁面等はどうなんだろう。
手元にある資料を引きずり出しましたが現在の写真しかありませんでした。
ところが
たまたま まとめ買いしてあった大量の戦前絵葉書の中からこの一枚を発見したのです。

横浜関連雑資料023三井物産横浜支店の竣工当時のものだとは当初気がつかず見逃していましたが、再度拡大してみると確かに三井物産横浜支店であることが判りました。
lig_mituiビル

lig_横浜三井ビル表面BW024撮影時期は「ハガキ表面」から大正7年以前であることは推定できます。

lig_窓アップ lig_倉庫

一号館の最上階の窓のデザインは現在のものと異なっています。
また倉庫に関しては、用途が変わったのかなにか換気口のようなものが窓から出ていることが判ります。

この画像からもう少し新たな発見があるかもしれません。

→次回へ

No.474 横浜を愛した船乗りの夢

20世紀を迎えた1901年(明治34年)、
横浜港に一人のアメリカ人が降り立ちます。
彼の名はカール・ルイス(Karl Lewis)
船員として世界各地を航海している途中でした。
ルイスは富士の見える日本の風景と横浜の街に魅了されます。
早速、桟橋近くにある当時最新のライトホテルに逗留することを決めます。
美しき横浜が彼の愛おしき地になるまで
波乱の人生を追ってみました。

1865年(慶応元年)9月、米国ケンタッキー州に生まれたカール・ルイスは13歳で船乗りとなり、世界中を航海する傍ら“写真術”をマスターしていました。
「この国の風景は“絵(写真)”になる!」
陸にあがった船乗りルイスは、
培った写真技術を活かしてこの街に暮らすことを決意します。
横浜の拠点となったライトホテルは、ゲーテ座やヘボンの指路教会会堂、フランス領事館を設計した居留地きっての人気建築家サルダ(Paul-Pierre Sarda)の設計によって1893年(明治26年)に完成した4階建ての瀟洒なホテルでした。
中でもヨコハマグランドホテルの設計は、国内外に知れわたります。
規模的にはヨコハマグランドホテルには及びませんが、サルダ設計ということで、当時も人気のホテルでした。
No.47 2月16日 ヨコハマグランドホテル解散

カール・ルイスは、写真ビジネスの準備を進めますが既に横浜には多くの写真館が開店し新規参入は厳しいと判断します。
そこでルイスが着目したのが「絵葉書」でした。
欧米では日常的に利用されていた「絵葉書」は、船員だったルイスにとっても身近でその有用性を実感している“メディア”でした。
1871年(明治4年)に「郵便制度」が導入され、1873年(明治6年)に「官製はがき」制度が始まります。当初“前島密”がイギリスの郵便制度を参考に導入しますが、国際郵便は居留地の管理下にありました。
1874年(明治7年)に成立した国際郵便に関する条約(万国郵便連合)に近代化を図る日本も1877年(明治10年)加盟します。

(メディアとしての絵葉書)
1900年(明治33年)“私製はがき”の作製と使用が認められることで、民間企業の市場参入が始まります。
郵便制度というプラットホームに乗った「絵葉書」は、速報性、ビジュアル性、廉価であることから日本中に「絵葉書ブーム」が起こります。
サイズとスタイルを守り“切手”を貼れば自由に郵便制度が利用できることでまたたくまに多彩な絵葉書が登場します。
石井研堂の「明治事物起源」によれば、
1900年(明治33年)10月5日発行の『今世少年』第一巻九号に付録として付いていた「二少年シヤボン球を吹く図」の彩色石版摺り絵葉書が“はじまり”と書かれています。

1902年(明治35年)には官製の「絵葉書」も登場します。
「絵葉書」が日常生活の不動なメディアとなったキッカケが日露戦争でした。
日露戦争関係の官製絵葉書は17種類にも及び、私製はがきも戦地と国内を結ぶ人気の商品となりました。
この日露戦争における「絵葉書」が後の世論形成に大きな影響を与えます。
横浜年表ピックアップ【10月4日】

ポーツマス条約と日比谷焼打事件 他

(ルイスの絵葉書ビジネス)
大桟橋近くのライトホテルで起業計画を練ったライトは、
撮影した写真を活用した外国向けの「絵葉書」版元を
本村通り(ほんむらどおり)136番地に開きます。

日本人の妻貞子を迎え自宅を仕事場とは離れた上大岡の丘の上に置き、大好きだった“富士山”を眺める生活を送ります。
まもなく
仕事場をすぐ近くの山下町102番に移転し海外向けを中心に「絵葉書ビジネス」をさらに積極的に展開していきます。

当時の絵葉書は「彩色絵葉書」で
写真師が撮影した風景や人物の写真を、絵葉書用紙にコロタイプで墨刷りします。
このモノクロ印刷されたハガキ一枚一枚に手彩色をほどこし完成し、一回の制作部数は数千枚程度で、手間がかかるものでした。

日露戦争が始まることで
空前の絵葉書ブームが押し寄せます。
戦況や国家行事を伝えるメディアとして
安く早い「絵葉書」が多量に使われることになります。
ルイスの絵葉書は、遠くイギリス(ロンドン)で人気を博します。
背景には1902年(明治35年)に締結された日英同盟に象徴される日英関係の接近がありました。特に敵対していた露西亜のアジア進出を危ぶむ英国にとって辺境の情報を知る上でも“YOKOHAMA発JAPAN絵葉書”は重要なメディアとなっていました。

絵葉書が大ブームになることで競合も増えます。
1905年(明治38年)の記録では
日本の国内絵葉書総流通量が4億枚を超え当時世界一の絵葉書消費量を誇った英国に迫りアメリカを凌ぐ勢いとなります。
市場が活性するとそこに、上田義三商会(上田写真版合資会社)、星野屋、トンボヤ、ファルサーリ商会 他多くの絵葉書版元が登場します。

(事業転換)
絵葉書市場は、大正時代に入り大きく状況が変化します。
最大の環境変化は、印刷の技術革新で大量のカラー印刷が実現し、絵葉書の制作コストが大幅に下がり中小の手工業版元の多くが廃業していきます。
1913年(大正2年)カール・ルイスは、廃業を決意します。
自営業を辞め“勤め人”を選び、横浜初のローラースケート場の支配人となり、その後転職を重ね外国自動車の販売会社で長く勤めることになります。
ルイスは昭和に入り1933年(昭和8年)頃、会社勤めを辞め郵趣の世界に戻りますが、すでに日本は外国人に過酷な時代となっていました。
日米関係悪化の中、愛妻貞子に先立たれますが
米国領事館の帰国勧告も拒否し
“老いたる木は移植することができません。
 私の最後がくる時まで私はここにいることでしょう”
と決め敵国人として検挙されながらも友人縁者の努力で釈放されます。
富士山をこよなく愛した“心の日本人”カール・ルイスは釈放後も監視下におかれ軟禁状態のまま42年間の日本生活を終えます。
彼の墓は、自宅に近い富士山が良く見える上大岡の大岡山真光寺にあります。
1942年(昭和17年)5月17日没。享年76歳の人生でした。
※現在の真光寺は若干移動しています。
 現在横浜市港南区上大岡東3丁目
 (関東大震災前)横浜市港南区上大岡東2丁目9
夜景スポット(真光寺)
http://www.yakei-navi.com/yakei/yokohama/kounan_kamiookashinkoji/

参考文献
「絵はがきの時代」細馬宏通 青土社
「横浜外国人居留地ホテル史」澤 護
「明治事物起原」

【雑記録】鉄道技師モレル

(以下の記述はJR桜木町駅が改装される前のものです)
普段は全く気にも留めていなかったところで発見。

桜木町駅改札前のサインボード表示に
「エドモンドモレル記念碑」だって?
頻繁に利用している割に気がつかないものだ。

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あのこと?
「エドモンドモレル記念碑」
これ自体はかなり有名なのでご存知の方も多いだろう。
改札前のサインボードにこの「エドモンドモレル記念碑」
という表記があったことに気がついたことから
改めて「エドモンドモレル記念碑」を探ってみた。

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(少し調べてみた)
この記念碑
それにしても落ち着かないところに設置されている。コインロッカーのスペースに鎮座しているが、一昔前は通路だったのでここに「エドモンドモレル記念碑」は無かった。
一時期駅舎内に掲示され(保管されていた時期もある)この「記念碑」は、日本最初の駅舎(汐留と並んで)だったことの“なごり”なのだろうか。

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大昔のモレルレリーフ

現在の碑にある説明版には
「1865年、英国土木学会員に選ばれる。1870年、鉄道敷設を計画していた日本政府は初代鉄道建築師長として雇用し、10数名の技術者とともに日本に招いた。
1872年を目標に新橋〜横浜間の鉄道事業はモレルの監督のもと着手されたが、日本の鉄道開通を見ずに1871年29歳で他界。イギリス人。
横濱開港150周年を記念して
 東日本旅客鉄道株式会社 横浜支店 2009年6月」
とある。

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No.288 10月14日(日)仮の借りを返す

No.164 6月12日(火) JR JR

元々の碑には十河信二氏によって銘が刻まれている。

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十河信二(そごう しんじ)
第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁で
「新幹線の父」の名でご存知の方も多いだろう。関東大震災(1923年)の時、復興のために設立された帝都復興院に出向し“オオナタ”を揮う予定が疑獄の中失脚。満鉄に勤めるが1938年(昭和13年)に辞職し戦後しばらく鉄道から離れるが、1955年(昭和30年)5月14日に71歳の高齢で国鉄総裁に就任する。
当時、大きな鉄道事故が連続し加賀山之雄、長崎惣之助 両総裁が辞任。
立て直しのために4代総裁に就任した。

十河信二は戦前、標準軌にこだわった人物でもある。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/404.html

横浜年表ピックアップ【10月26日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。

●1878年(明治11年)の今日
「北方の射的場で外国人の競走会開催。」
No.169 6月17日(日)私は武器を売らない

「北方の射的場」で「競争会」が開催されたことがポイントです。

●1887年(明治20年)の今日
「自転車入荷の広告が出される。」
No.369 1月3日(木)自転車乗ってますか?

No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本

No.53 2月22日 アーティストツーリング

●1938年(昭和13年)
「本市社会事業家渡辺たま子(81)が逝去した。
渡辺福三郎夫人で、横浜孤児院、女子商業学校を設立した。また婦人運動に活躍した」
※渡辺福三郎は渡辺治右衛門(銀行家・東京の大地主)の弟、横浜第一の地主。
※1900年(明治33年)南太田の庚耕地に横浜孤児院を創設

●1939年(昭和14年)の今日
「市では東京開港問題にたいし、本格的な反対運動をおこすことに決定した」
No.347 12月12日(水)横浜自立の原点

No.460 横浜と福島をつなぐもの

※港都横浜と帝都東京の都市間競争!
今私が最も関心のあるテーマです。

●1948年(昭和23年)の今日
第1回横浜市営戸塚競馬開催(〜11/2)。
No.306 11月1日(木)戸塚駅東口小史

横浜年表ピックアップ【10月15日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。

※この日に関係する 俳人、思想家、経済人
 市政、経済動向を紹介しました。
 
●1901年(明治34年)の今日
滝春一( たき しゅんいち) 横浜に生まれ水原秋桜子に師事し、「馬酔木(あしび)」の同人として活躍。
1939年(昭和14年)から「暖流」を主宰。戦後,無季俳句をとなえて「馬酔木」をはなれたが、昭和41年に復帰し昭和57年「花石榴」で蛇笏(だこつ)賞を受賞。
人生の機微をうたった多くの句を残します。1996年(平成8年)4月28日に死去。

●1912年(明治45年)の今日
石川三四郎(36歳)
横浜市(中区)根岸町字西竹之丸3178番地に転居してきます。
石川三四郎は、埼玉県出身
明治〜昭和時代にかけて活動した社会思想家、社会運動家です。東京法学院(現在の中央大)に学びキリスト教の洗礼を受けます。
1902年(明治35年)万朝報(よろずちょうほう)社に参加しその後「平民社」にはいり解散までここで言論活動を行います。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1170.html
1906年(明治39年)2月に石川は田中正造に出会い、足尾・渡良瀬の問題に関わっていきます。この年「平民新聞」の主幹に就任します。
当然、活動の高まりで警察との摩擦が高まり、逮捕入獄します。
石川は入獄前からこじらせていた気管支炎を治すため出獄した後、
1912年(明治45年)の今日 根岸海岸に彼を支援するクリスチャンのツテで転居します。転居後は、近所の住民に「幸徳の仲間だそうだ。打ち殺してしまえ」などと言われながらも海水浴を楽しむ毎日だったそうです。
1913年(大正2年)3月フランス船ポール・ルカ号で“亡命”という理由で渡仏します。フランスではポール・ルクリュ夫妻と親交を温め広く知識の吸収に努めます。
1920年(大正9年)10月に突然帰国します。
日本が生んだ代表的なアナーキストといわれている割にあまり知られていません。戦前の無政府主義(アナーキズム)といえば幸徳秋水や大杉栄が有名です。歴史学者、家永三郎は石川三四郎を称して「国宝的人間」と呼びました。
1921年(大正10年)11月に再度渡欧の旅に出ます。この時に、石川の運命を変える出会いがあります。この船には「北白川宮」がルーマニア皇太子訪日への答礼としてルーマニアに向かう一団が同乗していました。この一行の随行員の一人 尾張徳川家19代目当主、徳川義親(とくがわよしちか)と急速に親交を深くします。
徳川義親は、越前松平春嶽の五男で、帝大に学び“イデオロギーとは無関係に保守・革新の両勢力”に友人を持つインテリでした。実は、「北白川宮」一行が乗船する際に、警察から“この船には大逆事件の幸徳秋水の友人が乗船している。石川は社会主義者なので注意されたい”旨の情報がもたらされていました。この情報の元、徳川義親は石川三四郎の人物像を気に入ります。
徳川義親の知遇を得たことで、石川はその後なにかと物心両面の支援をうけることになり、関東大震災の時に多くの思想犯が投獄された際、徳川義親との知遇から官憲の取り調べを避けることができます。
1927年(昭和2年)共学社をもうけ
1929年(昭和4年)「ディナミック」を創刊します。
戦後になると日本アナキスト連盟を組織し80歳の生涯を閉じます。
※だらだらと長くなってしまいましたが、戦前の大杉、幸徳、石川 彼ら三人の生き方は同じ社会主義者として全く異なった人生を歩みます。この時代の人物にとても惹かれます。

●1946年(昭和21年)の今日
終戦後の横浜経済をどうするか課題山積の中、横浜商工会議所の復活創立総会が焼け残った商工奨励館で開催されます。再出発の定款の承認と役員の決定を行います。
会頭には後に横浜市長となった「平沼亮三」

聖火を持つ市長像も珍しいのでは?

副会頭には原合名会社社長「原良三郎」
三菱重工横浜造船所所長「李家孝」が選出されました。
が、「平沼亮三」「原良三郎」両氏は辞任を表明、
野村洋三(ホテルニューグランド社長)を会頭に
柳沢鉱一(横浜興信銀行後の横浜銀行頭取)が選ばれます。
その後1950年(昭和25年)11月22日に再度「平沼亮三」が頭取に選ばれますが
1951年(昭和26年)に横浜市長選出馬のため辞任(市長選には当選)
「原良三郎」が会頭に選ばれました。

●1961年(昭和36年)の今日
山下ふ頭第二突堤五号岸壁が完成します。
山下ふ頭は1953年(昭和28年)に着工、1963年(昭和38年)年に完成しました。

本牧ふ頭は
No.343 12月8日(土)横浜港の本職は?

●1966年(昭和41年)の今日
自治省は、第61国会で成立した地方公営企業法改正により
財政再建団体として「横浜市」を第1号に指定します。
1952年(昭和27年)8月1日に地方公営企業法が制定されます。
「地方公共団体の経営する企業について、能率性・経済性を発揮させる水道・軌道・自動車運送・地方鉄道・電気・ガス。地方公共団体の長の組織のもとに企業の管理者を置き、管理者は、企業職員の任免等の権限を有し、業務の執行については地方公共団体を代表するものとし、財務上は企業の経理について特別会計を設け、発生主義に基づく企業会計方式を採用し、企業職員の身分取扱いについては労働組合としての団結権・団体交渉権を認める。」
そして1966年(昭和41年)7月5日に
地方公営企業法が改正され「企業団制度の新設による管理者の権限強化など」により赤字経営の公営企業の再建に政府から財政援助を受けるための「財政再建計画」(合理化)が必要となり、
横浜市を含め 市電廃止がこの改正法で加速された経緯があります。

●1978年(昭和53年)の今日
日本の硬式庭球発祥の地(フェリス女学院裏)で誕生100年記念祭が行われました。

●1984年(昭和59年)の今日
みなとみらい21地区を含む「西・中区」が
通産省のニューメディア・コミュニティ構想のモデル地域に指定されます。
通産省・郵政省・建設省・農林水産省他がこぞって推進してきた「地域情報化政策」の一つです。
「テレトピア構想」日本版ビデオテックスであるキャプテンシステム等々
「インテリジェント・コミュニティ構想」
「テレワークセンター整備事業」「マルチメディア街中にぎわい創出事業」「田園地域マルチメディアモデル整備事業」「eまちづくり」「ITビジネスモデル地区構想」

ニューメディア・コミュニティ構想の目的は
「地域間の情報化格差を是正するとともに、地域の情報化を通じて活力ある地域社会を創造するため、地域コミュニティの産業、社会、生活の各分野におけるニーズに即応する情報システムの構築を国、地方自治体民間の密接な協力の下に行い、これにより高度情報化社会の円滑な実現に寄与しようとするもの」
①モデル地域を選定し、地域のコンセンサスの形成を図りながら、具体的に情報システムを構築、運用することによって情報システムの評価を行い、改善点を実態に即して検証し、情報システムの構築、運用に関するノウハウの蓄積を図ります。
②モデル地域に蓄積されたノウハウを応用発展させた形で普及させるため、応用発展地域を指定し、情報システムの構築を進めます。
③先行的に情報システムを構築したモデル地域及び応用発展地域を、全国的なネットワークの拠として位置づけ、情報システムの普及及びネットワーク化に貢献させます。 
( 2つのタイプ)
先行的に情報システムを構築するモデル地域
モ デル地域で蓄積されたノウハウを応用発展させる応用発展地域が指定され
指定地域には推進法人に対する出資や融資,貸付制度などが設けられた。

横浜年表ピックアップ【10月7日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。
今日10月7日は中々記事が見つからず苦労しました。

●1881年(明治14年)の今日
落合直文(19歳)遊学のため東上の途で、箱根湯本の福住に泊まる。
8日に小田原、大磯を経て鎌倉に行き、三橋屋に泊まり
翌日9日、周遊し再泊する。
10日、横浜金沢に向かい西村屋から舟で横須賀に行き、造船所を見学
松阪屋に泊まる。
11日、汽船で横浜に渡り、汽車で東京に着く
「『落合直文著作集』Ⅱ所収「村雨日記」」より
落合直は歌人、国文学者で
代表歌に戦前教育では有名な「桜井の訣別(青葉茂れる桜井の…)」の作者。
※厳密には前日の福沢諭吉紹介と同じで
 横浜には正確には10日に金澤に到着していますが今日としました。

●1930年(昭和5年)の今日
エスペラント講演会が横浜貿易新報社で開催されました。
講演者はジョセフ=シェラー氏。
詳細は不明ですが、大正から昭和初期にかけて
日本では エスペラント活動(運動)が盛んに行われます。
No5 1月5日(木) 漂泊の詩人 永井叔

【雑談】ラブストーリー

「第92回世界エスペラント大会」が横浜で開催されています。

http://www.jei.or.jp/evento/2007-08_uk92/japane/gheneralo.htm

●1959年(昭和34年)の今日
横浜市中区出身の力士「若羽黒」大関昇進祝賀会が
相鉄文化会館内の精養軒で開催されました。
「若羽黒」はクリーニング店を営む家に長男として生まれ小さい頃からわんぱく坊主でしたが立浪部屋に入り活躍し始めた頃には「ドライ坊や(ボーイ)」というニックネームで人気が出ます。
※少し話題はずれますが
クリーニング業発祥の地は横浜です。
フランス山公園へ入る入口に
自然石の大きな石碑が建っています。

1949年(昭和24年)10月場所から14歳の若さで初土俵を踏みます。
しこ名は部屋の大先輩である羽黒山政司に因んで「若羽黒」としました。
1954年(昭和29年)3月場所で新十両に昇進、
1955年(昭和30年)3月場所でスピード新入幕をはたします。
1959年(昭和34年)9月場所では12勝3敗の好成績で場所後に大関へ昇進し
大関昇進祝賀会が開催されます。
同年11月場所では13勝2敗で幕内最高優勝を果たし
「押しの横綱が誕生か」と言われましたが
残念なことに
1960年(昭和35年)1月、綱獲り場所でおおよその期待と予想を裏切り7勝8敗と負け越して以来「綱取り場所」を迎えることはできませんでした。

No.141 5月20日 もしかしたら菊名区?
横浜出身の最初で(最後の?)横綱 33代武蔵山 武(悲劇の横綱と呼ばれました)は港北区日吉の出身で、奇遇なことに港北区役所が開庁した日と同じ5月20日(昭和10年)に横綱昇進が発表されました。

●1937年(昭和12年)の今日
陸軍省、磯子区及び中区の一部に
軍機保護法が適用されます。
(区域内の測量・撮影・模写等の行為を禁止)
12月には磯子区の大半、中区・戸塚区の一部追加
軍機保護法(ぐんきほごほう)
昭和12年8月14日法律第72号 
軍事上の秘密、いわゆる軍事機密(軍機)を保護する目的で公布・施行された法律。
元々、1899年(明治32年)に公布された古い法律でしたが、
1937年(昭和12年)に全部改正され対象範囲が拡大、強化されました。
軍人以外に民間人も対象となり、
軍港、要港などの港湾、堡塁、砲台、その他国防のために建設した防禦営造物、軍用艦船、軍用航空機、兵器、陸軍大臣又は海軍大臣所管の飛行場、電気通信所、軍需品工場、軍需品貯蔵所、その他の軍事施設について、測量、撮影、模写(スケッチ)、模造、録取(記録)、複写、複製を禁止又は制限します。
また、陸軍大臣又は海軍大臣は空域、土地、水面について区域を定め、その区域に於ける航空、気象観測、立ち入りの禁止又は制限、外国船舶に対する開港場以外の入港禁止又は制限を行いました。1945年(昭和20年)10月13日に廃止されました。

●1964年(昭和39年)の今日
東京オリンピックの聖火リレー、横浜入りしました。

●1986年(昭和61年)の今日
横浜国際交流ラウンジが 山下町の産業貿易センタービルに開設されました。

●1987年(昭和62年)の今日
第5回アジア地域経済交流横浜会議(YCEDA’87)が
横浜国際会議場をメイン会場にして開催されました。(〜10月9日)