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No.420 3月10日(日)横浜三塔に思う
今日は、横浜三塔の日です。
ベイエリアでは様々なイベントが繰り広げられます。
2007年から、
毎年3月10日を三塔との語呂合わせで「横浜三塔の日」としました。
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2002年頃の三塔 |
(三塔は)
■横浜市開港記念会館「ジャックの塔」
竣 工 1917年(大正 6年)
塔の高さ – 36m
■神奈川県庁本庁舎「キングの塔」
竣 工 1928年(昭和3年)
塔の高さ – 49m
■横浜税関「クイーンの塔」
竣 工 1934年(昭和9年)
塔の高さ – 51m
昭和初期横浜港から見える三つの塔は「キング」「クイーン」「ジャック」と呼ぶようになりました。入港の際、外国船船員は、この塔を見て航海の安全を感謝し
出港の時は、これからの航海の安全を願ったといいます。
その後、時間が現代になるまで、三塔は戦災を生き残り静かにそれぞれの役割を担ってきました。
一部の人が
「三塔が一望できる場所があるの知っている?」
と囁くようになり、三塔を一望できるスポットが注目を浴びました。
さらにこのスポットをすべてまわると願いがかなうということでイベントが始まります。
No.70 3月10日 310
2012年には
http://www.osanbashi.com/santou/index.html
2013年には
http://cgi.city.yokohama.lg.jp/common/event2/event_detail.html?id=38559
〜三塔を知ろう・語ろう・楽しもう!〜
(提案です)
以前、東京に四代暮らす友人から指摘を受けました。
「3月10日を江戸っ子は喜べない。」
この日は「東京大空襲の日」だからです。
5月29日には横浜も空襲が行われ、
「横浜大空襲」で横浜は焦土化します。
そしてさらに311は震災の日となりました。
これらの記憶に少し寄り添っていく310にシフトしてはどうでしょうか。
だから 三塔の日を無くすというのではなく
三塔が
「震災復興を見続けてきた歴史的建造物」と呼ばれているように
また今回も横浜市中区が掲げているように
絆を基本に
「三塔絆の日」
良いネーミングは思い当たりませんが、今後
新しい意味合いを抱合しながら今日のこの日を
楽しんでいくのはいかがでしょうか?
(国際都市 横浜の要)
この三塔にはそれぞれ歴史的役割を担ってきました。
■横浜税関「クイーンの塔」
三塔の中で最も海(港)に近く、日本の国際化の道先案内人として重要な役割を担ってきました。
■神奈川県庁本庁舎「キングの塔」
開港場「横浜」の行政を司り、居留地を舞台に国際都市の要となってきました。
■横浜市開港記念会館「ジャックの塔」
現存する塔の中では最も歴史があるものです。
関東大震災も経て現在に至ります。
この「横浜市開港記念会館」は、まさに横浜を舞台とした市民の言論の発信基地でした。
三塔は「国際都市 横浜の要」の役割を担ってきました。
しかも、焦土化した横浜大空襲にも生き残り、戦後横浜復興のシンボルともなったランドマークでした。
例えば
■横浜税関「クイーンの塔」には安寧を
■神奈川県庁本庁舎「キングの塔」には再生を
■横浜市開港記念会館「ジャックの塔」には希望
といった意味合いを重ね合わせていくことができると思います。
ここに横浜マリンタワー、横浜ランドマークタワーを加え
5塔物語へと拡大していくことも可能なのではないでしょうか?
横浜は復興 再生の街です。
(余談)
今年は 崎陽軒の「三塔弁当」がありません。残念です。
No.362 12月27日(木)彼も我も公園に集う
年も押し迫って参りました。
2012年も残すところ5日となりました。2013年は異なる切り口でいくと宣言しておきながら、なんとかなるだろうと準備していません。
2013年はかなりドキドキハラハラの毎日でした。
2014年は少しじっくり系でいきたいところです。
さて、1909年(明治42年)12月27日の今日は横浜市(彼我)公園のクリケットグランドの撤去が決定し全管理権が横浜市に移管した日です。
名称も正式に現在まで使用されている「横浜公園」と改称されました。
※市民解放は翌日の12月28日に行われました。
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読みにくいのですが、この日の事を記した碑です |
現在横浜には、市の管理する公園が2,600ありますが、その殆どが昭和後期に整備されたものです。戦前、横浜市の公園は19しかありませんでした。
明治期には二つ。
1876年(明治9年)開園した「彼我公園(横浜公園)」と、1900年(明治33年)に公開された「山手公園」です。山手公園は1870年(明治3年)6月4日に居留民によって作られましたが、当初は外国人専用でした。「彼我公園(横浜公園)」は日本最初の近代公園と言われています。(日比谷公園と争っていますが)
No.120 4月29日 庭球が似合う街
大正期にも公園は二つしか整備されませんでした。
井伊家によって寄付された「掃部山公園(かもんやまこうえん)」と震災復興で整備された「野毛山公園」です。
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掃部山 |
日本の明治以降の近代公園の多くが「城趾」「武家屋敷の跡地」「寺の敷地」等を利用して整備されましたが、横浜にはまとまった土地が少なかったこともあり公園整備が遅れます。
ある外国人と横浜市の幹部の会話(ジョーク)に
「横浜には市が整備している公園が足りないのでは?」
「いえ、横浜には三渓園という民間の公園が整備されていますから」
と言われるくらい公園が少ない街でした。
(横浜に始まる近代公園)
開港時に欧米人が驚いた日本の技術力が幾つかありますが、中でも「造園」技術は世界的レベルと評価されました。この技術を遺憾なく発揮したのが「彼我公園」(横浜公園)です。
日本には江戸時代から町民文化として安定した園芸趣味があり、武士は勿論町民レベルまで秀逸な庭園が整備され産業が根付いていたからです。
欧米との決定的な違いは、パブリック(パーク)ではなくプライベート(ガーデン)として「造園技術」が成熟して来たという点です。
といっても、欧米でも公園は19世紀に始まった文化ですから日本とさほど差があったわけではありません。
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昭和初期の横浜公園 |
彼我公園=横浜公園の整備は、日本造園界にとって記念すべき腕の見せ所だったと言えるでしょう。
1864年12月19日(元治元年11月21日)に取り交わされた「横浜居留地覚書」を元に、豚屋火事→「慶応の大火」(1866年11月26日)で焼失した港崎遊郭を整備し公園にしろというものでした。
「外国並みに日本彼我にて用ふべき公けの遊園」(レクリエーション施設)の要求が彼我公園誕生の起源となります。
この彼我公園は居留地外国人のリクエストで造ることになった訳ですが、国によってリクエストの内容にカルチャーギャップが出てきました。
日本政府(神奈川県)は
「元来外国人遊覧之為取設候事故此方於而者造営模様不案内」
として設計は外国人にまかせることにします。
そこで設計は横浜のインフラ計画を担った英国人技術者のブラントンが行い、日本が作ることになります。
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設計案 |
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設計案 |
先に完成した「山手公園」は、居留民の資金と奉仕団で整備されていますから、日本の職人技術がこの「彼我公園」で初めて発揮されることになります。
案の定、彼我の(彼ら)の意見はまとまりません。特に英米が対立します。イギリスはクリケット場を導入しようとしますが、アメリカはクリケットは彼らの都合だといって(政治的に)反対します。
結局、条件付きでクリケット場は造られることになりますが当初の設計図から大きく変わったようです。
直線的デザインから日本庭園を活かした庭園デザインが随所に取り入れられます。(予算の関係だった?)しっかり運動場(クリケットのできるグラウンド)も組み込まれます。
1868年から現在まで続く名門スポーツクラブ(YCC→YC&AC)はこの横浜公園クリケット場がホームグラウンドでした。
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YC&ACロゴ |
http://www.ycac.or.jp
日本側は、予算をできるだけ減らしたいので作りやすい構造を依頼します。当時の図面のやり取りから、造成当事者の神奈川県と予算管理の大蔵省、設計者ブラントンの苦労が透けて見えます。
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明治25年ごろ |
今も昔も変わりませんね。
(関連ブログ)
No.78 3月18日 横浜公園に野球場完成
No.286 10月12日(金)初の空中PR横浜で
No.95 4月4日 横浜DeNAベイスターズの本拠地「ハマスタ」開幕
No.332 11月27日(火)おやかた、濱で一振り。
(余談)
横浜球場の横にある「噴水」ですが、高さ2.8m
現在三代目で昭和初期に完成、80年の歴史があります。
因みに二代目は1909年(明治42年)横浜市に管理権が移った最初の整備で造られました。
(余談2)
街歩きに公園探索は欠かせません。
公園には街の表情があり、歴史があります。
元々どのような場所だったのか?
造られる経緯、レイアウトにまで思いを馳せるのも楽しいものです。
現在「歴史公園」という分類があり、全国に250あります。定義が今ひとつ判りませんが街歩きの参考になります。
横浜市には5カ所歴史公園が選定されています。
1横浜公園
2山手一帯(元町公園、港の見える丘公園、山手イタリア山庭園、山手公園)
3根岸森林公園
4山下公園
5大塚歳勝土公園
http://ja.wikipedia.org/wiki/歴史公園
(余談3)
横浜市内で広い公園ランキングは?
第一位
金沢自然公園
577,593平米(昭和57年3月17日開園)
第二位
横浜動物の森公園(ズーラシア)
541,132平米(平成14年7月25日開園)
第三位
新横浜公園(日産スタジアム一帯)
501,667平米(平成10年3月1日開園)
第四位
海の公園
470,155平米(昭和63年7月2日開園)
第五位
こども自然公園
464,118平米(昭和47年6月5日開園)
■因みに一番小さな公園は?
鶴ケ峰まちかど広場
鶴ケ峰二丁目21−12
65平米(平成7年3月24日開園)
No.339 12月4日 (火)「横浜から神奈川」へ ????
2012年(平成24年)12月4日(火)に横浜弁護士会は臨時総会を開き、
半世紀の懸案事項を投票で決めることになりました。
(結果)→否決されました。
この懸案事項というのは
「横浜から神奈川」への名称変更についてです。
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弁護士会が入るビルと横浜地裁 |
「横浜弁護士会」は神奈川県内の弁護士が所属する団体です。
「横浜弁護士会」は明治以来使い続けてきた「横浜弁護士会」を「神奈川弁護士会」に変更するかどうか?
今日の臨時総会で決議し、
投票の結果、「神奈川弁護士会」の名称変更議案は否決されました。
12月4日午前11時に行われた臨時総会の名称変更に関する投票は
総数1,083の内 賛成684票、反対380票、棄権19票。
(可決には3分の2の同意が必要)
市外の弁護士は450名位?(記事から換算)だと市内の弁護士でも賛成に回ったってことですね。
これで仙台(伊達)・金沢(前田)も変更せず!かな?
従前の「横浜弁護士会」→に決まりました。
この名称は、1893年(明治26年)から使われている歴史ある名称で明治以来戦後1949年の弁護士法全面改正まで地方裁判所の名に合わせて使われていました。
転機となったのが
1949年(昭和24年)制定の弁護士法で
弁護士会の制度(名称)の自由が認められたことに端を発します。
その結果下記の一覧からも明らかなように、
都市名ではなく県名を表するのが“主流”となりました。
現在は、
横浜の他「仙台」「金沢」の弁護会だけが都市名を名乗っています。
「横浜弁護士会」では過去2度名称変更が提案され成立しませんでした。
今回で3度目の“投票”となりました。
全国の流れに沿う必要も感じませんが、
市外の弁護士にとっては「神奈川」が良いのかもしれません。
「弁護士会」所属の多数は横浜市内で仕事をしていますが、今回の総会で「神奈川弁護士会」になるのではないかと予測されていました。
http://www.yokoben.or.jp もkanabenに?
結果は強しYOKOHAMA
【地方裁判所の名称】
全国の地方裁判所名と県名が異なる所を一覧化しました。
盛岡地方裁判所→岩手県→岩手弁護士会
水戸地方裁判所→茨城県→茨城県弁護士会
宇都宮地方裁判所→栃木県→栃木県弁護士会
前橋地方裁判所→群馬県→群馬弁護士会
甲府地方裁判所→山梨県→山梨県弁護士会
名古屋地方裁判所→愛知県→愛知県弁護士会
津地方裁判所→三重県→三重弁護士会
神戸地方裁判所→兵庫県→兵庫県弁護士会
大津地方裁判所→滋賀県→滋賀弁護士会
松江地方裁判所→島根県→島根県弁護士会
高松地方裁判所→香川県→香川県弁護士会
松山地方裁判所→愛媛県→愛媛弁護士会
那覇地方裁判所→沖縄県→沖縄弁護士会
仙台地方裁判所→宮城県→※仙台弁護士会
金沢地方裁判所→石川県→※金沢弁護士会
横浜地方裁判所→神奈川県→※横浜弁護士会
弁護士会の単位は、「地方裁判所の管轄区域」ごとに設立するのが原則で、
47都道府県庁所在地と
函館・旭川・釧路の各地方裁判所に対応して設けられているそうです。
地裁の名称変更の議論は出ているのでしょうか?
こちらは法務省の管轄なので、政治家の仕事ですかね?
(代言人組合)
明治時代、法整備が進む中
現在の弁護士にあたる“代言人”が登場します。
初期は資格制度が無かったので自由に名乗ることも営業することもできた職業でした。
この当時の代言人の評判はかなり酷いもので、「品位」のかけらも無いほど酷評されたケースも多かったようです。
1876年(明治9年)に「代言人規則」が制定され資格制度になりますが、
悪徳?代言人の評判は向上しませんでした。
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創設当初の横浜裁判所 |
実は資格制度の前に横浜地域には約100人の代言人がいましたが、
(試験を受けるものが出なかったため)
資格試験に合格したのがわずか一名でした。
彼の名は植木綱二郎といって横浜の有資格代言人第一号です。
これでは法制度が成り立たず「無免許代言人」が共存する状態がしばらく続き評判も一向に上がらなかったという訳です。
1880年(明治13年)に法律で代言人組合の設立が義務づけられ
横浜にも「横浜代言人組合」が
この年の6月27日に成立します。
これが「横浜弁護士会」の始まりです。
横浜は「居留地」を抱える街でしたから、外国人との裁判も多く全国でもかなり切磋琢磨され優秀な“弁護士”が多く輩出する街でした。
マリアルス事件
No.257 9月13日(水)司法とアジアの独立
ノルマントン号事件
No.29810月24日(水)法廷は横浜へ
No.29010月16日(火)文士の大家さんは法律家
No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史
本日は国民の祝日の一つ勤労感謝の日です。
「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」のがこの日の趣旨だそうです。
1962年(昭和37年)11月23日に株式会社横浜ステーション・ビルが開業しました。
11年後の1973年(昭和48年)11月23日には横浜三越店が開業します。
この横浜東西戦争の話しは過去何回も紹介しています。
今日は自分の記憶に残る横浜三越店を軸に横浜東西開発史を簡単にまとめてみました。
(横浜駅をめぐる開発競争)
■株式会社横浜ステーション・ビルの閉店に関して
No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる
■そごう出店と出遅れた三越
No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
■髙島屋、相鉄
No.265 9月21日(金)ぺんぺん草の後に
■東急
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
で紹介した三越は完全に出店タイミングを逸します。
横浜駅西口の百貨店戦争の最後に登場したのが「三越横浜店」です。
「岩崎学園」による「三越横浜店」誘致でしたが、横浜駅開発と三越は西口周辺を相鉄が開発に踏み切った時点から因縁がありました。
相鉄は、1953年(昭和28年)西口開発を始めるにあたりキーテナントとして最初に「三越」へ出店を依頼します。
この申し出を老舗「三越」は断り、髙島屋に交渉先が代わり苦難の末開店し結果的に大成功します。
これが西口開発の始まりです。
後から横浜進出となった「三越」、
相鉄としては面白くないでしょうね。
横浜駅西口発展年表をまとめてみました。
戦前戦後、現在の横浜駅周辺は「東口」が表玄関でした。
(重心は西へ)
1950年代西口開発が始まります。
1956年(昭和31年) 4月に横浜駅名店街が誕生します。
映画館と髙島屋ストアも開業し、横浜駅が東口から西口へ人の流れが変わり始めます。
1957年(昭和32年) 相鉄文化会館オープン。
1958年(昭和33年) 髙島屋仮店舗開業、横浜駅東西を結ぶ地下通路が完成します。
1959年(昭和34年) 相鉄会館が完成し、髙島屋がグランドオープン。
(東口も対策協議会「横浜駅前復興促進会」を結成)
1961年(昭和36年) 西口5番街完成
1962年(昭和37年) 横浜駅西口に東急ホテルが開業し、
11月23日駅ビル(横浜ステーション・ビル→シアル)が開業します。
1964年(昭和39年) 根岸線が(念願の)磯子まで延伸。
東海道新幹線開通と東京オリンピック開催
※横浜は三沢競技場(他)が使用される。
ダイヤモンド地下街(ザ・ダイヤモンド)開業
1965年(昭和40年) 第三京浜の開業
1968年(昭和43年) 横浜岡田屋開業
1970年(昭和45年) 根岸縁洋光台まで延伸、そごう出店許可
1972年(昭和47年) 県政総合センター完成、市営地下鉄部分開業
1973年(昭和48年) この年は横浜駅にとってターニングポイントでした。
4月9日根岸線が全線開通します。
10月6日第四次中東戦争が勃発しオイルショックが始まる。
10月10日髙島屋増築(商工会議所百年史では10月11日開店)
11月20日相鉄ジョイナス完成
11月23日「岩崎学園ビル」完成と同時に三越が開店
12月25日横浜駅東口再開発起工
1976年(昭和51年)市営地下鉄 横浜駅乗入れ
(1980年代はそごうの時代)
1980年代に入り(大幅に着工が遅れた)そごう出店計画が現実化してきます。
東口進撃の10年です。
1980年には東口地下街が整備され、「新宿ルミネ」で大成功した駅ビル型ショッピングセンター「横浜ルミネ」が11月7日に開業します。同時にポルタも「そごう」を結ぶ導線上に開業します。
(二つの障壁)
横浜三越は結局、2005年に撤退しますが三越には二つの障壁があり、客導線を繋ぐことが結局できませんでした。
一つは 横浜駅西口の階段という丘
中央改札を出て東口にはフラットにアクセスできますが、西口方面には一度(丘を)越えなければなりませんでした。(現在大改装中)
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一昔前のマップです |
二つ目も地下街の階段
さらに地上は西口ロータリーを回り込み、地下街ルートも階段を上がるバリアフリーではないことが不便さの“気分”につながりました。不便さの“気分”は馬鹿にできません。店舗の狭さも三越の強みを発揮できなかった要因となってしまい、撤退となります。
横浜三越閉店の瞬間
http://www.youtube.com/watch?v=lroX1gbxpv4
2008年
三越は伊勢丹との共同持株会社「三越伊勢丹ホールディングス」を設立し百貨店業界は5大グループに再編成されます。
●セブン&アイ・ホールディングス
→横浜駅東口「そごう」
●J.フロント リテイリング
→横浜伊勢佐木から撤退「カトレアプラザ」に
●高島屋G→エイチ・ツー・オー リテイリングと提携
→横高が髙島屋Gに統合
●エイチ・ツー・オー リテイリング
→横浜センター北に「モザイクモール」
★三越伊勢丹ホールディングス
→クイーンズ伊勢丹横浜店(相鉄ビル)
※伊勢丹には、1970年代横浜駅東口に出店戦略を進めていましたが、どたんばで「そごう」にひっくり返された歴史があります。
江戸の敵を長崎で討つのでしょうか?
さらにJRグループの駅ビル・エキナカビジネスが怒濤の快進撃をしています。
★★エキサイトよこはま22 (横浜駅周辺大改造計画)
http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/tosai/daikaizou/
横浜駅ビル「横浜CIAL」が50年の歴史に幕/神奈川新聞(カナロコ)
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=492azj_dyKc
→「横浜CIAL」は「CIAL鶴見」に
http://www.cial.co.jp
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催(YES89)
(余談)
横浜駅西口ロータリーに 建築界の巨匠の初期作品が
意外な場所にあります。さて?どこでしょう?
No.322 11月17日(土)今日は高齢化の話(修正加筆)
久しぶりに横浜市旭区北端に位置する「若葉台団地」を訪れました。
ここは以前仕事の関係でよく訪れた場所です。
横浜市旭区の北西部に位置する若葉台団地は、遠くからは高層住宅のコンクリートの塊というイメージがどーんと入ってきますが、近づくにつれて緑と住宅の調和がよくとれている街だということに気がつきます。
1982年(昭和57年)11月17日(水)にショッピングタウン“わかば” がオープンしました。
開業から30年の時が流れる中、
この町の現状から横浜の「高齢化」をちょっと考えてみます。
(横浜市は高齢化ばく進中)
横浜市は現在も人口増の町です。
新築マンションや、新規分譲住宅の開発も全国都市部としては元気な方です。
待機児童の課題を抱える一方で、
小中学校の統合廃校、空き家率のアップなど
横浜市も少子高齢化が確実に進んでいます。
横浜市の人口のピークは2020年で、およそ374万7千人と推定されています。
高齢化も人口ピーク時に25.6%(4人に1人が65歳以上)となり2055年では、39.7%以上になるという予測も出されています。
過疎の限界集落(超高齢化)という課題が全国的に課題となっていますが、
大都市部の高齢化もまた過疎地とは別の難題があります。
人工的に便利さを享受して生活していたライフルタイルに、
高齢化の“不便”を織り交ぜた都市生活が必要になってきます。
(若葉台はまだ若い?)
![]() |
開発期の若葉台 |
横浜市旭区の北西部に位置する若葉台団地は、
1972年(昭和47年)3月に「若葉台一団地※の住宅施設」の 都市計画が決定され、
1973年(昭和48年)から神奈川県住宅供給公社が事業主体となって共同住宅建設が始 まりました。
※一団地における50戸以上の集団住宅及びこれらに付帯する通路その他の施設
でも、旭区は横浜市18区中1位の高齢化率です。
現在、若葉台は面積約89.6ヘクタール、6000戸を超える大規模な住宅団地となっていますが、神奈川県住宅供給公社の収益悪化から建設工事が中断され、
分譲開始から30年経過した現在も未完成(空地が残っている)という状態です。
(横浜逆ドーナツ化現象)
横浜市には昭和30年代(1950年代〜60年代)に一気に開発された住宅団地が郊外部に数多くあります。
一つ一つ列挙しませんが、私が実際に訪れた深刻な高齢化を抱える住宅地域は50を下りません。住宅開発とともに入居世代がほぼ同年代のため、町がまとまって年を取っていくという課題です。
さらに次世代が親との同居を選ばない、継住もないために広大な住宅地が殆ど老人の街になり、そのための対応が求められています。
逆に中心部に人口が移住している現象(逆ドーナツ化現象)も加速しています。
(若葉台は十年若い)
その点、若葉台は単純に考えても十年時間差があるので、まだまだ新しい試みが可能だと思っています。
すでに試みも始まっていますが人口の微減状態です。
当初若葉台団地は、計画人口25,000人を想定していましたが現在約1万6千人台を推移しています。
下記のグラフでも明らかなように高齢化も進んでいます。
ここまではネガティブな情報ばかり紹介しましたが、
若葉台は素敵な住環境を持ったエリアです。
隣接する横浜緑の七大拠点の一つ「三保・新治周辺エリア」は横浜市内最大級の緑地帯として現在有効的な整備が計画されています。
JR横浜線と相鉄線三ツ境へのアクセスも(バスですが)良い立地です。
「自然と都市機能が共存する」横浜若葉台というコンセプトは現在もその環境資源が生きています。
確かにアップダウン(起伏)の多い地勢ですが、高層住宅を中心に病院・銀行・教育施設・ショッピングセンターなど都市の便利な機能が計画的に整備されています。高齢者の住みやすい環境整備も積極的に行われています。
あとは 新しい住民を増やすこと。そして
より温かなコミュニティの新しいデザインをどう形成できるかにかかっているでしょう。
一度、この街のコミュニティに触れてみるのも新しい「横浜発見」につながると思います。
(この一年でも動きがあったようです。
幾つかの新しい活動組織が生まれ活動が始まっています)
ショッピングタウン“わかば”
http://www.shoppingtown-wakaba.com
旭区人口統計
http://www.city.yokohama.lg.jp/ex/stat/jinko/cho/new/asahi.html
NPO法人若葉台のスタッフブログ
特定非営利活動法人 若葉台
http://npowakabadai.minim.ne.jp/index.html
http://www.geocities.jp/npowakabadai/setsuritsu-syusi.htm
「若葉台の人的資源や自然環境をはじめとした、住環境の維持発展の取り組みと生活の営みの発露としての文化・芸術活動も大切です。
若葉台の福祉・環境・文化のまちづくりを推進するためには、住民の手によるNPO法人を立ち上げ、継続した取組体制の構築により、時代の要請に応えられる仕組みを創り、住民の心と生活が充実できるコミュニティを目指します。」
一般財団法人 若葉台まちづくりセンター
http://www.wakabadai-kc.or.jp
若葉台連合自治会
http://blog.livedoor.jp/wakaba_rengo/
若葉台二丁目南自治会
http://homepage3.nifty.com/wakabadaiminami/index.html
http://blog.livedoor.jp/imajun2011/
団地管理組合法人 若葉台くぬぎ
http://kunugi-4.hs.plala.or.jp
「みんなの若葉台」HP版
No.310 11月5日(月)倉庫業は近代経済の秤
近代日本を象徴する企業の一つが「倉庫業」で近代経済のバロメーター(秤)です。
特に貿易港のある街には明治以降新しい倉庫業が起業されていきます。
1897年(明治30年)11月5日高島町にある中央倉庫株式会社が開業、私設保税倉庫の営業を始めます。(横浜税関百二十年史)
現在倉庫業は倉庫業法で「倉庫業を営もうとする者は、国土交通大臣の行う登録を受けなければならない」と規定されています。倉庫業の定義は
http://www.mlit.go.jp/seisakutokatsu/freight/butsuryu05100.html
でご覧ください。
(倉庫業が意外な背景)
近代倉庫業が登場した背景には廃藩置県があります。
江戸時代、全国の藩は藩内の商品流通の保管という役割も担っていました。幕藩体制の崩壊で、藩屋敷や蔵のある藩邸の接収等でこれらの保管場所を失ってしまいます。そこで、官設倉庫もできますが民間で独自に倉庫業が明治時代に誕生します。横浜中央倉庫が開業した1897年(明治30年)には全国で110社の倉庫業が営業していました。
特に国際港のある街には前に述べた“江戸時代の蔵屋敷”とはことなる「近代保税倉庫」として倉庫業がスタートします。
全国に現在も観光資源として残る「赤レンガ倉庫」はその産業遺産です。
横浜赤レンガ倉庫の正式名称は?
「新港埠頭保税倉庫」です。1号館と2号館が残っていますが、2号館の方が古く1911年(明治44年)、1号館は1913年(大正2年)に竣工しました。
No.103 4月12日「新港埠頭保税倉庫」から「赤レンガ」へ
(明治から大正へ)
明治時代、国際港横浜の大手倉庫業は
冒頭に紹介した中央倉庫株式会社(緑町)が1895年(明治28年)に創業し翌年の1897年(明治30年)11月5日に高島町で倉庫業を開始します。規模は28,099坪で、港に面した堀割をもった本格的な港湾倉庫でした。
他には
株式会社横浜貿易倉庫(堺町) 明治24年開業 1,400坪
WMストロン株式会社横浜支店 明治30年
合名会社横浜商品倉庫(海岸通)明治38年開業 規模不明
横浜倉庫株式会社(神奈川)明治39年
その後大正に入って三菱。三井を始めとする倉庫企業が雪崩を打って横浜港エリアに進出してきます。
(中央倉庫のその後)
実は、中央倉庫株式会社は1895年(明治25年)に創業した時点から「中央倉庫株式会社上屋」として免税品及び輸入砂糖・鉄類を陸揚・蔵置業を営んでいました。
横浜における(私設上屋のはじまり)と言われていますが、明治30年に法律ができて倉庫業が明確になった時点で新しく7月に免許申請し11月5日に高島町に近代倉庫を建て営業を開始します。
その後、1910年(明治43年)に中央倉庫株式会社は横浜船渠株式会社と合併します。
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今も残る横浜船渠のマーク(ドッグヤードガーデン) |
この横浜船渠株式会社も1935年(昭和10年)三菱重工業に吸収され、三菱重工業株式会社横浜船渠となります。
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三菱G変遷史 |
ここから氷川丸 、秩父丸(鎌倉丸)他数々の船が誕生しました。
No.283 10月9日 (火)三角菱のちから
【番外編】もうひとつの9月27日
1989年(平成元年)9月27日の今日、横浜ベイブリッジ・スカイウォークがオープンしました。
そして2010年(平成22年)9月26日を最後に21年の役割を終えました。
え?スカイウォーク行った事無い?はたまた、知らなかった?
(行き止まり)
横浜ベイブリッジの国道部分の下層部、大黒埠頭側から約320mの歩行者専用(市道)で展望もできた施設です。路線名は「横浜市道スカイウォーク」と表記されます。道路法の(柔軟な)解釈なのか、特別ルールなのか判りませんが、超法規的?行き止まり道路です。
橋の展望台施設としては日本初の試みでした。建設費は48億円で、閉鎖した後も、(道路管理費?維持費)として年500万円かかるそうです。
まあ年末年始はかなり混みましたが、平日はまったくダメで、天候にも依存しているためかなり苦戦を強いられてきた事は間違いありません。
とにかくアクセスが面倒で行く気が起らなかった記憶があります。
(この先のスカイウォーク)
でも 私は継続(現時点では再開)派です。
年間の経費が8,000万円〜9,000万円として、稼働日360日
正確に計算していませんが、一日400人平均といったところですかね。
認知度、アクセス改善、SP抜本的改善、リピーター確立
大黒パーキング・その他施設との連動 等々
課題はかなりありますが みなとみらい周辺の完成度が高くなってきた現在こそ「スカイウォーク」でしょう!
No.263 9月19日(水)都市型トライアスロンは横浜で
国際大会、世界選手権を日本(横浜)で
開催するにはいろいろあるんだろうな?
事情はよくわかりませんが、
トライアスロン世界選手権が2011年(平成23年)311の影響で延期になり、
2011年(平成23年)9月18日(日)と19日(祝・月)に
「2011トライアスロン世界選手権シリーズ横浜大会」が
非公式大会ですが開催され、2012年(平成24年)の正式大会につながりました。
2013年トライアスロン世界選手権シリーズ横浜大会は
5月11日・12日
2014年トライアスロン世界選手権シリーズ横浜大会は
5月17日・18日
http://yokohamatriathlon.jp/wcs/
トライアスロンとは、
水泳・自転車ロードレース・長距離走の3種目を、この順番で連続して行う耐久競技のことで、1974年9月25日にアメリカで初めて世界大会が開催された比較的新しいスポーツです。
1989年に国際トライアスロン連合(ITU)が設立し、国際大会が制度化しました。
世界トライアスロン選手権は2008年まで、年一回の世界大会でワールドチャンピオンが決定していました。
2009年から、複数大会を行い成績に応じて与えられるポイントの合計で王者を決めるシリーズ制を導入します。原則として6大会の合計ポイント数上位の選手がグランドファイナルに出場でき、そこでの優勝者がワールドチャンピオンになります。
(2009年以降の大会)
2009年8月21日(金)〜23日(日)に横浜開港150周年記念事業の一環として「2009トライアスロン世界選手権シリーズ横浜大会」が開催されることが決り2009年の開港開国Y150に華を添える大会となりました。
2010年は中国がファイナル大会国となり、2011年日本開催が決定しました。
残念ながら
2011年5月14日、15日に開催予定だった「2011トライアスロン世界選手権シリーズ横浜大会」は、東日本大震災の影響で中止となります。
その後、ITU(国際トライアスロン連合)と調整の結果、2011年(平成23年)9月18日(日)、19日(祝・月)に横浜で特別開催することが決定します。
この大会はヨコハマ/ジャパン“ソリダリティ(連帯)”大会と位置づけられ、日本復興の契機となるような大会を目指し実施されます。
震災後、日本で行なわれた最大規模の国際競技大会となりスポーツ関係者はもちろん、多方面の関係者を勇気づけました。
http://www.youtube.com/watch?v=2EoxJ0_w0zM
■ITU世界トライアスロン選手権(ITU Triathlon World Championships)
トライアスロンの世界最高峰の大会のこと。国際トライアスロン連合が毎年開催している。1989年に初開催。2008年までは1大会で世界王者を決めていたが、2009年からは複数大会を行い成績に応じて与えられるポイントの合計で王者を決めるシリーズ制を導入した。原則として6大会の合計ポイント数上位の選手がグランドファイナルに進出できる。
■2012ITUトライアスロン世界選手権 開催日程
2011年
9月24日-25日Gijon スペイン
11月5日Henderson アメリカ
2012年
4月14日-15日Sydney オーストラリア
5月10日-12日San Diego アメリカ
5月26日-27日Madrid スペイン
6月23日-24日Kitzbühel オーストリア
7月21日-22日Hamburg ドイツ
8月25日-26日Stockholm スエーデン
9月29日-30日Yokohama 日本
ITUワールドトライアスロングランドファイナル
10月20日-22日Auckland ニュージーランド
横浜大会の市街地を走るコースは、
世界の大会のなかでもまれに見る大会で注目されています。
■YOKOHAMA TRIATHLON
http://yokohamatriathlon.jp
ボランティ応援も様々な分野で行われました。例えば
前回、地元の昭和大学横浜市北部病院から、医師2名・看護師4名・研修医3名がメディカルスタッフとして参加しました。
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2012年コース |
2012年は29日・30日
29日(土)エリートの部
30日(日)エイジの部(オリンピックディスタンス・スプリントディスタンス)、リレーの部、パラトライアスロンの部
横浜市山下公園周辺特設会場(山下公園スタート・フィニッシュ)
http://yokohamatriathlon.jp/wcs/
http://yokohama.triathlon.org/jp/
■ITU世界選手権大会
http://www.jtu.or.jp
No.240 8月27日(月)横浜で重い!場所
車歩分離とグリーンマトリックス?
聞き慣れないことばかもしれません。
“まちづくり”に欠かせないキーワードの一つです。
その実践事例が横浜市都筑区に位置する「港北ニュータウン」です。
1974年(昭和49年)8月27日のこの日、建設省に提出されていた港北ニュータウン計画申請の事業認可が建設大臣から下り着工が始まりました。
計画発表から約10年目のことでした。(港北ニュータウン)
現在、都筑区内の丘陵地に広がる港北ニュータウンは、
市の中心部から北北西約12km、都心から南西25kmに位置します。
計画地の広さは約2,530haあり、1965年(昭和40年)2月25日に六大事業の一つとして発表されました。
No.58 2月27日(月)政治家が辞めるとき
元々、農地と林野に多数の地権者がおり、ニュータウンに必要な区画整理事業は成功しないだろうと予測する声も多かった計画でした。
しかも手間と時間はかかるが住民側の意向を活かした「申出換地」という当時としては新しい手法で区画整理が実施されることになりました。
地権者と住民が参加する街づくりは、当時としては画期的な推進方法といえるでしょう。
東急の五島慶太も夢見た事業です。
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢
港北ニュータウンの特徴は「車歩分離」の徹底といえます。
住宅地と車道の分離により歩行ゾーンを確保し開放感のある生活空間を実現しました。
中でも「グリーンマトリックスシステム」の採用で、既存の緑と公園緑地・緑地・せせらぎなどの緑を有効に“繋ぐ”連続的な緑地帯を確保(オープンスペース計画)し、さらに歴史的な遺産やもともとある水系なども、地区全体の空間構成に活かす街づくりの考え方です。
この軸となっている緑道は、ニュータウン全体で五本、全長約14.5kmに及び日本一の長さを誇るといわれています。
日本のニュータウン計画ってめちゃくちゃ多い
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本のニュータウン
中でも300haを超えるニュータウンは全国に約40数地区あります。その中で、港北ニュータウンは比較的後発の部類に入ります。
これが遅れた分過去の経験を踏まえた計画を多数取り入れていった結果、現在でも横浜市の人口増加、集中を一手に引き受けている人気住宅ゾーンです。
問題が無い訳ではありません。
他のニュータウン問題に比べ遅れて到来しつつある高齢化への対応、地域コミュニティ形成の難しさ、防犯、車歩分離の弊害等々、いろいろありますが市内では最も元気のあるエリアです。
港北ニュータウンの進化で
横浜市の人口重心調査の変化が起きています。
横浜市の人口重心調査 ※人口重心とは、人口の1人1人が同じ重さを持つと仮定して、その地域内の人口が、全体として平衡を保つことのできる点をいいます。経年的に地域の変化を評価する指針として活用することが出来ます。
例えば、今年の日本全体の人口重心は、311でおそらく大きく変化しています。
急激な変化は、社会にきしみをもたらします。
人は理由無く居住地を変えることは無いからです。
この先 横浜の 重心は どう変化していくのでしょうか?