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【ミニミニ今日の横浜】3月3日

1925年(大正14年)の今日3月3日

フォード横浜工場

横浜市神奈川区子安にアジア初の「日本フォード」製造工場が開設されました。
このフォードの進出が、日本自動車産業界に大きなインパクトを与えました。日本の自動車生産革命が<横浜>から始まったといっても過言ではありません。
フォード工場位置 (超簡単 自動車史)
日本の自動車産業は戦後、トヨタ自動車を筆頭に日本メーカーは戦後日本経済を牽引してきた、戦後経済復興のシンボルでした。急成長を遂げた自動車産業、その基盤は戦前の横浜に築かれました。
簡単に自動車産業史を追ってみます。
ヨーロッパで生まれた自動車は、アメリカで産業として確立します。
日本が開港によって近代化の道を歩むことになりますが、自動車市場が花開くには様々な社会構造の近代化が必要でした。フォードも対アジア市場として日本に対し日露戦争が終結した1905年(明治38年)に輸出を開始します。
国内自動車製造業も次々と設立されますが個人工場の域を出ることができませんでした。
1925年(大正14年)2月17日に資本金400万円で「日本フォード社」が横浜市緑町4番地に設立されます。そして
3月3日の今日、
工場を開設、当初は本国モデルの左ハンドルT型フォードをノックダウン生産します。
遅れること二年、ゼネラル・モーターズが大阪に拠点を置き生産を初め米国二大自動車メーカーによる東西競争が始まります。
昭和初期、日本の道路は
横浜産のフォード、
大阪産のシボレーが席捲します。
日本のモータリゼーションが、米国の大手二社によって始まった事実はあまり知られていません。勿論、日本メーカーも国産自動車の増産と販売に努めます。
1933年(昭和8年)自動車製造(株)が横浜に設立され、翌年から年間1,000台ペースで生産開始しますがフォード横浜工場の生産能力は年間1万台、規模の違いは圧倒的でした。
その後、フォード(横浜工場)は、神奈川区守屋町2丁目1343番地に、敷地11,266.98坪規模の子安新工場を立ち上げ、右ハンドルのモデルAの本格的な生産を開始します。最盛期には一日当り200台の生産能力を持っていたそうです。
1936年(昭和11年)に、日本政府は自国の自動車産業の保護育成を目的とする「自動車製造事業法」を制定。この法律により、国内資本が50%以上の企業のみ自動車製造が制限されたことで、
1939年(昭和14年)12月にはトヨタ・日産・フォード間の合弁企業設立交渉が行われたこともありましたが、軍部からの強い横槍があり夢の合弁はたち消えとなってしまいます。
日本フォード社は1940年(昭和15年)に操業停止を余儀なくされます。1941年(昭和16年)12月から1945年(昭和20年)8月終戦までの期間は日本政府に接収され、戦後の連合国軍接収を経てフォードに返還、現在はマツダのR&D(研究開発)センターとなっています。

1933年(昭和8年)12月26日、横浜に設立された自動車製造(株)が、後の日産自動車となります。
日産自動車も横浜ルーツの企業で、現在横浜に本社が移転(戻って)しました。
light_201503020002

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7846
(3月3日関連ネタ)
■1854年3月31日(嘉永7年3月3日)
「神奈川にて日米和親条約締結」
とありますが、<神奈川にて>ではなく<横浜で神奈川条約>を結んだと表現するほうが正しい。この条約によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港することを決定します。
米国側
漢文担当の主席通訳官サミュエル・ウィリアムズ
オランダ語通訳アントン・ポートマン
日本側
第1通訳担当が森山栄之助

<森山栄之助関連>
No.412 多吉郎、横浜に死す。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=166

<日米和親条約締結>
No.63 3月3日 日本初の外交交渉横浜で実る
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=556

<日米和親条約締結関連>
No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=521

 

横濱デパート物語(MATSUYA編)

前回「横濱デパート物語」からMATSUYAをピックアップ。

以前、「MATSUYAのDNA」というタイトルで
横浜ルーツのMATSUYA GINZAを取り上げました。銀座MATSUYAは横浜が創業の地です。
No.30 1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
ここでは別な角度から創業時の「鶴屋呉服店→(MATSUYA)」を紹介しましょう。簡単な沿革から
1869年11月3日(明治2年9月30日)
初代の古屋徳兵衛が横浜石川町亀の橋に鶴屋呉服店を創業します。
※WikiのMATSUYAの項目では創業日を
「1869年12月5日(明治2年11月3日)」としています。
松屋HPでは1869(明治2)年11月3日と表記されています。
http://www.matsuya.com/co/gaiyo/
他の文献でも1869年11月3日となっていましたので
創業は1869年11月3日とします。
★鶴屋呉服店創業の意義
1869年(明治2年)
横浜に創業という歴史には意義があります。
我が国の百貨店史上多くの老舗は、
江戸時代に創業し店舗を新時代に適応させてデパートに変身します。
「鶴屋呉服店」は、
明治初期、新天地横浜に創業し、横浜と東京で共に成功を収め
最終的に東京でトップ百貨店の名声を得、
現在も維持しています。
MATSUYA GINZAには明治横浜時代の
“先取と独走”の気風があるのではないでしょうか。
→ちょっと横浜に無理振りですが…
※参考資料「百貨店の文化史」(日本の消費革命)
山本・西沢:世界思想社刊1999

1889年(明治22年)
神田鍛冶町の今川橋松屋呉服店を買収し継承します。
買収といっても当時度重なる神田の大火で
大きな被害を受けた「松屋呉服店」再建のために
「鶴屋呉服店」が取引先に依頼され
言い値の13,000円で、従業員18名も居抜きで経営権を得ます。
鶴屋オーナーは、鶴屋の名は使わず
しばらくの間「今川橋松屋呉服店」として営業します。
※神田の火事
江戸時代以来 火事と喧嘩は“江戸の花”などと言われる程頻発します。明治になっても、しばし大火が続きます。
●1881年(明治14年)1月26日午前1時40分頃に出火
「忽ちの内に大和町元岩井町の方に向ツて押し広がり豊島町、江川町、橋本町、馬喰町の方へ燃え移ツて」(読売新聞1881年1月27日付朝刊)
焼失戸数は1万5,000にも及びました。
●「梅若実日記」1892年(明治25年)4月10日
今晩一時三十分ニ小川町猿楽町ヨリ出火。追々大火ニ相成神田今川橋通リ迄焼出ル。二十何ケ町焼ル。
本日午後一時三十分二慎火。四千八百戸程ノ類焼怪我人多シ。

1903年(明治36年)
会社法が整備され、中小の企業は「合名会社」組織を作るようになります。
古屋合名会社松屋呉服店に、
古屋合名会社鶴屋呉服店に それぞれ改組します。

1906年(明治39年)
営業雑誌「今様」を創刊。
→後述
初めて女子社員を採用します。

1907年(明治40年)
鶴屋と松屋のマークを合わせた“松鶴マーク”を導入し、
1978年(昭和58年)まで継承します。
20140118055955932 <松鶴マーク>
今川橋松屋呉服店が三階建洋風に増築し、
東京で初の本格的デパートメントストアと言われました。
→後述
「バーゲン・デー」といった「○○デー」の元祖ともいわれています。

1908年(明治41年)
50銭均一販売専門部署を設置し、均一販売手法の草分けとなります。

1910年(明治43年)
横浜の「鶴屋呉服店」3階建洋館が落成します。

1913年(大正2年)
今川橋松屋呉服店に和服裁縫部が創設されます。
この和服裁縫部が
松徳学園東京ファッション専門学校の前身です。
http://tfi.ac.jp

1919年(大正8年)
「株式会社松屋鶴屋呉服店」を設立します。

1923年(大正12年)
(関東大震災により東京・横濱主要店舗焼失)

1924年(大正13年)
横浜伊勢佐木町吉田橋に鶴屋呉服店が開店します。元は警察署でした。
現在はマリナード地下街入口あたりです。
東京の今川橋松屋呉服店が新築開店、「㈱松屋呉服店」に改称します。
20140118055950e321925年(大正14年)5月1日
銀座3丁目に銀座店が開店し、
翌年銀座本店となります。

lig_松屋呉服店T14開店
<震災後再建した銀座本店>

1930年(昭和5年)
吉田橋の鶴屋呉服店を松屋呉服店に改称。
横浜支店が新築開業します。

1934年(昭和9年)
横浜伊勢佐木町に株式会社鶴屋を設立します。
→株式会社壽百貨店

1946年(昭和21年)
GHQによりPXとして全面接収されます。

1948年(昭和23年)
商号を「株式会社松屋」に変更。

1953年(昭和28年)
横浜支店の接収解除。横浜支店が全館開店。

1976年(昭和51年)
横浜支店が閉店。

1978年(昭和53年)
新Clを導入します。
ligMATSUYA(松屋と横浜)
横浜の商業史というか、百貨店の歴史はそのまま横浜の中心核の移動の歴史でもあります。特に鶴屋呉服店と松屋呉服店の緩やかな関係の中に独創性を競うスタンスは松屋を一流に育て上げた「内藤彦一」(支配人)の百貨店戦略からも伺うことができます。
三越に日比 翁助がいたように、松屋呉服店は「内藤 彦一」が軸となって百貨店新時代を築きます。
1907年(明治40年)に鶴屋と松屋のマークを合わせた“松鶴マーク”を導入し横浜資本の東京の百貨店を内藤は、ハードとソフトから消費者を“あっ”と言わせます。
今川橋松屋呉服店は三階建洋風に増築し、東京で初の本格的デパートメントストアと言われました。
デパート宣言は三越ですが、これぞデパートだと言わしめたのは今川橋松屋呉服店新館でした。
さらに内藤彦一は自ら編集長となり
画期的なPRメディア『今様』を発刊します。
デパートの文化戦略の草分けは「三越」です。明治32年に『花ごろも」を発刊し、その後月刊「みつこしタイムス」「三越」に続くPR誌を発行していきます。
20140118055949af2大阪では高島屋が「新衣装」を明治35年に創刊し、東京では白木屋が発刊し新興富裕層の支持を受けます。
そこに登場した『今様』は、当時記事による商品PRだった既存誌に対し
布地の実物見本を貼付けた、まさに「商品見本カタログ」を業界向けではなく一般顧客に配布します。
「此の数も七十三種の多きに上り、高価なるは“藤波お召し”の七円より貼付けてある。聞けば此のために各種の反物を十何反とか棒にふったとのこと。」と当時の驚きを表しています。(円城寺良)
さらに当時の百貨店PR誌が格調高き“文芸誌”の役割を果たしていました。トップランナー『三越』に勝るとも劣らないレベルに『今様』はグレードアップし、東京の三大百貨店といわれるまでになっていきます。

【内藤彦一】(ないとうひこいち)
1865年7月6日山梨県生まれ。
内藤朝政の長男として生まれ米国に留学し商業・経済学を学びます。
ニューヨークマンハッタン6番街14丁目にあった
メーシー百貨店に勤め経験を積みます。
2014011806053559dhttp://www.macysinc.com
帰国後、鶴屋呉服店に就職し、東京に進出計画を推進します。
松屋呉服店〜松屋百貨店まで支配人、専務として活躍します。その間、東京商工会議所理事。一方で銀座菊水煙草店店主も務めます。
彼にはもう一つの歴史があります。
玄洋社に参加し昭和初期の事件に関わります。
1933年(昭和8年)7月10日に起こった「神兵隊事件」です。事件自体は未遂に終わりますが、
1932年(昭和7年)5月15日(515事件)と1936年(昭和11年)2月26日(226事件)の狭間に計画された一種のクーデターです。内藤は事件発覚後、裁判が始まる前、
1933年(昭和8年)11月17日に亡くなります。
この時代(玄洋社の時代)は、継続して調べているところです。

(さらに)
その間、東京商工会議所理事時代
内藤彦一は、藤沢市鵠沼海岸1-9-24に別荘の土地を譲り受け、画期的な住宅をそこに建てます。
この別荘エピソードにも横浜物語がありました。
【芋づる式余談から駒】で次回に続きます。

横浜・公園物語

今日は横浜の公園について紹介します。

まず メジャーな公園に関しては
「ヨコハマ公園物語」「横浜山手公園物語」というすばらしい本が出ています。
lig_P1150012.jpgこの本に紹介されている横浜市内の代表的な公園をまず画像で紹介しましょう。
「掃部山公園」
lig_P3219622.jpg「山手公園」
lig_P3271120.jpg「横浜公園」
lig_WV260032.jpg「三渓園」
lig_P6040064.jpg「山下公園」
lig_P9031357.jpgその他「港の見える丘公園」「大通公園」「上海横浜友好園」「臨港パーク」
lig_P6180486.jpgここで紹介された横浜の公園はぜひ一度は訪れてみることをお勧めします。
「三渓園」は有料ですが神奈川県内屈指の日本庭園です。

(横浜の公園概要)
横浜市内には市の管理する公園と県が管理する公園合わせて2,625あります。単純に計算しても1区あたり145ある計算です。(平成25年現在)
※こどもの国は含まれていません。
この2,600の公園の中で多数を占めるのが「街区(公園)」で約2,300弱あります。昔「街区公園」は「児童公園」と呼ばれていました。
横浜市内には
街中の小さな公園から
50ヘクタールを超える規模の公園まで整備されています。
(広い公園ベスト10)
第1位「金沢自然公園」横浜市金沢区釜利谷東五丁目15ー1
第2位「横浜動物の森公園」横浜市旭区上白根町1145ー3
第3位「新横浜公園」横浜市港北区小机町3300
第4位「海の公園」横浜市金沢区海の公園10
第5位「こども自然公園」横浜市旭区大池町65
第6位「県立四季の森公園」横浜市緑区寺山町
第7位「県立保土ケ谷公園」横浜市保土ケ谷区花見台
第8位「三ツ沢公園」横浜市神奈川区三ツ沢西町3ー1
第9位「県立三ツ池公園」横浜市鶴見区三ツ池公園
第10位「舞岡公園」横浜市戸塚区舞岡町1703
※横浜市・神奈川県 緑地資料から

これらの公園、広いだけではなくそれぞれに個性のある公園として整備されています。
「金沢自然公園」と「横浜動物の森公園」は共に動物園のある広域公園です。

第1位「金沢自然公園」公園面積577,593平米
http://www2.kanazawa-zoo.org/service/map/

第2位「横浜動物の森公園」公園面積541,132平米
※現在整備中ですので修正しました。
「横浜動物の森公園」一体は現在整備中で全体公園計画の一部が公開されています。整備途中の公園面積をランキング2位としました。
予定では総面積約103.3haになり横浜最大級の公園になります。
予定面積は動物園(ズーラシア)53.3ha 植物園が50.0haの規模です。
現在の整備公開部分のほとんどが「ズーラシア」として開園しています。
http://www2.zoorasia.org

第3位の「新横浜公園」公園面積535,363平米
どこかお分かりですか?
「日産スタジアム」を含む鶴見川岸の広大な運動公園です。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/shinyoko/b000.html
lig_日産スタジアム
第4位の「海の公園」公園面積470,155平米
金沢区にある総合公園で
「市内で唯一海水浴ができ、春先には潮干狩りが楽しめる、美しい人工の砂浜」です。
http://www2.umino-kouen.net
lig_海の公園看板第5位の「こども自然公園」公園面積464,118平米
横浜市旭区大池町にある広域公園で、個人的にはバーベキューできる都市公園のベスト3に入る環境です。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/yokohama/ko-sizen.html

第6位の「県立四季の森公園」公園面積453,000平米
名称の通り神奈川県立公園の一つです。神奈川県は横浜市内に大きい公園を4つ管理しています。その中の3つがベスト10に入っています。ここは広大な傾斜地に横浜の持つ谷戸の原風景を堪能できる風致(里山)公園です。
http://www.kanagawaparks.com/shikinomori/

第7位の「県立保土ケ谷公園」公園面積340,000平米
神奈川県立公園の一つです。音楽ホールや様々なスポーツ施設が整備されています。
http://www.kanagawa-park.or.jp/hodogaya/
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f6599/p19722.html
lig_kanagawaarthall.jpg第8位の「三ツ沢公園」公園面積300,055平米
横浜市神奈川区三ツ沢に広がる運動公園で、東京オリンピックの会場となり現在も多彩な運動環境を持っています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/yokohama/mitsuzawa.html
lig_P6201036.jpg第9位の「県立三ツ池公園」公園面積297,000平米
1,600を超える桜の木が咲き誇る総合公園です。
http://www.kanagawaparks.com/mitsuike/

第10位の「舞岡公園」公園面積285,000平米
戸塚区にある広域公園ですが、公園を取り巻くエリアも総合的に保全されていて、公園そのものも大きさよりもスケール感があります。
http://maioka-koyato.jp
lig_P5200469.jpgここまで 横浜市内の広い公園を紹介してきましたが、お気づきでしょうか?
「広域公園」「運動公園」「風致公園」「総合」という区分が公園にはあります。
私たちが気軽に利用している「公園」ですが、この区分・分類となるとかなり複雑なしくみになっていることに驚かされます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/公園
このwikiを読んで「公園」を定義できる人は少数派(一部専門家)でしょう。
■公園緑地は大きく三つに分かれます。
(公園)
営造物公園
地域性公園
(緑地)
地域性緑地
上記の区分の中で、都市公園の領域がさらに細かく区分されています。
◇基幹公園
(住区基幹公園)
街区公園
近隣公園
地区公園
(都市基幹公園) 
総合公園
運動公園
◇特殊公園
風致公園
歴史公園
◇広域公園
◇緩衝緑地等
特殊公園
緩衝緑地
都市緑地
緑道
◇広場公園 他
ここの説明は省略します。
長くなりましたので一つだけ
横浜のスポットニュースを!
全国初の「立体都市公園」が横浜にあります。
どこだかご存知ですか?
lig_アメリカ山公園(撮影時期が造営直後、現在はもう少し変わっています)
※山手に新しくできた「アメリカ山公園」です
今年は 公園巡りをしてみようか と思っています。
小さな小さな街区公園から「お宝」を探し出してみようかと。
今回は解説ばかりで面白みに欠けたかもしれませんが、
近所に変わった公園ありませんか?
(こどもの公園関連ブログ)
No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶

No.215 8月2日 (木)継続は力なり

ちょっと面白公園ネタ
No.133 5月12日 餌の勝ち!(加筆修正)

【歴史エピソード】電話交換史

今日は横浜風景の歴史、過去と現在の風景から横浜を読み解きます。

No.26 1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始
●1890年(明治23年)12月16日
横浜と東京間にわが国で初めて電話交換業務が開始されました。
2014 【ミニネタ番外編】横浜電信柱 探索
ここでは電柱のミニネタを紹介しました。
今日はその後の“電話交換”ネタを発見しましたので紹介します。

lig_寺島
<寺島宗則>

明治早々に電話が導入され、普及していきます。
導入に積極的だった人物は
寺島宗則です。

初期は交換手による回線交換でした。
電話を使うには、2つの電話機の間で通信回線がつながっている必要があります。
まず 各電話機から電話局と接続します。
この時に昔の映像にあるように手元のミニハンドルを回し簡易発電を行い交換台まで“使用信号”を送る磁石式が使われていました。
lig_PC190003.jpg
交換台がその信号を受けると口頭で相手の電話番号を告げて、人手で接続してもらう方式です。
lig_PC190012.jpg 交換手に依頼するタイプなので初期の電話機にはダイヤルがありませんでした。1890年代はこの方式が主流だったそうです。ところが、関東大震災で人による交換機能が全面ストップし、電話線は無事でも繋がらない事態が生じました。そこで
1926年(大正15年)復旧をきっかけに自動電話交換機が採用されることになります。
国内で初めて導入された自動交換機に採用されたのが「ステップ・バイ・ステップ」という方式です。仕組みに関しては各自調べてください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/電話交換機

その後、順次自動化されていきますが、
当初は自動交換は市内電話に限られていました。それでも
市外電話にまで採用されるようになったのは戦後かなりたってからです。
自動交換機の導入にあたり
技術面の統一を重視する一方式案と
競争原理による経済性を重視する複数方式案が検討されます。
結果、
英国ATM社製のストロージャ式(A形)と
ドイツのジーメンスハルスケ式(H形)の2方式が導入されます。
英国ATM社製のストロージャ式(A形)は、
1926年(大正15年)1月20日
東京の京橋電話局に導入します。
一方
ドイツのジーメンスハルスケ式(H形)は、
1926年(大正15年)3月25日
横浜中央電話局(長者町局)に導入されます。
lig_長者町電話局 <昭和初期の長者町電話局>
lig_PB290008.jpg <現在の長者町NTT>
ジーメンスハルスケ式は1934年(昭和9年)から国産化ができるようになります。
正式にH形交換機と呼ばれ自動交換用の電話機普及につながります。
※自動電話は、加入者が交換手に頼らず通話することになるため
その講習会がデパートや学校で開催されたそうです。

戦後、「ステップ・バイ・ステップ方式」はメンテが楽な「クロスバ方式」に代わり、市内から遠距離通話も自動化が導入されていきます。

ここに一枚の大正15年4月に出されたはがきがあります。
lig_絵はがき昭和15年4月8日034 文面には
「横浜も去る三月二十五日から自働電話になり大変便利になりました。東京も二三局だけ自働式になったようでこれはその機械の内部の写真です」(独学読みなのでてにをは?)

絵柄には
ジーメン ハルスケ式
自働式電話交換機室
自働式電話開通記念 横浜中央電話局
とあります。
lig_201312絵はがき035 「絵葉書が語る」震災復興期の横浜です。

【しりとり横浜巡り】6月10日(火)吉田橋

1911(明治44)年→http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=4877
前回紹介した三井物産ビルが建った1911(明治44)年、ビルの近くで市民垂涎のイベントが挙行された。新しい「吉田橋」の開通(渡橋)記念行事だ。
lig_吉田橋関連絵葉書吉田橋といえば幕末開港時、江戸時代に架けられた「関門の橋」として横浜史に必ず登場する超有名な橋だ。
この吉田橋は出島のような開港場(関内)と開港場を支える吉田町一帯(関外)を繋ぐ唯一の橋で交通の要衝だった。
lig_吉田橋開港直後

吉田橋

初期の「鉄橋」をモチーフにした現在の吉田橋

開港場から吉田橋を渡ると道は二手に分かれる。右へ向かうと吉田町を抜けて野毛に入る。その先には東海道に続く野毛坂から「横浜道」「保土ケ谷道」がある。
一方 まっすぐ進むと芝居小屋や商店で賑わう「伊勢佐木町通」になる。
吉田橋、
現在は地下化された首都高速の上に架かっているがかつては“派大岡川”の橋で関内外を分ける川の上にあり外国人居留地への出入りをチェックする関所の役割を負っていた。
この吉田橋、当初は木橋だったがあまりに交通量が多かったためにすぐに痛んでしまいもっと丈夫な橋が検討されていた。
ちょうどその頃、横浜港の築港計画のために様々な調査を行っていたイギリスの土木技士リチャード・ヘンリー・ブラントンに依頼し日本初のトラス構造の鉄橋となった。(残念ながら単純な鉄橋のお初は長崎)
1869(明治2)年10月に鉄橋として生まれ変わった吉田橋は、当時珍しくまた通行料金も徴収されたので人々はこれを鉄と金を重ねて「カネの橋」と呼び、横浜名物の1つとなったそうだ。

(鉄からRCへ)
明治2年に鉄橋として完成した「吉田橋」も10年を越えると痛みがひどくなり架け替えが必要となり鉄筋コンクリートに作り替えられることになった。鉄筋コンクリートの「(新)吉田橋」の完成披露が
1911(明治44)年、11月1日から3日にわたって行われた。
lig_吉田橋近代の風景編002表面 lig_吉田橋近代の風景編004スタンプこのイベントはかなり多くの観光客で賑わい多数の絵葉書も販売された。ちょうどこの頃、日露戦争を契機に大ブームが起こり日本各地の観光施設を始めイベントには「絵葉書」が欠かせないアイテムとなっていた。
因みに絵葉書が登場したのは1900(明治33)年10月のことだ。
さらに伊勢佐木界隈は
1911(明治44)年の12月25日に羽衣線(馬車道〜駿河橋)が開通し、一気に繁華街が拡張する。
ここに当時の絵葉書が一枚ある。
吉田橋三代家族三代の家族が移っている写真絵葉書だ。当時、三代目となった「吉田橋」“渡り初め”に因んで、三代の家族を記念絵葉書にしたものかもしれない。
「三代家族写真」といったスタイルは他の橋でも写された写真葉書が発行されているので、当時の流行だったのかもしれない。

No.159-2 6月7日(土) 三井物産ビル

開港場のある5つの都市は「もののはじめ」が大好き。
というか、お初好きは徳川時代の“江戸っ子”気質から?
真偽の程は専門家に任せるとして…。

今日は横浜開港場に現存する「お初」を一つ紹介しましょう。
日本初の鉄筋コンクリートビルディングが横浜にあります。
(正確には「日本初の鉄筋コンクリート製オフィスビル」らしい)
1911(明治44)年、日本大通り中程に建った「三井物産横浜支店」です。

日本大通旧三井物産ビル<旧三井物産横浜支店>
このビルなら知ってるよ!という方も多いでしょう。
この「旧三井物産横浜支店」は、「震災・戦災・占領」という横浜の危機を幾度となく乗り越えてきた建造物の一つです。
冒頭「旧三井物産横浜支店」は、
1911(明治44)年、日本大通り中程に建ったと紹介しましたが、実は半分が明治時代のもので残りは昭和に入って増築されたものです。
外観を観る限り全く違和感のない明治の設計意匠をそのまま活かしています。
歴史性(古さ)でいえば、前年の1910(明治43)年にこの建物の裏手にあたる場所にレンガとコンクリートを使って建てられた「三井物産倉庫(現 日東倉庫)」が現存しています。
→この日東倉庫が今 解体の危機にあります。残念ですね。(20140731)→解体されました。

日東ビル(旧三井物産倉庫)
インフォメーションが無いと見過ごし通り過ぎることの多いこの倉庫、明治から建っている歴史的建造物です。
明治の建造物が現役で存在していることに驚きと敬意を感じます。
■建築概要
☆旧三井物産横浜支店
設計:遠藤於菟、酒井祐之助
竣工:1911(明治44)年→一号館
改修増築:1927(昭和2)年→二号館
構造:鉄筋コンクリート造り4階建て
所在地:横浜市中区日本大通14
★旧三井物産横浜倉庫
設計:遠藤於菟
竣工:1910(明治43)年
構造:煉瓦造、一部コンクリート使用
所在地:横浜市中区日本大通14
※遠藤於菟(えんどうおと)
主な作品
横浜正金銀行(技師として現場監督を務めた)
帝蚕倉庫本社事務所
横浜生糸検査所

(斬新なデザイン)
遠藤於菟設計、明治の建築物としては斬新なデザインでした。華美でなくシンプル・質素なスタイルは100年経っても現在を感じます。
同時代
1917(大正6)年7月1日に開館した開港記念横浜会館(現在は横浜市開港記念会館)と比較すると使用目的は異なるがシンプルさが際立っています。
同時代の商業ビル建築デザインとして比較してみると意匠のシンプルさは良く判ります。
旧兼松商店本店「日濠館」(現・海岸ビルヂング)

■少し横道に逸れます。
建築家 遠藤於菟の作品は残念ながら殆ど残っていません。

http://modern-building.jp/endo_oto.html
ここでも横浜の作品しか紹介されていませんが、
三井物産横浜支店造築設計とほぼ同時期(大正14年)に北海道札幌の老舗丸井今井本店ビルの設計を担当していることに驚きました。
(丸井今井本店ビルは連続改築のため原型を留めていません)
丸井今井札幌本店
「丸井今井」は輝かしき北海道の歴史を刻んできた老舗百貨店でした。
残念ながら経営破綻し現在は三越伊勢丹HG傘下となっています。
No.462 北海道と横浜を結ぶ点と線2

このブログで少し紹介しましたが、丸井今井は 北海道・新潟そして横浜を結んでいます。
機会があれば追跡したいテーマです。

(竣工当時)
さて、この三井物産横浜支店の竣工当時の姿(一号館)を観たいと思っていました。
現在の姿は、昭和2年に震災復興を兼ね造築(二号館)・一号館を改修したものです。
ほぼ竣工当時の姿を守っているとのことですが、どこか変わっているのではないか?

一号館だけのときは正面玄関が日本大通脇にあったのが、二号館が造築されることで日本大通側になったようです。よく見ると 一号館と二号館は完全に左右対称ではないことに気がつきます。
微妙に意匠が変わっている。壁面等はどうなんだろう。
手元にある資料を引きずり出しましたが現在の写真しかありませんでした。
ところが
たまたま まとめ買いしてあった大量の戦前絵葉書の中からこの一枚を発見したのです。

横浜関連雑資料023三井物産横浜支店の竣工当時のものだとは当初気がつかず見逃していましたが、再度拡大してみると確かに三井物産横浜支店であることが判りました。
lig_mituiビル

lig_横浜三井ビル表面BW024撮影時期は「ハガキ表面」から大正7年以前であることは推定できます。

lig_窓アップ lig_倉庫

一号館の最上階の窓のデザインは現在のものと異なっています。
また倉庫に関しては、用途が変わったのかなにか換気口のようなものが窓から出ていることが判ります。

この画像からもう少し新たな発見があるかもしれません。

→次回へ

【雑記録】鉄道技師モレル

(以下の記述はJR桜木町駅が改装される前のものです)
普段は全く気にも留めていなかったところで発見。

桜木町駅改札前のサインボード表示に
「エドモンドモレル記念碑」だって?
頻繁に利用している割に気がつかないものだ。

th_PC040144

あのこと?
「エドモンドモレル記念碑」
これ自体はかなり有名なのでご存知の方も多いだろう。
改札前のサインボードにこの「エドモンドモレル記念碑」
という表記があったことに気がついたことから
改めて「エドモンドモレル記念碑」を探ってみた。

th_PC040147

(少し調べてみた)
この記念碑
それにしても落ち着かないところに設置されている。コインロッカーのスペースに鎮座しているが、一昔前は通路だったのでここに「エドモンドモレル記念碑」は無かった。
一時期駅舎内に掲示され(保管されていた時期もある)この「記念碑」は、日本最初の駅舎(汐留と並んで)だったことの“なごり”なのだろうか。

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大昔のモレルレリーフ

現在の碑にある説明版には
「1865年、英国土木学会員に選ばれる。1870年、鉄道敷設を計画していた日本政府は初代鉄道建築師長として雇用し、10数名の技術者とともに日本に招いた。
1872年を目標に新橋〜横浜間の鉄道事業はモレルの監督のもと着手されたが、日本の鉄道開通を見ずに1871年29歳で他界。イギリス人。
横濱開港150周年を記念して
 東日本旅客鉄道株式会社 横浜支店 2009年6月」
とある。

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No.288 10月14日(日)仮の借りを返す

No.164 6月12日(火) JR JR

元々の碑には十河信二氏によって銘が刻まれている。

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十河信二(そごう しんじ)
第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁で
「新幹線の父」の名でご存知の方も多いだろう。関東大震災(1923年)の時、復興のために設立された帝都復興院に出向し“オオナタ”を揮う予定が疑獄の中失脚。満鉄に勤めるが1938年(昭和13年)に辞職し戦後しばらく鉄道から離れるが、1955年(昭和30年)5月14日に71歳の高齢で国鉄総裁に就任する。
当時、大きな鉄道事故が連続し加賀山之雄、長崎惣之助 両総裁が辞任。
立て直しのために4代総裁に就任した。

十河信二は戦前、標準軌にこだわった人物でもある。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/404.html

横浜年表ピックアップ【10月15日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。

※この日に関係する 俳人、思想家、経済人
 市政、経済動向を紹介しました。
 
●1901年(明治34年)の今日
滝春一( たき しゅんいち) 横浜に生まれ水原秋桜子に師事し、「馬酔木(あしび)」の同人として活躍。
1939年(昭和14年)から「暖流」を主宰。戦後,無季俳句をとなえて「馬酔木」をはなれたが、昭和41年に復帰し昭和57年「花石榴」で蛇笏(だこつ)賞を受賞。
人生の機微をうたった多くの句を残します。1996年(平成8年)4月28日に死去。

●1912年(明治45年)の今日
石川三四郎(36歳)
横浜市(中区)根岸町字西竹之丸3178番地に転居してきます。
石川三四郎は、埼玉県出身
明治〜昭和時代にかけて活動した社会思想家、社会運動家です。東京法学院(現在の中央大)に学びキリスト教の洗礼を受けます。
1902年(明治35年)万朝報(よろずちょうほう)社に参加しその後「平民社」にはいり解散までここで言論活動を行います。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1170.html
1906年(明治39年)2月に石川は田中正造に出会い、足尾・渡良瀬の問題に関わっていきます。この年「平民新聞」の主幹に就任します。
当然、活動の高まりで警察との摩擦が高まり、逮捕入獄します。
石川は入獄前からこじらせていた気管支炎を治すため出獄した後、
1912年(明治45年)の今日 根岸海岸に彼を支援するクリスチャンのツテで転居します。転居後は、近所の住民に「幸徳の仲間だそうだ。打ち殺してしまえ」などと言われながらも海水浴を楽しむ毎日だったそうです。
1913年(大正2年)3月フランス船ポール・ルカ号で“亡命”という理由で渡仏します。フランスではポール・ルクリュ夫妻と親交を温め広く知識の吸収に努めます。
1920年(大正9年)10月に突然帰国します。
日本が生んだ代表的なアナーキストといわれている割にあまり知られていません。戦前の無政府主義(アナーキズム)といえば幸徳秋水や大杉栄が有名です。歴史学者、家永三郎は石川三四郎を称して「国宝的人間」と呼びました。
1921年(大正10年)11月に再度渡欧の旅に出ます。この時に、石川の運命を変える出会いがあります。この船には「北白川宮」がルーマニア皇太子訪日への答礼としてルーマニアに向かう一団が同乗していました。この一行の随行員の一人 尾張徳川家19代目当主、徳川義親(とくがわよしちか)と急速に親交を深くします。
徳川義親は、越前松平春嶽の五男で、帝大に学び“イデオロギーとは無関係に保守・革新の両勢力”に友人を持つインテリでした。実は、「北白川宮」一行が乗船する際に、警察から“この船には大逆事件の幸徳秋水の友人が乗船している。石川は社会主義者なので注意されたい”旨の情報がもたらされていました。この情報の元、徳川義親は石川三四郎の人物像を気に入ります。
徳川義親の知遇を得たことで、石川はその後なにかと物心両面の支援をうけることになり、関東大震災の時に多くの思想犯が投獄された際、徳川義親との知遇から官憲の取り調べを避けることができます。
1927年(昭和2年)共学社をもうけ
1929年(昭和4年)「ディナミック」を創刊します。
戦後になると日本アナキスト連盟を組織し80歳の生涯を閉じます。
※だらだらと長くなってしまいましたが、戦前の大杉、幸徳、石川 彼ら三人の生き方は同じ社会主義者として全く異なった人生を歩みます。この時代の人物にとても惹かれます。

●1946年(昭和21年)の今日
終戦後の横浜経済をどうするか課題山積の中、横浜商工会議所の復活創立総会が焼け残った商工奨励館で開催されます。再出発の定款の承認と役員の決定を行います。
会頭には後に横浜市長となった「平沼亮三」

聖火を持つ市長像も珍しいのでは?

副会頭には原合名会社社長「原良三郎」
三菱重工横浜造船所所長「李家孝」が選出されました。
が、「平沼亮三」「原良三郎」両氏は辞任を表明、
野村洋三(ホテルニューグランド社長)を会頭に
柳沢鉱一(横浜興信銀行後の横浜銀行頭取)が選ばれます。
その後1950年(昭和25年)11月22日に再度「平沼亮三」が頭取に選ばれますが
1951年(昭和26年)に横浜市長選出馬のため辞任(市長選には当選)
「原良三郎」が会頭に選ばれました。

●1961年(昭和36年)の今日
山下ふ頭第二突堤五号岸壁が完成します。
山下ふ頭は1953年(昭和28年)に着工、1963年(昭和38年)年に完成しました。

本牧ふ頭は
No.343 12月8日(土)横浜港の本職は?

●1966年(昭和41年)の今日
自治省は、第61国会で成立した地方公営企業法改正により
財政再建団体として「横浜市」を第1号に指定します。
1952年(昭和27年)8月1日に地方公営企業法が制定されます。
「地方公共団体の経営する企業について、能率性・経済性を発揮させる水道・軌道・自動車運送・地方鉄道・電気・ガス。地方公共団体の長の組織のもとに企業の管理者を置き、管理者は、企業職員の任免等の権限を有し、業務の執行については地方公共団体を代表するものとし、財務上は企業の経理について特別会計を設け、発生主義に基づく企業会計方式を採用し、企業職員の身分取扱いについては労働組合としての団結権・団体交渉権を認める。」
そして1966年(昭和41年)7月5日に
地方公営企業法が改正され「企業団制度の新設による管理者の権限強化など」により赤字経営の公営企業の再建に政府から財政援助を受けるための「財政再建計画」(合理化)が必要となり、
横浜市を含め 市電廃止がこの改正法で加速された経緯があります。

●1978年(昭和53年)の今日
日本の硬式庭球発祥の地(フェリス女学院裏)で誕生100年記念祭が行われました。

●1984年(昭和59年)の今日
みなとみらい21地区を含む「西・中区」が
通産省のニューメディア・コミュニティ構想のモデル地域に指定されます。
通産省・郵政省・建設省・農林水産省他がこぞって推進してきた「地域情報化政策」の一つです。
「テレトピア構想」日本版ビデオテックスであるキャプテンシステム等々
「インテリジェント・コミュニティ構想」
「テレワークセンター整備事業」「マルチメディア街中にぎわい創出事業」「田園地域マルチメディアモデル整備事業」「eまちづくり」「ITビジネスモデル地区構想」

ニューメディア・コミュニティ構想の目的は
「地域間の情報化格差を是正するとともに、地域の情報化を通じて活力ある地域社会を創造するため、地域コミュニティの産業、社会、生活の各分野におけるニーズに即応する情報システムの構築を国、地方自治体民間の密接な協力の下に行い、これにより高度情報化社会の円滑な実現に寄与しようとするもの」
①モデル地域を選定し、地域のコンセンサスの形成を図りながら、具体的に情報システムを構築、運用することによって情報システムの評価を行い、改善点を実態に即して検証し、情報システムの構築、運用に関するノウハウの蓄積を図ります。
②モデル地域に蓄積されたノウハウを応用発展させた形で普及させるため、応用発展地域を指定し、情報システムの構築を進めます。
③先行的に情報システムを構築したモデル地域及び応用発展地域を、全国的なネットワークの拠として位置づけ、情報システムの普及及びネットワーク化に貢献させます。 
( 2つのタイプ)
先行的に情報システムを構築するモデル地域
モ デル地域で蓄積されたノウハウを応用発展させる応用発展地域が指定され
指定地域には推進法人に対する出資や融資,貸付制度などが設けられた。

横浜年表ピックアップ【10月7日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。
今日10月7日は中々記事が見つからず苦労しました。

●1881年(明治14年)の今日
落合直文(19歳)遊学のため東上の途で、箱根湯本の福住に泊まる。
8日に小田原、大磯を経て鎌倉に行き、三橋屋に泊まり
翌日9日、周遊し再泊する。
10日、横浜金沢に向かい西村屋から舟で横須賀に行き、造船所を見学
松阪屋に泊まる。
11日、汽船で横浜に渡り、汽車で東京に着く
「『落合直文著作集』Ⅱ所収「村雨日記」」より
落合直は歌人、国文学者で
代表歌に戦前教育では有名な「桜井の訣別(青葉茂れる桜井の…)」の作者。
※厳密には前日の福沢諭吉紹介と同じで
 横浜には正確には10日に金澤に到着していますが今日としました。

●1930年(昭和5年)の今日
エスペラント講演会が横浜貿易新報社で開催されました。
講演者はジョセフ=シェラー氏。
詳細は不明ですが、大正から昭和初期にかけて
日本では エスペラント活動(運動)が盛んに行われます。
No5 1月5日(木) 漂泊の詩人 永井叔

【雑談】ラブストーリー

「第92回世界エスペラント大会」が横浜で開催されています。

http://www.jei.or.jp/evento/2007-08_uk92/japane/gheneralo.htm

●1959年(昭和34年)の今日
横浜市中区出身の力士「若羽黒」大関昇進祝賀会が
相鉄文化会館内の精養軒で開催されました。
「若羽黒」はクリーニング店を営む家に長男として生まれ小さい頃からわんぱく坊主でしたが立浪部屋に入り活躍し始めた頃には「ドライ坊や(ボーイ)」というニックネームで人気が出ます。
※少し話題はずれますが
クリーニング業発祥の地は横浜です。
フランス山公園へ入る入口に
自然石の大きな石碑が建っています。

1949年(昭和24年)10月場所から14歳の若さで初土俵を踏みます。
しこ名は部屋の大先輩である羽黒山政司に因んで「若羽黒」としました。
1954年(昭和29年)3月場所で新十両に昇進、
1955年(昭和30年)3月場所でスピード新入幕をはたします。
1959年(昭和34年)9月場所では12勝3敗の好成績で場所後に大関へ昇進し
大関昇進祝賀会が開催されます。
同年11月場所では13勝2敗で幕内最高優勝を果たし
「押しの横綱が誕生か」と言われましたが
残念なことに
1960年(昭和35年)1月、綱獲り場所でおおよその期待と予想を裏切り7勝8敗と負け越して以来「綱取り場所」を迎えることはできませんでした。

No.141 5月20日 もしかしたら菊名区?
横浜出身の最初で(最後の?)横綱 33代武蔵山 武(悲劇の横綱と呼ばれました)は港北区日吉の出身で、奇遇なことに港北区役所が開庁した日と同じ5月20日(昭和10年)に横綱昇進が発表されました。

●1937年(昭和12年)の今日
陸軍省、磯子区及び中区の一部に
軍機保護法が適用されます。
(区域内の測量・撮影・模写等の行為を禁止)
12月には磯子区の大半、中区・戸塚区の一部追加
軍機保護法(ぐんきほごほう)
昭和12年8月14日法律第72号 
軍事上の秘密、いわゆる軍事機密(軍機)を保護する目的で公布・施行された法律。
元々、1899年(明治32年)に公布された古い法律でしたが、
1937年(昭和12年)に全部改正され対象範囲が拡大、強化されました。
軍人以外に民間人も対象となり、
軍港、要港などの港湾、堡塁、砲台、その他国防のために建設した防禦営造物、軍用艦船、軍用航空機、兵器、陸軍大臣又は海軍大臣所管の飛行場、電気通信所、軍需品工場、軍需品貯蔵所、その他の軍事施設について、測量、撮影、模写(スケッチ)、模造、録取(記録)、複写、複製を禁止又は制限します。
また、陸軍大臣又は海軍大臣は空域、土地、水面について区域を定め、その区域に於ける航空、気象観測、立ち入りの禁止又は制限、外国船舶に対する開港場以外の入港禁止又は制限を行いました。1945年(昭和20年)10月13日に廃止されました。

●1964年(昭和39年)の今日
東京オリンピックの聖火リレー、横浜入りしました。

●1986年(昭和61年)の今日
横浜国際交流ラウンジが 山下町の産業貿易センタービルに開設されました。

●1987年(昭和62年)の今日
第5回アジア地域経済交流横浜会議(YCEDA’87)が
横浜国際会議場をメイン会場にして開催されました。(〜10月9日)

暦で語る今日の横浜【9月30日】

横浜の年表から
 今日起った出来事をピックアップしました。
【9月30日】はかなり話題満載です。小分けしたいところです。

●1890年(明治23年)の今日
「週刊英文 ウィクリー・レヴィュー・オブ・ヨコハマ・マーケット 
(The Weekly Review of Yokohama Market)が創刊された」

●1909年(明治42年)の今日
大鳥居正が「故井伊直弼朝臣銅像除幕式之記」を発行した
「故井伊直弼朝臣銅像除幕式之記」は現在
東京大学 史料編纂所 図書室所蔵
神奈川県立図書館所蔵
→近日 資料を確認する予定です
横浜市西区にある掃部山に建てられている井伊直弼像に関して
建立時に様々な障害が起ります。

BBP3219623

「井伊直弼像建立」に賛成するもの、反対するもの
ガチンコ勝負で 闘争します。
井伊直弼の功績を称するグループは開港50周年にあわせて井伊直弼像を建立する計画を立てます。最初は東京日比谷公園内に建てる計画でしたが、
幕末に起った“安政の大獄”によって多くの大先輩を失った薩摩藩、長州藩出身の政府高官達は猛反対します。
一方、薩長の藩閥政治に対抗する者達や旧彦根藩出身者、徳川関係の井伊直弼支持者は、平和裏の開港は井伊の功績と評価します。
→このあたりは 目下“大量の”資料を呼んでいるところです。

BBWV300001
井伊支持派の資料

 両者の言い分に 無理も正論もあり 面白いので まとまりません!?
 
●1921年(大正10年)の今日
「横浜中央食品市場が高島町8丁目築地橋先に設立された。
さらに寿町の市場を合併して10月25日に開業した」
その後、1923年(大正12年)に制定された卸売市場法で中央卸売市場が開設されます。
No.97 4月6日 東日本初の中央卸売市場が認可される

●1922年(大正11年)の今日
横浜劇場でロシアバレイ団のパヴロワ女史公演(〜10/3)。
花月園内に花月園少女歌劇が創設された

No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)
●1929年(昭和4年)の今日
「印刷所廃止、以後、乗車券印刷を横浜刑務所に委託」
横浜刑務所は、その昔久良岐郡役場と村役場があった場所だそうです。
刑務所では受刑者の社会復帰用に様々な職業訓練を行っています。
http://www.moj.go.jp/KYOUSEI/KEIMUSAGYO/sagyo/sisetu_yokohama.html

毎年、横浜刑務所(港南区港南)では「横浜矯正展」が11月最初に(3日前後)開催され多くの作品が展示即売されます。

●1929年(昭和4年)の今日
「昭和絹靴下株式会社(資本金1,500,000円)が横浜市中区井土ヶ谷町250に設立された」と資料にありました。

BB-E4-BA-95-E5-9C-9F-E3-82-B1-E8-B0-B7-E4-BB-98-E8-BF-91-

昭和絹靴下株式会社を継承する株式会社アルバックの社史によりますと
1929年(昭和4年)9月20日設立とあります。

BB-E6-98-AD-E5-92-8C-E7-B5-B9-E9-9D-B4-E4-B8-8B-E6-A0-AA-E5-BC-8F-E4-BC-9A-E7-A4-BE
BB-E6-98-AD-E5-92-8C-E7-B5-B9-E9-9D-B4-E4-B8-8B-E6-A0-AA-E5-BC-8F-E4-BC-9A-E7-A4-BE-E5-85-A8-E6-99-AF

戦後、日本真空技術株式会社として新業態に転換し2001年(平成13年)に株式会社アルバックとなり現在に至っています。本社は茅ヶ崎市にあります。

●1929年(昭和4年)の今日
日本郵船氷川丸,横浜船渠で進水。

No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク

氷川丸はまだまだ 紹介しきれていないネタ多くあります。
追々 追加していきます。

●1930年(昭和5年)の今日
「日本最古の横浜電気館が閉鎖した」
横浜市松ヶ枝町25、現在の中区伊勢佐木町2丁目91あたりで開業していた映画館で、
1908年(明治41年)開業。

BB-E6-A8-AA-E6-B5-9C-E9-9B-BB-E6-B0-97-E9-A4-A8-EF-BC-92

ここでは日本最古となっていますが、
1903年(明治36年)に東京市浅草区浅草公園六区(いわゆる浅草六区)に吉沢商店が「常設活動専門館」としてオープンしたのが日本初といわれています。

●1931年(昭和6年)の今日
「わが国潜水業の祖である田中銀蔵(90)が没した」
別資料では
「日本水産業界の元祖 田中銀蔵 没する」とあります。
※その他の資料は現在 見当たりません。
 潜水業であれば、幕末期に増田万吉が潜水業を始めた記録が“沿革史”等に残っています。

●1969年(昭和44年)の今日
市電
久保山線(浜松町〜阪東橋間)
神奈川線(州崎神社前〜横浜駅前間)廃止

E3-82-B9-E3-82-AF-E3-83-AA-E3-83-BC-E3-83-B3-E3-82-B7-E3-83-A7-E3-83-83-E3-83-88-2013-09-29-23.55.09
水色の路線が廃止されました

廃止路線の代替バスとして
102系統 滝頭車庫前〜浦舟町〜横浜駅前〜州崎神社前間 運転開始します。

●1985年(昭和60年)の今日
「横浜新都市ビルがオープン、1階が横浜駅東口バスターミナルに」
No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争