突然の出来事だったに違いありません。
先祖代々横浜村に暮らしていた人々は、「突然移住せよ!」と代官からの申し渡しがあり、おそらく村衆が集まり石川村の外れに居を移すことを承諾したのでしょう。
そこでどのような話し合いがもたれたのかは、想像しかできません。
その昔、
南北を海に挟まれるように嘴のように細長く突き出た横浜村は、深い入海を守るように横に延び、防波堤の役割を果たしていました。
そこには<岬>というには小さいものでしたが洲の先端に小さな弁天社があり、村の鎮守様がありました。
■干拓
江戸時代となり、平和が訪れると人々は武士(もののふ)から帰農するものや、商いのために城下町など都市に集まるようになります。人が増え食糧不足となり、新田作りが奨励され「新田ブーム」が起こります。
ここに江戸の材木商、吉田勘兵衛良信が干拓新規事業を計画します。失敗もありましたが、11年の時間をかけ大岡川河口の深い入海を干拓することに成功します。新田の広さは35万坪にも及びます。
干拓事業が始まる前まで横浜村には小高い丘がありました。村人はそれを「しゅうかんじま」と呼び弁天及び周辺の名も「洲干」としました。
1656年(明暦2年)に干拓が始まると、この丘の土は新田造作の一部に使われました。
この結果、横浜村は耕作地が広がることになります。
以来、横浜村の鎮守でもあった「洲干弁天社」は詣でる人々が増え武蔵国風土記にも図解されるほどになりました。
実際、洲干弁天社の建つあたりは、入りくんだ深い入り江と松林が重なり対岸の野毛村との波間には飛び出るような”穴岩(あないわ)”と共に風光明媚な物見空間として賑わいをみせます。
■八丁畷(はっちょうなわて)
徳川の世になり東海道の宿場町が整備されます。中でも金川宿と程ケ谷宿は江戸との程よい距離でもあったため、また程ケ谷は権太坂から戸塚宿の間に連なる急坂群もあることから上りにも下りにも休憩処としても賑わうようになります。
そして11年の時間を費やし1667年(寛文7年)に完成した吉田新田によって、宿場周辺の村々は大きく変化の時代を迎えます。
それまで海を介した<対岸同士>だった村が、新田により登場した道を抜けることで交流が生まれました。
特に、
干拓地を支える内突堤の道は”八丁畷”と呼ばれ石川村・野毛村往来の中心道となり往来は人普請の役割を果たし、堤を踏み固め今日まで吉田新田の堤(長者町通)を護っています。
■小寒村史観
90年代まで、多くの横浜史を紹介する枕詞は「わずか100戸に満たない(小さな)寒村」が定番でした。確かに近代が押し寄せる開港後の賑わいと比較すればの話ですが、
横浜村は本当に「小寒村」だったのだのでしょうか?
故斎藤司先生は「ここが寒村だったら、日本の村の多くが寒村になってしまう」と語っていたことが印象に残っています。村のサイズは周辺の環境条件にもよりますが、共同体のスケールは自然に定まっていったようです。確かに江戸の村落を比較する指標、「石高」から見れば村民あたりの石高は若干低い記録として残っていますが、それを貧しさに繋げるのは早計です。街道に近い村落経済はもう少し多面的な運営がおこなわれていました。
横浜市域にあたる久良岐郡・橘樹郡の村落はそもそも「江戸幕府直轄領地」ですので、江戸五街道最大の東海道宿場経済圏として安定した経済を維持していたといえるでしょう。
宿場は都市化した集落です。
この都市化した<街道の宿場経済圏>に含まれた村落は、文書では見えにくい生活像があると斎藤先生は指摘されました。「古文書では見えにくい」生活がそこにあり、時の天変地異による災害はあったにせよ、ある程度豊かな生活をしていたと考えるのが自然でしょう。
野毛集落には漁業があり、戸部の山林入会からは炭や燃料が供給され、太田、蒔田では少量ながらも製塩が行われていました。房総の富津漁港とは湾内の漁を巡って競い合う文書も多く、漁業が盛んだったことを推測できます。
さらに吉田新田効果によって、米雑穀の収穫量が飛躍的に上がります。
新田運営の影響で漁業場も、漁獲の種類が変わっていきます。内海漁から外海の野毛浦などの沿岸漁場に移り磯場の牡蠣や海鼠などが良く採れたようです。江戸期後半には沖での漁業も行われるようになっていきます。漁獲がさばける市場が拡大した結果といえるでしょう。
これも新田効果とでもいうべきでしょうか、この地域は”往来”による経済が確実に周辺の村々を豊かにしていったと想像することできます。
橫濱寒村史観は訂正される必要があるでしょう。