第994話【一枚の絵葉書】橋に書かれたアルファベット

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#前田橋 #堀川 #絵葉書
近年、絵葉書が風景史料として注目されています。そこに写された風景が、発行者の意図を越えて、新しい発見があるからです。 ここに描かれている風景は 堀川に架かる三代目「前田橋」の関内側から撮影されたものです。
投函されたのは1905年(明治38年)日露戦争末期、東京の軍兵舎から日頃世話になっている郷里の友人及び家族に送られたものと推察しました。
日露戦争は奇跡的に勝利したものの戦費枯渇の中、両国は収束点を求めつつ、水面下で外交交渉が進められているころです。
時代背景はさて置き、この絵葉書を拡大してみると、橋のたもとのところに<英字>で何か書かれていることに気が付きました。上流側には前田橋の銘板のヨコに「C HAL…」と書かれています。
一方下流側には 人物がかぶって一部しか見えませんが、メッセージが書かれています。この時期はまだ手彩色の時代ですので、色彩が正しく当時の色合いを表現しているかどうか不確かですが、文字に関しては地となるモノクロ写真に写り込んでいたものでしょう。
欧文表記ですので、外国人向けのメッセージと思われます。もしこれが広告としたら驚きです。橋を使った広告が明治期普通に展開していたということです。
前田橋は、居留地を出島化するために堀川が開削され1860年(万延元年)に架橋されました。明治維新後の1871年(明治4年)、居留地からの要求に応じて拡幅工事を行うことに伴い、新しく架橋(二代目)されました。さらに1890年(明治23年)に鉄の橋(三代目)に架け替えられます。
この絵葉書に映っている前田橋はこの三代目鉄の橋です。
その後関東大震災で消失し、震災復興橋(四代目)として新しく架けられ、1983年(昭和58年)に五代目が架けられました。
前田橋 とりまとめ
<初代>
1860年(万延元年) 堀川開削と同時に谷戸橋、西之橋併せて三つの橋を架橋。 <2代目>
1871年(明治4年)

明治14年迅速図

※1889年(明治22年)に電話の一般供用開始
 上掲風景は元町にまだ電柱が無かった時代のものです。
 2代目前田橋の欄干は写真の通りだったと推測できます。 <3代目>
1890年(明治23年)
前田橋の上にケーブルが架かっています。元町の電信ニーズが高まった証ではないでしょうか。 ***関東大震災*** <4代目>
1927年(昭和2年)8月5日竣工
幅 6.00m
長さ34.2m
※肘木式鋼板桁橋
4代目の写真を探しているところです。 <5代目>
1983年(昭和58年)架替
幅 13.8m
長さ30.9m
タイトルに掲げた「前田橋」のアルファベットは何も謎解きできていません。
今後の謎解きテーマに加えることにします。しばしご容赦ください。
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第993話【一枚の絵葉書】根岸療養院

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根岸療養院
前回は中村石川にあった「横浜市中央教材園」の絵葉書から導き出された風景を紹介しました。今回も前回と同様の「一枚の絵葉書」から横浜史の一風景を読み解いていきたいと思います。
この【一枚の絵葉書】シリーズは、手元の絵葉書から、そこに写し出されている風景を読み解きながら関連情報を探っていきます。
基本読み物としては鬱陶しくなってしまいますが、ご辛抱ください。
1000話までこんな感じです。
前回は 第992話 リケ児育成のために(修正追記)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12622
今回の一枚は「根岸療養院(山海館)」
第一印象はタイトル通り根岸の病院か結核療養施設の風景のようです。
Google検索でいくつか関連データが見つかりました。
「中区史」の地域編のなかで明治期の根岸開発の模様を伝えた記事がヒットしました。
中区史根岸療養院記述
「さらに四十五年七月には五坪(一六、五平方メートル)の家屋を改造した病室を持った根岸療養院が二、一四九番地に建てられたことである。」とあり<所在地>と<設立年>が判明しました。 1912年(明治45年)開設
場所は根岸村2,149番地
これをヒントに開設場所を地図で探ってみました。
手元にある地図では明治45年(大正元年)近くのものが無く、少し時間の経った大正12年、震災前発行の地図から「根岸療養院」の場所を探してみました。
大正12年4月根岸
遡って明治14年の迅速図、昭和に入った根岸周辺地図でもあたってみました。
明治14年根岸
昭和4年根岸
本牧・根岸は戦後海岸線が埋め立てによって大きく変貌しましたが、当時の「根岸療養院」からは眼下に海が広がっていた事でしょう。 ではこの療養院はいつまで存続したのか?Google検索から
大正12年の関東大震災における「横浜・神奈川での救援・救済対応」という震災資料がヒット。
「神奈川県庁は、9月2日、桜木町の海外渡航検査所に救護(治療)本部を置き、傷病者の治療を開始した。3日、同所に県庁仮事務所を置き、高島町の社会館内に傷病者の収容所を設けた。社会館は県庁が震災の2年前に開設した労働者のための宿泊施設である。既に述べたように、同日、衛生課長の下に救護(救療)、衛生材料調達、死体処理などの係を設けて衛生課職員を配置した。医師、看護婦は、横浜市の十全病院、根岸療養院より借り入れ、また、臨時の募集を行って不足を補い、救護本部や社会館内の収容所に配置した。」(中略)「根岸療養院は個人の経営する結核患者の療養所だったが、震災以後、結核患者を郷里に戻し、9月8日から30日までの間、一般傷病者の収容を行った。受診患者数(延べ)は入院1,803人、外来4,299人であった(『神奈川県震災衛生誌』)。10月以後、日本赤十字社に療養院の建物と器具、職員が無料で提供されて、同神奈川県支部の臨時根岸病院となった。
と記載されていました。日本赤十字社と関係があったことが伺えます。
日赤の資料も探ってみると
1924年(大正13年)結核専門の療養施設である根岸療院を開設。とありました。これだけでは根岸療院=「根岸療養院」なのかまだ確定しませんが、この「日赤根岸療院」が源流となったのが昭和21年に改称された「横浜赤十字病院」です。
そして現在の「横浜市立みなと赤十字病院」につながります。
横浜市立図書館のオープンデータに
1917年(大正6年)発行の横浜社会辞彙という当時の紳士録に近い資料がありその中に「根岸療養院」について記載された概要を下記にまとめました。横浜社会辞彙「根岸療養院」項目に院長の名がありませんでしたが、個人名から創設者が<大村民蔵>ということがわかりました。 院長 大村民蔵
根岸2194番地
電話2411番
敷地 2500坪 全9棟 延べ床 525坪
 個人病室 30室
 共同使用病室 8室
全体で凡そ100名の患者を収容。
1912年(明治45年)7月18日 根岸に開設
1913年(大正2年)7月春心館を建築
1915年(大正4年)7月山海館(2階建て)
8月 静温館
10月 浴室等完成
日運館・赤心館
(庭園)松林・梅林・菊園・ダリア
この時点で、図書館DBで他の資料が無いか確認した所
創設者である大村民蔵氏の資料(自伝)がありましたので 創設者大村氏を追いかけてみました。
膨大な自叙伝ですのでプロフィールの一部分だけ紹介します。 大村民蔵
山口県防府市 出身
1869年(明治2年)11月22日
大村茂兵衛の四男として生まれ
17歳のときに故郷から横須賀に移り、役場に勤めた後、鉄道局駅吏として横浜駅(現桜木町駅)に勤務しますが、初心を貫き東京に出て「済生学舎」に学び医師資格を目指します。
1897年(明治30年)12月医術開業試験に合格し医師の道を歩み東京荏原(品川)の病院に勤務します。
※「済生学舎」1876年(明治9年)長谷川泰により設立された医師を目指すための医師免許専門の学校でした。
 野口英世・吉岡弥生・荻野吟子らがここで学び、医師の道をめざしました。
1898年(明治31年)に佐野常民より「日本赤十字社社員」の辞令を受け、これが現在に続く横浜との因縁の一つとなります。
横浜との関係は、東京時代に警視庁警察医務の嘱託となったことで
1900年(明治33年)に神奈川県監獄医務所長の辞令を受け根岸にある監獄署官舎に引っ越したことに始まります。
翌年34年には現職のまま研鑽のため北里柴三郎に就き伝染病学を学ぶことになり、これがキッカケで北里人脈が広がります。
1902年(明治35年)に根岸町871番に診療所を開き亡くなるまで横浜市内で医師として活躍することに。
1924年(大正13年)3月31日
「根岸療養院を、日本赤十字社神奈川支部に結核予防と治療を継続する条件にて譲渡し、根岸療院と改名す。
→ここで前述の 根岸療院=「根岸療養院」 が確定しました。
大村民蔵氏はその後も日赤と深く関わることになり、戦後は地域の医者として94歳まで診療に携わり
1969年(昭和44年)12月101歳で亡くなります。 根岸療養院を支えた多くの医師の中でも初期の二人。
医学博士 守屋 伍造
医学博士 古賀玄三郎

 ともに伝染病研究所で所長だった北里柴三郎の門下生でここ「根岸療養院」との関わりだけでもさらに深い物語が登場します。
志賀潔、浅川範彦、そして守屋 伍造の三名が部長として片腕となり、ここに助手として入所したのが野口英世でした。
■古賀玄三郎は
1879年(明治12年)10月20日生まれ〜1920年(大正9年)
佐賀県三養基郡里村(現:鳥栖市)出身。
1899年(明治32年)長崎第五高等学校医学部卒
上京し、東京市築地林病院(築地五丁目)医員となる
1901年(明治34年)岩手県盛岡市立盛岡病院外科部長。
1910年(明治43年)京都帝国大学医学部に入学、特発脱疽の研究(「チアノクプロール」(シアン化銅剤)の開発)、治療法で博士号。
→当時古賀玄三郎博士によって開発された注射液「チアノクプロール」を1915年(大正4年)7月15日に初めて試みたのが有島安子で作家有島武郎の妻だという記載資料がありました。ここでも横浜と繋がります。
1920年(大正9年)
10月17日大連市(中国東北部)で開催された満州結核予防会 発足にあたり記念講演後、
10月18日大連駅で倒れ、21日に亡くなります(41歳)。
大村民蔵氏は師の北里柴三郎はもとより、福沢諭吉とも関係があったようです。
中でも北里柴三郎は1927年(昭和2年)横浜の絹織物商・椎野正兵衛商店の長女・婦美子と再婚しています。
成功名鑑飯島栄太郎
追いかければキリがないくらい様々なつながりが出てきますが
ここでは最後に 横浜の財界人であった飯島栄太郎氏を紹介しておきます。
「横濱成功名誉鑑」にも登場する飯島栄太郎は境町(現日本大通り)「近栄洋物店」のオーナーとして、創業者であった飯島栄助を継ぎ家業の外国人向けの雑貨店を発展させます。創業者の栄助は近江彦根の出身、幕末期京阪、江戸(東京)を放浪の末、明治3年に元町で業を起こし成功します。明治9年に境町2丁目に移転、西洋雑貨取引で財を成し、
明治31年 息子飯島栄太郎に譲り、栄助は予てより取得していた根岸の別荘に<隠居>
明治38年12月に亡くなります。
飯島栄太郎は、家業の雑貨商だけではな無く、アメリカに留学または滞在し、日本に帰国したのち政界・経済界で活躍した人々が集まり、交友を深め便益をはかることを目的に、明治31(1898)年に設立された米友協会の会員として活躍します。
微妙な日米関係となった白船来航時には、国を挙げて米国艦隊を迎える中、大谷嘉兵衛、野村洋三、浅野総一郎や左右田金作とともに歓迎の晩餐会を開催、日米関係の融和に努めました。
【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7201
彼の表した『米国渡航案内』は明治期の渡米ガイドとして大ベストセラーとなります。
 さらには飯島栄太郎の妻・飯島かね子もまた津田梅子に学び「帝國婦人技藝協會」を創立した傑女でした。 またまた遠回りになりましたが、
飯島栄太郎の父、「近栄洋物店」の創設者 栄助が隠居した根岸の別荘が栄助死後、空き家になっていた関係から
友人だった 大村民蔵のサナトリウム計画に協力し、別荘と敷地を譲渡することになりました。 ネット検索の過程で
「根岸小学校は全国でも最も早い時期に学校医の制度を導入したことで知られる。校医は日赤の実質的創設者でこの地で長年結核の治療にあたった大村民蔵氏」とあり、検証してみました。
学校医は明治期から法律的に導入されている制度で
「1894(明治27)年5月に東京市麹町区,同年7月に神戸市内の小学校に学校医が置かれたのが日本における学校医の始まり」であり、大村民蔵氏が根岸小学校の校医を拝命したのが1903年(明治36年)のことでした。また日赤の実質的創設者というのもおそらく間違いです。
「根岸療養院」は神奈川県内の日赤病院草分け的存在といえるでしょう。
という感じですか。
後から発見した別の全景がわかる根岸療養院はがき。
一枚の絵葉書の風景から様々な関係が見えてきました。
大村民蔵は近くにあった「根岸競馬場」とも関係があり、競馬に関するエピソードも満載です。
まだまだ人・場所・出来事との興味ある繋がりがありますが、
今回はここまでにしておきます。
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第992話 リケ児育成のために(修正追記)

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<絵葉書の風景>
一枚の絵葉書風景を読み解きます。
タイトルは「横浜市中央教材園」です。
高台にあるこの施設はタイトルが示すとおり「中央教材園」の温室と関連施設と思われます。
設置されている場所は現在の「石川小学校」の隣接地で、敷地内の北側に位置した場所に「温室」と「植物栽培用の耕地」がありその一部です。
写真の右端に見える大きな建物は、天正5年(1577)に創建した「玉泉寺」と思われます。
当初明治五年に開山した浄光寺と判断しましたが、ご指摘を受け当時の地図と角度を合わせ、異なることを確認しました。
石川小の前を通る坂は坂は「遊行寺坂」と呼ばれこの近くに生まれた作家の吉川英治も歩いた坂です。
遠景は中村町一・二丁目が眼下に見え、遠くには関外(吉田新田)エリアが広がっているのがわかります。隣接する浄光寺は時宗総本山「遊行寺」 藤沢清浄光寺と同じ<時宗>のお寺です。

玉泉寺と中村川
※大慈山瑠璃院玉泉寺
天正5年(1577)に創建
高野山真言宗
横浜市南区中村町1-6-1
関東大震災で全て消失。
昭和6年202坪の本堂が竣工。 写真に写っている本堂は昭和6年に竣工したものと思われます。
撮影時期が少し絞り込まれました。
[教育施設の基本]
絵葉書の「横浜市中央教材園」とは何なのか、少し資料を追いかけてみました。
一昔前まで、進学時には<理系><文系>という分岐点がありました。未だ色濃く文系・理系の区別がされていますが最近では統合型の教育もかなり導入されるようになってきました。
そもそも文理の分離!?
は高校あたりの<数学>との付き合い方で変わってきます。
数学に通じたリケ女がクローズアップされてこうネーミングされると理系が少し”近くなる”と感じるのは文系おじさん現象でしょうか。 冗談はともかく、教育、特に自然科学系には教室と教師だけではなく実験室や教材の準備他 様々な設備を必要とします。
戦前の初等教育でも自然科学系教育の設備投資は厳しかったのかもしれません。いつの時代も必要性を説いた先人が新しいジャンルを切り開いてきました。
下記の文面は大正15年に発表された「中央教材園の必要」と題されたものです。
ここでは
理系児童の育成プログラムとして教育用の植物教材を提供するための「植物園」開設が説かれています。 「市民をして特に自然科学の一般に習熟せしめようとするいわゆる自然研究の第一歩は小学校における博物教育の実績いかんにかかる。それにはまず生徒をして十分博物(ここでは特に植物に関する方法を指す)の知識を授ける手段として実物に日夕親しませる必要がある。このためには本来ならば各学校に植物園、植物見本園、栽培園のごときものを併置するのが最も有数であるが しかしこれはいうべくして行われる程度でない。殊に狭い都市の中には小学校の校庭を占めるさえかろうじてできるくらいなのにどうしてそれ以上贅沢な圃場までとることができよう。」ということで、各小学校に<教材>をおくるための施設「教材園」が必要だ!と説いています。
「この種の計画には相当広い面積を必要」
「相当経験のある技術者」を揃えれば各学校に必要な植物教材(苗木・種子・切り花)を配布できる。ということで、この資料には 小学校教材になりうる植物の一覧が紹介されています。一部を紹介しましょう。 リストでは「栽培容易」「栽培困難」に分類されていて、
パインアップル、マニラ麻、コーヒー、オリーブ、マングローブ、ユーカリ、やし 等
熱帯地域の植物もリスト化されていました。
そこで「温室」が必要となったのでしょう。
現在ではごく普通の「温室」(ビニルハウス)風景ですが、温室装置設置は戦前、丈夫なビニールなど無く板ガラス、強度を保つ枠など当時の最先端技術を必要としました。
横浜市は全国に先駆けて自然科学教育教材用の植物を育成する温室をここ「石川小学校」に隣接した高台の一角に「横浜市中央教材園」を昭和4年に開設します。
昭和7年ごろの石川小学校付近。教材園は南東に隣接したところに開園。
徹底調査していませんが、絵葉書に写された「横浜市中央教材園」は別の資料にも日本で唯一という表記があり、当時はかなり珍しかった施設と思われます。
この「横浜市中央教材園」
横浜市南区中村町1丁目66番地
に設置されていました。
中央教材園に関して簡潔にまとまった沿革が「横浜市学校沿革誌」にありましたので紹介します。
「石川小学校わきの山谷埋立地を昭和2年7月より整地開墾し、昭和4年4月27日、石川小学校の校舎落成式と同時に開園式を行い、1,250坪の教材園を開園した。
当時は植物教材の配布、温室による観察等に機能を発揮していたが、昭和19年8月以降は戦争が激しくなったので、農業指導所(経済局所管)になり、温室も取り払われて食料増産園となった。
昭和26年6月に至り再開されることになり、運営委員会も組織され温室も再建され、花壇、薬草園、蜜蜂園等も年を追って充実を重ねて観察用、研究用、又は教材の配布に活動している。
また、中央教材園の活動を地域的にたすけるため、大鳥小、鶴ヶ峰小、本郷小、金沢中、杉田小、潮田中、六角橋中、富士見台小、市立商業高、谷本中、谷本小に分園が置かれている。
連合協力園として間門小、根岸中、浜小、杉田小、文庫小、市沢小、新治小がある。
昭和50年2月、南区六ツ川所在の都市公園に設置を進めている「こども植物園(仮称)」内に移転した。(横浜市学校沿革誌)」
まとめると
 昭和2年に準備が始まり
 昭和3年に完成、翌年昭和4年新学期に隣接している石川小学校校舎新築と一緒に開園式を行い
 昭和19年に閉鎖
 戦後昭和26年に再開され昭和50年に南区六ツ川「こども植物園」内に移転
戦後の復活した後の施設レイアウトです。地図にあわせて北を上に向け画像を回転させました。
昭和27年ごろ、教材園の表記は無く更地のようにも見えます。
[設置目的]
 当時の教育課長であった中川直亮の話によると
 「理科教育の基本である観察・実験・実習・直感の育成過程において、
 教材はできるだけ実物を見せなければならない。」

 ※特に都市部の教育には本物が求められる。
 「直接実物に接しさせることによって、自然の理をわきまえ、自然の美を感得することになる。」
  と語っています。
[運 営]
 そこで、この「横浜市中央教材園」が 市内初等教育における
理科学習教材供給センターとしての役割を担いました。
当時の記録では、季節季節の植物教材がまとめて栽培され、市内各校の自転車・リヤカー等を使って配布し、配布した植物の栽培育成方法を技術指導に赴いていたそうです。
開園から2年たった昭和6年にはさらに規模を拡大し、六角橋に分園(専用農園)を開き、養蚕実験も開始します。養蚕に必要な桑葉は小机から運んだそうです。
見学に来た子どもたちの人気は養蚕風景・バナナ・パイナップルなどの熱帯植物だったそうです。
養蚕風景。本文とは直接関係がありません。
戦後、教材園を見学する子どもたち。
「横浜市中央教材園」
基本的に北斜面という恵まれない条件でした。植物育成には南斜面が必要ですがなぜここに「教材園」設置が決まったのか、これに関する資料には出会っていません。
理由を考えた時、この中央教材園が設置された石川小学校の歴史が古く、学校経営とも深く関係があったと想像しています。
<石川小学校>
1872年(明治5年)「養賢学舎」として「玉泉寺」境内に設立した古い歴史を持っています。明治33年には児童数約1,300人を抱え、学区は石川町、石川仲町、中村町でした。
植物園は独立組織でしたが温室管理には学校の協力が欠かせません。当時の校長であった荒波階三以下教師陣による積極的姿勢が関係していたかもしれません。校長を勤めた荒波階三は平沼小学校の訓導(教諭)から大正13年11月に就任、新校舎造営に関わり昭和3年10月の新校舎落成後、平沼小学校長に転任しています。その後「青木国民学校長」を戦後まで勤め昭和21年の三ツ沢小学校への統合を終え退職しています。
もう一つ、ここに温室のある植物園が設置された理由と思われる要素がありました。
この石川小学校近くには明治期から国際的な植物ビジネスを手がけてきた「横浜植木」があります。
横浜植木
https://www.yokohamaueki.co.jp
明治期に創業、いち早く世界の植物サンプルを集め、米国にも支店を出すなど、当時の日本園芸、植木業界のリーディングカンパニーとしての業績を今に残しています。間接的かもしれませんが、横浜植木の技術的支援を受けた可能性は高いと思います。 [その後]
横浜市こども植物園
■沿革
・横浜市こども植物園の前身は昭和30年に世界的な植物遺伝学者、木原均博士が財団法人木原生物学研究所を、京都市郊外の物集女(もずめ)から移転してきたところから始まる。
横浜市はその一部を昭和45年3月、公園用地として買収し、当初は横浜市教育委員会が、児童、生徒の理科学習や教職員の野外研修所「子供自然教育園」として使用し、その後、教育委員会の中央教材園分園として活用していた。昭和49年に教育委員会から緑政局へ管理移転されて、公園整備工事に着工し、昭和51年度都市緑化植物園として都市計画決定を得て整備を続けた。
昭和54年6月23日国際児童年を記念し、世界で唯一、「こども」と名のつく植物園として開園した。
目的
 ①横浜市こども植物園は、一般の都市公園とは異なり、植物を題材とした自然史博物館的施設として、多くの種類の植物を収集・保存、育成・展示し、利用者に観賞してもらうことを目的としている。
 ②植物をとおして、自然に親しむことにより、子供が植物に関する知識を深め、緑を守り・育てる心を育むことを目的としている。
 ③機能的には植物研究型やレクレーション型の植物園ではなく、主に子供を対象に普及啓発的活動をとおして教育する指導型の植物園である。
[概要]
果物園(木原博士のコレクションが元になっている200年以上存続した品種の保全接ぎ木等)
花木園(教材園の頃からあった樹木を中心に、生活や文化との関わりの深い代表的な種で、話題性のあるものを選んで植栽している)
薬草(身近な薬草をはじめ、染料、香料、工芸、油料植物等、生活に利用する植物や、役立つ植物を植栽展示)
生垣園(生垣として用いられる代表的樹種28種をあつめ、植栽展示)
シダ園(日陰地を利用し、約50種を植栽展示)
タケ園(生活に深い関わりのあるタケの仲間をタケ、ササ、バンブー類に大きく3つに分類し、30種を植栽展示)
その他:市内に自生する野草約150種を使って、ロックガーデン風展示。市内の海岸から平地・山地まで自生する野草という観点で植栽している。
温室群・管理圃場・実習圃場・池(水生植物見本園)
現時点ではここまで、
なにか新資料に出会ったら、さらに追いかけてみたいと思います。 石川小学校
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/ishikawa/ No.225 8月12日 (日)太夫 打越に死す
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=382
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第991話 【横浜の階段】百段坂

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<階段>の視点で横浜を紹介します。
横浜の階段、第一弾は元町百段坂です。
ここは下記のブログで紹介しました。
【横浜の風景】元町百段坂を数えてみた!
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9211
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9901
今回は視点を変えて 私の手元にある資料から年代順に並べてみよう!
という単純テーマです。(少々手抜きですが)
元町百段は
明治初期の百段坂。電柱がありません。
上の写真を拡大
初代木製の前田橋、人家の壁の<シミ>が良くわかります。
「厳島神社の末社で、かつては旧横浜村の海辺にあった浅間神社は、1859年の横浜港開港後の開港場整備に伴い住民が元町に移った1860年(万延元年)に、山手の丘の上に移された。その際に、運上所御用船の船頭である勘次郎が、元町の前田橋の先から浅間神社にまっすぐ登る石段を寄進した。石段は101段あったことから、「百段坂」や「元町百段」と呼ばれ親しまれた。丘の上には浅間神社の祠のほか、港を一望できる見晴台や茶屋が設けられ、多くの日本人や居留外国人が訪れた。
1923年9月1日に発生した関東大震災で石段は崩落し、丘の下の数十軒の家屋を押しつぶし多くの犠牲者を出した。その後石段が再建されることはなかった。元町百段を偲ぶものとして、1987年に浅間神社跡に元町百段公園が開園。1991年に元町商店街に完成した商業ビルは「百段館」と名付けられた。」

(Wikipedia)
「この地は、横浜の開港時から大正期にかけて、浅間山の見晴台と呼ばれ、たいへん眺望のよいところでした。右の写真は、当時前田橋から「元町の百段」を撮影した貴重なものです。元町二丁目から急な石段が百一段あったのですが、市民は「百段」と呼んで親しんだものです。この場所には、元町の鎮守厳島神社の末社の「浅間神社」が祭られ、小さな茶屋があり、外人の観光客もよくここを訪れています。浅間神社は、もと横浜村にありましたが、万延元年(一八六〇年)に横浜の村人が元町へ立ち退いたとき、いっしょに移されました。昔は、ここから港の出船入船や関内地区が手に取るように見え、遠く神奈川宿の旅篭や茶屋までが見渡せました。この公園は、関東大震災で崩れて、今はない「百段」の歴史をここにとどめるように造られたものです。」

百段坂 碑文
碑文に使われている横浜絵葉書
百段坂から開港場を眺めた風景
「浅間坂の所謂百一段は、坂上の雨森家と共に有名なものであったが、地所約三十坪諸共顚落して、その眞下の二丁目百九十七番地より三丁目百三十二番地までの数十軒の家屋が埋没され、全滅に近き程度の死者を出した」 (横浜震災誌)
百段坂下に電力用の柱が建てられた頃。
上より少し後の百段坂。電力利用加入者が増えています。
電信用の柱が建ち、碍子数が30数えることができます。
文面に明治38年7月21日とあります。服装から季節感もほぼ一致しているようです。
電信用架線が橋を越え、中華街側に伸びています。大正初期と推定できます。
電信柱から伸びる専用架線
ではコレクションの範囲内ですが、年代順に並べてみました。年代推定の根拠は<電柱>です。
ミニネタ番外編】横浜電信柱探索(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5311 現在、元町百段の面影を探すことはできません。この場所を写した風景写真(絵葉書等)はかなりの数ありますので、当時の観光名所としても人気のある場所であったことは間違いないようです。
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【閑話休題】

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第990話 近代・ミシン・横浜
を三回に分けて書きましたが、結果消化不良になってしまいました。
この事件は、偶然書店で購入した「ミシンと日本の近代」の中で横浜中央店を舞台にした労働争議の模様が実に詳しく書かれていたので、簡単に紹介してみようと思い立ちました。
「シンガーミシン争議」は横浜市史に書かれていたので概要は知っていましたが、
歴史や市場背景に関しては追いかけていませんでした。
なぜ”ミシン”で乱闘事件が起こったのか?
詳しくは「ミシンと日本の近代」を!
「ミシンと日本の近代」
ミシンは日本の近代化を考える上でとても興味深い道具です。欧米より日本の近代化におけるミシンの存在は大きいでしょう。<和服>から<洋服>へ そして近代軍隊への転換にミシンは重要な役割を担ってきました。
確かに軍服という近代の象徴はうなづけます。ここに日清・日露戦争による未亡人・女性の自立があったり、女性の総合教育の機能を担ってきた背景があります。
一方で企業のグローバリズム化による初期資本主義の弊害をここにみることができます。 横浜を素材に日本の近代化(異文化の受容)を考えてみたい。
これが現在の私のテーマです。
異なったこと、違うモノを受け入れる際の「受容と拒否」が近代化の日常でした。異なったことを<新しいこと>に置き換え、新しいことは<良いこと>という物語を維持しながら、日本は比較的スムースに近代化の道筋を歩んできたように思います。
開港開国以降、明治維新を経て、日本の近代化はある意味”節操の無い”程の積極的受容を試みます。歴史家の中では「不平等条約」を撤廃するための受容だった、と分析している方もおります。
異文化導入をテコに、武士政権から天皇を軸にした立憲君主的な政治構造への変革を遂げるには近代化の需要は必須だったのかもしれません。
日本人はアジアの中で早く近代化の道を歩み始めます。時期的にも 受容の速度としても早かったことは事実です。 横浜の明治から大正期の人通りから 横浜でも圧倒的に女性は和服だということが分かります。
当時の服装を絵葉書から眺めてみます。
伊勢佐木、花見煎餅、玩具の満利屋、ガス灯が見える。人々はほぼ和装。自転車も普及。
伊勢佐木町界隈の風景。ハットをかぶる男性、傘をさす和装女性、和装の従業員、自転車に乗る白服男子
野毛の風景。車夫以外は和装。右側は最近閉店した醍醐三河屋茶店
大正末期の風景、母親は和装、子供は洋服(制服か)
明治期の子供たち。
大正初期の風俗絵。尻にひかれている子供を背負う洋服の夫と和装の女性。
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第990話 近代・ミシン・横浜(3)

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シンガーミシン騒動 in Yokohama
神奈川県警史には「戦時体制下の警察ー特異事件ー」に一項目立てて記述しています。
五.シンガーミシンの乱闘事件
神奈川県警史
ここでは4pを使って<乱闘事件>の概要を警察視点で説明しています。 また
横浜市史でも「労働者状態と労働運動」の項で
「シンガーミシン争議」
 として6pにも及ぶボリュームを使って触れています。
「横浜を舞台に、外資系企業で「民族意識に燃えた特異な」労働争議が発生した。」 横浜市史でも神奈川県警史でも<特異>であるとしています。
この「シンガーミシン争議」は、それまでの資本家(企業側)と労働者対立である労働争議とは異なる事件でした。 事の発端は
1932年(昭和7年)8月にシンガーミシン神戸支店に勤める従業員がシンガーミシン本社に向けて待遇改善を求めたことに始まりますが、
ここに至る背景には日米の企業の経営方式の違いや
シンガーミシン労使関係のこじれが積み重なっていました。
まず時代背景ですが
1901年(明治34年)まさに20世紀、日本に進出したシンガー社は同時に世界市場を席巻、「世界初の成功した多国籍企業」(ハーバードビジネスレポート(2003年))と呼ばれたグローバル企業の騎手でした。
20世紀前半が複製、大量生産、均一化の時代の始まりでした。工場・学校・映画などが時代を大きく変え始めます。
特に大量生産を具現化したのが<machine>でした。
しかも<服製造>という日常を席巻したのが<ミシン>でした。 1929年(昭和4年)10月にアメリカ合衆国で起き世界中を巻き込んでいった<世界恐慌>の影響が遅れて日本にも及び、昭和恐慌と呼ばれた不景気に陥ったことで販売不振に陥ったことも労働問題を悪化させました。 米国有数のグローバル企業シンガー社は
日本に進出した1896年の前、
1890年には 「SINGER brand reaches 90% market share globally.」と自社サイトでも告知しているようにほぼ市場を独占していました。
本社をニューヨークに置き、資本金十四億円、
明治38年に起こった<日露戦争>当時の日本の国家予算
一般会計が4億2000万円。
軍事費が7億3000万円、あわせて11億5000千万円より大きい資本金を保有していました。
神戸に日本総支部(現地本社)を置き、横浜、大阪、神戸、京城に中央支店と呼ばれる地位拠点を設けました。各中央支店には代表として本社社員(外国人)が就き、事務員(有給社員)と歩合給の販売員が雇われていました。
販売社員は全て固定給なしの歩合給で、
しかも入社に際し200円という大金を保証金として会社に納め、信用保険に強制加入、さらに国税10円以上を納める人物二名の保証人まで求められたという始末です。 販売組織は中央支店の下に各分店(販売店)を置き、
分店(販売店)は顧客に一台250円で販売し一年12ヶ月月賦で販売、毎月集金人が回収する方法を採っていました。
販売員は現金入金額の歩合で給与が支払われましたので、月賦回収が遅れると賃金も遅れ、回収不可能となった場合、退職の場合には<保証金><保証人>から回収という方法が採られました。
さらに昭和恐慌が起こったこと、この明治期に採用した特殊の雇用関係は日本が<働き方>の変革を進める中も変わらぬまま継続され続けます。
ここに販売員の不満が爆発することになった訳です。
従業員は交渉を求め、米国本社は一切の要求をはねつけます。経営者側は従業員を甘く観ていたようです。実力行使に出た従業員に対して米国から極東支配人リチャード・マクリアリーがホテルニューグランドに拠点を置き、強行な姿勢を貫きます。
「要求は全て拒絶」しこれをキッカケに従業員の結束が固められ
最終的に横浜を舞台に大乱闘事件が起こり外交問題にまで発展します。
会社側は信興団という暴力団を雇入れ、争議団体を威圧、それまで比較的左翼労働者組織に加盟しなかった争議団は組合を結成、総同盟に加入するという全面対決の様相となります。
1933年(昭和8年)1月18日争議団体のリーダー山本東作の下で実力行使を決定。
朝10時半に150名を集めさらに他の支店からも横浜公園に集合し
花園橋脇にあった横浜中央店に<薪>を手にして乱入。
中央店の位置はこのあたり?(未確認)
会社側は信興団が30名待ち構え、
ここに仁義なき大乱闘が始まります。重傷者1名、負傷者27名が出て店内はほぼ破壊されました。
事件は、
加賀町警察による争議団側の幹部175名逮捕で終局します。内、48名が起訴されますが、事件の内容としては実に寛大な措置となりました。
その後も警察が双方の間に入り、横浜商工会議所とともに調停に乗り出し争議団は一部の要求を実現しただけで渋々和解に応じます。
『全従業員をニグロ視する謬見を止めよ!』
『ヤンキー資本家』
途中で離脱した日本人従業員には
『日本人ながらも唐化している、米国のスパイ』といった発言もみられ、
新聞も警察もやや労働者側寄りになりという日本の戦前労働争議としてはナショナリズム(反米)と資本主義、社会主義が入り混じり不思議な事件として結末を迎えます。
結果、
米国大使(ジョセフ・グルー)、米国国務長官までがこの事件に言及し事態の回復を求めますが、時は日米対立、開戦へと向かうことになります。
多くの従業員が職場を離れ、国内企業に移動しシンガー社は殆どシェアを失います。
戦争を経て戦後の日本ミシンメーカー発展の大原動力となり、戦後のミシンブームを支えることになります。シンガー社は戦後販売組織を回復しますが、殆どシェアを回復することはできませんでした。 昭和7年ごろの日本政府は
~1932年(昭和7年)5月26日まで
犬養 毅(政友会)内閣 5・15事件のため首相暗殺のため総辞職し
1932年(昭和7年)5月26日~
斎藤 実(海軍)内閣が成立1934年(昭和9年)7月8日まで
当時の
駐日米国大使は
 戦後「本当の意味の知日家で、『真の日本の友』であった」と吉田茂が評したジョセフ・グルー(Joseph Clark Grew、1880年5月27日〜1965年5月25日)
1932年(昭和7年)2月19日(任命)〜
1941年(昭和16年)12月8日 太平洋戦争開戦時の大使 うまくまとまっていませんが参考資料が多く出されています。
日本労働史の視点からも実に興味深い事件です。 □追記
シンガーミシンの負の面ばかり紹介しましたが、
前回の章で洋裁学校の誕生を年表に記しました。
「シンガーミシン裁縫女学院」が東京、大阪、横浜等に開校され
日本の洋裁学校の草分け的存在となります。
ここから文化服装学院、杉野ドレメ、横浜洋裁専門女学院=岩崎学園
 他全国に広がりました。
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第990話 近代・ミシン・横浜(2)

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シンガー日本市場を席巻
戦後生まれの人には<ミシン>といえばシンガー以外にジャノメ・ブラザー(安井兄弟社)・ジャガー(丸善ミシン)といった国内メーカーが登場しますが、戦前は圧倒的にシンガーでした。 幕末、横浜に初めて上陸したミシン=sewing machineは
明治期に認知されるようになり、洋服を製造する産業機械として輸入されました。
和服から洋服への転換が必要であった<軍><警官><鉄道員><郵便夫>他公務員の制服製造への導入を皮切りにミシンは日本全国に普及していきます。
キャッチアップが得意な日本人は、輸入されたミシンを元に国産化に挑戦しますが、20世紀に日本上陸を果たしたシンガーによる内製化した大量生産体制の前にほぼ独占状態を許します。
シンガーミシンの成功は後の自動車産業とほぼ同じ歴史を歩みました。フォードはシンガーの成功例に多くのことを学んだかどうかは不明ですが、
シンガーミシンの企業戦略の特徴は
本体機械と部品規格化し内製化を進め、訪問による月賦販売や操作指導(学校開設)といった総合的な販売システムであったことです。
一時期は、日本全国ミシンはシンガー!という時代を築きますが、昭和初期に起こった横浜を舞台にした一大争議と戦争というタイミングから一気に日本市場から消滅し、戦後もシェアを取り戻すことができませんでした。
簡単にシンガーミシン史をベースに洋服と日本におけるミシン普及の足跡を追ってみましょう。 <>は日本国内関係
1851年(嘉永4年)創業者アイザック・メリット・シンガーが(I.M.Singer & Co.)を創立。
 第1号実用ミシンの特許取得。
1853年(嘉永6年)シンガーミシン1号機が100ドルで発売される。
1855年(安政2年)パリ万国博覧会で最優秀賞を受賞。
1856年(安政3年)個人向け月賦購入制度、分割払い販売等を考案。
1858年(安政5年)年間売り上げが3000台達成。
1863年(文久3年)所持特許数が22に登る。シンガー裁縫機械会社として資本資産550,000ドルを超え初代社長はインスリー・ホッパー就任。
<日本国内では、横浜居留地97番にピアソン婦人がドレスメーカーを開店、ヒュースケンがミシンを輸入し横浜の商館で展示する、日本人がミシンを購入>
<山岸民次郎横浜山下町舶来屋「オランダ屋」に住み込み>
1865年(慶応元年)Singer Manufacturing Company に改称。
1866年(慶應2年)<セールス・フレーザー商会(洋服店)開業→翌年閉店し道具一切を佐藤与次郎に譲渡>
1867年(慶応3年)スコットランドのグラスゴーでミシン海外製造開始。
<片山淳之介「西洋衣食住」の中で背広を紹介>
<この頃の洋服製造技術は横浜居留地に集中、東京には洋服店が殆ど見当たりませんでした>
1871年(明治4年)<茅場町に「柳屋」開店>
1872年(明治5年)<明治天皇が初めて西洋式スーツを着用して公の場に登場>
 <慶應義塾衣服仕立局を開設、ミシン2台購入>
1877年(明治10年)<西南戦争に伴い軍服大量生産のためミシン導入>
1883年(明治16年)シンガー生産拠点英国に拡大。
 クライドバンク市に週に10,000台生産可能な巨大製造工場設立。
1884年(明治17年)半期販売数、横浜490台、長崎90台、兵庫55台(635台)
1887年(明治20年)<この頃から足袋縫製にミシンが導入される>
1889年(明治22年)初の電動式ミシンを発売。
1890年(明治23年)シンガー東京有楽町に本部を設立。(1900年説もあり)
<5月10日嘉仁親王(大正天皇)、九条節子(さだこ)と結婚。>
<陸軍被服本廠 設置>

1901年(明治34年)横浜・神戸「中央店」を軸にシンガー全国販売体制を短期間に整備。
1903年(明治36年)首位だったドイツ製を抜き首位に。農商務省を辞して秦敏之入社。
1904年(明治37年)ミシン裁縫女学院 神田区表神保町一番地に設立の記事あり。 1905年(明治38年)<第26代大統領セオドア・ルーズベルトの長女アリス・ロングワース・ルーズベルト(21歳)がアジア歴訪で来日。昭憲皇后に面会した際皇后から「アメリカのミシンが欲しい」とリクエストがあった>

1906年(明治39年)”シンガーミシン裁縫女学院”を東京・有楽町に開校(設立願受理)。極東支配人は秦敏之で校長は妻の秦利舞子(はたりんこ)。その後、大阪、横浜他各地にも裁縫女学院を開校。
1907年(明治40年)3月 269名在籍。4人でミシン1台という学習環境。秋には定員1,000人へ。生徒20人に13台程度の環境とある。
1908年(明治41年)<名古屋で安井商会=ブラザー設立>
1910年(明治43年)”シンガーミシン裁縫女学院”閉鎖。
1912年(大正元年)”シンガー裁縫刺繍院”開設。
1913年(大正2年)シンガー世界販売数250万台を突破。
1914年(大正3年)第一次世界大戦の影響でドイツ製ミシンからシンガー全盛期に。
1916年(大正5年)”シンガー裁縫院”に名称変更。
1918年(大正7年)大阪神戸横浜に中央店、全国に30監督所、600店の支店。
1919年(大正8年)<並木婦人子供服裁縫教授所、開校>
1921年(大正10年)<パイン裁縫機械製作所=ジャノメ、設立>
1922年(大正11年)<並木婦人子供服裁縫教授所、文化裁縫学院→文化学園>
1926年(大正15年)<杉野芳子「ドレスメーカー・スクール」開校>
1927年(昭和2年)<横浜洋裁専門女学院=岩崎学園 創設>
1929年(昭和4年)ミシン輸入が最高潮に年間61,144台に達する。
 国内シェア95%に達する。
1932年(昭和7年)※シンガー労働争議 横浜が最も最大の闘争舞台に。
1934年(昭和9年)<パインミシン、中野工場敷地内に日本洋裁学校開校>
1938年(昭和13年)<東京重機製造工場=JUKI、発足>
1939年(昭和14年)アメリカが対外物資輸出を禁止しミシンが含まれる。
ミシンと日本の近代
<参考文献>
参考文献「ハマことば」
外国資本に対して史上最大の労働争議となった
※ 1932年(昭和7年)シンガーミシン騒動は
大正期から昭和にかけて起こった多くの労働争議とは異なった背景の中で、その後のミシン業界が大きく変化するキッカケになりました。
(つづく)
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第990話 近代・ミシン・横浜(1)

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日本の近代化は同時に始まった訳ではありません。
新しい制度、道具、技術、言葉、人物…
様々な要素が時期をずらしながら重なる中で、
人々は受容と反発を繰り返し近代化は進行してきました。
日本の近代化は<開国>によって幕が上がります。
近代化の端緒が開かれたのは
圧倒的な西欧技術でした。
例えば、鉄道に代表される蒸気機関。
そのエネルギーは日本人が経験したことのないパワーでした。
一方で生活習慣では永々と続けてきた日常が変化し始めます。
服装を例にとれば和服生活に洋服が入り込むこととなりますが、多くの欧米化の中でも洋服の習慣化にはかなりの時間がかかりました。
特に一般女性の洋装への道は時間を要しましたが、現在でも<洋>服と呼ぶ数少ない欧化の象徴です。
この洋装化の基軸となったのがsewing machineです。
一般的には<ミシン>と呼ばれています。
ミシンは裁縫の機械化をもたらしましたが、果たした役割は縫製という機能に留まりませんでした。
カール・マルクスはミシンを「決定的に革命的な機械」と呼び、軍隊という近代の暴力装置を支えたのもミシンです。日本でのミシン導入の強い動機は<軍服>縫製用です。
このミシン=sewing machineと縁の深い横浜を舞台にミシンと近代化を紹介しましょう。
横濱村辺之図
横濱村辺之図
日本に初めてミシンが上陸したのは1854年(嘉永7年)2月、横浜です。
この時、ペリーは蒸気船・鉄道・電信機といった機器のほか、同時代の米国最先端技術を黒船に載せて横浜の応接場に持ち込みます。
少々長くなりますが、ペリー贈答リストの一部を紹介します。
リストを眺めるだけでも驚きを隠せません。
・蒸気機関車ミニチュア(1/4サイズ、炭水車・車両・線路つき)1台
・電信機2セット(電池、電線4.8km、絶縁体つき)
・フランシス製 救命ボート
・銅製寄せ波船(サーフボート)
 →ハワイ文化
・農機具一揃
・自然科学に関する本
・法律や政治に関する本
・農業や工学に関する本
・合衆国沿岸の海図集
・銀蓋付き化粧箱
・緋羅紗やベルベットなどの布地
・合衆国標準の秤・分銅・樽・巻き尺など測定具一式
・マデイラ酒、ウィスキー、シャンペン他高級酒
・上等の茶3箱(高級紅茶か)
・合衆国の州地図と石版画
・望遠鏡(脚一式)
・鉄板ストーブ
・上等香水各種
・火薬
・ライフル、マスケット銃、剣、カービン銃、ピストル
・ニューヨーク州立図書館と郵便局目録
・南京錠(鍵)付き郵便袋
→郵便制度の道具
・花の刺繍入りドレス
・金メッキの化粧用品箱
・香水詰め合わせ 6ダース
・動物図鑑
・米墨戦争に関する書籍と絵画
・柱時計
・ストーブ
・茶器
 その他 そして贈答目録には含まれていませんがこの時に
ウィラー&ウィルソン社のsewing machineが含まれていました。
ミシンがペリーの正式な贈答目録に無かった理由は不明ですが、
米国内でも登場(製造)したての<新製品>であったためではないでしょうか。
ペリーによるミシンを受け取ったのは徳川13代将軍家定の妻<篤姫>ではないかと推測されています。
理由は、開港後の1862年(文久2年)に天璋院(篤姫)から献上のsewing machineの返礼をウィラー&ウィルソン社に送付していたからです。
この時期
1850年代から1900年にかけての半世紀は縫製機械の革新期にあたります。生産国のアメリカ企業は国内はもとより外国向けに市場拡大を狙っていました。また需要拡大の背景には軍の近代化がありました。一般兵士の急増に対し”軍服調達”が急務だったからです。
革新期にあったミシンを使った縫製技術は日本を含め、欧米で同時代的に普及していきます。 もう一つ。
1860年(万延元年)に米国に渡った遣米使節団(木村提督・勝艦長)の通訳として咸臨丸に乗船した中浜万次郎(ジョン万次郎)も米国から<寫眞機>と<ミシン>を持ち帰っています。 咸臨丸
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=184 近代化を迎えた日本では、まず居留地でミシンを使う外国人が登場します。幕府開成所の教官であった遠藤 辰三郎は横浜居留地の外国人から「西洋新式縫製機械(ミシン)」の使い方を学び国内に広めようとした人物です。機械はあれど、使い方が解らなかったという訳です。
「西洋新式縫物器機伝習並に仕立物之事、右器機はシウインマシネと名づく精巧簡便の品にて近来舶来ありと雖も用法いまだ世に弘らず依て去年官命をを蒙り、横浜に於て外国人より教授を受け、尚又海内利益の為に伝習相始め候間、望の御方は開成所へ御尋なさるべく候、付ては伝習の序、何にても註文次第廉価にて仕立物致すべく候、依て此段布告に及ぶものなり。慶応四年二月開成所に於て遠藤辰三郎(明治文化史)」
幕末から明治にかけて、輸入ミシンの多くはドイツ製でした。
ドイツ人のアープルヒは幕末に自国製ミシンを輸入し横浜で販売を開始します。
西南戦争・日清戦争を契機に各国のミシンが軍事用として多く輸入されます。ドイツ製ミシンがを始め欧米製も輸入され市場を競い合います。
この頃
1850年(安政6年)ドイツ系ユダヤ人のアイザック・メリット・シンガーが移住先の米国で現在とほぼ同じ構造のミシンを発明しミシン市場に革命が起こります。
その後、製造システム、販売システムの革新で
ピーク時には世界のミシン市場の80%を独占した<シンガーミシン>時代が日本にも圧倒的な販売力とともに上陸することになります。
(つづく)
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第989話【運河物語】派大岡川

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横浜の運河を追いかけています。
今回は「派大岡川運河」です。
大岡川と中村川を結び、吉田新田誕生と同時に誕生し昭和48年に消えた運河です。
明治45年関内地図
吉田新田図(幕末)
上図は、幕末開港直前の吉田新田付近です。横浜村がペリーとの交渉場所となり、その後開港場がここに誕生します。太田屋新田ができるまで、「派大岡川」ではなく中村川河口の入江でした。それが、開港場となり治水と居留地出島化の役目をもって中村川が山手に沿って延長開削され「堀川」運河が登場します。
これによって、本来なら埋め立ててしまったほうが交通上は大変便利ですが、出島条件の方が優先され、また、当時の水運は物流に欠かせませんでした。
「派大岡川」として水路、運河は温存されることになります。
大岡川下流域運河群の中で、意外に思われるかもしれませんが、過去の橋の長さの記録や写真などから「派大岡川」が最も川幅があったことが判ります。(後述) [橋梁群]
派大岡川には最大時で7つの橋が架かっていました。
明治45年西ノ橋付近横浜電気鉄道予定線
0:<謎の橋>明治45年の地図に掲載。横浜製鉄所のあった倉庫群につながる軌道鉄道が西ノ橋近くの<派大岡川>に設置される予定でしたが、計画で終わります。 1:吉浜橋※
 吉浜町と小田原町を結ぶ橋です。
 関外エリアにあった石炭倉庫(幕末に横浜製鉄所→石川島播磨)に渡る橋でした。
吉浜橋から横浜電気鉄道
派大岡川と吉浜橋
2:花園橋
 薩摩町通りと扇町通りを結ぶ橋です。
 この橋の親柱は現在港中学校校門移設されています。
花園橋親柱
3:港橋※
 関内駅脇に架かっていた港橋通りと不老町を結ぶ橋です。
 派大岡川に架かっていた橋の片辺の欄干が唯一残っています。
市役所と派大岡川
派大岡川港橋
4:豊国橋
 港町と蓬莱町を結ぶ橋です。明治30年に弓形をした三連ピントラス橋が架かっていました。
 豊国橋横に吉田川運河が合流し蓬莱橋が架かっていました。 5:羽衣橋※
 震災後に架橋されたもので現在は羽衣架道橋として国道16号線の橋梁として使用されています。
  6:吉田橋※
 吉田橋は関連記事を多く書いています。
 第942話【謎解き】吉田橋広場
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11269
 【横浜の橋】№3 横浜を語るなら吉田橋を知れ
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8106
 No.698 【横浜 橋物語】幻の橋?、吉田橋。
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6265
 【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5814
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5816
 【しりとり横浜巡り】6月10日(火)吉田橋
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=4934
7:柳橋
 かつて大岡川の十字路があった場所です。港町六丁目と柳町を繋ぐ橋です。橋近くの岸には<柳>が多くあったようです。現在はちょうど橋のあたりが横断歩道となっています。
大岡川十字路付近(柳橋・都橋)
[消えた運河]
現在、派大岡川は首都高速道路用地となって運河は完全に消えてしまいました。
1960年代には国鉄根岸線が延伸し派大岡川に橋脚が埋め込まれ、運河の上に関内駅が開設され、市役所と横浜球場の玄関として多くの乗降客で賑わっています。現在も根岸線高架部分は<高架橋>ではなく<橋梁>のプレートが残っています。
間もなく市役所移転で、関内駅の様子も大きく変わっていくでしょう。
※印は現在なんらかの形で痕跡が残っている橋梁(横断道)です。
この中で、最も知名度がある橋は「吉田橋」ですが残念ながら昔の姿からは想像もできません。 [舞台]
派大岡川が舞台となった映画の一つが「わが恋の旅路」です。劇場公開1961年(昭和36年)5月16日で、監督 篠田正浩、曽野綾子の「わが恋の墓標」を元に寺山修司と篠田が脚本化した恋愛映画です。キャストは岩下志麻、川津祐介、月丘夢路 他
1960年から61年にロケを行っているので、派大岡川に根岸線の橋脚工事が始まっていたり、港橋、吉田橋、吉浜橋にある横浜中央病院、吉田町商店街の川沿い風景がたっぷり出てきます。
主役の二人が出会う派大岡川岸の喫茶店や、大岡川を使った運河生活の風景が登場します。
第900話【舞台としての横浜】わが恋の旅路
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10161 [運河幅]
派大岡川の特徴の一つに、広い川幅があります。
大岡川運河群の中でも最大級の幅でした。運河群の川幅はどのように推定したかといえば、昔の橋梁スペックから推定してみました。
吉田橋:40.22m
吉浜橋:46.7m
柳 橋:51.5m
豊国橋:42.75m
このデータから 派大岡川の川幅は40mくらいとしました。吉田橋は橋脚部分がせり出しているために短い構造のため、他の橋より短くなっていると思われます。
終戦時焼け跡
以上のように、派大岡川は開港場が発展する時代から今日まで、関内外の重要な運河でした。今は消えてしまった橋梁のなごりを探しながら当時の姿を想像するのも楽しいものです。
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第988話【横浜真景一覧絵図比較】 その2

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明治期に発行された鳥瞰図マップの傑作「横浜真景一覧絵図」から当時の風景を比較します。
今回は建築物です。
明治25年版と35年版からトピックスを幾つか探し出しました。
明治25年版・明治35年版比較
[横浜税関]
この絵図の海岸中心部には桟橋(象の鼻)とそこに明治期の日本を支えた貿易を司る”税関”が鎮座しています。これが二代目横浜税関庁舎です。
当時の最先端建築物の代表格で
1885年(明治18年)11月に竣工、日本大通り正面に建ち、国家を支える威厳を表していました。
竣工間近の鉄桟橋と横浜税関
1923年(大正12年)の関東大震災で崩壊し、
新しい”税関”建設が計画され1934年(昭和9年)隣接地に「3代目横浜税関庁舎」が完成し現在に至っています。
<絵図>で描かれた税関庁舎は当時の横浜絵葉書の素材にも多く選ばれています。
絵葉書を参考に絵図を確認すると、中央に六角形の塔をもつ左右対称の煉瓦造り2階建て庁舎であることが判ります。
エピソード
税関は絵葉書で、良く観察すると左右対称ですが若干違いがあることが判ります。
おわかりですか?
左右の揃った切妻屋根に煙突が出ていますが、屋根の煙突本数が異なっています。
最初に出会った横浜税関絵葉書
最初に出会った横浜税関絵葉書 二代目横浜税関
その後入手した税関絵葉書を見て、何か不自然さを感じました。
<左右が逆>つまり<逆版>になっていることが判りました。
二代目横浜税関
二代目横浜税関(逆版)
どこで判ったのか?
 大正期まで電柱は、道路を挟んで電信用と電力用が別々でした。それぞれ電信柱(でんしんばしら)・電力柱(でんりょくちゅう)と呼びます。
二種類の絵葉書、電柱の位置が逆、
左右対称の建造物ですので、当時の原版はガラス乾板でしたので<逆版>がたまにあります。
問題は 二版の風景、どちらが正版かということです。
 文献写真等から判断すれば簡単!でも資料そのものが逆版であるという可能性も隠しきれません。この風景の左右を証明できる確証がないか? [逆版証明]
横浜税関風景写真、どちらが逆版なのか。
2つの左証が見つかりました。
・税関から横浜公園に続く”日本大通り”風景→電柱分類
・税関前のポスター→文字で判る
日本大通り風景。税関から横浜公園方向。向かって右側に電信、左が電力
税関前日露戦争勝利祝賀ポスター
ということで、正しい横浜税関の姿がわかりました。
※少々絵図からは逸れました。 [仏蘭西波止場]
現在の大桟橋に対し元町堀川寄りに小さな桟橋がありました。一般的には「仏蘭西波止場」と呼ばれました。
幕末明治期の<桟橋>名称も若干混乱の種です。
25年版では「西波止場」とあります。
35年版では「仏露西波止場」と表記、この仏露西 他でも見かけることがあります。
でも
“西波止場”は仏蘭西の西
“仏露西”は仏蘭西の誤植だと思います。
 深く追いかけません。追求は別の機会に。
英吉利波止場
[指路教会]
明治25年版と35年版にこそ時間経過が判る場所の一つを発見しました。尾上町通りにある指路教会です。
■指路教会は横浜居住地39番に設立され
1892年(明治25年)に現在の位置に移転しました。
明治25年版に描かれる時は、塗(ヌリ)で隠されていましたが
尾上町通、ヌリあり湊六丁目
明治35年尾上町通り、指路教会。横須賀航路出船所も確認
明治35年版では教会の姿が描かれています。
これが資料によると初代の教会で、関東大震災で倒壊し、その後再建されますが横浜大空襲で内部が消失し再度再建という歴史を刻んでいます。
この35年版に描かれている”指路教会”がどの程度正確なのか? 指路教会のHPに小さな写真が掲載されていました。
指路教会の写っている絵葉書を探してみました。尾上町通りの路面電車時代(横浜電気鉄道)の風景がありました。
横浜電気鉄道株式会社は
1904年(明治37年)から1921年( 大正10年)まで運行しその後、横浜市電気局(市電)となりました。
明治35年版と絵葉書、若干向きと構造が異なりますが、
塔と教会が判ります。
尾上町通と大江橋
尾上町通と大江橋
明治25年版では
 この場所がヌリで消されているようにも思えます。
 指路教会が建つ前の風景が書き込まれていましたが、その後教会建設が始まったために修正されたと解釈できないでしょうか。
日本人街と外国人街で異なる町並み
[絵図の町並み]
絵図には平屋と二階建ての建造物中心に町並みが描かれています。
二階建建造物などは、当時の様子をある程度反映していたと思われます。
外国人居留地では二階建て構造が多く
日本人街では平屋が多いことが見えてきます。
さらに軽量的に観察すると色々なことが見えてくるのではないでしょうか。
→(宿題です)
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