12月 31

第946話【横浜史の節目】後半

1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で横浜市域は多くの人命、財産を失います。
実質、東京より被災度が大きかった横浜は、帝都東京を復興するという最優先の下
独自の震災復興を目指さなければなりませんでした。
多くの企業が横浜を去り、港都の機能が麻痺、蚕・絹を中心とした貿易産業は壊滅状態となります。
横浜は元々
幕末、江戸開港を避けた結果として、<港都横浜>が誕生します。
関東大震災が起こる頃、横浜は現在の10分の一にも満たない<小横浜>でした。
1901年
第1次市域拡張 面積24.80km2
1911年
第2次市域拡張 面積36.71km2
1927年
第3次市域拡張 面積133.88km2
廃墟からの脱却を復興だけではなく
<発展><産業転換>という新しいベクトルで推進したのが
【最強の市長】有吉 忠一でした。
湾岸の埋立、港湾機能の高度化、産業誘致を推進し
<大横浜>を目指しました。
※市域拡大
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?

【番外編】市域拡大は元気なうちに!?(加筆)

第940話【最強の市長】有吉 忠一

第940話【最強の市長】有吉 忠一

1923年から戦後まで横浜は波状的な破壊・復興を繰り返しました。
震災後の横浜は横浜大空襲でまたまた壊滅。
終戦、当時沖縄を除き、日本最大の<占領・接収>時代を迎えます。
※関東大震災
No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

※横浜の空襲
「写真でみる横浜大空襲」web版
http://www.city.yokohama.lg.jp/somu/org/gyosei/sisi/web-air-raid/

※占領下の横浜
第905話 【占領下の空】

第905話 【占領下の空】

長い占領・接収時代が続きます。
戦後接収解除と人口急増が重なり、横浜は爆発的に拡大する<東京>のベッドタウン化していきます。
■1968年(昭和43年)
人口200万人都市となります。この年、ブルーライトヨコハマ、伊勢佐木町ブルースという空前の大ヒット曲が生まれ、横浜市の大PRとなりさらに人口が急増します。
1968年をテーマに
No.422 【舞台としての横浜】妙蓮寺と野毛

No.422 【舞台としての横浜】妙蓮寺と野毛


■市電の時代の終わり
1966年(昭和41年)に生麦線、中央市場線を廃止したのを皮切りに廃止路線が増えて行きます。
1972年(昭和47年)市電とトロリーバスが全廃されその姿を消しました。
同時期、関内外の運河が消えてゆきます。
■1980年代、横浜は政治の嵐
No.357「今保守を問う」

No.357「今保守を問う」加筆版


■1989年バブル崩壊前夜のお祭り
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催


■1996年防災ボランティア元年
No.237 8月24日(金) 防災は体で覚える!

No.237 8月24日(金) 防災は体で覚える!


No.126 5月5日 私がこどもの国を選んだ訳

No.126 5月5日 私がこどもの国を選んだ訳


■2002年はワールドカップサッカー
No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!

No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!

後半はリンクばかりになってしまいました。

Facebook Comments
12月 31

第945話【横浜史の節目】

来年は明治維新150年にあたります。
横浜は開港159年。吉田新田完成351年。2018年を迎えるにあたり 平成30年 そして平成31年には
日本近代史上、初の穏やかな平成の終わりを迎える年となります。
ということで

改元についてちょっと整理しようと思ったら
以外に 手こずりました。 改元は何時行われるのか?
1868年10月23日(慶応4年9月8日)
改元の詔書(年始めから遡って改元)
「慶応四年を改めて明治元年と為す」
制度上は慶応四年は存在しないことになります。
1912年(明治45年)(大正元年)7月30日 大正改元の詔書
※改元の詔書には「明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト為ス」
即日改元となりました。
1926年(大正15年)12月25日 昭和と改元。
※明治以降 改元に関して改正がないので
同日改元となり12月25日が昭和元年。
1926年(大正15年)12月26日に改元したという記述も散見しますが、根拠?は不明です。
1989年〔昭和64年〕1月7日
翌日から平成と改元と発表。
1989年(平成元年)1月8日から
 2019年(平成31年)4月30日まで平成時代。
2019年5月1日が改元 ということになりました。
※平成元年は日本史上初めて、遡及がない改元が行われ、
平成は近代史上初めて生前改元が行われることになりました。
余談が長くなりました。
横浜の歴史、時代の変わり目を私流に<超簡単まとめ>しました。
★古代、
横浜市域の多くが海でした。貝塚が今や横浜の丘の上、三沢にありました。
No.212 7月30日 (月)ある“日本人”の学究心

No.212 7月30日 (月)ある“日本人”の学究心

927年(延長5年)
市域内に点在する「杉山神社」が、式内社とされました。
杉山神社は
横浜、鶴見川流域に多く点在し、帷子川、今井川流域にも建立されている全国でのこの一体にしか無い神社です。
杉山神社一覧

杉山神社一覧


暴れ川<鶴見川・帷子川>流域が安定してきた証として神社建立となったと思われます。

★中世
三浦氏の一族平子氏、榛谷氏、稲毛氏など有力な豪族による安定した時代に多くの寺社が横浜市域に誕生します。
1275年頃
北条実時が武蔵国久良岐郡六浦荘金沢(金沢区)に金沢文庫と称名寺を建立。
※※暦で語る今日の横浜【9月22日】

暦で語る今日の横浜【9月22日】


16世紀 横浜は後北条氏の領地となりました。
1590年(天正18年)後北条氏が、豊臣秀吉に攻められて滅亡。

★近世
徳川家康が江戸入りその後江戸幕府が成立。
横浜市域は明治まで徳川氏の領地となりました。
1721年(享保6年)金沢に六浦藩米倉氏1万2,000石の陣屋が置かれ
市内唯一の大名領となりました。
この間、徳川幕府の安定した政権の下で、
農業が飛躍的に進歩し、
併せて築城技術が干拓・治水技術に移転することで大干拓時代が到来し
食料の生産量が飛躍的に伸びます。
まさに、現在の横浜の基礎となった「吉田新田」は大干拓時代の
1667年(寛文7年)に完成します。
この干拓事業の成功が、横浜の発展を支える重要な条件となります。
※wikipediaの「横浜の歴史」では吉田新田完成が記載されていないのが残念です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/横浜市の歴史

横浜歴史上三大エポック!
最初は「吉田新田」完成です。

★幕末
横浜市域最大の事件、ペリー来航と横浜での交渉、そして横浜開港という一大事件が起こります。あまりに有名ですので詳細はカットします。
開港場ができ、居留地が生まれ、外国人はもとより日本各地から人材が集まります。
これによって
日本最大の国際交易港がこつ然!と登場。

★近代
意外と知られていませんが横浜は明治に入り<海軍の街>になります。
北仲の燈台局に隣接して東海鎮守府が設置され、艦隊の後方を統轄する機関となります。

東海鎮守府

その後、すぐに横須賀に移転しましたが、
戦前、横浜は海軍観艦式の開催母港として重要な役割を担います。
<大観艦式>は横浜の一大観光資源として重要なコンテンツでした。
第859話【絵葉書の風景】観艦式に見る日本の歴史

第859話【絵葉書の風景】観艦式に見る日本の歴史

戦前観艦式資料

戦前観艦式資料

【横浜側面史】 観艦式

【横浜側面史】 観艦式

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント

■1871年4月20日(明治4年3月1日)
東京・京都・大阪に郵便役所(現在の郵便局)を設置し最初の郵便切手が発行されました。
※郵便は開港後すぐに<領事館郵便>として日本(横浜)から各国に書簡が送付されましたが外国郵便局はこれ以前に居留地内に設置。■1909年(明治42年)
開港50周年記念 市章・市歌制定

横浜市歌

■1928年(昭和3年)11月10日
横浜市営バス開業

市営バス50周年乗車券

横浜史上、3つ目の節目は
1923年(大正12年)に起こった関東大震災です

昭和以降の横浜は次回に

Facebook Comments
12月 22

第944話 中世の横浜(2)

歴史上横浜市域における<いくさ>はあまり多くなかったようです。
中世期に 幾つか横浜の戦いがありました。
横浜の中世史に関心のある方に横浜の<戦場>は?
と質問すると、
多くの方が挙げるのが、緑区の「小机城」
神奈川区の「権現山」です。
さらに
御家人畠山重忠の終焉の地「鶴ケ峰古戦場(旭区)」を中世の<戦場>とする資料もあります。
これらの<いくさ>は室町幕府の権力が完全に失墜した乱世を背景に起こったものです。
舞台としては600年あまりの長い中世末期、応仁の乱以降に始まった「戦国時代」でした。
平安時代が保元の乱・平治の乱で終わりを告げ、東西に分かれ源氏と平家の勢力闘争が起こります。もののふの登場です。
西の京都は平家、平清盛が太政大臣となり実権を握りますが、東国の源氏が反転し、平家が壇ノ浦で破れ鎌倉時代となります。
海の平家が陸の源氏に、舟の平家が馬の源氏に負けたという表現もできるでしょう。
このころの横浜市域でのできごとは
伊豆から逃げる源氏の反転の舞台となりました。
幾つかの劇的な<いくさ>を経て、鎌倉に幕府が開かれ横浜市域には<かまくら道>が整備されます。
源(みなもと)から北条に政権が移るも鎌倉の地は京都から離れた政治の中心地を維持することになります。初代執権北条時政による北条氏体制を決定づける<いくさ>といっても<謀略>ですが、
1205年(元久2年6月22日)畠山重忠の乱が起こります。
武蔵国二俣川、現在の旭区鶴ケ峰あたりです。
この近くには畠山重忠が戦って敗れた北条氏の一万騎兵に因んだ「万騎が原」の地名も残っています。
※畠山重忠は「坂東武士の鑑」と呼ばれ源頼朝の信頼が厚かった御家人の一人で、埼玉県に居館等があったことで埼玉の偉人の一人をなっています。
1333年(元弘3・正慶2)新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼし、南北朝分裂を経て足利尊氏により室町幕府が始まります。
この足利政権末期に各地で武士たちの群雄割拠が始まり、戦国時代へと時代は変わっていきます。小机の戦いはその前哨戦とでもいえるでしょう。
(小机の戦い)
謎多き応仁の乱が収束に向かった
1478年(文明10年)太田道灌(おおた・どうかん)がお家騒動、家督争いにより起こった長尾景春の乱を最終的に小机城攻めによって落城させた戦いを「小机の戦い」といいます。ことの発端は家督争いですが、長尾景春も太田道灌もこれまでにない新しい知略による<いくさ>を展開した武将で、両者の戦いは南関東全域を舞台に歴史的な戦いとして注目に値します。
中世の戦いの特徴の一つに、お家騒動、嫉妬、恨み等、怨恨?に起因するものが多く起こります。前述の畠山重忠の乱もそうです。
“武士道”にはほど遠い?お家騒動連発の時代です。その結果が戦国時代、下克上へとなっていきます。

この小机城、
鶴見川を防衛の要素に取り入れた城です。後北条氏が縄張りを整備し標高42m(比高22m)の根小屋風・連郭式平山城です。
道灌は、この小机城を攻めるため鶴見川を挟む対岸に、亀之甲山(かめのこやま)城を築き拠点として持久戦を用い
2月6日から攻め4月11日にようやく落城させます。

権現山の戦いは
第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い

第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い

第911話 中世の横浜を理解する(1)

第911話 中世の横浜を理解する(1)

Facebook Comments
12月 20

第943話【今無い風景を読む】汽車道と北仲通の壁模様

1997年(平成9年)に開通した汽車道(開港の道)を渡る折、

開通直後の汽車道

桜木町駅から日本丸の脇に立つと、いつも気なる風景がありました。
帝蚕倉庫の壁に設置されていた「Panasonic」の光学ディスクをモチーフにした広告です。
それ以上にこの壁に這うツタの葉が描く<模様>に釘付けとなったことを記憶しています。
この風景、一服の絵画に見えませんか?
森の中に一軒の家が建ち、冬には枯れ、秋には色づき四季の変化もありました。
私が汽車道を良く渡るようになったのは2000年頃からです。それから17年、汽車道の木々も成長し、何と言っても周辺の景色が大きく変わっていきました。
汽車道、運河パーク内を通るこの道はその名の通り、明治以来汽車が通る鉄道線でした。1989年(平成元年)に横浜博覧会で使用されたのを最後に廃線となり、閉鎖されていましたが、再整備が決まり山手まで繋がる<開港の道>の入口です。この道は
桜木町から明治期に整備された「新港埠頭」現在の象の鼻パーク、大さん橋、山下公園、そして山手ふらんす山を経由する遊歩道です。
撮影の頃、新港埠頭近辺には大きな商業施設、横浜ワールドポーターズがありませんので、1990年代の風景です。 1980年代、1990年代、2000年代、2010年代
このエリアは 10年単位で大きく変貌してきました。
横浜市内で今、
最も変化し続けている空間といえるでしょう。

Facebook Comments
12月 14

第942話【謎解き】吉田橋広場

今年は馬車道150年です。
1867年(慶応3年)に「吉田橋」から関内を通り抜ける広い道路が整備されたことに因みます。
この「吉田橋」から続く<広い通り>は地元の人たちに通称「馬車道」と呼ばれるようになり、その後区画整理を経て現在の「馬車道通り商店街」となりました。 この吉田橋を渡ると伊勢佐木町の繁華街が日枝神社近くまで続きます。
もう一つ
「吉田橋」袂から斜めに「吉田町商店街」が野毛へと続きます。 この吉田橋際に立ってみると、馬車道側に不思議な空間があります。
かつて
「丸井横浜関内店馬車道館」があった場所でした。 1980年(昭和55年)に開店
2000年(平成12年)に閉店しその後高層マンションとなっています。
当時、この広い空間は丸井馬車道の敷地だと思っていましたが、その後丸井が撤退しマンションが建つ計画が公表された時に、この空間が公共の土地であることがわかりちょっと驚いた記憶があります。

一方、伊勢佐木口側は昔、馬車道側より広く長い広場(広い空間)がありましたが今は無くなってしまいました。この広い空間には一時期運河沿いに「警察署」が建ちその後デパートが伊勢佐木のシンボルとなった時代があります。この<不自然な>広場は共に、関内に街路が整備された頃から他の道路とは異なり、誕生しました。なぜ?ここに広場のような空間が存在したのでしょうか?
私の結論から先に紹介します。
吉田橋<関門>あたりはかつて関内外の主要関門であったため、交通量が多く関門周辺に<滞留空間>が自然と出来上がったのだと推理しました。

場所を馬車道側に戻します。
この空間について資料を調べるキッカケとなったのは一枚の写真でした。
最初に紹介しましたように、馬車道側に明治期から現在まで不思議な広場が存在していたことは、過去の風景写真によって明らかです。明治期の地図でも明確にこの空間が示されています。慣れとは恐ろしいもので、何度となく見ていたはずの<この空間>の不自然さに全く気が付かなかったのです。

偶然入手したこの一枚の写真、裏面のメモから1953年(昭和28年)頃に撮影されたと思われます。
街路樹のエッジに白い像が建っています。ロダンの考える人をイメージさせる腕を曲げ顎を支えているかのようなポーズです。
戦前の風景には見当たりません。
終戦直後の米軍進駐時の写真にもありませんでした。
戦後復興期に短期間設置されたようです。
何故短期間かというと、1958年(昭和33年)5月8日の写真にはこの白い像が別のものに変わっていたからです。この年、開港百年祭が行われ、その時の様子が広瀬始親(ひろせもとちか)氏が記録していた写真集に収められていました。ここにはトーテムポールようなものが設置されています。
再度、白い像のある写真を拡大してみると背後に石燈籠のようなものも二基設置されています。
馬車道の老舗で伺っても記憶に無いとのこと。
まだ この謎は解けていません。

Facebook Comments
12月 8

第941話【路上観察】よこはま雨枡10景

横浜限定の路上観察を楽しんでいます。
路上観察には様々なテーマがありますが、
道路の<蓋>探しは横浜が最高!と勝手に思っています。
路上の蓋、一般的には丸型と角型があります。

角型消火栓
NTTハンドホール
港湾局丸型

昔は地下設備に人が入り点検や修理を行うための<穴>を人孔=マンホールと言いました。今もマンホールという単語は使われますが、路上のインフラ用の蓋全般をマンホールと言っている場合もあります。
人が入ることを想定していない<蓋>はマンホールに対しハンドホールと呼ばれ多くは<角型>です。
では何故<人孔>人が出入りする穴の蓋は丸いのか?
ホールキャップが丸いと作業中間違ってキャップが穴の中に落ちることが無いからです。
これ 飲みネタ 朝礼ネタにナリませんかね!

路上の蓋で気になるとすぐに発見できるのが雨水桝です。
市内至る所にある雨水枡には「市章ハマ菱」がデザインされています。

市章

雨水枡は一般道路に設置されています。
<雨水>を地下の下水溝の集めるための装置で、都市生活には欠かせないインフラ部品です。この穴に上を人や車が通れる安全上の蓋をします。これを<雨水桝>といいます。
横浜オリジナル雨水枡を紹介しましょう。
上の二種類、同じように見えますが、その違いわかりますか?枠の太さが異なります。上は細く下よりも古いバージョンだと思われます。

上の二種類は横の支棒が三本と四本で、大きさも異なります。

雨水桝色々あるでしょ!

路上観察横浜学(マンホール編)

路上観察横浜学(マンホール編)

Facebook Comments
12月 8

第940話【最強の市長】有吉 忠一

現在、横浜市長は
第32代、20人目の林文子氏が就任しています。(2009年(平成21年)8月30日〜)
戦前は13代まで官選市長が市政を担当しました。
戦後は選挙で選ばれています。
戦前戦後を通じて 任期満了か、途中辞任によって市長交替となりました。
例外は在任中に亡くなれた市長が2名
16代「平沼亮三」氏と24代「細郷道一」氏でした。
(最強の市長は誰か?)
最強という表現が適切かどうかわかりませんが
ここに紹介する第10代横浜市長「有吉忠一」は横浜市政史に残る
“最強”の市長といえるでしょう。
歴代市長を評価するには様々な視点から市政の結果を分析していかなければなりません。政策実行力・問題解決力・政治的決断力 他いろいろ指標がありますが
有吉忠一は
「数多くの業績を残した昭和初期の「不世出」の市長」と言われています。
“「不世出」の市長”というのは中々の評価ですね。
横浜市史上最大級の難問、震災復興に取り組んだ不屈の市長です。
ここに当時の有吉市長を知ることができる一枚の写真があります。
たまたま海外の写真オークションで手に入れたものです。

生糸検査所の有吉忠一と秩父宮

生糸検査所屋上から「横浜復興」を秩父宮に説明する有吉市長

1927年(昭和2年)6月2日(開港記念日)
この日、関東大震災から5年
<復興>を市内外に宣言する重要なセレモニーとして「大横浜建設記念式」を開催しました。式典には秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)を迎え、望月圭介逓信大臣を始め、1,557人もの市内外の名士が集まり盛大に挙行されました。
秩父宮は式典に参列する前、市長有吉忠一により復興状況の説明を受けます。
写真はこの時の一コマです。

(関東大震災)

震災被災(焼失)エリア

(震災復興)

秩父宮視察が行われた生糸検査所
震災復興のシンボルとなった商工奨励館

有吉忠一の簡単な経歴を紹介しましょう。
1873年(明治6年)
京都府生まれ。
第三高等中学校、帝国大学法科大学法律学科(現在の東京大学)
1896年(明治29年)
内務省入省。
1897年(明治30年)
島根県 参事官
兵庫県 参事官
1901年(明治34年)
内務省 参事官
1908年(明治41年)3月
第11代 千葉県知事 就任。
知事時代、千葉県営軽便鉄道(後の東武野田線の一部)の開通を手がける。
1910年(明治43年)6月14日
韓国統監府総務長官 就任。
朝鮮総督府総務部長官。(〜1911年(明治44年)3月13日)
1911年(明治44年)3月13日
第13代 宮崎県知事 就任。
知事時代 宮崎県営鉄道を建設。飫肥線の敷設、日本初の学究的発掘調査となった西都原古墳群の発掘調査を行う。
1915年(大正4年)
第九代 神奈川県知事 就任。
自治時代 多摩川の改修を指示し川崎市中原区に「有吉堤」の地名が残る。
関東学院の開設に助力。
同年11月10日
大礼記念章
1919年(大正8年)4月18日
第15代 第15代兵庫県知事 就任。
1918年(大正7年)6月29日
勲二等瑞宝章
1922年(大正11年)6月16日 退任
1922年(大正11年)6月12日 ※
「朝鮮総督府政務総監」に就任(〜1924年7月4日)。
※知事退任日と総監就任日に重なりがありますが 資料のママ掲載します。

有吉は軍事権を除く行政・立法・司法の実務を統括し、在任中、朝鮮総督府の日本人高級官僚、特に「生え抜き官僚」との軋轢に加え、関東大震災時の“朝鮮人虐殺”に反発する朝鮮での暴動等の真ただ中でかなり苦労します。

1924年(大正13年)7月4日
その任を解かれ東京に戻ります。
1925年(大正14年)5月7日
第10代横浜市長に就任。
※推薦者 原富太郎、中村房次郎、井坂孝ら
1930年(昭和5年)2月10日
正式に辞意を表明します。
「予算案さえつくれば、その決定は予算を実行する後任市長と市会の自由裁量によるべき…」との一言を残し、
同年4月 貴族院議員 勅選。
1930年(昭和6年)2月26日
昭和6年度の予算が成立する前に辞職。
1933年(昭和8年)
第7代 横浜商工会議所会頭。(〜1942年(昭和17年))

■有吉忠一の横浜
米貨公債で<震災復興資金>を集め、早期復興に努め 大きな成果をあげました。
「大横浜建設」の三大方針
・横浜港拡張
・市営埋立(臨海工業地帯の建設)
・市域拡張
生糸貿易に大きく依存してきた横浜市の体質を脱却して工業化を推進するために臨海部に大規模な工業地帯を建設し企業を誘致し港湾機能を拡充。
広大な後背地の確保(市域拡大)
市長時代から退任後
横浜商工会議所会頭時代精力的に臨んだのが
「東京湾拡張問題」=東京港開港要求でした。
横浜にとって東京開港は死活問題。東京にとっても東京開港を渇望していました。この問題はすでに明治期からくすぶっていた課題で 震災後は政財界を巻き込んでの大問題になっていました。
有吉は横浜・神奈川の意見を取りまとめ東京と横浜との軋轢解消を推進しました。
首都圏の港湾経済を考える上で、都市間で争っている時代ではない!
という視点から 国と東京市との合意を求め奔走します。
最終的には横浜復興で独自に米貨公債により調達した復興資金の残債半分を国に肩代わりしてもらう代わりに東京開港を制限付きで認めるという結論をまとめます。
「(横浜復興に借りた米貨公債を政府に肩代わり叶えば)東京の希望に反対しない事になった、併し満支関係の船は兎に角、英米の大船は東京には寄港出来ぬ、東京港は水深二十五尺、六七千噸級内せいぜい一万噸級を限定とする実情である、夫はさてをき横浜市民も此解決で初めて積極的に振興の業にあたる事が出来るようになったのである、之は昭和十五年の事であるが、この時市税総額八百七十万円で、市の公債費は総額八百九十万円、市税の全額を挙げても尚ほかつ足らぬという窮境であったのである(中略)ああこれで横浜市民のために、震災のあとかたづけが出来たと、肩の荷をおろした感で、大変本懐に思った事である。(有吉忠一 経歴抄)」
◯有吉忠一関係ブログ
■震災復興 横浜拡大
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命


1929年(昭和4年)8月19日に飛行船ツェッペリン伯爵号は
何故 急遽計画を変更して横浜上空に現れたのか!
第818話【横浜2345】大横浜の時代

第818話【横浜2345】大横浜の時代 


No.464 昭和5年頃の横浜

No.464 昭和5年頃の横浜


No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド

No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド


No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

■市長エピソード
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更

No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更


No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?

No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?


■県知事時代
No.445 「有吉堤」

No.445 「有吉堤」


No.443 岸辺のアル闘い

No.443 岸辺のアル闘い

Facebook Comments
12月 5

第939話【番外編】横浜のクリスマス

以前、”クリスマスツリー”の歴史に関して少し調べたことがあります。
日本でクリスマスツリーが飾られたのはいつ頃か?
調べると意外に難しく、ネット上の出典なしネタが多くあり、本腰を入れて出典を調べる必要に迫られましたが、諦めました(笑)。
簡単にまとめると
クリスマスツリーのルーツは諸説ありドイツから始まったのが有力でした。

1.ボニファチウス説
「8世紀のドイツ、樫の木を崇拝する人たちが子どもを生け贄に捧げていました。ドイツの使徒と呼ばれた聖ボニファチウスはこの風習を止めさせるためにオークを切り倒すとき、奇跡が起こりキリスト教の神の力が彼らの神よりも強力であることを示してイエスキリストこそ真の神であることを説いたことに由来。
2.三位一体=三角=樅の木
キリストの三位一体の象徴
3.ユール原型説
北欧に住んでいた古代ゲルマン民族の「ユール」という冬至の祭で使われていた樅の木
は冬でも葉が枯れない生命の象徴。
4.「旧約聖書」の創世記の舞台劇
「中世のドイツでは、イヴに教会の前でキリスト降誕祭の序幕として、楽園におけるアダムとイヴの堕罪の物語を演じる神秘劇が行われていた。」
この<禁断の果実>がなる木を舞台に立てたことに由来。

キリスト教伝来の頃はおそらくツリーは無く江戸時代には長崎の出島ではオランダ商人によって密かに「唐人冬至」を模した「阿蘭陀冬至」としてクリスマスを祝ったそうです。 
時代を近代からとすると幾つか文献がでてきました。
(ドイツ流)
1860年に通商条約締結のために来日していたプロイセン王国使節であったオイレンブルク一行が公館で飾った記録が残っています。

オイレンブルク一行

残念ながら横浜ではなく江戸の赤羽根のプロイセン王国公館でのことでした。
「随員の中の二、三人のクリスマスの準備を依頼した。何よりもクリスマスツリーを立てることが先決だったが、日本で木を一本切り倒すのはいつでも難しいことであった。しかも本当の樅の木は江戸にめったにない。それでも木はぜひとも必要である。(中略)ついに馬にまたがり、何マイルも先まで乗り回してありとあらゆる植木屋を探してやっとすばらしい一本をみつけてきたのである。」
これからが大変だったようで、準備の様子も細かく描写されていますが略します。
「準備そのものがまるで祝典だった。五人の水兵がそのために働いた。(略)すばらしいクリスマスツリーは天井まで届くほどで、オレンジや梨がたくさんそれにぶるさがっていた。」
※冬に梨がたくさんあった?のはいささか疑問ですが
当時、クリスマスツリーで飾り、抽選会などを行いお菓子を振る舞うドイツ流スタイルはゲストとして招かれた英国の将軍ホープ・グラント、領事オールコック、駐日アメリカ総領事館のヒュースケン他のゲスト達も驚きの様子が記されていました。
「オイレンブルク一日本遠征記」より
では、日本人によってクリスマスパーティが行われたのは何時ごろかというと、
1874年(明治7年)に実業家の原胤昭(たねあき)が築地にあったカロザースの妻ジュリアの女学校で開かれたクリスマスパーティーで日本最初のサンタクロースが登場、飾ったのが最初と言われています。
横浜が舞台となったクリスマスツリーの登場は、
1886(明治19)年12月7日
現在クリスマスツリーの日となっている12月7日のこの日
明治屋が横浜で外国人船員向けにお店でクリスマスツリーを飾りつけたそうです。
この日が1886年が日本初の「クリスマスツリー」だ とする説もあるようです。

本町通り明治屋

1900年(明治33年)に明治屋が東京銀座に進出すると、銀座のお店でもクリスマス飾りが広く行われるようになり、広く商店などのデコレーションに繋がったようです。
少し遡ると
1868年(慶応4年)に出された運上所の取り決めの中で、
開港場の休日が、4月7日、5月15日、7月7日、7月15日、8月1日、9月9日の他に、西暦の日曜日そして クリスマスの日が設定されました。
1879年(明治12年)12月には
海岸教会で日本人初のクリスマスの儀式が行われたという記録が横浜市史稿にあり、いち早く教会が建てられた横浜でも”クリスマスミサ”が積極的に行われたようです。
さらに横浜歴史年表でひろった<クリスマス>
1951年(昭和26年)12月19日
日米合同でクリスマス・デコレーションのコンクールを開催する。
1970年(昭和45年)12月23日
横浜公園体育館で市民クリスマスフォークダンス開催。

No.413 あるドイツ人の見た横浜

No.413 あるドイツ人の見た横浜


【番外編】今日はクリスマスツリーの日?

【番外編】今日はクリスマスツリーの日?


<クリスマス風景 クリッピング>

Facebook Comments
12月 5

第938話【2017・年末ネタ】

毎年12月師走ともなると、交響曲第九の公演とドラマ忠臣蔵が定番行事でしたが、近年時代劇不振で、再放送ばかりのようです。
「交響曲第九の公演」
「忠臣蔵=赤穂事件」
共に 横浜とも関係があるので年末ネタとして紹介しておきましょう。
「交響曲第九の公演」
https://www.youtube.com/watch?v=F0j2gPgRc1s

ベートーベン作曲の有名な交響曲で、ご当地ドイツのライプツィヒで年末大晦日公演が1918年に名門オーケストラであるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって始まります。日本では戦前に公演は行われますが、年末恒例となったのは戦後のことです。戦前のエピソードとしては
1918年(大正7年)6月1日
日本で最初に「第九」が演奏されたのが徳島県の鳴門市(当時は板東町)で、ここにあったドイツ兵の俘虜(捕虜)収容所でのことでした。当時は第一次世界大戦の真っ最中で、連合国側として参戦していた日本とは敵国でした。(第一次世界大戦〜1918年11月11日終戦)
時は流れ、戦後まもなくの
1947年(昭和22年)12月
日本交響楽団(現NHK交響楽団)がレオニード・クロイツァー指揮で9、10、13日の3夜第9の演奏会を開催して多くの観客を集めたのがキッカケといわれています。
その後、
1950年(昭和25年)12月17日
アマチュア・オーケストラとして本邦初めてこの第九を公演したのが横浜交響楽団でした。場所は横浜公園脇にあった「フライヤージム」です。その後、横浜交響楽団の年末恒例演奏会の目玉となりました。
ちなみに、日本交響楽団は1947年(昭和22年)単発公演で
初めて年末恒例としたのは横浜交響楽団???(裏とってません)かもしれません。
「忠臣蔵=赤穂事件」
冒頭にも書きましたが、年の瀬は「忠臣蔵」という時代がありました。
歴史学的には「赤穂事件」として、
五万石の大名がお家断絶、身は切腹、城は公収、数千に及ぶ家臣とその家族を路頭に迷った事件です。
江戸時代、18世紀初頭の元禄年間に播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩(ながのり)が江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央(よしひさ)に対し<傷害事件>を起こしたというものです。
主君浅野内匠頭長矩は切腹、その後この事件に端を発し家臣の大石内蔵助良雄以下47人が長期計画を練り最終的に
元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜
本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央をはじめ、小林央通、鳥居正次、清水義久らを殺害します。
何が原因だったのか、その後どのように仇討ち計画が組まれたのか?
史実としては不明な点が多かったが故に、後世の作家たちが様々な物語を構築して、幕末から現在に至るまで<国民的ドラマ?>となりました。
「忠臣蔵」で一躍悪役となったのが吉良上野介義央です。
(吉良家)
吉良家は足利氏の一族で、後北条氏とも姻戚関係にあります。
足利義氏(足利家3代目当主)の三人の息子がそれぞれの道を歩みます。
泰氏(三男ですが本妻の子)→足利家→足利尊氏
義継(長男)→奥州吉良氏→蒔田吉良氏
長氏(次男)→西条吉良氏→上野介・今川家
長男であった義継の流れが奥州吉良家として関東で勢力を伸ばし、中世後期の室町時代応永年間(1394〜1427)に武蔵世田谷(東京都)に本拠を置き南は蒔田(横浜市南区)に居城を持つようになります。この城は発掘調査や歴史資料が少なく、いわば”まぼろしの城”とも言われていますが、明治以降あまり周辺環境が変わっていない往時の地形をおぼろげながら感じ取ることができます。

戦前の蒔田城周辺

蒔田の居城は吉良頼康によって築城され
「蒔田御所」と呼ばれるほどその威光を示しました。
現在は「青山学院横浜英和中学校高等学校」の敷地となっています。
1880年(明治13年) ブリテン女学校として設立
1886年(明治19年) 横浜英和女学校に改称
1916年(大正5年) 横浜英和女学校が現在地に移転
1939年(昭和14年) 成美学園に名称変更
1996年(平成8年) 横浜英和学院に改称
2016年(平成28年) 青山学院横浜英和中学校高等学校に改称
校庭から当時のツボの欠片が出土し学内に展示されているそうです。(見ていません)
その後の吉良家
1590年(天正18年)豊臣秀吉が小田原征伐を行い北条一族の居城、小田原城が落城します。これによって北条氏は滅ぶことになります。これにともない蒔田城も廃城になって静かに明治まで眠っていました。
吉良家はその後、徳川家の家臣となり明治期まで続きます。歴史の表舞台にはあまり登場しませんが、横浜と世田谷を、中世と現在を結ぶ歴史の貴重な<糸口>です。

No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー

No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー


1950年(昭和25年)12月17日
横浜交響楽団がベートーベンの第九演奏会を開催します。

(図版は追って追記します)

Facebook Comments
12月 3

第937話【市境を歩く】川崎市境0その2

■今回は川崎・横浜市境パート2
かつての日本橋を起点に横浜港に至る国道一号線、現在の国道15号線を越え
いよいいよ「京浜運河」に入ります。国道15号線の市境には、恐らく大正時代に改修された時に建てられた<東海道>の道標がひっそり建っています。国道を越え、平安町(横浜側)と池田町(川崎側)を進み、市境にある京町小学校脇から南下、このあたりはかつて大きな船溜まりがあり、「京浜運河」として日本鋼管他近隣の産業運搬船が利用していました。
現在、河口域の白石橋まで暗渠化しなごりは<電信柱>に残されています。
京浜運河の歴史は古く、
1910年(明治43年)に京浜運河の発起人会が作られ
1917年(大正6年)に京浜運河株式会社が設立されます。
代表は川崎の工業化を推進した浅野総一朗で、周辺埋立に伴う河川や工場用水の排水路及び運搬水路として整備されました。 排水路でもあったため周辺の海苔養殖事業者からは湾岸汚染を抗議する運動も起こりましたが1936年(昭和11年)に「京浜運河」埋立計画が発表されるなか、
内陸部の京浜運河は暗渠化し、
現在は、遊歩道(京町緑地)として整備されています。
途中には横浜市と川崎市が共同で設置した市境モニュメントがあります。
かつて運河だった遊歩道(京町緑道)の両側は工場が密集していましたが、移転・廃業等の跡地は大型のマンションとなり、住宅地へと変貌し続けているようです。
京浜運河は、途中大東町から横浜市側になり末広橋近くで開渠化し旭運河となります。
高速道路「横羽線」と下を走る「産業道路」の通るあたりには
「汐入」「寛政」「新田」といった江戸時代の海岸線を想像させる名前が残っています。
横浜市鶴見区寛政町の寛政は江戸時代の寛政年間に湾岸干拓が完成し年貢を収めることができたことからこの名が付いたといいます。
川崎市川崎区田辺新田は
田辺家により天保年間に開拓が行われ、このエリアのあざなとなり現在の地名になった場所です。市境の橋は白石橋。
市境に架かる「白石橋」から海へ続く「境運河」の先は大工場地帯となっています。市境のゴールは湾岸沖です。この先簡単に市境は歩くことができませんので
市境歩きはこれにて終了。

Facebook Comments