【横浜の風景】元町百段坂を数えてみた!part2

関東大震災まで元町に「百段坂」がありました。
以前このブログで、
「百段坂」は俗称で実は?101段である。
実際元町百段坂を数えてみました
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9211
結果
やはり101段だろう という結論におぼろげながら達しました。
まあ「101段坂」よりはすっぱり「百段坂」が良いでしょうね。
今回
画像に不明な点もあったので新しい画像を元に
再度「百段カウント」に挑戦してみました。
元になった写真

これを拡大し階段を一つ一つ確認していくと
出てきた不明点があります。
(第一の不明点)
最初の一段はどこだ?
階段の始まり、小学生とおぼしき少年と愛犬らしき動物の後に段差があるように思えます。スロープににも見えますが、段にも。

ここは0段、グランドフロアみたいなものか?

以前Part1に使用した写真の0段付近を拡大してみることに。

段差があるようなないような。あるといえばある。
ただ、
Part1は明治初期(電信柱も電力柱も無い頃)と思われるので、階段下は整備されてまもなくのころで<登る人>も少なかったのではないか。

Part2の写真では30個の碍子「電信柱」が写っていますので明治中期以降だろうろ推理できます。

(第二の不明点)
ちょうど90段目あたりの段差が確認しにくいのですが、高くなればなるほど段差は狭く見えるはずなので91段目をカウントしました。

【結論】
結論はやはり101段が正解のようです。
なんだ! ということですが、百段坂の時代変化も少し確認できたので<良し>としておきます。

第887話【大桟橋の風景】旅立ちの日

空港は<そらのみなと>、
人類の歴史は<水の港>から始まりこの歴史の方が圧倒的に長いが、次第に<水の港>は遠くなっていく。
今でも船出には
今生の別れとなってしまうかもしれないという思いが漂うのは何故だろう。
だから見送りにも特別な感情が流れるのかもしれない。

そういえば最近
<旅立ちの見送り>が激減した。

小学生のころ、横浜大桟橋から親戚を見送った記憶が焼き付いている。カルフォルニアの仏教寺院に<僧侶>として骨を埋めることになり、移民としてアメリカに向かう家族を親戚と見送ることになった。私はことの重大性には気づいていなかったが、母が泣く姿を覚えている。
この時、船側から知り合いを見つけてはテープを投げる見送りの儀式が始まる。桟橋では風に流されながらも飛んでくるテープの片端を追い求め、つかの間のつながりと別れを味わう。
今でも
テープがプツンと切れ、切れ端がフワッと浮き上がっていく感触が残っている。

<絵葉書に見る大桟橋>
ここに大正期を中心に船出風景の絵葉書を紹介する。
戦前、横浜港が果たした役割は大きかった。首都圏、さらには東日本の国際港として外国との窓口となっていたからだ。
横浜港からは<移民>も多く旅立った。
留学、赴任、視察、商談、遊学 他
戦前の日本を支えたキーパーソンは横浜港に一度は立っていた!といっても過言ではない。

大さん橋誕生、港の核芯(戦前編)

大さん橋の見える風景

第818話【横浜2345】大横浜の時代

第886話【横浜の記念式典】復興記念横浜大博覧会

■復興記念横浜大博覧会

◎開催期間:
1935年(昭和10年)3月26日から5月24日
◎開催会場:
山下公園を含む山下町一帯(約10万平方メートル)
◎開催内容:
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。(乃村工芸)」
◎来場者数:
のべ3,299,000人
二ヶ月で約330万人が入場という記録がありますが、「山下公園一帯」に60日、一日あたり5万人以上の入場者があったということです。あくまで平均です。
新聞記事を探って、一日の入場者の動きを追いかけてみました。
3月26日(水)から5月24日(金)という曜日は土日を加味していませんね。
3月26日(水)から3月31日(日)62,340人
4月7日(日) 一日入場者65,000人
4月14日(日) 一日入場者75,043人
4月21日(日) 一日入場者78,000人
〜4月23日(火) 累計75万人を突破
〜4月29日(月) 昭和天皇誕生日(天長節)に累計100万人達成
5月1日(水) 一日入場者118,500人
5月2日(木) 一日入場者3万余人
5月5日(日) 一日入場者20万人突破
累計1,423,527人に。
5月7日(火) 午後一時延べ入場者150万人達成
5月19日(水) 一日入場者30万人
累計2,279,377人
最終結果
5月24日(金)
累計3,299,000人となっています。
実に残り5日間で100万人が入場ということですから、驚きです。
横濱市も予想を超える入場者に驚きを隠せない様子が報道資料からも読み取れます。

ここに300万人が!(現在の山下公園) 山下公園図

◎関連ブログ

【記念式典】横浜、金のシャチホコ

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
(復興記念)
一概に比較できませんが、1923年(大正12年)に起こった関東大震災から12年後にこの「復興記念横浜大博覧会」が行われましたが、
<震災復復興宣言>は
震災後7年目、亡くなられた方に対し七回忌に間に合わせたのか判りませんが、
内務省と東京府、東京市は1930年(昭和5年)3月に終結宣言します。
横浜市は復興記念の日を4月23日と宣言し「復興記念祭」を開催しました。
この時、昭和天皇からは
「お祭り騒ぎにならぬやう」と釘を刺されたそうです。
横濱では市役所、公立学校を休みとし、横浜公園他で式典が行われました。
2017年
東北の復興宣言は何時になるのでしょうか。

■まだまだ読み込んでいない興味ある資料があります。
横浜で開催された戦前最大級の<博覧会>ここで実施された<関連事業><関連イベント>を通して、四年後にこの国が開戦に至る歴史の<隘路>の断片が見えてくるように思います。
このテーマさらに追いかけます。

第885話【横浜の橋】都ぞ春

開港時から明治期にかけて、横浜開港場界隈に架かる<橋>数数あるなか
知名度なら「吉田橋(派大岡川)」でしょう。
明治初期、開港場付近の橋といえば?
辨天橋・大江橋・前田橋・西之橋・谷戸橋・湊橋・豊国橋 他
居留地と外を結ぶ<関門橋>があり、多くが現存しています。
中でも吉田橋は、関内外を結ぶ橋として一際注目されてきました。
横浜の重要な道を繋ぐという視点で<橋>を眺めてみると
「都橋」が横浜発展の要となっていたことに気がつきます。
「都橋」は
1872年(明治5年)7月
「野毛町一丁目往還北側茅屋を毀ち、道路を改修し、野毛橋を毀ち、更に北方へ凡そ三間位置を換へ、橋台を築造し、無杭木橋に改造し、都橋と改称す同月野毛橋の古材を太田村に移し、以て栄橋を架す。」
開港時「野毛橋」と称していました。
東海道から帷子川の越え、野毛坂を越え「野毛村」と突貫工事で切り開いた開港の道(横浜道)は「野毛橋」で大岡川を越え吉田橋関門へとつながる重要な橋の一つでした。
この「野毛橋」の架かる一帯の整備が行われ、
道路を改修、新しい橋に架け替えられます。
この時に、名称を「都橋(みやこはし)」と一新するのですが、
なぜ「みやこはし」となったのか?
オツな話が伝えられています。
古今和歌集56番
「見わたせば
柳桜をこきまぜて
都ぞ春の錦なりける」素性法師
“ここから眺めてみると、
柳の緑と桜の色とが混ざり合って、
都が春の錦のようであることよ”
といった美しい春の風景を詠っています。
見渡せばとあるので 何処か高いところから見下して詠ったものですので
野毛に置き換えれば<野毛山>からの眺めと重ねたのかもしれません。
実は
「見わたせば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」の
歌中にある<柳><錦>から
都橋下流の大岡川と派大岡川、桜川と川の十字路となっていたところに
「柳橋」と「錦橋」が架かっています。 この2つの橋と桜川をかけて
ちょうどよい歌を引用し「都」橋と名付けたそうです。

#大岡川の橋

第884話【今日の横浜】4月2日リベンジ横浜!

 万治2年2月11日(1659年4月2日)
横浜の原点となった「吉田新田」の第二回鍬入れ(再開)の日です。 旧暦では2月11日ですが、ここではネタ用に西暦を使わせていただきます。
実は 吉田新田干拓計画はさかのぼるところ
1656年9月5日
明暦2年7月17日に江戸の吉田勘兵衛が江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得て、入海の新田づくり鍬入れ式を行います。
ところが
1657年6月21日
明暦3年5月10日に新田工事の最中、13日まで大雨が降り続き
6月24日に潮除堤が崩壊し干拓工事事態が中止に追い込まれます。
これに屈すること無く、吉田勘兵衛は新田開発再開を決意、
万治2年2月11日(1659年4月2日)に
再開の鍬入れが行われました。この再開の決意がなければ現在の横浜はどうなっていたのでしょうか?
様々な想像ができます・
ただ、大岡川の隣を流れる帷子川に見られるように 大岡川河口もしばらくして複数の干拓事業が行われたでしょう。地権者が増えることによって このエリアの発展がスムースに進んだか? その後も沼地のままになったかもしれません。  今年は、「吉田新田完成350年」にあたります。
一人の事業者によっていち早くこの一帯が整備された意義は大きいのでないでしょうか。
吉田新田事業「土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島」から持ってきたそうです。

(吉田新田前史)
今から約350年以前の横浜エリアは、山手から砂嘴が突き出し、その内側には大岡川の河口から釣鐘形をした深い入り海が広がっていました。
このくちばしのような<砂嘴>の突先に 弁天様が祀られ
洲干弁天と称しました。 1170年代、12世紀の治承年間 源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられています。以降、850年近く経ちます。
■枕詞を疑え!!
少々余談となりますが、横浜史の枕詞(まくらことば)に
「入江の砂州上の寒村であった横浜村の更に先端にあり」
「戸数約100戸の半農半漁の寒村・横浜村(今の関内地区)」
と決まってペリー来航以前を<寒村>をしますが、
私は違和感を感じます。ここが<寒村>とするなら 日本中の豊かな村とはどんな村なのか?問いたい!
国語辞典にも「かん‐そん【寒村】 の意味 貧しい村。さびれた村。」
「洲干弁天社は開港前から景勝地として知られ、開港後は開港場の中心をなす横浜町の入口に位置することから、横浜名所の一つとなり、茶屋などが集まった。(開港資料館)」
と近年 横浜村周辺の表現が変わりつつあります。
→横浜村風光明媚論は追って書きます。

<簡単横浜の新田史>
1640年代(慶安年間)には元町1丁目の増徳院が別当となります。
1656年(明暦2年)吉田勘兵衛、江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得ます。
1656年(9月5日)(明暦2年7月17日)吉田新田 鍬入れ式が行われます。
1657年(6月21日))明暦3年5月10日)から13日(6月24日)まで大雨で潮除堤が崩壊
★1659年4月2日(万治2年2月11日)
吉田新田 工事を開始 土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島から
1667年(寛文7年)吉田新田 完成
1669年(寛文9年)功績を称え新田名を吉田新田と改称
1674年(延宝2年)公式の検地、新田村となった。
1707年(宝永4年)宝永大地震の49日後に、富士山が中腹から大噴火
1761年(宝暦11年)検地を受け宝暦新田(大新田)<干拓洲>となる。
1779年(安永8年)検地を受け尾張屋新田<2町7反>となる。
1780年(安永9年11月)検地を受け安永新田<干拓洲>となる。
1817年(文化14年)検地を受け藤江新田となる。
1818年(文化15年)「横浜新田」の名が初見(完成は?)。
1830年(天保年間)程ヶ谷宿の豪商 平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを開始。
1833年(天保4年)岡野新田鍬入れ
1839年(天保10年)検地を受け岡野新田となる。
1845年(弘化2年9月)検地を受け弘化新田となる。
1853年(嘉永6年)「太田屋新田」完成。
1854年 3月8日(嘉永7年)アメリカ海軍提督ペリーが黒船を率いて日本へ2度目の来航をし、横浜村へ上陸する。
1859年11月10日(安政6年)太田屋新田沼地を埋め立てて港崎町を起立し、港崎遊郭開業。
1859年6月2日(安政6年)横浜港が開港する。久良岐郡横浜村が「横浜町」と改称。運上所周辺には駒形町が、太田屋新田の横浜町隣接地には太田町
1864年(元治元年11月)野毛山下海岸を埋立て石炭倉庫6棟竣工。
1864年(元治元年)さらに検地を受け岡野新田拡大。
1867年(慶応3年)慶応の大火事の復興工事、町は和風から洋風への建て替えが始まり、石造りの洋風2階建ての「神奈川奉行所」完成。それを期に「横浜役所」へ名称変更。馬車道が開通する。
1868年8月(慶応4年)横浜町と太田町をあわせて二地区(上町・下町)に分け、5名の名主が担当した。
1869年(明治2年)洲干弁天社が移転。
1869年(明治2年3月)花咲町6丁目の内田清七、福島長兵衛ら県より請負い吉田橋北詰より野毛浦までの埋立てに着手。
1870年(明治3年)町屋の整った地域に長者町・福富町の二町が起立。
1871年7月(明治4年)横浜町と太田町の区域に正式に町名を付ける。本町・南仲通・北仲通・弁天通・元浜町・海岸通・堺町・太田町・小宝町・相生町・高砂町・住吉町・常盤町・尾上町・真砂町・港町・駒形町・羽衣町
1871年8月(明治4年)横浜関内各町を五区に分け、各々1名の名主が担当する。
1872年11月28日(明治5年)横浜役所は「横浜税関」へ名称変更。
1873年(明治6年)南一ツ目にあった遊水池(沼地)埋め立て、寿町ほか7か町が起立(埋地7か町)。
1873年5月1日(明治6年)神奈川県を20区に分け、区下に複数の番組を編成。横浜町は第1区1番組に編入される。
1873年5月1日(明治6年)平沼新田のうち、横浜道沿いの町屋が形成されていた箇所に平沼町が起立する。大区小区制により神奈川県第1大区3小区に属した。
1874年6月14日(明治7年)大区小区制に伴い、第1大区1小区に編入される。この頃伊勢佐木町ほか数町が起立
1876年(明治9年)洋式の公園「横浜公園」が開園。
1878年(明治11年)郡区町村編制法により以前の新田村が復活し、久良岐郡平沼新田、橘樹郡岡野新田に戻るが、平沼町は横浜区に編入された。(久良岐郡より独立)
1878年11月21日(明治11年)郡区町村編制法に基づき、横浜区となる。(久良岐郡から分離)
1878年7月(明治11年)市街地化した南三ツ目・北四ツ目までが横浜区に編入
1880年(明治13年)南三ツ目に高島町遊廓が移転
1889年(明治22年)市制町村制が施行され、平沼新田は久良岐郡戸太村に、岡野新田は橘樹郡保土ヶ谷村に、平沼町は横浜市にそれぞれ編入される。
1889年(4月1日)明治22年 市制施行により関内全域が横浜市となる。久良岐郡吉田新田から久良岐郡戸太村大字吉田新田となる。
1894年(明治27年)横浜港鉄桟橋(現:大さん橋)が完成する。
1895年(7月1日)明治28年 町制施行により久良岐郡戸太町大字吉田新田に。
1901年(明治34年)戸太町(戸太村が町制を施行)と保土ケ谷町の一部が横浜市に編入され、西平沼町と岡野町が置かれる。
1901年4月1日(明治34年)横浜市に編入。大字吉田新田の地に南吉田町を起立。全域が市街地となる。
■ざくっと一覧にして
関内外エリアがあらためて 埋立ての町=運河の町であることがわかります。
No.701 運河の街誕生(序章)

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

番外編ですが
掘割川の話です。ちょっと力作(自分的には)
No.437 横浜ドラゴンズ、吉田さんに斬られる!

第883話【時折今日の横浜】4月1日年度初め

4月になりました。“新”の多く付く時期です。
新学期、新入社員、新年度、新しい職場等。
4月1日は新制度や、新設の多い日なのでブログネタには困りません。
ここで
横浜の4月1日にふさわしいエイプリルフールネタ無いか?
と探しましたが時間切れ。
ということで 今日は「横浜誇張史」モトイ「横浜拡張史」にします。
横浜を知るベイシックテーマでもありますので
基本を押さえる感じで紹介します。
横浜市は市が誕生してから6回市域を拡張します。
その内、5回が年度初めの4月1日に行われました。
【市域拡張日】
(横浜市誕生)1889年(明治22年)4月1日
(第1次) 1901年(明治34年)4月1日
※10年後
(第2次) 1911年(明治44年)4月1日
※16年後
(第3次) 1927年(昭和 2年)4月1日
※9年後
(第4次) 1936年(昭和11年)10月1日◎
※一年後
(第5次) 1937年(昭和12年)4月1日
※2年後
(第6次) 1939年(昭和14年)4月1日
こう並べてみると第4次が気になりますよね!
さらに拡張の間隔で比較すると
第3次拡張まで38年
その後の6次拡張まで10年となります。
10月1日の市域拡大
唯一10月1日に拡張した◎の(第4次市域拡張)は
<旧相模国>鎌倉郡永野村が中区になり
<旧武蔵国>久良岐郡金沢町、六浦荘村が磯子区に編入したイレギュラーな拡張でにあたります。

武蔵国だった横浜市が<律令時代>を超えて、相模国の領域を初めて編入します。

過去ブログで簡単な市域拡張を紹介しました。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?

<人口膨張>
6回の市域拡張に面積と人口を重ねてみます。
(横浜市誕生)1889年(明治22年)4月1日
面積 5.40km2  人口121,985 人
(第1次) 1901年(明治34年)4月1日
面積24.80km2  人口 299,202 人
(第2次) 1911年(明治44年)4月1日
面積36.71km2  人口 444,039 人
(第3次) 1927年(昭和 2年)4月1日
面積133.88km2  人口 529,300 人
※10月に区制となり最初の5区誕生
第二次・第三次の頃と最盛期の市電域が重なります。

(第4次) 1936年(昭和11年)10月1日
面積168.02km2  人口 738,400 人
(第5次) 1937年(昭和12年)4月1日
面積173.18km2  人口 759,700 人
(第6次) 1939年(昭和14年)4月1日
面積409.97km2  人口 866,200 人
※7区になります。
1942年(昭和17年)人口1,015,900人(百万人突破)
1945年(昭和20年)人口 624,994 人
1952年(昭和27年)人口1,013,075 人(百万人回復)
1968年(昭和43年)年度中に200万人突破
約16年で100万人増加
1985年(昭和60年)年度中に300万人突破
約17年で100万人増加、戦後40年で約240万人増加
ここに鉄道網を重ねてみると
横浜は、「横浜駅」を軸に放射状に成長し戦後は環状線を目指してきたことがよく分かります。

少子高齢化のこれから、この巨大都市はどうなっていくのでしょう。
(4月1日の過去ブログ)
No.92 4月1日 横浜市交通局ブルーライン大人200円

第882話【時折今日の横浜】3月31日 年度末

横浜港の軸「大さん橋」が竣工したのが
1894年(明治27年)の今日3月31日
 最初は「鐵桟橋」とか「税関桟橋」と呼ばれました。
1932年(昭和7年)の3月31日
 東急東横線「高島町駅〜桜木町駅間」が全通しました。
1978年(昭和53年)の3月31日
 平和球場が「横浜スタジアム」に生まれ変わりました。
1996年(平成8年)の3月31日
 観光周遊バス「ブルーライン」廃止 横浜市営交通八十年史
  1984年(昭和59年)4月1日から運行の始まったダブルデッカー (Double Decker) 型市内観光周遊バス「ブルーライン号」が廃止になった日です。

この3月31日 世の中は「年度末」
年度末は何故3月なんでしょうかね?
現在国の根幹となる<会計年度>は法律で4月1日〜3月31日とされています。
実は近代化が始まった明治初期には何度も会計年度が変わり実務当事者はかなり苦労したようです。
本日は横浜ネタから少し離れて
「年度末」について
年度末にアクセクするのは<近代>かららしいのですが
その前に、では江戸時代はどうだったのか?
江戸時代における会計実務は「和式簿記(帳合)」によるものでした。
大福帳は正月に始まり大晦日で終わりましたので
江戸期の年度は正月に始まり大晦日で終わり、
現在のような決算を出すことはありませんでした。
(明治の会計年度)
1869年(明治2年9月)
→旧暦10月〜旧暦9月制
1872年(明治5年10月)
→1月〜12月(1873年(明治6年)実施)
1874年(明治7年)12月
→7月〜6月(1875年(明治8年)実施)
1884年(明治17年)10月
→4月〜3月<太政官達89号>明治19年4月施行
1886年(明治19年)4月から
現在のような年度が実施されるようになります。
会計年度のみならず、小学校でも4月入学が<奨励される>ようになります。
ただ学校の4月入学が法制化するのは もう少し時間がかかります。
1888年(明治21年)全国の師範学校4月入学
1900年(明治33年)小学校が4月入学
まだ 大学(1921年(大正10年)まで)・旧制高校(1919年(大正8年)まで)は9月入学となっていました。
※9月入学を続ける私学もありました。
現在のように4月新学期は日本だけのようです。概ね9月新学期が多いようですが、1月から9月までばらつきが見られます。真冬・真夏の新学期はないようですね。
会計年度に戻ります。諸外国では学校年度と会計年度が必ずしも一致しているわけではありません。
<世界の会計年度>
1月〜12月韓国、中国、ロシア、フランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、スイスや南米諸国。
4月〜3月日本、イギリス、インド、パキスタン、カナダ、デンマークなど。
7月〜6月ノルウェー、スウェーデン、ギリシア、フィリピン、オーストラリアなど。
10月〜9月アメリカ、タイ、ミャンマー、ハイチなど。
日本が4月〜3月となったのはイギリスの影響が大きかったようです。

第881話【時折今日の横浜】3月30日4mの背伸び

1934年(昭和9年)3月30日
「横浜税関庁舎(クイーンの塔)竣工(横浜税関百二十年史)」
横浜三塔の一つで三塔の内で、昭和に竣工したのがクイーンと呼ばれる「横浜税関」です。設計は<横浜税関>によると
「吉武東里氏(国会議事堂も設計)と伝えられているが、詳細は不明」としています。
その他の資料の多くは「吉武東里設計、戸田組施工」と表記しています。
何故?本元とデータが違うのか 良く判りません。
(4mの背伸び)
三代目横浜税関建設にはエピソードが残されています。
「関東大震災(大正12年)で税関庁舎も倒壊。その後、財政窮乏の続いた時代に、税関の仕事は平屋のバラック建で行われていた。そんな折り、時の大蔵大臣高橋是清が「失業者救済のため土木事業を起こすべき…」との発言。
1932年(昭和7年)第22代税関長に就任した金子隆三は、この意を受け
失業者救済をかねて三代目税関庁舎(現庁舎)建設に着手し、急ピッチで建設が進められます。
この時に、横浜港界隈には“神奈川県庁(高さ49m)”と“横浜開港記念会館(高さ36m)”という当時の高層建築物が2つランドマークとなっていました。
塔の高さ47mの税関庁舎の当初の設計図を見た金子税関長は「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき…」と言及。設計図が書き直され、当初より4m高い現庁舎“横浜税関(高さ51m)”が完成したそうです。」

だからですかね、たしかに 少し首長に見えます。
竣工データは
SRC造、地上5階+塔屋。敷地面積が6,875m2、延床面積が12,184m2です。

(簡単な横濱税関史)
安政元年、米国との間に「日米和親条約」が結ばれます。
安政五年に「安政五カ国条約」が締結されこの条約ににもとづき、日本(徳川政府)は
1859年(安政六年六月)
開港し関税と外交事務をあつかう部署「神奈川運上所」を設置します。
場所は、現在の神奈川県庁本館のある場所で記念碑が建っています。
1866年(慶応二年)の大火で焼失
1867年(慶応三年三月)再建
18871年(明治4年)組織変更に伴い「神奈川運上所」を「横浜運上所」に改称。
※歴史のif
神奈川県は横浜県となったかもしれませんね。
No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日

その後、
1872年(明治5年)11月
「横浜役所」における「運上所」を「税関」と統一し関東大震災前までは、日本大通りが横浜港とつながる現在の象の「鼻パーク一角」にありました。
1885年(明治18年)11月
二代目税関庁舎竣工。清水満之助の請負といわれています。<中央に塔を配した煉瓦造2階建ての2代目庁舎><冬の横浜税関>

関東大震災ですべて倒壊、

倒壊した横浜税関

1934年(昭和9年)3月30日
横浜税関現本関庁舎(クイーンの塔)が竣工します。

竣工間もない横浜税関

占領中新港橋から税関

1945年(昭和20年)8月30日
横浜税関本庁舎は接収されアメリカ陸軍第8軍司令部が置かれました。一時期、税関長室をマッカーサーが使用していたこともあるそうです。
税関業務は、仮庁舎で行われ
1953年(昭和28年)11月にようやく接収解除となり 現在の場所に戻ります。

第880話【絵葉書の風景】横濱乗物図鑑

車馬交通の最も頻繁なる桜木町通り

私のお気に入りの絵葉書の一枚です。
改めて見直すとこの<風景>少々 不自然さを禁じ得ない。
撮影を意図して、当時の乗物すべてをここに集めて撮影したとしか思えない構図となっています。
市内の乗物を一同に並べ 一斉に走らせ カメラマンはシャッターを切った!
という感じがしてならない。

(画像右から)歩道に女性が歩き
袋をいっぱい積んだ馬車と車夫
後続の馬車
人力車多数の自転車
高架に電車
自動車
市電(307番)上り線
横切る自転車荷車、大八車を引く人
空のものから満載まで多様な荷車が道路を走っている姿が捉えられています。
■撮影時期
大正13年〜昭和初期あたり
時刻は 午後3時50分あたり
■画像左のマールの建築は「神奈川県農工銀行」
明治31年〜昭和19年まで営業

昭和4年

「農工銀行(のうこうぎんこう)とは、日本全国各地に戦前に存在した、特殊銀行の一つ。」で戦後勧業銀行に吸収されました。
まるで 横濱乗物図鑑のような風景です。
空に航空機が舞えば パーフェクト、とまでは望むまい。

第879話【時折今日の横浜】3月27日日米接続

1901年(明治34年)の今日
「太平洋電線敷設に関する建議書を提出する。(横浜商工会議所百年史)」

日米の通信(太平洋の電線敷設)は、明治初期からの懸案事項でした。
日本における国際通信の歴史は意外に古く
1870年(明治3年)10月
日本政府はデンマークの電気通信事業会社「大北電信会社(グレート・ノーザン・テレグラフ株式会社)」に免許状を発行し、
1871年(明治4年)8月に事業が始まります。
まず長崎と上海が海底ケーブルで結ばれ、通信ビジネスが始まりますが、当時最も貿易量が多かった日米間の通信は中国から欧州経由で国際電報によって行わなければなりませんでした。
日米直結の太平洋ケーブル計画は、通信が欧州からアジアに開通した明治初期からの念願で、特に国内最大の対米貿易都市横浜にとって「太平洋ケーブル敷設」は悲願でもありました。
実はデンマークの電気通信事業会社「大北電信会社(グレート・ノーザン・テレグラフ株式会社)」が日本に通信ケーブルの陸揚げ申請をした時期に米国も日本政府に対し通信ケーブルの陸揚げ申請が出されています。
何故米国の通信事業が実現しなかったのか?
最初の申請がワシントンと函館等を結ぶものだったため<明治政府>は、横浜・長崎以外の接続(陸揚)を認めませんでした。
<明治政府の反応は江戸時代と変わらない発想ですが、米国もなぜ弱気の北米経由だったのか?>
日米間のケーブル通信が実現にはその後 かなりの時間を必要としました。
(日米接近)
日本の経済界にとって、特に横浜経済界にとって日米のダイレクトな通信回線設置は悲願でした。
1881年(明治14年)
日本国最初の外国首脳訪日となったハワイ王カラカウア王一行の正確な到着時間も(欧州経由)電信で伝えられ日本政府は歓迎の準備ができ、来日したハワイ国王とも太平洋通信計画が話し合われたそうです。
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/34.html

(大谷嘉兵衛の奮闘)
1899年(明治32年)
横浜商工会議所会頭 大谷嘉兵衛は米国フィラデルフィアで開催された
第一回国際商業会議所会議に出席、日本代表として米国に建議書を渡します。
この建議書は、国際商業会議において<決議>され米国政府、米国議会に提出され、日米通信の機運が高まります。米国では1901年までの二年間で約18の太平洋通信の議案が提出されますが、ことごとく意見対立で廃案となってしまい実現することはありませんでした。

<アジア特に日本は欧米間と比べ空白地帯でした>
その後、米国政府の決定を見ぬまま 補助金無しでハワイ〜マニラまで
民間資本によって<ケーブル敷設事業>を開始します。
1903年(明治36年)
太平洋通信回線がサンフランシスコ〜ハワイ〜マニラまでが開通。
その後マニラ〜グアム〜父島間の回線とを繋ぎ
1906年(明治39年)8月1日
最終的に
太平洋が通信線で繋がることになります。
No.26 1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/126.html
(大正のロッキード事件)
大正時代には一通の電信が大問題となった「大正のロッキード事件」が起こります。
「シーメンス事件」です。
この事件も横浜が舞台でした。
No.23 1月23日 大正の正義
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/123.html

※絵葉書画像「日米海底電信直通紀年」
1906年(明治39年)8月1日の記念スタンプ

No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/122.html
No.345 12月10日(月)Tea or Coffee?

No.345 12月10日(月)Tea or Coffee?


No.112 4月21日 濱にお茶は欠かせない
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/04/421_21.html
日清戦争後、日本国内でも大北電信会社に依存する状態を懸念する動きがでてきます。
政府レベルとは違う民間の視点でも日米通信の実現を強く希望したのが横浜でした。