1月 19

【横浜駅物語】2横浜

(テキストのみ、画像後日追加)
■横浜物語
第二話は、桜木町に続く、現在の横浜駅を採り上げよう。初代から移動し三代目(三ヶ所目)であるこの駅は”フラッグシップステーション”として地域を代表する駅だ。
地域を代表するレベルの駅が大きく二度も移動したのは「横浜駅」くらいではないだろうか。
1978年(昭和53年)6月17日に公開された高倉健主演の「冬の華」冒頭部分に横浜駅東口が大きく映し出される。当時は風景として「東口」が正面玄関であったが、まさに横浜駅が東西戦争真っ只中だった。 1928年(昭和3年)に現在地へ移動した横浜駅西口は、当時空白地だった。戦後西口エリアの開発が進み、1963年(昭和38年)に地下街が完成したころから、”表玄関”の位置付けが逆転し始めたあたりを探ってみよう。
横浜駅の東西<開発戦争>は、現在も続いている。そごう・高島屋の百貨店をめぐる東西開発競争、ステーションビル・ルミネ競争、地下街競争他、大消費地でもある横浜駅は特に戦後の高度成長を背景に激しい鍔迫り合いが行われてきた。
書き出したらそのドラマは枚挙にいとまがない。
ここでは、あまり知られていない横浜東西表玄関競争の一端を紹介しよう。
■(民衆駅)

1957年(昭和32年)横浜駅を舞台に東西からそれぞれ「民衆駅」請願提出が行われた。
民衆駅とは
「民衆駅(みんしゅうえき)とは、駅舎の建設を日本国有鉄道(国鉄)と地元が共同で行い、その代わりに商業施設を設けた駅である。(wikipedia」
空襲等で荒廃した戦後の駅前を国鉄の立地を活かし地域が資本を投下して商業施設開発を行うという事業で、全国で多くの事例を残している。
いわゆる「ステーションビル」開発である。駅に直結した商業施設は確実に集客を見込める事業である。横浜では「横浜ステーシヨンビル」という地元資本の会社を興し、駅ビルの経営にあたった。このスタイルは駅ビルテナント管理(シアル・ルミネ等)に受け継がれ、最終的には駅ナカ<エキュート>へとつながる。 昭和32年に横浜駅の東西両方から、この民衆駅事業の請願が出た。
東は崎陽軒、西は相模鉄道が中心となりそれぞれが熾烈な争奪戦を始めたが、東は開設以来の表玄関としてのプライドがあり、崎陽軒は桜木町(初代横浜駅)から駅前で開業、現横浜駅にも1928年(昭和3年)に現在の場所に開店し、ここで名物「シウマイ」が誕生した。
以来、駅弁の雄として横浜駅には欠かせない企業となった。
一方、西口は、1926年(大正15年)厚木からスタートした神中鉄道が1933年(昭和8年)に念願の横浜駅開業にこぎつけたが、西口は相模川の砂利置き場となり接続のメリットに与れず経営が低迷していた。五島慶太は東横の西神奈川進出を目論み東京横浜電鉄の傘下に入れ、経営立て直しを進めたが戦争で中断していた。
1943年(昭和18年)に茅ヶ崎に本社を持っていた「相模鉄道」は神中鉄道と合併し拡大を図るが主力線(現相模線)を国鉄に吸収合併され、神中鉄道=相鉄となり現在の路線が相鉄の主力路線となった。
戦中戦後まで、横浜駅西口周辺(幸地区)は、帷子川河口域の埋立が遅れ砂利や資材置場として使われている状況だったが、大きな転機が訪れる。
戦前から横浜駅周辺に油槽を構えていた米国スタンダード・オイル社の持つ横浜駅西口の土地24688m2を1952年(昭和27年)に買収することになる。
この決断がなければ、現在の横浜駅前一帯はかなり雑居化が進み、東口優位は続いたかもしれない重要な判断だった。
ターミナルとして重要度が増す「横浜駅」の空白地西口広場を画期的な商業空間とするには、さらなる駅との直結が望まれた。
このときに、全国的に始まっていた「民衆駅」構想を東西の商工会が導入することを考えたのは当然のことだろう。
あらためて<民衆駅>とは?
「駅舎およびその付属施設に接着する施設の一部を部外者に使用させることを条件として,その建設費の一部または全部をその部外者に負担させて建設する駅施設の呼称である。すなわち民衆駅の名称はこのような形態によって建設された施設のみの呼称であって,駅という概念ではない。したがって駅舎の一部だけがこの種の形態で建設されたような場合は, その部分だけを民衆駅と呼称する。たとえば東京駅の場合, 八重洲口本屋施設(関連施設を含む)だけを民衆駅といい,乗車口・降車口を含めた旧本屋施設は民衆駅とはいわないのである。」
と当時の辞典に記載されるように、その代表例は東京駅八重洲口だった。
この「民衆駅」事業は駅周辺の商業力を大きく変えることもあり、東西の国鉄への請願はデッドヒートした。
国鉄も、さすがに両側に民衆駅を進める訳にもいかず、両者で意見をまとめるよう要望し、最終的に1961年(昭和36年)、統合され株式会社横浜ステーシヨンビルとなり、
西口に「横浜ステーシヨンビル」が神奈川県最大の民衆駅として開業することになった。

■(西から東へ)
事実上の”西側”の勝利を意味し、しばらくの間横浜駅は西口優位の時代が続くのである。
その後、東口挽回のために「横浜駅前新興会社」が組織されスカイビルへと変身していくが当時の飛鳥田市政とは不協和音が生じ、しばらくゆゆの時代が続く。東口開発のキーマンとして自治官僚トップだった細郷道一が横浜駅東口開発公社理事長に就任するも、苦戦を強いられるが第22代横浜市長となり、飛鳥田六大事業は東口へと光があたり始める。
伊勢丹が狙った東口も、当時の水島 廣雄の手によるそごう進出が決定し、東西再逆転の体制が揃うこととなった。
(関連ブログ)かなりだぶってます。
No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=263
No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=328
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=604
No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=530
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=399
1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7895

Facebook Comments
1月 1

【横浜駅物語】1桜木町

(追記の可能性があります) ■桜木町物語
最も歴史に満ちたこの駅には語り尽くせない物語が多くある。
桜木町駅あたりがまだ海だった頃から物語を始めよう。 野毛浦の絶壁から見下ろす海には、姥ヶ岩に打つ白波が絶えず立っていた。その先には洲干辨天の嘴が真下まで伸び、その風景は野毛山を越える旅人を驚かせたに違いない。
幕末に開港場となった横浜村が軸となり居留地が誕生し、近代という異文化がこの地で濃縮された。
開港後、近代化を目指した日本は様々な西欧を吸収する中で、いち早く東京と横浜を結ぶ<鉄道>敷設を目論んだ。1872年(明治5年)のことだ。この時、鉄道用地を白波の立つ野毛浦の海に求めた。
近代化を目指した日本は様々な西欧を吸収する中で、いち早く東京と横浜を結ぶ<鉄道>敷設を目論んだ。この時、鉄道用地を白波の立つ野毛浦の海に求めた。
内田清七と高島嘉右衛門が埋め立て海に鉄道用地を作ったことによって、初代横浜駅が誕生する。1872年(明治5年)のことだ。
明治期になってたった5年しか経っていない鉄道の誕生である。
これは江戸に育った<近代性>の支えなくして成し得なかったといえるだろう。桜木町駅前に立つ度、「日本の近代化が江戸期に培われてきた先進性の素に開花した」ことを実感する。 (鉄道発祥の駅)
鉄道開通の記念碑が建つ桜木町駅は1990年(平成2年)に<正面>が変わった。これは駅開設以来の地域変化を表している。
日本を代表する「横浜駅」が「桜木町駅」となったが長らく「桜木町駅」は関内方向に向かって正面玄関が設置されていた。
玄関を出ると広場があり、その向こうには大岡川が流れ、「辨天橋」「大江橋」が架かる風景が広がっていた。乗降客は、横浜港利用やそれに関係する人々や、三菱造船に働く人が多かった。
市電時代では、終点「桜木町駅」から駅前ロータリーを経由して様々な方面に向かう人で戦後も賑わってきた。
初代横浜駅は
1915年(大正4年)に転機が訪れた。
 第一次世界大戦が起こり間接的影響を受ける中、港都横浜と帝都東京を結んだ国有鉄道が私鉄吸収を含め、驚異的な発展を遂げたことで東海道の幹線から外れた「横浜駅」の役割が大きく変わることになった。
いわゆるスイッチバック問題である。東海道本線「(旧)横浜駅」を経由するには鉄道創業路線をスイッチバックして通過する必要があった。
1889年(明治 22年)に神戸まで開通した東海道本線は、東西を結ぶ幹線として利用度が高まり、ロスのある、横浜駅スルー案が登場する。
1913年(大正2年)8月には東海道本線複線化が完了し、関西圏と関東圏を繋ぐ大動脈が登場し、ますます「横浜駅」スルー議論が高まり、新駅を作るのではなく
「横浜駅」を移動することに決定。石崎川に沿って走る東海道本線に新「横浜駅」が開設された。
1919年(大正8年)データでは国有鉄道の総営業キロは9,982キロメートル、地方鉄道は3,227キロメートルに達 し、ほぼ全国を網羅したのである。
(桜木町駅)
神奈川県を代表する「横浜駅」の冠を譲った「桜木町駅」は戦後、ようやく根岸線延伸計画が実現し、終着駅から通過駅となった。
1964年(昭和39年)に磯子駅まで延伸し、1973年(昭和48年)には大船まで全通することになり、
1990年(平成2年)に現在の駅舎が完成し、正面が海側に変更「関内」から「みなとみらい21」エリアに正面玄関が向いた。
前年の1989年(平成元年)に
桜木町駅海側にあった「三菱造船所」が移転した跡地を再開発する前祝いとして横浜博覧会(YES89)が開催され、駅舎改装が始まった。 (東横線廃止)
1932年(昭和7年)に二代目横浜駅まで延伸していた東急電鉄が桜木町まで延伸、
渋谷と野毛を繋ぐ路線として活躍した。
2004年(平成16年)1月30日に廃止。 2014年(平成26年)には、「CIAL桜木町」が開業し、山側の空間整備が始まり、現在も進行中である。
(市庁舎移転)
桜木町駅の環境がまたもや変わろうとしている。
No.256 9月12日(火)どこも本庁舎引越は大問題
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=348
第854話 改めて横浜市役所移転史
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9071 ■【横浜駅物語】を始める
2011年(平成23年)から4年かけて市内全駅に降り立ち、差はありますが周辺を散策しました。
散策の折り、駅を材料にしてショート・ショートを記してみたいと思って数年、なかなか書き出すキッカケがありませんでした。(※一部駅を除く)
市内全駅
横浜市内の駅は数え方にもよりますが七社150を超えます。
これら数ある中から簡単なコメントを紹介していこうと思います。
最初の駅を選ぶとすれば
横浜の場合「桜木町」しかないでしょう。
ただ、私の場合どうも掘っていって収集がつかなくなるので、桜木町をどう簡単にまとめるか、大難問!でした。折を観て、違った角度で桜木町は紹介していきます。 (JR根岸線桜木町駅)
「桜木町」駅は歴史の大波を乗り越えてきた駅です。
横浜の歴史を知る過程で必ず登場するのが鉄道発祥の駅としてこの地に1872年(明治5年)開設された初代「横浜」駅です。
その後「桜木町」と変更し歴史に翻弄されながら現在に至ります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/桜木町駅 (東急東横線)
1932年(昭和7年)3月31日
当時の国鉄「桜木町」駅に隣接して開業したのが東急東横線「桜木町」駅です。
みなとみらい線開業にともない、横浜駅以降の高島町・桜木町が
2004年(平成16年)1月30日に廃止されました。 過去の「桜木町」関連のブログを紹介します。 第694話【一枚の横浜絵葉書】「桜木町横浜市授産所ノ偉観」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6063 第987話【運河物語】桜川
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12394 番外編【資料としての絵葉書】横浜駅
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12266 第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9341 第849話 横浜・新橋、横浜が先?
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9006 第976話【横浜の道】横濱国道物語
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12001 【横浜の国道】133開港の道物語
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7243
Facebook Comments
12月 25

【バス物語】江ノ電バスラストラン

2019年(令和元年)12月15日
江ノ電バス横浜の2系統路線が廃止されるラストランの日だった。
大船駅から横浜駅までを繋ぐY2系統
栗木から横浜までのY3系統 
江ノ電の分類ではY16・Y17となっているが、表示はY2Y3。
「神奈川バスルート案内」では23系統・42系統と表記。
なんともわかりにくいバス系統が不思議な番号で綴られている。 横浜市内には市営、神奈中、臨港、東急、京急、小田急、相鉄、大新東、横浜交通開発、富士バスそして江ノ電など11社が路線を持っている。世界最大級と云われているバス会社神奈中を筆頭に、それぞれ<なわばり>みたいなエリアがある。横浜江ノ電は、戸塚駅より西に系統網を持っているが、際立っていたのが<Y2Y3系統>だった。
Y2・3系統は、終着点を「横浜駅東口」に設定している。つまり江ノ電の本拠地に近い地点から「下り」ルートが設定されている路線で、江ノ電が明治期の創設前に目指した鎌倉から黄金町までの路線に重なっている伝統?路線だったようだ。
江之島電氣鐵道、横浜電気株式会社(買収)の時代もあった。
江ノ島電気鉄道、東京横浜電気鉄道(傘下)、江ノ島鎌倉観光など目まぐるしく経営環境が変わった鉄道事業者である。
戦前の一時期神奈中バス(大東急時代)に経営を全面的に手渡したが戦後復活時にバス部門を取り戻し、江ノ電エリアから遠く離れたこの路線も取り戻した伝統あるものであった。 今回、2019年(令和元年)12月15日をもって
「大船〜横浜」という横浜市内最長クラスの路線が廃止されてしまった。過去に二度利用したことがあるが、平日午後利用客も多かった記憶がある。
もう一つの派生路線<栗木〜横浜駅>は数回利用したことがある。これも赤字路線とは思えない。 廃線理由は「運転手不足」という実に悲しい事態だった。運転手不足はこの10年、バス業界に吹き荒れた嵐だった。全国的な人手不足の中、神奈中・市営・京急などが集中するエリアで、江ノ電は今考えれば孤軍奮闘していたのかもしれない。 このY2・Y3路線の横浜・野毛大通り間のルートが不思議な経路を持っている点でマニア的にはとても面白い。 
これが無くなってしまったことはとても残念だ。 (上下分離路線)
横浜駅〜日ノ出町駅前までの路線について特記しておく。
<ルート>
■下りルート
〜日ノ出町駅前〜野毛町〜野毛大通り〜紅葉坂〜雪見橋〜花咲町〜高島町※〜横浜駅改札口前※〜横浜駅東口
※横浜駅東口行き方向のみ停車。
この印のある3停留所のみ江ノ電バスは別ルートを走ります。
■上りルート
横浜駅(東口)〜高島町〜花咲町〜雪見橋〜紅葉坂〜野毛大通り〜野毛町〜日ノ出町駅前〜<以下省略> 横浜駅東口、桜木町駅間のバスルートは上下線が別れているのが特徴です。
理由は桜木町駅前の交差点にあります。
ここは、国道16号線と、山下長津田線(新横浜通り)が並行している区間で、国道16号線が右折禁止のため並行する山下長津田線(新横浜通り)をバイパス道として使い、右折できるためです。
この路線が廃止されたのは残念でなりません。
ラストランの日、バスファンが多く乗り合わせる中、
日頃利用されているお年寄りがガラケイを出し記念撮影をしている姿が印象深かった。
「残念ね。20年利用していたのにね。今日はお休みなんだけど、最後に乗りたいから来ました。」と語っていました。
運転手不足で廃線しなければならないほど悔しいことはないでしょう。
Facebook Comments
12月 17

【占領の風景】関外飛行場

横浜中心市街地の占領史で若葉町に軽飛行場があったことは意外と知られていないようです。
2009年ごろ「空港の街」という飛行場サイトもできていましたがマイナーでした。このタイトルはいささかオーバーだとは思いますが、意外性からも面白い内容になっています。ただ情報量としては残念無念、少なすぎます。さらなる継続を期待したのですが。
(URLは文末に掲載)
1943年(昭和23年)発行1万分の1「横浜」
1943年(昭和23年)発行1万分の1「横浜」
■空港の街<関外飛行場>
1945年(昭和20年)9月、終戦直後接収が始まったと同時に米軍は横浜の繁華街に飛行場を整備します。
カナコロ「戦災復興の記憶〈8〉飛行場」
https://www.kanaloco.jp/article/entry-64012.html
ここに貴重な写真が掲載されています。1950年(昭和25年)ごろに撮影されたものとあり、接収解除は二年後の1952年でした。
この写真から接収当時の様子が良く判ります。飛行場脇に被災し関外がほぼ焦土化した伊勢佐木4丁目から5丁目のバラックが建っている風景が確認できます。 今回、この神奈川新聞は何故この時期に「飛行場」敷地を撮影したのだろう?と思い巡らしていたところ
 そういえば、
当「XY通信」でも初期に取り上げたことを思い出してみると
「暦で語る今日の横浜【9月10日】市長と飛行場」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=75
で後半ちょっと紹介していました。
これも1950年(昭和25年)9月10日の新聞記事から辿ったものです。
偶然にも1950年
「“伊勢佐木町飛行場”跡広場で横浜の「港湾勤労者スポーツ大会」開催。」の記事から手繰り寄せたものですが、
この時期には飛行場跡地が地元に開放され、地域のイベントが開催されていたことが判ります。
実質飛行場機能は「間門」の海岸線に移設されました。
飛行機部分を拡大したもの
■若葉空港整備中
ここに紹介する風景は、この若葉町飛行場整備中のものと思われます。右手に勤労動員なのか、多くの人が集まっています。
飛行機も確認できます。
1948年(昭和23年)修正の1万分の1地図と比較しても、まだ周辺が未整備状況を確認できます。
地図情報や接収資料からこの写真は1945年秋から1947年(昭和22年)
ごろと推測しました。
拡大前の元写真
(横浜飛行場)
横浜市内にはかつて航空機離発着に関係する施設がいくつかありました。他の横浜市内飛行場に関して簡単に紹介します。
<富岡水上飛行場>
現在金沢区にある富岡総合公園一帯周辺に横浜海軍航空隊の施設が整備されていたもので飛行艇の(海を使った)離発着が行われていましたが滑走路は無かったようです。
1936年(昭和11年)に開設され終戦まで使用されました。
その後接収、解除という歴史をたどり、公園や警察・民間施設となっています。
広さ:約21,9200平方m <大日本航空横浜水上飛行場>
ここも富岡同様飛行艇用の施設がありました。戦前には南方(パラオ)への定期便も運行されていた時期もあり、戦後米軍に接収、解除という歴史を歩みました。
所在地:磯子区鳳町あたりから中区千鳥町
(当時は、横浜市八幡町海岸)
195,162平方m
1945年(昭和20年)9月25日〜
1955年(昭和30年)3月11日接収開始1960年(昭和35年)6月30日接収完了。
「昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社 により日本初の飛行艇 専用民間飛行場 が作られました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機 製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン 経由パラオ に向け飛び立ちました。
 発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
 昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇 が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26~64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
 97式大艇の最終飛行は終戦後昭和20年(1945)9月の台湾向け紙幣の輸送で、2式大艇は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の託間基地からここに飛来したのが最後です。
 根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。 」
※中区史 <間門飛行場>
前述の関外若葉町にあった軽飛行場が海岸線に移設され一時期飛行場として開設されました。 関連サイト
「空港の街」
http://isezakiwakaba.hama1.jp/e28216.html
Facebook Comments
12月 13

【駅周辺史】京急弘明寺駅 六ツ川温泉郷

以前別のところにアップしたテーマを加筆修正してここにアップします。
現在の横浜市南区六ツ川界隈にかつて<温泉旅館群>が点在していました。
温泉と言っても冷泉(ラジウム泉)を沸かして提供したと思われます。
六ツ川近辺に関する文献の中に<温泉>が散見されました。良く登場するのが「大東温泉」と「中里温泉」です。
その中から今日のメインテーマとなる「横濱温泉」が登場します。
現時点では資料不足全容不明ですがテーマの投げかけとしてわかった範囲で紹介します。
(六ツ川)
横浜市南区六ツ川は元々「武蔵国久良岐郡引越村」の一部で1927年(昭和2年)の第三次市域拡張のときに村内を流れる川の名をもとに「六ツ川町」と改称されました。
冒頭の横浜温泉に関して調べてみると
「南区の歴史」には、京急弘明寺駅から平戸桜木道路に出た付近に宿があったことが記されています。絵図では「大東温泉」となっています。 このあたりのことが
「はまれぽ」で取り上げられていました。この記事をまとめるとこの「大東温泉」があったのとほぼ同じ場所に「横浜温泉」(廃業)少し離れて「中里温泉」がある(現存)とレポされていました。
「横浜温泉」を引き継いで「大東温泉」となったのか?
「横浜温泉」と「大東温泉」は別のものなのか? 
手元の資料では不明ですが位置的には間違いないでしょう。
別テーマとして昭和二年まであった「引越村」の地名にも注目しています。
これに関しては追い追い。 昭和初期の弘明寺近辺の地図を探ったところ、震災復興が達成された昭和3年頃の六ツ川町周辺の地図に「横浜温泉」が確認できます。
昭和3年弘明寺周辺図
昭和3年ごろの地図です。湘南電気鉄道予定線が引かれています。
キャプションには横浜温泉からの眺めとあります。
温泉近くの小川が確認できます。「六ッ川」と思われます。
Facebook Comments
10月 3

横浜史自分版を作る

横浜市のサイトに掲示されている「横浜市のあゆみ 略年表」の近世幕末期までの部分を転載しました。
出展:「横浜市のあゆみ 略年表」
    横浜市のあゆみ 略年表
約20,000~2,400年前   先土器・縄文時代は、まだ農耕が生活の中心になる前の時代ですが、横浜市域でも旭区矢指谷遺跡などで先土器後期の人々の活動の最初の痕跡が見られます。また縄文時代の中頃には、都筑区三の丸遺跡のような環状集落と呼ばれる大型の集落遺跡が残され、人々の生活の営みが知られます。
約2,400~1,700年前   弥生時代は、本格的な水田稲作と金属器の使用がはじまった時代です。磯子区三殿台遺跡や都筑区大塚・歳勝土遺跡などに稲作を行う農耕集団の集落が営まれています。
西暦300年ころ~建久3(1192)年   古代は、力をつけた地域の首長のために古墳がつくられた古墳時代と、律令という法にもとづく国家がつくられた奈良・平安時代にわたります。市域に関わる最も古い文字史料は、飛鳥で発見された「諸岡五十戸」と記された木簡で、後の久良郡師岡郷にあたるものです。古代では、市域は武蔵国の都筑郡・久良郡を中心に編成され、『万葉集』にみえる防人など、人々は様々な負担を課せられました。青葉区の長者原遺跡は古代都筑郡の役所(郡家)の跡です。 10世紀以降、東国は武士を生み出す基盤となりますが、 鎧の部品を製作した都筑・西ノ谷遺跡など、市域にも関連する遺跡が発見されています。
建久3(1193)年~天正18(1590)年   中世は、新しく力をもつようになった武士により、戦いが繰り返された時代です。鎌倉に武家政権が成立すると、金沢区の六浦は中世都市鎌倉を支える物資の集積地として、 諸国から商人や職人など多くの人々が集まり大変なにぎわいを見せました。 また、称名寺などを中心として鎌倉に劣らない仏教文化が栄えました。
天正18(1590)年~安政6(1859)年   近世は、江戸幕府を中心として、安定した社会が続いた時代です。江戸時代の横浜には約200か村を越える村々が存在し、 その多くは幕府領や旗本領でしたが享保6(1721)年には武州金沢藩(米倉氏)が成立しています。 また慶長6(1601)年には東海道の宿場として神奈川宿と保土ヶ谷宿が、 慶長9(1604)年には戸塚宿が成立し、地域の経済・文化の中心となっていきました。
近世は、
江戸幕府を中心として、安定した社会が続いた時代です。江戸時代の横浜には約200か村を越える村々が存在し、 その多くは幕府領や旗本領でしたが享保6(1721)年には武州金沢藩(米倉氏)が成立しています。 また慶長6(1601)年には東海道の宿場として神奈川宿と保土ヶ谷宿が、 慶長9(1604)年には戸塚宿が成立し、地域の経済・文化の中心となっていきました。」とまとめています。
************
”横浜市”を形成する歴史的要素に「吉田新田」の記述が無いのは大変残念だと思います。
通史を考える時、時代をどう区分するのか?時代の画期をどう考えるのか?この作業を進めていくのが歴史を考える重要な柱です。
************
ということで、自己版「横浜史」を吉田新田をベースにまとめてみることにしました。
⑴入海時代(吉田新田以前)
⑵技術移転時代(中世末期から近世)
⑶大干拓時代と新田時代
⑷開港の部隊(幕末)
⑸近代、西欧の受容
⑹五大苦、苦難の時代
むすび そして未来へ
こんな感じでまとめてみたいと考えています。
Facebook Comments
7月 21

【中締めに向けて】

横浜界隈通信も間もなく1000話一つの区切りが訪れます。
なかなか越えられません。残り六つ、肩の力を抜いて書き抜きます。 このブログの始まりは自身の<リハビリ>の一つとして先輩からブログを勧められたことに始まります。
チャレンジとしてはかなり無謀でしたが「一日一話形式」で暦に因んだ横浜のテーマを取りまとめてみることでした。このブログを始める前まで、横浜市に暮らしていながら、断片的な知識しか無く、現在はもちろん歴史に関しては地元の小学生より貧弱だったと思います。
まずは横浜に関するテーマを調べることから私の横浜像を少しづつ広げていくことにしました。マイルールは、可能な限りテーマに関した<現地>に足を運ぶことにしました。
No.1 1月1日(日) 奇跡の1998年(前半)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=622
→スポーツ史 駅伝・国立競技場・横浜球場
No2 1月2日(月) ニュース芝居、最先端劇場で上演
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=621
→川上音二郎と横浜 野毛山
No3 1月3日(火) 大火事
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=620
→横浜の大火 
No4 1月4日(水) 昭和の歌姫
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=619
→美空ひばり 杉田
No5 1月5日(木) 漂泊の詩人 永井叔(一部加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=618
No.6 1月6日(金) 天然スケートリンク開場(修正、加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=617
→大倉山天然スケート場開場 系統立てる事なく、ひたすら資料に登場する出来事やテーマを元に周辺資料を調べ、足を運ぶことを一年間(365話)続けました。
今読むと書き直したいものも多数ありますが、新資料や間違いの修正加筆にとどめています。
二年目に入り、取り上げたテーマから発見したテーマや、枝葉のように広がったテーマを追いかけながら、ジグゾーパズルのピースを埋め込むような作業が始まります。
600話位からでしょうか、ぼやーっと横浜という立体が象を結ぶようになってきました。
1001話以降は少し横断的な横浜象をあぶり出していきたいと思っています。
Facebook Comments
7月 3

第994話【一枚の絵葉書】橋に書かれたアルファベット

#前田橋 #堀川 #絵葉書
近年、絵葉書が風景史料として注目されています。そこに写された風景が、発行者の意図を越えて、新しい発見があるからです。 ここに描かれている風景は 堀川に架かる三代目「前田橋」の関内側から撮影されたものです。
投函されたのは1905年(明治38年)日露戦争末期、東京の軍兵舎から日頃世話になっている郷里の友人及び家族に送られたものと推察しました。
日露戦争は奇跡的に勝利したものの戦費枯渇の中、両国は収束点を求めつつ、水面下で外交交渉が進められているころです。
時代背景はさて置き、この絵葉書を拡大してみると、橋のたもとのところに<英字>で何か書かれていることに気が付きました。上流側には前田橋の銘板のヨコに「C HAL…」と書かれています。
一方下流側には 人物がかぶって一部しか見えませんが、メッセージが書かれています。この時期はまだ手彩色の時代ですので、色彩が正しく当時の色合いを表現しているかどうか不確かですが、文字に関しては地となるモノクロ写真に写り込んでいたものでしょう。
欧文表記ですので、外国人向けのメッセージと思われます。もしこれが広告としたら驚きです。橋を使った広告が明治期普通に展開していたということです。
前田橋は、居留地を出島化するために堀川が開削され1860年(万延元年)に架橋されました。明治維新後の1871年(明治4年)、居留地からの要求に応じて拡幅工事を行うことに伴い、新しく架橋(二代目)されました。さらに1890年(明治23年)に鉄の橋(三代目)に架け替えられます。
この絵葉書に映っている前田橋はこの三代目鉄の橋です。
その後関東大震災で消失し、震災復興橋(四代目)として新しく架けられ、1983年(昭和58年)に五代目が架けられました。
前田橋の歴史 とりまとめ
<初代>
1860年(万延元年) 堀川開削と同時に谷戸橋、西之橋併せて三つの橋を架橋。
<2代目>
1871年(明治4年)
明治14年迅速図
※1889年(明治22年)に電話の一般供用開始
 上掲風景は元町にまだ電柱が無かった時代のものです。
 2代目前田橋の欄干は写真の通りだったと推測できます。
<3代目>
1890年(明治23年)
前田橋の上にケーブルが架かっています。元町の電信ニーズが高まった証ではないでしょうか。 ***関東大震災で崩落***
<4代目>
1927年(昭和2年)8月5日震災復興橋として竣工
幅 6.00m
長さ34.2m
※肘木式鋼板桁橋
4代目の写真を探しているところです。
<5代目>
1983年(昭和58年)架替
幅 13.8m
長さ30.9m
上記写真にある橋の両岸には手のこんだレリーフがはめ込まれています。絵柄は謎の<珍獣>です。さてそれは何か?実際に行かれてはどうでしょう。 (結論)タイトルに掲げた「前田橋」のアルファベットは何も謎解きできていません。今後の謎解きテーマに加えることにします。しばしご容赦ください。
Facebook Comments
3月 18

第993話【一枚の絵葉書】根岸療養院

根岸療養院
前回は中村石川にあった「横浜市中央教材園」の絵葉書から導き出された風景を紹介しました。今回も前回と同様の「一枚の絵葉書」から横浜史の一風景を読み解いていきたいと思います。
この【一枚の絵葉書】シリーズは、手元の絵葉書から、そこに写し出されている風景を読み解きながら関連情報を探っていきます。
基本読み物としては鬱陶しくなってしまいますが、ご辛抱ください。
1000話までこんな感じです。
前回は 第992話 リケ児育成のために(修正追記)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12622
今回の一枚は「根岸療養院(山海館)」
第一印象はタイトル通り根岸の病院か結核療養施設の風景のようです。
Google検索でいくつか関連データが見つかりました。
「中区史」の地域編のなかで明治期の根岸開発の模様を伝えた記事がヒットしました。
中区史根岸療養院記述
「さらに四十五年七月には五坪(一六、五平方メートル)の家屋を改造した病室を持った根岸療養院が二、一四九番地に建てられたことである。」とあり<所在地>と<設立年>が判明しました。 1912年(明治45年)開設
場所は根岸村2,149番地
これをヒントに開設場所を地図で探ってみました。
手元にある地図では明治45年(大正元年)近くのものが無く、少し時間の経った大正12年、震災前発行の地図から「根岸療養院」の場所を探してみました。
大正12年4月根岸
遡って明治14年の迅速図、昭和に入った根岸周辺地図でもあたってみました。
明治14年根岸
昭和4年根岸
本牧・根岸は戦後海岸線が埋め立てによって大きく変貌しましたが、当時の「根岸療養院」からは眼下に海が広がっていた事でしょう。 ではこの療養院はいつまで存続したのか?Google検索から
大正12年の関東大震災における「横浜・神奈川での救援・救済対応」という震災資料がヒット。
「神奈川県庁は、9月2日、桜木町の海外渡航検査所に救護(治療)本部を置き、傷病者の治療を開始した。3日、同所に県庁仮事務所を置き、高島町の社会館内に傷病者の収容所を設けた。社会館は県庁が震災の2年前に開設した労働者のための宿泊施設である。既に述べたように、同日、衛生課長の下に救護(救療)、衛生材料調達、死体処理などの係を設けて衛生課職員を配置した。医師、看護婦は、横浜市の十全病院、根岸療養院より借り入れ、また、臨時の募集を行って不足を補い、救護本部や社会館内の収容所に配置した。」(中略)「根岸療養院は個人の経営する結核患者の療養所だったが、震災以後、結核患者を郷里に戻し、9月8日から30日までの間、一般傷病者の収容を行った。受診患者数(延べ)は入院1,803人、外来4,299人であった(『神奈川県震災衛生誌』)。10月以後、日本赤十字社に療養院の建物と器具、職員が無料で提供されて、同神奈川県支部の臨時根岸病院となった。
と記載されていました。日本赤十字社と関係があったことが伺えます。
日赤の資料も探ってみると
1924年(大正13年)結核専門の療養施設である根岸療院を開設。とありました。これだけでは根岸療院=「根岸療養院」なのかまだ確定しませんが、この「日赤根岸療院」が源流となったのが昭和21年に改称された「横浜赤十字病院」です。
そして現在の「横浜市立みなと赤十字病院」につながります。
横浜市立図書館のオープンデータに
1917年(大正6年)発行の横浜社会辞彙という当時の紳士録に近い資料がありその中に「根岸療養院」について記載された概要を下記にまとめました。横浜社会辞彙「根岸療養院」項目に院長の名がありませんでしたが、個人名から創設者が<大村民蔵>ということがわかりました。 院長 大村民蔵
根岸2194番地
電話2411番
敷地 2500坪 全9棟 延べ床 525坪
 個人病室 30室
 共同使用病室 8室
全体で凡そ100名の患者を収容。
1912年(明治45年)7月18日 根岸に開設
1913年(大正2年)7月春心館を建築
1915年(大正4年)7月山海館(2階建て)
8月 静温館
10月 浴室等完成
日運館・赤心館
(庭園)松林・梅林・菊園・ダリア
この時点で、図書館DBで他の資料が無いか確認した所
創設者である大村民蔵氏の資料(自伝)がありましたので 創設者大村氏を追いかけてみました。
膨大な自叙伝ですのでプロフィールの一部分だけ紹介します。 大村民蔵
山口県防府市 出身
1869年(明治2年)11月22日
大村茂兵衛の四男として生まれ
17歳のときに故郷から横須賀に移り、役場に勤めた後、鉄道局駅吏として横浜駅(現桜木町駅)に勤務しますが、初心を貫き東京に出て「済生学舎」に学び医師資格を目指します。
1897年(明治30年)12月医術開業試験に合格し医師の道を歩み東京荏原(品川)の病院に勤務します。
※「済生学舎」1876年(明治9年)長谷川泰により設立された医師を目指すための医師免許専門の学校でした。
 野口英世・吉岡弥生・荻野吟子らがここで学び、医師の道をめざしました。
1898年(明治31年)に佐野常民より「日本赤十字社社員」の辞令を受け、これが現在に続く横浜との因縁の一つとなります。
横浜との関係は、東京時代に警視庁警察医務の嘱託となったことで
1900年(明治33年)に神奈川県監獄医務所長の辞令を受け根岸にある監獄署官舎に引っ越したことに始まります。
翌年34年には現職のまま研鑽のため北里柴三郎に就き伝染病学を学ぶことになり、これがキッカケで北里人脈が広がります。
1902年(明治35年)に根岸町871番に診療所を開き亡くなるまで横浜市内で医師として活躍することに。
1924年(大正13年)3月31日
「根岸療養院を、日本赤十字社神奈川支部に結核予防と治療を継続する条件にて譲渡し、根岸療院と改名す。
→ここで前述の 根岸療院=「根岸療養院」 が確定しました。
大村民蔵氏はその後も日赤と深く関わることになり、戦後は地域の医者として94歳まで診療に携わり
1969年(昭和44年)12月101歳で亡くなります。 根岸療養院を支えた多くの医師の中でも初期の二人。
医学博士 守屋 伍造
医学博士 古賀玄三郎

 ともに伝染病研究所で所長だった北里柴三郎の門下生でここ「根岸療養院」との関わりだけでもさらに深い物語が登場します。
志賀潔、浅川範彦、そして守屋 伍造の三名が部長として片腕となり、ここに助手として入所したのが野口英世でした。
■古賀玄三郎は
1879年(明治12年)10月20日生まれ〜1920年(大正9年)
佐賀県三養基郡里村(現:鳥栖市)出身。
1899年(明治32年)長崎第五高等学校医学部卒
上京し、東京市築地林病院(築地五丁目)医員となる
1901年(明治34年)岩手県盛岡市立盛岡病院外科部長。
1910年(明治43年)京都帝国大学医学部に入学、特発脱疽の研究(「チアノクプロール」(シアン化銅剤)の開発)、治療法で博士号。
→当時古賀玄三郎博士によって開発された注射液「チアノクプロール」を1915年(大正4年)7月15日に初めて試みたのが有島安子で作家有島武郎の妻だという記載資料がありました。ここでも横浜と繋がります。
1920年(大正9年)
10月17日大連市(中国東北部)で開催された満州結核予防会 発足にあたり記念講演後、
10月18日大連駅で倒れ、21日に亡くなります(41歳)。
大村民蔵氏は師の北里柴三郎はもとより、福沢諭吉とも関係があったようです。
中でも北里柴三郎は1927年(昭和2年)横浜の絹織物商・椎野正兵衛商店の長女・婦美子と再婚しています。
成功名鑑飯島栄太郎
追いかければキリがないくらい様々なつながりが出てきますが
ここでは最後に 横浜の財界人であった飯島栄太郎氏を紹介しておきます。
「横濱成功名誉鑑」にも登場する飯島栄太郎は境町(現日本大通り)「近栄洋物店」のオーナーとして、創業者であった飯島栄助を継ぎ家業の外国人向けの雑貨店を発展させます。創業者の栄助は近江彦根の出身、幕末期京阪、江戸(東京)を放浪の末、明治3年に元町で業を起こし成功します。明治9年に境町2丁目に移転、西洋雑貨取引で財を成し、
明治31年 息子飯島栄太郎に譲り、栄助は予てより取得していた根岸の別荘に<隠居>
明治38年12月に亡くなります。
飯島栄太郎は、家業の雑貨商だけではな無く、アメリカに留学または滞在し、日本に帰国したのち政界・経済界で活躍した人々が集まり、交友を深め便益をはかることを目的に、明治31(1898)年に設立された米友協会の会員として活躍します。
微妙な日米関係となった白船来航時には、国を挙げて米国艦隊を迎える中、大谷嘉兵衛、野村洋三、浅野総一郎や左右田金作とともに歓迎の晩餐会を開催、日米関係の融和に努めました。
【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7201
彼の表した『米国渡航案内』は明治期の渡米ガイドとして大ベストセラーとなります。
 さらには飯島栄太郎の妻・飯島かね子もまた津田梅子に学び「帝國婦人技藝協會」を創立した傑女でした。 またまた遠回りになりましたが、
飯島栄太郎の父、「近栄洋物店」の創設者 栄助が隠居した根岸の別荘が栄助死後、空き家になっていた関係から
友人だった 大村民蔵のサナトリウム計画に協力し、別荘と敷地を譲渡することになりました。 ネット検索の過程で
「根岸小学校は全国でも最も早い時期に学校医の制度を導入したことで知られる。校医は日赤の実質的創設者でこの地で長年結核の治療にあたった大村民蔵氏」とあり、検証してみました。
学校医は明治期から法律的に導入されている制度で
「1894(明治27)年5月に東京市麹町区,同年7月に神戸市内の小学校に学校医が置かれたのが日本における学校医の始まり」であり、大村民蔵氏が根岸小学校の校医を拝命したのが1903年(明治36年)のことでした。また日赤の実質的創設者というのもおそらく間違いです。
「根岸療養院」は神奈川県内の日赤病院草分け的存在といえるでしょう。
という感じですか。
後から発見した別の全景がわかる根岸療養院はがき。
一枚の絵葉書の風景から様々な関係が見えてきました。
大村民蔵は近くにあった「根岸競馬場」とも関係があり、競馬に関するエピソードも満載です。
まだまだ人・場所・出来事との興味ある繋がりがありますが、
今回はここまでにしておきます。
Facebook Comments
2月 25

第992話 リケ児育成のために(修正追記)

<絵葉書の風景>
一枚の絵葉書風景を読み解きます。
タイトルは「横浜市中央教材園」です。
高台にあるこの施設はタイトルが示すとおり「中央教材園」の温室と関連施設と思われます。
設置されている場所は現在の「石川小学校」の隣接地で、敷地内の北側に位置した場所に「温室」と「植物栽培用の耕地」がありその一部です。
写真の右端に見える大きな建物は、天正5年(1577)に創建した「玉泉寺」と思われます。
当初明治五年に開山した浄光寺と判断しましたが、ご指摘を受け当時の地図と角度を合わせ、異なることを確認しました。
石川小の前を通る坂は坂は「遊行寺坂」と呼ばれこの近くに生まれた作家の吉川英治も歩いた坂です。
遠景は中村町一・二丁目が眼下に見え、遠くには関外(吉田新田)エリアが広がっているのがわかります。隣接する浄光寺は時宗総本山「遊行寺」 藤沢清浄光寺と同じ<時宗>のお寺です。

玉泉寺と中村川
※大慈山瑠璃院玉泉寺
天正5年(1577)に創建
高野山真言宗
横浜市南区中村町1-6-1
関東大震災で全て消失。
昭和6年202坪の本堂が竣工。 写真に写っている本堂は昭和6年に竣工したものと思われます。
撮影時期が少し絞り込まれました。
[教育施設の基本]
絵葉書の「横浜市中央教材園」とは何なのか、少し資料を追いかけてみました。
一昔前まで、進学時には<理系><文系>という分岐点がありました。未だ色濃く文系・理系の区別がされていますが最近では統合型の教育もかなり導入されるようになってきました。
そもそも文理の分離!?
は高校あたりの<数学>との付き合い方で変わってきます。
数学に通じたリケ女がクローズアップされてこうネーミングされると理系が少し”近くなる”と感じるのは文系おじさん現象でしょうか。 冗談はともかく、教育、特に自然科学系には教室と教師だけではなく実験室や教材の準備他 様々な設備を必要とします。
戦前の初等教育でも自然科学系教育の設備投資は厳しかったのかもしれません。いつの時代も必要性を説いた先人が新しいジャンルを切り開いてきました。
下記の文面は大正15年に発表された「中央教材園の必要」と題されたものです。
ここでは
理系児童の育成プログラムとして教育用の植物教材を提供するための「植物園」開設が説かれています。 「市民をして特に自然科学の一般に習熟せしめようとするいわゆる自然研究の第一歩は小学校における博物教育の実績いかんにかかる。それにはまず生徒をして十分博物(ここでは特に植物に関する方法を指す)の知識を授ける手段として実物に日夕親しませる必要がある。このためには本来ならば各学校に植物園、植物見本園、栽培園のごときものを併置するのが最も有数であるが しかしこれはいうべくして行われる程度でない。殊に狭い都市の中には小学校の校庭を占めるさえかろうじてできるくらいなのにどうしてそれ以上贅沢な圃場までとることができよう。」ということで、各小学校に<教材>をおくるための施設「教材園」が必要だ!と説いています。
「この種の計画には相当広い面積を必要」
「相当経験のある技術者」を揃えれば各学校に必要な植物教材(苗木・種子・切り花)を配布できる。ということで、この資料には 小学校教材になりうる植物の一覧が紹介されています。一部を紹介しましょう。 リストでは「栽培容易」「栽培困難」に分類されていて、
パインアップル、マニラ麻、コーヒー、オリーブ、マングローブ、ユーカリ、やし 等
熱帯地域の植物もリスト化されていました。
そこで「温室」が必要となったのでしょう。
現在ではごく普通の「温室」(ビニルハウス)風景ですが、温室装置設置は戦前、丈夫なビニールなど無く板ガラス、強度を保つ枠など当時の最先端技術を必要としました。
横浜市は全国に先駆けて自然科学教育教材用の植物を育成する温室をここ「石川小学校」に隣接した高台の一角に「横浜市中央教材園」を昭和4年に開設します。
昭和7年ごろの石川小学校付近。教材園は南東に隣接したところに開園。
徹底調査していませんが、絵葉書に写された「横浜市中央教材園」は別の資料にも日本で唯一という表記があり、当時はかなり珍しかった施設と思われます。
この「横浜市中央教材園」
横浜市南区中村町1丁目66番地
に設置されていました。
中央教材園に関して簡潔にまとまった沿革が「横浜市学校沿革誌」にありましたので紹介します。
「石川小学校わきの山谷埋立地を昭和2年7月より整地開墾し、昭和4年4月27日、石川小学校の校舎落成式と同時に開園式を行い、1,250坪の教材園を開園した。
当時は植物教材の配布、温室による観察等に機能を発揮していたが、昭和19年8月以降は戦争が激しくなったので、農業指導所(経済局所管)になり、温室も取り払われて食料増産園となった。
昭和26年6月に至り再開されることになり、運営委員会も組織され温室も再建され、花壇、薬草園、蜜蜂園等も年を追って充実を重ねて観察用、研究用、又は教材の配布に活動している。
また、中央教材園の活動を地域的にたすけるため、大鳥小、鶴ヶ峰小、本郷小、金沢中、杉田小、潮田中、六角橋中、富士見台小、市立商業高、谷本中、谷本小に分園が置かれている。
連合協力園として間門小、根岸中、浜小、杉田小、文庫小、市沢小、新治小がある。
昭和50年2月、南区六ツ川所在の都市公園に設置を進めている「こども植物園(仮称)」内に移転した。(横浜市学校沿革誌)」
まとめると
 昭和2年に準備が始まり
 昭和3年に完成、翌年昭和4年新学期に隣接している石川小学校校舎新築と一緒に開園式を行い
 昭和19年に閉鎖
 戦後昭和26年に再開され昭和50年に南区六ツ川「こども植物園」内に移転
戦後の復活した後の施設レイアウトです。地図にあわせて北を上に向け画像を回転させました。
昭和27年ごろ、教材園の表記は無く更地のようにも見えます。
[設置目的]
 当時の教育課長であった中川直亮の話によると
 「理科教育の基本である観察・実験・実習・直感の育成過程において、
 教材はできるだけ実物を見せなければならない。」

 ※特に都市部の教育には本物が求められる。
 「直接実物に接しさせることによって、自然の理をわきまえ、自然の美を感得することになる。」
  と語っています。
[運 営]
 そこで、この「横浜市中央教材園」が 市内初等教育における
理科学習教材供給センターとしての役割を担いました。
当時の記録では、季節季節の植物教材がまとめて栽培され、市内各校の自転車・リヤカー等を使って配布し、配布した植物の栽培育成方法を技術指導に赴いていたそうです。
開園から2年たった昭和6年にはさらに規模を拡大し、六角橋に分園(専用農園)を開き、養蚕実験も開始します。養蚕に必要な桑葉は小机から運んだそうです。
見学に来た子どもたちの人気は養蚕風景・バナナ・パイナップルなどの熱帯植物だったそうです。
養蚕風景。本文とは直接関係がありません。
戦後、教材園を見学する子どもたち。
「横浜市中央教材園」
基本的に北斜面という恵まれない条件でした。植物育成には南斜面が必要ですがなぜここに「教材園」設置が決まったのか、これに関する資料には出会っていません。
理由を考えた時、この中央教材園が設置された石川小学校の歴史が古く、学校経営とも深く関係があったと想像しています。
<石川小学校>
1872年(明治5年)「養賢学舎」として「玉泉寺」境内に設立した古い歴史を持っています。明治33年には児童数約1,300人を抱え、学区は石川町、石川仲町、中村町でした。
植物園は独立組織でしたが温室管理には学校の協力が欠かせません。当時の校長であった荒波階三以下教師陣による積極的姿勢が関係していたかもしれません。校長を勤めた荒波階三は平沼小学校の訓導(教諭)から大正13年11月に就任、新校舎造営に関わり昭和3年10月の新校舎落成後、平沼小学校長に転任しています。その後「青木国民学校長」を戦後まで勤め昭和21年の三ツ沢小学校への統合を終え退職しています。
もう一つ、ここに温室のある植物園が設置された理由と思われる要素がありました。
この石川小学校近くには明治期から国際的な植物ビジネスを手がけてきた「横浜植木」があります。
横浜植木
https://www.yokohamaueki.co.jp
明治期に創業、いち早く世界の植物サンプルを集め、米国にも支店を出すなど、当時の日本園芸、植木業界のリーディングカンパニーとしての業績を今に残しています。間接的かもしれませんが、横浜植木の技術的支援を受けた可能性は高いと思います。 [その後]
横浜市こども植物園
■沿革
・横浜市こども植物園の前身は昭和30年に世界的な植物遺伝学者、木原均博士が財団法人木原生物学研究所を、京都市郊外の物集女(もずめ)から移転してきたところから始まる。
横浜市はその一部を昭和45年3月、公園用地として買収し、当初は横浜市教育委員会が、児童、生徒の理科学習や教職員の野外研修所「子供自然教育園」として使用し、その後、教育委員会の中央教材園分園として活用していた。昭和49年に教育委員会から緑政局へ管理移転されて、公園整備工事に着工し、昭和51年度都市緑化植物園として都市計画決定を得て整備を続けた。
昭和54年6月23日国際児童年を記念し、世界で唯一、「こども」と名のつく植物園として開園した。
目的
 ①横浜市こども植物園は、一般の都市公園とは異なり、植物を題材とした自然史博物館的施設として、多くの種類の植物を収集・保存、育成・展示し、利用者に観賞してもらうことを目的としている。
 ②植物をとおして、自然に親しむことにより、子供が植物に関する知識を深め、緑を守り・育てる心を育むことを目的としている。
 ③機能的には植物研究型やレクレーション型の植物園ではなく、主に子供を対象に普及啓発的活動をとおして教育する指導型の植物園である。
[概要]
果物園(木原博士のコレクションが元になっている200年以上存続した品種の保全接ぎ木等)
花木園(教材園の頃からあった樹木を中心に、生活や文化との関わりの深い代表的な種で、話題性のあるものを選んで植栽している)
薬草(身近な薬草をはじめ、染料、香料、工芸、油料植物等、生活に利用する植物や、役立つ植物を植栽展示)
生垣園(生垣として用いられる代表的樹種28種をあつめ、植栽展示)
シダ園(日陰地を利用し、約50種を植栽展示)
タケ園(生活に深い関わりのあるタケの仲間をタケ、ササ、バンブー類に大きく3つに分類し、30種を植栽展示)
その他:市内に自生する野草約150種を使って、ロックガーデン風展示。市内の海岸から平地・山地まで自生する野草という観点で植栽している。
温室群・管理圃場・実習圃場・池(水生植物見本園)
現時点ではここまで、
なにか新資料に出会ったら、さらに追いかけてみたいと思います。 石川小学校
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/ishikawa/ No.225 8月12日 (日)太夫 打越に死す
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=382
Facebook Comments