4月 13

【吉田町物語】吉田町清水組

現在、吉田町に拠点を構える最も古い企業は、都橋のたもとに事業所を持つ清水建設横浜支店です。
左側 都橋袂、清水建設横浜支店
現在スーパーゼネコン※と呼ばれている5社の中で、特に「清水建設」と「鹿島建設」は開港場を舞台に横浜普請で飛躍した会社です。
※清水建設、鹿島建設、大成建設、大林組、竹中工務店
清水組は安政の大獄の始まった1858年(安政5年)
時の大老、井伊直弼から「外国奉行所」など幕府施設建設を請け負うことで横浜開港場との関わりが始まります。
1859年(安政6年)
清水組を興した初代喜助が死去し養子の清七が2代清水喜助となった年、
「横浜坂下町」に店宅を新築し、横浜へ進出します。(清水建設社史)
この開港場の拠点「坂下町」、磯子ではありません。現在の「日本大通」と「横浜公園」が接するあたりと推定できます。
清水組は「神奈川戸部村外国奉行所、石崎関門ならびに番所および野毛坂陣屋前役宅を施工」する事業に関わります。神奈川戸部村外国奉行所はおそらく現在の紅葉ヶ丘神奈川奉行所、石崎関門・番所はわかりません。
野毛坂陣屋前役宅も現在の宮崎町近辺でしょうか?調査中です。
清水組は神奈川役所定式普請兼入札引受人となるなど、事業は順調に拡大していきます。
ところが、
1866年11月26日(慶応2年10月20日)午前9時頃に港崎遊郭の西方向、現在の尾上町一丁目付近から出火し開港場の大半が消失した<慶応の大火>で「横浜坂下町店宅」も類焼し、失ってしまいます。
(写真資料)
清水喜助は吉田町に家屋を新築し移転します。この場所で釘や鉄物商のほか材木商も兼業し事業を拡大していきます。
当時、木造家屋の密集する日本の都市は、火災に弱く何度かの大火災に悩まされます。
移転した吉田町店も火災にあいまたまた類焼のため宮川町へ移ることになります。
その間、時代は明治となり、開港場は居留地と商人の大都市に変貌し始めます。
喜助は吉田町に戻ることを決意し、
1874年(明治7年)吉田町に洋風3階建の店宅を新築し、宮川町から復帰します。
大岡川下流から都橋を望む。
大岡川、都橋下流側 右岸に清水組
1881年(明治14年)に横浜店は清水満之助が経営
 神田新石町店は清水武治が経営する東京・横浜分業体制を採ります。
1883年(明治16年)には横浜吉田町宅を本店とし、日本橋本石町居宅が支店となりますが、
1887年(明治20年)満之助が35の若さで死去、残された8歳の長男が四代満之助襲名しますが、三代目満之助の遺言により経営の神様と呼ばれた”渋沢栄一”を相談役(〜1916年)に迎え経営危機を乗り越えます。
1892年(明治25年)9月に日本橋本石町店を本店、横浜店を支店に改め、拠点を東京に移します。
1895年(明治28年)東京・横浜両店を合併し、清水組が一本化。
清水組を創業した清水嘉助は、越中小羽(現・富山県富山市小羽)出身で、故郷富山で大工の修行をして、日光東照宮の修理に関わったことをキッカケに江戸に出て神田の地で創業します。江戸城西の丸修復で建設業の基盤を築きます。
富山(越中)人脈は、
1838年(天保9年)11月25日 安田善次郎 富山市で出生(安田財閥の祖)
1848年(嘉永元年)4月13日 浅野総一郎 氷見市で出生(浅野財閥の祖)
1881年(明治14年)大谷米太郎が小矢部市で出生(大谷重工業、ホテルニューオータニ創業者)
1885年(明治18年)正力松太郎 正力松太郎が射水市(大門町)で生れる(読売新聞中興の祖)
安田、浅野も横浜・川崎を舞台に一代を築いた越中人です。
どこかで、つながりがあったと思います。機会があれば、横浜の越中人脈も探ってみたいと思います。
成人した四代目清水満之助は
1915年(大正4年)8月10日竣工、二代目横浜駅建設を手掛けます。煉瓦造2階、平面形状は不等辺三角形。階上に待合室、改札口がある荘厳な駅舎となります。
<横浜の清水>作品を抜粋します。
◯谷戸橋(堀川)1880年(明治13年)
◯横浜税関(関内)1885年(明治18年)12月
◯横浜水道開設事業 三井用水取水所の内 用水取入口、貯水池、濾水池1887(明治20)年9月
◯第一銀行1911年(明治44年)6月
★二代目横浜停車場1915年(大正4年)6月
★横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館)1918年(大正7年)
 平成の修復も清水建設。
◯ホテル、ニューグランド1927年(昭和2年)新築 設計渡邊仁
1933年、1958年、1964年 増築
2016年 耐震改修
◯味の素横浜工場サイロ竣工(昭和30年)9月
◯横浜マリンタワー1961年(昭和36年)1月
◯石川島播磨重工業横浜第2工場建造ドック及び修理ドック
 1965年(昭和40年)3月<建造ドック>
 1966年(昭和41年)8月<修理ドック>
◯横浜スタジアム1978年(昭和53年)3月
◯県立神奈川近代文学館1984年(昭和59年)3月
◯横浜地下鉄1号線 吉田町工区1986年(昭和61年)3月
◯関内ホール(横浜市市民文化会館)1986年(昭和61年)
◯新横浜プリンスホテル1992年(平成4年)2月
◯横浜・八景島シーパラダイス デザインシステム(清家清)
 <建築部分>1993年(平成5年)5月
 <土木部分>1994年(平成6年)3月
◯横浜ランドマークタワー1993年(平成5年)6月
◯横浜銀行本店1993年(平成5年)7月
◯飯田家長屋門 保全1996年(平成8年)3月
◯日石横浜ビル1997年(平成9年)6月
◯Foresight21(関東学院大学1号)2001年(平成13年)3月
◯慶應義塾大学日吉新研究室棟(来往舎)2002年(平成14年)1月
◯横浜港大さん橋国際客船ターミナル(第一工区)2002年(平成14年)11月
◯今井川地下調節池2004年(平成16年)3月
◯横浜市立みなと赤十字病院2003年(平成15年)12月
◯日産自動車グローバル本社2009年(平成21年)4月
◯富士ゼロックスR&Dスクエア2010年(平成22年)3月
◯アニヴェルセルみなとみらい横浜2013年(平成25年)11月
◯横浜グランゲート2020年(令和2年)
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4月 1

【吉田町物語】KEY木村商店

開港場の誕生によって、吉田町界隈のにぎわいは自然に生まれました。
開港直前に横浜道が貫通し、開港場を目指した多くの人々は、関内を目前にして一休みしたり、身支度を整えたりしたのかもしれません。開港から10年という激動の時を経て、時代が明治となり、野毛浦地先を埋め立てたところに鉄道が敷設されたことで吉田町はさらに賑わいを見せていきます。
明治から大正にかけて
この短くも活気あふれた<吉田町>界隈を経て大きく育っていった企業群があります。
吉田町と関係の深い大手企業といえば、
清水組(清水建設)
キーコーヒー

二社をあげることができます。 今回は、木村商会、後のキーコーヒーを紹介します。
【キーコーヒー株式会社】
年商:640億円(2020年3月)
従業員:1,176 名(連結) / 824 名(単独)
東京証券取引所1部に上場しているコーヒー業界国内最大手です。
本社所在地:東京都港区西新橋二丁目
<沿革>
1920年(大正9年)伝説の珈琲店カフエ・パウリスタ横浜店に勤めていた木村文次が各国産コーヒー焙煎加工卸および食料品の販売を、創業の地横浜市中区福富町で「木村商店」を開業します。
木村の勤めていた伝説の「カフエ・パウリスタ」は当時盛んに行われた移民と大きく関わっていました。日本人のブラジル移民をいち早く手がけた”水野龍”が、現在で言うところのアンテナショップ的なブラジル・サンパウロ州政府庁専属ブラジル珈琲発売所「カフェーパウリスタ」を設立し、ブラジル移民の経済支援として日本へのコーヒー輸出振興事業を起こします。
「カフエ・パウリスタ」は東京を中心に出店され、日本にカフェ文化を伝える重要な役割を担いました。
https://www.paulista.co.jp/paulista/
ここでコーヒー文化と出会った木村文次「木村商店」は福富町から、相生町次いで住吉町へと店を移転し事業を拡大していきます。社史によると開業の翌年、最初のヒット商品となる「コーヒーシロップ」の製造・販売を開始します。
ワインの普及と同様、<辛口>文化の無かった日本では甘い飲料が好みとなったので、コーヒーもブラックではなく<甘味>を加えることで広がっていった歴史があります。
1922年(大正11年)に木村文次は結婚。遠縁の柴田家に婿入し、柴田文次と改名し新婚生活をスタートしますが
1923年(大正12年)9月1日の関東大地震で被災し、妻子を含め親類縁者を失ってしまいました。
文次は傷心の中でも諦めることなく
9月10日に店を<吉田町>に移転して再起、復活を図ります。移転先は具体的にわかりませんが、
1930年(昭和5年)の資料には「木村コーヒー店」※吉田町58とありますので、位置は図の位置と思われます。
※1928年(昭和3年)屋号を『木村商店』から『木村コーヒー店』へと改称。
出典:キーコーヒー
明治14年ごろの吉田町
横浜工場が竣工。コーヒー、ココア、紅茶の缶詰物、コーヒーシロップ、清涼飲料の製造を開始し、「コーヒーは、日本人の新しい食生活と文化を開く鍵だ。」と考え、現在につながる<KEY>のロゴを制作。
1946年(昭和21年)本社機能を横浜から、東京支店(東京都港区芝田村町四丁目8番地)へ移すまで横浜吉田町が「木村コーヒー店」本店でした。
正面写真が無かったので遠景ですみません
その後、横浜本社だった拠点は横浜支社となり、場所も防火帯建築として健在の神奈川県吉田町第二共同ビルの一角に近年までありましたが、現在は撤退してしまいました。桜木町駅前、ぴおシティに輝いていた広告も幕を降ろしてしまいました。
横浜生まれ、吉田町で育ったキーコーヒー本社が再び横浜に戻ってくることを夢見て 簡単ですが紹介を終わります。
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1月 20

【横浜駅物語】3-1路線一覧

横浜駅物語と題して鉄道発祥の「桜木町(初代横浜)駅」と現在全国有数の路線・乗降客数を誇る三代目「横浜駅」を紹介した。普段利用する駅もあり、ついでの駅もあるが、全ての駅プラットホームには立ち、可能な限り改札も出て、界隈を探索した。 ここで、改めて横浜市内(微妙な市内の駅を含む)の鉄道路線と駅名を整理しておきたい。
凡例:
<近所駅=◯◯◯◯>他社または他路線駅が徒歩圏内にある立地。
<新>系駅名:横浜駅に対し新横浜といった<新>付き駅。
<東西南北系駅>駅名に東西南北を付け、位置を表している。
<懐かし駅前ロータリー> 駅前ロータリー中心部に比較的大きな樹木1本または植栽がある。棕櫚や欅が多い。JR横浜線に集中している。
<市境駅>ホームの一部が横浜市域。
<台>系駅名:高度成長期に宅地開発された<◯◯台>の駅。他に<ケ丘>系駅名もある。
ターミナル駅:3路線以上乗換できる駅
<片展駅> 駅前広場が片側だけで反対側は工場や地理的条件で殆ど開発されていない構造。
<テキトウな>ワンコメ付き
■JR東海道本線
JR横浜駅:三代目、神奈川県最大駅で、開設以降今日まで東西の表玄関<競争>の激戦駅である。※横浜駅は別名「日本のサグラダ・ファミリア」とか「神奈川のサグラダ・ファミリア」とも呼ばれるほど長期間に渡って工事中。
JR戸塚駅:1887年(明治20年)宿場町に開業。→市営地下鉄乗り換え。
 川上ホーム(柏尾川)※プラットホームが川を跨いでいる構造。
 東西逆転駅の一つ。長らく日立村だった。
JR大船駅:ターミナル駅<市境駅>ホームの一部が市域。川上ホーム(砂押川)
■JR京浜東北・根岸線
※横浜駅から大船駅までが、JR京浜東北・根岸線。東神奈川以北は京浜東北?と教えられたけど、正しくは?
※「運行形態は横浜駅 – 磯子駅 – 大船駅間の根岸線と一体であり、合わせて京浜東北・根岸線と呼ばれる場合もある。(wikipedia)」とある。
JR鶴見駅:<近所駅=京急鶴見>とはちょっと距離があるので注意!
JR新子安駅:<新>系駅名。<近所駅=京急新子安駅>を含めて迷路のような階段がある!
JR東神奈川駅:<東西南北系駅>京急「神奈川」がなければ「神奈川駅」にしたかった!?<近所駅=仲木戸>
JR横浜駅:ターミナル駅(東海道本線)(横須賀線)(湘南新宿ライン)
JR桜木町駅:<町名>系、ちょう読み。初代横浜駅、鉄道発祥の地。<近所駅=市営地下鉄>
JR関内駅:幕末<居留地関所内=関内>の名を持つ、地名町名にない駅名。<近所駅=市営地下鉄>
JR石川町駅:<町名>系、川の上ホーム(中村川)二つの改札はそれぞれ中華街と元町出口に。
JR山手駅:元々は明治期の射撃場着弾地あたりで、傾斜地に無理やり作った感じの駅舎である。
JR根岸駅:元々海だった系駅で、<片展駅>
JR磯子駅:元々海だった系駅で、<片展駅> 
JR新杉田駅:<新>系駅名。<近所駅=京急杉田駅>
JR洋光台駅:<台>系駅名ニュータウン、新路線に伴う開設駅。1966年(昭和41年)に始まった大型集合住宅開発に合わせて根岸線が開通したときに開業。起伏の激しい丘陵地の一角を宅地化したため、根岸線は半地下状態の切通しに線路があり、地上に改札となっている。
JR港南台駅:<台>系駅名 洋光台同様、丘陵地を鋭く切った路線上にほぼ地下状態でトンネル状態になり駅舎は地上に出口が出ている感じだ。改札を出ると商業施設が林立し、地下鉄から出た感じがする。
JR本郷台駅:<台>系駅名 <片展駅> 港南台・本郷台が切通し駅なのに対し、本郷台駅は高架状態で、<片展駅> である。南側にある駅前広場に降り立つという感じである。駅前には90年代に設置されたパブリック・アートがうまく風景に溶け込んでいる。
JR大船駅:ターミナル駅<市境駅>ホームの一部が市域の川の上ホーム(砂押川)
■JR横須賀線(湘南新宿ライン)
JR横浜駅:ターミナル駅(東海道本線)(京浜東北・根岸線)(湘南新宿ライン)
JR保土ケ谷駅:今井川<河岸段丘駅>系だろう。
JR東戸塚駅:<東西南北系駅>1980年(昭和55年)10月1日開業の比較的新しい「請願駅」。急傾斜地駅で<片展駅> に近いが駅から登る感じで駅前ロータリーに出る。
※「請願駅」地元の自治体や住民が鉄道会社にお願いして開設された駅
JR戸塚駅:川上ホーム(柏尾川)東海道線参照。区役所利用駅。
JR大船駅:ターミナル駅<市境駅>ホームの一部が市域の川の上ホーム(砂押川)
■JR横浜線
JR東神奈川駅:<東西南北系駅>京急「神奈川」がなければ「神奈川駅」にしたかった!?
 <近所駅=仲木戸>京浜東北と乗り換えが変わるので大変。区役所利用駅。
JR大口駅:駅前が大口商店街中間地点で、<懐かし駅前ロータリー>が残っている。
JR菊名駅:(東急東横線)駅前の狭さは市内有数。便利な割に不便!?
JR新横浜駅:<新>系駅名。東海道新幹線乗換駅。なぜかJR東海の方が優位?にたっている。<近所駅=市営地下鉄>
JR小机駅:<懐かし駅前ロータリー>日産スタジアム(横浜国際競技場)乗換に便利な駅として小さな駅のわりにしっかりとした駅舎。大きな試合・イベントの開催日は駅舎の雰囲気が激変。普段は極静かなローカル駅の佇まい。駅近くの丘から日産スタジアムを眺められる絶景ポイントあり。
JR鴨居駅:<懐かし駅前ロータリー>横浜線は鴨居あたりから鶴見川沿いを走る。河岸段丘の中段あたりを走っている感じ。ららぽーとの出現で駅利用の風景が変わった。鶴見川向こうの住宅街から駅を利用するために架けられた「鴨池橋」はららぽーと橋になった。
JR中山駅:<近所駅=市営地下鉄>区役所利用駅。
JR長津田駅:(ながつた)にごらない。ターミナル駅(東急田園都市線)<河岸段丘駅>(こどもの国線)
 こどもの国線は横浜高速鉄道と東急の共同事業体により運営されていて、田園都市線駅に隣接する形で無人駅となっている。
■JR鶴見線
JR鶴見駅:(京浜東北)鶴見線は無人駅が多いため、鶴見駅鶴見線乗換口には構内改札がある。鶴見駅西口の鶴見線駅舎は「鶴見臨港鉄道線」時代に現在の鶴見駅舎ができその雰囲気を残している。
JR国道駅:その名の通り、国道のすぐ横にあり、[高架下改札]でドーム型になっている。ドーム内はかつて商店街となっていたが、現在は飲食店が数店あるだけになった。魚介類の民間市場「生麦魚河岸通り」の起点ともなっている。
JR鶴見小野駅:<人名由来駅>この近辺の新田開発を行った小野高義・鱗之助親子の名に由来。1936年(昭和11年)に当時私鉄だった「鶴見臨港鉄道」の工業学校前停留場として鶴見川河口近くに開業し、1943年(昭和18年)に「鶴見小野」となった。
JR弁天橋駅:元鶴見臨港鉄道線の駅。最近新しくなった。
JR浅野駅:<人名由来駅>元鶴見臨港鉄道線の駅。一帯開発を指揮した浅野総一郎の名に由来している。海芝浦支線の分岐点で、駅構内の構造が面白い。
JR安善駅:<人名由来駅>元鶴見臨港鉄道線の駅。明治期の実業家安田善次郎の名に由来する。駅周辺にはレトロな店もあり、独特の雰囲気がある。
JR新芝浦駅:<新>系駅名。片側駅で、芝浦製作所(現 東芝)専用駅の一つ。
JR海芝浦駅:片側駅で、海に面した側と東芝工場専用改札となり一般乗客は出ることができないが、見学者が絶えない。駅に隣接して東芝社員が整備している海岸公園につながっている。
■JR南武線
JR矢向駅:<懐かし駅前ロータリー><市境駅>JR南武線唯一の市内駅。ほぼ川崎市境で所在地は横浜市鶴見区矢向六丁目にある。駅前ロータリーは横浜線同様の佇まいがあり、残してほしい駅前風景の一つである。
JR尻手駅:<ホームの一部が横浜市域>駅舎は川崎市幸区南幸町3丁目にあたる。上り線プラットホーム北側一部が横浜市に重なっている。
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1月 19

【横浜駅物語】2横浜

(テキストのみ、画像後日追加)
■横浜物語
第二話は、桜木町に続く、現在の横浜駅を採り上げよう。初代から移動し三代目(三ヶ所目)であるこの駅は”フラッグシップステーション”として地域を代表する駅だ。
地域を代表するレベルの駅が大きく二度も移動したのは「横浜駅」くらいではないだろうか。
1978年(昭和53年)6月17日に公開された高倉健主演の「冬の華」冒頭部分に横浜駅東口が大きく映し出される。当時は風景として「東口」が正面玄関であったが、まさに横浜駅が東西戦争真っ只中だった。 1928年(昭和3年)に現在地へ移動した横浜駅西口は、当時空白地だった。戦後西口エリアの開発が進み、1963年(昭和38年)に地下街が完成したころから、”表玄関”の位置付けが逆転し始めたあたりを探ってみよう。
横浜駅の東西<開発戦争>は、現在も続いている。そごう・高島屋の百貨店をめぐる東西開発競争、ステーションビル・ルミネ競争、地下街競争他、大消費地でもある横浜駅は特に戦後の高度成長を背景に激しい鍔迫り合いが行われてきた。
書き出したらそのドラマは枚挙にいとまがない。
ここでは、あまり知られていない横浜東西表玄関競争の一端を紹介しよう。
■(民衆駅)

1957年(昭和32年)横浜駅を舞台に東西からそれぞれ「民衆駅」請願提出が行われた。
民衆駅とは
「民衆駅(みんしゅうえき)とは、駅舎の建設を日本国有鉄道(国鉄)と地元が共同で行い、その代わりに商業施設を設けた駅である。(wikipedia」
空襲等で荒廃した戦後の駅前を国鉄の立地を活かし地域が資本を投下して商業施設開発を行うという事業で、全国で多くの事例を残している。
いわゆる「ステーションビル」開発である。駅に直結した商業施設は確実に集客を見込める事業である。横浜では「横浜ステーシヨンビル」という地元資本の会社を興し、駅ビルの経営にあたった。このスタイルは駅ビルテナント管理(シアル・ルミネ等)に受け継がれ、最終的には駅ナカ<エキュート>へとつながる。 昭和32年に横浜駅の東西両方から、この民衆駅事業の請願が出た。
東は崎陽軒、西は相模鉄道が中心となりそれぞれが熾烈な争奪戦を始めたが、東は開設以来の表玄関としてのプライドがあり、崎陽軒は桜木町(初代横浜駅)から駅前で開業、現横浜駅にも1928年(昭和3年)に現在の場所に開店し、ここで名物「シウマイ」が誕生した。
以来、駅弁の雄として横浜駅には欠かせない企業となった。
一方、西口は、1926年(大正15年)厚木からスタートした神中鉄道が1933年(昭和8年)に念願の横浜駅開業にこぎつけたが、西口は相模川の砂利置き場となり接続のメリットに与れず経営が低迷していた。五島慶太は東横の西神奈川進出を目論み東京横浜電鉄の傘下に入れ、経営立て直しを進めたが戦争で中断していた。
1943年(昭和18年)に茅ヶ崎に本社を持っていた「相模鉄道」は神中鉄道と合併し拡大を図るが主力線(現相模線)を国鉄に吸収合併され、神中鉄道=相鉄となり現在の路線が相鉄の主力路線となった。
戦中戦後まで、横浜駅西口周辺(幸地区)は、帷子川河口域の埋立が遅れ砂利や資材置場として使われている状況だったが、大きな転機が訪れる。
戦前から横浜駅周辺に油槽を構えていた米国スタンダード・オイル社の持つ横浜駅西口の土地24688m2を1952年(昭和27年)に買収することになる。
この決断がなければ、現在の横浜駅前一帯はかなり雑居化が進み、東口優位は続いたかもしれない重要な判断だった。
ターミナルとして重要度が増す「横浜駅」の空白地西口広場を画期的な商業空間とするには、さらなる駅との直結が望まれた。
このときに、全国的に始まっていた「民衆駅」構想を東西の商工会が導入することを考えたのは当然のことだろう。
あらためて<民衆駅>とは?
「駅舎およびその付属施設に接着する施設の一部を部外者に使用させることを条件として,その建設費の一部または全部をその部外者に負担させて建設する駅施設の呼称である。すなわち民衆駅の名称はこのような形態によって建設された施設のみの呼称であって,駅という概念ではない。したがって駅舎の一部だけがこの種の形態で建設されたような場合は, その部分だけを民衆駅と呼称する。たとえば東京駅の場合, 八重洲口本屋施設(関連施設を含む)だけを民衆駅といい,乗車口・降車口を含めた旧本屋施設は民衆駅とはいわないのである。」
と当時の辞典に記載されるように、その代表例は東京駅八重洲口だった。
この「民衆駅」事業は駅周辺の商業力を大きく変えることもあり、東西の国鉄への請願はデッドヒートした。
国鉄も、さすがに両側に民衆駅を進める訳にもいかず、両者で意見をまとめるよう要望し、最終的に1961年(昭和36年)、統合され株式会社横浜ステーシヨンビルとなり、
西口に「横浜ステーシヨンビル」が神奈川県最大の民衆駅として開業することになった。

■(西から東へ)
事実上の”西側”の勝利を意味し、しばらくの間横浜駅は西口優位の時代が続くのである。
その後、東口挽回のために「横浜駅前新興会社」が組織されスカイビルへと変身していくが当時の飛鳥田市政とは不協和音が生じ、しばらくゆゆの時代が続く。東口開発のキーマンとして自治官僚トップだった細郷道一が横浜駅東口開発公社理事長に就任するも、苦戦を強いられるが第22代横浜市長となり、飛鳥田六大事業は東口へと光があたり始める。
伊勢丹が狙った東口も、当時の水島 廣雄の手によるそごう進出が決定し、東西再逆転の体制が揃うこととなった。
(関連ブログ)かなりだぶってます。
No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=263
No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=328
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=604
No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=530
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=399
1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7895

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1月 1

【横浜駅物語】1桜木町

(追記の可能性があります) ■桜木町物語
最も歴史に満ちたこの駅には語り尽くせない物語が多くある。
桜木町駅あたりがまだ海だった頃から物語を始めよう。 野毛浦の絶壁から見下ろす海には、姥ヶ岩に打つ白波が絶えず立っていた。その先には洲干辨天の嘴が真下まで伸び、その風景は野毛山を越える旅人を驚かせたに違いない。
幕末に開港場となった横浜村が軸となり居留地が誕生し、近代という異文化がこの地で濃縮された。
開港後、近代化を目指した日本は様々な西欧を吸収する中で、いち早く東京と横浜を結ぶ<鉄道>敷設を目論んだ。1872年(明治5年)のことだ。この時、鉄道用地を白波の立つ野毛浦の海に求めた。
近代化を目指した日本は様々な西欧を吸収する中で、いち早く東京と横浜を結ぶ<鉄道>敷設を目論んだ。この時、鉄道用地を白波の立つ野毛浦の海に求めた。
内田清七と高島嘉右衛門が埋め立て海に鉄道用地を作ったことによって、初代横浜駅が誕生する。1872年(明治5年)のことだ。
明治期になってたった5年しか経っていない鉄道の誕生である。
これは江戸に育った<近代性>の支えなくして成し得なかったといえるだろう。桜木町駅前に立つ度、「日本の近代化が江戸期に培われてきた先進性の素に開花した」ことを実感する。 (鉄道発祥の駅)
鉄道開通の記念碑が建つ桜木町駅は1990年(平成2年)に<正面>が変わった。これは駅開設以来の地域変化を表している。
日本を代表する「横浜駅」が「桜木町駅」となったが長らく「桜木町駅」は関内方向に向かって正面玄関が設置されていた。
玄関を出ると広場があり、その向こうには大岡川が流れ、「辨天橋」「大江橋」が架かる風景が広がっていた。乗降客は、横浜港利用やそれに関係する人々や、三菱造船に働く人が多かった。
市電時代では、終点「桜木町駅」から駅前ロータリーを経由して様々な方面に向かう人で戦後も賑わってきた。
初代横浜駅は
1915年(大正4年)に転機が訪れた。
 第一次世界大戦が起こり間接的影響を受ける中、港都横浜と帝都東京を結んだ国有鉄道が私鉄吸収を含め、驚異的な発展を遂げたことで東海道の幹線から外れた「横浜駅」の役割が大きく変わることになった。
いわゆるスイッチバック問題である。東海道本線「(旧)横浜駅」を経由するには鉄道創業路線をスイッチバックして通過する必要があった。
1889年(明治 22年)に神戸まで開通した東海道本線は、東西を結ぶ幹線として利用度が高まり、ロスのある、横浜駅スルー案が登場する。
1913年(大正2年)8月には東海道本線複線化が完了し、関西圏と関東圏を繋ぐ大動脈が登場し、ますます「横浜駅」スルー議論が高まり、新駅を作るのではなく
「横浜駅」を移動することに決定。石崎川に沿って走る東海道本線に新「横浜駅」が開設された。
1919年(大正8年)データでは国有鉄道の総営業キロは9,982キロメートル、地方鉄道は3,227キロメートルに達 し、ほぼ全国を網羅したのである。
(桜木町駅)
神奈川県を代表する「横浜駅」の冠を譲った「桜木町駅」は戦後、ようやく根岸線延伸計画が実現し、終着駅から通過駅となった。
1964年(昭和39年)に磯子駅まで延伸し、1973年(昭和48年)には大船まで全通することになり、
1990年(平成2年)に現在の駅舎が完成し、正面が海側に変更「関内」から「みなとみらい21」エリアに正面玄関が向いた。
前年の1989年(平成元年)に
桜木町駅海側にあった「三菱造船所」が移転した跡地を再開発する前祝いとして横浜博覧会(YES89)が開催され、駅舎改装が始まった。 (東横線廃止)
1932年(昭和7年)に二代目横浜駅まで延伸していた東急電鉄が桜木町まで延伸、
渋谷と野毛を繋ぐ路線として活躍した。
2004年(平成16年)1月30日に廃止。 2014年(平成26年)には、「CIAL桜木町」が開業し、山側の空間整備が始まり、現在も進行中である。
(市庁舎移転)
桜木町駅の環境がまたもや変わろうとしている。
No.256 9月12日(火)どこも本庁舎引越は大問題
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=348
第854話 改めて横浜市役所移転史
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9071 ■【横浜駅物語】を始める
2011年(平成23年)から4年かけて市内全駅に降り立ち、差はありますが周辺を散策しました。
散策の折り、駅を材料にしてショート・ショートを記してみたいと思って数年、なかなか書き出すキッカケがありませんでした。(※一部駅を除く)
市内全駅
横浜市内の駅は数え方にもよりますが七社150を超えます。
これら数ある中から簡単なコメントを紹介していこうと思います。
最初の駅を選ぶとすれば
横浜の場合「桜木町」しかないでしょう。
ただ、私の場合どうも掘っていって収集がつかなくなるので、桜木町をどう簡単にまとめるか、大難問!でした。折を観て、違った角度で桜木町は紹介していきます。 (JR根岸線桜木町駅)
「桜木町」駅は歴史の大波を乗り越えてきた駅です。
横浜の歴史を知る過程で必ず登場するのが鉄道発祥の駅としてこの地に1872年(明治5年)開設された初代「横浜」駅です。
その後「桜木町」と変更し歴史に翻弄されながら現在に至ります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/桜木町駅 (東急東横線)
1932年(昭和7年)3月31日
当時の国鉄「桜木町」駅に隣接して開業したのが東急東横線「桜木町」駅です。
みなとみらい線開業にともない、横浜駅以降の高島町・桜木町が
2004年(平成16年)1月30日に廃止されました。 過去の「桜木町」関連のブログを紹介します。
第694話【一枚の横浜絵葉書】「桜木町横浜市授産所ノ偉観」

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6063
第987話【運河物語】桜川
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12394
番外編【資料としての絵葉書】横浜駅
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12266
第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9341
第849話 横浜・新橋、横浜が先?

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9006
第976話【横浜の道】横濱国道物語

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12001
【横浜の国道】133開港の道物語

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7243
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12月 25

【バス物語】江ノ電バスラストラン

2019年(令和元年)12月15日
江ノ電バス横浜の2系統路線が廃止されるラストランの日だった。
大船駅から横浜駅までを繋ぐY2系統
栗木から横浜までのY3系統 
江ノ電の分類ではY16・Y17となっているが、表示はY2Y3。
「神奈川バスルート案内」では23系統・42系統と表記。
なんともわかりにくいバス系統が不思議な番号で綴られている。 横浜市内には市営、神奈中、臨港、東急、京急、小田急、相鉄、大新東、横浜交通開発、富士バスそして江ノ電など11社が路線を持っている。世界最大級と云われているバス会社神奈中を筆頭に、それぞれ<なわばり>みたいなエリアがある。横浜江ノ電は、戸塚駅より西に系統網を持っているが、際立っていたのが<Y2Y3系統>だった。
Y2・3系統は、終着点を「横浜駅東口」に設定している。つまり江ノ電の本拠地に近い地点から「下り」ルートが設定されている路線で、江ノ電が明治期の創設前に目指した鎌倉から黄金町までの路線に重なっている伝統?路線だったようだ。
江之島電氣鐵道、横浜電気株式会社(買収)の時代もあった。
江ノ島電気鉄道、東京横浜電気鉄道(傘下)、江ノ島鎌倉観光など目まぐるしく経営環境が変わった鉄道事業者である。
戦前の一時期神奈中バス(大東急時代)に経営を全面的に手渡したが戦後復活時にバス部門を取り戻し、江ノ電エリアから遠く離れたこの路線も取り戻した伝統あるものであった。 今回、2019年(令和元年)12月15日をもって
「大船〜横浜」という横浜市内最長クラスの路線が廃止されてしまった。過去に二度利用したことがあるが、平日午後利用客も多かった記憶がある。
もう一つの派生路線<栗木〜横浜駅>は数回利用したことがある。これも赤字路線とは思えない。 廃線理由は「運転手不足」という実に悲しい事態だった。運転手不足はこの10年、バス業界に吹き荒れた嵐だった。全国的な人手不足の中、神奈中・市営・京急などが集中するエリアで、江ノ電は今考えれば孤軍奮闘していたのかもしれない。 このY2・Y3路線の横浜・野毛大通り間のルートが不思議な経路を持っている点でマニア的にはとても面白い。 
これが無くなってしまったことはとても残念だ。 (上下分離路線)
横浜駅〜日ノ出町駅前までの路線について特記しておく。
<ルート>
■下りルート
〜日ノ出町駅前〜野毛町〜野毛大通り〜紅葉坂〜雪見橋〜花咲町〜高島町※〜横浜駅改札口前※〜横浜駅東口
※横浜駅東口行き方向のみ停車。
この印のある3停留所のみ江ノ電バスは別ルートを走ります。
■上りルート
横浜駅(東口)〜高島町〜花咲町〜雪見橋〜紅葉坂〜野毛大通り〜野毛町〜日ノ出町駅前〜<以下省略> 横浜駅東口、桜木町駅間のバスルートは上下線が別れているのが特徴です。
理由は桜木町駅前の交差点にあります。
ここは、国道16号線と、山下長津田線(新横浜通り)が並行している区間で、国道16号線が右折禁止のため並行する山下長津田線(新横浜通り)をバイパス道として使い、右折できるためです。
この路線が廃止されたのは残念でなりません。
ラストランの日、バスファンが多く乗り合わせる中、
日頃利用されているお年寄りがガラケイを出し記念撮影をしている姿が印象深かった。
「残念ね。20年利用していたのにね。今日はお休みなんだけど、最後に乗りたいから来ました。」と語っていました。
運転手不足で廃線しなければならないほど悔しいことはないでしょう。
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12月 17

【占領の風景】関外飛行場

横浜中心市街地の占領史で若葉町に軽飛行場があったことは意外と知られていないようです。
2009年ごろ「空港の街」という飛行場サイトもできていましたがマイナーでした。このタイトルはいささかオーバーだとは思いますが、意外性からも面白い内容になっています。ただ情報量としては残念無念、少なすぎます。さらなる継続を期待したのですが。
(URLは文末に掲載)
1943年(昭和23年)発行1万分の1「横浜」
1943年(昭和23年)発行1万分の1「横浜」
■空港の街<関外飛行場>
1945年(昭和20年)9月、終戦直後接収が始まったと同時に米軍は横浜の繁華街に飛行場を整備します。
カナコロ「戦災復興の記憶〈8〉飛行場」
https://www.kanaloco.jp/article/entry-64012.html
ここに貴重な写真が掲載されています。1950年(昭和25年)ごろに撮影されたものとあり、接収解除は二年後の1952年でした。
この写真から接収当時の様子が良く判ります。飛行場脇に被災し関外がほぼ焦土化した伊勢佐木4丁目から5丁目のバラックが建っている風景が確認できます。 今回、この神奈川新聞は何故この時期に「飛行場」敷地を撮影したのだろう?と思い巡らしていたところ
 そういえば、
当「XY通信」でも初期に取り上げたことを思い出してみると
「暦で語る今日の横浜【9月10日】市長と飛行場」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=75
で後半ちょっと紹介していました。
これも1950年(昭和25年)9月10日の新聞記事から辿ったものです。
偶然にも1950年
「“伊勢佐木町飛行場”跡広場で横浜の「港湾勤労者スポーツ大会」開催。」の記事から手繰り寄せたものですが、
この時期には飛行場跡地が地元に開放され、地域のイベントが開催されていたことが判ります。
実質飛行場機能は「間門」の海岸線に移設されました。
飛行機部分を拡大したもの
■若葉空港整備中
ここに紹介する風景は、この若葉町飛行場整備中のものと思われます。右手に勤労動員なのか、多くの人が集まっています。
飛行機も確認できます。
1948年(昭和23年)修正の1万分の1地図と比較しても、まだ周辺が未整備状況を確認できます。
地図情報や接収資料からこの写真は1945年秋から1947年(昭和22年)
ごろと推測しました。
拡大前の元写真
(横浜飛行場)
横浜市内にはかつて航空機離発着に関係する施設がいくつかありました。他の横浜市内飛行場に関して簡単に紹介します。
<富岡水上飛行場>
現在金沢区にある富岡総合公園一帯周辺に横浜海軍航空隊の施設が整備されていたもので飛行艇の(海を使った)離発着が行われていましたが滑走路は無かったようです。
1936年(昭和11年)に開設され終戦まで使用されました。
その後接収、解除という歴史をたどり、公園や警察・民間施設となっています。
広さ:約21,9200平方m <大日本航空横浜水上飛行場>
ここも富岡同様飛行艇用の施設がありました。戦前には南方(パラオ)への定期便も運行されていた時期もあり、戦後米軍に接収、解除という歴史を歩みました。
所在地:磯子区鳳町あたりから中区千鳥町
(当時は、横浜市八幡町海岸)
195,162平方m
1945年(昭和20年)9月25日〜
1955年(昭和30年)3月11日接収開始1960年(昭和35年)6月30日接収完了。
「昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社 により日本初の飛行艇 専用民間飛行場 が作られました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機 製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン 経由パラオ に向け飛び立ちました。
 発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
 昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇 が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26~64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
 97式大艇の最終飛行は終戦後昭和20年(1945)9月の台湾向け紙幣の輸送で、2式大艇は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の託間基地からここに飛来したのが最後です。
 根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。 」
※中区史 <間門飛行場>
前述の関外若葉町にあった軽飛行場が海岸線に移設され一時期飛行場として開設されました。 関連サイト
「空港の街」
http://isezakiwakaba.hama1.jp/e28216.html
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12月 13

【駅周辺史】京急弘明寺駅 六ツ川温泉郷

以前別のところにアップしたテーマを加筆修正してここにアップします。
現在の横浜市南区六ツ川界隈にかつて<温泉旅館群>が点在していました。
温泉と言っても冷泉(ラジウム泉)を沸かして提供したと思われます。
六ツ川近辺に関する文献の中に<温泉>が散見されました。良く登場するのが「大東温泉」と「中里温泉」です。
その中から今日のメインテーマとなる「横濱温泉」が登場します。
現時点では資料不足全容不明ですがテーマの投げかけとしてわかった範囲で紹介します。
(六ツ川)
横浜市南区六ツ川は元々「武蔵国久良岐郡引越村」の一部で1927年(昭和2年)の第三次市域拡張のときに村内を流れる川の名をもとに「六ツ川町」と改称されました。
冒頭の横浜温泉に関して調べてみると
「南区の歴史」には、京急弘明寺駅から平戸桜木道路に出た付近に宿があったことが記されています。絵図では「大東温泉」となっています。 このあたりのことが
「はまれぽ」で取り上げられていました。この記事をまとめるとこの「大東温泉」があったのとほぼ同じ場所に「横浜温泉」(廃業)少し離れて「中里温泉」がある(現存)とレポされていました。
「横浜温泉」を引き継いで「大東温泉」となったのか?
「横浜温泉」と「大東温泉」は別のものなのか? 
手元の資料では不明ですが位置的には間違いないでしょう。
別テーマとして昭和二年まであった「引越村」の地名にも注目しています。
これに関しては追い追い。 昭和初期の弘明寺近辺の地図を探ったところ、震災復興が達成された昭和3年頃の六ツ川町周辺の地図に「横浜温泉」が確認できます。
昭和3年弘明寺周辺図
昭和3年ごろの地図です。湘南電気鉄道予定線が引かれています。
キャプションには横浜温泉からの眺めとあります。
温泉近くの小川が確認できます。「六ッ川」と思われます。
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10月 3

横浜史自分版を作る

横浜市のサイトに掲示されている「横浜市のあゆみ 略年表」の近世幕末期までの部分を転載しました。
出展:「横浜市のあゆみ 略年表」
    横浜市のあゆみ 略年表
約20,000~2,400年前   先土器・縄文時代は、まだ農耕が生活の中心になる前の時代ですが、横浜市域でも旭区矢指谷遺跡などで先土器後期の人々の活動の最初の痕跡が見られます。また縄文時代の中頃には、都筑区三の丸遺跡のような環状集落と呼ばれる大型の集落遺跡が残され、人々の生活の営みが知られます。
約2,400~1,700年前   弥生時代は、本格的な水田稲作と金属器の使用がはじまった時代です。磯子区三殿台遺跡や都筑区大塚・歳勝土遺跡などに稲作を行う農耕集団の集落が営まれています。
西暦300年ころ~建久3(1192)年   古代は、力をつけた地域の首長のために古墳がつくられた古墳時代と、律令という法にもとづく国家がつくられた奈良・平安時代にわたります。市域に関わる最も古い文字史料は、飛鳥で発見された「諸岡五十戸」と記された木簡で、後の久良郡師岡郷にあたるものです。古代では、市域は武蔵国の都筑郡・久良郡を中心に編成され、『万葉集』にみえる防人など、人々は様々な負担を課せられました。青葉区の長者原遺跡は古代都筑郡の役所(郡家)の跡です。 10世紀以降、東国は武士を生み出す基盤となりますが、 鎧の部品を製作した都筑・西ノ谷遺跡など、市域にも関連する遺跡が発見されています。
建久3(1193)年~天正18(1590)年   中世は、新しく力をもつようになった武士により、戦いが繰り返された時代です。鎌倉に武家政権が成立すると、金沢区の六浦は中世都市鎌倉を支える物資の集積地として、 諸国から商人や職人など多くの人々が集まり大変なにぎわいを見せました。 また、称名寺などを中心として鎌倉に劣らない仏教文化が栄えました。
天正18(1590)年~安政6(1859)年   近世は、江戸幕府を中心として、安定した社会が続いた時代です。江戸時代の横浜には約200か村を越える村々が存在し、 その多くは幕府領や旗本領でしたが享保6(1721)年には武州金沢藩(米倉氏)が成立しています。 また慶長6(1601)年には東海道の宿場として神奈川宿と保土ヶ谷宿が、 慶長9(1604)年には戸塚宿が成立し、地域の経済・文化の中心となっていきました。
近世は、
江戸幕府を中心として、安定した社会が続いた時代です。江戸時代の横浜には約200か村を越える村々が存在し、 その多くは幕府領や旗本領でしたが享保6(1721)年には武州金沢藩(米倉氏)が成立しています。 また慶長6(1601)年には東海道の宿場として神奈川宿と保土ヶ谷宿が、 慶長9(1604)年には戸塚宿が成立し、地域の経済・文化の中心となっていきました。」とまとめています。
************
”横浜市”を形成する歴史的要素に「吉田新田」の記述が無いのは大変残念だと思います。
通史を考える時、時代をどう区分するのか?時代の画期をどう考えるのか?この作業を進めていくのが歴史を考える重要な柱です。
************
ということで、自己版「横浜史」を吉田新田をベースにまとめてみることにしました。
⑴入海時代(吉田新田以前)
⑵技術移転時代(中世末期から近世)
⑶大干拓時代と新田時代
⑷開港の部隊(幕末)
⑸近代、西欧の受容
⑹五大苦、苦難の時代
むすび そして未来へ
こんな感じでまとめてみたいと考えています。
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7月 21

【中締めに向けて】

横浜界隈通信も間もなく1000話一つの区切りが訪れます。
なかなか越えられません。残り六つ、肩の力を抜いて書き抜きます。 このブログの始まりは自身の<リハビリ>の一つとして先輩からブログを勧められたことに始まります。
チャレンジとしてはかなり無謀でしたが「一日一話形式」で暦に因んだ横浜のテーマを取りまとめてみることでした。このブログを始める前まで、横浜市に暮らしていながら、断片的な知識しか無く、現在はもちろん歴史に関しては地元の小学生より貧弱だったと思います。
まずは横浜に関するテーマを調べることから私の横浜像を少しづつ広げていくことにしました。マイルールは、可能な限りテーマに関した<現地>に足を運ぶことにしました。
No.1 1月1日(日) 奇跡の1998年(前半)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=622
→スポーツ史 駅伝・国立競技場・横浜球場
No2 1月2日(月) ニュース芝居、最先端劇場で上演
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=621
→川上音二郎と横浜 野毛山
No3 1月3日(火) 大火事
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=620
→横浜の大火 
No4 1月4日(水) 昭和の歌姫
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=619
→美空ひばり 杉田
No5 1月5日(木) 漂泊の詩人 永井叔(一部加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=618
No.6 1月6日(金) 天然スケートリンク開場(修正、加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=617
→大倉山天然スケート場開場 系統立てる事なく、ひたすら資料に登場する出来事やテーマを元に周辺資料を調べ、足を運ぶことを一年間(365話)続けました。
今読むと書き直したいものも多数ありますが、新資料や間違いの修正加筆にとどめています。
二年目に入り、取り上げたテーマから発見したテーマや、枝葉のように広がったテーマを追いかけながら、ジグゾーパズルのピースを埋め込むような作業が始まります。
600話位からでしょうか、ぼやーっと横浜という立体が象を結ぶようになってきました。
1001話以降は少し横断的な横浜象をあぶり出していきたいと思っています。
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