6月 25

第894話 【横浜・大正という時代】その1 新港埠頭

今年は横浜市開港記念会館が開館100周年を迎えます。

開港記念会館

1917年(大正6年)7月1日のことです。今年は様々な記念行事が予定されているようです。
この横浜市開港記念会館、竣工当時は「開港記念横浜会館」呼ばれました。
さらに時代を遡れば、当初は「町会所」その後「横浜貿易商組合会館」「横浜会館」となり明治の横浜の商工業界(現在の商工会議所)の<シンボル>でもありました。
残念なことに横濱会館は明治39年に焼失し再建が望まれ完成したのがこの「開港記念横浜会館」です。

第821話 1989年(平成元年)6月16日ドーム復元工事

【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?

戦前、神奈川県、横浜市など<官>に対して民のモノ言う組織としてアクティブな活動をしてきたのが横浜商工会議所です。開港記念会館は横浜商工会議所の歴史とともに歩んできました。
今回から何回かに分けてこの開港記念会館が完成した大正時代の横浜について自分なりに整理をしていきます。

(大正という時代)
1912年から1926年を元号から「大正時代」と呼びます。近現代の中で最も短い期間ですが、実に変化に飛んだ時代でもありました。歴史業界(?)でも大正再評価ブームです。
この大正時代 横浜はどんな街だったのだろうか?幾つか切り口を設定してみました。
・小横浜
横浜の街は開港の拠点となります。その後、国際港として発展していきますが、行政単位は小さな街でした。
国際都市が発展していく過程で、周辺地域が港を支える市街地として<宅地化>していきます。そこで横浜は明治期の終わりまでに二回の市域拡張を行います。
第二次市域拡張
「久良岐郡屏風浦村」より<大字磯子><滝頭><岡(旧禅馬村の地域)>。
「大岡川村」より<大字堀之内><井土ヶ谷><蒔田><下大岡><弘明寺>。
「橘樹郡保土ケ谷町」より<大字岩間字池上><東台><外荒具><道上><塩田><反町><宮下><殿田><関面><久保山下(現在の西区東久保町・久保町・元久保町、保土ケ谷区西久保町)>を編入します。
市制施行時には横浜港周辺の5.4 km² に過ぎませんでした。
開校以来40年近い時が流れ、明治34年に一回目の市域拡張を行いますが面積は24.8km²。
二回目でも総面積36.71km²でした。
面積は現在の横浜市域の十分の一以下です。
横浜市は 明治・大正、昭和に入るまで小さな街だったのです。

■市域拡張一覧を一覧にしておきます。
・横浜市制時(明治22年4月1日)   5.40(平方キロメートル)
・第1次市域拡張(明治34年4月1日)  24.8
・第2次市域拡張(明治44年4月1日)  36.71
・第3次市域拡張(昭和2年4月1日※) 133.88
・第4次市域拡張(昭和11年10月1日) 168.02
・第5次市域拡張(昭和12年4月1日)  173.18
・第6次市域拡張(昭和14年4月1日) 400.97
(※昭和2年10月1日区制施行)
第883話【時折今日の横浜】4月1日年度初め

【番外編】市域拡大は元気なうちに!?

■比較資料として「神戸市」の市域拡張も紹介しておきます
・明治22年4月1日  21.28(平方キロメートル)
※明治22年は全国で市制制度が施行され約40の市が誕生しました。
・明治29年4月1日  37.02
・大正9年4月1日  63.58
・昭和4年4月1日  83.06
・昭和16年7月1日  115.05
・昭和22年3月1日  390.50
・昭和25年4月1日  404.66
・昭和33年2月1日  529.58

(貿易特区)
最近「特区」が話題になっています。明治期に特区といった用語はありませんでしたが、横浜市は開港以来、国際貿易特区として重要な役割を担ってきました。帝都東京に近く小さくも交易港として日本一の取引を誇ります。
ところが横浜港は 港湾機能が国際的には<不評>でした。
港が北向きということもあり強い北風の影響がありました。
明治期に完成した<鉄桟橋>も20世紀に入り急速に発展した巨艦商船時代に対応できず、相変わらず沖に停泊、艀(はしけ)港内を走り回る状況で、新しい大型港湾施設が切望されていました。
実は明治維新以降の日本は国内最大の内戦<西南戦争><日清戦争><日露戦争>など、戦費負担のために国内インフラ整備が追いつかない経済状態にありました。
ようやく新しい港湾施設<新港埠頭>計画が明治後期(1899年)に持ち上がり大正初め(1917年)に完成します。
鉄桟橋(現大さん橋)の改良と、新しい港湾施設(新港埠頭)の完成によって横浜市は新しいステージを迎えます。

■新港埠頭の時代
大正期の横浜、特徴の一つが<新港埠頭の稼働>です。
新港埠頭の稼働に伴い、鉄道も構内まで開通します。日本全体も鉄道時代の幕開きとなり、物流革新が横浜港を後押しします。
新港埠頭と幹線を繋いだ鉄道の名残が現在の人気ルート「汽車道」です。

No.103 4月12日 「新港埠頭保税倉庫」から「赤レンガ」へ

【横浜の橋】No.12 万国橋(新港埠頭)
 

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6月 12

第893話 山手警察小史

山手警察の歴史を中心に

※手元の資料で簡単に整理してみました。
神奈川県警察全体の項目も含んでいます。
●山手警察 現在の所在地
横浜市中区本牧宮原1番15号

【略年表】
1870年(明治3年)1月

神奈川に取締見廻役設置
横浜居留地に居留地取締役を置く
山手に屯所(取締局)を設置。

1871年(明治4年)
8月〜10月
陸奥宗光、神奈川県令就任により警察制度改革。横浜関内外の関門・見張所全廃。
県兵に代え階級制度による取締役(ポリスマン)を配置。
※取締役・邏卒・巡査 いずれもポリスマンの訳
12月
居留地の警察権回復「邏卒」制度完成(陸奥宗光)
神奈川県に邏卒課を設置。取締区域を五区に分け、会所詰邏卒を配置。
※陸奥宗光は神奈川県初代県令(明治4年〜明治5年)在任短期間だったが警察制度の大改革と行った。
その片腕となったのが大江卓(陸奥の後任、二代目神奈川県令)→大江橋

1872年(明治5年)
3月 東京府 神奈川県の「邏卒」制度に準拠。以後、全国基準となる。
  ※日本の警察制度の基本となる「邏卒」制度は神奈川(横浜)モデルだった?

1874年(明治7年)6月
邏卒本営設置(堺町二丁目)

1875年(明治8年)3月
行政警察規則 発布。

1875年(明治8年)11月
山手居留地に、山手警察署の前身である警察出張所が設置

1877年(明治10年)
警察出張所を警察署、屯署を分署と改称。
第一号警察出張所→横浜堺町警察署
第二号警察出張所→山手警察署
第三号警察出張所→横浜松影町警察署
第四号警察出張所→横浜長者町警察署
第五号警察出張所→横浜戸部警察署
第六号警察出張所→横浜高島警察署

1879年(明治12年)
山手居留地・山元町の所管、松影町警察署から山手警察署に変更。

1882年(明治15年)
7月1日
松影町・長者町・戸部町の三警察廃止、堺町警察署に統合。
堺町警察署を横浜警察署(後の伊勢佐木警察署)と改称。
横浜警察署に居留地警察署(後の加賀町警察)を設置
→山手警察署は居留地警察署 山手分署となる。

1884年(明治17年)
横浜警察署、堺町二丁目から伊勢佐木町25番地の新築庁舎に移転。

明治38年伊勢佐木警察署付近
明治38年伊勢佐木警察署

居留地警察署、堺町二丁目から加賀町通203番地に移転。

1893年(明治26年)12月
居留地警察署 山手分署 山手警察署の名に戻る

1895年(明治28年)12月
伊勢佐木町警察署 横浜市伊勢佐木町1丁目
戸部分署 横浜市戸部町一丁目
加賀町警察署 横浜市居留地加賀町
水上分署 横浜市西波止場岬
山手本町警察署 横浜市居留地山手本町
石川町警察署 横浜市石川町四丁目
日下分署 久良岐郡日下村笹下
神奈川警察署 橘樹郡神奈川町青木
川崎分署 橘樹郡川崎町新宿
高津分署 橘樹郡高津村溝口
都田警察署 都筑郡都田村川和
以下 略

明治38年

1897年(明治30年)
山手町に木造平屋の庁舎が完成(山手本町警察署)

1909年(明治42年)
山手本町警察署、煉瓦造りの2階建てに改築

1911年(明治44年)
4月10日「(タイトル)遠乗会寄贈品、自動車と衝突 八日午前十一時市内松影町四ノ一三五馬淵宇平が自転車に乗じて山元町一ノ一先街路に来かかりたり所前方より来りし外人四人乗りの自動車と衝突し自転車は滅茶苦茶に破壊されしより宇平は直ぐに外人を捕へて山手署へ同行を乞ひたるに外人は自分の名刺を同人に渡し自分は山下町二〇グランドホテルに投宿し居るなれば若し用があればホテルに来れよと云い捨てし儘立去りたるより宇平は直ちに山手署へ訴へ出でたり(横浜貿易新報)」

1923年(大正12年)
9月山手本町警察署、関東大震災で全壊、仮庁舎を本牧に置く。
11月山手本町警察署八幡橋分署(後の磯子署)設置。

1925年(大正14年)
10月1日山手警察署 本牧町に新設。

昭和9年山手警察署

1926年(大正・昭和)
八幡橋分署が八幡橋警察署(後の磯子署)となる。

1945年(昭和20年)
山手警察署、横浜大空襲での全焼などによる幾度からの移転
大鳥国民学校→本牧国民学校→横浜授産所

1965年(昭和40年)
5月新庁舎完成。現在の場所に移転。

1994年(平成6年)
山手警察署 新庁舎竣工。

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6月 8

第892話【ある日の横浜】東口「横浜ホテル」

ここに在る日の横浜の風景写真があります。

横浜ホテル

この写真は、かつて横浜駅東口にあった「横浜ホテル」と帷子川の風景です。
撮影年は確定できませんが昭和24年頃と推定しました。
東急電鉄がこのホテルを買収する直前か、買収後で改装前のものと思われます。
万里橋の上から国道1号線が通る築地橋方向を撮影しています。その先は当時の「表高島町」操車場にあたります。
このホテルは現在、東急グループの神奈川都市交通が経営するガソリンスタンドとなっています。
横浜ホテルと東急の関係は以前ブログで紹介しましたので参照ください。
1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」
もう一枚この近所が同時期に撮影されている写真も紹介します。

横浜東口高島通商店街

万里橋の袂で現在、裏高島の面白い飲食店が集まるエリアです。
横浜大空襲を経て終戦となり復興が始まった「高島通商店街」の様子が垣間見ることができます。ここ「高島通商店街」は80年代までは賑わったエリアです。90年代に入り高島エリア(みなとみらいエリア)の空洞化に伴い刃毀れ状態となっていて衰退。
横浜駅の中心が”東から西”へシフトし減退エリアの象徴のようになってしまいました。
写真正面に見える「三共商会」は最近までこの地で運輸業を営業していましたが、移転したようです。

実はこの場所が<高島町2丁目>裏高島エリアだと確定したのは
「三共商会」の奥に「神奈川県製パン協同組合」のビルを確認できたからです。

横浜駅東口エリアには
豆腐会館
神奈川県製パン協同組合
神奈川県印刷組合
など 様々な業界の組合ビルもありました。
※豆腐会館は現在もあります。

このエリア活性化の動き
裏横浜地域活性化プロジェクト urayoko net
http://urayoko.net
ちょっとデータが古いですね。
一時期<裏高島>で頑張ったていましたが
さらに
もうひと踏ん張りして欲しいですね。
2017年6月記す。

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6月 3

第891話【横浜の橋】A B 橋

かつて大岡川には川の十字路がありました。

運河の交差点

大岡川下流域は吉田新田の干拓によって誕生した運河の町です。<灌漑水路>として中村川・派大岡川が生まれ堀川が作られ、明治に入って掘割川開削で磯子湾につながることで水運機能が高まります。

吉田新田

水田の吉田新田域が次第に宅地化・近代化していく過程で<灌漑水路>が<水運水路>として「吉田川」「新吉田川」「日ノ出川」「富士見川」が整備されていきます。
この時期に、横浜にとって重大な事業計画が進められます。野毛浦地先に鉄道が引かれる用地が埋め立てられることになりました。 ここに排水路を兼ねた「桜川」が誕生します。

大岡川に桜川と派大岡川が繋がり川の交差点が誕生します。
ここには「柳橋」と「錦橋」、大岡川には「都橋」「大江橋」が架かっていました。
※明治初期には「櫻橋」という木製の橋が短期間ですがありました。

櫻橋

このポイントは首都高速道路、JR根岸線、市営地下鉄、大岡川、幹線道路が集中し大工事が行われた場所でもあります。
「桜川」と「派大岡川」が無くなり大岡川だけになった時に、道路整備が行われ「桜川新道」ができ大岡川に「桜川橋」が架けられます。

【横浜の橋】№10 残った紅葉橋(陸橋)

【横浜の橋】№10 残った紅葉橋(陸橋)

この桜川橋は珍しい橋の一つだと思います。
構造的には普通の<上下線分離型>2連橋ですが上下で”橋名”が異なります。
普通は上下まとめて名称が付けられます。
「紅葉坂」「国際橋」も上下線分離型の2連橋です。さらには上下線、長さが極端に変わる「新山下橋」も上下線分離型の2連橋ですが名前は一つです。
「桜川橋」 上下線に区別がある”大変珍しい橋”なんです。
しかも呼び名も変わっていて
上流から
「桜川A橋(さくらがわえーきょう)」
長さ41.8m
幅は16.8m
架橋年は昭和48年

「桜川B橋(さくらがわびーきょう)」
長さ38.7m
幅は16.8m
架橋年は昭和48年

普段、橋上を走っていると全く判りませんが、川筋や袂から眺めるとしっかり「桜川B橋」のみ明記されています。

桜川物語も調査中ですのであらためて紹介します。

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6月 3

第890話【横濱の風景】西之橋からみる風景

ふと気がついた疑問をFacebookにアップしたネタですが、結構反応があり改めて確認してみると面白いのでブログアップします。
昔の絵葉書や地図を少しコレクションしていますが、
絵葉書とマップを比較することはほとんどありませんでした。
今回のテーマは
【中村川】横濱西ノ橋川岸雪ノ景
横濱の冬景色の絵葉書は少なく風情のあるいい風景です。

この絵葉書に関してこれまで
下記のキャプションを用意してきました。
「中村川と堀川そして埋め立てられた派大岡川が交わるあたりを西之橋から見た雪風景です。現在は石川町駅と首都高速が川の上にありこの風景の面影は殆どありません。今の西之橋は大正15年に再建された震災復興橋の一つで画像上流には、中村川に架かる亀之橋が見えます。昔の美しい景色が写る貴重な運河の風景です。」

ここで遠くに見える橋を中村川に架かる「亀之橋」とばかり思い込んでいました。根拠は「横浜絵葉書」関連書籍に同じ風景が収録されていて
「亀之橋」とあったので検証しなかったからです。
ところが実際「西ノ橋」袂に立ってみるとここから亀之橋を確認することはかなり厳しい角度にあります。
奥に見える高架は根岸線、その奥が 「石川町駅前歩道橋」です。
1960年代に首都高工事で「派大岡川」を埋め立てた際に少し中村川の川筋が変わった可能性もあるので、過去の地図を幾つか探し出してみることにしました。

大正11年
昭和2年

見えないこともない?色々探してみると 発見したのがもう一つの橋でした。
「亀之橋」と「西之橋」の間にもう一つ橋が架かっている地図があったのです。
現在の根岸線の石川町駅前歩道橋あたりに架かっていたようです。
<ようです>というのは
この謎の橋が表記されていない地図もあったからです。戦前の地図、少なくとも橋に関しては、<謎の橋>が時折現れます。
さて?この橋の名は。地図上にも橋梁名が記されていません。
仮に<石川町橋>とでもしておきましょうか。
解明はこれからです。

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5月 28

【絵葉書の風景】中華街

この風景を手にした時、最初横浜中華街であるという確証が無かった。昔の横浜中華街を知っている方ならすぐにわかる風景も、初めての者にとっては不明となる。
よくある風景として長崎の風景とも考えられたが、拡大してみて、「山下町」等の文字を確認、横浜中華街の風景であることが確定した。
ただ、時代は戦前であること以外には確証が無い。

風景を読む
中華街大通りの風景。
左手には市会議員をつとめた沼田安蔵が経営していたという中華料理店の平安楼。右手手前のビルは「加賀ビル」でバー、ホルスタインビールの看板も見える。
奥には聘珍楼、左手には萬新楼の看板が確認できる。電信柱には「安楽園」の名も見えるが、この時代の面影は「安楽園」(明治36年創業、平成23年閉店)が最後だったかもしれない。
当時の一般的な看板として「仁丹」「森永牛乳」も確認することができた。
※「holsten beer」の看板
1879年5月24日創業のドイツビール銘柄。現在もある銘柄らしい。

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5月 2

【横浜の風景】元町百段坂を数えてみた!part2

関東大震災まで元町に「百段坂」がありました。
以前このブログで、
「百段坂」は俗称で実は?101段である。
実際元町百段坂を数えてみました
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9211
結果
やはり101段だろう という結論におぼろげながら達しました。
まあ「101段坂」よりはすっぱり「百段坂」が良いでしょうね。
今回
画像に不明な点もあったので新しい画像を元に
再度「百段カウント」に挑戦してみました。
元になった写真

これを拡大し階段を一つ一つ確認していくと
出てきた不明点があります。
(第一の不明点)
最初の一段はどこだ?
階段の始まり、小学生とおぼしき少年と愛犬らしき動物の後に段差があるように思えます。スロープににも見えますが、段にも。

ここは0段、グランドフロアみたいなものか?

以前Part1に使用した写真の0段付近を拡大してみることに。

段差があるようなないような。あるといえばある。
ただ、
Part1は明治初期(電信柱も電力柱も無い頃)と思われるので、階段下は整備されてまもなくのころで<登る人>も少なかったのではないか。

Part2の写真では30個の碍子「電信柱」が写っていますので明治中期以降だろうろ推理できます。

(第二の不明点)
ちょうど90段目あたりの段差が確認しにくいのですが、高くなればなるほど段差は狭く見えるはずなので91段目をカウントしました。

【結論】
結論はやはり101段が正解のようです。
なんだ! ということですが、百段坂の時代変化も少し確認できたので<良し>としておきます。

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4月 30

第887話【大桟橋の風景】旅立ちの日

空港は<そらのみなと>、
人類の歴史は<水の港>から始まりこの歴史の方が圧倒的に長いが、次第に<水の港>は遠くなっていく。
今でも船出には
今生の別れとなってしまうかもしれないという思いが漂うのは何故だろう。
だから見送りにも特別な感情が流れるのかもしれない。

そういえば最近
<旅立ちの見送り>が激減した。

小学生のころ、横浜大桟橋から親戚を見送った記憶が焼き付いている。カルフォルニアの仏教寺院に<僧侶>として骨を埋めることになり、移民としてアメリカに向かう家族を親戚と見送ることになった。私はことの重大性には気づいていなかったが、母が泣く姿を覚えている。
この時、船側から知り合いを見つけてはテープを投げる見送りの儀式が始まる。桟橋では風に流されながらも飛んでくるテープの片端を追い求め、つかの間のつながりと別れを味わう。
今でも
テープがプツンと切れ、切れ端がフワッと浮き上がっていく感触が残っている。

<絵葉書に見る大桟橋>
ここに大正期を中心に船出風景の絵葉書を紹介する。
戦前、横浜港が果たした役割は大きかった。首都圏、さらには東日本の国際港として外国との窓口となっていたからだ。
横浜港からは<移民>も多く旅立った。
留学、赴任、視察、商談、遊学 他
戦前の日本を支えたキーパーソンは横浜港に一度は立っていた!といっても過言ではない。

大さん橋誕生、港の核芯(戦前編)

大さん橋の見える風景

第818話【横浜2345】大横浜の時代

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4月 27

第886話【横浜の記念式典】復興記念横浜大博覧会

■復興記念横浜大博覧会

◎開催期間:
1935年(昭和10年)3月26日から5月24日
◎開催会場:
山下公園を含む山下町一帯(約10万平方メートル)
◎開催内容:
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。(乃村工芸)」
◎来場者数:
のべ3,299,000人
二ヶ月で約330万人が入場という記録がありますが、「山下公園一帯」に60日、一日あたり5万人以上の入場者があったということです。あくまで平均です。
新聞記事を探って、一日の入場者の動きを追いかけてみました。
3月26日(水)から5月24日(金)という曜日は土日を加味していませんね。
3月26日(水)から3月31日(日)62,340人
4月7日(日) 一日入場者65,000人
4月14日(日) 一日入場者75,043人
4月21日(日) 一日入場者78,000人
〜4月23日(火) 累計75万人を突破
〜4月29日(月) 昭和天皇誕生日(天長節)に累計100万人達成
5月1日(水) 一日入場者118,500人
5月2日(木) 一日入場者3万余人
5月5日(日) 一日入場者20万人突破
累計1,423,527人に。
5月7日(火) 午後一時延べ入場者150万人達成
5月19日(水) 一日入場者30万人
累計2,279,377人
最終結果
5月24日(金)
累計3,299,000人となっています。
実に残り5日間で100万人が入場ということですから、驚きです。
横濱市も予想を超える入場者に驚きを隠せない様子が報道資料からも読み取れます。

ここに300万人が!(現在の山下公園) 山下公園図

◎関連ブログ

【記念式典】横浜、金のシャチホコ

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
(復興記念)
一概に比較できませんが、1923年(大正12年)に起こった関東大震災から12年後にこの「復興記念横浜大博覧会」が行われましたが、
<震災復復興宣言>は
震災後7年目、亡くなられた方に対し七回忌に間に合わせたのか判りませんが、
内務省と東京府、東京市は1930年(昭和5年)3月に終結宣言します。
横浜市は復興記念の日を4月23日と宣言し「復興記念祭」を開催しました。
この時、昭和天皇からは
「お祭り騒ぎにならぬやう」と釘を刺されたそうです。
横濱では市役所、公立学校を休みとし、横浜公園他で式典が行われました。
2017年
東北の復興宣言は何時になるのでしょうか。

■まだまだ読み込んでいない興味ある資料があります。
横浜で開催された戦前最大級の<博覧会>ここで実施された<関連事業><関連イベント>を通して、四年後にこの国が開戦に至る歴史の<隘路>の断片が見えてくるように思います。
このテーマさらに追いかけます。

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4月 6

第885話【横浜の橋】都ぞ春

開港時から明治期にかけて、横浜開港場界隈に架かる<橋>数数あるなか
知名度なら「吉田橋(派大岡川)」でしょう。
明治初期、開港場付近の橋といえば?
辨天橋・大江橋・前田橋・西之橋・谷戸橋・湊橋・豊国橋 他
居留地と外を結ぶ<関門橋>があり、多くが現存しています。
中でも吉田橋は、関内外を結ぶ橋として一際注目されてきました。
横浜の重要な道を繋ぐという視点で<橋>を眺めてみると
「都橋」が横浜発展の要となっていたことに気がつきます。
「都橋」は
1872年(明治5年)7月
「野毛町一丁目往還北側茅屋を毀ち、道路を改修し、野毛橋を毀ち、更に北方へ凡そ三間位置を換へ、橋台を築造し、無杭木橋に改造し、都橋と改称す同月野毛橋の古材を太田村に移し、以て栄橋を架す。」
開港時「野毛橋」と称していました。
東海道から帷子川の越え、野毛坂を越え「野毛村」と突貫工事で切り開いた開港の道(横浜道)は「野毛橋」で大岡川を越え吉田橋関門へとつながる重要な橋の一つでした。
この「野毛橋」の架かる一帯の整備が行われ、
道路を改修、新しい橋に架け替えられます。
この時に、名称を「都橋(みやこはし)」と一新するのですが、
なぜ「みやこはし」となったのか?
オツな話が伝えられています。
古今和歌集56番
「見わたせば
柳桜をこきまぜて
都ぞ春の錦なりける」素性法師
“ここから眺めてみると、
柳の緑と桜の色とが混ざり合って、
都が春の錦のようであることよ”
といった美しい春の風景を詠っています。
見渡せばとあるので 何処か高いところから見下して詠ったものですので
野毛に置き換えれば<野毛山>からの眺めと重ねたのかもしれません。
実は
「見わたせば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」の
歌中にある<柳><錦>から
都橋下流の大岡川と派大岡川、桜川と川の十字路となっていたところに
「柳橋」と「錦橋」が架かっています。 この2つの橋と桜川をかけて
ちょうどよい歌を引用し「都」橋と名付けたそうです。

#大岡川の橋

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Category: 横浜の川, 横浜の橋, 横浜の道, 横浜絵葉書, 水辺の風景 | 第885話【横浜の橋】都ぞ春 はコメントを受け付けていません。