7月 8

【よこはま時の風景】

風景というと、辞書的には<見える様>といった説明になりますが、もう少し心象的な意味合いでつかわれることが多くなりました。文字通り「心象風景」は有様を想像する作業です。
サウンドスケープ(音の風景)は、しっかり研究領域として広がりを見せています。

今回はちょっと「時間」、時の風景に分け入ってみましょう。
私達は 近年<時>を見て確認することが多くなりました。
あるローカル線の際に住む友人は、引っ越してきた当初は雑音だった列車の通過音が今は時計代わりになっている、と語っていましたが、時を表す音は減ってきているようです。
ラジオの時報も一昔ほど有用ではないかもしれません。
見る<時>が増えましたが、公園や床屋、街なかにあった「公衆時計」は激減しています。
時の風景にも時代を感じることができます。

公衆時計

<時の時代風景>
横浜はいち早く開港によって居留地が登場しました。隣接して日本人の街が作られ、諸外国との取引や、港に降り立つ人々向けのビジネスが<おそらく>見様見真似、試行錯誤の中で始まります。
居留地で日本人が遭遇した数々のカルチャーギャップの中で、
「時」に関してはどうだったのだろう?と簡単ですが資料を探ってみました。
まず暦の違いが日本人と外国人との間で早急に確認し合う必要がありました。商売に暦は必須条件です。荷物の調達から流通、納品等のカレンダーは当然必要になってきます。
江戸の暦は明治5年12月2日まで使われ(西暦1872年12月31日)次の日が明治6年1月1日((西暦1873年1月1日)と揃いますが、旧暦としては一ヶ月消えてしまったことになります。
一説によれば、国家予算逼迫で、年度予算を一ヶ月切り詰める効果も狙っていたとか。
幕末の文書ではしっかり旧暦西暦を併記したものもあり、しっかり併用していたことが伺えます。
暦同様、日常の時間も江戸と近代では異なりました。
落語の<時そば>にも登場する江戸の時間は、欧米とは異なり、夜明けから日没までを均等割(単位は一刻)していくという一見面倒な方法(不定時法)を使っていました。
昼の長い夏と、夜の長い冬とでは<一刻(いっとき)>が異なったのです。
でも農業や外の仕事としては実に理にかなっていて、明るい内に働くという大原則で生活リズムが決まっていました。
ところが欧米各国は太陽暦の基で一日を均等割する<定時法>を用いていましたので、開港場となった横浜はおそらくいち早くこの時間を取り入れたに違いありません。
幕末から日本を訪れた外国人の日誌などにも詳細な欧米時間で記載されていて、時間のギャップに関して記述しているものは私が調べた限りですが、見当たりませんでした。
面会時間などはどうやって調整したのか?詳しく記述された資料が欲しいです。

今でこそ、スマホや腕時計で、またテレビやラジオで時刻を手軽に知ることができます。
19世紀、時計はとても高級で、一般生活では使うことが難しかった。
では人々はどうして時刻を知ったのか?
日本では、江戸期から時の鐘といって、城、役所、寺などを使って鐘を鳴らすことで一般生活の時を知らせていました。この習慣は、開港後も明治時代でも使われていました。
明治に始まった廃仏毀釈の嵐の中で、寺は消えたが鐘だけ残ったというお寺の話も全国に数多く残っています。

街の人々は、新しい時刻制度となっても 耳で聞いてそれなりに慣れ、対応していったのではないでしょうか。

明治に入って、国の制度が大きく変わり、社会生活も変化を余儀なくされていきました。
明治時代の「時の風景」は、
 見る時間と聞く時間に変化が起こります。
 横浜を中心に「時の風景」を探してみました。

□時の鐘
 仕組みは江戸期と同じで 和梵鐘を撞くことで音を出し時を知らせました。
 音は広域に時を知らせることができますから、開港場には町会所や野毛に報時用の鐘が用意されました。恐らく、山手に多かった教会群からもチャペルの鐘が定時に聞こえたのではないでしょうか。
 開港記念会館の時の鐘だった和梵鐘に関しては関連ブログ(下記リンク)でも触れていますが、調査レポートとしてもまとめているところです。

□時計台
 明治に入って新しく生活に登場した<時間>です。<塔>に時計を設置した洋館が建つようになります。横浜ではブリジエンス設計の町会所にスイス製の時計が設置されました。
その後、弁天通りには「河北時計店」が自社ビルに時計塔を設置し地域のランドマークとなります。

□報時球
 時刻を知らせる<球>が横浜にはありました。これは国内で横浜と神戸だけに設置され、見て確認できる時刻でした。
 横浜では、海岸通りの<仏蘭西波止場>の位置にあり、港湾内の船に独特の方法で時刻を知らせました。港付近ではこの報時球の塔がひときわ目立つランドマークとなっていました。

関連ブログ
「時」の風景(更新)

【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?

12月 26

汽車道は三線あった

汽車道は近年人気のプロムナードで、土日休日は行列のように通行人が繋がる。桜木町駅前から新港埠頭を繋ぐ約500mの遊歩道で、感覚的には「赤レンガ倉庫」がゴールのように感じられるが、手間で終点となる。
大正期に完成した新港埠頭倉庫群(赤レンガ倉庫他)と当時の横浜駅を繋ぐために整備された鉄道路線で
当初の計画書には「横浜鉄道海陸連絡線」(以下連絡線)とある。この「連絡線」、現在の横浜線と深い関係にあり多くのエピソードを持っているが、詳しくは別の機会にしたい。
ネット検索でもかなり面白い説明に出会える。例えば京急(京浜電気鉄道)の高架化顛末
この連絡線「汽車道はもともと「ウィンナープロムナード」と呼ばれていた(wikipedia)」
 とあるが俗称で正式名称では無かったと思う(資料無し)。税関線と呼ばれていたこともある。 
連絡線は複線仕様で新港埠頭に入って複数に分岐していた。その中で、主に日本郵船が使用していた4号近くに現在もプラットホーム跡が残っている。
と思っていたが、資料を漁っていたら、少し状況が異なっていたようなので、この点だけここに紹介しておく。連絡線は汽車道と呼ばれるように戦前は貨物を中心に、客船の乗客も<汽車>で運搬していた。
さて、この汽車道に線路は何本あったのだろう?単線だったのか複線だったのか?現在は単線がモニュメントとして残されているが、資料から私は複線だったとしていたが、実は一部<三線>だったようだ。

上記写真地図は主に戦後接収時代の頃で、新港埠頭に近いところの島状になった所まで単線らしきものが伸びているのが解る。ここには上屋らしきものがあったことが伺える。近辺に多くの<艀>が係留されている。なんらかの作業場であったのだろう。
別の証拠は無いか?探してみた。昭和9年の新港埠頭図が見つかった。

昭和九年新港埠頭入口

昭和九年の横浜税関資料では 確かに三線となっている。
では 途中まで伸びている単線の役割は何だったのだろう。荷物の積み降ろしのための護岸(桟橋)用だったのだろうか?


汽車道略年表
1915年(大正4年)東横浜駅開設。
1920年(大正9年)7月23日 日本郵船 香取丸 出航時にボートトレインとして旅客をはじめる。 東京からの初の乗り入れとなる。主に北太平洋航路の客船が現在の海保、赤レンガ倉庫に面する<3号・4号ふ頭>を利用。(〜昭和17年3月まで)
1945年(昭和20年)港湾部新港埠頭接収
 戦後日本郵船は氷川丸以後客船部門から撤退し客船飛鳥で復活。
1950年(昭和25年)〜1953年(昭和28年)
 朝鮮戦争用に旅客輸送として使用
1952年(昭和27年)に返還。
1957年(昭和32年)8月 戦後唯一残った貨客船「氷川丸」
 出港時にボートトレイン再開。
1961年(昭和36年)氷川丸の最終航海時まで旅客運送が行われていた。
この時期、港湾経済は「船混み」状態をどう解決するかが最大の懸案事項。
政府方針「国民所得倍増計画」の下に横浜港第一次港湾整備五か年計画(〜昭和40年)によりふ頭整備計画が実施される。
※氷川丸は現在の係留地、大さん橋から出航ではなく、新港埠頭
1962年(昭和37年)3月 正式廃止
1964年(昭和39年)5月 根岸線磯子まで延伸。6月高島線全通。
1965年(昭和40年)山下ふ頭輸送力増強を目指し新港埠頭から山下公園を抜け山下ふ頭に繋がる「臨港鉄道」が景観論争を経て建設。
※港湾物流の変化(コンテナ時代へ)港湾経済の転換点その1
1973年(昭和48年)オイルショック 港湾経済の転換点その2
1986年(昭和61年)10月汽車道供用廃止
1997年(平成9年)に整備され「汽車道」となる。
JR桜木町駅前から新港埠頭を結ぶ約500mの区間を指す。

2月 6

京浜急行白金町駅

1930年(昭和5年)4月1日に開通した湘南電気鉄道は三浦半島の浦賀駅から桜木町駅を目指すために初期ターミナル駅を所在地の町名を採って「黄金町駅」とした。一時期本社機能が置かれたこともある。
開業の翌年、湘南電気鉄道は日ノ出町まで延伸し当初の計画を変更し、京浜電気鉄道と結合した。そして1941年(昭和16年)に合併し現在の京浜急行が成立した。
戦中の1944年(昭和19年)に駅の所在地は新設された「白金町」となったが、もう少し前倒しで町名変更がされたなら、「白金町駅」に変更されたかもしれない。
横須賀に海軍の施設があったことから、戦時体制となった昭和10年代以降、三浦半島は規制の多いエリアとなったが、終戦とともに新しい局面を迎えた。大東急時代から独立元に持っどった新生「京浜急行電鉄」は都心部から三浦、その先の房総エリアへの送客計画を次々と進めていった。

ハイキング特急
京急は戦後早々に不定期ではあるが房総向けの特急を走らせた。
その名は「ハイキング特急」といって
「1950年4月1日に登場した京急初の特急列車。ハイキング回数乗車券を持つ乗客だけが乗れる定員制列車だった。当初は品川駅 – 浦賀駅間を94分で結び、途中9駅に停車した。この時の表定速度は35.5km/hだった。当初の愛称には「三笠」「剣崎」「房総」「三崎」「灯台」「鷹取」が存在した」(wikipedia)

京急80年史より

このハイキング特急を通過待ちする待避線が「黄金町駅」にあった時期があったらしい※。
若干の不明点が出てきたので簡単だが調べてみた。
京急は路線に待避線をいくつか持っている。市内で代表的な駅は「神奈川新町」「南太田」がある。特急や急行を優先して通過させるため別の線路を設ける(待避線)である。
もう一つ、「渡り線」がある。
上下線や、複数の線路を繋ぐ(渡る)構造のことだ。

資料によると
「かつて、下りハイキング特急の待避が行われていた。これは下りの普通電車が当駅に到着すると、旅客扱いを行った後にスイッチバックして上り線に転線し、ハイキング特急「第二房総号」の通過を待って、再び下り線に転線するというものだった。その後、ハイキング特急が廃止されると、当駅での待避は行われなくなり、その渡り線は撤去された」
とある。
一読して鉄道には全くの素人は私としては 信じられない光景を想像した。
黄金町には「渡り線」が設けられ、本数は少なかったとはいえ、アクロバティックな待避が行われていたことになる。

社史には
1949年(昭和24年)4月24日 休日ハイキング列車運行開始
1950年(昭和25年)4月1日 休日ハイキング特急、平日急行、準急運行開始。
1952年(昭和27年)7月6日 品川・逗子間直通海水浴特急運行開始
1953年(昭和28年)9月13日 ハイキング特急ノンストップ運転開始

「戦後の復興期に再スタートを切った京急は、鉄道とバスの運輸業で通勤輸送と行楽輸送の2本柱をもって立ち向かい、施設の復旧と改良を進め、速達列車が普通列車を追い抜く待避設備を持つ駅を増やし、緩急結合と呼ばれる運行に変貌していた。(なぜ京急は愛されるのか)」
当時の京急は、文字通り走りながら復旧と路線開発を進めていた。
さて黄金町駅構造に話を戻す。
関内外にまだ多くの接収地があった時代の地図を確認してみると
「黄金町」不思議な構造になっていることに気がついた。

昭和23年修正の1万分の1「横浜」では、黄金町駅に待避線が表記されている。
不思議が残った。

4月 29

【ミニミニ今日の横浜】3月19日

この【ミニミニ今日の横浜】はこれまで数年間集めてきた資料や年表から簡単にその日その日の出来事を紹介してきました。大体が過去の調査資料の範囲内で<料理>していましたが、
今回は ちょっと違うぞ! ちょっと待て!もっと調べたい。
という私にとってはかなりエアポケットに落ち込んだ感じたっぷりテーマです。
まず、19日テーマのブログは以前
No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=538
「慶応4(1868)年のこの日、明治政府が幕府から接収した神奈川奉行所を横浜裁判所に改めた。この横浜裁判所は、裁判だけではなく一般行政も行う現在の県庁に相当するものであることから、神奈川県庁ではこの日を「立庁記念日」としている。」
神奈川県庁の「立庁記念日」を紹介しました。

では 今回の3月19日テーマは
「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図」から始まります。
「時」の風景(更新)
横浜の時報について紹介しました。
明治になり変わった新しい時刻、定時法(24時間を均等に分ける)をどうやって知ったのか?

その時 港では<報時球信号>を使い、市中は時の知らせ(時鐘のゴーン)で時間を知り居留地では本町通りの角に建った<横浜町会所>の「時計台」とそこに備えられた<梵鐘>の音で時間を知らせました。
という話です。
この横浜町会所の梵鐘について調べる際
「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図」が当然 往時の姿として登場します。
この「時計台神奈川県全図」の作者<歌川国鶴>が今日のテーマです。
前置きが 長くなりました。
1878年(明治11年)の今日3月19日
江戸時代後期に活躍した浮世絵師<歌川国鶴>が横浜関外最初の町「吉田町」で亡くなります。73歳でした。彼は文化4年江戸築地に生まれ二代目歌川豊国に学びます。本名 和田 安五郎、「一寿斎」「一雄斎」などと号し晩年の安政6年(1859年)頃、横浜に居を移し絵草紙屋を開業、横浜絵・役者絵を得意として多くの作品を残します。
彼の作品は、1879年(明治12年)6月に来日したグラント元大統領が持ち帰った日本土産の中に何点か含まれていて、現在はホワイトハウスヒストリカル協会に所蔵されています。
No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=357
No.248 9月4日(火)坂の上の星条旗(後)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=356
No.248-2 9月3日 坂の上の星条旗 改題
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=84

このように 彼の作品に関わるテーマを追いかけていましたが、
「歌川国鶴」なる横浜浮世絵師は 全くノーチェックでした。
実は「歌川国鶴」から始まるドラマは この先からに面白い展開が待ち受けます。絵師、歌川国鶴には二代目を継いだ息子の歌川国鶴(嘉永5年(1852年)〜1919年(大正8年)2月4日)と娘のムラさんがいました。
歌川國鶴作「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図」は初代と二代目歌川国鶴が共に絵草紙屋を経営していた時期ですので共作かもしれません。

歌川國鶴二代目を継いだ息子、そして彼に西洋の絵心を紹介した人物が娘<ムラ>の夫N.P.キングドンです。
初代「歌川国鶴」の娘ムラの夫N.P.キングドン氏の足跡を探るとこれまた横浜には欠かせない人物であることが分かります。
彼の物語に関しては 近々もう少し資料を読んでから紹介します。
今日はここまで。

 
 

Category: 【資料編】, 明治期, 横浜絵葉書 | 【ミニミニ今日の横浜】3月19日 はコメントを受け付けていません
4月 13

【大岡川運河物語】埋地七ケ町その1

運河時代の地図をベースに中村川と日ノ出川、吉田川と派大岡川に囲まれた一帯を最も占める町内をまとめて「埋地七ケ町」と呼んでいます。
字のごとく、埋め立てられ宅地となった当時の松影町、寿町、扇町、翁町、不老町、万代町、蓬來町を指します。

埋地七ケ町付近

現在はさらに広く長者町に沿った山吹町・富士見町・山田町・三吉町・干歳町の各町までを含めたエリアを「埋地地区連合町内会」と呼んでいます。
中でも元々の「埋地七ケ町」一帯は近年<また大きく>変わろうとしています。
<また大きく>と表現したのは
この一帯が江戸時代から現在まで関内外の中でも特に激しい変化の歴史を歩んできたからです。
この激変「埋地七ケ町」の歴史を紐解くには
まず江戸時代の吉田新田開発時代から始めることにしましょう。

<入海から新田へ>
江戸時代の初め、この地域一帯は釣り鐘型(ワタシ的には烏帽子)をした入り海でした。長い戦国時代が終わり、戦う農民は帰農したり都市部(街道筋)に居を構えることで非生産人口が増え始め、食糧が不足気味になってきました。また、戦わない領主(大名)を米経済にしたこともあり幕府や全国の藩は耕地を増やす政策をとり、
当初は官製新田でしたが間に合わず、民間による新田開発も奨励することになります。
ちょうどこの頃、
摂津出身で江戸で木・石材商を営み、小さな新田開発も経験した吉田勘兵衛は、当時の<苗字帯刀を許される目標値>1,000石規模の新田開発に挑みます。
目標値の千石の米収量を得るには多大な資本力も必要ですが、技術・人手・周囲の村民の同意も必要となってきます。
恐らく吉田勘兵衛は関東一円を歩き、候補地を探し、大岡川河口に広がる深い入海に注目したのでしょう。
地理的には、東海道街道筋に沿って、帷子川の入り江、袖ヶ浦が広がっていましたのでここを開発する方が、保土ヶ谷宿や神奈川宿に近いため魅力的だったはずです。
ところが、勘兵衛はもう一つ南に流れる大岡川河口を選び、これが結果的に関内外という歴史的空間を生み出したのです。
この地の開発を決断した勘兵衛は資金調達と人材集めに動きました。
<新田時代>
吉田新田は、干拓事業によって誕生した水田地です。
稲作のための水田を造成するのが「干拓」で、灌漑用水の設計が鍵となります。
新田ブームの江戸前期、全国で干拓が行われますが、取水が成功の鍵でした。吉田新田のような河口部の海に面した水域を水田にするのは技術的にかなり困難が伴いました。理由は水田の最大の阻害要因が<塩分>だったからです。
吉田新田着工前、河口部分(現在の蒔田公園)や沿岸の太田村は塩田でした。干拓するには、塩を抜きながら水田を維持しなければなりません。
塩抜きしながら水田を維持できる!と勘兵衛は確信し、新田事業を決意します。
塩抜き等の技術的裏付けは誰が伝授したのか定かではありませんが、先達の成功例をしっかり活用し、塩水地域の水田干拓に挑みました。
事業は開始早々、水害で頓挫します。捲土重来、再トライし約十年の月日をかけて寛文7年完成(幕府認定)します。新田の幕府認定には時間がかかりますから実質土木事業は寛文5年ごろにはほぼ完了していたと推測できます。
それから約200年の間、完成した吉田新田によって、様々な副次効果が生まれます。
まず近隣の村々が繋がっていきます。深い入海時代では舟で往来していた対岸同士が徒歩で行き来できるようになります。特に「野毛」と「石川」の集落が<八丁畷>堤を使って往来が生まれたことは横浜村の発展にも寄与します。

この200年の新田時代を支えたのが<塩抜き>「南一つ目沼」と呼ばれた場所です。現在の「埋地七ケ町」の原点となる場所で、この池無くして吉田新田経営は成立しません。
地図上や文献では<悪水>沼とされているものもありますが、水田の塩抜きと施肥の残りを流しだす役割を担った、水田維持には欠かせない重要な沼でした。

南一ツ目沼

<開港と宅地化>
一般的な横浜史ではこの新田時代を簡略化し、吉田新田が完成、次に「ペリー来航」となってしまいます。この間の200年は都市横浜誕生の礎となり実り多き時間でもありました。
二世紀に渡る時間は、途中宝永の富士山噴火や上流からの流土によって次第に水田維持が困難になり幕末には次第に畑地化していきます。
そんな環境が変化する中、「開国」という一大事件がこの地に起こることになった訳です。
開港直前に、太田屋新田開発事業が完成(といっても半分沼地)し現在の関内エリアが出来上がっていたことも関内=開港場誕生に好条件でした。

古来から横浜村として漁業と嘴状の陸地での農業で生業を営んできた村民は、開港の舞台となり、外国人の街を作るということで転地、転居を命じられます。これが元村のちの元町となっていきます。
堀川を開削し出島状態となった関内だけでは日に日に拡大する貿易を支えることは困難で、当然住宅地が運河を越えた関外に拡大して行くことになります。
さらに時代は明治になり、外国からは居留地を含む開港場一帯の抜本的整備が求められます。そこで明治政府(神奈川県)は、対策の一つとして大岡川の分水路を計画します。
堀割川計画です。
根岸湾と横浜港を運河でバイパスとして繋ぐことで、小型船では厳しかった本牧沖往来を加速化する目的として堀割川運河を目論みます。そのためには、山手からつながる稲荷山、弥八ケ谷戸の丘陵を切り開くという当時はかなり無理のある事業だったため、工事に応札する事業者が現れませんでした。
結果、吉田新田を200年守ってきた「吉田家」に半ば強制のように事業命令が下ります。
この堀割川開削物語は難工事で事業史としてまた悲劇の小説にも残されています。
堀割川開削の狙いは運河開削以外にもう一つあり、開削土砂を使って関内居留地に隣接した「南一ツ目沼」を埋立てて宅地化することでした。
1870年(明治3年)に始まり埋立事業が完成したのは1873年(明治6年)のことです。
これによって、
「埋地七ケ町」と「日ノ出川」が誕生することになります。
「南一ツ目沼」によって吉田新田が維持され、吉田新田によって関内の拡大が可能となり、有数の貿易港へと発展していきます。
→埋地七ケ町その2へ

関連ブログ
【大岡川運河物語】日ノ出川運河

4月 6

【横浜をめぐる話】7月22日編異常気象

近年、”異常気象”の冠に相応しい?変な天気が続きます。コラムを書いている今年2017年(平成29年)の夏は日照不足でした。関東は秋になって台風の洗礼を受けています。
※過去にボツにしたコラムに手を入れアップしたものです(202204)
過去の<発生数>
2021年 22個 内上陸 3個
2020年 23個 上陸無し
2019年 29個 内上陸 5個
2018年 29個 内上陸 5個
2017年 27個 内上陸 4個
2016年 26個 内上陸 6個
2015年 25個 内上陸 4個
2014年 23個 内上陸 4個
2013年 31個 unmarkTextString内上陸 2個

天気予報も中々定まらない予測しにくい気象条件が重なっているようです。
戦後横浜を中心に台風・水害史をざくっと調べてみました。
1934年(昭和9年) 9月21日 室戸台風
1947年(昭和22年) 9月13〜15日 カスリーン台風
1948年(昭和23年) 9月15〜16日 アイオン台風
1949年(昭和24年) 6月19〜22日 前線・デラ台風
1949年(昭和24年) 8月31日〜9月1日 キティ台風
1949年(昭和24年) 10月27〜28日 パトリシア台風
1951年(昭和26年) 10月13〜15日 ルース台風
1952年(昭和27年) 6月22〜24日 ダイナ台風
1956年(昭和31年) 10月 豪雨
1958年(昭和33年) 7月 台風11号
1958年(昭和33年) 9月 台風22号(狩野川台風)
1961年(昭和36年) 6月 集中豪雨
1965年(昭和40年) 8月 台風17号
1966年(昭和41年) 6月 台風4号※
1970年(昭和45年) 7月 集中豪雨
1971年(昭和46年) 8月 台風23号
1972年(昭和47年) 9月 台風20号
1973年(昭和48年) 11月 集中豪雨
1974年(昭和49年) 7月 集中豪雨
1976年(昭和51年) 9月 台風17号
1977年(昭和52年) 9月 台風9号(沖永良部台風)
1979年(昭和54年) 10月 台風20号
1981年(昭和56年) 7月22日 集中豪雨
1982年(昭和57年) 9月 台風18号
1990年(平成2年) 9月30日 台風第20
1991年(平成3年) 9月18日〜20日 台風第18号
1991年(平成3年) 9月18日〜20日 台風第18号
1999年(平成11年) 8月13日〜14日 熱帯低気圧による集中豪雨
2002年(平成14年) 10月1日 台風第21号、三浦半島を通過
2004年(平成16年) 10月9日 前線・台風第22号、トラック転倒
2007年(平成19年) 9月5日〜7日 台風第9号
2009年(平成21年) 10月7日〜8日 台風第18号
2010年(平成22年) 9月8日 台風第9号
2012年(平成24年) 6月 台風第4号(上陸)
2012年(平成24年) 9月 台風第17号(上陸)
2013年(平成25年) 9月 台風第18号(上陸)
2014年(平成26年) 7月 台風第11号(上陸)
2014年(平成26年) 9月 台風第8号(上陸)
2014年(平成26年) 9月 台風第18号(上陸)
2014年(平成26年) 9月 台風第19号(上陸)
2016年(平成28年) 8月 台風第7号(上陸)
2016年(平成28年) 8月 台風第9号(上陸)
2016年(平成28年) 8月 台風第10号(上陸)
2017年(平成29年) 7月 台風第 3号(上陸)
2017年(平成29年) 7月 台風第 5号(上陸)
2017年(平成29年) 8月 台風第15号(接近)
2017年(平成29年) 9月 台風第18号(上陸)
2017年(平成29年) 10月 台風第21号(上陸)
2017年(平成29年) 10月 台風第22号(接近)

2018年(平成30年) 7月 台風第12号 神奈川接近 三重上陸
2018年(平成30年) 9月 台風第21号 徳島上陸
2018年(平成30年) 9月 台風第24号 和歌山県上陸
2019年(令和元年) 9月 台風第15号 三浦半島通過、東京湾、千葉県上陸
2019年(令和元年) 10月 台風第19号 ※伊豆半島上陸
※市内 浸水害 山がけ崩れ災害多発

「横浜の災害」「気象庁」より抜粋
戦後の横浜は毎年のように夏の水害があり、死者を含め多大な被害がありました。
上記は被害程度の大きいものを抜粋しているだけですので、さらに累積の被害を積み上げていくと更に市内の被害規模は拡大します。
横浜で戦後最大の被害は、1966年(昭和41年)に神奈川を直撃した台風4号国際名は「Kit(キット)」です。
 死者 32人、傷者 50人
 住家全壊 110棟、住家半壊 140棟
 床上浸水 9,835棟、床下浸水 35,922棟
 り災世帯 51,599世帯、り災人員 197,880人
 がけ崩れ 850箇所
※横浜市内のみの被災状況です。
市内に甚大な爪痕を残した台風です。
この被害から国・神奈川県・横浜市は緊急災害対策に乗り出し、市内各地の治水事業が行われます。
大岡川の分水路事業もこの台風4号がキッカケとなりました。

第834話 1966年(昭和41年)6月28日女性職員3人犠牲
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7790
大岡川分水路について

浸水被害だけのデータは
http://www.city.yokohama.lg.jp/doro/kasenkeikaku/menu/chisui/suigai.html
に一覧が掲載されています。

この水害史において、今日取り上げようとしている
昭和56年 7月22日の集中豪雨は、被害規模においてはそれほど甚大なものではありませんでした。
たまたま、7月22日に関する資料を探していたこともあり、この<集中豪雨>についてもう少し追いかけてみると、新しいタイプの災害の<走り?>だったのかもしれません。
昭和56年7月22日 集中豪雨
住家一部壊 7棟
床上浸水 149棟
床下浸水 413棟
り災世帯数 176世帯
り災者数 480人
がけ崩れ 4箇所
「北海道東方海上の低気圧から南西にのびる寒冷前線が能登半島付近に達していた。また、上空にはオホーツク 海方面から寒気が、南からは弱い熱帯 低気圧が運ぶ暖かな空気が入って、大 気が不安定となった。このため、神奈川県東部では前線の南下に伴い、夕刻にかけ各地で激しい雷雨となった。ま た、市内で落雷による火災が計5件発生した。最高時雨量 63mm(港北区)(横浜の災害より)」
この災害がこれまでの災害と少し異なっていたのが「落雷」による被害でした。
当時の新聞記事によれば

「東京で連続十六日間も真夏日が続くなど、うだるような暑さのなか、関東地方は二十二日夕、寒冷前線の接近で、突然雷を伴った猛烈な強い雨に襲われた。
横浜では午後五時から同六時までの一時間に六四ミリの豪雨となり、七月としては観測史上の新記録となった。」

この雷雨で「ラジオ関東」の放送が中断、羽田の全日空機が直撃を受け職員が怪我、新幹線も東京新横浜間で全面ストップし在来線もかなりダイヤがみだれます。
雷による都市機能のダメージが顕著になり始めた災害といえるのではないでしょうか。


(その他の7月22日)
1925年(大正15年)7月22日
鶴見臨港鉄道建設着工(横浜市史Ⅱ第1巻下p113)
横浜市史とはいえ他の「鶴見臨港鉄道」関連の資料から<裏>が取れないので中止しました。

Category: 【資料編】 | 【横浜をめぐる話】7月22日編異常気象 はコメントを受け付けていません
2月 23

【開港の風景】野っ原編3

横浜村を更地にして、日本人街を造成、外国人を受け入れるまでの姿、
区史、市史、明治期の開港モノなどを目下整理中で苦闘しています。
なので、ちょっと時間をワープします。
日本人として開港直後の様子を表した文献で代表的なものは「福翁自伝」だと思います。
この作品は福沢諭吉が1898年(明治31年)7月1日から1899年(明治32年)2月16日までの七ヶ月間で計67回にわたって「時事新報」に掲載したもので大変人気記事でした。
1899年(明治32年)6月15日には単行本が刊行され、今日口実筆記自伝文学の最高峰と言われています。この軽妙洒脱な文体で開港当時の様子が語られています。
少々長い引用ととなりますが勘弁ください。


英学発心
ソコデ以(もっ)て蘭学社会の相場は大抵分て先(ま)ず安心ではあったが、扨(さて)又此処に大(だい)不安心な事が生じて来た。私が江戸に来たその翌年、即(すなわち)安政六年、五国条約と云うものが発布になったので、横浜は正(まさ)しく開けた計(ばか)りの処、ソコデ私は横浜に見物に行った。
その時の横浜と云うものは外国人がチラホラ来て居るだけで、堀立小屋見たような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人が其処に住んで店を出して居る。
其処へ行て見た所が一寸とも言葉が通じない。此方の云うことも分わからなければ、彼方の云うことも勿論分らない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙も分らぬ。何を見ても私の知って居る文字と云うものはない。英語だか仏語だか一向計らない。
居留地をブラ/\歩く中うちに独逸(ドイツ)人でキニツフルと云う商人の店に打当(ぶちあた)った。その商人は独逸人でこそあれ蘭語蘭文が分る。此方(こっち)の言葉はロクに分らないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずると云うので、ソコで色々な話をしたり、一寸(ちょい)と買物をしたりして江戸に帰かえって来た。
御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行てその晩の十二時に帰たから、丁度一昼夜歩いて居た訳わけだ。
小石川に通う
横浜から帰って、私は足の疲れではない、実に落胆して仕舞った。是は/\どうも仕方がない、今まで数年の間あいだ、死物狂になって和蘭(オランダ)の書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、左(さりと)は誠に詰らぬ事をしたわいと、実に落胆して仕舞た。けれども決して落胆して居られる場合でない。彼処(あすこ)に行なわれて居る言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。所で今世界に英語の普通に行れて居ると云いうことは予かねて知って居る。何でもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んで開けかゝって居る、左(さすれ)ばこの後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければ迚とても何にも通ずることが出来ない、この後は英語を読むより外に仕方しかたがないと、横浜から帰た翌日だ、一度は落胆したが同時に又新に志を発して、夫から以来は一切万事英語と覚悟を極きめて、扨(さて)その英語を学ぶと云うことに就ついて如何どうして宜(いい)か取付端(とりつきは)がない。

引用ここまで
この文章には幾つか当時の横浜風景に関して興味深い点が書かれています。
例えば
「その時の横浜と云うものは外国人がチラホラ来て居るだけで、堀立小屋見たような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人が其処に住んで店を出して居る。」
まず、時期的にはかなり開港初期だと想像できます。
気になるのは
開港場には野原(のっぱら)が広がりそこに外国人が出店している様を日本人の福沢が「堀立小屋」だと描写している点です。レンガ作り、コロニアル洋式の建物に慣れている諸外国人が<うさぎ小屋>とでも表現するなら判ります。
横浜開港地には恐らく日本人の大工が<とりあえず>人が暮らせる程度の住宅を建てたのでしょう。都市の風景としては非常に貧弱さが感じられたのかもしれません。
とりあえず仮住まいのような家屋で
そこに不満はあったけれども商売優先で外国人側も我慢して出店したということでしょうか。

福翁自伝 福沢諭吉著作集 第12巻 慶應義塾大学出版会2003

次に気になったのが
「居留地をブラ/\歩く中うちに独逸(ドイツ)人でキニツフルと云う商人の店に打当(ぶちあた)った。その商人は独逸人でこそあれ蘭語蘭文が分る。」
福沢が大変な思いをして学んだ外国語は阿蘭陀語でした。ところがそこにはイギリス人やアメリカ人の店が多く、ようやく言葉(オランダ語)の通じる外国人に出会った。
ところが彼はドイツ人だったという点です。
この二点を軸に次回居留地最初の商館を開設したあるドイツ人について少し展開してみたいと思います。
一つ前【開港の風景】野っ原編2へ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=13389

【開港の風景】野っ原編1へ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=13387

2月 23

【開港の風景】野っ原編2

前回ようやく開港の舞台となった横浜村の一角の話に入るところまで来ました。
開港直前の横浜村から開港場が作られていく<様>をいろいろな資料から描いていこうと考え、進めてきました。
ところがどっこい、さらっとサマライズできなくなってしまいました。
ここに2点の画像を紹介し、少しお時間をいただきます。

一点目は
樋畑翁輔「ペリー献上電信機実験当時の写生画」


 ペリーが再来航し、横浜村で外交交渉を行った最終段階で、
ペリーが用意してきた当時の最先端技術を日本側に紹介します。

樋畑翁輔「ペリー献上電信機実験当時の写生画」

皇帝(将軍)宛:
4分の1縮小蒸気車模型とレール、電信機と長さ3マイルの電線及びガタパーチャ電線、銅製フランシス救命艇、銅製ボート、農業器具、オーデュボン鳥類図鑑、ニューヨーク州博物誌、議会年報、ニューヨーク州法典、ニューヨーク州議会誌、灯台報告書、バンクロフト米国史、農業指導書、米国沿海測量図、モリス工学書、銀装飾衣料箱、8ヤード大幅高級深紅色羅紗、8ヤード大幅深紅色ベルベット、米国標準ヤード尺、同ガロン枡、同ブッシェル枡、同天秤と分銅、マデイラ・ワイン、ウィスキー、シャンペン・シェリー酒・マラシーノ酒、茶、州地図とリソグラフ、スタンド付き望遠鏡、鉄板製ストーブ、香水類、ホール・ライフル銃、メイナード・マスケット銃、騎兵刀、砲手刀、カービン銃、陸軍ピストル、ニューヨーク州立図書館・郵便局カタログ、錠付き郵便袋。

御台様宛:
花模様刺繍ドレス、金色化粧箱、香水類。
 ※sewing machine(ミシン)

林大学頭宛:
オーデュボン獣類図鑑、4ヤード大幅高級深紅色羅紗、時計、ストーブ、ライフル銃、陶製茶器セット、6連発ピストルと火薬、香水類、ウィスキー、刀剣、茶、シャンペン。

伊勢守宛:
銅製救命ボート、ケンドール著述のメキシコ戦争とリップリー著述のメキシコ戦争史、シャンペン、茶、ウィスキー、時計、ストーブ、ライフル銃、刀剣、6連発ピストルと火薬、香水類、4ヤード大幅高級深紅色羅紗。

これだけではありませんがとりあえず主なものを紹介しておきます。
このときに目の前で実験を行って日本側を驚かせたのが汽車と電信機でした。
掲載の画像は「ペリー献上電信機実験当時の写生画」はその時の様子を絵にしたものです。
横浜村の一帯を使って通信実験は海岸沿いに仮設された応接場と、そこから約1㎞内陸に位置した”中山吉左衛門”という名主の居宅のあいだで行われたと記録されています。
スケッチ図では
耕作地のあいだを縫うように電信柱が設置され海岸へと達しています。通信実験の両拠点を結ぶ電信線もしっかり描かれています。
電信ですので、電源はどうだったのか?
当時の電池をしっかり持ってきたようです。電解液を入れた瓶に銅板と亜鉛版を挿入し、異なる腐食の性質を使って+-両極に帯電させて電流を流すという電気分解の基本的な仕組みのものと判明しています。
絵には
左側隅中山家の屋敷のところに小倉藩、右側中央あぜ道に松代藩の記述があります。
沖にはペリー艦隊9隻の姿も確認できます。
写生図の上にコメント※が記されていますが、内容から作者の樋畑翁輔ではないことが分かります。恐らく彼の息子の樋畑雪湖ではないかと推測されていますが、確定しておりません。
※「嘉永七年二月(西暦一八五四年)横浜邑米国使節応接場ヨリ洲干弁天境内吉右衛門[ママ:筆者註]居宅間ニ電線ヲ架シ幕府ニ贈リタル二座ノ電信機ヲ据付実験シタル当時ノ写生図ナリ因ニ云フ応接所ハ今ノ税関附近ニシテ洲干弁天ノ位置ハ航路標識管理所ノ辺ナリト云フ」

開港直前の横浜村の様子

もう一点の絵図は、これとは異なる時期、もう少し前の橫濱村の様子を描いた幾つかの絵図をもとに作成したものです。ここから
横濱村の名主で素封家と称された中山家が確認できます。
「横濱成功名誉鑑」によれば開港当時弁天横に本宅があった中山沖右衛門は代々その名を継いでいて九代目は明治に入り実業界で活躍「元町貯蓄銀行」の頭取を努めます。

横濱成功名鑑 より

居留地整備に伴い本牧に移り、何代目か不明ですが、鉄道・切符研究ならびにコレクターとして有名だったそうです。市電研究の第一人者だった歯科医師の長谷川弘和さんはこの中山沖右衛門さんの影響を強く受けたと語っていらっしゃいます。

今回は少し横道に逸れました。追って 開港場ができていく様をレポートしたいと思います。(つづく)

2月 23

【開港の風景】野っ原編1

このシリーズを書いてみようと思った出発点は開港のために造成した野っ原あたりのことを知りたいと思ったことに始まります。

幕府がペリーとの交渉で「神奈川開港」を約束してから実際には横浜を提案しアメリカを筆頭に各国の外交官と居留地をどこにするか揉めたことはご存知のことと思います。

安政五カ国条約神奈川
建前は「神奈川湊」でしたが、
実際は日米交渉を行った「横浜村」に決定しました。
外交は内政でもあります。諸外国同士の関係と国内の関係が絡み合いながら、外交交渉は決着を求めます。
米国として来航したペリーと初めての国との外交交渉、周辺国と比較しても上々の出来だったのではないでしょうか。開港条件の結果評価に関しては別のテーブルにしましょう。
さて
交渉の結果、横浜村には決まったけれど、長らく外国人との交渉経験が長崎出島程度だった幕府の役人にとって新しく外国人居留地をどう作っていったのか?
この<横浜村に開港場ができていくプロセスを知りたい>と思い文献を探りましたが簡単にまとまったものは探し出すことができませんでした。 今も断片を探っている途中です。
手元にある資料で判った範囲を追いかけてみたいと思います。
第一回冒頭でも書きましたが、横浜村の人々は突然の命令にかなりびっくりしたと思います。ただ、1854年(嘉永7年)にペリーが再来した際、横浜村のど真ん中「駒形」が交渉場になりました。現在の開港広場、開港記念会館あたりです。
ペリー艦隊の休憩所や宿泊所も村内に準備しました。
この時、横浜村の人々は、間近で<異国人>との出会いを経験しています。
「この村を外国人と日本人の新しい開港場とする!」という後の命令にもワンクッションあったので、寝耳に水では無かったでしょう。でも大事ではありました。

■ハイネの横浜
ペリーが再来港し開港交渉が行われました。この様子は幾つか絵図や記録が残っているのである程度想像することができます。
艦隊に随行したドイツ人ハイネが描いた横浜村駒形でも<日米交渉の絵図>はあまりにも有名です。この一枚の絵図からも様々な当時の様子を読み解くことができます。

その前に1点
ペリー再来港が早くなった理由をwikipediaでは

「1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航した。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので幕府は大いに焦った。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのである。ここにペリーの外交手腕を見て取ることもできる。」

この解説には歴史的根拠がありません。ペリー悪玉論の恣意的な記事だと私は考えます。
現在定説となっているのが<ロシア艦隊の来航>があったため、交渉を急いだ説です。
私もこの説を支持します。
多くの研究者が長いロシアとアメリカの関係からペリー一行が急いだ点を指摘しています。
この時のロシア対日担当はプチャーチンでした。
実はロシアは対日外交に関しては江戸中期ごろから着実に交渉を重ねていました。
ラクスマン、レザノフが日本とおこなってきた中身の濃い交渉の歴史があり、レザノフに至ってはアメリカとの深い因縁もあり、ペリーは相当焦りを感じていたと推測できます。
ペリーとほぼ同時に来航したプチャーチンは日本を知るシーボルトの進言にしたがって、江戸は目指さず、日本のルールに従い長崎に向かいます。
帝国としての外交プロトコルを大切にしたのです。
ペリーに遅れること1ヵ月半後の1853年8月22日(嘉永6年7月18日)に長崎に入港し、江戸から幕府の全権が到着するのを待つ間にロシアの国運を変えたクリミア戦争が勃発し、一時期日本を離れ中国に向かうという空白はありましたが、事態が落ち着いた時点で再び長崎に戻り交渉を始めます。
この時の幕府全権は幕末幕府外交の先頭に立った「川路聖謨(かわじ としあきら)」「筒井政憲(つつい まさのり)」で最強コンビと言っても良い組み合わせでした。
プチャーチンとは計6回に渡り開港に関する交渉を行いますが、合意に達しませんでした。
(しっかりコミュニケーションはとった)上での交渉決裂でしたが、
ペリーは中国に滞在中でロシア日本訪問の情報を手に入れます。ある資料では、ロシアからの協力依頼があったという記述もありました。
当時、ロシア帝国にとって日本は未知・未開の小国で、アメリカは新参者・若輩国の意識で、ペリー艦隊の行動力と交渉力を甘く見ていたところがあったようです。
ペリーは帝国ロシアの先を急いだようです。
長くなってしまいました。
この先は次回に分割します。いよいよ 開港場整備に迫ります。

2月 23

【開港の風景】前史編4

本編となる開港ドタバタ風景までもう少々お付き合いください。
 <である>調より<ですます>が良い!というメッセージいただきました。
読み返してみるとちょっと硬く感じるので 文体変えます!
■野毛の自立
現在大岡川河口近くにある野毛村は、元々戸部村の一部の小さな集落でした。江戸も後期に入る文政年間(1818年〜1829年)の頃には野毛浦一帯は人口も増え事実上戸部村から独立(自立)していたようです。
戸部村は広く、中央部を東西に戸塚あたりまで丘陵が連なっていました。
北側には戸部本村(現在の西区役所から藤棚あたり)
山を越えた南側が野毛浦地区で、村の性格が異なっていたようです。
戸部村北部袖ヶ浦側では水田が少なくほぼ塩田活用が行われていました。
山を越えた南の野毛側では新田完成で大きく変わりますが、元々から<舟役>という漁や水運など船を使った生業(なりわい)の届けが出されていて幕府への税金も野毛が独自に収めていた(自立していた)ようです。
その背景には前回も書きましたが保土ケ谷宿の繁盛と1667年寛文七年に完成した「吉田新田」による経済的変化でした。

■新田誕生
あらためて吉田新田の役割に少し触れます。
西に深く広く入り込んでいた野毛の「入海」は
北側岸には野毛・太田の集落、
南側岸には横浜・石川、中村の集落が点在していました。
この入海が「新田」に置き換ることで、経済構造が大きく変化します。
入海時代が小規模な製塩と沿岸漁業中心でした。新田完成で稲作、畑作によって収穫が非常に伸びたことは入海漁業を失った野毛にとっても大変化でした。
米(収穫)だけではなく、人もモノも動くようになったのです。漁業も入海から近海漁業となり漁獲内容も大きく変化しました。
さらに新田は副次的効果を生み出します。
新田のあぜ道を通して対岸だった村々の往来・交流が始まります。
新田開発者である吉田家は敢えてこの新田堤の”往来を増やす”ことを意図したと推測できます。少し長くなりますがその理由を解説します。
広さ約35万坪(1,155,000m2)にも及ぶ吉田新田は、約十一年の時間を使って上流から干拓事業を進めました。大岡川河口を分流して、入海の岸に沿って水路(運河)を確保し南側を中村川、北側を大岡川本流としながら囲むように新田造成を行いました。
河口域の水田開発に欠かせないのが真水の確保です。
稲作では決して混じってはならないのが塩水です。河口域の干拓の難しさはここにあります。塩水を防御しながら、河川の氾濫にも土手が崩れないようにしっかりとした護岸維持が必要でした。
河口域の干拓は真水を新田下部に流し込むことで、塩抜きをしていきます。
お三の宮のある新田てっぺんから川の水を(大堰)から引き込み溜池にプールします。
そして当時中川と呼ばれた新田の中央部を流れる灌漑用水路から左右、南北の畦で仕切った田圃に水を供給していきます。引き潮時には大岡川・中村川に設置した堰から水を引き込むこともありました。水田に浸透した用水は最終的に<悪水溜め>と呼ばれた一ツ目沼に流れ込むようになっていました。
水量のコントロールは新田内にくまなく配置されていた水門によって行われました。
 大岡川下流域は干満の差が大きく現在も弘明寺近くまで汽水域になっています。
この干満を利用して水量の調整を行いました。干潮時に外海へ沼の水を排水し水位を下げます。水位の下がった<悪水池>には上流から水田を潤した水が流れ込む用になっていました。
江戸期の水田経営はすでに加肥農業でした。糞尿や雑魚を発酵されたものも使われ水質管理も水田管理の柱でした。
一方、災害・大雨による水田決壊は水田経営で一番恐れられた事態で、土手の保全が最大課題の一つでした。吉田新田も完成後、増水により何回か大決壊を経験していました。

■人普請
災害で囲いが決壊すると最悪一ツ目沼と田畑間を仕切る土手(内突堤)に圧力がかかり新田崩壊となってしまいます。内突堤は新田を守る重要な役割を果たしていました。
これが現在の「長者町通り」です。江戸期には「八丁畷」と呼ばれていました。

古来から人が歩いて土地を踏み固めることを活用した造成法がありました。人普請です。
一ツ目沼のと間を仕切る土手を踏み固めるためにも「八丁畷」の往来を増やせば一石二鳥!
ということで、横浜村の鎮守様洲干弁天社詣を観光資源として活用しよう!
これは私の仮説ですが、姥岩、弁天様を物見遊山コースに仕立てたのではないでしょうか。
幕末期、この洲干弁天社周りの管理は入念なものでした。単に横浜村の鎮守だけではなく、多くの参拝客を受け入れた結果ではないでしょうか。
これは外国人スケッチからも想像がつきます。
開港直後にスイスの使節団代表として日本を訪れたエメ・アンベール達が残した記録に洲干弁天の姿がスケッチとして記録されています。
外国人も驚く品質で洲干弁天が維持されてきた背景には、広域の人々の力でこの社が維持されてきたことを物語っているように思います。