風景というと、辞書的には<見える様>といった説明になりますが、もう少し心象的な意味合いでつかわれることが多くなりました。文字通り「心象風景」は有様を想像する作業です。
サウンドスケープ(音の風景)は、しっかり研究領域として広がりを見せています。
今回はちょっと「時間」、時の風景に分け入ってみましょう。
私達は 近年<時>を見て確認することが多くなりました。
あるローカル線の際に住む友人は、引っ越してきた当初は雑音だった列車の通過音が今は時計代わりになっている、と語っていましたが、時を表す音は減ってきているようです。
ラジオの時報も一昔ほど有用ではないかもしれません。
見る<時>が増えましたが、公園や床屋、街なかにあった「公衆時計」は激減しています。
時の風景にも時代を感じることができます。
<時の時代風景>
横浜はいち早く開港によって居留地が登場しました。隣接して日本人の街が作られ、諸外国との取引や、港に降り立つ人々向けのビジネスが<おそらく>見様見真似、試行錯誤の中で始まります。
居留地で日本人が遭遇した数々のカルチャーギャップの中で、
「時」に関してはどうだったのだろう?と簡単ですが資料を探ってみました。
まず暦の違いが日本人と外国人との間で早急に確認し合う必要がありました。商売に暦は必須条件です。荷物の調達から流通、納品等のカレンダーは当然必要になってきます。
江戸の暦は明治5年12月2日まで使われ(西暦1872年12月31日)次の日が明治6年1月1日((西暦1873年1月1日)と揃いますが、旧暦としては一ヶ月消えてしまったことになります。
一説によれば、国家予算逼迫で、年度予算を一ヶ月切り詰める効果も狙っていたとか。
幕末の文書ではしっかり旧暦西暦を併記したものもあり、しっかり併用していたことが伺えます。
暦同様、日常の時間も江戸と近代では異なりました。
落語の<時そば>にも登場する江戸の時間は、欧米とは異なり、夜明けから日没までを均等割(単位は一刻)していくという一見面倒な方法(不定時法)を使っていました。
昼の長い夏と、夜の長い冬とでは<一刻(いっとき)>が異なったのです。
でも農業や外の仕事としては実に理にかなっていて、明るい内に働くという大原則で生活リズムが決まっていました。
ところが欧米各国は太陽暦の基で一日を均等割する<定時法>を用いていましたので、開港場となった横浜はおそらくいち早くこの時間を取り入れたに違いありません。
幕末から日本を訪れた外国人の日誌などにも詳細な欧米時間で記載されていて、時間のギャップに関して記述しているものは私が調べた限りですが、見当たりませんでした。
面会時間などはどうやって調整したのか?詳しく記述された資料が欲しいです。
今でこそ、スマホや腕時計で、またテレビやラジオで時刻を手軽に知ることができます。
19世紀、時計はとても高級で、一般生活では使うことが難しかった。
では人々はどうして時刻を知ったのか?
日本では、江戸期から時の鐘といって、城、役所、寺などを使って鐘を鳴らすことで一般生活の時を知らせていました。この習慣は、開港後も明治時代でも使われていました。
明治に始まった廃仏毀釈の嵐の中で、寺は消えたが鐘だけ残ったというお寺の話も全国に数多く残っています。
街の人々は、新しい時刻制度となっても 耳で聞いてそれなりに慣れ、対応していったのではないでしょうか。
明治に入って、国の制度が大きく変わり、社会生活も変化を余儀なくされていきました。
明治時代の「時の風景」は、
見る時間と聞く時間に変化が起こります。
横浜を中心に「時の風景」を探してみました。
□時の鐘
仕組みは江戸期と同じで 和梵鐘を撞くことで音を出し時を知らせました。
音は広域に時を知らせることができますから、開港場には町会所や野毛に報時用の鐘が用意されました。恐らく、山手に多かった教会群からもチャペルの鐘が定時に聞こえたのではないでしょうか。
開港記念会館の時の鐘だった和梵鐘に関しては関連ブログ(下記リンク)でも触れていますが、調査レポートとしてもまとめているところです。
□時計台
明治に入って新しく生活に登場した<時間>です。<塔>に時計を設置した洋館が建つようになります。横浜ではブリジエンス設計の町会所にスイス製の時計が設置されました。
その後、弁天通りには「河北時計店」が自社ビルに時計塔を設置し地域のランドマークとなります。
□報時球
時刻を知らせる<球>が横浜にはありました。これは国内で横浜と神戸だけに設置され、見て確認できる時刻でした。
横浜では、海岸通りの<仏蘭西波止場>の位置にあり、港湾内の船に独特の方法で時刻を知らせました。港付近ではこの報時球の塔がひときわ目立つランドマークとなっていました。
関連ブログ
「時」の風景(更新)