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横浜の歴史にざくっと関心をもって15年です。本腰をいれて学び始めて5年となりますが、学べば学ぶほどに深くなっていきます。 Y2345というキーワードを作りました。1923年〜1945年までの横浜を軸に「横浜史」を乱学しています。 史実に出会ったら、できるだけ現在の地を訪れるよう努力しています。

第989話【運河物語】派大岡川

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横浜の運河を追いかけています。
今回は「派大岡川運河」です。
大岡川と中村川を結び、吉田新田誕生と同時に誕生し昭和48年に消えた運河です。
明治45年関内地図
吉田新田図(幕末)
上図は、幕末開港直前の吉田新田付近です。横浜村がペリーとの交渉場所となり、その後開港場がここに誕生します。太田屋新田ができるまで、「派大岡川」ではなく中村川河口の入江でした。それが、開港場となり治水と居留地出島化の役目をもって中村川が山手に沿って延長開削され「堀川」運河が登場します。
これによって、本来なら埋め立ててしまったほうが交通上は大変便利ですが、出島条件の方が優先され、また、当時の水運は物流に欠かせませんでした。
「派大岡川」として水路、運河は温存されることになります。
大岡川下流域運河群の中で、意外に思われるかもしれませんが、過去の橋の長さの記録や写真などから「派大岡川」が最も川幅があったことが判ります。(後述) [橋梁群]
派大岡川には最大時で7つの橋が架かっていました。
明治45年西ノ橋付近横浜電気鉄道予定線
0:<謎の橋>明治45年の地図に掲載。横浜製鉄所のあった倉庫群につながる軌道鉄道が西ノ橋近くの<派大岡川>に設置される予定でしたが、計画で終わります。 1:吉浜橋※
 吉浜町と小田原町を結ぶ橋です。
 関外エリアにあった石炭倉庫(幕末に横浜製鉄所→石川島播磨)に渡る橋でした。
吉浜橋から横浜電気鉄道
派大岡川と吉浜橋
2:花園橋
 薩摩町通りと扇町通りを結ぶ橋です。
 この橋の親柱は現在港中学校校門移設されています。
花園橋親柱
3:港橋※
 関内駅脇に架かっていた港橋通りと不老町を結ぶ橋です。
 派大岡川に架かっていた橋の片辺の欄干が唯一残っています。
市役所と派大岡川
派大岡川港橋
4:豊国橋
 港町と蓬莱町を結ぶ橋です。明治30年に弓形をした三連ピントラス橋が架かっていました。
 豊国橋横に吉田川運河が合流し蓬莱橋が架かっていました。 5:羽衣橋※
 震災後に架橋されたもので現在は羽衣架道橋として国道16号線の橋梁として使用されています。
  6:吉田橋※
 吉田橋は関連記事を多く書いています。
 第942話【謎解き】吉田橋広場
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11269
 【横浜の橋】№3 横浜を語るなら吉田橋を知れ
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8106
 No.698 【横浜 橋物語】幻の橋?、吉田橋。
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6265
 【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5814
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5816
 【しりとり横浜巡り】6月10日(火)吉田橋
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=4934
7:柳橋
 かつて大岡川の十字路があった場所です。港町六丁目と柳町を繋ぐ橋です。橋近くの岸には<柳>が多くあったようです。現在はちょうど橋のあたりが横断歩道となっています。
大岡川十字路付近(柳橋・都橋)
[消えた運河]
現在、派大岡川は首都高速道路用地となって運河は完全に消えてしまいました。
1960年代には国鉄根岸線が延伸し派大岡川に橋脚が埋め込まれ、運河の上に関内駅が開設され、市役所と横浜球場の玄関として多くの乗降客で賑わっています。現在も根岸線高架部分は<高架橋>ではなく<橋梁>のプレートが残っています。
間もなく市役所移転で、関内駅の様子も大きく変わっていくでしょう。
※印は現在なんらかの形で痕跡が残っている橋梁(横断道)です。
この中で、最も知名度がある橋は「吉田橋」ですが残念ながら昔の姿からは想像もできません。 [舞台]
派大岡川が舞台となった映画の一つが「わが恋の旅路」です。劇場公開1961年(昭和36年)5月16日で、監督 篠田正浩、曽野綾子の「わが恋の墓標」を元に寺山修司と篠田が脚本化した恋愛映画です。キャストは岩下志麻、川津祐介、月丘夢路 他
1960年から61年にロケを行っているので、派大岡川に根岸線の橋脚工事が始まっていたり、港橋、吉田橋、吉浜橋にある横浜中央病院、吉田町商店街の川沿い風景がたっぷり出てきます。
主役の二人が出会う派大岡川岸の喫茶店や、大岡川を使った運河生活の風景が登場します。
第900話【舞台としての横浜】わが恋の旅路
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10161 [運河幅]
派大岡川の特徴の一つに、広い川幅があります。
大岡川運河群の中でも最大級の幅でした。運河群の川幅はどのように推定したかといえば、昔の橋梁スペックから推定してみました。
吉田橋:40.22m
吉浜橋:46.7m
柳 橋:51.5m
豊国橋:42.75m
このデータから 派大岡川の川幅は40mくらいとしました。吉田橋は橋脚部分がせり出しているために短い構造のため、他の橋より短くなっていると思われます。
終戦時焼け跡
以上のように、派大岡川は開港場が発展する時代から今日まで、関内外の重要な運河でした。今は消えてしまった橋梁のなごりを探しながら当時の姿を想像するのも楽しいものです。

第988話【横浜真景一覧絵図比較】 その2

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明治期に発行された鳥瞰図マップの傑作「横浜真景一覧絵図」から当時の風景を比較します。
今回は建築物です。
明治25年版と35年版からトピックスを幾つか探し出しました。
明治25年版・明治35年版比較
[横浜税関]
この絵図の海岸中心部には桟橋(象の鼻)とそこに明治期の日本を支えた貿易を司る”税関”が鎮座しています。これが二代目横浜税関庁舎です。
当時の最先端建築物の代表格で
1885年(明治18年)11月に竣工、日本大通り正面に建ち、国家を支える威厳を表していました。
竣工間近の鉄桟橋と横浜税関
1923年(大正12年)の関東大震災で崩壊し、
新しい”税関”建設が計画され1934年(昭和9年)隣接地に「3代目横浜税関庁舎」が完成し現在に至っています。
<絵図>で描かれた税関庁舎は当時の横浜絵葉書の素材にも多く選ばれています。
絵葉書を参考に絵図を確認すると、中央に六角形の塔をもつ左右対称の煉瓦造り2階建て庁舎であることが判ります。
エピソード
税関は絵葉書で、良く観察すると左右対称ですが若干違いがあることが判ります。
おわかりですか?
左右の揃った切妻屋根に煙突が出ていますが、屋根の煙突本数が異なっています。
最初に出会った横浜税関絵葉書
最初に出会った横浜税関絵葉書 二代目横浜税関
その後入手した税関絵葉書を見て、何か不自然さを感じました。
<左右が逆>つまり<逆版>になっていることが判りました。
二代目横浜税関
二代目横浜税関(逆版)
どこで判ったのか?
 大正期まで電柱は、道路を挟んで電信用と電力用が別々でした。それぞれ電信柱(でんしんばしら)・電力柱(でんりょくちゅう)と呼びます。
二種類の絵葉書、電柱の位置が逆、
左右対称の建造物ですので、当時の原版はガラス乾板でしたので<逆版>がたまにあります。
問題は 二版の風景、どちらが正版かということです。
 文献写真等から判断すれば簡単!でも資料そのものが逆版であるという可能性も隠しきれません。この風景の左右を証明できる確証がないか? [逆版証明]
横浜税関風景写真、どちらが逆版なのか。
2つの左証が見つかりました。
・税関から横浜公園に続く”日本大通り”風景→電柱分類
・税関前のポスター→文字で判る
日本大通り風景。税関から横浜公園方向。向かって右側に電信、左が電力
税関前日露戦争勝利祝賀ポスター
ということで、正しい横浜税関の姿がわかりました。
※少々絵図からは逸れました。 [仏蘭西波止場]
現在の大桟橋に対し元町堀川寄りに小さな桟橋がありました。一般的には「仏蘭西波止場」と呼ばれました。
幕末明治期の<桟橋>名称も若干混乱の種です。
25年版では「西波止場」とあります。
35年版では「仏露西波止場」と表記、この仏露西 他でも見かけることがあります。
でも
“西波止場”は仏蘭西の西
“仏露西”は仏蘭西の誤植だと思います。
 深く追いかけません。追求は別の機会に。
英吉利波止場
[指路教会]
明治25年版と35年版にこそ時間経過が判る場所の一つを発見しました。尾上町通りにある指路教会です。
■指路教会は横浜居住地39番に設立され
1892年(明治25年)に現在の位置に移転しました。
明治25年版に描かれる時は、塗(ヌリ)で隠されていましたが
尾上町通、ヌリあり湊六丁目
明治35年尾上町通り、指路教会。横須賀航路出船所も確認
明治35年版では教会の姿が描かれています。
これが資料によると初代の教会で、関東大震災で倒壊し、その後再建されますが横浜大空襲で内部が消失し再度再建という歴史を刻んでいます。
この35年版に描かれている”指路教会”がどの程度正確なのか? 指路教会のHPに小さな写真が掲載されていました。
指路教会の写っている絵葉書を探してみました。尾上町通りの路面電車時代(横浜電気鉄道)の風景がありました。
横浜電気鉄道株式会社は
1904年(明治37年)から1921年( 大正10年)まで運行しその後、横浜市電気局(市電)となりました。
明治35年版と絵葉書、若干向きと構造が異なりますが、
塔と教会が判ります。
尾上町通と大江橋
尾上町通と大江橋
明治25年版では
 この場所がヌリで消されているようにも思えます。
 指路教会が建つ前の風景が書き込まれていましたが、その後教会建設が始まったために修正されたと解釈できないでしょうか。
日本人街と外国人街で異なる町並み
[絵図の町並み]
絵図には平屋と二階建ての建造物中心に町並みが描かれています。
二階建建造物などは、当時の様子をある程度反映していたと思われます。
外国人居留地では二階建て構造が多く
日本人街では平屋が多いことが見えてきます。
さらに軽量的に観察すると色々なことが見えてくるのではないでしょうか。
→(宿題です)

第987話【運河物語】桜川

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横浜の運河を追いかけています。
【真景絵図】シリーズの合間に運河を入れます。

今回は桜川運河です。
桜川は現在の横浜中心市街地を支えた運河群の一つで大岡川と帷子川を繋ぐ約2kmの運河でした。
1870年(明治3年)に誕生し翌1871年(明治4年)には「桜木川」と呼ばれましたがその後「桜川」となりました。この「桜川」、
河川史関係の資料では1954年(昭和29年)に消滅したことになっています。
開港資料館の<消滅した8つの運河>では桜川も消えた運河の一つとして紹介されています。
ただ”正確”には現在もしっかりと”桜川”は存在しています。(後述)
桜木川から桜川に名称変更された年代が特定できなかったのでここではすべて「桜川」と表現しておきます。
消えた部分の桜川は現在「新横浜通り」になり、地下には市営地下鉄が走っています。海側にはかつて造船所だった場所が「みなとみらいエリア」に変貌し、ここが運河であったことを全く感じることはありません。バス停や信号機、路地に一部名残を残すのみです。
旧桜川、紅葉橋付近
明治3年ごろ内田清七埋め立て用地
[桜川誕生]
桜川は、鉄道を敷設するために埋立工事を行った土地の”用水路”として誕生しました。
明治維新早々、横浜と新橋(汐留)の間に鉄道計画が持ち上がります。
品川から神奈川まではなんとか敷設できそうでしたが、問題は海や沼に敷設するという課題でした。
明治21年頃、鉄道用地
品川・新橋間には沼地が広がり
神奈川から開港場までは「帷子川」河口の入海・「野毛浦」の山が障害でした。
鉄道黎明期の歴史書では最大の難関だった帷子川河口域を埋め立てた高島嘉右衛門の功績が必ず採り上げられています。もう一人、現在の桜木町駅周辺の敷地を造成したのは内田清七という人物です。その名に因んで鉄道敷地の大半が「内田町」となっていました。しかし、彼の名は時間が流れるに従い消えつつあります。
残念なことです。
内田清七は、切り立った野毛浦沖を埋立てて広い鉄道用地を完成させます。この埋め立てた敷地と野毛の山からの排水路として運河を整備したのが「桜川」です。
横浜沿革誌明治3年5月

※『横濱沿革誌』
「明治三年(庚午)五月。吉田橋脇ヨリ入船町野毛浦迄埋立竣功、之ヲ新街道ト云。受負人真砂町(京屋)内田清七、入船町ヨリ野毛浦埋立地地固メノ為メ、葭簀張納涼茶屋、其他軽業・辻講釈、昔噺等ノ興行ヲ神奈川県裁判所二出願、許可ヲ得テ興行ス、而シテ其土地ノ潤沢景況ヲ輝サンガ為、烟火百数本、仕掛数個ヲ打揚ゲヲ出願シ、野毛浦海岸ニ於テ施行ヲ許サル、故二六月二十一日の夜、船数隻ヲ浮べ、鍵屋製ノ煙火百数本、仕掛数個ヲ打上ゲ、横浜川開キの創始ヲ催しシタリ、爾来、納涼遊歩者日々群ヲ成シ、麦湯店ノ流行殆ンド埋立地ノ過半ヲ占ムルニ至レリ」
この時に、”大江橋の橋台・柱石建設工事開始(内田清七請負)”も行い、大江橋竣工(明治5年)にも深く関わっています。
「京屋内田清七が請け負って埋め立てた所で、明治5年に内田町字1丁目から12丁目までを新設した。明治20年に内田町字3丁目から5丁目までの片側を長住町とし、内田町は字1丁目から8丁目までとなる。町名は埋立者の姓「内田」を採った。町は飛地状となっている。(中区)」
<余談>
この横浜沿革誌に書かれている内容は当時の土木事業を知る重要な鍵が隠されています。
“地固メノ為メ”にイベント(興行)を行い”土地ノ潤沢景況ヲ輝サンガ為”人よって土地を踏み固めるという手法を用いています。
地固メ手法は江戸期からさかんに行われ、戦前横浜川崎の海岸線埋立事業でも人を集めて踏み固めた記録が多く残っています。 [双十字路]
桜川には大きな特徴があります。
大岡川と帷子川を結ぶ運河で接続部が当初両方共”運河十字路”でした!
・大岡川十字水路
桜川・大岡川十字路
現在は桜川と派大岡川が埋め立てられています。 ・石崎川十字水路
石崎川・桜川十字水路
現在は桜川と石崎川下流が埋め立てられ、変則的に曲がり帷子川に繋がっています。
石崎川は大岡川支流の中村川のように、河口の無い川です。
(消えた石崎川河口)
冒頭に桜川は消滅していない!と紹介しました通り、桜川は現在も残されています。
平成8年桜川・石崎川
[因縁 横浜駅]
桜川大岡川口には初代横浜駅(現桜木町駅)があり、
初代横浜駅
桜川石崎川口には二代目横浜駅(現在遺構のみ)があります。
二代目横浜駅
[桜川の橋]
大岡川から桜川に架かっていた橋は
錦橋
緑橋
瓦斯橋
紅葉橋
雪見橋
花咲橋
このあたりから時代を経て変化します。
明治10年代は「大平橋」が架かっていて、石崎川に合流します。
その後、平沼新田造成が進み、
横浜駅が高島町に移設されることで石崎川の架橋状況が変わりました。
また地図で推理する限り、桜川が「二代目横浜駅」を避けるために流れを変え、より石崎川上流側に合流地点が移ります。
大平橋→戸部橋・櫻橋→石崎川に合流
石崎川に架かる橋
西平沼橋
梅香崎橋
石崎橋
<桜川合流>
高島橋
(富士見橋)埋立廃止
→<石崎川十字水路>が無くなります。
桜川の下流部が石崎川下流域になり
材木橋
(不明)浅山橋か?
<帷子川合流>
万里橋
築地橋
大正2年桜川
新横浜通り(桜川)
まだまだ桜川近辺の歴史も含めると色々な歴史ドラマが隠されています。
今回はこのくらいにしておきましょう。
桜川関連マイブログ
第873話 【絵葉書の風景】駅前劇場
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9465
※ちょっとお宝話 第977話【横浜の道】国道16号線
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12004
新横浜通り
第960話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第五話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11695
桜川B橋
第891話【横浜の橋】A B 橋
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9936

第986話【横浜真景一覧絵図比較】 その1

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前回から25年版・35年版を比較し10年間を探ってみました。
おさらい
<一目見ての大変化>
 海岸通り部分の埋立
 大桟橋の完成
 富士見川運河が消滅
前回の
第985話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第六話で簡単に紹介しました。
【横浜真景一覧絵図】明治25年版・明治35年版比較
【横浜真景一覧絵図横浜簡単年表】
1887年(明治20年)
 野毛山に県営水道完成、野毛山貯水場から市街への常時給水開始。
 ※trivia 最初は神奈川県営水道だったんですね。日本最初の近代水道。
1889年(明治22年)
  4月1日 横浜に市制(人口116,193人・面積5.40 km2)。
※現在の80分の1の広さでした。初代市長は増田知。
1890年(明治23年)
 2月1日 横浜貿易新聞 創刊。
 ※神奈川新聞のルーツです。
 横浜ー東京間で電話交換開始。
1890年(明治23年)
 水道が市営になる。
1890年(明治23年)
横浜共同電灯会社が初めて電灯を点火する。
1891年(明治24年)
十全医院が市営になる。
1892年(明治25年)
ガス局が市営になる。
鉄桟橋工事着工。
※25年版発行
1894年(明治27年)
 伊勢佐木・石川・山手の3消防組ができる。
 横浜港鉄桟橋(現在の大さん橋)完成。
 横浜蚕糸外四品取引所設立。
1895年(明治28年)
 生糸検査所 設立
 横浜商業会議所(横浜商法会議所の後身)が設立される。
1896年(明治29年)
 第1期築港工事竣工
 新吉田川開削、富士見川埋立工事竣工。
1899年(明治32年)
 条約改正で居留地が撤廃。
1900年(明治33年)
 1月22日新港埠頭工事着手。
1901年(明治34年)
 第1次市域拡張(人口299,202人・面積24.80km2)。
 久良岐郡戸太町、本牧村、中村、根岸村、橘樹郡神奈川町、保土ケ谷町の一部編入
1902年(明治35年)
 3月15日 日本郵船会社横浜支店新築落成。
 8月5日 横浜・横須賀間定期航路2往復から3往復に増便。
 12月10日 大江橋架橋工事竣工。開橋式。
※35年版発行
M25版 西之橋近くの謎の橋
M35版 西之橋近くの謎の橋が消えた。石炭庫周辺の路も整備されている様子がわかります
<変化場所>
 ・幻の石川町橋
 第890話【横濱の風景】西之橋からみる風景
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9927
・千秋橋の登場
 第950話 【大岡川】千秋橋の謎
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11440
ここでは長者町の土手が明治35年版では「千秋橋」となっています。
明治25年版 日之出川と吉田川合流地点にある<長者町の土手>
明治35年版 長者町の土手が千秋橋に架かっています
・35年版には日ノ出川の橋梁と中村川・日ノ出川・吉田川に船影が
※25年版 日之出川には橋梁が3つ架かり「日ノ出橋」のみ名が表示
※35年版 日之出川から一つ橋が消え、位置も変わり「扇橋」となっています。
  日之出川は、その後中村川との合流地点に「松影橋」架かります。
  これは 真金遊郭の整備を含めた長者・寿・永楽・千年・三吉周辺の大きな区画整理の結果で道路が変わったためでしょうか。
明治25年 日之出川
明治35年 日之出川に架かる橋。扇橋が新たに別の場所に架かっています。
日之出川 扇町川岸。川岸には石屋があり、長い板塀の屋敷が確認できます。
※25年版には描かれていなかった船影が運河に描かれるようになっています。
  ※25年版で描かれたパーツをコピペした感じですが、運河の賑わい・変化を感じます。
・大岡川の黄金橋
 ※25年版 小金橋
 ※35年版 黄金橋
  25年版は書き間違いか、聞き間違いかもしれません。
25年版 小金橋
35年版 黄金橋に。水路が消滅し街区に変化しています。
次回は 当時の建物を比較してみます。

第985話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第六話

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今回から数回に分け、尾崎富五郎の描いた二版の鳥瞰図を元に(十年間の)変化を読み解くことにします。
この「横浜真景一覧絵図」徹底研究シリーズは今回で第6回目となります。
明治25年版
明治35年版
第1回から第5回までのシリーズで基本資料としたのが
「横浜真景一覧絵図」1892年(明治25年)版です。
第956話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第一話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11569
今回はこの25年版を改定した10年後の明治35年版を元に2つの絵図を比較し町の変化を観ることにします。
間違い探しみたいです
(開港場膨張)
25年版(1892年)から35年版(1902年)までの10年間は「横浜関内エリア」が大きく変化した時期にあたります。
特に変化したのが、湾岸部と大岡川の運河群です。
明治25年版
明治35年版
<湾岸部>日本波止場から
  大波止場(英吉利大波止場)まで
 海岸通り沿いにある製鉄所・日本郵船の本社先が埋立てられています。また、開港後暫定的に作られた突堤<象の鼻>から桟橋が伸びています。
25年版が出版されるころに桟橋計画が持ち上がりました。暫定桟橋計画も進められますが間に合わず本格的な港湾施設が必要となり<横浜港全体の築港計画>が計画されました。
すでに活躍していたオランダの技師提案と英国人技師提案が競う形になり最終的に英国人パーマーに依頼します。
象の鼻
波止場名が英吉利大波止場となっています
<大岡川運河>
 運河部を見ると、25年版(1892年)では富士見川(運河)が完成していますが、35年版(1902年)版は1896年(明治29年)に埋め立てられていたので図上からは消滅しています。
1872年(明治5年)〜1873年(明治6年)に日ノ出川が開削され、堀割川も完成しました。中村川・大岡川・吉田川に航路が開通し運河が水上交通として有効活用され始めた時期にあたります。
元来、関外を形成する吉田新田エリアは干拓によって開発された「田畑」でした。
農地から宅地へと変化する中で、関外エリアは市街化のために<下水問題>を含め多くの課題を解決していくインフラ整備が求められます。
上部の運河が日ノ出川、下の運河が富士見川。上下に流れるのが左:新吉田川 右:中村川
富士見川が無くなり土地区画整理が行われています
1886年(明治19年)富士見川開削完了
 ところが 排水状態が悪く、
1896年(明治29年)には埋め立てられ富士見川消滅。
 上流から整備が進んでいた「新吉田川」が完成。
1897年(明治30年)に(新)吉田川のバイパス運河「新富士見川」が完成。
ほぼ 大岡川運河群が整備完了。戦後まで関内外を支えてきた運河群が誕生します。 (過去【横浜真景一覧絵図】ブログ
第956話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第一話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11569
■都市鳥瞰図
第957話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第二話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11580
■大岡川弁天橋付近
第958話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第三話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11596
初代横浜駅前の様子
第959話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第四話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11607
「運河」の町横浜
第960話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第五話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11695
横浜真景一覧絵図に見る「橋梁」 ■25年版(1892年)・35年版(1902年)比較
 35年版は25年版を基本にしています。作者の気になった部分のみ修正されています。船のカタチ、位置は全く変更されていないものも多くあります。
だからこそ 変更されている部分に着目してみる価値あり!
ということでザクっと比較てみました。
 道路の修正は入念に行われているようです。
<一目見ての大変化>
 海岸通り部分の埋立
 大桟橋の完成
 富士見川運河が消滅
ここまで今回紹介しました。

<部分変化>
 幻の石川町橋
 日ノ出川の橋梁
 中村川・日ノ出川・吉田川に船影
 千秋橋の登場
 長者・寿・永楽・千年・三吉周辺の区画整理
 真金遊郭の整備
 長島・若葉・末吉周辺の区画変化
 大岡川の黄金橋
 戸太村周辺の傾斜地が宅地化
 横須賀出船所
明治25年版 富士見川が描かれています
明治35年版 船が描かれています。千秋橋が完成しています。
次回から 変化した部分に少しこだわってみます。

番外編【資料としての絵葉書】横浜駅

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※自分用を兼ね簡単に整理した横浜駅の基本情報をアップします。
■三回引っ越した横浜駅
横浜基本情報の定番の一つが【さまよえる横浜駅】です。
ペリーが横浜の応接所に上陸し様々な当時の最先端テクノロジーを紹介しました。
中でも<機関車>の紹介は臨場した幕府関係者を驚かせました。
小さい線路を敷いて模型の機関車を走らせたそうです。
その後、明治に入り本格的に鉄道敷設の段階に入り、さしあたって利用頻度の高い横浜と東京を結ぶ区間の鉄道敷設が決まりました。単純に横浜と築地の居留地間を結ぶニーズが外国人に強かったこともあります。
大岡川の河口、野毛浦を埋め立てて駅用地を確保し駅舎を作りました。これが初代の横浜駅(現在の桜木町)です。
第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9341 その後横浜駅は二回(計三回)場所を移しました。
1872年(明治5年)初代横浜駅
初代横浜駅〜初代新橋駅が開通
初代横浜駅前
初代横浜駅前
※初代の駅舎は新橋駅と同じ形のペアの建物でした。
第849話 横浜・新橋、横浜が先?
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9006
2代目 1915年(大正4年)
二代目横浜駅
〔所在地〕 横浜市西区高島2-1
初代横浜駅は町名に因んで「桜木町」に変更し現在に至ります。
二代目横浜駅のある高島町と初代横浜駅だった桜木町の間の線路は<電車専用>の線路になり[根岸線]の原型となります。
二代目横浜駅
桜木町駅・二代目横浜駅 間の風景。当時の乗り物一覧の意味合いが見えます。
1923年(大正12年)に起こった関東大震災で消失します。
被災した二代目横浜駅
しばらく 仮設駅での運用になりますが、
1928年(昭和3年)に
3代目横浜駅が完成し現在に至ります。
三代目横浜駅が決まるには紆余曲折あったようです。
平沼橋駅を横浜駅とするプランもありました。既に神奈川駅(現在の京急神奈川駅付近)がありましたので、神奈川駅をどうするかも重要な課題でした。
最終的には現在の場所に決定し、東急東横線、京急本線、相鉄線の私鉄三社と国鉄<東海道・横須賀・根岸線(京浜東北線)が駅舎を共にする最も利用路線の多い駅になりました。
※少し離れた場所に私鉄ターミナルのある大阪梅田や新宿、渋谷等はありますが現在の相互乗り入れとなる前は横浜が唯一でした。
三代目横浜駅
三代目横浜駅
<掲載絵葉書は個人蔵ですので禁無断転載です>
桜木町駅

第984話【一枚の絵葉書から】珈琲牛乳

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企業年賀はがき「横浜駅待合室ミルクスタンド」

これは昭和5年の年賀ハガキです。
横浜市中区紅葉ケ丘三号
学務部長殿
とあります。
ここに記された宛名の「学務部長」は
神奈川県学務部長 九鬼三郎と推測しましたが、確証ありません。
 戦前の学務部長は公立学校の事務方トップで、学校運営に関して県内の最高責任者として多くの管理監督を行っていたようです。
差出人が
横浜駅待合室 ミルクスタンドとなっています。
「迅速 安価な 御食事
 奉仕的な 栄養御飲物」
昭和初期の横浜駅待合室となれば、現在より重要施設で 学校関係者が利用することも多かったのかもしれません。
絵柄面から意外な情報がわかりましたので紹介しておきます。

三代目横浜駅東口

小唄 ハート節
萎縮 悲観を跳ねとばし
笑和 五歳の
春の駒 春の駒
オヤ 守山の
馬い うまゐゾ
ハート型
赤い戀路の ハート型
ハートだ ハートだ ハートだネ

日本一を目指すために富士山の絵柄をバックに 乳製品・飴類が並んでいます。
コンブ飴・ゴルフ(チョコか?)・守山キャラメル・珈琲牛乳・グリコ牛乳・アポロ・ Cherries MILK・Cherries CREAM(エバポレート ミルク=練乳)

平塚本社

ここに商品が並ぶメーカーは「守山」は現在もしっかり乳製品を製造販売している守山乳業株式会社でした。
本社は平塚市宮の前9‐32
沿革を戦前期だけ一覧化してみました。
1918年(大正7年)1月9日創立
 神奈川県中郡高部屋村日向にて「甲子(きのえね)商会製酪所」を創業 創業者 守山謙
1920年(大正9年)
 神奈川県平塚市に工場を新設(現本社、平塚工場地)
1923年(大正12年)4月20日
 日本で初めてのビン入り珈琲牛乳を東海道線国府津駅
 駅弁販売店・東華軒にて販売開始

この珈琲牛乳販売を開始した日を記念して、現在4月20日は「珈琲牛乳の日」となっています。
「創業者の守山謙が東京の商店にバターを納品しに出かけた際、住田商会・初代社長の住田多次郎さんが偶然同じ商店にコーヒーを売り込みに来ていました。住田社長はハワイへ移民しており、ハワイのコーヒー豆を東京の商社へ売り込みをしている最中でした。明治時代からコーヒーは飲まれていましたが、一般的にはあまりなじみのないもので、日本にコーヒーを広めようとする男と、乳製品を広めようとする男の運命的な出会いでした。
 住田社長は、ハワイではコーヒーにクリームを入れて飲むこともあると守山に教え、コーヒーを日本で広める方法を考えてほしいと、コーヒー豆を守山へ託しました。
 守山は早速家に持ち帰り、コーヒーにクリームの代わりに牛乳を混ぜてみました。コーヒーと牛乳が半々の割合になったとき、コーヒーの苦みと牛乳の甘さが程よくマッチし、いままでに飲んだことのないようなおいしい飲料が出来上がりました。さらに奥さんのアドバイスで砂糖を入れるとおいしさは増し、守山はコーヒー牛乳の商品化を計画することを決めました。」

(駅弁東華軒)
駅弁は駅単位に販売権が決まっていましたが現在はどうでしょうか。
東海道神奈川県内でいえば、
川崎駅・横浜駅・戸塚駅→崎陽軒
大船駅・藤沢駅・辻堂駅・茅ヶ崎駅・平塚駅→大船軒
大磯駅(昔)・二宮駅(なし)・国府津駅(外)・鴨宮駅(なし)・小田原駅〜熱海駅→東華軒
東華軒は1888年(明治21年)創業の東海道駅弁会社の中でも老舗中の老舗です。
本社は小田原ですが、駅弁の始まりは国府津駅でした。

少し横浜からは離れましたが 駅売りから発展したブランドの紹介でした。
本日は これまで。

第983話【横浜路上観察】バス停考古学

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路上観察の愉しみ方は街の片隅に残されている<記憶>を探ることにあります。
暗渠・マンホールは川と街の関係を知る<標(しるし)>です。
文字系の街の記憶の代表は<バス停><電柱プレート><道標>です。
今回は「バス停考古学」を紹介しましょう。
「考古学」とは若干オーバーですが、マチナカで街の記憶に出会う最高の<標(しるし)>です。
[バス停解読法]
路線運行バス会社によってフォームは異なりますが、
フルスペック!のバス停解読法を紹介しましょう。

情報満載のバス停

 ・停留所名と読み方(ふりがな、欧文)
 ・次のバス停名。
 ・路線バス会社名
→共同使用もあれば、会社ごとにバス停を分けているケースもあります。
 さらには会社でバス停名が微妙に異なるものもあり不思議です。
 
 ・簡単な路線図(行先案內)

■会社の事情?
同じ場所なのに営業会社でバス停名が異なるところを探してみました。
市営36系統途中に「道路碑前」
相鉄バスでは「道路碑」でした。
バス会社の事情なのか?
→会社違いバス停はなぜか「横浜線」沿線のバス停名に多い!のです。
「十日市場駅(神奈中)」「十日市場駅前」
「中山駅(神奈中・東急)」「中山駅前」
「長津田駅(神奈中・東急)」「長津田駅前」
「小机駅(東急・相鉄)」「小机駅前」
「新横浜駅」「新横浜駅前(神奈中・市営)」

「泉谷寺前(東急・市営)」「泉谷寺入口(相鉄)」
「屏風浦駅」「屏風浦駅前(神奈中)」
「駒岡」「駒岡十字路(東急・臨港)」
「綱島駅前」「綱島駅(東急・臨港)」

→その他「前」「入口」の表記も多いバス停名の一つですが会社でバス停名が異なるのは珍しいですね。
「鶴ケ峰駅前」「鶴ヶ峰駅前(相鉄)」これ最高です!
 横浜市営は鶴ケ峰表記の大きいケ、相鉄は鶴ヶ峰表記の小さいケと分けて使っています。(2018年夏現在)
「鶴ヶ峰小前」「鶴小前(相鉄)」

「港北年金事務所前」「港北年金事務所入口(臨港)」
「稲荷通」「稲荷り(神奈中)」
「山内中(東急)」「山内中前(小田急)」
「桐蔭学園(小田急)」「桐蔭学園前(東急)」
「ストアー前(京急)」「汐見台ストアー前」
市内のバス停をすべて確認したわけではありません。
他に
気になったバス停を幾つか紹介します。
まず、横浜市内で一番長い文字数のバス停は何処に?
その前に「一文字バス停」を
「浜」超レトロ<浜マーケット>のある磯子区にあります。
「峰」山中にある<峰>です。大岡川水源地近くです。
「西」都筑区にあります。「東」「南」「北」は見つかっていません。
「境」緑区の分水嶺頂上にあります。まさに村境だったなごりではないでしょうか。
「原(港南区)」「表(戸塚区)」「島(神奈中青葉区)」
以上7つが”まち歩き”で見つけた一文字バス停です。

かつては区役所前で賑わった「浜」

では一番長い!名前は何処かと これまでのバス停写真とマップを捜索したところ
10文字程度の長い名前が結構ありました。
特にカタカナバス停は長いものが多いようです。
※まず直感で一番はこれか!
新山下・ダイワコーポレーション前(16文字)
と思っていました。
ところがもっと長いバス停を時折通過していたことにガックリ
いつも散歩していた「国際橋・カップヌードルミュージアム前」(18文字)があるではないですか。

では一番長い!名前は何処かと これまでのバス停写真とマップを捜索したところ
10文字程度の長い名前が結構ありました。
特にカタカナバス停は長いものが多いようです。
※まず直感で一番はこれか!
新山下・ダイワコーポレーション前(16文字)
と思っていました。
ところがもっと長いバス停を時折通過していたことにガックリ
いつも散歩していた「国際橋・カップヌードルミュージアム前」(18文字)があるではないですか。

今の所 ここが一番長いバス停です。
前段が長くなりました。
では本題の「バス停考古学」
現在無いものがバス停にだけ残されているケースが市内に多数あります。
簡単に判るのが無くなった、暗渠化した川に架かる「橋」の名です。

西区「雪見橋」「花咲橋」
南区「横浜橋」「阪東橋」「千歳橋」
磯子区「芦名橋」「聖天橋」
語れば一つの物語になるのが
磯子にある「温室前」です。もちろん現在「温室」はありません。磯子の歴史を紐解くと戦前、昭和10年ごろから現在の磯子区栗木に温室が作られ、販売・輸出用の花が作られました。戦後宅地化に伴い温室は無くなりますが「温室前」は撤廃されること無く使い続けられています。
 磯子は花卉園芸が盛んに行われました。その歴史は幕末にまでさかのぼります。開港後の日本から輸出されたのは絹やお茶が主力、有名でしたが「ユリの花」も外国人の虜となり百合=リリイの生産地となったのが磯子です。

近くに温室がありそう

鶴見区「新興駅前」
このバス停はJR貨物線の駅が国鉄時代の1934年(昭和9年)に鶴見の海岸線工場地帯に開通し分割民営後の2010年(平成22年)に無くなってしまった駅名がバス停と交差点名にそのまま残っています。

鶴見区「自動車鋳物前」
 鶴見の自動車工場群の歴史を物語るバス停です。鶴見市場近くにあった自動車工場の関連企業がかつてあった名残です。現在は運送会社の物量センターとなっています。

保土ケ谷区「遊園地前」
 近くに小さな公園があります。遊園地がそのことを指すのか、かつて遊園地があったのか不明です。
 
ダブルバス停
103系統の本牧車庫行きには同じバス停名が2つ並んでいます。
「本牧市民公園前」の次も「本牧市民公園前」で、実際乗車すると一ヶ所しか使われていません。行先案內版にも二箇所掲示されている理由を知りたいところです。

同じバス停名が連なる不思議

[不思議な名前]
金沢区「イガイ根公園前」
意外ね!ではなく「貽貝根」のイガイです。貽貝の意味!調べてみましょう。
市営294系統 金沢区並木にあります。この場所ならではの命名です。

難読バス停
バス停には難読、読みが難しいバス停もあります。
■下車ケ谷(かしゃげと)
環状2号線のバス路線には道は新しくバス停名は中世の名が残っています。
馬洗橋、永作、そして下車ケ谷。さらには日限地蔵入口、水田
「下車ケ谷」は市内屈指の難読バス停でしょう。

■内路(うつろ)
普通は(うちろ)でしょう。ここでは(うつろ)と読み、古くからあった地名で、交通の重要な十字路となっています。

No.702 【横浜バスめぐり】バス停に見る街の記憶
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6380

ざくっとバス停名をめぐる話でした。別な機会にそれぞれの背景に迫ってみることにします。

第982話+【帷子川の橋】その2

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更新準備中です。現在下書き段階ですが、とりあえずアップです。

<中流から下流域 橋梁名のみで失礼>
※源流から河口域まで踏破しました。写真は略します。
鶴ケ峰駅周辺は目下激変エリアです。相鉄線がなんと!
 東急に繋がります。
 戦争直後、横浜駅で東急とつながっていたら、相鉄も大きく変わっていたでしょうね。
 いち早く東急桜木町駅は撤廃して、県央に東急連結とは なりませんでしたが
今回、相鉄がJRの貨物線ルートの一部を使って東急線に入ります。
綱島でも大規模な再開発工事が始まっています。

昭和初期の鶴ケ峰、中央にポツンと鶴ケ峰駅が、東西には水道道。


鶴ケ峰は帷子川大改修が行われました。大きく曲がっていた川の流れをトンネルでショートカット。横浜市内では最も<大胆な>河川工事が行われました。
[本流]鶴峰橋~水道橋~(鶴ヶ峰橋)~鶴舞橋~白根橋~中根橋~用賀下橋~嶋越橋~<中堀川合流>〜愛宕橋~ふれあい橋~下中田橋~中田橋~上逆田橋~逆田橋~
<くぬぎ台川合流>〜耕地橋~学校橋
※帷子川には「学校橋」が2つあります。おなじ川に同名の橋が架かっているのは珍しい。
<菅田川合流>〜鷲山橋~新橋~かるがも橋(相鉄線下)(東海道新幹線下)~(川島高架橋)~
<新井川合流>〜川島橋~稲荷橋~両郡人道橋〜両郡橋~光栄橋~宮崎人道橋〜宮崎橋~(宮崎跨線橋)和田跨線人道橋~和田橋(環状2号)(橋銘板ナシ)~平和橋~星和橋~川田橋~(すみれウォーク)〜宮川橋~宮川人道橋〜星川橋~星川橋人道橋〜星川下橋~柳橋人道橋(上下)〜柳橋~常盤橋(横浜新道下)(水道道)~愛染橋~古町橋~帷子橋~天王橋~
<今井川合流>
上流は省略します。
かつてはここから下流は深い入海で海岸線でした。
[本流]水道橋~尾張屋橋~<石崎川分流>
[新田間川分流]烏帽子田橋~藤江橋〜藤江人道橋〜霜下橋〜霜下人道橋〜浅岡橋〜岡野橋〜新田間橋〜一之橋人道橋〜一之橋〜<幸川>内海橋〜内海人道橋〜幸川橋〜南幸橋〜幸橋〜<本流へ>
沼野橋(環状1号)(八王子街道)(新田間川上)~平岡橋~(平沼一之橋)~元平沼橋~平沼橋~<幸川合流>〜万里橋~築地橋~はまみらいウォーク~みなとみらい大橋
[新田間川分流]<帷子川分水路合流>〜二ノ橋〜北幸橋〜西鶴屋橋〜鶴屋橋〜(JR・京急)〜月見橋〜金港橋〜人道橋〜<本流へ>

第982話【帷子川の橋】

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前回に続き帷子川について紹介します。

帷子川源流から鶴ケ峰まで

帷子川橋梁を源流域から一覧化してみました。
これ結構大変でした。地図ではつかめない情報もあり現地調査は欠かせませんでした。
帷子川は長さ17kmの短い二級河川です。横浜市域では大岡川と同様に源流を横浜市内に持っています。
[源流]帷子川の源流は何処か?
そもそも<源流>とは?
本流の最上流の部分を<headwaters>源流としますが、都市化された近郊河川では定義が難しいようです。
河川には多くの支流があり、小さな支流が集まって本流へと合流を繰り返しながら、河口へと向かっていきます。本流は河川の長さや流量が大のほうを指すそうですが、源流域の造成等によって本流の判断がしにくいからです。
帷子川の場合、
「横浜市内西部旭区上川井地先、若葉台あたりの丘陵地に水源を発している」となっていました。

源流から上川井橋まで
帷子川源流
源流らしきもの

源流〜(上川井親水遊歩道)〜<暗渠化>〜①会館橋〜②大貫橋〜<堀谷戸川と合流>
帷子川は<源流>に近い場所に「源流」ゾーンを人工的に作っています。周囲にはより高い丘陵地がありもっと奥に源流があると思われますが、<見切って>源流としたのでしょう。
源流から親水公園が作られ、川の流れを確認できますが、途中から暗渠化します。
川は小河川が合流し水量を増していきます。帷子川上流域で源流に近い(河川名のある)最初に小河川が「堀谷戸川」です。堀谷戸川は現在の程ヶ谷カントリー周辺に源流がありますが、ここでは省略しました。
[堀谷戸川]源流〜(程ヶ谷カントリー)〜中井橋〜<合流>

源流近くには「若葉台」の住宅街が立ち並んでいます

堀谷戸川と本流が合流するあたりは独特の地勢です。
[本流]<堀谷戸川合流>~③日向根橋~④学校橋(改修中)~<小河川合流>〜⑤上川井橋(国道16号)

途中から暗渠化
①会館橋(上川井町内会館)
②大貫橋
水位を判断するスケール

~⑥徒橋(野境道路)〜⑦明神橋(人道橋)~⑧五反田橋(人道橋)~⑨国道五反田橋a)〜⑩大栗橋~⑪(国道)川井橋~⑫三家橋~
⑬吹上橋(新設※)~国道下川井橋a)~⑭下川井橋(新設※)~(私設橋)〜⑮御殿橋(中原街道)~
a)国道と市道は同橋名が架かっています
※河川改修後新設

⑯都岡橋〜<合流>〜
[矢指川]清池橋〜旭高橋〜下矢橋〜桜橋〜(矢指橋)<合流>〜b宮下橋〜c新開橋〜d耕地橋〜
[本流]⑰今宿南橋~<合流>〜⑱日影橋~⑲団地橋~⑳用地橋~㉑今宿新橋~㉒清来寺橋~㉓(高山人道橋)〜㉔高山橋~㉕今宿東橋〜㉖越巻橋~㉗公園橋~㉘今川人道橋~㉙今川親水橋~㉚今川橋~(二俣川合流)(鶴ケ峰)

元帷子川整備中
これが昔の曲がりくねった帷子川
新しく直線化した帷子川に新しく架橋した⑬吹上橋を望む
明神橋付近