幕末よく使う年表
嘉永6年 | 6月3日 | 1853年7月8日 | マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)、4隻編成艦隊(内蒸気船2隻)を率いて浦賀に来航、6月12日に日本を離れる。(黒船来航) |
嘉永6年 | 6月22日 | 1853年7月27日 | 十二代将軍徳川家慶、死去。 |
嘉永6年 | 7月1日 | 1853年8月5日 | 老中阿部正弘、(黒船来航に関し)大名・幕臣に広く意見を求め大胆な人材登用を行う。このとき提出された勝麟太郎の海防意見書を大久保忠寛が目にとめて、阿部に推挙する。 |
嘉永6年 | 7月18日 | 1853年8月22日 | プチャーチン、4隻からなる艦隊(内小型蒸気船1隻)を率いて長崎に来航、10月23日まで滞在。 |
嘉永6年 | 8月6日 | 1853年9月8日 | 幕府、砲術家高島秋帆の禁固を解き、韮山代官江川英龍(通称太郎左衛門)の配下に置く。 |
嘉永6年 | 8月15日 | 1853年9月17日 | 幕府、大砲50門の鋳造を佐賀藩に要請。 |
嘉永6年 | 8月24日 | 1853年9月26日 | 幕府、江川英龍の指揮のもと、品川沖台場の築造を始める。 |
嘉永6年 | 9月15日 | 1853年10月17日 | 大船建造の禁が廃止される。それに先立ち洋式帆走軍艦昇平丸(薩摩藩)、旭日丸(水戸藩)、鳳凰丸(浦賀奉行)の建造が開始されている。 |
嘉永6年 | 11月7日 | 1853年12月23日 | 幕府、米国より戻っていたジョン万次郎を旗本格として登用、中濱の苗字を与える。 |
嘉永6年 | 11月23日 | 1853年12月23日 | 徳川家定、十三代将軍に就任。 |
嘉永6年 | 12月5日 | 1854年1月3日 | プチャーチン、再来航。翌嘉永7年1月8日まで滞在 |
嘉永7年 | 1月16日 | 1854年2月13日 | ペリーが再来航し横浜で交渉が始まる。 |
嘉永7年 | 3月3日 | 1854年3月31日 | 日米和親条約調印(下田と箱館が開港) |
嘉永7年 | 7月9日 | 1854年8月2日 | 島津斉彬、徳川斉昭らの進言によって、「日の丸」の幟を日本惣船印とする事を決定する |
嘉永7年 | 8月23日 | 1854年10月14日 | 日英和親条約調印(長崎と箱館を英国に開放) |
嘉永7年 | 9月21日 | 1854年11月11日 | 幕府、オランダに蒸気軍艦2隻(咸臨丸及び朝陽丸)を発注 |
嘉永7年 | 10月14日 | 1854年12月13日 | プチャーチン、再び下田に来航。11月4日、地震のため、乗艦ディアナ号が大破、後に沈没 |
嘉永7年 | 11月27日 | 1855年1月15日 | 内裏炎上、地震、黒船来航などの災異のため安政に改元 |
嘉永7年 | 12月21日 | 1855年2月7日 | 日露和親条約調印(千島列島の択捉島と得撫島の国境線確定) |
安政2年 | 3月22日 | 1855年5月8日 | プチャーチン、ディアナ号の代艦ヘダ(戸田)号(後に量産され君沢形)で日本を離れる。 |
安政2年 | 6月9日 | 1855年7月22日 | 長崎にオランダ軍艦スムービング号来航(艦長ペルス・ライケン)、幕府に寄贈され、日本最初の蒸気軍艦となる(後に観光丸と改称) |
安政2年 | 6月19日 | 1855年8月1日 | 幕府、江戸湯島大小砲鋳立場で洋式小銃の鋳造を開始。 |
安政2年 | 6月29日 | 1855年8月11日 | 幕府、諸大名・旗本に洋式銃の訓練を命じる。 |
安政2年 | 8月23日 | 1855年10月3日 | 薩摩藩、江戸の薩摩藩邸前の海で、初の国産蒸気船雲行丸の試運転に成功。 |
安政2年 | 10月2日 | 1855年11月11日 | 安政の大地震。江戸で死者4,000人余。復旧事業費用等のため幕府の財政悪化の一因となる。 |
安政2年 | 10月9日 | 1855年11月18日 | 阿部正弘、堀田正睦に老中首座を譲る。 |
安政2年 | 10月14日 | 1855年11月23日 | 幕府、旗本・諸藩士・庶民の蝦夷地移住開拓を許可。 |
安政2年 | 10月24日 | 1855年12月3日 | 幕府、ペルス・ライケンらオランダ海軍軍人を教官とし、長崎に海軍伝習所を設立。 |
安政2年 | 12月23日 | 1856年1月30日 | 日蘭和親条約調印(長崎におけるオランダ人の行動の自由) |
安政3年 | 4月13日 | 1856年5月16日 | 幕府、築地に講武所を開設。幕臣およびその子弟に剣術の他、洋式調練・砲術などを教授。 |
安政3年 | 7月21日 | 1856年8月21日 | ハリス、米総領事として下田に到着。 |
安政3年 | 12月18日 | 1857年1月13日 | 徳川家定、島津斉彬(一橋派)の養女篤子と婚儀。 |
安政4年 | 4月11日 | 1857年5月4日 | 幕府、築地の講武所内に軍艦操練所を設立。長崎海軍伝習所の一期生が教授となる。 |
安政4年 | 5月26日 | 1857年6月17日 | 日米和親条約を修補する全9箇条の下田協約が締結 |
安政4年 | 8月5日 | 1857年9月22日 | オランダで建造された咸臨丸(最初の新造蒸気軍艦)、長崎に到着。 |
安政4年 | 8月23日 | 1857年10月10日 | 咸臨丸で来日したヘンドリック・ハルデスの指導で長崎製鉄所の建設始まる。 |
安政4年 | 10月21日 | 1857年12月7日 | ハリス、江戸城にて将軍家定に謁見し国書を渡す。 |
安政4年 | 12月11日 | 1858年1月25日 | 日米修好通商条約交渉開始。 |
安政5年 | 2月5日 | 1858年3月19日 | 老中堀田正睦、日米修好通商条約の勅許を得るために入京。 |
安政5年 | 3月12日 | 1858年4月25日 | 岩倉具視等攘夷派公家88人、条約勅許への反対を表明し座り込み(廷臣八十八卿列参事件)。 |
安政5年 | 3月20日 | 1858年5月3日 | 孝明天皇、条約勅許を拒否。 |
安政5年 | 4月23日 | 1858年6月4日 | 南紀派の井伊直弼、大老に就任。 |
安政5年 | 5月1日 | 1858年6月11日 | 井伊直弼、将軍継嗣は徳川慶福(後の家茂)と老中に言い渡す。 |
安政5年 | 6月19日 | 1858年7月29日 | 日米修好通商条約調印(米に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなかった) |
安政5年 | 6月23日 | 1858年8月2日 | 堀田正睦、老中を罷免される。 |
安政5年 | 7月5日 | 1858年8月13日 | 井伊直弼、一橋派の徳川斉昭、徳川慶篤、徳川慶勝、松平慶永を隠居謹慎などに処す。安政の大獄が始まる。 |
安政5年 | 7月6日 | 1858年8月14日 | 十三代将軍徳川家定、死去。 |
安政5年 | 7月8日 | 1858年8月16日 | 幕府、海防掛を廃し、外国奉行を設置。初代5人は全員一橋派で、4人が短期間で解任。 |
安政5年 | 7月10日 | 1858年8月18日 | 日蘭修好通商条約調印 |
安政5年 | 7月11日 | 1858年8月19日 | 日露修好通商条約調印 |
安政5年 | 7月16日 | 1858年8月24日 | 島津斉彬急死。井伊への抗議のための挙兵上洛計画実現せず。 |
安政5年 | 7月18日 | 1858年8月26日 | 日英修好通商条約調印 |
安政5年 | 8月8日 | 1858年9月13日 | 朝廷、水戸藩に勅書を送る(戊午の密勅) |
安政5年 | 9月3日 | 1858年10月9日 | 日仏修好通商条約調印 (5カ国条約となる) |
安政5年 | 10月25日 | 1858年11月30日 | 徳川家茂、十四代将軍に就任 |
安政6年 | 5月26日 | 1859年6月26日 | 初代英国公使(着任時は総領事)ラザフォード・オールコック 品川に到着。6月12日批准書交換。 |
安政6年 | 6月1日 | 1859年6月30日 | 水野忠徳の策により小判の海外流出防止のため貿易専用通貨である安政二朱銀発行。しかし、ハリス、オールコックらの抗議によりわずか22日間で通用停止 |
安政6年 | 6月2日 | 1859年7月1日 | 神奈川・長崎・箱館を開港 |
安政6年 | 7月27日 | 1859年8月25日 | 日露国境策定交渉のために来日していたロシア海軍の軍人2名が殺害される。最初の外国人殺害事件 |
安政6年 | 8月10日 | 1859年9月6日 | 初代フランス公使(着任時は総領事)ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール 着任 |
安政6年 | 8月23日 | 1859年9月19日 | グラバー来日、長崎にグラバー商会設立。後に討幕派を支援し、武器や弾薬を販売 |
安政6年 | 10月27日 | 1859年11月21日 | 吉田松陰、死刑。安政の大獄の最後の処分者となる。 |