閉じる

【開港の風景】前史編2

■海の風景
東海道を江戸から下る道中、旅人は鶴見橋を渡り生麦を過ぎるあたりで海に出会います。品川沖とはこれまた趣が異なる子安濱の海岸沿いを進むと、その先に小高い「神奈川宿」の坂道が見えてきます。
目前には名所「権現山」が立ちはだかり、廻り込む中腹の道からは
対岸に入り組んだ海岸線の風景が目前に飛び込んできます。
神奈川宿のある滝ノ川河口は古くからの湊で、海岸と川岸に集落が密集し往来で賑わいをみせます。
このあたりは特に多くの版画や錦絵に描かれ、広重や国周、渓斎英泉の美人画の他絵師たちの描いた神奈川風景は見事です。
このあたりからは眼前に野毛浦、さらに奥には本牧鼻が現れ、晴れた日は遠く金沢、横須賀、三浦の海岸線を眺めることができました。
「お江戸日本橋七つ立ち(午前4時頃) 初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ」ほど早くは無いでしょうが、近場に向かうゆっくり旅であれば
日本橋・品川を発って、鶴見・生麦そして神奈川あたりでちょうど昼頃の街道風景を味わえる時間帯でしょう。
東海道長旅を目指す場合はもう少し足早になったでしょうが、野毛あたりまでの日帰りは十分に可能だったでしょう。
例えば『東海道中膝栗毛』では、弥次郎兵衛・喜多八は最初の宿は「戸塚」でした。かなりの早発ちです。季節にもよりますがおそらく川崎あたりで日ノ出を迎えていたのではないでしょうか。
■街道
1590年(天正18年8月)
徳川家康は江戸に入り、矢継ぎ早に大きな施策を幾つか断行します。
その一つが「五街道の整備」です。特に江戸から藤沢に至る戸塚宿・程ケ谷宿・神奈川宿・品川宿の整備はほぼ新規事業に近かったのは意外です。
「宿場整備」は大変な労力を必要としました。宿場は町がまず支えなければならなかったからです。
東海道の往来が賑わうに伴い、距離があった「神奈川」「品川」間に[宿場]が求められるようになります。
川崎宿が1623年(元和9年)砂子(いさご)に設けられることになりますが、川崎宿周辺の経済圏は宿場経営には向かなかったため当初は大変だったようです。
同時期、家康のインフラ政策の一つとして「二ヶ領用水」の整備によって川崎の多くの地は新田開発が進めやすくなり飛躍的に安定はしましたが、街道経済としては厳しかったようです。
現在に繋がる川崎繁栄は問屋・名主・本陣の当主を一身に兼ねた田中休愚の努力に尽きるのですが、江戸中期からは大師詣や大山講といった物見遊山的、旅の多様化という江戸期のライフスタイル変化もその後の川崎宿を支えた一つといえるでしょう。
この川崎宿が品川・神奈川間に開設されたことで東海道は日本橋からほぼ均等距離に拠点ができたことになります。これによって<参勤交代>や<お伊勢参り>などの旅人達も目的や都合に応じて旅程を計画できるようになったことは大きいでしょう。

ここに小田原宿までの宿間距離を示しておきます。

江戸日本橋〜2里(7.9km)〜品川〜2.5里(9.8km)〜川崎〜2.5里(9.8km)〜神奈川〜1里9町(4.9km)〜保土ヶ谷〜2里9町(8.8km)〜戸塚〜2里(7.9km)〜藤沢〜3.5里(13.7km)〜平塚〜27町(2.9km)〜大磯〜4里(15.7km)〜小田原

前述の通り川崎宿ができるまでは、品川・神奈川間は五里(約20km)ありました。昔の人が健脚だったとはいえ当時の人達にとっても中々の距離です。今どきのようにロードサイドに「休憩場」があった訳では無く時代劇のシーンのように道脇の<茶店>は一部に限られていたようです。
東海道下り最初の「品川宿」は本陣一、脇本陣二、旅籠は百近くあったということですからかなり大きな宿場だったと想像できます。江戸市中というより実質「品川発ち」のほうが多かったのではないでしょうか。
遊郭もあり小高い丘からは江戸湾有数の品川湊(漁場)が一望、江戸前の魚介類がここに上がる賑わい処だったようです。
この品川を発つと六郷で多摩川を渡り神奈川まではほぼ平坦で急ぐことができました。
一方、上りの人々は「神奈川宿」を出て、鶴見川を渡りいよいよ江戸入り前の仕立てを「川崎宿」「品川宿」で整えたのでしょう。
■袖ヶ浦
さて、そろそろ横濱に近づいてきました。
神奈川宿より下りは藤沢宿まで連続した起伏が続く旅程になります。
江戸の旅人にとって山坂と川渡りは最大のハードルでした。
“壁のように立ちはだかる名所旧蹟「権現山」”を過ぎると隣の程ケ谷宿までは<袖ヶ浦>を左に見ながらの1里9町(4.9km)とかなり短い旅程となります。
東海道箱根までの宿場を眺めてみると、この「神奈川・保土ケ谷間」が最も短く急ぐ人々の足もついゆっくりと岸の景色を楽しんだのではないでしょうか。
神奈川あたりから帷子川の河口域までを袖ヶ浦と呼ばれていました。対岸の千葉には現在もこの地名が残っています。千葉袖ヶ浦には弟橘媛(おとたちばなひめ)が、海中に身を投じ海神の怒りを静めたあと衣の袖が海岸に流れ着たことに由来すると伝わっています。
神奈川はどうだろうと調べてみると 袖ヶ浦
「袖の浦たまらぬ玉のくだけつつ寄せても遠く帰る浪かな」定家
「袖のうら波吹きかへす秋風に雲のうへまですずしからなむ」中務(古今集歌人伊勢の娘、中務)
 出羽の国の歌枕として良く使われています。神奈川沖とは直接関係は無さそうです。
 「出羽・羽黒信仰」も多く伝わっている東海道沿いなので、ここから来たのであれば物語はさらに膨らむのですが、確信はありません。
■程ケ谷
神奈川宿は古くより栄えた基盤として「神奈川湊」があり物流の拠点であったのに対して、程ケ谷(保土ケ谷)宿は、北に向かう追分があり南へは金沢道がある交通の要衝にありました。
東海道四番目の程ケ谷(保土ケ谷)宿は1601年(慶長6年)東海道に宿駅の制度が定められた際に、幕府公認の宿場として誕生します。1648年(慶安元年)の頃までは、現在よりも狭く保土ケ谷交差点を大きく西に曲がるあたりが中心でした。
その後現在の相鉄線天王町方向に中心地が移動しますが、全体に長く広がる宿場町として拡張し幕末まで賑わいます。
この保土ケ谷、
鎌倉時代から南へ井土ヶ谷を抜けて杉田に通じる鎌倉道が開かれていました。江戸期には春は杉田の観梅に向かう道として往来があり、季節を通しても金沢に向かう旅人の道筋でもありました。
保土ケ谷宿は幕末に別なルートとして脚光を浴びます。絹の道(八王子街道)です。
そして、南東の戸部村の丘を越える野毛浦に通じる道(程ケ谷道)も開かれます。
保土ケ谷宿で求められた物品、例えば海産物等は漁場を持つ野毛村から運ばれるようになり、保土ケ谷宿の賑わいが、野毛村その先の吉田新田周辺の集落に変化をもたらしていくことになります。
前置きが長くなりましたが 次回は開港前史の舞台野毛村に向かうことにします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください