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第958話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第三話

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初代横浜駅前の様子

「横浜真景一覧」には他のエリアとは異なり少々おざなりな描かれ方の初代横浜駅が描かれている。

初代横浜駅構内全景

横浜に初めて鉄道が開業したのは1872年6月12日(明治5年(旧暦)5月7日)のことだ。維新直後の明治2年には鉄道敷設が決定され、衣替えのように<近代化>が進んだ背景には、近世江戸期の文化・技術の奥深さがあったことを再認識しなければならない。
それでも相変わらず厳しい<攘夷思想>が渦巻く明治初期に全く経験値のない鉄道を設計・敷設・指導した英国人技師モレルに対しては改めてその偉大な成果、努力に敬意を表したい。山師の様な、詐欺まがいの外国人もいた中、優秀で正直、謙虚なモレルには感謝しかない。また彼を支えた日本人パートナー達の努力も同じく敬意を表したい。
中でも<現桜木町ネタ>的に紹介するなら、
鉄道敷設の起点となった<野毛浦地先海岸埋立地(吉田橋北詰から野毛浦.・石崎までの埋立)>は内田清七(京屋清七)の功績が大きく、彼の事業成功が無ければ、鉄道事業はこんなに早く完成していなかっただろう。高島嘉右衛門の功績が大きく紹介されている反面「内田清七」の名は鉄道発祥の地から殆ど消え去っているのは残念なことだ。大江橋も内田が請け負った歴史ある橋だ。
内田町を殆ど廃止したのは横浜町名史の汚点ではないか!
語り継ぐ人名はその功績に対し、残すのが後の人々の役割だと思う。
<吹上>
前置きが長かったが今回のテーマは、吹上。駅前の噴水に注目することにした。
この噴水も「内田清七埋地」に設置されたものだ。1891年(明治24年)に描かれた「横浜真景一覧」に登場する<初代横浜駅>前に大きな噴水がある。「吹上ゲ」と表示され、噴水脇にはガス灯らしきものが描かれているということは当時かなり珍しい噴水のライトアップも行われた証だ。
最初、地図上に発見した時「噴水か」「昔は吹上と言ったのか」という程度の認識だったが、この噴水は一体何時出来たのか?開業当初からなのか?という疑問が起こると
噴水好奇心の迷宮にはまり込んでしまった。
この噴水塔は1887年(明治20年)10月の近代水道創設を記念してつくられたものという資料があった。1887年時点では横浜市制前、神奈川県の管轄だった時期だ。
1889年(明治22年)に市制が施行され、水道事業が横浜市に移管されたのが翌年1890年(明治23年)のことだ。
ということはこの「吹上ゲ」の水源は横浜市の水道設備を経た道志の水ということだ。しかも新橋駅デザインのコピー的な評価を受けた初代横浜駅だが、駅前設計に関しては圧倒的に横浜駅のほうが素晴らしい。
新橋駅前にはこの「吹上ゲ」がない!(写真は現在の新橋駅舎レプリカ) 横浜駅は川に近く、海にも近い。そもそもの[港]に近い駅だった。
横浜駅を降り立った多くの乗客は、その開放感と潮の香りに新しい時代を感じ取ったに違いない。

横浜駅噴水

(余談)
古い噴水といえば「横浜公園の噴水」が有名だが、現在の噴水は1928年(昭和3年)関東大震災の復興事業としてつくられた?らしい。元々はブラントン設計時からだとすると1876年(明治9年)か?(資料未確認)
では噴水の歴史は?ということで調べ始めた。存外困難を極め、噴水の歴史に近づくには本格的に図書館通いが必要そうなテーマに膨張。今回は入口前の散歩にとどめておく。
■噴水(ふんすい)
池や湖などに設けられる水を噴出する装置、またはその噴出される水そのもののことである。広場や庭園、公園の装飾的設備として設けられることが多い。
日本の噴水に限り歴史的には、wikipediaを引用すると
「奈良県にある飛鳥時代の石神遺跡では、水位差を利用して水を噴出させていたと推測される須弥山像と見られる石造物と、石人像が発掘されている。石人像は異国人の風貌を持つ男女の老人が杯を持つ姿をした像であり、百済からの渡来人の技術によって制作されたものと考えられる。
日本で最古とされる噴水は兼六園の噴水で、1861年に前田斉泰が金沢城内に作らせたものである。当然、動力は使われておらず、高低差を利用した位置エネルギーのみで動いている。その他、長崎公園の噴水も装飾噴水としては古いとされる。」
ここで紹介された<長崎公園の噴水>が近代以降の最初の噴水ということらしい。
長崎諏訪神社に隣接して開園した長崎公園内に1878年(明治11年)ごろに建造された。
では横浜公園の噴水は何時か?
別な資料では
一番目がこの長崎公園
二番目が大阪箕面公園の噴水(開園は1910年(明治43年)11月1日)で
三番目が千代田区日比谷公園の噴水。1905年(明治38年)頃東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声両氏に依頼製作したもの。
ということは、1887年(明治20年)完成のこの初代横浜駅前噴水は歴史に記録されていない?
それは変だろう!さらに調べたら
1879年(明治12年)東京劇場千歳座庭園に噴水がある<絵>があった。
この辺を調べるには
「1873年(明治6年)太政官布達第16号」が深く関わっている。
噴水の歴史に関しては もう少し時間をいただくことにしたい。
(つづく)

第956話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第一話

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明治中期に描かれた地図に「横浜真景一覧」という実に見事な鳥瞰地図がある。測量による近代地図的描法が取り入れられ平面図が主流になった時期の珍しい都市鳥瞰図である。

横浜真景一覧

この地図を詳細に見ていくと様々なことが見えてくる。今回から数回に分けてこの「横浜真景一覧」を徹底分析してみたい。
■都市鳥瞰図
近代の歴史をさかのぼる有効な資料に「写真」や「地図」がある。
近世以前にはほとんど無かった領域の史料の登場である。
「写真」や「地図」、
明治期まで遡ると現存する「写真」の数は限られてくる。地図も測量技術の輸入により正確な位置関係は判るようになったが、町の姿はなかなか見えてこない。
しかも横浜は震災と戦災を経て多くの資料が失われてしまった。
ここに紹介する「横浜真景一覧」は絵図である。作図なので作者のフィルターを通してどこかを<省略>しているのだが、描かれた<ところ>と両者に注目していくと、
この「横浜真景一覧」は都市景観を探る一級史料になる。
※調べた限り横浜真景一覧の<表現>に関する研究は少数しか見当たらなかった。
もっと多くの研究が登場することを期待したい。
■「横浜真景一覧図絵」の概要
「横浜真景一覧図絵J は1891年 (明治24年)尾崎冨五郎によって描かれた銅版画である。「佐野冨」という版元として販売され大変人気を博した江戸職人の技が凝縮された絵地図の代表作といえるだろう。
尾崎富五郎は木版を使って”地図一筋”に生きた職人でこの「横浜真景一覧図絵J は最晩年の<銅版画>で「尾崎はその人生の中で,多くの横浜の絵図を手掛けている。「 横浜真景一覧図絵」までの尾崎の絵図には詳細な建造物の記載はないが,ここには詳細な建造物の様子が描かれており,開港後に浮世絵師たちが描いた横浜の絵図を回顧したようにも思われる作品である。(乙部純子)」
おそらく歩測を重ね、実地見聞を元に「風船ノ上ヨリ望シ如ク市中ノ景色名所」と書かれているように、都市鳥瞰図の傑作に仕上がっている。
横浜が開港し、居留地が形成され多くの外国人、日本人に人気があったのが横浜風錦絵だった。多くの店が立ち並び版元の「師岡屋」「金港堂」「錦誠堂」等が<江戸>から<横浜>に進出し短くも艶やかな“横浜浮世絵時代”が築かれた。
明治に入り横浜浮世絵人気も落ち着いた頃「野毛村」に店を構えたのが「佐野冨」こと錦誠堂・尾崎富五郎で、この「横浜真景一覧図絵」は冒頭でも説明したように全てが正確に描かれている訳では無く、ところどころ絵師としてのデフォルメも見られる点が興味深い。
まずどのくらいの正確さなのか、全体のスケール感を掴むためこの「横浜真景一覧」を現在の関内エリアの地図と重ねてみた。

現代と重ねた図

どうだろう、関内外の運河のスケール感はピッタリ。道路の幅や街区のズレはあるものの、概ねこの町の姿を描き出している。 おそらく当時発行されている居留地図を元にしてトレースしてからスケッチに入ったのではないか?と
当時有名な1888年(明治21年)末発行の ”The Japan Directory”をトレースして重ねてみた。地図の軸線となるだろう横浜公園を基準に運河の位置や桟橋の位置を比較したが明らかに異なるので、これを参考にしてはいないと思われる。 現在のマップとの比較では、
<関内エリア>は正確だが、関外になるとかなり方角にズレが生じているのがわかる。ただ伊勢山の描写等から関外の描写も内容に関しては丁寧に観察されていることがわかる。利用者にとって当時としてはかなり正確に感じられたのではないだろうか。
(つづく)

第952話 吉田町通物語

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昭和の記憶に開港の時代が刻み込まれている瞬間に出会う。吉田町では、店の名に<土手>をツケて呼んでいたと聞いて久しぶりに痺れた。
これこそ昭和に伝わっていた開港の記憶だ!
吉田町の大店(おおだな)だった「武蔵屋呉服店」は当時「土手のむさしや」と呼んでいたと伊勢佐木に店を移した「むさしや」の津田さんに伺った。
吉田町の店は皆<土手の〜>と呼んだとのことだが、最初は運河側の店のことだったかもしれないが、これは宿題としよう。
なぜ<土手の〜>と呼ばれていたか、ここには若干説明が必要だろう。
とにかく昔の記憶が生きていたことが素晴らしい。
結論から言えば
「吉田町は土手沿いに生まれ育った町である。」
江戸時代初期1667年に干拓事業が完成し、1669年には幕府より吉田新田の名が認められたことに始まる新田の歴史は、それまで深い入海だったこの地域の交流を深める道の誕生でもあった。半農半漁の野毛村、太田村と対岸の石川中村は、この吉田新田に橋が架かることで往来が盛んになった。
最も頻繁に利用されたのが現在の「長者橋」と「車橋」ルートで、野毛村と石川村は隣村となっていく。この人の流れは2つの村を繋ぐ現在の長者町1丁目から9丁目という町名にも現れている。
江戸時代、この道を通り石川村に出て横浜村に入り風光明媚な洲干弁天詣もさかんに行われたと想像できる。 ここに転機が訪れた。外国船から多くの異国人が降り立ち、横浜村の外れで外交交渉が行われ、この地が開港場となる。
1858年(安政5年)に日米修好通商条約が調印され、幕府は神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定め開国へと一気に舵をきることになる。
横浜は神奈川の一部なり!
と主張はしたが、東海道神奈川宿から横浜への交通は非常に不便であったことは紛れもない事実だった。そこで幕府は、東海道から開港場までの道を普請することを決める。芝生村(現在の西区浅間町)から開港予定地まで直線で繋ぐにはいくつかの架橋と峠の開削が必要だった。
工期3ヶ月の突貫工事で、架橋材は欄干に杉、杭には松を使用し人海戦術で「横浜道」が開港日直前に完成する。
・新田間橋、平沼橋(現・元平沼橋)、石崎橋(現・敷島橋)
・野毛の切通し
・野毛橋(現・都橋)、太田橋(現・吉田橋)
こうして横浜道の完成は開港の1日前だった。
実はこの工事、ピンはねで間に合わなくなり保土ケ谷宿本陣苅部家に泣きついてなんとか完成したというおまけまでついている。
この「横浜道」の完成によって、まず漁村野毛村が開港の街に変身する。
1859年(安政6年)6月4日だから開港後すぐに神奈川奉行所<奉行役所>が戸部村宮ヶ崎(西区紅葉ヶ丘、現・神奈川県立青少年センターあたり)に開設する。
太田村(現在の日ノ出町)には陣屋(警備本部)ができ野毛は役人と武士が通ういわば官庁街になった。
No.438 神奈川奉行入門

No.438 神奈川奉行入門


開港し道はできたが、開港場となる横浜村にはヒト・モノ・カネが大きく動く町普請が必要となる。
特に町普請には人と部材が集められる。
大きな荷物は船便で、小物は東海道から「横浜道」を使って開港場に搬入された。
前置きが長くなったが
この横浜開港場の町普請の要衝にあったエリアが「吉田町」だった。
当初、野毛から「野毛橋」を渡り吉田新田の端の石垣突堤堤(土手)脇道を使って「太田橋(吉田橋)」へと人とモノが流れた。
横浜にいち早く登場した商店街が「吉田町」だったと私は考える。
■幕末・明治初期の吉田町ビジネス
※資料で確認できた範囲での一覧です。
安政五年 清水組支店(清水喜助)建設業→現存
安政六年 飯田屋商店 米穀酒類販売
文久年間 小泉商店(遠州屋) 鰹節乾物
慶応二年 田中屋 茶小売業・両替業→現存
慶応三年 油屋小林商店 砂糖卸小売業
明治元年 武蔵屋 下駄小売
明治二年 武蔵屋呉服店 呉服商→移転現存
明治二年 大野屋 足袋販売
明治三年 駿河屋 新古衣類
明治三年 遠州屋(雪吹啓次郎) 新古衣類
明治四年 満利屋 人形・玩具→移転現存
明治四年 清水商店 乾物米穀問屋
明治初期 徳島屋呉服商 呉服商
明治六年 濱田屋呉服店 呉服太物卸小売
明治六年 萬屋石油米穀商 米穀油類卸小売
明治七年 伊勢屋金物店 金物販売
明治九年 山田時計店 時計金属美術商
一覧を見れば明らかなように
吉田町に拠点を構えて大成功したのが「清水組」現在の清水建設である。

<川の奥白い社屋が清水組。左手が柳橋、右側が現在の桜木町に位置する>
人が通れば商いが生まれる。現在も吉田町に店を持つ「田中商店」は幕末、この地でお茶を飲ませる商いを始め成功する。
新田が開港場のバックヤードとして変化する中、干拓地(新田)の整備が行われ、運河の町が登場する。
関内と関外を分ける運河、派大岡川と堀川の護岸整備が進み、土手の吉田町裏に柳町が誕生し、対岸には湊町が整備される。

柳町・湊町

さらには野毛浦地先に鉄道用地が内田清七によって埋め立てられ、桜木川・大岡川・派大岡川が交わる運河の十字路が誕生する。後に吉田町となる柳町はその名の通り、運河岸に柳木が植えられ、船着き場も作られ荷揚げ場として昭和まで使われることになる。 <昭和20年代の吉田町派大岡川岸。貸しボート店が賑わっていた>
吉田町の<土手>には吉田新田の土手と同時に岸辺・船便が活用された運河の街という2つの意味合いがこめられているのだろう。

第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」

第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」


第949話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」2

第949話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」2

第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」

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・横浜絵の誕生
開港後、初代イギリス公使オールコック(Rutherford Alcock)が「人の住まぬ湾のはしの沼沢から、魔法使いの杖によって、日本人商人たちが住む雑踏する街ができた」「魔法使いの杖 の一振りによって茸の生えた一寒村が一瞬にして国際港と化してしまった」
と表現した横浜は徳川幕府末期に花開いた<経済・外交特区>として誕生しました。
横浜開港の表現を”一寒村”とする<元凶>の一人がcolonialismの真っ只中に生きたオールコックですが、確かに居留地には外国人が次々と移り住み、多くの商館やホテルといった洋館が日本人の手によって建てられていきます。
この時の様子が克明に描かれたのが「横浜絵」です。この横浜絵は当時を知る資料価値としても注目されています。
・横浜浮世絵
No.401 短くも美しく

No.401 短くも美しく


外国人の風俗をモチーフとして制作され短期間に売り出された横浜浮世絵(横浜絵)はおよそ八百数十点にも及びます。

中でも私は五雲亭貞秀 作「横浜鉄橋之図」が好きです。

「横浜鉄橋之図」

■五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」(大判横6枚)
横浜絵の第一人者である五雲亭貞秀は精密で鳥瞰式の一覧図を多く描いています。下総国布佐(現千葉県我孫子市)に生まれた貞秀は初代歌川国貞の門人として錦絵を学び五雲亭、玉蘭斎の画号で多数の作品を残しました。
「貞秀の作品は他の作者にくらべて写実的であるといわれ、歴史資料としての価値も高いといわれています。(開港資料館)」
この「横浜鉄橋之図」は横浜開港のシンボルの一つで1869年(明治2年)に燈台技師ブラントンの設計によって完成した「鉄橋」と呼ばれた吉田橋を描いたものです。
この作品は翌年の明治に入って間もない1870年(明治3年)に描かれました。
開港から11年目という短時間にこれだけ整った風景が誕生し維持された当時の人々の英知に感動すら覚えます。

■甍の波
五雲亭貞秀の洋館の描写も秀逸ですが
私は日本人街の描写が好きです。珍しい洋館やメインモチーフの「鉄橋」はデフォルメしたとしても、見慣れた日本人の住宅風景は素直に描写していると感じます。
「野毛橋(都橋)」は前回のブログで紹介しました。
第947話【横浜の橋】リユース都橋(みやこばし)

第947話【横浜の橋】リユース都橋(みやこばし)


開港時に突貫工事で完成した「横浜道」で一躍脚光を浴びた野毛橋は関内外発展により架替てその名を「都橋」と改名します。
木製の太鼓橋だった明治3年「野毛橋」の様子をこの横浜絵で知ることができます。
今回、
この作品を拡大してそこに描かれた当時の風景を少し読み解いてみたいと思います。
気になった「野毛橋」あたりをクローズアップしてみました。

野毛橋あたり

・吉田橋と野毛あたり
吉田町と野毛橋の付近の絵図には
太鼓橋を渡る二頭だての馬車と
すれ違う人力車
魚を天秤棒で運ぶ魚屋らしい姿が描かれています。

吉田町の通りには
女性と子供が不思議な乗り物に載ってる姿が描かれています。
「駕籠」の一種でしょうか、運び辛そうです。
後ろからは馬上のお付きが従っているようにも見えます。そのすぐ横に洋犬が一匹描かれていますが、この一行が連れている犬と思われます。

また
この様子を二階から興味深く眺めている物見遊山風の人物も描かれています。
もう少し引いて見てみます。
野毛橋より下流左岸には米が積まれている店舗とさらに下流には「渡船役所」が描かれています。川沿いに柳や松、桜の木樹があり、荷物を積んだ船が何艘か見えます。大岡川を使った水運の賑わいが感じられます。一方 野毛橋を越え野毛の町に入ると子ノ神社の鳥居があり神社を回り込むように道が野毛山の方向に向かっています。

他の資料からも「野毛橋(都橋)」を見てみましょう。

都橋

鉄道敷地埋立前夜

この「横浜鉄橋之図」の野毛浦近辺に戻ります。ここは明治4年に始まるまさに横浜駅開業前夜の風景です。
「馬車道」「姥が岩」の文字も読むことができます。
鉄道前夜、鉄の橋近辺の読み解きは別の機会に譲ることにしましょう。

第939話【番外編】横浜のクリスマス

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以前、”クリスマスツリー”の歴史に関して少し調べたことがあります。
日本でクリスマスツリーが飾られたのはいつ頃か?
調べると意外に難しく、ネット上の出典なしネタが多くあり、本腰を入れて出典を調べる必要に迫られましたが、諦めました(笑)。
簡単にまとめると
クリスマスツリーのルーツは諸説ありドイツから始まったのが有力でした。

1.ボニファチウス説
「8世紀のドイツ、樫の木を崇拝する人たちが子どもを生け贄に捧げていました。ドイツの使徒と呼ばれた聖ボニファチウスはこの風習を止めさせるためにオークを切り倒すとき、奇跡が起こりキリスト教の神の力が彼らの神よりも強力であることを示してイエスキリストこそ真の神であることを説いたことに由来。
2.三位一体=三角=樅の木
キリストの三位一体の象徴
3.ユール原型説
北欧に住んでいた古代ゲルマン民族の「ユール」という冬至の祭で使われていた樅の木
は冬でも葉が枯れない生命の象徴。
4.「旧約聖書」の創世記の舞台劇
「中世のドイツでは、イヴに教会の前でキリスト降誕祭の序幕として、楽園におけるアダムとイヴの堕罪の物語を演じる神秘劇が行われていた。」
この<禁断の果実>がなる木を舞台に立てたことに由来。

キリスト教伝来の頃はおそらくツリーは無く江戸時代には長崎の出島ではオランダ商人によって密かに「唐人冬至」を模した「阿蘭陀冬至」としてクリスマスを祝ったそうです。 
時代を近代からとすると幾つか文献がでてきました。
(ドイツ流)
1860年に通商条約締結のために来日していたプロイセン王国使節であったオイレンブルク一行が公館で飾った記録が残っています。

オイレンブルク一行

残念ながら横浜ではなく江戸の赤羽根のプロイセン王国公館でのことでした。
「随員の中の二、三人のクリスマスの準備を依頼した。何よりもクリスマスツリーを立てることが先決だったが、日本で木を一本切り倒すのはいつでも難しいことであった。しかも本当の樅の木は江戸にめったにない。それでも木はぜひとも必要である。(中略)ついに馬にまたがり、何マイルも先まで乗り回してありとあらゆる植木屋を探してやっとすばらしい一本をみつけてきたのである。」
これからが大変だったようで、準備の様子も細かく描写されていますが略します。
「準備そのものがまるで祝典だった。五人の水兵がそのために働いた。(略)すばらしいクリスマスツリーは天井まで届くほどで、オレンジや梨がたくさんそれにぶるさがっていた。」
※冬に梨がたくさんあった?のはいささか疑問ですが
当時、クリスマスツリーで飾り、抽選会などを行いお菓子を振る舞うドイツ流スタイルはゲストとして招かれた英国の将軍ホープ・グラント、領事オールコック、駐日アメリカ総領事館のヒュースケン他のゲスト達も驚きの様子が記されていました。
「オイレンブルク一日本遠征記」より
では、日本人によってクリスマスパーティが行われたのは何時ごろかというと、
1874年(明治7年)に実業家の原胤昭(たねあき)が築地にあったカロザースの妻ジュリアの女学校で開かれたクリスマスパーティーで日本最初のサンタクロースが登場、飾ったのが最初と言われています。
横浜が舞台となったクリスマスツリーの登場は、
1886(明治19)年12月7日
現在クリスマスツリーの日となっている12月7日のこの日
明治屋が横浜で外国人船員向けにお店でクリスマスツリーを飾りつけたそうです。
この日が1886年が日本初の「クリスマスツリー」だ とする説もあるようです。

本町通り明治屋

1900年(明治33年)に明治屋が東京銀座に進出すると、銀座のお店でもクリスマス飾りが広く行われるようになり、広く商店などのデコレーションに繋がったようです。
少し遡ると
1868年(慶応4年)に出された運上所の取り決めの中で、
開港場の休日が、4月7日、5月15日、7月7日、7月15日、8月1日、9月9日の他に、西暦の日曜日そして クリスマスの日が設定されました。
1879年(明治12年)12月には
海岸教会で日本人初のクリスマスの儀式が行われたという記録が横浜市史稿にあり、いち早く教会が建てられた横浜でも”クリスマスミサ”が積極的に行われたようです。
さらに横浜歴史年表でひろった<クリスマス>
1951年(昭和26年)12月19日
日米合同でクリスマス・デコレーションのコンクールを開催する。
1970年(昭和45年)12月23日
横浜公園体育館で市民クリスマスフォークダンス開催。

No.413 あるドイツ人の見た横浜

No.413 あるドイツ人の見た横浜


【番外編】今日はクリスマスツリーの日?

【番外編】今日はクリスマスツリーの日?


<クリスマス風景 クリッピング>

第935話横浜を歩く点と線「イタリア」

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前回、山手の外国<エリア>を紹介しました。
フランス山(フランス領事館)
アメリカ山(米国公使館ゆかり?)
イギリス館(英国総領事公邸)
 ※「港の見える丘」一帯はイギリス山
イタリア山(イタリア領事館)
英米仏に比べ、イタリア?
ちょっと印象が薄いようですが、

伊太利亜!

Flag_of_Italy

実は横浜と結構深ーーーい関係にあります。
イタリア山公園はかつてここにイタリア領事館があったことから、ここを整備する際に水路や花壇を幾何学式に配したイタリア式庭園として「イタリア山」と命名します。
イタリア領事館は
1880年(明治13年)から1886年(明治19年)に設置されました。
http://db.nichibun.ac.jp/ja/d/GAI/info/GP006/item/018/
イタリアは欧州の中ではイタリア語圏で小国が雑居する中、
1861年(万延2年)にイタリア王国が建国され統一が図られます。その後、
1866年(慶応2年)にヴェネツィア、
1870年(明治3年)にローマなどの教皇領の残りを併合し、一応の半島の統一を見ます。まさに此の時に、イタリアは日本との国交樹立を断行します。
統一が実現した1866年(慶応2年)
日伊修好通商条約を締結のためにヴィットリオ・F・アルミニョン氏がイタリア海軍のコルヴェット艦「マジェンタ号」に乗船し来日します。
14代将軍徳川家茂あてのイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(VittorioEmanueleII)よりの親書を携え<締結>を急ぎます。この時、フランスと近かったイタリアはレオン・ロッシュの支援で8月25日(慶應2年7月16日)に綱渡り調印を成功させました。
なんと、調印から僅か4日後に将軍家茂が死去し、様々な政治課題が停滞する直前の離れ業でした。おそらくこのチャンスを逃したら、日本の歴史、横浜の歴史は変わっていたかもしれません。
なぜ、ここまでしてイタリアは日本との通商条約を急いだのでしょうか。
話は、二年遡ります。
井土ヶ谷事件に端を発した外交問題が起こります。
横浜居留地の警備のため山手に駐屯していた、フランス陸軍のアフリカ連隊付少尉アンリ・カミユ(J.J.Henri.Camus)が2人の同僚士官と共に乗馬を楽しむ際、居留地から馬で井土ヶ谷村へさしかかったこの場所で浪士2名によって襲撃を受けます。
先頭に居たカミユは即死の状態で絶命します。襲撃した浪士は逃走し、神奈川奉行並合原猪三朗が捜査を開始しますが、犯人逮捕に至りませんでした。
この事件はその後日仏関係に大きな影響を及ぼします。
(井土ケ谷事件とパリ)
この井土ケ谷事件を解決するために
1864年(元治元年)池田長発(いけだながおき)が率いる横浜鎖港談判使節団がフランスを訪れている時に、フランス駐在イタリア大使が使節団に接触し、通商条約締結の打診を行い情報を確認し特使を日本に派遣します。
※池田長発の渡航も横浜と深い関係にあります。(別途紹介します)
当時イタリアは
オーストリア帝国と戦火を交えている最中で結果壊滅的な敗北を喫していました。一方でオーストリア帝国は北西で隣接するプロイセンの圧倒的な軍事力に屈服するという複雑な関係にありました。
イタリアはオーストリア帝国に大敗したにも関わらず、ナポレオン三世の仲介で弱るオーストリア帝国から奪われたヴェネツィアとヴェネト州を返還することに成功します。
イタリアの統一が実現しイタリア王国が建国されたタイミングで、イタリアは重大な経済危機を迎えます。それは「微粒子病」(ペブリン)の蔓延でした。
(欧州最大市場)
イタリアは当時、欧州のシルク産業の中心地でした。
「蚕種の輸出額は日本の輸出総額の23%以上を占める年もあり、そのおよそ7〜8割はイタリア市場に流れるものだった。この貿易関係は養蚕製糸業に依存するイタリア経済を支えながら、日本が近代化を成し遂げるために必要としていた膨大な収入を確保させていたため、両国にとって極めて有利で、重要なものだった。」(ベルテッリ・ジュリオ・アントニオ)
何故イタリアは極東アジアの日本から蚕種を輸入するする必要があったのでしょうか?
「微粒子病」(ペブリン)の流行でした。「微粒子病」は蚕の生糸生産力を著しく低下させ、現在も治療不可能な難病です。原因を突き止めた研究者の一人がルイ・パストゥールで効果的な予防法(顕微鏡検査)により劇的な改善がみられるようになります。
ただ、イタリアを含め同じくシルク生産・消費国だったフランスも予防法の普及が始まったのが1869年(明治2年)以降になります。解決策はまだ感染していない地域で無病の蚕種を輸入するしかありませんでした。その為、イタリアの養蚕ハンターは遠く極東に無菌の蚕を発見しました。

幕末の幕府財政、明治の初期にかけて日本の養蚕が発展し、その後の横浜経済、日本の経済を支えたキッカケを作ったのが イタリアとの交易でした。
しかし、イタリアは 英国の介入で横浜(日本)において急速にその地位を失っていくことになります。
イタリア山には1880年(明治13年)から1886年(明治19年)の短い間ですが領事館が開設され、日本とイタリアの交流に努めました。
この場所はその後所有者が変わり、歴史を経て横浜市が管理し、貴重な洋館を移築し庭園とともに山手の洋館群の要となっています。
(つづく)

第934話 横浜を歩く点と線「居留地を見下ろす国」

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横浜の山手には、欧州の国名の付いた空間が多数あります。
フランス山(フランス領事館)
アメリカ山(米国公使館ゆかり?)
イギリス館(英国総領事公邸)
※「港の見える丘」一帯はイギリス山
イタリア山(イタリア領事館)
山手の各国の名に因んだエリアは実に見事だと思います。
ここにオランダとドイツ、さらにロシア・スイスなどがあれば完璧!?
山手で横浜開港史が語れます。
欧米各国とは初期に外交関係を結びます。
 ●日米修好通商条約 1858年7月29日(安政5年6月19日)
 ●日蘭通商修好条約 1858年8月18日(安政5年7月10日)
 ●日露修好通商条約 1858年8月19日(安政5年7月11日)
 ●日英修好通商条約 1858年8月26日(安政5年7月18日)
 ●日仏修好通商条約 1858年10月9日(安政5年9月3日)
この五カ国が通商条約を皮切りにその他の欧州やアジア各国と外交関係を樹立していきます。
開港のキッカケはアメリカでしたが、南北戦争という内政問題で一時期外交が手薄になり、英国がイニシアチブを握るようになります。欧州では、プロシア(ドイツ)、オーストリア、フランスを巻き込んだ緊迫した状態が続き、
1853年〜1856年 クリミア戦争
1861年〜1865年 南北戦争
1866年 普墺戦争(イタリア参戦)
1870年〜1871年 普仏戦争
1877年〜1878年 露土戦争
この間、英国は後にいわれたSplendid Isolation「栄光ある孤立」で大国間の摩擦を回避し中国・インドにおける権益を確保しながら帝国主義へとシフトしつつありました。
幕末から明治にかけて、日本には 世界情勢の縮図が展開されます。
例えば
築港・土木で オランダ(背後にプロシア)と英国がしのぎを削り
対立こそ表面化しませんが居留地での米英対立や
お雇い外国人による国内モジュール競争も熾烈になっていきます。
話を横浜山手に戻しましょう。
横浜開港を契機に列強の一つフランスは横浜居留地に住む自国民の保護と居留地の防衛を目的にイギリスより一年早く山手に軍隊駐屯を決定します。
1863年(文久3年)にフランス海兵隊が“山手186番”に駐屯を開始し軍兵舎を3棟建設します。これがフランスの横浜駐留のはじまりです。
その後、英国が山手山頂に大軍隊を駐留させます。
居留地の人口構成は、一般外国人より圧倒的に<駐留軍>の方が多かったのです。
英仏含めた外国軍が日本に駐留していたのは
1875年(明治8年)3月まで。
約12年間駐屯地として使用されてきました。
No.175 6月23日 フランス軍港があった丘

No.175 6月23日 フランス軍港があった丘

No.94 4月3日 横浜弁天通1875年(大幅加筆)

No.94 4月3日 横浜弁天通1875年(大幅加筆)


(山手からの風景)

第933話 【横浜の企業】横浜のNPK

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肥料工場は日本工業化の代表産業でした。
肥料の歴史は、農業の歴史でもあります。かつて人類は、移動する狩猟生活から定住する農業にシフトするキッカケを得ます。これによって農業生産による食料の安定確保が可能となりカロリー量の高い食物を生産することが可能となりました。そのためには、農地の<地力>を維持させる知恵を得ました。
焼畑農業、輪作等を生産力維持の手段としてきましたが、農業は積極的に肥料を使用することで、生産力を爆発的に増加させることを学びます。
特に平野の少ない日本の国土では、集約型農業であったこともあり江戸時代から<肥料>は重要な商品となり市場を作り出しました。
江戸の農業革命は肥料革命でもあったのです。
魚粕、菜種粕、人糞尿、骨粉などが肥料として活用されました。江戸期、貧乏長屋で家賃を滞納しても立ち退かなくて済んだのは、住民の人糞尿が高額で近郊農業の肥料として買い取られたからです。
そして近代は化成肥料の生産(工業化)をもたらしました。化成肥料生産は19世紀の中ごろから20世紀初頭に始まり、農業生産に大きく貢献し国家政策にまでなります。
肥料を分類すると無機質肥料(化学肥料)と有機質肥料に分かれます。
そして無機質肥料は単肥(チッソN、リン酸P、カリKのうち一つの成分を含んだ肥料)と複合肥料(チッソ、リン酸、カリのうち2成分以上を含んだ肥料)とに分かれます。
目下地球的規模で危機となってるのが安価だったリン酸の原材料の枯渇です。
 
農業とは何かを調べてみると
wikipediaに面白い定義が示されていました。
「農業は、土壌から栄養を吸って生育した植物を持ち去って利用する行為」
土壌の栄養を追加することを追肥をいいます。
肥料の定義を示してみます。
「植物の栄養に供すること又は植物の栽培に資するため土壌に化学的変化をもたらすことを目的として土地に施される物及び植物の栄養に供することを目的として植物に施される物をいう」
人口あたりの農耕地面積が狭い日本にとって肥料生産は国力の基幹となった訳です。
 
舞台を横浜に移します。
明治以降、横浜が貿易中心から工業化へシフトする過程で、肥料関係の企業も存在感を示します。食油製造に使用する大豆の搾りかすは肥料の原材料となるため、関連企業が設立されました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8086
昭和初期(戦前期)の京浜地域の地図を眺めてみると
肥料関係の工場、企業が点在しています。
 
◯大日本人造肥料株式会社
1887年( 明治20年)4月
 高峰譲吉、渋沢栄一、益田孝ら明治の先覚者により、わが国初の化学肥料製造会社である東京人造肥料会社として創業
1910年(明治43年) 7月
 大日本人造肥料株式会社に商号変更
1931年(昭和 6年) 2月
 大日本人造肥料株式会社肥料試験場(横浜市子安)が白岡に移転。
その後「日産化学工業株式会社」となります。
 
◯加里工業
 神奈川区恵比須町9・10
隣接して
◯全国購買組合聯合会
 肥料を含めた購買をまとめた協同組合の先駆けとして戦前の肥料飼料の購買に大きな影響をあたえました。
 
 食油産業も化成肥料の生産の一翼を担います。
◯鈴木商店
1922年(大正11年)
 4工場(大連・清水・鳴尾・横浜)を分離独立させ
  豊年製油(現・J-オイルミルズ)を設立します。
社の沿革には
 「大豆粕は肥料として一般農家に安く提供、食料増産、輸入肥料の代替という点で国家に大きく貢献した。」
 
◯帝国社農芸化学
 企業の詳細不明
◯有機肥料会社
 企業の詳細不明
 
横浜が誇る食油老舗「岩井の胡麻油」も1926年(大正15年)昭和初期に<製油肥料合名会社>となった時期がありました。
●岩井の胡麻油 沿革から
1893年(明治26年)
 横浜市神奈川区御殿町に搾油工場を設立
1900年(明治33年)
 横浜市神奈川区青木町に工場移転。岩井製油合資会社設立
1914年(大正3年)
 横浜市神奈川区星野町に大規模工場を設立
1921年(大正10年)
 家庭用化粧小缶を発売。大正博覧会で金賞受賞
1926年(大正15年)
 岩井製油肥料合名会社に社名変更
1947年(昭和22年)8月27日
 岩井製油株式会社設立

第932話 【祭りの風景】牛頭天王

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祭りの風景画像を読み解いてみます。
祭りの準備なのか、祭りの後の一休みなのか?
この風景は
1905年(明治38年)ごろ使用された絵葉書の画像部分です。

幟(のぼり)には「奉献 牛頭天王宮 本牧宮原」とあります。
年号も書かれていますが、<四年>の文字が読めますので、明治34年の画像でしょうか?
はっきり読み取れません。
恐らく、地名は横浜市中区に位置する「本牧宮原」のことだろうと思われます。
牛頭天王は「ごずてんのう」と読み、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神のことだそうです。現在の「八坂神社」にあたる「感神院祇園社」から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られ現在に至るようです。
では 本牧宮原に 牛頭天王宮を祀る神社があるのか?あったのか?
1909年(明治42年)開港五十年の年に、
本牧台の八王子神社(祭神:大山津見命)
宮原の八坂神社(祭神:建速須佐之男命)
間門の浅間神社(祭神:木花咲耶姫)を
「本牧十二天」に合祀しているという資料があり、恐らくこの「宮原八坂神社」の例祭のときに撮られた写真だろうと推理しました。何故、周辺の神社が一つにまとめられたのか?理由は判りませんが、本牧地域が個々の<字(あざ)>から広域化してまとまろうとした試みかもしれません。
明治十四年の迅速図を基に 宮原 八坂神社を探してみました。
宮原に近いところに<神社>記号がありましたので ここが「八坂神社」ではないのか?と地図にマークしてみました。
2017年11月アップ。さらに分かり次第アップします。

第923話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆2

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前回、有栖川宮威仁親王が横浜港鉄桟橋を利用する記念絵葉書の画像を読み解いてみました。
第922話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆

第922話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆


追加の資料を探していたところ、面白いことがわかってきました。
前回 結論は誤りでもう少し詳しい洋行記録が分かりました。
有栖川宮威仁親王は渡欧を4回経験しています。
第一回 ■英国留学(年月不明)
1883年(明治16年)6月 留学から帰国
第二回
1889年(明治22年)2月16日
■海軍事視察として欧州へ
1890年(23年)4月10日 帰朝
第三回
1897年(明治30年)4月22日
■英皇即位60年祝典のため渡英

1904年(明治37年)6月28日
海軍大将に
第四回
1905年(明治38年)4月1日
 ■独逸皇太子結婚式参列のため渡欧
同年8月26日欧州から帰朝
(大須賀 和美 資料)

前回の記述が間違っていたようです。おそらくこの絵葉書の光景は
第四回目、独逸皇太子結婚式参列のため渡欧し帰朝時の大桟橋だと思われます。夏の終わりですが、服装はかなり厚着に感じます。
ただ、拡大してみると
一部薄着も見られるので 暑い中多くの群衆はしっかり服を着ていることがわかります。

威仁親王には明治期の近代化に寄与した様々なエピソードが残されています。
その一つが自動車の普及と国産化です。
渡欧中に威仁親王は欧州の三台自動車を購入し輸入手続きを採り国内に持ち込みます。
その内のフランス製「ダラック号」が故障し修理を<東京自動車製作所>に依頼したことがきっかけで国産車製造が行われることになります。
この<東京自動車製作所>前身は双輪商会といって
1897(明治30年)
京橋区木挽町4丁目で自転車輸入販売業を始めます。
1902年(明治35年)
ロシア公使館員からフランス製グラジェーターを譲り受けたのをきっかけに自動車輸入販売を計画しオートモビル商会を設立します。(日本人最初のオーナードライバーといわれています)
1903年(明治36年)
渡米し米国からエンジンを輸入
1905(明治38年)に乗合自動車をつくり
「日本で初めての国産乗合いバスとして運行。エンジンはアメリカ製の18馬力、運行区画は西区横川町から安佐北区可部までの約14,5キロ。ボディは総ケヤキづくりで重量は1トン、12人乗りで車掌付きでした。」
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111417104550/index.html
これがオートモビル商会初の自動車製造となります。
ただ 売れず資金難に陥りますが、
1907年(明治40年)に
有栖川宮威仁親王から注文を受け、「国産吉田式自動車」」(通称タクリー号)を製造します。
ここで<絵葉書>の有栖川宮威仁親王が登場します。
1908年(明治41年)8月1日
吉田式3台は有栖川宮威仁親王の所有するフランス製ダラックを先頭に、英国製ハンバー、イタリア製フィアット、ドイツ製メルセデス、アメリカ製フォード、フランス製クレメントなどと一緒に甲州街道を立川まで遠乗りに参加
「国産吉田式自動車」」(通称タクリー号)は、欧米の名車に劣らぬ走行に成功します。
ガタクリ走るから「タクリー号」という悪い俗称がつきましたが、性能は高かったようです。
この明治期に画期的な国産車を製造した人物<東京自動車製作所>オーナーが
「吉田真太郎」

吉田真太郎

横浜とも浅からぬ因縁のある人でした。
1877年(明治10年)東京市芝区芝公園7号地に生まれた吉田真太郎
前述しましたが
1897(明治30年)京橋区木挽町4丁目で自転車輸入販売業を始めます。
自転車輸入販売は順調で、横浜の石川商会と<ライバル会社>として競争するまでに成長します。
No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本

No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本


この吉田真太郎の父が吉田寅松
当時日本有数の土木会社「吉田組」を一代で築き全国の土木事業を手がけます。
一説では 横浜関内外に架かる「吉田橋」を寄付したという資料もあります。(ウラトリ中)
吉田寅松が横浜の大事業に登場するのが
「堀割川工事」です。
第921話【堀と掘】掘って割、堀となる

第921話【堀と掘】掘って割、堀となる


ここに繋がります。
どう繋がったのかは長くなりますので次回に。