10月 19

【絵葉書の風景】横濱山手英国病院

<ちょっと具合悪そう>
「横濱山手英国病院
 English Hospital Bluff Yokohama.」

撮影場所:横浜市中区山手
撮影時期:明治末期か?
横濱絵葉書コレクターの世界では人気の一枚らしい。
確認できる最古?クラスのブラフ積み擁壁とガス灯が写っているからだそうです。
偶然手に入れたものですが、この絵葉書の風景、拡大してみると人物が尋常じゃななそう。
まず絵解きをする前に
横濱山手英国病院(イギリス海軍病院)は、横浜山手居留地(ブラフ)161番に1868年頃完成しました。
横浜が開港しました!
外国人が来ました!って話なんですが、当時の状況はそんなに甘いもんやおまへん。
当時の二大強国<英・仏>は居留地の自国民を守るために、軍隊を常駐させます。現在のふらんす山と港のみえる丘公園あたりが英仏の駐屯地でした。
そこに、様々な自国民のための施設を建設します。これは戦後の進駐軍と似ています。
(ここは病院前)
一台の人力車、二人の和服の女性。
よく見ると、女性の一人は”具合悪そう”に見えませんか?
人力車の車夫も心配そうに二人を眺めています。
付き添いの女性は<傘>を持っています。
雨か雪でも降りそうな空模様、
背景の<桜花>から季節は春先でしょうか?
勝手に物語を想像すると
急に具合が悪くなった日本人女性が、「そうだ丘の上にエゲレス病院がある」というわけで付き添いを伴って人力車で駆けつけたところ
<断られた>
<利用するかどうか逡巡><重い病気を告げられた>
どれででも良いのですが この女性は確かに尋常ではなさそうです。
撮影者はこの女性と人力車を”意図”して絵にしたのか?
いろいろ想像力を掻き立てる風景です。
(ブラフ積み)
直方体の石材を縦横交互に並べ、端面が1つおきに出るように積む技法を、当時の山手近郊の<ブラフ(崖)>に因んで「ブラフ積み」と後から呼んだものです。
煉瓦積みの技法に「フランドル積み」または「フランス積み」と呼ばれるものがあります。この手法が「ブラフ積み」として擁壁に応用された限定的なもので貴重な近代遺産です。
少し長いですが
「横浜には数多くの歴史的建造物、遺構があることは周知の事実である。特に山手などは外国人居留地があった時代が色濃く残っている。「ブラフ積」という洋風石垣も、その中のひとつである。「ブラフ積」とは、1867年に第一回山手地所の競売によって外国人の住宅地として開放され、細かく入り込んだ斜面に宅地が造成された過程で生じた多くの崖の土留めのことを言う。千葉の房州石を棒状の直方体に加工し、長手面(横)と小口面(縦)を交互に並べたもので、従来の「野面積」とは異なる積み方は当時としては大変画期的であった。もともと「ブラフ(Bruff)」とは、海岸や谷間の「絶壁・断崖」を意味し、当時本牧や山手に多く見られた切り立った崖を「ブラフ」と呼んでいた(幕末、日本来航時に横浜周辺を測量したペリーは、本牧十二天《現在の本牧市民公園》のオレンジ色の崖をその色から『マンダリン・ブラフ』と呼んでいた)ことから、居留地によって生まれた洋風技術と言える。また、縦に積むことで、崖に深く入り込むようになっているため、耐震性にも優れ、関東大震災でほとんど崩壊せず現存している場所が多いことを考えてもそれが実証済みだと言えよう。(横浜経済新聞2007-10-03)」
「横濱山手英国病院」は1867年以降山手地区の洋館群が競って建設される中、1868年に完成したものです。
参考に、山手を下り元町にあった薬師堂の雁木と擁壁も紹介しておきましょう。
一枚の絵葉書、いろいろなところに注目すると面白いですね。
5月 17

横浜赤肉ローハイド(1)

2021年5月15日の橫浜メモランダム
1869年(明治2年)近江国から東海道を使って生きた牛を横浜まで運んだ人物がいた。目的地は開港場となった外国人居留地だった。
当時は鉄道もなく、明治維新の動乱期ではあったが、陸路を牛たちと共に移動したのだからまるで60年代に日本でヒットしたアメリカの人気ドラマ「ローハイド」※のようだ と想像すると面白い。
(※古すぎて年寄りしかわからないが)
ローハイド主題歌
資料によると牛を連れての旅は15日から16日を要したそうだ。
牛との道中記、街道筋の人々は驚いたに違いないが、江戸日本橋から京都まで通常二週間程度だったそうだ。
この日数には若干疑問が残る。ちょっと早い。牛歩戦術は結構早足だったようだ。
フェイバーさんこと日本版カウボーイ、彼の名は「西居正蔵(にしいしょうぞう)」近江国蒲生郡の豪農の家に生まれで、生来の努力家だったそうで、新しい時代に対応し近江牛を売るために奔走した伝説の人である。
開港と明治維新、近江にも近代と外国文化という新しい時代が音を立てるように訪れた。当時外国人が最も集まっていた横浜では食肉を求めていることを知り、昔から牛を食肉用にしていた近江牛こそ最適と考えたのだろう。
西居は東海道を使い自らの手で生牛を運んだのである。すごいエネルギーだ。 明治以降、日本の近代化はめざましく、いち早く関西と関東が汽船で結ばれるようになると、彼は船で牛を運ぶことを目論んだ。
1870年(明治3年)九十九商会として大坂に開設され、
1875年(明治8年)には郵便汽船三菱会社となった船会社(後の日本郵船会社)に牛の搬送を依頼する。何度も断られたそうだ、交渉を重ね、最終的には自らリスクを背負い、デッキ積みを実現させ横浜港に牛を送り込む事に成功する。
当時、積出港が「神戸」だったために、皮肉にも”神戸牛”という副産物が付いてしまったらしいが、その名は1890年(明治23年)に東海道本線が全通することで払拭された。
国鉄「近江八幡駅」から直接出荷できるようになり「近江牛」の名が関東に定着したそうだ。
その後 鉄道輸送で出荷量が飛躍的に伸び、東京・横浜市場に強い影響を与え「近江牛ブランド」が浸透したとのことだが、
同時期、
同じように松阪(但馬)牛を関東市場に持ち込んだ人物がいた。山路徳三郎という人で、松坂から三週間かかっているとあるので、松阪牛の方が牛歩戦術が得意のようだ。
このように、横浜市場は全国に注目されていた。別の資料では、これも関西から牛を運んだ親子の物語である。
今から15年位まで(記憶が曖昧)馬車道バス停前に牛鍋レストランを開業していた「竹内」という店があった。残念ながら閉店してしまったが、この「竹内」の親戚が横浜に牛肉を運んで成功したというのだ。
これも明治初期、竹内金三郎とその息子慶太郎の竹内親子が牛を関西(神戸港)から船で搬送し横浜で有名になり、二人は真砂町に牛肉問屋を構え、横浜食肉業界で広く活躍したそうだ。
息子の慶太郎は「横浜屠場株式会社」を設立し食肉の近代化に勤めた人物としても有名である。 このように忽然と居留地が登場した横浜では、移ってきた多くの外国人から食肉ニーズが高まることで、牛を長距離運んでもビジネスが成り立ったのだろう。
開港後外国人からは様々な要求があったがその中に”牧場”の要求があった。幕府時代から明治初期まで本牧を手始めに横浜近郊で幾つかの牧場が運営され食肉生産が行われていた記録が残っている。
歴史では江戸期、一般庶民には牛や豚を食べることを禁止した。仏教では殺生を嫌ったといわれているが、実はそうでもなかかった。江戸期の食肉の歴史を近江牛から探ってみた。 彦根の名産の一つに「牛肉の味噌漬け」がある。これは江戸時代から作られていた名産で元禄年間に「反本丸」(へんぽんがん)という名で流通していた。私は「千成亭」の味噌漬け牛肉を時々頼む。
https://www.sennaritei.co.jp/c/home-use/misodukezitaku
井伊家彦根藩は18世紀後半に全国の諸侯にこの「反本丸」が振る舞われ、時の将軍徳川家斉にも献上されたという記録が残っている。また、彦根藩では牛肉の乾燥肉を開発し日持ちすることで重宝がられた。たぶんビーフジャーキーのようなものだと思うが、この乾燥肉は寛政年間に将軍家へ献上された、とある。
幕末の1853年(嘉永6年)には江戸市中で彦根牛の看板を掲げて肉屋を開業していたというから、時の為政者は勝手なものだ。幕末には江戸でも肉食が普通にあったことの証かもしれない。
さらにはこんなエピソードも伝わっている。
有力諸侯に毎年送っていた味噌漬け牛肉「反本丸」を、藩主で大老だった井伊直弼は取りやめてしまった。この反本丸が大好きだった水戸藩主で烈公と呼ばれた徳川斉昭(とくがわなりあき)は何度か催促したが直弼は断ったという。これにがっかりしそのことを遺恨に思って、水戸藩の浪士たちが井伊暗殺を企てていたことを黙殺したというエピソードが伝わっている。
嘘か本当かわからないが、食べ物の恨みは根深いことは確かだ!
なぜ、彦根藩は食肉の習慣があり、それが時のご禁制に特例として認められたのだろうか?  
彦根藩は戦国時代から藩をあげて武具作りが盛んで多くの職人が育っていた。江戸徳川幕府となって、浜松から東海道の要<彦根藩主>となった井伊家は代々、徳川家に信頼されていた。
井伊家による彦根の武具や儀礼に必要な「太鼓の皮」も大変珍重され幕府に納められていた。太鼓の皮や甲冑(鎧兜)に用いる牛革を取るために彦根藩は唯一幕府から牛の屠殺を許されていた。
このときに残った牛肉を彦根藩では大切に食用として活用するために開発されたのが「味噌漬け」だった。それが滋養強壮の薬「反本丸」としてお殿様に珍重されたのである。
※彦根市の特産に仏具、仏壇がある。これは彦根藩の武具職人達が明治以降失職しないように技術を活かし業態変換したからだと彦根で聞いた。 仏壇の飾りは甲冑から来ていると知って、改めて実家(越前)の仏壇を見直したことがある。 末吉町にある老舗の「太田縄暖簾」は、現役最古の牛鍋店として有名だ。1868年(明治元年)に創業とのことだが、創業者は石川県能登出身の高橋音吉が幕末慶応初年に横浜道に面した吉田町堤に牛肉の串焼き屋を開業したことに始まった。その後まもなく現在の末吉町に移転し現在に続く「牛鍋」を始めたそうだ。
ここで出されている元祖牛鍋は
(1) 肉が角切りであること、
(2)味付けに割り下やザラメ醤油などではなく、味噌 ダレを用いていること、
(3)具材が牛肉と長葱のみとシンプルであること
  を「牛鍋」の条件としているが、
これは、彦根の赤肉の味噌漬けに少しは関係していないだろうか?
ここから先は、私の全くの想像である仮説を展開してみたい。
横浜牛鍋店の多くが”牛に味噌を使ったのは<肉の臭み>を消すため”としている。
彦根「反本丸」のヒント、影響があったのでは無いか?
横浜が舞台なら断然あった!
というのが私の見立てだ。
 次回は 彦根と横浜の浅からぬ<縁>ついて紹介したい。(つづく)
4月 13

【吉田町物語】吉田町清水組

現在、吉田町に拠点を構える最も古い企業は、都橋のたもとに事業所を持つ清水建設横浜支店です。
左側 都橋袂、清水建設横浜支店
現在スーパーゼネコン※と呼ばれている5社の中で、特に「清水建設」と「鹿島建設」は開港場を舞台に横浜普請で飛躍した会社です。
※清水建設、鹿島建設、大成建設、大林組、竹中工務店
清水組は安政の大獄の始まった1858年(安政5年)
時の大老、井伊直弼から「外国奉行所」など幕府施設建設を請け負うことで横浜開港場との関わりが始まります。
1859年(安政6年)
清水組を興した初代喜助が死去し養子の清七が2代清水喜助となった年、
「横浜坂下町」に店宅を新築し、横浜へ進出します。(清水建設社史)
この開港場の拠点「坂下町」、磯子ではありません。現在の「日本大通」と「横浜公園」が接するあたりと推定できます。
清水組は「神奈川戸部村外国奉行所、石崎関門ならびに番所および野毛坂陣屋前役宅を施工」する事業に関わります。神奈川戸部村外国奉行所はおそらく現在の紅葉ヶ丘神奈川奉行所、石崎関門・番所はわかりません。
野毛坂陣屋前役宅も現在の宮崎町近辺でしょうか?調査中です。
清水組は神奈川役所定式普請兼入札引受人となるなど、事業は順調に拡大していきます。
ところが、
1866年11月26日(慶応2年10月20日)午前9時頃に港崎遊郭の西方向、現在の尾上町一丁目付近から出火し開港場の大半が消失した<慶応の大火>で「横浜坂下町店宅」も類焼し、失ってしまいます。
(写真資料)
清水喜助は吉田町に家屋を新築し移転します。この場所で釘や鉄物商のほか材木商も兼業し事業を拡大していきます。
当時、木造家屋の密集する日本の都市は、火災に弱く何度かの大火災に悩まされます。
移転した吉田町店も火災にあいまたまた類焼のため宮川町へ移ることになります。
その間、時代は明治となり、開港場は居留地と商人の大都市に変貌し始めます。
喜助は吉田町に戻ることを決意し、
1874年(明治7年)吉田町に洋風3階建の店宅を新築し、宮川町から復帰します。
大岡川下流から都橋を望む。
大岡川、都橋下流側 右岸に清水組
1881年(明治14年)に横浜店は清水満之助が経営
 神田新石町店は清水武治が経営する東京・横浜分業体制を採ります。
1883年(明治16年)には横浜吉田町宅を本店とし、日本橋本石町居宅が支店となりますが、
1887年(明治20年)満之助が35の若さで死去、残された8歳の長男が四代満之助襲名しますが、三代目満之助の遺言により経営の神様と呼ばれた”渋沢栄一”を相談役(〜1916年)に迎え経営危機を乗り越えます。
1892年(明治25年)9月に日本橋本石町店を本店、横浜店を支店に改め、拠点を東京に移します。
1895年(明治28年)東京・横浜両店を合併し、清水組が一本化。
清水組を創業した清水嘉助は、越中小羽(現・富山県富山市小羽)出身で、故郷富山で大工の修行をして、日光東照宮の修理に関わったことをキッカケに江戸に出て神田の地で創業します。江戸城西の丸修復で建設業の基盤を築きます。
富山(越中)人脈は、
1838年(天保9年)11月25日 安田善次郎 富山市で出生(安田財閥の祖)
1848年(嘉永元年)4月13日 浅野総一郎 氷見市で出生(浅野財閥の祖)
1881年(明治14年)大谷米太郎が小矢部市で出生(大谷重工業、ホテルニューオータニ創業者)
1885年(明治18年)正力松太郎 正力松太郎が射水市(大門町)で生れる(読売新聞中興の祖)
安田、浅野も横浜・川崎を舞台に一代を築いた越中人です。
どこかで、つながりがあったと思います。機会があれば、横浜の越中人脈も探ってみたいと思います。
成人した四代目清水満之助は
1915年(大正4年)8月10日竣工、二代目横浜駅建設を手掛けます。煉瓦造2階、平面形状は不等辺三角形。階上に待合室、改札口がある荘厳な駅舎となります。
<横浜の清水>作品を抜粋します。
◯谷戸橋(堀川)1880年(明治13年)
◯横浜税関(関内)1885年(明治18年)12月
◯横浜水道開設事業 三井用水取水所の内 用水取入口、貯水池、濾水池1887(明治20)年9月
◯第一銀行1911年(明治44年)6月
★二代目横浜停車場1915年(大正4年)6月
★横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館)1918年(大正7年)
 平成の修復も清水建設。
◯ホテル、ニューグランド1927年(昭和2年)新築 設計渡邊仁
1933年、1958年、1964年 増築
2016年 耐震改修
◯味の素横浜工場サイロ竣工(昭和30年)9月
◯横浜マリンタワー1961年(昭和36年)1月
◯石川島播磨重工業横浜第2工場建造ドック及び修理ドック
 1965年(昭和40年)3月<建造ドック>
 1966年(昭和41年)8月<修理ドック>
◯横浜スタジアム1978年(昭和53年)3月
◯県立神奈川近代文学館1984年(昭和59年)3月
◯横浜地下鉄1号線 吉田町工区1986年(昭和61年)3月
◯関内ホール(横浜市市民文化会館)1986年(昭和61年)
◯新横浜プリンスホテル1992年(平成4年)2月
◯横浜・八景島シーパラダイス デザインシステム(清家清)
 <建築部分>1993年(平成5年)5月
 <土木部分>1994年(平成6年)3月
◯横浜ランドマークタワー1993年(平成5年)6月
◯横浜銀行本店1993年(平成5年)7月
◯飯田家長屋門 保全1996年(平成8年)3月
◯日石横浜ビル1997年(平成9年)6月
◯Foresight21(関東学院大学1号)2001年(平成13年)3月
◯慶應義塾大学日吉新研究室棟(来往舎)2002年(平成14年)1月
◯横浜港大さん橋国際客船ターミナル(第一工区)2002年(平成14年)11月
◯今井川地下調節池2004年(平成16年)3月
◯横浜市立みなと赤十字病院2003年(平成15年)12月
◯日産自動車グローバル本社2009年(平成21年)4月
◯富士ゼロックスR&Dスクエア2010年(平成22年)3月
◯アニヴェルセルみなとみらい横浜2013年(平成25年)11月
◯横浜グランゲート2020年(令和2年)
3月 18

第993話【一枚の絵葉書】根岸療養院

根岸療養院
前回は中村石川にあった「横浜市中央教材園」の絵葉書から導き出された風景を紹介しました。今回も前回と同様の「一枚の絵葉書」から横浜史の一風景を読み解いていきたいと思います。
この【一枚の絵葉書】シリーズは、手元の絵葉書から、そこに写し出されている風景を読み解きながら関連情報を探っていきます。
基本読み物としては鬱陶しくなってしまいますが、ご辛抱ください。
1000話までこんな感じです。
前回は 第992話 リケ児育成のために(修正追記)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12622
今回の一枚は「根岸療養院(山海館)」
第一印象はタイトル通り根岸の病院か結核療養施設の風景のようです。
Google検索でいくつか関連データが見つかりました。
「中区史」の地域編のなかで明治期の根岸開発の模様を伝えた記事がヒットしました。
中区史根岸療養院記述
「さらに四十五年七月には五坪(一六、五平方メートル)の家屋を改造した病室を持った根岸療養院が二、一四九番地に建てられたことである。」とあり<所在地>と<設立年>が判明しました。 1912年(明治45年)開設
場所は根岸村2,149番地
これをヒントに開設場所を地図で探ってみました。
手元にある地図では明治45年(大正元年)近くのものが無く、少し時間の経った大正12年、震災前発行の地図から「根岸療養院」の場所を探してみました。
大正12年4月根岸
遡って明治14年の迅速図、昭和に入った根岸周辺地図でもあたってみました。
明治14年根岸
昭和4年根岸
本牧・根岸は戦後海岸線が埋め立てによって大きく変貌しましたが、当時の「根岸療養院」からは眼下に海が広がっていた事でしょう。 ではこの療養院はいつまで存続したのか?Google検索から
大正12年の関東大震災における「横浜・神奈川での救援・救済対応」という震災資料がヒット。
「神奈川県庁は、9月2日、桜木町の海外渡航検査所に救護(治療)本部を置き、傷病者の治療を開始した。3日、同所に県庁仮事務所を置き、高島町の社会館内に傷病者の収容所を設けた。社会館は県庁が震災の2年前に開設した労働者のための宿泊施設である。既に述べたように、同日、衛生課長の下に救護(救療)、衛生材料調達、死体処理などの係を設けて衛生課職員を配置した。医師、看護婦は、横浜市の十全病院、根岸療養院より借り入れ、また、臨時の募集を行って不足を補い、救護本部や社会館内の収容所に配置した。」(中略)「根岸療養院は個人の経営する結核患者の療養所だったが、震災以後、結核患者を郷里に戻し、9月8日から30日までの間、一般傷病者の収容を行った。受診患者数(延べ)は入院1,803人、外来4,299人であった(『神奈川県震災衛生誌』)。10月以後、日本赤十字社に療養院の建物と器具、職員が無料で提供されて、同神奈川県支部の臨時根岸病院となった。
と記載されていました。日本赤十字社と関係があったことが伺えます。
日赤の資料も探ってみると
1924年(大正13年)結核専門の療養施設である根岸療院を開設。とありました。これだけでは根岸療院=「根岸療養院」なのかまだ確定しませんが、この「日赤根岸療院」が源流となったのが昭和21年に改称された「横浜赤十字病院」です。
そして現在の「横浜市立みなと赤十字病院」につながります。
横浜市立図書館のオープンデータに
1917年(大正6年)発行の横浜社会辞彙という当時の紳士録に近い資料がありその中に「根岸療養院」について記載された概要を下記にまとめました。横浜社会辞彙「根岸療養院」項目に院長の名がありませんでしたが、個人名から創設者が<大村民蔵>ということがわかりました。 院長 大村民蔵
根岸2194番地
電話2411番
敷地 2500坪 全9棟 延べ床 525坪
 個人病室 30室
 共同使用病室 8室
全体で凡そ100名の患者を収容。
1912年(明治45年)7月18日 根岸に開設
1913年(大正2年)7月春心館を建築
1915年(大正4年)7月山海館(2階建て)
8月 静温館
10月 浴室等完成
日運館・赤心館
(庭園)松林・梅林・菊園・ダリア
この時点で、図書館DBで他の資料が無いか確認した所
創設者である大村民蔵氏の資料(自伝)がありましたので 創設者大村氏を追いかけてみました。
膨大な自叙伝ですのでプロフィールの一部分だけ紹介します。 大村民蔵
山口県防府市 出身
1869年(明治2年)11月22日
大村茂兵衛の四男として生まれ
17歳のときに故郷から横須賀に移り、役場に勤めた後、鉄道局駅吏として横浜駅(現桜木町駅)に勤務しますが、初心を貫き東京に出て「済生学舎」に学び医師資格を目指します。
1897年(明治30年)12月医術開業試験に合格し医師の道を歩み東京荏原(品川)の病院に勤務します。
※「済生学舎」1876年(明治9年)長谷川泰により設立された医師を目指すための医師免許専門の学校でした。
 野口英世・吉岡弥生・荻野吟子らがここで学び、医師の道をめざしました。
1898年(明治31年)に佐野常民より「日本赤十字社社員」の辞令を受け、これが現在に続く横浜との因縁の一つとなります。
横浜との関係は、東京時代に警視庁警察医務の嘱託となったことで
1900年(明治33年)に神奈川県監獄医務所長の辞令を受け根岸にある監獄署官舎に引っ越したことに始まります。
翌年34年には現職のまま研鑽のため北里柴三郎に就き伝染病学を学ぶことになり、これがキッカケで北里人脈が広がります。
1902年(明治35年)に根岸町871番に診療所を開き亡くなるまで横浜市内で医師として活躍することに。
1924年(大正13年)3月31日
「根岸療養院を、日本赤十字社神奈川支部に結核予防と治療を継続する条件にて譲渡し、根岸療院と改名す。
→ここで前述の 根岸療院=「根岸療養院」 が確定しました。
大村民蔵氏はその後も日赤と深く関わることになり、戦後は地域の医者として94歳まで診療に携わり
1969年(昭和44年)12月101歳で亡くなります。 根岸療養院を支えた多くの医師の中でも初期の二人。
医学博士 守屋 伍造
医学博士 古賀玄三郎

 ともに伝染病研究所で所長だった北里柴三郎の門下生でここ「根岸療養院」との関わりだけでもさらに深い物語が登場します。
志賀潔、浅川範彦、そして守屋 伍造の三名が部長として片腕となり、ここに助手として入所したのが野口英世でした。
■古賀玄三郎は
1879年(明治12年)10月20日生まれ〜1920年(大正9年)
佐賀県三養基郡里村(現:鳥栖市)出身。
1899年(明治32年)長崎第五高等学校医学部卒
上京し、東京市築地林病院(築地五丁目)医員となる
1901年(明治34年)岩手県盛岡市立盛岡病院外科部長。
1910年(明治43年)京都帝国大学医学部に入学、特発脱疽の研究(「チアノクプロール」(シアン化銅剤)の開発)、治療法で博士号。
→当時古賀玄三郎博士によって開発された注射液「チアノクプロール」を1915年(大正4年)7月15日に初めて試みたのが有島安子で作家有島武郎の妻だという記載資料がありました。ここでも横浜と繋がります。
1920年(大正9年)
10月17日大連市(中国東北部)で開催された満州結核予防会 発足にあたり記念講演後、
10月18日大連駅で倒れ、21日に亡くなります(41歳)。
大村民蔵氏は師の北里柴三郎はもとより、福沢諭吉とも関係があったようです。
中でも北里柴三郎は1927年(昭和2年)横浜の絹織物商・椎野正兵衛商店の長女・婦美子と再婚しています。
成功名鑑飯島栄太郎
追いかければキリがないくらい様々なつながりが出てきますが
ここでは最後に 横浜の財界人であった飯島栄太郎氏を紹介しておきます。
「横濱成功名誉鑑」にも登場する飯島栄太郎は境町(現日本大通り)「近栄洋物店」のオーナーとして、創業者であった飯島栄助を継ぎ家業の外国人向けの雑貨店を発展させます。創業者の栄助は近江彦根の出身、幕末期京阪、江戸(東京)を放浪の末、明治3年に元町で業を起こし成功します。明治9年に境町2丁目に移転、西洋雑貨取引で財を成し、
明治31年 息子飯島栄太郎に譲り、栄助は予てより取得していた根岸の別荘に<隠居>
明治38年12月に亡くなります。
飯島栄太郎は、家業の雑貨商だけではな無く、アメリカに留学または滞在し、日本に帰国したのち政界・経済界で活躍した人々が集まり、交友を深め便益をはかることを目的に、明治31(1898)年に設立された米友協会の会員として活躍します。
微妙な日米関係となった白船来航時には、国を挙げて米国艦隊を迎える中、大谷嘉兵衛、野村洋三、浅野総一郎や左右田金作とともに歓迎の晩餐会を開催、日米関係の融和に努めました。
【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7201
彼の表した『米国渡航案内』は明治期の渡米ガイドとして大ベストセラーとなります。
 さらには飯島栄太郎の妻・飯島かね子もまた津田梅子に学び「帝國婦人技藝協會」を創立した傑女でした。 またまた遠回りになりましたが、
飯島栄太郎の父、「近栄洋物店」の創設者 栄助が隠居した根岸の別荘が栄助死後、空き家になっていた関係から
友人だった 大村民蔵のサナトリウム計画に協力し、別荘と敷地を譲渡することになりました。 ネット検索の過程で
「根岸小学校は全国でも最も早い時期に学校医の制度を導入したことで知られる。校医は日赤の実質的創設者でこの地で長年結核の治療にあたった大村民蔵氏」とあり、検証してみました。
学校医は明治期から法律的に導入されている制度で
「1894(明治27)年5月に東京市麹町区,同年7月に神戸市内の小学校に学校医が置かれたのが日本における学校医の始まり」であり、大村民蔵氏が根岸小学校の校医を拝命したのが1903年(明治36年)のことでした。また日赤の実質的創設者というのもおそらく間違いです。
「根岸療養院」は神奈川県内の日赤病院草分け的存在といえるでしょう。
という感じですか。
後から発見した別の全景がわかる根岸療養院はがき。
一枚の絵葉書の風景から様々な関係が見えてきました。
大村民蔵は近くにあった「根岸競馬場」とも関係があり、競馬に関するエピソードも満載です。
まだまだ人・場所・出来事との興味ある繋がりがありますが、
今回はここまでにしておきます。
2月 5

第990話 近代・ミシン・横浜(2)

シンガー日本市場を席巻
戦後生まれの人には<ミシン>といえばシンガー以外にジャノメ・ブラザー(安井兄弟社)・ジャガー(丸善ミシン)といった国内メーカーが登場しますが、戦前は圧倒的にシンガーでした。 幕末、横浜に初めて上陸したミシン=sewing machineは
明治期に認知されるようになり、洋服を製造する産業機械として輸入されました。
和服から洋服への転換が必要であった<軍><警官><鉄道員><郵便夫>他公務員の制服製造への導入を皮切りにミシンは日本全国に普及していきます。
キャッチアップが得意な日本人は、輸入されたミシンを元に国産化に挑戦しますが、20世紀に日本上陸を果たしたシンガーによる内製化した大量生産体制の前にほぼ独占状態を許します。
シンガーミシンの成功は後の自動車産業とほぼ同じ歴史を歩みました。フォードはシンガーの成功例に多くのことを学んだかどうかは不明ですが、
シンガーミシンの企業戦略の特徴は
本体機械と部品規格化し内製化を進め、訪問による月賦販売や操作指導(学校開設)といった総合的な販売システムであったことです。
一時期は、日本全国ミシンはシンガー!という時代を築きますが、昭和初期に起こった横浜を舞台にした一大争議と戦争というタイミングから一気に日本市場から消滅し、戦後もシェアを取り戻すことができませんでした。
簡単にシンガーミシン史をベースに洋服と日本におけるミシン普及の足跡を追ってみましょう。 <>は日本国内関係
1851年(嘉永4年)創業者アイザック・メリット・シンガーが(I.M.Singer & Co.)を創立。
 第1号実用ミシンの特許取得。
1853年(嘉永6年)シンガーミシン1号機が100ドルで発売される。
1855年(安政2年)パリ万国博覧会で最優秀賞を受賞。
1856年(安政3年)個人向け月賦購入制度、分割払い販売等を考案。
1858年(安政5年)年間売り上げが3000台達成。
1863年(文久3年)所持特許数が22に登る。シンガー裁縫機械会社として資本資産550,000ドルを超え初代社長はインスリー・ホッパー就任。
<日本国内では、横浜居留地97番にピアソン婦人がドレスメーカーを開店、ヒュースケンがミシンを輸入し横浜の商館で展示する、日本人がミシンを購入>
<山岸民次郎横浜山下町舶来屋「オランダ屋」に住み込み>
1865年(慶応元年)Singer Manufacturing Company に改称。
1866年(慶應2年)<セールス・フレーザー商会(洋服店)開業→翌年閉店し道具一切を佐藤与次郎に譲渡>
1867年(慶応3年)スコットランドのグラスゴーでミシン海外製造開始。
<片山淳之介「西洋衣食住」の中で背広を紹介>
<この頃の洋服製造技術は横浜居留地に集中、東京には洋服店が殆ど見当たりませんでした>
1871年(明治4年)<茅場町に「柳屋」開店>
1872年(明治5年)<明治天皇が初めて西洋式スーツを着用して公の場に登場>
 <慶應義塾衣服仕立局を開設、ミシン2台購入>
1877年(明治10年)<西南戦争に伴い軍服大量生産のためミシン導入>
1883年(明治16年)シンガー生産拠点英国に拡大。
 クライドバンク市に週に10,000台生産可能な巨大製造工場設立。
1884年(明治17年)半期販売数、横浜490台、長崎90台、兵庫55台(635台)
1887年(明治20年)<この頃から足袋縫製にミシンが導入される>
1889年(明治22年)初の電動式ミシンを発売。
1890年(明治23年)シンガー東京有楽町に本部を設立。(1900年説もあり)
<5月10日嘉仁親王(大正天皇)、九条節子(さだこ)と結婚。>
<陸軍被服本廠 設置>

1901年(明治34年)横浜・神戸「中央店」を軸にシンガー全国販売体制を短期間に整備。
1903年(明治36年)首位だったドイツ製を抜き首位に。農商務省を辞して秦敏之入社。
1904年(明治37年)ミシン裁縫女学院 神田区表神保町一番地に設立の記事あり。 1905年(明治38年)<第26代大統領セオドア・ルーズベルトの長女アリス・ロングワース・ルーズベルト(21歳)がアジア歴訪で来日。昭憲皇后に面会した際皇后から「アメリカのミシンが欲しい」とリクエストがあった>

1906年(明治39年)”シンガーミシン裁縫女学院”を東京・有楽町に開校(設立願受理)。極東支配人は秦敏之で校長は妻の秦利舞子(はたりんこ)。その後、大阪、横浜他各地にも裁縫女学院を開校。
1907年(明治40年)3月 269名在籍。4人でミシン1台という学習環境。秋には定員1,000人へ。生徒20人に13台程度の環境とある。
1908年(明治41年)<名古屋で安井商会=ブラザー設立>
1910年(明治43年)”シンガーミシン裁縫女学院”閉鎖。
1912年(大正元年)”シンガー裁縫刺繍院”開設。
1913年(大正2年)シンガー世界販売数250万台を突破。
1914年(大正3年)第一次世界大戦の影響でドイツ製ミシンからシンガー全盛期に。
1916年(大正5年)”シンガー裁縫院”に名称変更。
1918年(大正7年)大阪神戸横浜に中央店、全国に30監督所、600店の支店。
1919年(大正8年)<並木婦人子供服裁縫教授所、開校>
1921年(大正10年)<パイン裁縫機械製作所=ジャノメ、設立>
1922年(大正11年)<並木婦人子供服裁縫教授所、文化裁縫学院→文化学園>
1926年(大正15年)<杉野芳子「ドレスメーカー・スクール」開校>
1927年(昭和2年)<横浜洋裁専門女学院=岩崎学園 創設>
1929年(昭和4年)ミシン輸入が最高潮に年間61,144台に達する。
 国内シェア95%に達する。
1932年(昭和7年)※シンガー労働争議 横浜が最も最大の闘争舞台に。
1934年(昭和9年)<パインミシン、中野工場敷地内に日本洋裁学校開校>
1938年(昭和13年)<東京重機製造工場=JUKI、発足>
1939年(昭和14年)アメリカが対外物資輸出を禁止しミシンが含まれる。
ミシンと日本の近代
<参考文献>
参考文献「ハマことば」
外国資本に対して史上最大の労働争議となった
※ 1932年(昭和7年)シンガーミシン騒動は
大正期から昭和にかけて起こった多くの労働争議とは異なった背景の中で、その後のミシン業界が大きく変化するキッカケになりました。
(つづく)
2月 5

第990話 近代・ミシン・横浜(1)

日本の近代化は同時に始まった訳ではありません。
新しい制度、道具、技術、言葉、人物…
様々な要素が時期をずらしながら重なる中で、
人々は受容と反発を繰り返し近代化は進行してきました。
日本の近代化は<開国>によって幕が上がります。
近代化の端緒が開かれたのは
圧倒的な西欧技術でした。
例えば、鉄道に代表される蒸気機関。
そのエネルギーは日本人が経験したことのないパワーでした。
一方で生活習慣では永々と続けてきた日常が変化し始めます。
服装を例にとれば和服生活に洋服が入り込むこととなりますが、多くの欧米化の中でも洋服の習慣化にはかなりの時間がかかりました。
特に一般女性の洋装への道は時間を要しましたが、現在でも<洋>服と呼ぶ数少ない欧化の象徴です。
この洋装化の基軸となったのがsewing machineです。
一般的には<ミシン>と呼ばれています。
ミシンは裁縫の機械化をもたらしましたが、果たした役割は縫製という機能に留まりませんでした。
カール・マルクスはミシンを「決定的に革命的な機械」と呼び、軍隊という近代の暴力装置を支えたのもミシンです。日本でのミシン導入の強い動機は<軍服>縫製用です。
このミシン=sewing machineと縁の深い横浜を舞台にミシンと近代化を紹介しましょう。
横濱村辺之図
横濱村辺之図
日本に初めてミシンが上陸したのは1854年(嘉永7年)2月、横浜です。
この時、ペリーは蒸気船・鉄道・電信機といった機器のほか、同時代の米国最先端技術を黒船に載せて横浜の応接場に持ち込みます。
少々長くなりますが、ペリー贈答リストの一部を紹介します。
リストを眺めるだけでも驚きを隠せません。
・蒸気機関車ミニチュア(1/4サイズ、炭水車・車両・線路つき)1台
・電信機2セット(電池、電線4.8km、絶縁体つき)
・フランシス製 救命ボート
・銅製寄せ波船(サーフボート)
 →ハワイ文化
・農機具一揃
・自然科学に関する本
・法律や政治に関する本
・農業や工学に関する本
・合衆国沿岸の海図集
・銀蓋付き化粧箱
・緋羅紗やベルベットなどの布地
・合衆国標準の秤・分銅・樽・巻き尺など測定具一式
・マデイラ酒、ウィスキー、シャンペン他高級酒
・上等の茶3箱(高級紅茶か)
・合衆国の州地図と石版画
・望遠鏡(脚一式)
・鉄板ストーブ
・上等香水各種
・火薬
・ライフル、マスケット銃、剣、カービン銃、ピストル
・ニューヨーク州立図書館と郵便局目録
・南京錠(鍵)付き郵便袋
→郵便制度の道具
・花の刺繍入りドレス
・金メッキの化粧用品箱
・香水詰め合わせ 6ダース
・動物図鑑
・米墨戦争に関する書籍と絵画
・柱時計
・ストーブ
・茶器
 その他 そして贈答目録には含まれていませんがこの時に
ウィラー&ウィルソン社のsewing machineが含まれていました。
ミシンがペリーの正式な贈答目録に無かった理由は不明ですが、
米国内でも登場(製造)したての<新製品>であったためではないでしょうか。
ペリーによるミシンを受け取ったのは徳川13代将軍家定の妻<篤姫>ではないかと推測されています。
理由は、開港後の1862年(文久2年)に天璋院(篤姫)から献上のsewing machineの返礼をウィラー&ウィルソン社に送付していたからです。
この時期
1850年代から1900年にかけての半世紀は縫製機械の革新期にあたります。生産国のアメリカ企業は国内はもとより外国向けに市場拡大を狙っていました。また需要拡大の背景には軍の近代化がありました。一般兵士の急増に対し”軍服調達”が急務だったからです。
革新期にあったミシンを使った縫製技術は日本を含め、欧米で同時代的に普及していきます。 もう一つ。
1860年(万延元年)に米国に渡った遣米使節団(木村提督・勝艦長)の通訳として咸臨丸に乗船した中浜万次郎(ジョン万次郎)も米国から<寫眞機>と<ミシン>を持ち帰っています。 咸臨丸
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=184 近代化を迎えた日本では、まず居留地でミシンを使う外国人が登場します。幕府開成所の教官であった遠藤 辰三郎は横浜居留地の外国人から「西洋新式縫製機械(ミシン)」の使い方を学び国内に広めようとした人物です。機械はあれど、使い方が解らなかったという訳です。
「西洋新式縫物器機伝習並に仕立物之事、右器機はシウインマシネと名づく精巧簡便の品にて近来舶来ありと雖も用法いまだ世に弘らず依て去年官命をを蒙り、横浜に於て外国人より教授を受け、尚又海内利益の為に伝習相始め候間、望の御方は開成所へ御尋なさるべく候、付ては伝習の序、何にても註文次第廉価にて仕立物致すべく候、依て此段布告に及ぶものなり。慶応四年二月開成所に於て遠藤辰三郎(明治文化史)」
幕末から明治にかけて、輸入ミシンの多くはドイツ製でした。
ドイツ人のアープルヒは幕末に自国製ミシンを輸入し横浜で販売を開始します。
西南戦争・日清戦争を契機に各国のミシンが軍事用として多く輸入されます。ドイツ製ミシンがを始め欧米製も輸入され市場を競い合います。
この頃
1850年(安政6年)ドイツ系ユダヤ人のアイザック・メリット・シンガーが移住先の米国で現在とほぼ同じ構造のミシンを発明しミシン市場に革命が起こります。
その後、製造システム、販売システムの革新で
ピーク時には世界のミシン市場の80%を独占した<シンガーミシン>時代が日本にも圧倒的な販売力とともに上陸することになります。
(つづく)
1月 5

第987話【運河物語】桜川

横浜の運河を追いかけています。
【真景絵図】シリーズの合間に運河を入れます。

今回は桜川運河です。
桜川は現在の横浜中心市街地を支えた運河群の一つで大岡川と帷子川を繋ぐ約2kmの運河でした。
1870年(明治3年)に誕生し翌1871年(明治4年)には「桜木川」と呼ばれましたがその後「桜川」となりました。この「桜川」、
河川史関係の資料では1954年(昭和29年)に消滅したことになっています。
開港資料館の<消滅した8つの運河>では桜川も消えた運河の一つとして紹介されています。
ただ”正確”には現在もしっかりと”桜川”は存在しています。(後述)
桜木川から桜川に名称変更された年代が特定できなかったのでここではすべて「桜川」と表現しておきます。
消えた部分の桜川は現在「新横浜通り」になり、地下には市営地下鉄が走っています。海側にはかつて造船所だった場所が「みなとみらいエリア」に変貌し、ここが運河であったことを全く感じることはありません。バス停や信号機、路地に一部名残を残すのみです。
旧桜川、紅葉橋付近
明治3年ごろ内田清七埋め立て用地
[桜川誕生]
桜川は、鉄道を敷設するために埋立工事を行った土地の”用水路”として誕生しました。
明治維新早々、横浜と新橋(汐留)の間に鉄道計画が持ち上がります。
品川から神奈川まではなんとか敷設できそうでしたが、問題は海や沼に敷設するという課題でした。
明治21年頃、鉄道用地
品川・新橋間には沼地が広がり
神奈川から開港場までは「帷子川」河口の入海・「野毛浦」の山が障害でした。
鉄道黎明期の歴史書では最大の難関だった帷子川河口域を埋め立てた高島嘉右衛門の功績が必ず採り上げられています。もう一人、現在の桜木町駅周辺の敷地を造成したのは内田清七という人物です。その名に因んで鉄道敷地の大半が「内田町」となっていました。しかし、彼の名は時間が流れるに従い消えつつあります。
残念なことです。
内田清七は、切り立った野毛浦沖を埋立てて広い鉄道用地を完成させます。この埋め立てた敷地と野毛の山からの排水路として運河を整備したのが「桜川」です。
横浜沿革誌明治3年5月

※『横濱沿革誌』
「明治三年(庚午)五月。吉田橋脇ヨリ入船町野毛浦迄埋立竣功、之ヲ新街道ト云。受負人真砂町(京屋)内田清七、入船町ヨリ野毛浦埋立地地固メノ為メ、葭簀張納涼茶屋、其他軽業・辻講釈、昔噺等ノ興行ヲ神奈川県裁判所二出願、許可ヲ得テ興行ス、而シテ其土地ノ潤沢景況ヲ輝サンガ為、烟火百数本、仕掛数個ヲ打揚ゲヲ出願シ、野毛浦海岸ニ於テ施行ヲ許サル、故二六月二十一日の夜、船数隻ヲ浮べ、鍵屋製ノ煙火百数本、仕掛数個ヲ打上ゲ、横浜川開キの創始ヲ催しシタリ、爾来、納涼遊歩者日々群ヲ成シ、麦湯店ノ流行殆ンド埋立地ノ過半ヲ占ムルニ至レリ」
この時に、”大江橋の橋台・柱石建設工事開始(内田清七請負)”も行い、大江橋竣工(明治5年)にも深く関わっています。
「京屋内田清七が請け負って埋め立てた所で、明治5年に内田町字1丁目から12丁目までを新設した。明治20年に内田町字3丁目から5丁目までの片側を長住町とし、内田町は字1丁目から8丁目までとなる。町名は埋立者の姓「内田」を採った。町は飛地状となっている。(中区)」
<余談>
この横浜沿革誌に書かれている内容は当時の土木事業を知る重要な鍵が隠されています。
“地固メノ為メ”にイベント(興行)を行い”土地ノ潤沢景況ヲ輝サンガ為”人よって土地を踏み固めるという手法を用いています。
地固メ手法は江戸期からさかんに行われ、戦前横浜川崎の海岸線埋立事業でも人を集めて踏み固めた記録が多く残っています。
[双十字路]
桜川には大きな特徴があります。
大岡川と帷子川を結ぶ運河で接続部が当初両方共”運河十字路”=双十字でした!
・大岡川十字水路
桜川・大岡川十字路
現在は桜川と派大岡川が埋め立てられています。
・石崎川十字水路
石崎川・桜川十字水路
現在は桜川と石崎川下流が埋め立てられ、変則的に曲がり帷子川に繋がっています。
石崎川は大岡川支流の中村川のように、河口の無い川です。
(消えた石崎川河口)
冒頭に桜川は消滅していない!と紹介しました通り、桜川は現在も残されています。
平成8年桜川・石崎川
[因縁 横浜駅]
桜川大岡川口には初代横浜駅(現桜木町駅)があり、
初代横浜駅
桜川石崎川口には二代目横浜駅(現在遺構のみ)があります。
二代目横浜駅
[桜川の橋]
大岡川から桜川に架かっていた橋は
◇錦橋
◇緑橋
◇瓦斯橋
◇紅葉橋
◇雪見橋
◇花咲橋
このあたりから時代を経て変化します。
明治10年代は「大平橋」が架かっていて、石崎川に合流します。
その後、平沼新田造成が進み、
横浜駅が高島町に移設されることで[石崎川]の架橋状況が変わりました。
また地図で推理する限りですが、
桜川が「二代目横浜駅」を避けるために流れを変え、より石崎川上流側に合流地点が移ります。
大平橋→戸部橋・櫻橋→石崎川に合流
石崎川に架かる橋
◇西平沼橋
◇梅香崎橋
◇石崎橋
<桜川合流>
◇高島橋
(富士見橋)埋立廃止
→<石崎川十字水路>が無くなります。
桜川の下流部が石崎川下流域になり
◇材木橋
(不明)浅山橋か?
<帷子川合流>
◇万里橋
◇築地橋
大正2年桜川
新横浜通り(桜川)
まだまだ桜川近辺の歴史も含めると色々な歴史ドラマが隠されています。
今回はこのくらいにしておきましょう。
桜川関連マイブログ
第873話 【絵葉書の風景】駅前劇場
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9465
※ちょっとお宝話 第977話【横浜の道】国道16号線
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12004
新横浜通り
第960話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第五話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11695
桜川B橋
第891話【横浜の橋】A B 橋
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9936
12月 27

第986話【横浜真景一覧図絵比較】 その1

前回から25年版・35年版を比較し10年間を探ってみました。
おさらい
<一目見ての大変化>
 海岸通り部分の埋立
 大桟橋の完成
 富士見川運河が消滅
前回の
第985話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第六話で簡単に紹介しました。
【横浜真景一覧図絵】明治25年版・明治35年版比較
【横浜真景一覧図絵横浜簡単年表】
1887年(明治20年)
 野毛山に県営水道完成、野毛山貯水場から市街への常時給水開始。
 ※trivia 最初は神奈川県営水道だったんですね。日本最初の近代水道。
1889年(明治22年)
  4月1日 横浜に市制(人口116,193人・面積5.40 km2)。
※現在の80分の1の広さでした。初代市長は増田知。
1890年(明治23年)
 2月1日 横浜貿易新聞 創刊。
 ※神奈川新聞のルーツです。
 横浜ー東京間で電話交換開始。
1890年(明治23年)
 水道が市営になる。
1890年(明治23年)
横浜共同電灯会社が初めて電灯を点火する。
1891年(明治24年)
十全医院が市営になる。
1892年(明治25年)
ガス局が市営になる。
鉄桟橋工事着工。
※25年版発行
1894年(明治27年)
 伊勢佐木・石川・山手の3消防組ができる。
 横浜港鉄桟橋(現在の大さん橋)完成。
 横浜蚕糸外四品取引所設立。
1895年(明治28年)
 生糸検査所 設立
 横浜商業会議所(横浜商法会議所の後身)が設立される。
1896年(明治29年)
 第1期築港工事竣工
 新吉田川開削、富士見川埋立工事竣工。
1899年(明治32年)
 条約改正で居留地が撤廃。
1900年(明治33年)
 1月22日新港埠頭工事着手。
1901年(明治34年)
 第1次市域拡張(人口299,202人・面積24.80km2)。
 久良岐郡戸太町、本牧村、中村、根岸村、橘樹郡神奈川町、保土ケ谷町の一部編入
1902年(明治35年)
 3月15日 日本郵船会社横浜支店新築落成。
 8月5日 横浜・横須賀間定期航路2往復から3往復に増便。
 12月10日 大江橋架橋工事竣工。開橋式。
※35年版発行
M25版 西之橋近くの謎の橋
M35版 西之橋近くの謎の橋が消えた。石炭庫周辺の路も整備されている様子がわかります
<変化場所>
 ・幻の石川町橋
 第890話【横濱の風景】西之橋からみる風景
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9927
・千秋橋の登場
 第950話 【大岡川】千秋橋の謎
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11440
ここでは長者町の土手が明治35年版では「千秋橋」となっています。
明治25年版 日之出川と吉田川合流地点にある<長者町の土手>
明治35年版 長者町の土手が千秋橋に架かっています
・35年版には日ノ出川の橋梁と中村川・日ノ出川・吉田川に船影が
※25年版 日之出川には橋梁が3つ架かり「日ノ出橋」のみ名が表示
※35年版 日之出川から一つ橋が消え、位置も変わり「扇橋」となっています。
  日之出川は、その後中村川との合流地点に「松影橋」架かります。
  これは 真金遊郭の整備を含めた長者・寿・永楽・千年・三吉周辺の大きな区画整理の結果で道路が変わったためでしょうか。
明治25年 日之出川
明治35年 日之出川に架かる橋。扇橋が新たに別の場所に架かっています。
日之出川 扇町川岸。川岸には石屋があり、長い板塀の屋敷が確認できます。
※25年版には描かれていなかった船影が運河に描かれるようになっています。
  ※25年版で描かれたパーツをコピペした感じですが、運河の賑わい・変化を感じます。
・大岡川の黄金橋
 ※25年版 小金橋
 ※35年版 黄金橋
  25年版は書き間違いか、聞き間違いかもしれません。
25年版 小金橋
35年版 黄金橋に。水路が消滅し街区に変化しています。
次回は 当時の建物を比較してみます。
12月 26

第985話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第六話

今回から数回に分け、尾崎富五郎の描いた二版の鳥瞰図を元に(十年間の)変化を読み解くことにします。
この「横浜真景一覧図絵」徹底研究シリーズは今回で第6回目となります。
明治25年版
明治35年版
第1回から第5回までのシリーズで基本資料としたのが
「横浜真景一覧図絵」1892年(明治25年)版です。
第956話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第一話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11569
今回はこの25年版を改定した10年後の明治35年版を元に2つの絵図を比較し町の変化を観ることにします。
間違い探しみたいです
(開港場膨張)
25年版(1892年)から35年版(1902年)までの10年間は「横浜関内エリア」が大きく変化した時期にあたります。
特に変化したのが、湾岸部と大岡川の運河群です。
明治25年版
明治35年版
<湾岸部>日本波止場から
  大波止場(英吉利大波止場)まで
 海岸通り沿いにある製鉄所・日本郵船の本社先が埋立てられています。また、開港後暫定的に作られた突堤<象の鼻>から桟橋が伸びています。
25年版が出版されるころに桟橋計画が持ち上がりました。暫定桟橋計画も進められますが間に合わず本格的な港湾施設が必要となり<横浜港全体の築港計画>が計画されました。
すでに活躍していたオランダの技師提案と英国人技師提案が競う形になり最終的に英国人パーマーに依頼します。
象の鼻
波止場名が英吉利大波止場となっています
<大岡川運河>
 運河部を見ると、25年版(1892年)では富士見川(運河)が完成していますが、35年版(1902年)版は1896年(明治29年)に埋め立てられていたので図上からは消滅しています。
1872年(明治5年)〜1873年(明治6年)に日ノ出川が開削され、堀割川も完成しました。中村川・大岡川・吉田川に航路が開通し運河が水上交通として有効活用され始めた時期にあたります。
元来、関外を形成する吉田新田エリアは干拓によって開発された「田畑」でした。
農地から宅地へと変化する中で、関外エリアは市街化のために<下水問題>を含め多くの課題を解決していくインフラ整備が求められます。
上部の運河が日ノ出川、下の運河が富士見川。上下に流れるのが左:新吉田川 右:中村川
富士見川が無くなり土地区画整理が行われています
1886年(明治19年)富士見川開削完了
 ところが 排水状態が悪く、
1896年(明治29年)には埋め立てられ富士見川消滅。
 上流から整備が進んでいた「新吉田川」が完成。
1897年(明治30年)に(新)吉田川のバイパス運河「新富士見川」が完成。
ほぼ 大岡川運河群が整備完了。戦後まで関内外を支えてきた運河群が誕生します。 (過去【横浜真景一覧図絵】ブログ
第956話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第一話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11569
■都市鳥瞰図
第957話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第二話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11580
■大岡川弁天橋付近
第958話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第三話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11596
初代横浜駅前の様子
第959話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第四話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11607
「運河」の町横浜
第960話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第五話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11695
横浜真景一覧図絵に見る「橋梁」 ■25年版(1892年)・35年版(1902年)比較
 35年版は25年版を基本にしています。作者の気になった部分のみ修正されています。船のカタチ、位置は全く変更されていないものも多くあります。
だからこそ 変更されている部分に着目してみる価値あり!
ということでザクっと比較てみました。
 道路の修正は入念に行われているようです。
<一目見ての大変化>
 海岸通り部分の埋立
 大桟橋の完成
 富士見川運河が消滅
ここまで今回紹介しました。

<部分変化>
 幻の石川町橋
 日ノ出川の橋梁
 中村川・日ノ出川・吉田川に船影
 千秋橋の登場
 長者・寿・永楽・千年・三吉周辺の区画整理
 真金遊郭の整備
 長島・若葉・末吉周辺の区画変化
 大岡川の黄金橋
 戸太村周辺の傾斜地が宅地化
 横須賀出船所
明治25年版 富士見川が描かれています
明治35年版 船が描かれています。千秋橋が完成しています。
次回から 変化した部分に少しこだわってみます。
8月 2

第962話 8月2日(木)

1930年(昭和5年)8月2日(土)の今日、
午前9時半、横浜港に日本郵船の北大西洋航路定期船「龍田丸」が桑港(サンフランシスコ)から入港しました。

龍田丸

この年の春4月25日に初就航した「龍田丸」は浅間丸姉妹船として三菱造船で建造。隔週運行し、米国サンフランシスコからロスアンジェルス・ハワイを経由し、横浜・神戸そして上海・香港を結ぶ花形航路でした。

横浜4号岸壁龍田丸

No.39 2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語

No.39 2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語


この日到着した「龍田丸」に83歳になる日本を代表する実業家が乗り合わせていました。
浅野総一郎。
このブログでも様々なテーマに登場する、近代横浜経済を語る上で重要な人物です。
意外に、浅野自身に関しては殆ど触れることは無く、彼のビジネス展開を紹介する程度でした。
といって浅野総一郎をガチンコで紹介しようとすると
それだけで 数十回のボリュームを必要とするほど、マルチスーパー実業家です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/浅野総一郎
アウトラインはウィキペディアでごめんなさい。
彼の業績をザクッと絞ると
安田財閥と関係が深く
基本は「セメント」
知る人ぞ知る現在も浅野セメント(現在は太平洋セメント)
浅野製鉄→日本鋼管株式会社(現:JFEスチール)

浅野製鉄所

浅野造船

浅野ドック跡地

東洋汽船
※日本郵船に挑戦し、孤軍奮闘、最終的に客船部門は日本郵船に。貨物部門は残り戦後まで続きます。
東亜建設工業
https://www.toa-const.co.jp/company/introduction/asano/
沖電気工業 →意外でしょう?
関東運輸株式会社
浅野物産株式会社(現在は 丸紅や株式会社NIPPOなどに分社)
この他にも鉄道関係にも深く関わり
青梅鉄道、五日市鉄道、南武鉄道
そして 教育機関として「浅野学園」
といった企業群を挙げるだけでも、浅野財閥と呼ばれた理由がわかります。
しかもこれらの企業群を一代で築いたのですから、すごい人物でありすごい時代でした。これ以外に
浅野総一郎の果たした最大の功績は
横浜港整備と京浜埋立事業の立役者であったと思います。

浅野総一郎が安田善三郎と出会い、渋沢栄一に信頼された”大風呂敷”は
横浜港の整備される前、
東京と横浜をつなぐエリアを整備し運河機能を活かした一大インフラ計画をいち早く考え、夢を実現、実際に成功させたことでしょう。
とにかく横浜は開港したまでは良かったのですが、その後の横浜港はとにかく使い勝手が悪く、幕末の海運事情はあっという間に過去のものとなってしまったため近代港湾施設整備が急務でした。19世紀末から20世紀は
世界が産業革命以降の技術革新の荒波に揉まれていた時代でした。

大消費地「東京」へスムースに荷が運べない。
湾岸は多摩川の土砂が蓄積しペリーが測量で確認した通り、遠浅で海運には向きませんでした。鉄道など陸路の整備もままならない中、横浜から東京までの回漕費は、ロンドンより横浜までの運賃とほぼ同額という実に非効率の時代がしばらく続いたのです。当時の神奈川県に話を持ち込んでもなかなか埒が明かず、最終的には自分で資本を集めて事業化してしまったのが浅野総一郎でした。
話を1930年(昭和5年)8月2日に戻します。
この日、浅野総一郎の帰国は大きく新聞紙上にも取り上げられました。

新聞記事

「若返った浅野翁」
「十億外資借入旅から帰国」
若返ったのはそのファッションでした。真っ赤なネクタイを締めた姿が、83歳の日本人には見えなかったのでしょう。また十億外資借入旅とは、震災で打撃を受けまた昭和に入り恐慌が起こるなど、経済状況が厳しい中、80歳を過ぎた浅野総一郎は、事業発展のために
「セメントを輸出するために、今年はアメリカとイギリス、ドイツに支店を作るぞ。世界恐慌といってもいつまでも続くとは思えない。それにアメリカ政府は景気対策として、公共事業を始めるだろう。セメント需要は一段と高まるだろう。不況のときこそチャンスだ。」
「安田さんが亡くなったから、俺はこれからは海外から資金を借りて仕事をする」とぶち上げ、昭和5年5月18日にシベリア大陸経由で欧米視察(資金調達)の旅に出ます。ところが、ドイツで体調異変に気が付き、食道がんの可能性があると診断されます。ドイツでは友人の野村大使らの歓迎を受けますが、旅半ばで急遽日本へ帰ることを決断、アメリカ経由で
8月2日のこの日横浜に帰ってきたのです。帰国後すぐに診察、結果は食道がん。
その後 大磯に戻り療養しますが11月19日
83年の波乱に満ちた生涯を遂げました。
今日はここまで。
浅野総一郎と築港の父パーマーの話も紹介しておきたいところですが、別の機会にしておきます。