No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3

投稿者: | 2012/09/08

今日は、横浜のGHQ最終話です。
1945年(昭和20年)9月8日(土)の今日、
GHQを横浜から東京に移すためにマッカーサー元帥は「第一生命館」を視察、自ら進駐軍本部に決定します。
No.243 8月30日(木)横浜の一番長い日
No.246 9月2日(日)90年後の横浜
の最終話として、GHQ横浜から東京へ移る際の小さなエピソードを追います。

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第一生命館

「第一生命館」
所在地: 千代田区有楽町1
建築年: 昭和13年11月
設  計: 渡辺仁 松本与作
構  造: 鉄筋鉄骨コンクリート造8階
東京の建築資産として残る名建築の一つです。
簡単にGHQ横浜進駐のおさらいをします。
1945年(昭和20年)8月30日(木)に、厚木基地に降り立ったマッカーサーは、簡単な記者会見の後 当初予定していた葉山ではなく横浜に向かいます。(ある程度事前に決まっていたようです)
山下公園にあるかつて泊まったことのあるホテルニューグランドに3泊したあと、戦前スタンダード石油社長の自宅だった邸宅を宿泊所に決め、9月15日まで使用します。

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推測です。この辺はミシシッピーベイと呼ばれた根岸湾を臨める場所
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ちょうどこの場所行ってきました。マッカーサーハウス FOR RENT?ほんとかな?
※現在は マンションとなり存在しません。ここも    歴史的資産が無くなった?

この間GHQは横浜税関に置かれ、接収事務と同時に、東京へ本部を移す下調べを行います。
進駐軍が要求していたのは、
★最高司令官のためには
「相当ノ造作ト家具」を備えた住宅を
★10名程の将官用には「相当ノ造作及家具ヲ有シ最高司令官住宅ノ近隣ニアル適当ナル住宅」
★600名の士官用にはホテルまたは同等の宿舎
★2,300名の兵員宿舎
★司令部用の建物、倉庫、150台の乗用車・バス25台・トラック50台とかなり具体的であったようです。(江藤淳『占領史録』第一巻、講談社、一九八一年)

9月6日(木)に、GHQ用庁舎候補の一つとして「第一生命館」に対しGHQから図面や資料を提供を求められます。
9月7日(金)に、GHQ参謀副長イーストウッド代将と工兵隊司令官であるケイシー少将が第一生命を訪れGHQ用庁舎として第一生命館を使用することを伝えますが、マッカーサー執務室の入る本部としては未定でした。
9月8日(土)にマッカーサーはアイケルバーガーとハルゼイ提督を同乗させ横浜から東京のアメリカ大使館を訪れ国旗掲揚を行います。この模様は“ラジオ中継”されたそうです。
昼になり、帝国ホテルを視察がてら食事に向かいますが、その際「第一生命館」が目にとまり部下たちだけで検分する予定を変更し自ら足を運ぶことにします。

前日ここを訪れていたイーストウッド代将と第一生命の幹部の案内で、
6階の社長室、貴賓室などを視察します。

現在も保存されている執務室

マッカーサーはここが気に入り、他の下見予定を全てキャンセルし横浜に帰ります。
マッカーサーという人物は万事このような感じのパフォーマンス重視の司令官だったようです。第一生命にはイーストウッド代将から口頭で通告され、9月15日(土)に引き渡しが行われました。
10日くらいでビルまるごと引越せよというのですから敗戦国とはいえ大変だったと思います。

No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日

No.246 9月2日(日)90年後の横浜

9月15日 正午をもって「第一生命館」はGHQに引き渡され、6年10か月にわたり接収されることになります。

では、横浜に住んでいたマッカーサーは、横浜から通ったのかといえばそうではありません。千代田区赤坂のアメリカ大使館内に住まいを移し、執務にあたりました。彼の日課は午前10時30分に大使館を出て、第一生命ビルGHQに向かい午後になると大使館に戻り昼食後、軽い昼寝をした後に再びGHQに戻り夜遅くまで連日休暇もとらずに執務していたそうです。

当初、マッカーサーの住まいを「旧前田侯爵邸洋館」にする計画でしたが、治安上の理由?から大使館になったそうです。実は気に入らなかったのではないか?とも言われています。

1945年(昭和20年)9月に接収された旧前田侯爵邸洋館は、エニス・C・ホワイトヘッド(Ennis C. Whitehead)第五空軍司令官の公邸として使用され、 マッカーサー司令官が解任された後任のマシュー・バンカー・リッジウェイ(Matthew Bunker Ridgway 1895-1993)司令官の官邸となりました。
現在は 開放され無料で見学することができます。

これで、横浜から進駐軍の中枢が東京に移りますが、横浜・神奈川自体の接収地返還は遅々として進まず(沖縄返還前では)日本最大の占領地を抱えた街として戦後復興期を迎えることになります。

No.139 5月18日 マッカーサーに嫌われた男

No.148 5月27日 決裂前夜のこけら落とし

No.172 6月20日(水) 階級差なく埋葬

No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー

これ以降、終戦直後の横浜はテーマがあり次第【番外編】で紹介していきます。

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