No.246 9月2日(日)90年後の横浜(加筆修正)

1945年(昭和20年)9月2日(日)は?
多くの日本人はピンとこない日かもしれません。
今日は、横浜沖で日本が降伏調印を行い“停戦”が成立した日です。

戦艦ミズーリ上の日本代表団

終戦の日は?と尋ねると、
日本人は1945年8月15日(水)と答えますが、
アメリカ人は9月2日と答えます。
確かにあのポツダム宣言を受け入れる玉音放送があらゆるドラマやドキュメンタリーの素材に使われてきましたから、私たちにとって8月15日は特別な意味だと知らされてきました。
しかし、現実に休戦条約に調印するまでの半月の間に“戦闘”は一部で起っていましたし戦死した人たちもいたことを忘れてはならないでしょう。

1945年(昭和20年)年9月2日(日)
日本の代表団として重光葵外相以下9名は
横浜港からアメリカ艦船に乗り“あるポイント“に停泊している
ミズーリ戦艦に向かいました。

※マシュー・ペリーが横浜沖に係留したポイントです。

 

降伏調印式は午前9時頃から始まり、数分後には降伏文書の署名も終了予定でした。
■日本側全権 重光葵外相、梅津美治郎参謀総長
■連合国側 アメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの9カ国。

調印文書

この調印で、1939年(昭和14年)9月1日(金)ドイツのポーランド侵攻に始まった第二次世界大戦が約6年で終了します。
日本にとっては1941年(昭和16年)12月8日(月)から3年10ヶ月の時が流れました。
調印式の時、すでに横浜に進駐していたGHQのマッカーサーは、あからさまに勝利者としての演出に凝ります。
その象徴が米国国旗の掲揚でした。
マッカーサーが、ポケットに手をつっこんだまま調印式に参加する背後には、二枚のアメリカ国旗が掲揚されていました。
1枚は5年前、真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた物で、
もう1枚は90年前の1853年、
ペリー提督の旗艦「ポーハタン号」が浦賀来航の際に掲げていた物でした。
さらに、調印が行われた戦艦ミズーリの停泊位置は、まさに1853年ポーハタン号が停泊していたあたりにしたのは“第二の開国”をかなり意識したのでしょう。

1853年当時の星条旗

歴史の皮肉でしょうか?
ペリーもシンガポールから中国、沖縄を経て横浜に入りますが、
マッカーサーのアメリカ軍も同じようなルートをたどり横浜に達します。

調印式は 味気なく終了する予定でした。
マッカーサーの数分の演説を除いては。

一般的に調印文書は正副2通作成されます。
この降伏文書も各調印者は2枚の文書にそれぞれ署名をします。
ところが片方の調印文書にカナダ代表コスグレーブ大佐が署名する際、自国の署名欄ではなく1段飛ばしたフランス代表団の欄に署名してしまいます。
次の代表であるフランスのルクレール大将は(これに気づかず)オランダ代表の欄に署名し、 続くオランダのヘルフリッヒ大将は間違いを指摘しますが、マッカーサーはそのまま調印を続けろと指示します。
ヘルフリッヒ大将は渋々ニュージーランド代表の欄に署名し、最後の署名者であるニュージーランドのイシット少将もアメリカ側の指示に従い欄外に署名することとなり、
カナダ代表の欄が空欄となった調印文書ができあがります。
この不備?な方が日本側に渡されたそうです。
ところがオランダ代表のヘルフリッヒ大将がこの不備を終戦連絡中央事務局長官で日本側代表団の岡崎勝男に伝えます。日本代表の重光に伝え各国代表の署名し直しを求めます。連合国側(米国)が拒否、押し問答がありましたが最終的に
サザーランド中将が間違った4カ国の署名欄を訂正して日本に渡します。
(上掲の写真は正本だそうです)
ここでしっかり異議を唱えなかったら 屈辱的調印書が残ったことになります。

岡崎 勝男
1945 年(昭和20 年)8 月26 日
連合国軍最高司令官より示された中央連絡機関設置の要求に応じて、外務省外局に終戦連絡中央事務局が設置されました。その長官となったのが終戦時外務省調査局長だった岡崎 勝男です。岡崎は横浜生まれ、スポーツマンで1924年(大正13年)のパリオリンピックに陸上競技代表として参加しています。(成績は途中棄権)

開港時、ペリーと交渉に当たった林復斎(大学頭)とは交渉背景が全く異なりますが、この敗戦の調印書の不備を交渉できる冷静さで
その後マッカーサー命令と対等な交渉を行った岡崎 勝男のエピソードを紹介しておきましょう。

3月3日 日本初の外交交渉横浜で実る→“林復斎”

この日の午後、事態が急変します。
GHQは日本政府に対し「明日(9月3日)に三布告を発表し、明日から「軍政」を始める」と通告します。

wikiより一部編集
「ミズーリ号艦上での式典が終わって数時間後の午後4時過ぎ、終戦連絡委員会の鈴木九萬公使はGHQのマーシャル参謀次長より、翌9月3日に告示する予定の「三布告」について告げられた。
その内容は

布告第一号:
立法・行政・司法の三権は、いずれもマッカーサーの権力の管理下に置かれ、管理制限が解かれるまでの間は、日本国の公用語を英語とする。
布告第二号:
日本の司法権はGHQに属し、降伏文書条項およびGHQからの布告および指令に反した者は軍事裁判にかけられ、死刑またはその他の罪に処せられる。
布告第三号:
日本円を廃し、B円と呼ばれる軍票を日本国の法定通貨とする。

の各布告から成っていた。
完全な直接軍政である。
知らせを受けた外務省はすぐに岡崎 勝男を横浜のホテルニューグランド(占領当初のGHQは現在の横浜税関に置かれた)に派遣し、2日深夜マーシャルに面会の上三布告の公布差し止めを要請、同意取り付けに成功した。翌日には重光外相とマッカーサーの会見により、間接統治の方向で妥結をみた。なぜGHQ側が簡単に布告案を撤回したかについては良くわかっていない。日本側の出方を探るためではなかったかと言われている。」

重光外相の交渉成功、岡崎 勝男の直談判なしに、今の日本はありえないといわれています。
今ごろ英語を話し、ドルを使っていたかもしれません。
「三布告」は占領軍(米軍)が、その国の政治・経済・司法制度をすべて変えることを宣言するもので国際的にも考えられない布告であったのですが、Wikiに書かれているようにマッカーサーのスタンドプレイだったかもしれません。(だったようです)

1945年(昭和20年)9月2日(日)の今日、
横浜沖とホテルニューグランドの一室で
日本の運命が決まるドラマが起っていたのですね。

No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日

その後
1951年(昭和26年)9月8日(土)に署名されたサンフランシスコ条約で日本はようやく戦争状態を停戦から終結になりますが、この時すでに始まっていた冷戦状態を受け
ソ連と中華民国が調印に不参加となり問題が先送りされます。
この時に締結された条文を巡って
今 竹島 尖閣 北方四島が領土問題として現在まで引きずる結果となります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本国との平和条約

この重要な交渉を成功させた岡崎は
吉田茂の側近として政界に進出します。
1949年(昭和24年)1月23日
第24回衆議院議員総選挙で旧神奈川県第3区から民主自由党公認で出馬し
43,818票を獲得しトップ当選します。3期当選しますが
吉田茂退陣の影響を受け
1955年(昭和30年)第27回衆議院議員総選挙で敗北
1963年(昭和38年)第30回衆議院議員総選挙に自由民主党から出馬
次点落選し政界を引退しますが外交では国連大使を務めました。

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