日本の一番長い日が1945年(昭和20年)8月15日なら、
横浜の一番長い日を8月30日に見ることができます。
横浜の戦後は
マッカーサーとアイケルバーガーの二人から始まります。
1945年(昭和20年)8月30日
厚木に降り立ったマッカーサーが一路横浜を目指し、ニューグランドホテルが彼の執務室になった事は有名です。
一方、GHQ本部の置かれた横浜税関に向かい、
占領政策の実務を担当したのがアイケルバーガー中将です。
有名な厚木飛行場のマッカーサー |
8月30日のマッカーサーは話題が豊富です。
計算されているようで気まぐれなパフォーマンスの多い
“コーンパイプ”の男は厚木に降り立ちます。
その時に行った冷静な記者会見「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。…」の後、厚木から当初の予定地である葉山御用邸に入る計画を変更し、長後街道、国道1号経由で横浜のニューグランドホテルに入ります。
三日間ホテルニューグランド315号室に逗留したマッカーサーは、実質の滞在先を山手に移します。(急な変更で準備が間に合わなかったためホテルに?)
※マッカーサーは戦前家族で数回来日しています。ホテルニューグランドにもここに一度二回宿泊したことがあります。(訂正してお詫びします)
1945年(昭和20年)9月2日に日本と連合国との間で“休戦協定”締結後の9月16日連合国軍本部が横浜から第一生命相互ビルに移転。彼は活動拠点を皇居前の第一生命ビル内の執務室に移し1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部総司令官(General Head Quarters of the Supreme Commander of Allied Powers)として日本占領政策に大きな影響力を行使します。マッカーサー執務室は当初、旧前田侯爵邸洋館(駒場公園)におかれる予定でしたが、セキュリティの理由から変更されたとありますが、ダグのお眼鏡に合わなかったのかもしれません。
日本最初のGHQ本部となった横浜税関 |
超有名なマッカーサーに比べ、
米第八軍司令官ロバート・ローレンス・アイケルバーガー(Robert awrence Eichelberger:1886年3月9日〜1961年9月25日)中将(着任当時)は、地味な存在です。
Eichelberger (Christopher W. Hart) |
米第八軍は現在も韓国に主力部隊を駐留させているアジア有数のアメリカ陸軍の部隊の一つで、戦後の日本占領任務を担いました。
もともと米軍(連合国)は、ダウンフォール作戦(本土上陸作戦)をマッカーサーの下で進めていました。
(ダウンフォール作戦の図) |
ダウンフォール作戦は二つの上陸作戦で構成されています。
ウォルター・クルーガー大将(Walter Krueger, 1881年1月26日〜1967年8月20日)率いる米第六軍をまず九州から侵攻させる「オリンピック作戦」を行い、引き続き相模湾から首都東京に侵攻する「コロネット作戦」をアイケルバーガー中将の指揮で行うというものでした。
日本侵攻後は、
糸魚川〜小田原を結ぶ線以西の西日本を第6軍が、
東日本を第8軍が占領任務を担任することになっていました。
日本がポツダム宣言を受諾することでダウンフォール作戦決行は直前で中止されます。
攻撃論もありましたが、ソ連に先んじ日本全土を占領できると判断しマッカーサーは無血占領に舵を切ります。(これには議論があります)
そして、アイケルバーガー中将はマッカーサーと共に戦うこと無く日本(厚木)の土を踏みます。
事前に先遣隊が連合国軍本部を「横浜税関」に決め、
アイケルバーガーはここに乗り込むことになります。
連合国軍本部は9月16日までの短い期間ですが、まさに占領任務の第一歩はここから行われたことになります。
その後、マッカーサーとアイケルバーガーの運命は別の方向に別れていきます。
大統領選の野望に破れたマッカーサーは、教条的とも思える占領政策に固執し朝鮮戦争にのめり込み解任。
アイケルバーガーは、マッカーサーと対日施策で意見が合わず着任まもなくの1948年(昭和23年)に解任され本国に戻ります。
「占領 1945〜1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人 」の中で著者、ハワード・B・ショーンバーガー(宮崎章:訳)は
「アメリカに代表部を置くことを禁じられていた戦後の日本政府高官や、銀行家・産業家といった日本政府の支持者たちは、 アメリカ国内のまだ見ぬ同志に訴えるべく、改革指向の最高司令官を出し抜く方法を探っていた。 窓口の一つはロバート・L・アイケルバーカー陸軍中将だった。 彼はジャパン・ロビーと親しく、一九四七年以降マッカーサーとは敵対的になっていたのである。 四八年夏まで第八軍司令官だったアイケルバーガーは、横浜に司令部があったため、 総司令部からはある程度自由に動くことができ、陸軍省と直接連絡をとることもできた。 占領軍の行う政治改革・経済改革のほとんどに反感を持っていた吉田首相、それに芦田均外相や終戦連絡横浜事務局の事務局長鈴木九萬は アイケルバーガーと親しく、彼の助言や支援をしきりに利用した。」(p178引用)
相模湾侵攻の「コロネット作戦」に関しては
有隣新書「相模湾上陸作戦」が詳しいので関心のある方は参考にされると良いでしょう。