1945年8月下旬、約50万人の米軍が日本占領のために進駐してきました。
その中心人物が、ダグラス・マッカーサーです。
彼を中心に日本占領時代が始まりました。
マッカーサーとニューディーラーと呼ばれた占領チームは次々と新しい占領政策を実施していきます。
ところが、
1948年(昭和23年)の今日5月18日に発表された「ジョンストン報告書」をまとめたドレーパー陸軍次官率いる使節団の方針は、対日占領政策を大きく方向転換するものでした。
上図の通り、横浜中心部は昭和25年頃ほとんど接収されていました。
例えば港湾部の接収は横浜経済(日本の貿易)にとって機能停止を意味しました。
特に石油精製プラントの接収は致命傷でした。
■ドレーパー陸軍次官の評価は、アメリカでも日本でも二分されています。
初期占領チームにいたセオドア・コーエンは「日本占領革命」の中で
ドレーパーを酷評し批判を展開しています。
一方、H・B・ショーンバーガーは「占領1945〜1952」で一定の評価を下してます。
国内でも、日本を米ソ冷戦体制に組み込んだ反共の砦としたという評価と、深刻な経済破綻(ハイパーインフレ)から救ったという評価が出ています。
表紙画像が無く汚れた自書で失礼 |
(近年改めて米国の占領政策評価が行われています。現在史の評価には一定の時間が必要のようです)
■マッカーサーとの対立
5月18日発表の「ジョンストン報告書」では、
日本の産業復興を最大の占領目的として位置づけ、
マッカーサーの掲げた占領政策にブレーキをかけるものでした。
ドレーパー陸軍次官とマッカーサーの対立は米国議会を巻き込んで熾烈な政治闘争に発展します。
結果はドレーパー勝利に終わり、1948年以降の実質占領経済政策は彼が握ることになります。
この闘争以降マッカーサーは指導力を失っていきます。
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ドレーパーとマッカーサー
■大幅な政策転換
「ジョンストン報告書」は、日本経済自立のため輸出入の増大、経済力の集中排除緩和(財閥解体の緩和)などを勧告し、戦勝国に対する賠償算定額をストライク報告※よりも大幅に削減するものでした。
またインフレを収束させるため均衡財政確立を求め、公務員削減や補助金打切りを主張し、その後の占領政策の重大な転換点となりました。
※ストライク報告
1948年3月に公表された米国対日賠償調査団の報告書で、団長C.ストライクの名に因んだものです。日本の生産能力を戦前の水準に回復させるために対日賠償は軽減するべきだと提案し、軍需以外の民間生産施設を撤去しないように勧告します。
この「ジョンストン報告書」を受け、接収されていた造船、港湾、石油産業が順次復活していきます。
横浜経済は、この恩恵を大きく受けました。
当時の石油業界は
「終戦後すぐは、石油業への復帰はいくら頼んでも認めてもらえず、やむなくラジオ業、印刷業などをやったり、翌年からは旧陸海軍のタンク底にたまった油の集積作業をやるなどして、耐乏の生活をしていたわけだ。占領下の石油政策はGHQの経済科学局(ESS)と参謀部第四部で担当していたが、実際上は、外国石油会社五社から派遣された人員で組織された石油顧問団(PAG)が動かしていた。」(出光佐三『我が六十年間』追補,345頁より引用)
その後、米軍接収エリアは産業施設を中心に解除されていきますが、沖縄が返還されるまで国内で最も米軍接収面積の大きい都市であったことも事実です。
戦後処理の曖昧さが、今日の領土問題や、アジア関係に影を落としています。
一度掛け違ったボタンを直すには、より大きなエネルギーと覚悟が必要になるでしょう。