【横浜小さな駅】田園都市線 市が尾駅
田園都市線沿線の小さな駅「市が尾駅」周辺を紹介しましょう。
「市が尾駅」は
1966年(昭和41年)4月1日に田園都市線が長津田まで延伸した際に開設されます。
田園都市線の駅間距離が1km前後中心ですが、
隣接駅「江田」へは1.3km、「藤が丘」へは1.5kmと平均より長くしかも起伏のある傾斜地に作られた「駅舎」です。
昔、マーケティングの師匠の教え
「鉄道、国道は川と同じ。地域をつなぐが分断もする。橋が無ければ万里の長城、文化も変える」
「市ケ尾駅」に降り立つとこの言葉を思い出します。
田園都市線はほぼ「国道246号線」に沿って走っていますが、都内の地下路線を除いて「江田駅」とともに246号線に最も近い駅です。
鉄道=田園都市線、国道=246号線が
このエリアを南北に走り、
しかも西側を「一級河川鶴見川」が北から南に流れ“地域を分ける要素”が揃っています。
これは決して悪い意味ではなく、横浜市内の田園都市線沿線としては昔の香りと新興住宅地の香りが併存している独特の街に感じます。
旧道、そして河川敷の佇まい。
起伏のある丘陵地帯と、そこに広がる新興住宅地。
典型的な「郊外の街」とも少し違う街の佇まいがあります。
鶴見川に沿って散策していくと鉄(くろがね)町、さらに上流には寺家のふるさと村もあり、横浜の“原風景”を巡る最適なルートです。
「市が尾」は不思議な町です。
青葉区内の田園都市線各駅「青葉台」や「あざみ野」「たまプラーザ」と比較して小さな町ですが、
青葉区の行政上の中心地域としての顔があります。
○横浜市青葉区総合庁舎
市内18区の中でも、青葉区役所は解りにくい(行きにくい)ベストスリーに入るかもしれません。
○横浜市青葉福祉保健センター
○横浜市青葉スポーツセンター
○横浜市青葉公会堂
○横浜市消防局 青葉消防署
○青葉郵便局
○神奈川県警察 青葉警察署
○横浜地方法務局 青葉出張所
○神奈川県 緑県税事務所
○緑税務署
と行政の施設が集中しています。
また1998年(平成10年)3月に
東名高速道路 横浜青葉インターチェンジが開通したことで、交通の要衝になります。
(古代史の街)
市ケ尾他鶴見側流域には、古代遺跡が数多く発見され、残されています。
市が尾駅からほど近いところにある「稲荷前古墳群」は珍しい中規模古墳で、当時の生活圏の大きさ(統治者の規模)を測ることができます。15〜17号墳の3基が保存されていて中でも16号墳は全国的にも珍しい方墳と方墳が線で結ばれたような形をしています。
http://kofun.info/kofun/213
また「市ヶ尾横穴古墳群」は、有力な農民の墓として6世紀後半から7世紀後半の古墳時代末期に造られたと考えられています。派手な「古墳群」ではありませんが、このエリアを歩いているとひと際良くわかる“こんもりとした丘”が「古墳群」として残されています。一部は開放されていて無理をすれば横穴に入ることもできます。(子供であれば難なく)
中にはガラス窓から横穴を覗くこともできます。
http://kofun.info/kofun/573
(ついでに)
駅から1分のところにある「市が尾第三公園」のオブジェ
「市が尾ベーカリー」
地元で信頼のあるパン屋さんだそうです。
“人気の”という枕ではなく“信頼の”というところがミソですね。
ご夫婦二人で、切り盛りされています。
→駅から徒歩7分位
「田園の憂鬱」
No.472 横浜と法政大学、その点と線
ここでも書きましたが、佐藤春夫が一時期暮らしていました。
「田園の憂鬱」の舞台となりました。
「とんかつ とん平」
なかなか丁寧な仕事ぶりで、
地元に愛されている感じが伺えるお店です。
→駅から徒歩5分位
※「市が尾駅」特に「わざわざ」行くところではありませんが、
時にぶらっと立ち寄ってみたいところです。
横浜年表ピックアップ【10月20日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
■トピックス
2013年(平成25年)の今日10月20日は、10月の第3日曜日にあたります。
10月第3日曜日は「新聞少年の日」「新聞配達の日」です。
この「新聞少年の日」は横浜ネタがあります。
No.157 6月5日(火) 半ズボンより長ズボンでしょ!
ここで紹介した「日本大通」にある新聞少年の像、
「長ズボン」なんです。だからなんだ!!について追っかけてみました。
※新聞週間中の日曜日を「新聞配達の日・新聞少年の日」と定めています。「新聞少年の日 」は1960年代に新聞配達の主力を担った少年たちの労をねぎらい、激励するとともに、 広く一般の理解を求めるために1962年に設置されました。
http://www.pressnet.or.jp/about/shimbun_shukan/gyouji/
●1875年(明治8年)の今日
「塚原渋柿園(27歳)田口十内の「讒謗律の疑ひ」を掲載したかどにより、編集長として罰金百円、禁獄十カ月に処せられる。」
新聞紙条例(1875年明治8年6月発布)に違反で摘発されたのは
塚原渋柿園が「横浜毎日新聞」に勤めていた頃です。
1874年(明治7年)に入社とありますから、まあ入社一年目で言論弾圧にあった!ということでしょう。これで“ひよった”(死語?)訳ではないでしょうが、1878年(明治11年)「東京日日新聞」に移り、新聞小説家として活躍します。
一方投稿した「田口十内」こと田口卯吉は頑張って時の権力を批判し続けます。
No.250 9月6日(木)やはり官僚には向かなかった?
●1885年(明治18年)の今日
横浜とは直接関係ありませんがメートル法条約に加入。
尺貫法は戦後まで併用されました。
●1913年(大正3年)の今日
神奈川県横浜市鶴見、総持寺で大梵鐘鋳造式が行われる。
●1986年(昭和61年)の今日
みなとみらい21熱供給会社設立。
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手前の白煙(水蒸気)を出している施設 |
(Wikiでは10月1日となっていますが創立総会と登記の差です)
この会社は、みなとみらい21中央地区のオフィスビル、商業施設、ホテル、コンベンションセンター、病院、マンションや地下鉄駅に熱供給事業を行う地域熱供給会社です。現在では日本有数の規模を誇る熱供給会社です。
http://www.mm21dhc.co.jp/index.html
●1938年(昭和13年)の今日
江ノ島電鉄株式会社、戦時統合により東京横浜電鉄(現東京急行電鉄)の傘下に一時期入りました。
●1944年(昭和19年)の今日
「綱島温泉駅」「綱島駅」に改称。
1926年(大正15年)2月14日「綱島温泉駅」として開業しました。
戦争が始まると同時に旅館業の廃業命令が出て、戦後復活するまで綱島温泉は休業状態になります。駅名の変更は“戦時命令”によるものでしょう。
戦後も東京近郊の温泉地「東京の奥座敷」として賑わいますが、
2008年3月15日宿泊施設として最後の温泉施設、
横浜市教職員互助会「浜京」が閉店し現在では「東京園」を残すのみです。
※「綱島」の地名の由来は、川の中州や湿地に浮かぶ島から来ているそうです。
横浜年表ピックアップ【10月5日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●2013年(平成25年)の今日から
「馬のアート cartoons×comics〜時代を映す諷刺と現代マンガの世界〜」
根岸競馬記念公苑 馬の博物館 第2展示室において開催されます。
会期〜12月1日(日)まで。
休館日:月曜日(但し祝日・振替休日は開館)
入館料:一般100円
小・中・高校生30円
10月20日(日)には「馬とのつどい2013」も関連開催
※森部英司アートパフォーマンス
※武蔵野美術大学ワークショップ
※馬車、ポニー、馬の試乗会
※ホースアトラクション
http://www.bajibunka.jrao.ne.jp
「横山大観展」(良き師、良き友)
横浜生まれの思想家・岡倉天心が創設に関わった東京美術学校第一期生の横山大観展を今日10月5日(土)から11月24日(日)まで開催します。
http://www.yaf.or.jp/yma/index.php
●1894年(明治27年)は
「時刻表記念日」です。
意外と地味な記念日ですが、
鉄道発祥の地、横浜には重要な記念日といえるでしょう。
今日は
日本で最初の月刊時刻表が発行された日です。
時刻表は、1872年(明治5年)新橋・横浜間に日本初の鉄道が開業した時から存在していました。
『鉄道列車出発時刻及賃金表』が駅構内などに貼り出される程度でした。
全国に鉄道網が拡大するにつれて、
情報量が増え冊子体の時刻表が必要となってきました。
1872年(明治5年)10月14日(旧暦9月12日)に鉄道運行が正式開業してから
『時刻表及賃金表』が本町六丁目の横浜活版社から発行されます。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/kids/bunmeikaika/d3_01.html
※横浜活版社に関しては調査中です。
横浜の活版史として 別途紹介します。
「横浜毎日新聞」も横浜活版社から発刊されました。
『時刻表及賃金表』これが日本初の市販時刻表といわれています。
そして、運行ダイヤの最新情報を提供する定期刊行物として
月刊時刻表が1894年(明治27年)10月5日に発刊されます。
手塚猛昌が経営する庚寅(かのえとら)新誌社が刊行した「汽車汽船旅行案内」です。
この時刻表は福澤諭吉がイギリスの時刻表を元にし編纂させ、手塚猛昌が発行したものです。発車時刻や運賃のほか、紀行文等も掲載されていたそうです。
編集した手塚猛昌(てづかたけまさ)は
長州が生んだ“日本時刻表の父”と呼ばれています。
因みに
日本交通公社の時刻表は、
1925年(大正14年)4月に創刊されました。
●1896年(明治29年)の今日
「東海道鉄道工事ならびに停車場位置に関する陳情書を提出する。」
これもかなり深い鉄道ネタです。
1881年(明治14年)5月7日に新橋駅〜横浜駅間の複線化が完了します。
1887年(明治20年)7月11日に横浜駅(初代)〜国府津駅間が延伸開業しますが、その間の駅は程ヶ谷駅(現在の保土ヶ谷駅)・戸塚駅・藤沢駅・平塚駅・大磯駅・国府津駅で
ほぼ現在の駅に近いものです。
1896年(明治29年)の今日出された陳情書は
神奈川駅〜程ヶ谷駅間の変則ルートを直線化する計画が出され
軍用短絡線を陸軍省から譲り受けることが決まったことに関するものだと推察できます。
二年後の1898年(明治31年)神奈川駅〜程ヶ谷駅間の短絡線が開業し、東海道本線となります。この時期に横浜〜茅ヶ崎駅間が複線化されます。
※逆に神奈川駅〜横浜駅間、程ヶ谷駅〜横浜駅間が支線扱いとなります。
→このあたりも 一度整理して 紹介したいと思っていますが
簡略マップ作成の時間と気力が中々できないので 保留中です。
●1967年(昭和42年)の今日
横浜市議会「全員協議会は派大岡川等河川の埋め立てについて審議」
この話しは、かなり面白い(個人的に)ネタであること、
派大岡川を語ると吉田川も語る必要がある。
当然大岡川を含めた
横浜運河物語に発展していきます。
さらには市営地下鉄、首都高速、根岸線まで絡んできます。
→とういうことで現在傍系資料やら 現地調査やら進行中です。
今月中に一定レベルでまとめ 紹介したいと考えています。
●1892年(明治25年)の今日
横浜市立本郷小学校
横浜市栄区中野町16番地の1
1892年(明治25年)10月5日の今日
鎌倉郡本郷村立尋常高等本郷小学校が創立しました。
開港時の児童数は269名でした。
昭和14年4月1日本郷村が横浜市に編入され戸塚区になったことに伴い横浜市本郷尋常高等小学校と改称します。 児童783名
明治20年代の創設は 新しい方?
横浜には結構歴史ある小学校が多いのです。
No.144 5月23日 教育熱は時代を超えて
●1907年(明治40年)の今日
早稲田大学野球部は横浜居留地の外国人チームと東京新宿の戸塚(安倍)球場で試合を行い12-1で勝利しました。
これだけでは【横浜】とあまり関係無し????
さらに調べると翌週にも試合があり今度は横浜で
10月12日に横浜居留地の外国人チームと戦い
3−2でまたまた早稲田が勝利します。
実は 早稲田大学野球部は、この年以外にも
多数横浜の外国人チームと試合を行っていることが
判明。
→1904年(明治37年)
7月2日
横浜居留地外国人チームと戦い28対3で勝利(横浜公園)
4月28日
米国艦船ウィスコンシンチームと戦い7-1で敗北します。
5月25日
さらに米国艦船ウィスコンシンチームと戦い8-7で敗北します。
10月14日
横浜居留地外国人チームと横浜公園球技場で戦い3-2で敗北します。
日程不明
横浜居留地外国人チーム戦9対6にて快勝。
横浜居留地外国人のアマチュアチームと戦い12-2で勝利します。
対米艦チームと戦い5-2で敗北します。
→1907(明治40年)の記録では
9月28日
横浜居留地外国人チームと横浜で戦い10-2で敗北します。
6月4日
米国艦船メリーランドチームと戸塚球場で戦い5-2で敗北します。
5月3日
横浜居留地外国人チームと戸塚球場で戦い12-2で勝利します。
暦で語る今日の横浜【9月30日】
横浜の年表から
今日起った出来事をピックアップしました。
【9月30日】はかなり話題満載です。小分けしたいところです。
●1890年(明治23年)の今日
「週刊英文 ウィクリー・レヴィュー・オブ・ヨコハマ・マーケット
(The Weekly Review of Yokohama Market)が創刊された」
●1909年(明治42年)の今日
大鳥居正が「故井伊直弼朝臣銅像除幕式之記」を発行した
「故井伊直弼朝臣銅像除幕式之記」は現在
東京大学 史料編纂所 図書室所蔵
神奈川県立図書館所蔵
→近日 資料を確認する予定です
横浜市西区にある掃部山に建てられている井伊直弼像に関して
建立時に様々な障害が起ります。
「井伊直弼像建立」に賛成するもの、反対するもの
ガチンコ勝負で 闘争します。
井伊直弼の功績を称するグループは開港50周年にあわせて井伊直弼像を建立する計画を立てます。最初は東京日比谷公園内に建てる計画でしたが、
幕末に起った“安政の大獄”によって多くの大先輩を失った薩摩藩、長州藩出身の政府高官達は猛反対します。
一方、薩長の藩閥政治に対抗する者達や旧彦根藩出身者、徳川関係の井伊直弼支持者は、平和裏の開港は井伊の功績と評価します。
→このあたりは 目下“大量の”資料を呼んでいるところです。
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井伊支持派の資料 |
両者の言い分に 無理も正論もあり 面白いので まとまりません!?
●1921年(大正10年)の今日
「横浜中央食品市場が高島町8丁目築地橋先に設立された。
さらに寿町の市場を合併して10月25日に開業した」
その後、1923年(大正12年)に制定された卸売市場法で中央卸売市場が開設されます。
No.97 4月6日 東日本初の中央卸売市場が認可される
●1922年(大正11年)の今日
横浜劇場でロシアバレイ団のパヴロワ女史公演(〜10/3)。
花月園内に花月園少女歌劇が創設された
No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)
●1929年(昭和4年)の今日
「印刷所廃止、以後、乗車券印刷を横浜刑務所に委託」
横浜刑務所は、その昔久良岐郡役場と村役場があった場所だそうです。
刑務所では受刑者の社会復帰用に様々な職業訓練を行っています。
http://www.moj.go.jp/KYOUSEI/KEIMUSAGYO/sagyo/sisetu_yokohama.html
毎年、横浜刑務所(港南区港南)では「横浜矯正展」が11月最初に(3日前後)開催され多くの作品が展示即売されます。
●1929年(昭和4年)の今日
「昭和絹靴下株式会社(資本金1,500,000円)が横浜市中区井土ヶ谷町250に設立された」と資料にありました。
昭和絹靴下株式会社を継承する株式会社アルバックの社史によりますと
1929年(昭和4年)9月20日設立とあります。
戦後、日本真空技術株式会社として新業態に転換し2001年(平成13年)に株式会社アルバックとなり現在に至っています。本社は茅ヶ崎市にあります。
●1929年(昭和4年)の今日
日本郵船氷川丸,横浜船渠で進水。
No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク
氷川丸はまだまだ 紹介しきれていないネタ多くあります。
追々 追加していきます。
●1930年(昭和5年)の今日
「日本最古の横浜電気館が閉鎖した」
横浜市松ヶ枝町25、現在の中区伊勢佐木町2丁目91あたりで開業していた映画館で、
1908年(明治41年)開業。
ここでは日本最古となっていますが、
1903年(明治36年)に東京市浅草区浅草公園六区(いわゆる浅草六区)に吉沢商店が「常設活動専門館」としてオープンしたのが日本初といわれています。
●1931年(昭和6年)の今日
「わが国潜水業の祖である田中銀蔵(90)が没した」
別資料では
「日本水産業界の元祖 田中銀蔵 没する」とあります。
※その他の資料は現在 見当たりません。
潜水業であれば、幕末期に増田万吉が潜水業を始めた記録が“沿革史”等に残っています。
●1969年(昭和44年)の今日
市電
久保山線(浜松町〜阪東橋間)
神奈川線(州崎神社前〜横浜駅前間)廃止
![]() |
水色の路線が廃止されました |
廃止路線の代替バスとして
102系統 滝頭車庫前〜浦舟町〜横浜駅前〜州崎神社前間 運転開始します。
●1985年(昭和60年)の今日
「横浜新都市ビルがオープン、1階が横浜駅東口バスターミナルに」
No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
No.465 三島と横浜、その縁を探る
2013年(平成25年)8月
猛暑日に縁あって三島市の中央部に源流を持ち
中心部を流れる「源兵衛川」下りを楽しみました。
静岡県東部に位置する三島市と約100Km離れた
横浜市のつながりを少し探ってみました。
「源兵衛川」
三島駅前にある「楽寿園」小浜池を水源として、三島市中心部を抜け最下流に位置する「温水池」までの約1.5キロ続く清流です。
住宅地、商業地の合間を縫うように流れる「源兵衛川」は、かつて“お金以外は全て捨てられていた”と言われた“どぶ川”の汚名を持つ川でした。この川に自生していた「梅花藻」も絶滅していました。
![]() |
開花する梅花藻 |
今から四半世紀前に多くの市民と専門家の手によって再生活動が始まり
現在は 多くの市民が「源兵衛川」の恵みを楽しむ市民憩いの清流となっています。
今では「梅花藻」をはじめカワセミも観察できる大切な自然空間となっています。
http://www.kouenguide.com/search/water/genpei/
http://www2.tokai.or.jp/younet24310/repo9-1.html
(CFS)
Customer(顧客)
First(第一)
Store(店舗)
この言葉を社名に抱える株式会社CFSコーポレーションは、現在イオングループに属する年商1,000億円を越える中堅のドラッグストアチェーンです。
マツモトキヨシホールディングスの4,300億円には及びませんが、静岡・神奈川を中心に300店舗を展開しています。
私たちは
「ハックドラック」「ハックキミサワ」の名の方が有名になっています。
CFS=HACは
横浜市港北区新横浜2-3-19に本部があり
三島市広小路町13-4に本店がある
「横浜」と「三島」を繋ぐ企業です。
1923年(大正12年)7月
石田初太郎が、個人営業の工業薬品等の小売店を横浜市南区横浜橋通商店街にて「イシダ」を創業します。
一方
1926年(大正15年)9月
君澤安が、個人営業の薬局を静岡県三島市広小路町にて創業します。
キミサワの名は、創業者の名であり、創業地の君澤郡の地名に由来します。
近くには君澤山浄土宗蓮馨寺があります。
(合併)
この「株式会社クスリのイシダ」と「株式会社キミサワ」が
1993年(平成5年)8月21日に合併、株式会社ハックキミサワに商号変更します。
その後、HACとなり
2003年(平成15年)8月21日に株式会社ハックキミサワから株式会社CFSコーポレーションに商号変更となりました。
近くにある「ハック」が横浜と三島を舞台に展開する企業だと知っていましたか?
イオングループ傘下に入るに至っては 紆余曲折ありましたが、ここでは触れません。
(いっずっぱこ)
三島駅から温泉地「修善寺」まで、
三島市民の足であり観光の重要な路線となっている
「伊豆箱根鉄道駿豆線」が走っています。
「伊豆箱根鉄道駿豆線」は
1893年(明治26年)9月30日豆相電気鉄道株式会社として創業された120年の歴史をもつ鉄道会社です。
一方、小田原駅と南足柄市の大雄山駅とを結ぶ大雄山線も同じ伊豆箱根鉄道の路線です。
「伊豆箱根鉄道駿豆線」は利用者からは「いずっぱこ」という愛称で呼ばれています。
はて?
この「伊豆箱根鉄道駿豆線」が横浜とどうつながる?
確かに修善寺と横浜を直結する「JR踊り子号」が2本走っています。
それだけではありません。
「伊豆箱根鉄道駿豆線」の歴史に横浜は重要な舞台となりました。
設立発起人
豆相電気鉄道株式会社設立の立役者となったのが
甲州商人“雨宮 敬次郎”でした。
雨宮 敬次郎(あまみやけいじろう)
「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれ、波瀾万丈の商人人生を歩みましたが、投資家であると同時に全国の鉄道開業に参画していきます。
軽便鉄道の雨宮とも呼ばれました。
雨宮のビジネスの出発点は横浜でした。ワンマンでインフラビジネスに進出した点は政商“高島嘉右衛門”と共通点が多くありますが
分岐点は高島と同じ「鉄道事業」でした。
甲斐国山梨郡牛奥村に生まれた雨宮 敬次郎は地元で一財産築き
1870年(明治3年)から1872年(明治5年)頃に横浜でビジネスを始めますが
生糸相場・洋銀相場で大失敗しスッテンテンになります。
1876年(明治9年)から1877年(明治10年)
アメリカ、ヨーロッパを外遊し、鉄道、製鉄、水道等のインフラビジネスの重要性を感じます。
製粉事業に成功し現在の「日本製粉株式会社」の基盤を作ります。
※日本製粉株式会社
日清製粉に次いで日本国内シェア2位
横浜工場 横浜市神奈川区千若町2丁目1
軽井沢の開発事業でこの地に植林をし軽井沢の森林を作ったことはあまり知られていません。
(鉄道経営)
雨宮が関わった鉄道事業をざくっと紹介します。
●中央本線の前身となる甲武鉄道
●現在の西武国分寺線となった川越鉄道
●北海道炭礦鉄道の取締役
●大師電気鉄道の発起人→大師鉄道は
現在の京浜急行です。
●東京市街鉄道の会長
●1905年(明治38年)には
江ノ島電鉄社長に就任しました。
●横浜線にも関係があります。
No.69 3月9日 事業失敗鐵道、横浜線物語
てなちょっとこじつけっぽいネタでしたが
三島は素敵な街でした。
No.464 昭和5年頃の横浜
よく歴史書や教科書では、時代区分をします。
横浜史を区分する際、
最大の分岐点が「開港場」ができる幕末期です。
開港から一世紀半の歴史で、
横浜は幾つもの試練の時期がありました。
横浜近代史の中で、今回は震災復興期の昭和初期に注目してみました。
![]() |
復興ビジョンが絵はがきになっています。 |
中でも昭和3年から5年頃の横浜の姿をざくっと追ってみます。
※詳細もいずれまとめて発表する機会があると思います。
(鉄道の時代)
横浜の鉄道網が充実したのが昭和期です。
神中鉄道、東横線、京浜電気鉄道、湘南電気鉄道
そして横浜市電がレール網を最も充実させた時代です。
1926年(大正15年)
東京横浜電鉄が丸子多摩川駅(現・多摩川駅)〜神奈川駅間を開業します。
神中鉄道が星川駅(現上星川駅)〜厚木駅間を開業します。
鶴見臨港鉄道が浜川崎駅 – 弁天橋駅間を開業します。
昭和に入り
1927年(昭和2年)
神中鉄道が北程ヶ谷駅(現・星川駅)まで延伸します。
市電浅間町車庫開設。
1928年(昭和3年)
東横線が神奈川駅〜高島駅(後の高島町駅)間を開業します。
※神奈川駅が横浜駅として移転します。
鶴見臨港鉄道が浜川崎駅〜扇町駅間を開業します。
市営バスが開業します。(生麦車庫・麦田車庫完成)
1929年(昭和4年)
神中鉄道が北程ヶ谷駅(現・星川駅)から西横浜駅まで延伸します。
1930年(昭和5年)
京浜電気鉄道が高輪駅〜横浜駅間を開業します。
※「京浜電気鉄道 横浜駅は、現在の臨海セミナー等予備校が並ぶあたりです)
一方、
湘南電気鉄道が黄金町駅〜浦賀駅間、金沢八景駅〜湘南逗子駅間で営業を開始します。
鶴見臨港鉄道も全線電化し、鶴見仮停車場〜弁天橋駅間を延伸開業します。
1931年(昭和6年)
神中鉄道が西横浜駅〜平沼橋駅間を開業し
湘南電気鉄道も桜木町接続を目指し日ノ出町駅まで延伸しますが、
京浜電気鉄道がゲージの違いを乗り越え
日ノ出町駅まで延伸された湘南電気鉄道と接続します。
1933年(昭和8年)12月27日にようやく神中鉄道が横浜駅に乗り入れます。
◇市電の時代
ここでは詳細を掲示しませんが、昭和初期に市電網の大半が開業します。横浜市内のアクセス網が一気に整備されます。
ちょうどこの頃、横浜市は周辺町村を合併し市域も一気に拡大します。
1927年(昭和2年)第3次市域拡張
■久良岐郡
屏風浦村、大岡川村、日下村
■橘樹郡
鶴見町、城郷村、大綱村、旭村、保土ケ谷町
■都筑郡西谷村を編入します。
※区制が施行され
市域が5区に分けられます。
横浜最初の5区が誕生します。
※鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷区、磯子区
1936年(昭和11年)第4次市域拡張
1937年(昭和12年)第5次市域拡張
1939年(昭和14年)第6次市域拡張
(復興事業)
震災復興でインフラが整備されていくに伴い 民間のビル建設ラッシュが起ります。住宅政策では「同潤会アパート」が作られていきます。
例えば 1930年(昭和5年)の建造物は
都南ビル(旧都南貯蓄銀行本店)(静岡中央銀行)
No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南
ジャパンエキスプレスビル
同潤会アパート 多数
No.376 1月10日(木)中島敦のいた街
横浜競馬場一等観覧席遺構
インペリアルビル
No11 1月11日(水) KAAT開場
綜通横浜ビル
横浜地方裁判所・簡易裁判所
No.50 2月19日 横浜地裁で注目の公判
ベーリックホール
No.167 6月15日(金) 自然、単純、直裁、正直、経済的
東(あずま)隧道
松屋横浜支店
No.30 1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
※氷川丸もこの年に横浜船渠株式会社で竣工しました。
1930年(昭和5年)は震災復興事業の一つ「公園整備計画」の「神奈川公園」と「神奈川会館」の開園式が行われた年です。
No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶
(御大典記念)
昭和天皇の即位の礼・大嘗祭が1928年(昭和3年)11月6日に行われました。昭和天皇即位を祝い、全国で様々な形で祝賀が行われます。
その一環として記念碑、記念造営が行われます。横浜市内にも多くの御大典記念に関係する記念碑等が残されています。
■芝生浅間神社では、1928年(昭和3年)御大典記念事業として社殿が御造営されます。
■横浜市立市場小学校では1928年(昭和3年)御大典記念として校旗を作成します。
■伊勢山皇大神宮の太鼓場(?)は1928年(昭和3年)に御大典記念として建設されます。
(観艦式)
横浜港で昭和に入り集中的に「観艦式」が開催されます。
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
日本の観艦式は明治元年に始まり戦前は18回実施されました。
第一回は大阪天保山沖で行われ、以降“横浜沖”が最も多く9回、次いで6回“神戸沖”で実施されました。
昭和期になり観艦式は6回、内4回が横浜沖で実施されます。
1927年(昭和2年)10月30日、横浜沖。
1928年(昭和3年)12月4日、横浜沖。
1930年(昭和5年)10月26日、神戸沖。
1933年(昭和8年)8月25日、横浜沖。
1936年(昭和11年)10月29日、神戸沖
1940年(昭和15年)10月11日、横浜沖。
(磯子八幡神社)
1930年(昭和5年)磯子八幡橋近くにある「八幡神社」にある御大典記念碑が建立されます。
御大典記念
正三位 勲二等 有吉忠一
この記念碑は、碑の上部に鉄の玉が飾られています。
文献や近所の方の話しでは
“昭和の代になり、5年6月には、御大典記念碑が建ちました”。
“漁師の人たちが奉納した大きなブイ(浮標)が石塔の上にのせられています”
「機雷の外側という話もあります」
ここに名が出ている有吉忠一氏はちょうどこの記念碑が作られる直前の1930年(昭和5年)4月11日に市長として貴族院議員に勅撰されます。
その祝いも兼ねたのでしょう。
裏側にはこの記念碑建立に関わった方々の名が掘られています。
禅馬鉄工所、當所 伊達鉄鋼所
おそらく この鉄球を作った所と推理すると
「機雷」ではなく「ブイ」が妥当なのではないでしょうか。
あくまで推論ですが
観艦式には 数多くの「ブイ」が必要とされるので、その製造を地元の鉄工所が請け負い、その御礼も含めここに奉納したのではないでしょうか。
(この時代)
昭和初期の横浜は、震災から立ち上がりつつある中
昭和恐慌、急激な円安デフレのまっただ中にありました。
復興資金として借り受けた米国債の支払いに苦慮します。
こんな時に
1929年(昭和4年)8月19日
飛行船ツェッペリン伯爵号が 急遽計画を変更して
横浜上空に現れます。
かたくなに進路変更を拒んだ「ツェッペリン伯爵号」がなぜ?
横浜を上空から視察したのか?世界の(特に米国の)メディアを乗せたこの
飛行船の目的は 何だったのでしょう。
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命
No.462 北海道と横浜を結ぶ点と線2
横浜と北海道の大地を点と線で結んだ男がいます。
おそらく、北海道と最も因縁のある横浜商人でしょう。
彼の名は
高島嘉右衛門(たかしまかえもん)
今日は “北海道と横浜を結んだ高島嘉右衛門”を紹介しましょう。
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神奈川区にある高島嘉右衛門自宅近くの碑 |
北海道に限らず八面六臂の活躍をした嘉右衛門は、横浜・東京のインフラ関係、港湾関係に多く関わります。南は佐賀鍋島藩、東北の南部藩、静岡、愛知 他全国を走り回ります。殆ど鉄道のない時代にです。
中でも北海道では多方面で活躍し多くの足跡を残しています。
■北海道の高島嘉右衛門
2006年(平成18年)4月に廃線となった「北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線」に「高島駅」がありました。この「高島駅」は、横浜市西区にある「高島駅」同様、高島嘉右衛門に因んでつくられた駅です。駅名としては1910年(明治43年)9月22日国有鉄道網走線の駅として開業した「高島駅」の方が歴史ある駅でした。
皮肉にも東横線高島駅(後に高島町駅)も2004年3月に廃止されました。
北海道の「高島駅」は廃止される前に一度訪れたかった場所ですが、残念ながら間に合いませんでした。
何故、北海道に高島駅?
北海道の十勝川流域、帯広市の北東に位置する中川郡池田町高島は
明治中期に高島嘉右衛門が開いた「高島農場」によって発展した町です。鉄道インフラに強かった高島は鉄道敷設を念頭に入れながら農場周辺の道路整備を行います。
「高島農場」
大正11年の地図でも確認することができます。
農場の横には学校も開校しますが、学校は池田町立高島小学校として現在も残っています。
実は高島嘉右衛門の北海道ビジネスは明治になって早々から始まります。
1874年(明治7年)には横浜港〜函館港間の定期航路を開きます。
経営的には大失敗で採算が合わずに翌年には中止になってしまいますが嘉右衛門は諦めていませんでした。
その後も北海道でのビジネスチャンスを狙っていました。
ちょうどこの頃、新潟県三条町から二人の青年が北海道札幌に小間物店を開きます。今井藤七と同郷の高井平吉です。
彼らは苦労しながらも低価格と誠実さ・勤勉さが評判となり地域一番店となり1874年(明治7年)には店名を「丸井今井呉服店」とします。
この「丸井今井呉服店」が後の北海道老舗デパート「丸井今井」に育ちます。
創業期、高島嘉右衛門とも交流があり。嘉右衛門の北海道ビジネスとも深く結びついていました。
※「丸井今井」は残念ながら近年経営破綻し三越伊勢丹ホールディングス傘下となりました。
大正13年に札幌の老舗丸井今井本店ビルの設計を担当したのが「遠藤於菟」です。
No.159-2 6月7日(土) 三井物産ビル
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=4877
精力的に北海道のビジネスチャンスを求めた嘉右衛門は、
1889年(明治22年)「北海道炭礦鉄道会社」に出資し経営参加します。
此の頃に関係があったのでは?と思われるのが
瀬棚町に日本の女医第一号となった荻野吟子が開業し、高島が支援したと思われる接点がありました。
No.463 高島嘉右衛門 風聞記
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=91
その後、創業者堀基の後を継ぎ1892年(明治25年)二代目社長となります。(後に四代目社長にも)
※「北海道炭礦鉄道会社」 手宮(小樽市) – 幌内(三笠市)間をはじめ、現在の北海道旅客鉄道(JR北海道)函館本線の一部
■ワンマン経営の果て
高島嘉右衛門のビジネススタイルは、典型的なワンマン経営でした。明治期の様々なビジネスに参画しますが、全て後継者育成をしなかった経営者でした。
成功したもの失敗したもの全て自分で切り開き自分で責任をとっていくタイプでした。同じワンマン経営だった岩崎弥太郎とは同じビジネスチャンスをつかみながら全く対照的な人生を歩むことになります。
もう一つ、高島嘉右衛門を巡る 面白いエピソードが北海道にあります。
次回は 半分想像!フィクションも含めて 高島嘉右衛門の謎に迫ります。
(関連ブログ)嘉右衛門は話題満載。いっぱいあります。
No.204 7月22日 (日)一生を世界一周に賭けた男
No.61 3月1日 成田山横浜別院延命院復興
No.391 謎解き馬車道
他は省略
【再開のお知らせ】
2013年8月13日(火)酷暑は続きます。
世の中は“お盆休み”ですね。
私は、8月2日(金)に目の不具合を感じ近くの眼科医で
「緊急入院」を告げられ 約10日間入院しておりました。
この間、雪隠詰めでしたので いろいろ思いを巡らせてきました。
ブログの【再開です】
現在仕込み中のネタを少し予告しておきます。
【北海道を繋ぐ点と線】プロローグ
横浜が育てた多くの商人達からベストを選ぶとしたら?
視点で変わりますが
波瀾万丈といえば
中居屋 重兵衛と高島嘉右衛門でしょう!
さらに加えれば田中平八ですが、中居屋 重兵衛と高島嘉右衛門の二人を越える商人はいないでしょう。
共に、一時期“横浜市”では不人気のようでした。中居屋 重兵衛は目下基礎資料を読んでいる途中です。
今日は、「高島嘉右衛門」から横浜が繋ぐ“点と線”のプロローグとします。
彼に興味を持ったのは、今から三十年位前でした。
高島嘉右衛門は、業績の割に横浜で“無視”されている感じがしたからです。
近年、高島嘉右衛門の遺族から(ようやく)資料が公開されました。
※現在開港資料館で整理分析中です。
中居屋 重兵衛は謎だらけであまり横浜開港史に登場しませんが、彼の出身地群馬ではかなり研究されています。
一方中居屋 重兵衛に対し、高島嘉右衛門は謎よりあまりに活動領域の広い史実に
研究者も二の足を踏んだのかもしれません。
また、一時期 社会問題にもなった「高島暦」の創始者だったからでしょうか?
彼 高島嘉右衛門は 例えば清水の次郎長、佐賀鍋島藩主、福沢諭吉、伊藤博文らと関係がありました。
伊藤博文とは最終的に姻戚関係になります。
北は北海道とも深い関係があります。
次号の「ブログ」はこの辺から始めたいと考えています。
幕末明治を生き抜いた政商「高島嘉右衛門」にとって多角事業のほんの一部でしかなかった「北海道」での事業から見えてくる小さな物語を紹介しましょう。
北海道もまた 横浜に似た 幕末以降波瀾万丈の開拓史を残した地です。
No.460 横浜と福島をつなぐもの
ひらめきは素晴らしい!でもどう表現したら良いのか。
時々出会うラッキーなネタなんですが
料理ができない歯がゆさが先立ってしまいます。
今日は 言い訳から始まります。
かつて、福島出身の震災復興に関し優秀な“テクノラート”が居ました。
堀切 善次郎(ほりきり ぜんじろう)
1884年(明治17年)9月2日福島県飯坂温泉の豪農豪商の堀切家に生まれた堀切 善次郎は、東京帝国大学卒業後内務省に入り法律、技術官僚として事務官・監察官・参事官・書記官を経て都市計画局長・土木局長など歴任します。
その後、渡欧(1919年大正8年〜1921年大正10年)し
ドイツで革命後のワイマール憲法の選挙法を調査研究し帰国します。
最近某財務大臣発言で物議を醸した「ワイマール憲法」ですが
それまで婦人参政権が無かった日本の普通選挙制導入に大変尽力された政治家です。
※婦人参政権の実現は戦後になりますが、彼の手で法案が提出されます。
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堀切邸 |
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天井のカーブをもたせる贅! |
一方、堀切 善次郎は、都市政策にも明るく
震災直後から復興計画に関わることになります。
その結果、復興局長官に抜擢された清野長太郎知事の後任として
1925年(大正14年)震災で焦土化した神奈川県復興のために知事に赴任します。
当時の有吉忠一横浜市長と二人三脚で精力的に復興施策を実施していきますが、
前任の神奈川県知事だった復興局長官“清野長太郎”が就任中に急死します。
そのため、堀切は清野長太郎の後任として 着任早々1926年(大正15年)復興局長官に任命されます。さらに1929年(昭和4年)には13代東京市長となり
横浜と東京で 復興の優先に関して“ライバル関係”になります。
東京政財界からは 横浜に限定されていた“国際港”としての独占権を廃止する“東京開港運動”が起ります。
ここで、横浜市長「有吉忠一」と「堀切 善次郎」は、
同じ神奈川で以前タッグを組みましたが、
その後全く利害を異にする立場で争うことになります。
No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?
国策を理由に1941年(昭和16年)5月20日“東京港が開港”します。
東京開港運動は大正期に高まり
昭和早々からは強い政治運動となります。
横浜港にとって“致命傷”だった“東京開港”が戦争直前までもつれこんだ背景には
もしかしたら堀切 善次郎の横浜への思いがあったのかもしれません。
こればかりは判りません。
横浜と福島は
野口英世(のぐちひでよ)、星一(ほしはじめ)のエピソードが劇的ですが
この堀切 善次郎と横浜も 静かなる因縁があったかもしれません。
No.459 夏休み特集横浜鉄道ネタです?!
日本初の鉄道は横浜(現桜木町)から汐留(現品川)まで
全営業距離29.0kmから始まりました。
このブログで きちっと“はじめて鉄道”ネタ紹介していませんでした。
今日は 横浜はじめて鉄道ネタをちょっと紹介します。
■初めての鉄道!開業日は6月?10月?
「鉄道記念日」は10月14日
1872年10月14日(明治5年9月12日)新橋駅〜横浜駅間開通
に因んでいます。
ところが
実際に開業したのは 4ヶ月前の
1872年6月12日(水)(旧暦明治5年5月7日)です。
仮運転???でも無かったのですが 記念日を開業日にしなかった
珍しい例の一つかもしれません。
このへんの事情は少し下記で紹介!
No.164 6月12日(火) JR JR
開業早々に“駅売り”を始めたのは スコットランド人のジョン・レディ・ブラックだそうです。
■開業時の運賃は?
上等が1円12銭5厘
中等が75銭
下等が37銭5厘でした。
※下等運賃の37銭5厘は当時の米1斗(約15kg)と同じ金額(鉄道歴史展示室資料)
(Wiki)では「下等運賃でも米が5升半(約10kg)買えるほど高額なものであった」とありますから少し異なります。
(朝日新聞資料では)明治5年白米10kgで36銭とあります。
まあ高額であることは間違いありません。
※開業前に値下げ!
1872年4月12日(明治5年3月5日)開業2ヶ月前に
品川駅〜横浜駅間の運賃を
「上等1円50銭、中等1円、下等50銭」と決定しますが、
最終的に「新橋駅〜横浜駅間」が
上等1円12銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘ですから
値下げされたことになります。
■鉄道開業のお初は横浜ですが
「新橋駅〜横浜駅間」開業後、
全国で創業ラッシュとなります。
特に手軽な路面電気鉄道は明治期に
ざくっと数えて約50社も開業します。
横浜では「横浜電気鉄道」(後の市電)が明治37年7月15日に
神奈川〜大江橋間の運転を開始します。
「神奈川駅」は現在の青木橋
「大江橋駅」は桜木町駅前です。
第2期線として
「大江橋」〜「西の橋」現在の元町入口近辺が着工されます。
最終的に
明治45年までに
横浜電気鉄道網は「税関線・住吉町線・本牧線・羽衣町線・滝頭線」等が開通します。
※横浜電気鉄道はその後大正10年4月に横浜市営となります。
市営になり、昭和に入り黄金の市電時代が始まります。
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明治期の横浜電気鉄道網(推測) |
■その他の鉄道は
上記紹介の「新橋駅〜横浜駅」開業後
●1887年(明治20年)
国鉄横浜駅〜程ヶ谷駅〜国府津駅間が延伸開業(横浜駅でスイッチバック)。
●1905年(明治38年)
私鉄では京浜電気鉄道(後の京浜急行)が
品川(現・北品川)〜神奈川間開通します。
●1908年(明治41年)
東神奈川駅〜八王子駅間(現在の横浜線)が開業します。
(大正・昭和初期)
戦前期、横浜の鉄道網は神中鉄道(相鉄線)と湘南電気鉄道と京浜電気鉄道が
日ノ出町でジョイントされ、京浜急行として横浜エリアを縦断します。
No.88 3月28日 京浜湘南電鉄連結地点
現在の鶴見線も昭和初期に整備されます。
今日は紹介できませんが、昭和初期鶴見線ができる頃 川崎に一大計画があったんですね!!後日お楽しみに!!