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No.99 4月8日 陸の孤島対策はあるのか?

JR桜木町駅を降りると国道16号と桜川新道(新横浜通り)に挟まれた場所に地上10階・地下3階の建物が見えます。
そこに“昭和記念館”があります。
正式名称は「桜木町ゴールデンセンター」、1968年(昭和43年)4月30日に竣工し当時桜木町随一の高層ビルでした。1983年(昭和58年)の今日、「桜木町ゴールデンセンター」が愛称「ぴおシティ」に改名されました。
※実際は“昭和記念館”とは言いませんのでご留意ください。

桜木町ゴールデンセンター、愛称「ぴおシティ」が建つ桜木町駅前の細長いゾーンは、二つの道路が川のように通り緩衝地帯のような立地です。この二本の川が桜木町とみなとみらいを隔てる障害になっています。
商業立地としては厳しい条件ですが、創業44年目を迎えました。
「ぴおシティ」のHPによると設計は伊藤喜三郎設計事務所(東京都中央区銀座7-1)ということになっていますが、病院建築の分野で著名な伊藤喜三郎氏かどうか、微妙にデータに違いがあるので”にわか調査“では不明です。

結構良いフォルムしてますよね

伊藤喜三郎氏の正式事務所名は「伊藤喜三郎設計研究所」で、事務所所在地は東京都品川区東五反田、サイトの作品リストにも掲載されていません。
一般的に設計事務所が全ての作品をHP等に掲載しないことはままあることですが、伊藤喜三郎氏にとっても1960年代の大型商業施設設計は記録として残すはずです。
おそらく「伊藤喜三郎設計研究所」または伊藤喜三郎氏個人の設計で間違いないと判断します。
理由はもう一つあります。
建築主が三菱地所(現在所有者は横浜協進産業)であるところから、ビジネスパートナーとして三菱グループと多くの作品を残している伊藤喜三郎氏との関係も整合性があります。

閉店店舗が多過ぎますね

正直、現状での「ぴおシティ」での小売業は難しいといえるでしょう。
「ぴおシティ」自体が、かつての商店街のようにシャッターの目立つ裏路地のようになってしまいました。まさに「昭和」の蔭がそこにあるという感じです。
桜木町駅に新改札が北側にできればなお苦戦を強いられるでしょう。
しかし、地下一階の「はまっ子」(八百屋)や3階のゴールデン文具は強力な集客力を持つテナントです。最近は「ダイソー」が入り集客力も少しあがりましたが今ひとつパワー不足です。でも立地は最高です。
発想の転換で、この空間 「昭和記念館」というかガード下感覚で、めちゃ面白いビジネスゾーンに化けると思うのですが、どうでしょう。

ゴールデンを維持!!
「横浜ラーメン」ゴールデンセンター創業時からあるんじゃないかな
はまっ子は何時も混んでます

(追伸 このエリアはもう少し掘り下げます)→まだ手つかずですごめんなさい。

No.92 4月1日 横浜市交通局ブルーライン大人200円

4月1日から9月30日まで、ブルーライン記念乗車券が大人200円で発売されました。
エイプリルフールではありません。
1984年(昭和59年)の今日からダブルデッカー (Double Decker) 型市内観光周遊バス「ブルーライン号」が運行を開始しました。

市内観光周遊バス「ブルーライン号」のチケットを二枚持っているのですが、入手の経緯の記憶が全くありません。
若干鉄男君系なのでバスには殆ど関心がない自分がわざわざオークションで購入というのも考えられません。なぞは深まるばかりです。

今日は、この記念乗車券から始まる横浜物語をご紹介しましょう。
まず簡単な「ブルーライン号」の歴史から。
1984年(昭和59年)4月にスタートし1996年(平成8年)に廃止されるまで12年運行されました。確かに時折青い二階建てバスが街を走っていた記憶がおぼろげながらあります。
すごいですね映像がアップされています。
http://www.youtube.com/watch?v=sm_M0pcFRqk
http://www.youtube.com/watch?v=BkBoOGtXCEI
ダブルデッカー (Double Decker) 、二階建てバスはイギリスのロンドンなど英国内の都市や香港、シンガポールなどで導入されていますが、日本では近年殆ど採用も製造もされていません。(最近は「2階だけバス」スーパーハイデッカー型が主流になりました)
車両は日産ディーゼル(現在UDトラックス)「スペースドリーム (P-GA66T)」、1983年の東京モーターショーで試作車が発表され、1984年に試作車の先行販売として横浜市交通局に3台納入されたものです。
車両スペック
全長11.96m・全幅2.49m・全高3.78m・定員64人(二階51人 一階13人)
エンジンは18,894CC 370馬力

(運行ルート)
往路:関内駅前から→大桟橋→中華街入口→元町入口→港の見える丘公園の3.86Km
復路:港の見える丘公園→山下埠頭入口→大桟橋→本町4丁目→吉田橋→関内駅3.55Km
1989年のYES89(横浜博)の時に起点が関内から、桜木町駅前に変わりました。
運賃は大人200円、子供100円

(ブルーラインその後)
ブルーライン号の名は「市営地下鉄ブルーライン」に引き継がれ、市内定期遊覧バスは「ベイサイドライン」となりコースもみなとみらい、赤レンガ倉庫が加わり現在も運行されています。車両は1993年度導入の日産ディーゼル「ヨンケーレ・モナコ(スペースドリーム)」から日野セレガSHDPKG-RU1ESAA(車椅子リフト装備車)に代わりました。(ちょっとマニアックでした)
ベイサイドライン
http://www.yokohama-bus.jp/baysideline/

運行ルートから二カ所、今は無い観光スポットを発見しました。
■横浜海洋科学博物館
1961年(昭和36年)1月にマリンタワー内に開館し、1988年(昭和63年)9月30日に閉館し、横浜博覧会開催に合わせて横浜マリタイムミュージアム(現横浜みなと博物館)として日本丸メモリアルパーク内にオープンしました。

■横浜人形の家
人形の家、開館は1986年6月で現在も存在しますが、このブルーライン号運行開始が1984年ですから時期が合いません。現在の位置とも異なります。実は1979年(昭和54年)に「旧横浜人形の家」が横浜市山下町産業貿易センター内に開設されていました。「横浜人形の家」は、元町のジュエリー専門店ROOTS大野眞珠の創業者大野英子さんの約76カ国1,981点に及ぶコレクションが横浜市に寄贈され「旧横浜人形の家」として公開されたのが始まりです。大野英子さんは、通訳案内業国家試験に女性として初めて合格した方で、真珠王・御木本幸吉氏の秘書兼通訳を務めました。
現在の「横浜人形の家」にはもう一つ重要なコレクションが所蔵されています。
横浜の財界人太田亥十二氏の夫人 太田ますい氏(明治30年-昭和62 年)が半世紀近くにわたり収集した日本の江戸時代の雛人形98点、雛道具430点、御所人形27点などを 含む日本の古典人形各種合計630点の「太田コレクション 」 です。

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

1989年(平成元年)の今日、横浜市政100周年(横浜開港130年)記念事業の中核となる横浜博覧会開会式が行われました。
この横浜博覧会はみなとみらい21地区の69haを使用して開催され、のべ1,333万人が入場しました。<開催期間は1989年(平成元年)3月25日〜10月1日>

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公式ガイドブック
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当時の横浜駅西口駅前、靴磨きが生業としてありました

この「横浜博YES’89」英称:YOKOHAMA EXOTIC SHOWCASE ’89 は1960年代に構想された「みなとみらい21計画」の“地鎮祭”のような役割を持つお祭りでした。
横浜駅界隈と関内界隈、桜木町駅界隈をつなぐ位置に広がる「三菱重工横浜造船所」跡地が「みなとみらい21」エリアです。
下の写真は77年のみなとみらいに相当するエリアです。

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左上が横浜駅で右下がカップヌードルミュージアム、赤れんが倉庫のある新湊埠頭エリアです。そのさらに下が関内地区で臨海部の造船所がエリアを分断しているのが良くわかります。ここを80年代に地ならしと埋め立てを行い90年代に街を作る計画が「みなとみらい21計画」です。
いわばその鍬入れ式を市政100周年というタイミングに博覧会というかたちで実施しよう!ということになった訳です。
関東大震災まで首都圏で光り輝いていた「横浜界隈」は、その後戦災、米軍接収の苦難の中、失われた半世紀の時を過ごします。本腰で横浜のまちづくりに取り組み始めたのが1960年代後半、飛鳥田市長時代の「六大事業」構想です。当時、東京湾岸は工場地帯がベルトのように臨海部を占有していましたが、可能な限り臨海部を職住機能のある街にする計画が湾岸各都市で計画されます。千葉は幕張エリア計画、東京が臨海副都心計画、そして横浜がみなとみらい21計画でした。熾烈な都市間競争の始まりです。

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1988年ほぼ埋め立て完了横浜博会場準備中
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現在のみなとみらいエリア

この「横浜博YES’89」はバブル期に開催されました。
地鎮祭は行ったものの、バブル崩壊で90年代「みなとみらい21計画」は苦難の道を歩みます。
また、単に新しい街ができるだけでは無く、周辺の商業地域との調整にも様々な難題が起ります。横浜駅東西の商業戦争、野毛地区の東急線廃止問題、伊勢佐木の地盤沈下等々を抱えながら「横浜博YES’89」が挙行されました。
ただ、「横浜博YES’89」にはここで紹介したように「みなとみらい21」というあたらしい街ができあがる地鎮祭(前夜祭)的な役割がありましたから希望が見えました。
事実動員があったりもしましたが、このみなとみらいに蒔かれた種や樹々はなんとか現在まで枝葉を広げ形になりつつあります。
さあこの点で「開港開国博Y+150」はその先に何を見ようとしたのでしょうか?

「みなとみらい21計画」の評価、是非は様々な議論が行われています。私も別の機会にまとめてみたいテーマの一つですので後日に譲ります。

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ガイドブック他報告書各種

「横浜博YES’89」の開催内容のマップです。ゴンドラはあるし専用鉄道も敷かれます。現在みなとみらいのシンボルとなっている観覧車もこのときにできたものです(後日現在地に移設)。桜木町駅前の動く歩道、日本丸、美術館もこの時期に設置されたものです。思い出のある方も多いと思います。

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会場マップ

No.78 3月18日 横浜公園に野球場完成

最近モバゲー(DeNA)が球団オーナーとなったことで話題になった横浜ベイスターズの本拠地が横浜公園にある「横浜スタジアム」ですが、この球場ができるまでには(も)様々なドラマが待ち受けていました。
1929年(昭和4年)のこの日、横浜公園に本格的野球場と野外音楽堂が完成しました。

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「横浜公園」は日本人に開放された日本最古(最初)の西洋式公園です。
1875年(明治8年)外国人も日本人も自由に使用できる(本来の)公園として港崎遊郭の跡地に土木技師リチャード・ブラントンが設計し、造園されました。当時は「被我公園」とも呼ばれました。外国人(彼ら)と日本人(我ら)の利用できる公園という意味がこめられました。
「横浜公園」の6年前に「山手公園」が完成していますが居留地の外国人しか利用できませんでした。
この二つの公園は、共に居留地の外国人から強い要求があり造園が行われました。「山手公園」はスムースに完成しましたが「横浜公園」造園は紆余曲折あり設計に2年、完成までに4年以上かかります。
なぜ時間がかかったのか?
開港から大正期まで日本をとりまく世界情勢は、米英の対立と英露の緊張関係が深く日本に関わってきます。
特に横浜居留地では英米間の熾烈な対立がありました。居留地の防災対策として防火帯を設けるという要求は諸外国一致した日本政府への要求でしたが、歴史ある国が数歩リードします。日本のお雇い外国人はイギリス6,177人に対し、アメリカは2,764人と二番目でしたが、ハード系は圧倒的にイギリス勢でした。
イギリスからは鉄道開発、電信、公共土木事業、建築、海軍制度などインフラ整備には強く、アメリカからは外交、学校制度、近代農事事業・牧畜、北海道開拓など…わかりますよね。
横浜公園を巡っては、リチャード・ヘンリー・ブラントンRichard Henry Brunton(1841〜1901)設計ですが、彼は1868年に明治政府から英国政府に要請され招かれたお雇い外国人の第1号となります。「日本の灯台の父」と呼ばれているブラントンは26基の灯台設計をはじめ、日本初の電信架設の他、道路舗装・公園設計・鉄道建設・築港などインフラ系の父でもありました。

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最初のブラントン設計案
(日本大通り側にクリケット場が大きく占有しています)

その彼が設計する公園で「クリケット場」が英米の意見衝突のネタになります。
英国案ではクリケット場が中心を占めていました。
クリケットは英国の国技で米国は「野球」ですね。
すったもんだの末、クリケットのできる総合運動場に落ち着きます。明治期クリケットの試合も野球の試合も行われます。
妥協の産物?ではないと思いますが折衷案となります。
その後、関東大震災で被災し1929年(昭和4年)の今日、園の復興整備として「野球場」と「野外音楽場」が新しく造られます。第一次世界大戦で欧州が疲弊し、次第にアメリカ文化が欧州文化を圧倒していく象徴かもしれません。
横浜公園野球場は戦後「ルーゲーリック・スタジアム」になり、接収解除後「平和球場」そして全面建替を行い「横浜スタジアム」となります。音楽堂も取り壊されました。戦前の名残は公園中央の「噴水」というところでしょうか。

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昭和改築時に設置された三代目噴水 
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花園橋側(こちらが正門?って感じしません?)

※(余談)
横浜公園の地主は財務省です。
住所は横浜市中区横浜公園で人口は0人無人です。
※(余談2)
横浜公園にプロ野球仕様の「スタジアム」を造る際、都市公園法がネックでした。
(公園施設の設置基準)
第四条  一の都市公園に公園施設として設けられる建築物(建築基準法 (昭和二十五年法律第二百一号)第二条第一号 に規定する建築物をいう。以下同じ。)の建築面積(国立公園又は国定公園の施設たる建築物の建築面積を除く。)の総計は、当該都市公園の敷地面積の百分の二をこえてはならない。ただし、動物園を設ける場合その他政令で定める特別の場合においては、政令で定める範囲内でこれをこえることができる。

つまり建ぺい率が2%ってことです。現状は約25%、都市公園法違反建築物です。
(当然 特例です 誤解なきよう)

No.76 3月16日 東京放送と横浜市

東京放送(現TBSHD)には、
1970年代横浜に社屋を移転させるという計画がありました。
移転計画は非現実的だったため実行されませんでしたが、
この計画の延長線に設立された日本有数のテレビスタジオが
(株)緑山スタジオ・シティ(MSC)です。
1981年(昭和56年)の今日
横浜市青葉区緑山にMSCが竣工しました。

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緑山スタジオといえば、数々の野外で展開する名物番組を生み出しました。
「風雲たけし城」
「スポーツエンターテインメント番組筋肉番付シリーズ」
は緑山だからこそ実現した番組だといえるでしょう。
その他「渡る世間は鬼ばかりシリーズ」は4つあるスタジオの一つを専用にしたほどです。
3年B組金八先生シリーズ、
ふぞろいの林檎たち、
金曜日の妻たちへシリーズ、
NHK木曜時代劇、
14才の母(日本テレビ)他の収録に使われました。
緑山スタジオの近くでドラマのワンカットが収録されることも多く、TBS番組では青葉台駅近くの居酒屋や、横浜市内のロケが目立ちます。
ぜひチェックしてみてください。
時々スタジオの食堂やカフェが使われていることもあります。
(多角経営?)敷地のど真ん中を県道139号が通り、片方がゴルフ練習場になっています。
地元では結構人気だそうです。

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緑山スタジオの歴史は1970年代にさかのぼります。
新聞資本とTVメディア会社の整理統合が加速しTBSは毎日新聞と資本提携し近畿圏の毎日放送(MBS)とネットワークを確立します。
この頃、赤坂の本社機能だけでは手狭ということで「郊外への社屋移転計画」が打ち出されました。
この計画のために取得した用地が横浜市緑区奈良町の一角、広さ8万坪の広大な緑地です。
なんでまたこんな不便な所にというほど陸の孤島に立地しています。
どうも土地取得が先にあったような気がしてなりません。

すぐ近くには墓地を挟んで広大な「こどもの国」があります。
「こどもの国」は皇太子殿下(現天皇陛下)のご結婚を記念して、全国から寄せられたお祝い金を基金に、1965年(昭和40年)5月5日のこどもの日に開園しました。米軍に接収されていた東京陸軍兵器補給廠・田奈部隊填薬所跡地を再開発したものです。

横浜線長津田駅や小田急線鶴川駅からのバス輸送や、自家用車が主な交通手段だったため、アクセスの不便さが最大のネックとなっていました。
どうみても放送局の事務機能やニュースなどのスタジオ機能を移転させることは非現実的ということもありパッケージ番組の収録に特化したスタジオ設備として開設したのが緑山スタジオです。

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TBSスタジオではなく「緑山スタジオ」となった背景には、TBS以外の在京キー局・在阪準キー局やNHKが制作・放送するドラマなどテレビ番組の撮影の他、映画、CM撮影等にも使えるように「多目的貸しスタジオ」として別会社化しました。現在はこのねらいが功を奏し、NHKを始め多くの放送局が利用しています。
でも関係者の話しを聞くと、以前は俳優も緑山と聞いただけで収録をいやがったほど不便というイメージが強かったそうです。私も緑山で真夏に二日間泊まり込んで仕事したことがありますが、眠気覚ましに外に出ると狸が駐車場を横切ることもありました。二階の食堂は結構美味しかった記憶があります。

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(余談)
TBSは緑山ができる前の1966年から1968年まで放映された
「泣いてたまるか」シリーズドラマ
渥美清 主演で生まれたての「青葉台駅」を舞台にした作品が幾つかあります。
ライバルフジテレビで、87分署シリーズ・裸の街というエドマクベイン原作シリーズを放送しましたが、これも東京といいつつ青葉台近辺だった記憶があります。
TVドラマを 街の記憶として観ていくのも 興味深いものがあります。

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No.75 3月15日 JAPAN FOREIGN TRADE FAIR YOKOHAMA

戦後、横浜で開催された博覧会(開港博)は四回あります。
1989年に市制100周年としてYES89
2009年に開港150周年としてY+150がそれぞれ開催されました。
この二つの博覧会に先立つ1949年(昭和24年)の今日から「JAPAN FOREIGN TRADE FAIR YOKOHAMA(日本貿易博覧会 横浜)」が開催されました。(〜6月15日)
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横浜も東京に匹敵する大空襲による戦災ダメージはかなりの規模でした。
さらに日本最大面積の接収地(沖縄は日本ではありませんでした)を抱える基地の街となりました。
占領下にあった日本は1947年(昭和22年)に一部貿易が可能となり横浜港の機能も回復し始め、戦災復興のために産業博覧会を開催しようという計画が持ち上がり「日本貿易博覧会」が開催されました。

日本貿易博覧会神奈川会場
 
 

博覧会の目的は会の規約によると「本会は内外における物産の現状及び産業資料を展示し、日本産業を再建し、日本貿易の振興を図るを以て目的とする。」でした。

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報告書

横浜市と神奈川県の共催で、開場は「野毛山」と「神奈川(現在の反町公園)」の二会場に分かれて会期93日間にわたって実施されました。
予算規模5億1000万円
第一会場(野毛山会場)27,500坪
第二会場(神奈川会場)28,000坪
合計56,000坪に企業関係を中心に、政府関係、全国自治体のブースが50の施設に展開されました。二会場は市電で結ばれ(シャトル電車?)入場者数は360万人(有料1,122,721人)にのぼりました。
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野毛山会場

内容に関しては、Wikipediaを参照してください。

この「日本貿易博覧会」も他の横浜で開催された「博覧会」同様赤字でした。

議会でも赤字補填に関して紛糾します。
博覧会閉会後、神奈川開場の施設はその後10年間「横浜市役所市庁舎(臨時)」として使用され移転後は公園となりました。
会場内の演芸館が神奈川スケートリンクになりました。また、野毛山開場は、公園として整備され現在にいたります。庭園が野毛山動物園に、迎賓館が横浜迎賓館(現セントジェームスクラブ迎賓館)として活用されることになりました。

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「日本貿易博覧会」1949年から10年後の1959年に開港100周年祭が行われます。

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なぜ 両方のエネルギーを合わせられなかったのか?
残念であると同時に不思議でなりません。
この博覧会を広告会社として仕切ったのが「日本電報通信社(電通)」発展の礎を築いた広告の鬼、(四代目社長)吉田秀雄です。例の「鬼十則」(おにじゅっそく)を作った人物です。

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2016 12加筆修正

No.66 3月6日 ラーメンがなくなる日

ラーメンは一世紀の時間を経て日本食になりました。大正時代に全国各地に広がり始めた「支那そば」「中華そば」は戦後になって、一気に華開きます。全国津々浦々、1ジャンルでこれほどに多様性のある食が現在も成長しているのは「ラーメン」だけではないでしょうか。
1994年(平成6年)のこの日、新横浜ラーメン博物館がオープンしました。
新横浜ラーメン博物館公式サイト

外観
以前大雪のとき訪問

ラーメンは日本食からさらに国際食として世界に「日本のラーメン」として伝播しつつあります。戦後の食文化を大きく変えた「ラーメン」の名は昭和33年に発売された日清の「チキンラーメン」の登場が大きく影響します。インスタントラーメンの大ヒットが、ご当地ラーメンの誕生のベースと成りました。
このインスタントラーメン文化の創造会社「日清カップヌードルミュージアム」も横浜に登場し、横浜は麺食の聖地になりつつあります。

新横浜に登場した「新横浜ラーメン博物館」(ラー博)は、オープン当時驚きを持って迎えられました。私もオープン一ヶ月後くらいに並んで入場して以来、のべ10回程度ですが思い立ったらラー博に向かっていることもありました。
まず驚いたのが、ラーメンを食べるのに入場券を買うことでした。(現在は入場料300円です)しかし全国のラーメンを一カ所で食べられる交通費と考えたら良いかなとそれほど抵抗無く入場しました。(年寄りにはかなりブーイングでしたが)入館してまず驚くのが館内のシカケです。ラーメンという名が全国区となった昭和33年「チキンラーメン」時代を再現した街がそこにありました。このコンセプトは今でこそ昭和レトロブーム“ALWAYS”などの成功がありますが、オープン当時40歳以下は異次元だったのではないでしょうか。

昭和33年を再現
2月2日から気仙沼カモメ食堂が復活を目指して出店

この昭和33年時代を再現した街並を「ラー博」は変えていません。ぶれていないということです。確かに数回入場した時に“まだこれ”と感じたことも事実ですが、その後時々の入場でしかありませんが仲間を連れて行く時の「コンシェルジュ」になっている自分がいます。

5年前?ごろのラー博

ラーメンをテーマにしたフードコートは全国に15以上も出現しました。街ぐるみでご当地ラーメンを開発しているエリアもあります。ラーメン文化がさらに成熟化すればするほど「ラー博」の存在が際立ってくるでしょう。頑張って欲しいと思います。
新横浜には他に観光施設が無いのが残念ですが、最近では世界各地からわざわざ「ラー博」を訪れています。

6カ国語パンフ

「新横浜ラーメン博物館」館長の岩岡さんは、ラーメンの画一化に危機を感じていると自著「ラーメンがなくなる日」で述べています。80年代以降ラーメンはメディアと融合し大ブームを起こしました。もうブームは去り、原点の郷土食にもどりつつあります。
カレーミュージアムは失敗しましたが、ラー博は常にラーメン世界の灯台になって欲しいと思います。
※余談
ちょっと苦言 一階の売店はどうにかなりませんか?レイアウトがその都度変わるのは構いませんが買いにくいのです。商品陳列、展開にもう少し本腰を!?

マイラーメン購入しました
かもめ食堂のミニです
つけ麺の登場しました
箸休めに喫茶も良いね
なつかし!レーシングカーだ。
外国人はコスチウム撮影が大好き 法被も人気ですよラーメンハッピ作っては?

No.62 3月2日 みらいと歴史をつなぐ道

 桜木町駅前から新港地区、山下公園を通り、港の見える丘公園まで横浜港の水際線3.5キロを楽しむことができる遊歩道が、
2002年(平成14年)の今日、完成しました。

2012年で開通10周年です。
この道が街の魅力を変えました。
これからの季節、暖かくなりますので散策にぜひどうぞ。(自転車はご遠慮ください)

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作図は私ですので正確ではありません

戦後、横浜港の水際を自由に散策できるようになったのはつい最近のことです。現在、横浜最大の人気スポットみなとみらいエリアは造船所でした。また、新港埠頭(カップヌードルミュージアム、赤煉瓦倉庫他)や象の鼻エリアは港湾施設と貨物線がありオフリミット、一般の人は近づくことができませんでした。
唯一の横浜港を楽しむゾーンは「山下公園」位しかありませんでした。しかもそこには1961年本牧ふ頭の倉庫のために新港埠頭から貨物線が延長されました。

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ニューグランドの前にも高架橋がありました
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水の守護神、貨物線、中華街

No.303 10月29日(月)オカピ外交 

今考えれば驚きますが、横浜の観光資源といえば元町中華街(山手)しか無かったのです。「みなとみらい」の開発計画が1960年代に計画されようやく1989年の横浜博をスタートラインにして開発が始まります。まだ、みなとみらから山下公園ゾーンまで「繋がっていない」横浜がそこにありました。横浜の賑わいが開港場(大桟橋)付近で分断されてしまうのです。

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「街の魅力は人が楽しく歩ける道があることです。」「現在過去未来をつなぐことで横浜はもっと魅惑的になる」とアーバンデザイナーの国吉直行さんは横浜の二つの核ゾーンを繋ぐ重要性を語っています。桜木町から赤レンガ倉庫まで繋ぐ「汽車道」そして、「横浜港駅」から「象の鼻」を経由して山下公園、山手へ向かう山下臨港線プロムナードを一本につなぐ。
「車に影響されず自由に徒歩で移動できる」軸線が完成したのです。
2009年開港150周年、ここを訪れた数十万人たちがこの道を体感しました。
現在、「象の鼻」エリアにとっての高架橋の是非が今議論されていますが、どちらにも横浜の魅力を伝える力があると思います。議論を広くじっくりして欲しいと思います。風景はもどりません。

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今後、横浜ベイエリアは、さらにウェストベイエリア(ポートサイド地区)に広がりつつあります。そして東は新山下、貯木場エリアがどうなっていくのか?興味津々です。

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湾岸の魅力はまだまだひろがりそうです。

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No.54 2月23日 麒麟麦酒株式会社創立

横浜人は、はじめて物語が大好きです。
数ある“横浜はじめて物語”で一番ポピュラーな「はじめて」は「麦酒(ビール)」でしょう。
1907(明治40年)の今日は横浜から育った麒麟麦酒株式会社の創立記念日です。

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開港の都市ですから、多くの文化が横浜経由で入ってきました。
当然、文化の先進性の立地にありましたから「横浜で新しい情報」が入手できたことは間違いありません。
横浜に“はじめて”が多くあるのは新しい情報があっただけではありません。

(起業都市横浜)

成功、失敗かなり繰り返しながらも「起業し、生業を生成してきた」街が横浜であると思います。
その中で、起業の苦難を乗り越えたエクセレントカンパニーが「麒麟麦酒株式会社」です。
麦酒会社を今作るのは至難の技です。
何百という法律に縛られています。
明治時代は、走りながらルールを作ってきました。
矛盾も抱えてきました。「坂の上の」時代です。
麦酒業界も明治期に乱立します。
しかし、1900年代に入ると業界の様相は大きく変化します。海外の例に習い、1901年(明治34年)に新しい麦酒税法が施行されます。
国が近代化するとき必ず安定した税収の柱にするのが「酒税」です。
(独立独歩)
小さな醸造業者各社はその負担に耐え切れず淘汰されていきました。
そこで政官業で極度の競争を回避し安定した市場を維持するため
札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の3社合同により大日本麦酒株式会社が設立されます。
市場シェア70%をこえる独占資本の成立です。

その中で、麒麟麦酒株式会社は三菱グループの下、独自の道を選びます。E3-82-AD-E3-83-AA-E3-83-B3-8.58.05 No.283 10月9日 (火)三角菱のちから

戦後、GHQによる「過度経済力集中排除法」に基づき、昭和24年「大日本麦酒株式会社」は分割され「日本麦酒(現サッポロビール)」と「朝日麦酒(現アサヒビール)」となりました。
財閥解体で大日本麦酒株式会社が東西(南北)で分割され、東がサッポロ、西がアサヒに分社されました。
1954(昭和29年)年にキリンビールは、ビール業界のトップシェアを初めて獲得します。
前々、保土ケ谷にも麦酒会社がありました。
現在の横浜ビジネスパーク(YBP)がある場所ですが、このYBP近くにはビア坂という名称が現在も残っています。
(関連ブログ)
No.40 2月9日 日諾交流

No.53 2月22日 アーティストツーリング

明治の画壇を牽引した黒田清輝は1902年(明治35年)の今日、東京から横浜まで観梅を兼ねてツーリングに友人七人と出かけました。
全員30代から40代の当時なら中年(ちょいわるおやじ)軍団だったかもしれません。

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本文とは直接無関係ですが明治からサイクリングは人気だったようです

黒田 清輝は、鹿児島県鹿児島市出身の洋画家で薩摩藩士黒田清兼の子として生まれました。
通称は黒田新太郎と呼ばれていました。
「くろだせいき」はペンネームで、本名の読みは「きよてる」です。
築地英学校から東京外国語学校を経て、1884年から1893年まで渡仏します。
当初は法律を学ぶことを目的とした留学でしたが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に出会い子供の頃学んだ絵画への思いが起ち、1886年に画家に転向することを決意します。東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となり、以後の日本洋画の動向を決定付けた日本洋画界の巨星です。

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代表作

黒田の日記には下記の通り書かれています。
二月二十二日 土
自轉車旅行の催有り 午後一時を期し品川停車場前の茶見世に會す 來る者久米 佐野 菊地 小代 中丸 小林 合田及拙者の八人也 舊東海道筋を走り横濱を經杉田に到る 此處にて月の出を眺め山を越え金澤東屋ニ一泊
戦前は杉田は梅の名所でした。自転車で観梅ツーリングなんて
なんてしゃれている嗜みでしょう。

ここに登場する8人とは誰だろう?調べました。


●久米桂一郎(1866〜1934)佐賀出身、洋画家36歳。
http://www.kume-museum.com/corner_kei.html
佐野昭(1866〜1955)江戸出身、彫刻家36歳。
菊池鋳太郎(1859〜1944)江戸出身、彫刻家43歳。
小代為重(1860〜1951)佐賀出身洋画家42歳。
中丸蓮一か?東京出身
小林万吾(1870〜1947)讃岐出身、洋画家32歳。
合田清(1862〜1938)江戸出身、版画家40歳。
黒田清輝(1866〜1924年)鹿児島出身、洋画家36歳。

黒田、久米、佐野は同年代で最年長は菊池鋳太郎の43歳です。
このツーリング計画は事前に計画され、その予行練習もおこないました。
明治期は、自動車もほとんど普及していない時代ですから、最先端の移動手段でした。彼らだけではなく、ツーリングブームだったようで、横浜の自転車店も最先端ショップとして繁盛したようです。
(白馬会創立)
このツーリングに参加したメンバーの多くが黒田清輝を中心に発足した従来の画壇に一石を投じようと集まった洋画団体「白馬会」同志でした。
1911年(明治44年)3月、白馬会は、所期の目的を達したとして解散しました。

実は彼らは 事前にちょっとリハーサルをしていました。
二月十六日 日
久米 合田 佐野 中丸 伊藤の五人と自轉車にて雜司ケ谷邊ヨリ飛鳥山へ出田畑根岸へ廻る
二月十七日 月
自轉車修繕の爲合田同道三田四國町へ行 午後二時より文部省ニ於て會議
二月十九日 水
夕刻押川氏 鈴木貫一郎氏を訪ふ 夜自轉車にて三河臺町小代方まで行く
二月二十一日 金
始めて自轉車にて學校へ行 歸路山口勝氏 佛公使館 Andre 氏夫妻ニ逢ふ

もう一つ
 偶然の一致ですが2月22日にもう一つ 自転車に関する偉業が横浜から始まりました。

1902年(明治35)2月22日
日本人初の自転車世界旅行を「中村春吉」が横浜港を出発します。
この時期の自転車は既に現代の自転車とあまり変わっていません。
タイヤも空気入りのセーフティー型が使用されました。
1903年(明治36年)5月に帰国します。
この偉業は 本にもなっていますので どこかで読んでみようか?
と思っています。

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ということは 横浜で撮影?