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第925話【横浜風景】金沢百景
金沢区は魅惑的な区で、様々な角度から紹介しています。
横浜18区の中でもじっくり書いたものが多いかもしれません。
<カウントしてませんが>
リンクをまとめました。
第923話【横浜市境】 市境の深ーい溝
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10931
No.136 5月15日 フルライン金沢区
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=479
横浜市金沢区は1948年(昭和23年)5月15日に磯子区から分区し創設しました。
No.269 9月25日(火)河口に架かる橋
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=334
1964年(昭和39年)9月25日の今日、埋立てによって整備された河口に架かる八景橋が完成しました。
2月20日 海の公園計画発表
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=570
2月22日 アーティストツーリング
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=568
2月27日 政治家が辞めるとき
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=563
No.124 5月3日 料亭にて超機密書類盗まれる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=492
憲法記念日に因んで
伊藤博文らが金沢八景の料亭東屋で「明治憲法」草案を練ったという話
第829話 1936年(昭和11年)
6月23日日本製鋼横浜製作所JSW
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7780
「日本製鋼横浜製作所JSW」が金沢町泥亀に竣工・操業開始した日です。
1914年(大正3年)7月12日 京急富岡駅
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7816
横浜貿易新報社選(神奈川県内の)「新避暑地十二勝」が発表されました。
No.230 8月17日 (金)孫文上陸(加筆修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=377
No.451 芸術は短く貧乏は長し
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=108
No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=378
No.282 10月8日 (月)幕府東玄関を支えた寺
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=318
リンクが多くなりましたので
野島に関しては別に紹介します。
第924話【市境を歩く】 市境の深ーい溝(修正)
この話題は以前フェイスブックで取り上げたものを
このブログ用に加筆修正しました。
1988年(昭和63年)2月19日
「戦前に臨時飛行場として造成された埋立地“夏島”の帰属をめぐる横浜・横須賀両市間の紛争が40年ぶりに決着し、横須賀市に帰属することとなった。」
という記事を発見。改めて考えてみると
つい最近(昭和63年)まで市境が確定せず
帰属争議が横浜市・横須賀市間で行われてきたという事実に驚きます。
現在の市境は

今年2017年横浜市域の<境目>をほぼ確認してきました。
川崎市境から初めて東京町田、大和、藤沢、鎌倉、横須賀と歩いてきました。
横浜市金沢区野島町と横須賀市夏島町でフィニッシュ!
野島を横須賀側から眺めながら「鷹取川」河口域から護岸に沿って歩くと日本でも“珍しい”岸下の<市境>になります。“珍しい”岸下の<市境>
これは私の素人調査ですが入江や運河の行政界は ざくっと調べた限り戦後の境界設定にこのようなぎりぎり設定はあまり考えられません。
そもそもこの<夏島問題>戦前からありましたので、
<歴史的経緯>を紐解いてみる必要があります。
岸下の<市境>なので横須賀市域の陸上の岸壁真下は<横浜市>になるため、当然<横浜市港湾局><環境創造局>管轄域となります。この際どい横浜市域に<干潟>があり、少し葦が自生しています。※漁港区域の管轄は<環境創造局>とご指摘いただきました。
今回、ここに葦がしっかり育つようにしようという活動のお手伝いをしつつ<市境>を越え確認してきました。
このエリアは干潟となっていて豊富な野鳥の飛来する空間にもなっています。
ところがご存知、干潟の葦原はゴミの<フィルター化>して大量のゴミが漂着しています。こればっかりはしっかり人の手でゴミを除去する必要があるからです。
ところが、掃除をスルためには横須賀市域から<欄干>を乗り越え横浜市域に下ります。そこで集めたゴミは横浜市指定の袋を使い、横須賀市域に上げ、横浜市のゴミとして金沢区のゴミ処理場に持ち込みます。横浜市内で生じたゴミは横須賀市を通過しないと処理できない空間でした。
『野島運河』は横浜市・横須賀市の大切な海洋資源であることを再確認しておきましょう。
(夏島問題)
名前の通り、「夏島」はかつて島でした。ただ、金沢区南部は明治期以前から現在までにかなり海岸線が変化した地域です。ここに「夏島」だけではなく「野島」の存在も面白い歴史的経緯を持っています。
夏島ですが
戦前、軍の飛行場拡張のため夏島周辺を埋立てた場所の帰属が横須賀市なのか、横浜市なのか、両市が争った!という事件です。(戦前は横須賀市?)
結果 長い協議を経て
夏島一体の埋立地は横須賀市ということに決着したということです。
問題となった軍航空施設の埋立て地は面積45万坪にも及び、その74%(約33万坪)が戦後<地方公共団体>に属さない所属未定地であったところから係争となりました。こんなこともあることにも驚きました。
前述の通り、
このエリア、幕末から明治の頃、「野島」と「夏島」の間は広い海で、干潮時には広大な干潟になる自然豊かな場所でした。
この干潟を明治時代あたりに海軍航空隊の飛行場を整備するため埋立を進めます。夏島にあった小さな山を削り、その土砂で南側の追浜との間を埋め立ててしまいます。
戦争が終わりますが、この海軍の追浜埋立地は皮肉にもそのまま米軍の管理下に入り基地として使用されます。
接収解除後、日産自動車の追浜工場敷地となり現在に至ります。日産追浜はテストコースもあり、一時期新車スクープ事件も起こったり日産にとっても重要な工場の一つです。
戦後の地図を調べてみると 驚き
横浜市域が夏島の中に引かれているではありませんか。
地図制作会社は 何を基準に作図したのでしょうか?
行政の懐事情で言えば、
大企業がそこに進出しているわけですから税金が違ってくるため、自治体はある意味必死だったのでしょう。
和解と合意の内容に関しては調べていませんので不明ですが、
横浜市民的には 入るべき<税>を横浜市は諦めたのは市民の利益を失う行為!!
ですね。
※一方、野島はかつて島ではありませんでした。このあたりも知りたいところです。
※注力散漫でした。港湾区域図をしっかり見ませんでした。
第918話【横浜の企業】索引編
これまでのブログが殆ど整理されていないこと、気にはなっていましたが、
気になり始めた時にすでに500話を越え、諦めました。
できる範囲で 索引的なものも作りました。(自分の確認用!)
2017115時点 更新していきます。
麒麟麦酒株式会社
新横浜ラーメン博物館
(株)緑山スタジオ・シティ(MSC)
自転車製造業 梶野仁之助 他
古河電線の前身、中島 久万吉他
No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王(加筆修正)
古河電線
横浜エレベータ株式会社
中区伊勢佐木町に第四有隣堂が創業
●三越→株式会社三越伊勢丹ホールディングス
●大丸→J.フロントリテイリンググループ
●伊勢丹→株式会社三越伊勢丹ホールディングス
●岡田屋(現横浜岡田屋)
●ピアゴイセザキ店
横濱デパート物語(MATSUYA編)
日本郵船
フォード
海岸通りのホテル群
東急ホテル
第829話 1936年(昭和11年)6月23日日本製鋼横浜製作所JSW
日本ピチュマルス株式会社
第916話【横浜点と線】カーティスという人間
1,000話に向けてエンジン掛けて
新しい発見はありませんが、調査資料の整理を兼ねて紹介します。
ハムとカーティス
今や有名なのであらためて紹介でもありませんが、
横浜市戸塚区で「鎌倉ハム」が誕生したという<トリビア>があります。戸塚エリアがかつて<鎌倉郡戸塚村>だった時代にハム生産が始まったことから”鎌倉ハム”ブランドが誕生しました。
ところがこの「鎌倉ハム」をめぐる諸説は、かなり複雑で真相は未だ<藪>の中といえる部分があり、ことは鎌倉(戸塚)だけにとどまらずブランドを巡るレシピ騒動も加わって複雑怪奇なものなってしまいました。
「横浜もののはじめ考(第三版)」でも諸説を示すだけで解明には至っていません。
戸塚区史では「鎌倉ハムの誕生」を第五章第一節を使って解説しています。
前述の「もののはじめ」その他の資料と併せてアウトラインを紹介しましょう。
ハム製造は戸塚地域で近代産業移入のトップを切り、始まりました。
欧米の香りがするハム製造、「鎌倉ハム」誕生は
「カーティスなる英国人が戸塚でホテルを経営し同時に養豚場を開設してハムやベーコンを製造販売したことに始まります。」
伝聞によると<カーティスは製造方法を門外不出、誰にも教えることをしなかったそうです>その後、ある理由※で複数の日本人が門外不出のレシピを継承して現在に至っています。
※火災の恩義説、レシピ漏洩説など
日本初のハムづくりかどうかに関しては諸説ありますが食肉としてのハム量産化は<鎌倉ハム>が日本初で間違い無さそうです。幕末から明治にかけて、初めて<トライ>した事例は数々あり、そこで<元祖騒動>が起こります。横浜の<もの・ことのはじめ>は開港場に於いて事業化の草分けとして存在価値があるのではないでしょうか。
東海道戸塚宿は、江戸時代街道の宿場町として賑わいました。
開港後、幕末から明治初頭にかけて外国人の行動が制限されるなかでも、西へ十里の範囲での休憩点として、また解除後も箱根や富士山詣での中継地点として<戸塚宿>は外国人の利用度が高い街に変身していきます。
ハム製造のウィリアム・カーティスと関係のあった同じ英国のコブ商会、
幕末、慶応三年(1867)には乗合馬車の営業を始め、横浜〜江戸築地間を2時間ほどで結びます。その後、外国人の行動が自由になった明治に入りコブ商会は横浜〜小田原(箱根)ルートも開拓します。多くの外国人が東海道線では直接箱根に行くことができなかった(国府津・御殿場経由)ため、面倒のない馬車を利用したそうです。この事業にカーティスも関係し彼の拠点だった戸塚宿はちょうど良い宿泊(中継)ポイントと考えたのでしょう。
wikipwdiaでは
「鎌倉ハム(かまくらはむ)は食肉加工品であるハムのブランドの一つ。複数の業者が製造販売しており、「日本ハム」や「伊藤ハム」、「プリマハム」のような一企業に属する単独銘柄ではない。
1874年(明治7年)、イギリス人技師ウィリアム・カーティスが神奈川県鎌倉郡で畜産業を始め、横浜で外国人相手に販売を行う。1876年(明治10年)上柏尾村の戸塚街道に面した場所に観光ホテル「白馬亭」を開業。敷地内でハム・ソーセージや牛乳、バター、ケチャップなどの製造を行い、主に横浜居留地の外国人向けに販売した。」
wikipwdiaでは1874年(明治7年)とありますが、
●カーティスがイギリス人技師と言う表現は正確ではありません。
また、戸塚での製造開始年代は1876年(明治9年)ごろが妥当のようです。
“観光ホテル「白馬亭」を開業”も疑問が残るところです。
1907年(明治40年)東京資本の「日本ハム製造㈱」が、
一方「鎌倉ハム製造会社」の名で別の東京資本の会社が設立されます。
そこに元々の戸塚村で製造しているメンバーが本家は我々だと主張し競合が始まり、結局新会社も元々から製造しているメンバーが後継を守り、現在に至っています。
ここで終わろうとしたところ、
別のテーマで「横浜居留地のホテル」について調べている中で、
1876年(明治9年)居留地61番に「カーティス・ホテル(Curtis’Hotel)」を開業、という資料が飛び込んできました。
カーティス(William Curtis)は1864年(元治元年)に来日、元々、P&O(Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)の客船係の経験を持っていた人物で、横浜でホテルビジネスを目指し到着早々居留地86番の「ロイヤルブリティッシュホテル」を譲り受け「コマーシャルホテル」としてオープンする際の経営者となったとありました。
明治期のホテル経営は実力(経営力)の他に<運>が必要でした。開港以降、多くの洋館、ホテルが登場しますが、没落のキッカケは火事でした。
1871年(明治4年)「コマーシャルホテル」も火災で焼失します。
ところが、カーティスが違ったのは、ホテル事業のスクラップ&ビルドの素早さ。「コマーシャルホテル」経営と並行して
1868年(明治元年)の夏には居留地81番に「インターナショナルホテル」を開業していて、火事で「コマーシャルホテル」を失いつつも立ち直る基盤を持っていました。
1874年(明治七年)6月末に「インターナショナルホテル」を売却、7月10日には居留地44番の「ジャパン・ホテル」を買収するなど投機ビジネスとしてホテル経営にあたったようです。
カーティスが戸塚に開業したホテル「白馬亭」は順調に業績を伸ばしますが、それまでに、横浜で手がけてきたホテルビジネスは
「コマーシャルホテル」
「インターナショナルホテル」
「ジャパンホテル」
「カーティスホテル」
「ザ・コマーシャル」
と複数に及びますが、どれも本腰を入れての経営ではなく、ホテルブームの横浜で投機目的だったようです。
前述の「コブ商会」にも参画し、戸塚宿では日本人の妻を持ち
1892年(明治二十五年)ごろには本町通りに戸塚の<肉>を出すレストランも出店します。彼カーティスのその後の足取りは不明ですが、恐らく戸塚の地で亡くなったのではないでしょうか。家族とともに海外へ出た!という説も考えられないこともありませんが、
ハム製造のレシピだけで簡単に事業化が進むことは難しく、短い期間ですが指導に当たったと考えたいところです。
後継者の日本人たちはそれぞれ明治二十年代から三十年代に肉加工業を始め独自のハムやソーセージづくりの道を歩み始めます。
戸塚には
他にも明治十年代に英国人のポーンスフォトが「シェイクスピア・イン」という簡易旅館を開業し、ここでもカーティス農場のハムが珍重されたと戸塚区史にも記述されていてここから西洋ハムが広まっていったことは間違いありません。
【番外編】戦後の横浜を読む(№917)
横浜の戦後も遠くなりつつあります。
占領時代は特に横浜の戦後を語る上で欠かせない時間です。関内外、周辺の工場や軍事施設が空襲を受け、捕虜収容所にも被害がありました。
第847話 1945年(昭和20年)7月13日「海芝浦駅」空爆
No.122 5月1日 ハイデルベルク・ヘンリーと呼ばれた男
ここに戦後横浜の断片を知るノンフィクション・エッセイを何冊か紹介します。
私が手に入れた範囲内のリストアップなのでまだまだ色々ありますが、中々読み応えのある内容です。
下記の書籍、ほとんど絶版のようです。図書館か古書店で探して下さい。
●港の見える丘物語 マダム篠田の家
〜YOKOHAMA1945-50/赤塚 行雄/第三文明社
昭和後期から平成時代の評論家として文芸から漫画、犯罪などの社会風俗まで、多岐にわたり評論活動を行い大学でも教鞭をとった。昭和5年生まれ横浜出身。
GHQ横浜進駐時代の裏話が詳細に語られています。

●馬頚楼雑記
〜グラスごしにみたヨコハマ(1984年)/牧野 イサオ/有隣堂
知る人ぞ知る関内にあったバーであり画廊だったホースネック(馬頚楼)のオーナーが残したスケッチや写真、メモ等をまとめたもの。場所は関内エリアですが、野毛の入口吉田町のことにも触れています。カウンター越しのクールさが当時を知る上で重みがあります。

●横浜ジャズ物語 「ちぐさ」の50年(1985年)
吉田衛/著 神奈川新聞社
野毛の戦後を知るにはまずこの一冊から。野毛論の基本教科書といっても良い一冊です。新聞社連載がキッカケとなったので、良く編集されています。

●はだかのデラシネ
〜横浜・ドヤ街・生きざまの記録 (1983年)/中田 志郎/マルジュ社
私が寿ドヤ街のことを調べる時に最初に手にした一冊。野毛の戦後混乱期を「麻薬相談員」の立場で語った秀作。

DOYA!ことぶきの町は。
●『聞き書き横濱物語 Yokohama story 1945-1965』松葉好市/
小田豊二/ホーム社
松葉好市さんは最近亡くなられたと聞きます。昭和11年真金町遊郭生まれ、椎名巌さん(桂歌丸)と同級生。10代の多感な時期を猥雑だった繁華街に育ちます。野毛のキャバレー「チャイナタウン」の支配人としてこのエリアの生き証人として語ったことをまとめた力作。野毛形成史の価値ある一級資料。

●野毛ストーリー 大谷一郎 著 神奈川サンケイ新聞社 1986年
野毛をネジロに飲みに返ってくる立場からこの街を描いたエッセイ。これも新聞連載から一冊の本になったもの。バブルが始まる直前の野毛が描かれています。巻頭の写真、文中に描かれた<挿絵>が当時の様子を知る良い資料となっています。

●天使はブルースを歌う
〜横浜アウトサイド・ストーリー(1999年9月)/山崎 洋子/毎日新聞社
根岸線山手駅の裏側に広がる「根岸外国人墓地」にまつわる史実を追い求めた力作で、そのストーリー展開はまさにサスペンデッド。改めて戦後の横浜を考え直した一冊です。

Google Kindle版があるのでタブレットをお持ちの方は手軽に読めます。
●やけあと闇市野毛の陽だまり
─新米警官がみた横浜野毛の人びと(2015年12月)/伊奈 正司、伊奈 正人/ハーベス社 ※販売中
昭和20年代、野毛の都橋交番に勤務していた著者が描いたスケッチとコメントを再編集したもの。野毛界隈を別の視点で描いているので興味深い。

●横浜「チャブ屋」物語
〜日本のムーランルージュ(1995年3月)/重富 昭夫/センチュリー
少々時代は遡りますが、横浜の風俗史を知る貴重な一冊です。チャブ屋という名を酒豪の先輩から聞いたのは私が横浜で暮らし始めた1990年代始めの頃でした。

●消えた横浜娼婦たち
港のマリーの時代を巡って(2009年6月) 檀原照和/著 データハウス

●寿町・風の痕跡 ドキュメント(1987年1月)
川原衛門/著 田畑書店

●女赤ひげドヤ街に純情す 横浜・寿町診療所日記から(1991年7月)
佐伯輝子/著 一光社

●横浜ストリートライフ(1983年) 佐江衆一/著 新潮社
時代は発行年と同時代に起こった、「横浜浮浪者連続殺傷事件」を追いかけたノンフィクション。
No.43 2月12日 “浮浪者狩り”

※平岡正明さん系!は別掲としました。
「ヨコハマB級譚『ハマ野毛』アンソロジー」
「ハマ野毛」(1から6)編集参加者多数
「野毛的 横浜文芸復興」
「長谷川伸はこう読め! メリケン波止場の沓掛時次郎」
「美空ひばり 歌は海を越えて」
「ヨコハマ浄夜」
「横浜中華街謎解き」
「横浜的 芸能都市創成論」
第911話 中世の横浜を理解する(1)
近年、横浜の近世以前が丁寧に解説されるようになってきました。確かに開港一辺倒の横浜史が多い時期もありました。
今年は吉田新田完成350年ということもあり、近世=江戸時代に少し光が当たっています。
さらに時代を遡って中世の横浜は?
横浜市域が武士の時代を迎える頃が中世の始まりですが、調べ始めると知らないことばかりでした。まず、入門ということで、中学生の副読本を読み始めました。これがかなり<難解>というか複雑な関係を簡単に表記しようとしているためか、一読では中々内容が理解できない内容でした。
私の理解力が低下していることも理由にあげられますが、中学生のレベルでもかなりハードルが高いのであなどれません。
私、中世日本の一般的な歴史知識は無く、高校での授業も殆ど記憶にありません。最近、近世史以降は少し学び始めていますが、中世というと真っ暗なのが現状です。
西洋史では<中世>は暗黒なんて言われていた時代があります。それはさておき、横浜市域の中世をざくっとレビューしてみました。
まず、そもそも論から。
ここが私の<困った>ところです。
古代から中世への分岐点(画期)は、律令制の行き詰まりにより武士が力を持った平安末期とするのが一般的のようです。平安末期、院政が始まり「保元・平治の乱」で平清盛が太政大臣に就任し、武家政権が成立したあたりからが中世ということです。
古代から、東国は良馬の生産地でもありました。※
平安時代末期に天皇家と摂関家による家督争いが表面化し実力行使が行われるようになってきました。この実力行使に、源氏・平家の武士団が動員され、地域に生きる豪族・武士団が政権存続に関わるようになりました。ここに東国の地方豪族=武士団が次々と登場するようになります。
横浜市域は武蔵国・相模国にまたがっていますから、「武蔵国武士団」「相模国武士団」が中世の重要登場人物となっていきます。
□五畿七道(ごきしちどう)
古代律令制度の時代にはその後の日本に影響を与えた様々な国家制度が作られますが、中でも地域区分を行うことで、国の政治制度を支えました。
五畿とは「畿内」ともいい、大和、山城、摂津、河内、和泉の五国。
七道とは全国の大きな行政区分で、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道のことです。地域区分により街道も整備され現在もこの七道は<道>としても活きています。以後、鎌倉幕府は「鎌倉道」を整備し、近世・近代に至るまで、国家は道作りの歴史でもありました。
武蔵国武士団は「東山道」に属していましたが、東海道東部、相模国武士団とも大きく関係するようになり人的交流が生まれます。同じ武士団でも
この頃、北関東一帯の有力武士団であったのが秩父一族です。帷子川流域の榛谷氏、鎌倉幕府の有力御家人となった畠山氏の畠山重忠らは横浜市域で活躍した秩父一族です。
□里山の風景
古代から中世にかけて形成された集落が現在の里山集落の原型・原点となっています。河川下流域に大きな集落が生まれるのは近世以降で、中世の集落の殆どが<谷戸><山間地>の村でした。海側の集落では漁業を生業とする漁村も誕生します。
現在の桜木町駅近辺は野毛浦と呼ばれた磯場で、江戸湾人気のマナコ漁が盛んに行われていました。歴史でクローズアップされるのが<戦(いくさ)>ですが、戦の場となるのが集落の拠点と成る山城です。小机城、蒔田城、荏田城、高田城、神奈川城、青木城、佐々木城といった城群が中世には点在していました。といっても戦闘方法が変わる戦国時代以降の城郭ではなく、丘陵を活かした陣地という程度のもので十分だったようです。
中世と近世の分れ目(画期)は検地・刀狩りによる兵農分離といわれています。織田信長・豊臣秀吉が強力に推し進めた兵農分離以前は、戦う農民そして田畑を耕し生産活動を行っていた「もののふ」が軍事力の中心でしたので、田植えの時期や収穫期の<いくさ>は両陣営でなるべく避けたそうです。
中世は下克上「源平合戦」の始まりでもあります。
次回は 横浜を舞台にした<戦い>を眺めてみます。
※京都平安京から遥か離れた<東国>には良馬の生産地として天皇の直轄の<御牧(みまき)>が何箇所かありました。
(2)横浜の戦い へつづく
【横浜風景史】伊勢山皇大神宮
「関東のお伊勢さま」と呼ばれている伊勢山皇大神宮は、開港後の急激な近代化する横浜港の鎮守様として野毛山に1870年(明治3年)創建されました。
【伊勢山皇大神宮】
所在地:横浜市西区宮崎町64
宮司は池田正宏さん。
祭神は「天照皇大神」。
http://www.iseyama.jp
もともと戸部村東部の伊勢山(現在の掃部山公園の東北端あたり)にあった大神宮を、1870年(明治3年)に当時の神奈川県権知事だった井関盛艮によって、野毛山(現在地)に遷座して伊勢山皇大神宮と称えました。「横浜の総鎮守」とも呼ばれ以降この一帯は伊勢山と呼ばれるようになりました。
社殿は1926年(大正12年)関東大震災で倒壊焼失しましたが、
1928年(昭和3年)に再建されまた。
境内には野毛の鎮守であった「子の大神」も祭られています。裏参道には水神宮があります。神殿は堀立柱の唯一神明造鋼板茸ですが、
2020年(平成32年)の創建150年を期に伊勢神宮の部材を用いて建て替えることになります。
これは中々の出来事です。
例祭日は五月十五日。
境内には他に「明治十年西征陣亡軍人之碑(明治一二年建立)」「以徳報怨」「蒋公領徳碑(昭和六一年)」「万葉歌碑(犬養孝書・昭和六三年)」などがあります。





■一神明造鋼板茸の社殿



境内の風景
参道の風景

伊勢山 その風情は変わりませんが
周囲は 驚くばかりの変化です。
第898話 【横浜・大正という時代】その2 大正時代
横浜の歴史にかるーく関心を持って10年、資料を調べ始めて5年。
腰を据えなければ!と思って3年になりますが 0からの学びは広すぎますね。
ということで
歴史の初学者として先生に<ご指導>をお願いしているのですが、
「あなたは初学者ではない。社会経験は歴史学に必須条件です。もうすでにこの条件はクリアしている」と息子のような歳の師に慰められています。
なぜ歴史学に<社会経験>が必要なのか おいおい紹介していきますが
今日は 横浜史を学ぶにあたって 時代区分が大切ですよ!!という話。
歴史書、歴史の教科書に目を通すと、時代区分がされています。
●●時代という区分です。今回も【横浜・大正という時代】としました。
一般的な歴史区分を大事にしながらも
自分なりの歴史区分を考えなさい!ということです。
テーマによっても歴史区分が変わってくるからです。
(一般的な区分)
・暦で分ける
19世紀から20世紀にかけてとか
大正から昭和にかけてとか
1930年代とか
※時系列比較するときに便利です。
・事件で分ける
戦間期(第一次と第二次世界大戦の間)
戦前・戦中・戦後(第二次世界大戦を指すことが多い)
革命以前以後とか震災前後 事件後、
※時代を変えた事件を軸に歴史を区分することは<事件>を捉える上で大切です。
(横浜を区分する)
横浜を考える上で、開港は外せません。特に開港の舞台となったことも大きいでしょう。
横浜史を<事件前後>二つに分けるとしたら?異論なく開港でしょう。
次に、私は「関東大震災」が横浜に与えた様々なインパクトは大きい要素だと考えています。
震災前後で横浜の人々の生活は大きく変わりました。災害の内容も東京や神奈川近郊とも異なる部分があり、横浜としての被災前後の政治・経済・社会はその後の横浜復興計画・都市間競争を踏まえながら変化していきます。
※東日本大震災も 震災前後として歴史を捉える時期が来るでしょう。
というところで、横浜史を学びながら<時代区分>を考える中、
(横浜・大正という時代)
ようやく本題に入ってきました。横浜を元号区分で俯瞰すると
大正時代は濃い時代です。
1912年(大正元年)〜1926年(大正15年)の15年間を大正時代と呼びます。
この間、1923年(大正12年)に起こった関東大震災は大転換期でもありました。
日本史において 大正時代の重要事項は
<大正デモクラシー>
<第一次世界大戦>
<ロシア革命>
<関東大震災>
横浜は被災地
などが代表的事件とされます。
横浜でも上記の歴史的要因の影響を大きく受けますが、特徴ある横浜での重要項目を列挙しました。
■横浜大正期(明治末期以降)の重要事項
横浜の大正期は近代化に伴う都市整備が始まった時期にあたります。
●都市計画の始まり
→小横浜から大横濱への計画が立案されます
1919年(大正8年)久保田周政(きよちか)市長は市区改正局と慈救課を設置し、都市計画と社会福祉を設置
1920年(大正9年)市区改正局→都市計画局 慈救課→社会課
横浜市の都市計画が本格的に検討されたのが大正初めのことでしたが、計画半ばで大震災が起こり挫折、0からの復興計画が始まります。→有吉忠一の横浜復興
■横浜市の大正期三大公営事業<水道><瓦斯><電気>
現在電気と瓦斯は民営事業となっていますが、横浜市は全国でもいち早く<瓦斯>を公営化、さらには電気鉄道も公営化します。
共に横浜の実業家高島嘉右衛門・安田善次郎らの事業を横浜市が引き継ぐことになります。
●横浜市内の水道第二次拡張工事期
→明治期に水源を山梨に求め、多摩川での水源紛争を避けた先見性のある横浜市でしたが
都市の急膨張は想定外でした。拡張に伴い、市民の飲料水の確保と何回も横浜を揺るがしたペスト・コレラ対策のための上下水道整備も急務となっていました。
No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い
●瓦斯エネルギーの転換期
市営瓦斯事業の整備
平沼瓦斯製造所(横浜市西区西平沼町 5-55)が1908年(明治41年)に完成、
現在相鉄線・東海道線沿線の平沼にある<ガスタンク>は明治に完成。大正時代の瓦斯供給を担います。
第二次世界大戦中に現在の東京瓦斯と新しい瓦斯会社を設立し
1944年(昭和19年)に瓦斯局が廃止されました。(市史Ⅱ)
平沼の瓦斯工場稼働により高島嘉右衛門に始まった<花咲町瓦斯工場>が配給所になります。→現在の中区本町小学校
●市電網の拡充
1921年(大正10年)に横浜市は経営難の「横浜電気鉄道」を620万円で買収し市営化を図ります。
市営化により第一期の設備投資が行われますが、関東大震災により設備の大半を失ってしまいます。事業としては初期設備投資と復興事業の二重負債を負うことになり、市電網の拡充に遅れが生じたことは否めません。
■民間経済の発展と挫折
●横浜開港五十年祭の開催
1909年(明治42年)に横浜は一つの節目を迎えます。
市を挙げて「開港五十周年」の式典を行います。ここにはもう一つの「開港五十周年」がありました。
明治期の薩長藩閥政治に不満を持つ人達と旧徳川家に関わってきた人達の動きの一つが「井伊直弼像」建立の動きでした。
開港の地、横浜で開港記念日に藩主井伊直弼の像を建立する計画が旧彦根藩士を中心に持ち上がります。詳しくは別な機会に紹介しますが、
政府(薩長出身)の大反対を受け開港記念日の除幕式は断念しますが、遅れて盛大に挙行されます。何故?横浜の地で「井伊直弼像」は建立できたのか?
横浜の大正時代を考える一つの出来事でしょう。
●民間の物流インフラの整備
横浜鉄道、横浜倉庫 他
→1905年(明治38年)
私鉄では京浜電気鉄道(後の京浜急行)が
品川(現・北品川)〜神奈川間開通します。
→1906年(明治39年)
横浜倉庫 横浜鉄道の姉妹会社として設立
→1908年(明治41年)
東神奈川駅〜八王子駅間(現在の横浜線)横浜鉄道が開業します。
●太平洋電信網の完成
横浜商工会議所(特に生糸商)が切望の日米電信網が完成します。
1906年(明治39年)8月1日
太平洋が通信線で繋がる。
第879話【時折今日の横浜】3月27日日米接続


No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って(加筆)
●工業化
京浜エリアの工業化 横浜は繊維貿易を基盤にした経済都市からの脱皮、
重工業都市への転換を図るため大正期から湾岸の埋立が急加速していきます。
第894話 【横浜・大正という時代】その1 新港埠頭
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9975
第897話 藤田雄蔵をめぐる物語
2015年11月5日Facebook掲載より転載・加筆・修正しました。
東京高円寺の古書店で一枚の絵葉書を購入しました。

購入価格は200円。
一機の航空機が写っている戦前の絵葉書です。
今日はここで入手した昭和15年のスタンプがある航空機の絵葉書から辿る旅を始めます。
■「航研機」
写真のようにも、絵画のようにも見えるこの航空機は東京帝国大学航空研究所が開発した新型航空機で「航研機」と呼ばれました。この「航研機」で「周回航続距離世界記録」を樹立した記念絵葉書として発行されたものです。
宛名面には
「航研長距離機川崎特殊型700馬力最大速度280粁/時
乗員3名記録飛行距離11,651粁011飛行時間62時間22分49秒」
スタンプは
昭和15年(1930年)2月11日となっています。
・「航研機」スペック
全幅:28.00m
全長:15.06m
全高:3.84m
エンジン:川崎特殊液冷 700ps/1800rpm 巡航速度240㎞/h(飛行高度1000m)
総重量:9000㎏(乗員3名、食料、装備、燃料、オイル含む)
機体は不時着した際発見しやすいよう両翼が赤く塗られていました。
■飛行記録
「周回航続距離世界記録」に挑戦したのは
1938年(昭和13年)5月15日
ルートは<木更津飛行場→銚子→大田→平塚→木更津飛行場>の左回り。
結果は2つの長距離飛行世界記録を樹立しました。
●周回航続距離記録
1周401.759㎞のコースを無着陸で29周、
62時間22分49秒の飛行時間で
周回航続距離10,651.011km
●1万kmコース上の最速記録
1万kmコース平均速度186.192km/時という記録を打ち立てました。
この記録は、
国際航空連盟(FIA)によって公式に認定された記録で日本航空史に輝く偉業といえるものでした。
■時代背景
「航研機」が開発された昭和初期の時代
1937年 蘆溝橋事件が起こり日中戦争が始まる。
1938年5月5日は「国家総動員法」施行
アジアでの軍事的衝突と国際的緊張が高まる中、
この世界記録樹立は<国威発揚>にはうってつけのものでしたが、開発記録を読むと「航研機」を開発した<東京帝国大学航空研究所>の航空機基礎研究部門は当時の政治要因の影響を色濃く受け、厳しい条件下で記録に挑戦しなければなりませんでした。
陸軍と海軍、帝大を監督する文部省など、縦割りの弊害が有ったと読み取れます。
※資料1 開発当事者のエピソード、若干疑問符もありますが、
限られた予算とスタッフで世界レベルを目指した実験機の詳細なドキュメントでした。
研究所スタッフは
「ただただ世界記録のために総てをそれに徹した機体」を開発することに重点を置き、航空機としては極めて運転しにくい構造設計が推進され、操縦席からの前方視界が殆ど無い!?航空機が誕生することになります。
残念ながら樹立された記録は翌年イタリアのサヴォイア・マルケッティ SM.75機によって破られてしまいます。
開発過程や記録挑戦までのエピソードからは実にワクワクする技術開発の現場が見えてきます。横浜ネタからさらに離れてしまいますので航研機ドラマに関しては略します。
※※資料1をお読みください。
■飛行士
記録を樹立した「航研機」
視野が側面にしか無く<横を見おろしながら位置を確認>しなければならない構造でした。飛行性能を追求したあまり操縦性が後回しになった中での記録樹立、この飛行の成功は飛行士にあったと言っても過言では無い!と思えてなりません。
この資料を読み解く中で私はこの実験機に関わる<人間像>に関心をいだきました。
航研機乗員は3人乗りで、飛行チームは陸軍航空技術研究所のパイロット2名と機関士1名で構成されました。
※国の支援が無かった状況ですが 海軍は非協力的で陸軍航空技術研究所とは交流・協力体制ができていたようです。このあたりは、軍の経費節減に伴う陸海軍、陸軍内部の抗争も関係していたのではないか?と推理しています。まだ推測の領域ですが軍関係資料から意外な真実が判ってくるかもしれません。
「航研機」スタッフ
操縦士:藤田雄蔵(陸軍少佐)
副操縦士:高橋福次郎(陸軍曹長)
機関士:関根近吉(帝大技手)
■藤田雄蔵
操縦士藤田雄蔵(陸軍少佐)の経歴を調べていたところ、
彼は (少なくとも)幼少期を横浜で過ごしていたことが判りました。
「本籍青森県。日本郵船社員・藤田未類二の長男として横浜で生まれる。横浜一中卒を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、砲兵少尉に任官し野戦重砲兵第2連隊付となる。(wikipedia)」
別の資料では
「藤田雄蔵少佐(1898-1939)は周回航続距離世界記録を樹立した航研機のパイロットとして知られる。日本郵船社員の藤田未類二を父に、清美を母として、弘前市小人町12で生まれた。まもなく父の勤務の関係で横浜に移ったが、横浜では、今東光、日出海の両親も父が日本郵船の社員、母が幼なじみということで親しくしていた。横浜一中(17期)から陸軍士官学校(33期)に進み、昭和9年から陸軍航空本部技術部付のテストパイロットになった。」
また
森川肇『空の英雄藤田雄藏中佐』清教社、昭和15年刊では若干記述が異なっています。引用します。
「藤田雄藏中佐は、明治三十一年二月十九日、青森県弘前市で孤々の声をあげた。が、生まれるとすぐに横浜市神奈川区松ヶ丘町十四番地の藤田類二氏の養子となって横浜市に移った。従って小学校は西戸部小学校に入学し、続いて大正元年横浜一中の第十七期生として入学した。
中佐の父君は雄藏氏の今日を見ずして、さきにこの世を去った。その後は、亡父の親友であった横浜一中の校長木村繁四郎氏が、中佐の親代わりをつとめ、中佐の母と共に、その大いなる成長をみつめて来た。」
養子と記述されたり
また、親の名が「藤田未類二」または「藤田類二」と異なった表記があります。
父親「藤田類二」の点に関しては
大正十三年の新聞記事に「藤田未類二」が登場していて実在することが確認できています。
従って(wikipedia)「藤田未類二」が正しいのでは?と思われます。
藤田未類二が住んでいたとされる横浜市神奈川区松ヶ丘町十四番地から西戸部小学校に通うのは現実的ではなく
父親の仕事の関係で横浜市中区戸部(当時)にあった「日本郵船」の社宅に暮らしていたのではないでしょうか?
此の時に、伊勢町で育って西戸部小学校に通った同い年の
今東光、弟の今日出海と交友があったと推察できます。
No.86 3月26日 老松小学校の悪童
『空の英雄藤田雄藏中佐』清教社には 他にも幾つか<粉飾><誇張>が見られます。
当時世界記録に輝いた藤田は、
その後日中戦争に出征し、1939年2月中国大陸で戦死します。
<第一中学>現希望が丘高校に通うために毎日のように水道道を上り下りしていた少年藤田雄藏の姿を、この道に重ねながら
一枚の絵葉書から 新しいドラマに出会えたことを感謝します。
<余談>
この航研機の翼及び燃料タンク、車輪カバーを担当したのが山本峰雄で彼は日本自動車界の基礎を築いた人物として歴史に名を残しています。
http://www.yamafami.com/cm/
※名称変遷を繰り返した第一中学・1899年2月6日神奈川県中学校
・1900年4月1日神奈川県第一中学校
・1901年5月7日神奈川県立第一中学校
・1913年4月1日神奈川県立第一横浜中学校
・1923年4月1日神奈川県立横浜第一中学校
・1948年4月1日神奈川県立横浜第一高等学校
・1950年4月1日神奈川県立希望ヶ丘高等学校
参考資料
資料1「航研機」世界記録樹立への軌跡 富塚清 著 三樹書房
資料2「藤田雄藏中佐」森川 肇 著 清教社
関係ブログ
1937年4月9日
朝日新聞社の国産機「神風号」、ロンドンに到着。94時間17分56秒の国際新記録を達成。
航研機に関して
No.692 世界一周機「ニッポン」(号)
第895話 【横浜のミニ暗渠】新田間川緑道
横浜市内の小さな(短い)暗渠を紹介します。
今回はわかりやすい「新田間川緑地」です。
「新田間川緑地」は
帷子川支流の新田間川のさらに派川部分が暗渠になっています。
川の名称は運河となると少々面倒ですが、帷子川の派川の一つです。
ここは端から端まで簡単に暗渠探しできます。 起点(上流)は新田間川に架かる「新田間橋」脇の左岸から分岐し「新田間川緑地」の標識が設置されています。途中ビル街の合間を抜け、帷子川分水路出口にある「楠ポンプ場」まで暗渠となっています。ポンプ場の奥は「楠木町公園」、不思議な空間ですのでおヒマな時にお尋ねください。
話はそれますが、下水道局のポンプ場を探すとそこは<暗渠>のシグナルです。吉野町市民プラザ吉野ポンプ場(日枝神社大池)、桜木ポンプ場(桜川)などもかつては水路・池だった場所に設置されています。
もう一つ
新田間川(しんあらたまがわ)は、新田・間・川→新田と新田の間を流れる川という意味で名付けられたそうです。左岸側が岡野新田、右岸が安永新田・弘化新田にあたる場所です。まあ「しんでんあいだがわ」では呼びにくいですね。
この「新田間川緑地」はその昔、横浜駅西口一帯が埋め立てられた時期に排水路も兼ねて運河化しましたので「派新田間川」となりました。現在「北幸」と「鶴屋町」の境が運河で、上を首都高速三ツ沢線が走っています。
この「派新田間川」はある意味、嫌われ川で、何時暗渠化するのか<してほしい>という状況でした。
とは言え何年かに一度の<帷子川氾濫>への対策が求められる中、大規模の<分水路計画>が策定されます。
帷子川の中流部にあたる横浜市旭区白根1丁目付近で帷子川から分水し延長約 5.3kmのトンネルでつなぎ、ドブ川だった 旧派新田間川に接続、横浜駅東口あたりで帷子川本川に合流(総延長約 6.6km)する事業で 1997年(平成9年)に完成することで、死に体の「派新田間川」が生き返りました。
※それでも 帷子川はその後2度氾濫被害にあっていますので、自然は想定できないものだということを記憶しなければなりませんね。
※地図上の表記が「新田間川緑道」となっていますが、正しくは「新田間川緑地」です。訂正が面倒なもんですみません。
関連ブログ
【横浜風景】護岸・誤岸?