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第880話【絵葉書の風景】横濱乗物図鑑(加筆修正)

「車馬交通の最も頻繁なる桜木町通り」

私のお気に入りの絵葉書の一枚です。
改めて見直すとこの<風景>少々 不自然さ感じませんか?
意図して、当時の乗物すべてをここに集めて撮影したとしか思えない構図となっています。
カメラマンは市内の乗物を一同に並べ 一斉に走らせ シャッターを切った!
という感じがします。
市電は止まっているかもしれませんが、自転車を含め動きもあります。

(画像右から)□歩行者
電信柱の横、歩道に女性が歩いているのは判りますか?
□馬車
袋をいっぱい積んだ馬車と車夫
後続の馬車
□人力車
□多数の自転車
□高架に電車
□自動車
□市電(307番)上り線
横切る自転車荷車、大八車を引く人
空(から)のものから満載まで多様な荷車が道路を走っている姿が捉えられています。

■撮影時期の推定
大正13年〜昭和初期あたりと推定できます。
時刻は 左の時計から午後3時50分あたりでしょうか。

■画像左のマールの建築は「神奈川県農工銀行」
明治31年〜昭和19年まで営業

昭和4年

「農工銀行(のうこうぎんこう)とは、日本全国各地に戦前に存在した、特殊銀行の一つ。」で戦後勧業銀行に吸収されました。
こうやって改めて見直すと
まさに 「横濱乗物図鑑」のような風景です。
ここで空に航空機が舞えば パーフェクト、とまでは望まないことにしましょう。

番外編【絵葉書の風景】ハルピンの沖禎介

戦前期、年間数億枚も発行された「絵葉書」は当時の重要なメディアでした。
この絵葉書は
「明治37年4月20日付け
大日本帝国沖縄県那覇
沖庄蔵 殿
在 ハルピン 沖 禎介」
発行は大正期と思われます。
沖 禎介(おき ていすけ)という人物は
大陸浪人、諜報活動家、日本軍特殊任務従事者といった肩書で紹介されています。簡単にいえば明治期のスパイ。
1874年(明治7年)6月
高名な沖縄地方裁判所判事 沖荘蔵の長男として長崎県平戸に生まれました。子供の頃から型破りたっだようで長崎尋常中学在学中に出奔して熊本済々黌(熊本県立済々黌高等学校)に入学します。ここにも落ち着かず、第五高等学校に入学しながらも中退、上京して新しき学びを求め東京専門学校(現 早稲田大学)で学びますが中退し横浜で貿易業に従事しアジアの視野が広がります。
日清戦争後、中国に空前の日本語学習ブームが起こり
1901年(明治34年)清に渡り北京の日本語学校「東文学社」の教師兼社長代理となり、活動の場を<中国大陸>に移します。沖<27歳>の時でした。
1903年(明治36年)に独立して「文明学校」を創設、清国人教育に取り組みます。
1904年(明治37年)2月8日に露戦争が勃発すると、沖は志願して特別任務班に入り「横川省三」らと共にロシア軍兵砧の大動脈である「東清鉄道」のチチハル雅児河鉄橋(鉄道橋梁)の爆破をくわだてるが、ツルチハ駅(隣駅)付近で捕獲され失敗。
ロシア軍に捕らえられ、ハルビン郊外で横川とともに1904年(明治37年)4月21日銃殺刑に処せられた。
というもの。

(絵葉書の風景)
画像に移された書面は
処刑前日に「沖 禎介」が両親に向けしたためた手紙で、
国に殉じた英雄として この資料が有名になり<絵葉書>になったものと思われます。
■沖禎介が両親に贈った最後の書翰書き下してみます。(誤読もあるかもしれませんが大筋読めました)
沖禎介が両親に贈った最後の書翰には

「児禎介謹而(ンデ)父母親大人二告別ス。児不孝。平常膝下二侍シテ孝道ヲ尽ス事能ワズ。嘗テ遺憾ト為シ処二御座候。然ルニ,此度本国政府ノ命令ヲ奉ジ決死数名ト共二蒙古旅行ノ途二上リ候処,運命ナル哉,某地二於テ露兵ノ為ニ捕獲セラレ,遂二軍事裁判ヲ以テ死刑ヲ宣告セラレ,本日銃殺致サレ候。是亦国家ノ為,何卒不孝ノ罪御宥免下サレ度ク,先ハ御暇ヲ乞ウ此ノ如シ。携クル所ノ銀五百両御落掌下サレ度ク願イ奉リ候。以上。於ハルビン 明治三七年四月廿日
児 禎介
父母親大人膝下 後事ハ
右金受取方ハ 川島浪速(北京警務学堂監督)氏二御相談願奉り候。
銀五百両一件ハニ人(捕獲セラレシモノ二人 一人ハ横川省三ト云イ,司令官ナリ。
不肖児ハ第二級高等官)相談ノ上露国赤十字社二寄贈二子シ申候。何レ不肖等ノ後事ハ日本政府其事二任ズベシト存候。以上。」
とあります。

冒頭に沖を「大陸浪人」と紹介しました。
「大陸浪人(たいりくろうにん)とは、明治初期から第二次世界大戦終結までの時期に中国大陸・ユーラシア大陸・シベリア・東南アジアを中心とした地域に居住・放浪して各種の政治活動を行っていた日本人の一群を指す。(wikipedia)」
岸田吟香
宮崎滔天
二葉亭四迷
甘粕正彦
小日向白朗
児玉誉士夫
他 多くの人物が
戦前の満州を舞台に 日本の大アジア主義を形成していきました。
横浜時代の沖はどのような仕事に就き、何を見たのか?
手元の資料だけでは不明ですが 気になります。
銃殺となった大陸浪人 沖 禎介の父 沖荘蔵は
その後、団長として
1925年(大正14年)に横浜から高麗号でソ連領土「北樺太」を北原白秋らと観光に出かけています。(北原白秋「フレップ・トリップ」)

第875話【時折今日の横浜】3月21日

1953年(昭和28年)の今日
「横浜市戦没者慰霊塔」の竣工式が行われ戦没者追悼式が開催されました。
この慰霊塔をご存知ですか?現在の三ツ沢公園の一角に建っています。
<三ツ沢公園>
「横浜市戦没者慰霊塔」の建つ横浜を代表する公園の一つ<三ツ沢公園>をまず紹介しましょう。
三ツ沢公園(みつざわこうえん)は面積300,055m2の「新横浜公園※」に次ぐ規模を持つ運動公園です。
※「日産スタジアム」のある横浜市最大の都市型運動公園

三ツ沢公園一帯は、県道を挟んで大きく北東側と南西側の2つのエリアに分かれています。南西側には陸上競技場、三ツ沢球技場、テニスコート、軟式野球場、野外活動センターなどが設置されています。
北東側には横浜市唯一の馬術練習場、テニスコート、子供の遊び場
そして今回紹介する「横浜市戦没者慰霊塔」を含む公園施設があります。

1949年(昭和24年)10月に、第4回国民体育大会(東京国体)のバレーボール会場として使用されることをキッカケに整備され、現在まで陸上競技場、補助競技場、球技場、テニスコート、軟式野球場、馬術練習場など多彩なスポーツ施設が設置され市内最大級の運動公園となっています。
※「公園」規模では最も広いのが<こどもの国>です。

三ツ沢公園は
1955年(昭和30年)に開催された第10回国民体育大会のメイン会場となり競技場の改修、更衣所、管理棟、ラグビー場などが建設が行われます。
1964年(昭和39年)には新しく東京オリンピックのサッカー会場(現在ニッパツ三ツ沢球技場)として整備され使用されました。

<横浜市戦没者慰霊塔>
今日の本題、「横浜市戦没者慰霊塔」を紹介します。
三ツ沢公園北東側に足を踏み入れるとスポーツを楽しむ人々のにぎわいが一転静けさに包まれます。公園奥に一際高い横浜市戦没者慰霊塔が見えてきます。
この慰霊塔は
1953年(昭和28年)3月21日に建立されました。
平成になって付けられた塔の説明板には

「恒久の平和を願って
戦後50周年を迎えて、更なる平和への願いを込めて慰霊塔を改修いたしました。この慰霊塔は、西南戦争から第二次世界大戦までの戦争犠牲者の御霊を安置するため、昭和28年3月に建設したもので、左の塔は、先の大戦ではらった大きな犠牲と破壊を表し、右の塔は、新生日本が将来にむかって発展する姿を表しています。市民の皆様と共に諸霊の御冥福を心からお祈りし、戦争の悲惨さを忘れることなく、恒久の平和を念じたいと思います。横浜市は、21世紀に向かって、世界に開かれた国際都市づくりを進めていますが、ピースメッセンジャー都市として、今後とも積極的に国際交流活動を展開し、相互理解を深め、世界の平和と発展に貢献していきたいと思います。
平成7年11月1日  横浜市長 高秀秀信」

何故ここに戦没者慰霊塔が建ったのか?
横浜市では
「本公園の前身は、昭和14年創建の神奈川県護国神社外苑を昭和17、18年に防空緑地整備事業として整備したものです。
空襲で護国神社は焼失しましたが、残された土地は市に譲渡され、それに国有地の無償貸付や周辺の民有地などの取得をあわせて用地を確保、公園として整備を始めました。」
と説明されています。
<護国神社>
護国神社は、
1939年(昭和14年)に内務省によって制定された東京を除く府県一社を原則とする<指定護国神社>(昭和14年内務省告示第142號)によって全国に建てられました。
建立単位が陸軍連隊区という軍の区分をベースにしたため、中には複数社が作られた県もありました。また、明治期に多く建てられた招魂社・忠魂碑等が護国神社となっていったケースも多くありました。
戦争が終わるまでの6年間で51社が指定されます。
ところが、全国1道2府43県の中で、神奈川、宮崎、熊本の3県の縣護國神社が未着手、または造営中のまま終戦を迎えることになります。
その一つ、神奈川縣護國神社は1942年(昭和17年)7月27日に許可が下り、社殿造営が開始されますが、ほぼ完成間近のタイミングに横浜大空襲があり焼失してしまいます。
その後、
この地一帯が三ツ沢公園となりその一部<外苑>に「横浜市戦没者慰霊塔」が建つことになります。
一方、護国神社の無かった宮崎、熊本の2県では戦後継続して新社殿建設が行われ、
宮崎が1955年(昭和30年)に竣工、
熊本が1957年(昭和32年)に竣工します。
<唯一護国神社のない県>
1953年(昭和28年)
神奈川県は戦後いち早く<神奈川方式>と呼ばれる”多宗教”の「戦没者慰霊堂」が横浜市港南区最戸に建てられ戦没者慰霊の役割を担うことになります。
結果、全国で唯一<護国神社>の無い県となりました。
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f153/p2926.html
また、横浜市としては
<横浜大空襲>を含めた戦争犠牲者を悼む「横浜市 平和祈念碑」が
中区の大通公園中程に建立されています。
1992年(平成4年)5月29日建立。
建立者は「横浜戦災遺族会」
彫刻家の横田七郎の作品で台座正面には「平和記念碑 横浜市長 高秀秀信」とあります。毎年5月29日、大空襲の犠牲者を悼む平和祈念碑の内部が公開されます。
戦争の記憶を心に留めるためにも、
時にはこれらの慰霊碑を訪れることをお勧めします。
(三ツ沢公園関連ブログ)
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園

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No.309 11月4日(日)名実共に記念館

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(3月21日関連過去ブログ)
No.81 3月21日 猛女養成学校出身

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第873話 【絵葉書の風景】駅前劇場

「横濱劇傷(場)
Yokoh Ma Tkoatrs Nera Yokohama Street.」
日本語も英語も怪しい! 誤植だらけ
キャプションの誤植は多けれど!!!たぶん
Yokohama theater near Yokohama Station.
ではないかなと推理しました。
英文は「横浜駅近くの横浜劇場」としたかったのではないか?
ということで 謎解きしてみます。

時代を遡り戦前、
関東大震災まで、横浜は日本有数の<劇場>が建ち並ぶ
賑わいの街でした。
劇場街の中心は<伊勢佐木町>でしたが
1915年(大正4年)8月15日に二代目横浜駅が高島町に開業します。この場所は 京浜電車、貨物用高架線、東海道線。そして市電が交錯する狭い空間でしたが、完成後駅前が少しづつ賑わっていきます。
その一つが<大劇場>の開業でした。
1920年(大正9年)9月11日
花咲町に歌舞伎などを行う総合劇場「横濱劇場」がオープンします。
二代目横浜駅から南へ約300mの<桜川>に面した場所だろうと思われます。東京と横浜の実業家達が出資し、劇場経営を松竹合名会社に任せます。
ところが
1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災で焼失し
わずか3年弱でその姿を消すこととなります。
さらに時期を絞ってみます。
劇場前には「市川左團次」の役者のぼりが立っているのが判ります。
横浜劇場の演目記録から左団次を探すと
1921年(大正10年)6月初旬
大歌舞伎
市川左團次の「歌舞伎 義経千本桜」の興行がありますので、おそらく絵葉書の撮影時期はこの頃と推理できます。

「横濱劇場」は、当初の目論見と大きく異なり
交通事情も悪く(改善されず)経営不振に陥ります。
震災で焼失後、復活されることなく歴史から消えてゆきました。

横浜駅は、最初現在の桜木町に誕生し、二代目がこの絵葉書の劇場近くの高島になり
その後、現在の位置に移りました。
初代と三代目は華やかな歴史を刻んでいますが
8年の歴史を持った二代目「横浜駅」そして「横濱劇場」は殆ど語られることはありません。

第871話 【絵葉書の風景】大山公爵夫人

神奈川高等女学校展覧会 松屋鶴屋の裾模様実演説明
正面 大山公爵夫人
来観者18,000人 昭和四年十一月二・三日
●撮影場所:松屋鶴屋
●撮影時期:1929年(昭和4年)11月2日〜3日
この絵葉書のように描かれた風景が明確に示されていることは珍しい。
絵葉書を<記録メディア>として利用した典型事例の一つといえるでしょう。
ここに登場する「神奈川高等女学校」
現在、沢渡にある神奈川学園高等学校の前身と考えられます。
昭和初期の<神奈川高等女学校>は少々紛らわしいので推定に苦労します。

<神奈川高等女学校>か<神奈川県高等女学校>か?
<神奈川高等女学校>は
1914年(大正3年)に「横浜実科女学校」として創設されます。
創設の地は南吉田にあった<リンネル工場>跡地の仮校舎だったそうです。
1915年(大正4年)に「横浜実科高等女学校」となり
1921年(大正10年)から「神奈川高等女学校」と改名します。
戦後の新学制で「神奈川高等学校」
その後「神奈川学園高等学校」として現在に至ります。
http://www.kanagawa-kgs.ac.jp
http://touyoko-ensen.com/syasen/kanagawa/ht-txt/kanagawa18.html
ここで勘違いし易いのが<神奈川県高等女学校>
1900年(明治33年)10月10日に創立。
翌年に神奈川県立高等女学校となり
1930年(昭和5年)4月1日には
「神奈川県立横浜第一高等女学校」となり「第一高女」と呼ばれました。
絵葉書発行の昭和四年の時点では
「神奈川高等女学校」(沢渡)
「神奈川県立高等女学校」(平沼)
の二校が近くにあり間違いやすかったと思います。
ちなみに平沼の第一高女は
1900年(明治33年)10月10日創立  神奈川県高等女学校
1901年(明治34年)5月7日  神奈川県立高等女学校
1930年(昭和5年)4月1日  神奈川県立横浜第一高等女学校
1948年(昭和23年)4月1日  神奈川県立横浜第一女子高等学校
1950年(昭和25年)4月1日  神奈川県立横浜平沼高等学校
もう一つ
似た女学校がありました。
程谷町立実科高等女学校
1926年(大正15年)11月30日認可
校名 程谷町立実科高等女学校
1927年(昭和2年5月)横浜市立実科高等女学校
1934年(昭和9年4月)横浜市立高等女学校
1945年(昭和20年4月)横浜市立第一高等女学校
1948年(昭和23年4月)横浜市立桜丘高等学校

(会場)松屋鶴屋      <昭和7年>
この神奈川高等女学校展覧会が開催された松屋鶴屋は
昭和4年時点で推測すると
伊勢佐木通り入口の「鶴屋(呉服店)」と思われます。
翌年の昭和五年に「松屋(呉服店)」に名称変更されました。
ここが現在の< MATSUYA GINZA>です。
No.30 1921年1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=593

横濱デパート物語(MATSUYA編)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5499
この絵葉書の主題にあたる
大山公爵夫人
私にとって 劇的出会いでした。
詳細は資料ツッコミ中につき別で紹介します!

第870話【絵葉書の風景】<年賀葉書>

2021年2月 一部更新しました。地図の追加、樺太関係の記事追加。内容の一部修正をしました。

2016年12月
年も押し迫ってきました。年賀状の準備の季節です。 今回紹介する<一枚の絵葉書>は年賀状です。
発行年は 宛名欄から 1915年(大正4年)
絵柄は この年の干支にちなんでウサギ達が楽隊を編成
大八車に農産物と果物を積んで賑やかに行進する絵柄です。
発信者は
「堀田忠次郎」「堀田隆治」の二名連名。
両名は
「開港五十年紀念横浜成功名誉鑑」に登場しています。 これを含めたいくつかの資料よれば、
慶応七年横浜萬代町一丁目七番に開業し明治23年に三忠合名会社となりました。ジャガイモ、玉ねぎ、蜜感、農産物、海産物を主に輸出入する会社として登場、一時代を築きます。
この年賀状は、「三忠合名会社」オリジナルの絵葉書で、取引先に送ったものと思われます。
明治25年「三忠合名会社」は北海道小樽にも支店を置き、北日本各地の物産を扱い中でも当時日本国領土だった南樺太との取引も多くあったようです。
この年、1915年(大正4年)の年賀状にはもう一つ意味があったようです。
政界進出の準備だったのでしょうか
9月25日に行われた神奈川県議会議員選挙に
政友会から立候補、262票(次点)で落選しています。
落選で懲りたのか政界への立候補はこれだけしか確認できませんでした。
この時、政友会としてトップ当選したのが「新井清太郎」で352票でした。
前市役所前に創業者の名を拝した「(株)新井清太郎商店」ビルが建っています。
「三忠合名会社」のその後は?ネットで確認した程度ですが、
貿易商”横浜三忠商店”を継承した企業が現在も東京で事業を営んでいます。
株式会社 三忠

<年賀状>
さて、今回のサブテーマである年賀状、年末に出し、正月にまとめて配達される予約配達システム。
古くは江戸期に街道の整備がすすみ「飛脚」制度が充実する中、豊かになった町民・商人の間で「年賀の書状」のやりとりが新年に行われていました。
今日のように<正月>に集中して賀状の配達が行われるようになったのは明治の郵便制度が整備されてからのことです。
<はがき>の登場によって、手軽に多くの人にメッセージを送ることができるようになり、爆発的に<年賀はがき>への利用が増えます。
結果
年末数日に年賀を目的とした郵便の取扱量が急増・集中し流通がパンクします。
そこで制度として<年賀郵便>のルールが決まりました。
基本は<1月1日>の到着に日本人はこだわったのです。郵便のルールは投函されたら順次配達していきますから、人々は元旦に届く年末ギリギリを狙った訳です。当然、配達が間に合わなくなってきます。
1899年(明治32年)に
年賀郵便だけ 暫定的に普通郵便と分離します。
1906(明治39)年
そして、「年賀特別郵便規則」が公布され正式に法制化され現在に至ります。それまで普通郵便は配達期日の指定をすることができなかった訳です。
翌年の
1907年(明治40年)から
「年賀」であることを表記すれば、郵便ポストへの投函も可能となり正月に届くことが制度化されます。
そして
2017年は
年賀状制度110年目を迎えることになりました。
年賀状は以前厳しい減少傾向にあり、正月の風物詩から消えることは無いと思いますが、残念な傾向です。

関連ブログ
戦前 メディアとしての【絵葉書】

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No4 1月4日(水) 昭和の歌姫

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【市電ニュースの風景】1931年 №23

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。

1931年(昭和6年)6月
六、七、八日 神奈川洲崎神社大祭(電車 洲崎神社社 バス 神奈川 下車)
七日 八大學新人水上競技選手権大会(電車元町下車)
=午後一時より元町横濱プールにて=
九日より十三日まで
第八回全神奈川バスケットボール大会(電車及バス 市役所前下車)
=各日午後六時半より横浜公園前YMCA室内体育場にて=
十日 剣道聯合会六月例会(電車弘明寺終点下車)
=午後六時半より横濱高工道場にて  観覧随意=
十一日 高松宮両殿下御帰朝
=『郵船』秩父丸にて午前十一時四號岸壁御着=
(懸賞標語)
注意が最良の安全地帯(当選者 青木文造君)
●洲崎大神(武州神奈川宿青木町御鎮守・洲崎神社)
源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して建久2年(1191)に創建したと伝えられています。
例大祭は現在6月6日以降の金・土・日曜日ですが
1931年の時は 土日月に渡って行われました。
●元町横濱プール
元町横濱プールは1930年(昭和5年)5月20日に完成、6月1日(日)に開場式が行われました。夜間施設を持っていましたので開場の翌月(7月)には日本初の夜間水上競技会が開催されました。
現在は「元町公園プール」と呼ばれています。
水源は井戸水を使っていたためにかなり冷たかったようです。もちろん現在は<水道>です。
戦後1946年(昭和21年)3月1日に接収され「オリンピックプール」とネーミングされ1952年(昭和27年)に解除、返還されました。
●横浜YMCA
1884年(明治17年)10月18日に横浜海岸教会の青年たちが中心となって設立されました。
横浜は東京・大阪に次いで3番目です。
1916年(大正5年)に現在の常盤町に会館が建ち、横浜で最初の室内体育場を持ちバスケットボール普及に大きく貢献しました。

第866話 横浜川崎市境合戦 その1

国盗り合戦といえば それは戦国時代に遡ります。
江戸時代は 国替えもありました。%e5%b9%95%e6%9c%ab%e5%9b%bd%e5%9f%9f 近代に入り、明治初期に都道府県が制定され
その後
1889年(明治22年)4月1日以降、市町村制が始まります。
その後、全国市町村は<合併>の二文字に揺れます。
明治期に71,314の町村があったそうです。
明治22年
「明治の大合併」町村数は15,859と約5分の1に減少。
昭和28年〜昭和36年
「昭和の大合併」市町村数は昭和36年で3,472に減少。
<横浜の市域拡大>
横浜を例に取れば、
現在の市域はかつて国を分けた<相模国>と<武蔵国>をまたいでいます。
近世以前の国区分には川や山が重要な要素でしたが、交通網が発達してくると国境が次第に曖昧になってきます。武蔵国と相模国を分けたものは尾根筋、稜線ですがもう一つの視点では<水系>で現在の18の区を分けることもできます。
<隣接市>
横浜市は東が川崎市 西が藤沢市・大和市
南は鎌倉市・逗子市・横須賀市と隣接しています。
これまで横浜市で目いっぱいでしたが、今回は
少し近隣にも視野を広げてみることにします。
お隣、川崎市との市域の歴史、ほとんど知りませんでした。
プロローグに川崎の市域拡大を紹介しておきます。
■川崎市の変遷
大きく6次に渡って市域が拡大されました。%e5%b7%9d%e5%b4%8e%e5%b8%82%e5%b8%82%e5%9f%9f%e6%8b%a1%e5%a4%a7
1924年(大正13年)7月1日[合体し市制開始]
橘樹郡川崎町、大師町、御幸村が合体し川崎市発足
1927年(昭和2年)4月1日[第1次市域拡張]
橘樹郡田島町 編入
1933年(昭和8年)8月1日[第2次市域拡張]
橘樹郡中原町 編入
1937年(昭和12年)4月1日[第3次市域拡張]
橘樹郡高津町、日吉村(鹿島田・小倉・南加瀬)編入
1937年(昭和12年)6月1日[第4次市域拡張]
橘樹郡橘村 編入
1938年(昭和13年)10月1日[第5次市域拡張]
橘樹郡稲田町、生田村、向丘村、宮前村 編入
1939年(昭和14年)4月1日[第6次市域拡張]
都筑郡柿生村、岡上村 編入
別添の市域拡大図から分かる通り、川崎市は市となった当初実に不安定な市域を擁していました。橘樹郡田島町が川崎市に編入されたのが昭和2年。これが一つのターニングポイントです。

■横浜市の市域拡大
1889年(明治22年)4月1日【市制施行】
1901年(明治34年)【第1次市域拡張】
1911年(明治44年)【第2次市域拡張】
1927年(昭和2年)【第3次市域拡張】
1936年(昭和11年)【第4次市域拡張】
1937年(昭和12年)【第5次市域拡張】
神奈川区に、橘樹郡日吉村から大字駒ケ橋(下田町)、駒林(日吉本町)、箕輪(箕輪町)および矢上、南加瀬の各一部(いずれも日吉町)を編入(日吉村の他地区は、川崎市へ編入。)
1939年(昭和14年)【第6次市域拡張】

【番外編】市域拡大は元気なうちに!?(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=359

No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=526

<水利が市域の鍵>
市域拡大の背景には<水利権>が欠かせません。
水を巡る横浜・川崎の話を何回かに分けて紹介していきます。

第864話 野毛界隈入門その1

(プロローグ)
「野毛界隈入門」と題したのは私が<野毛界隈>について入門、体験の記録である。light_p6281170 light_p6281209 この野毛の街を語るにはかなり勇気がいる。
この界隈を愛し、この界隈を語ったら止まらない大先輩から若手論客諸氏が手ぐね引いて構えておられるからだ。
私も野毛の近くに暮らし始めて十五年を越え、ぼちぼちこの街のことを調べてみようと思い立ったが大変な作業であることに気がついた。実に奥が深い。
野毛に関しては数多くの研究資料、エッセイが残されている。これらの諸先輩の資料を読み解く作業も楽しい。野毛といえば夜のイメージが強いが近くに暮らすこともあり昼間の野毛散策も多い。坂が多く年寄りには難儀するが、時折街並みの合間から見える野毛の街並みも面白い。夜の野毛はかつてノンベイだった頃の記憶がたくさん残っている。
呑みに行く<野毛界隈>には漠然と宮川町や日ノ出町も含まれていたので、ここでも野毛界隈として広く日ノ出町、宮川町、花咲町をベースに紅葉ヶ丘、宮崎町、老松町も含まれるていることをご了解いただきたい。
界隈は界隈であって、行政区分ではなく、時に範囲が自在に伸縮するところが<界隈性>なのだと思う。

<野毛連山>
野毛界隈は川と海に面し、背後に野毛連山を配する町である。堅く言えば丘の範疇だが、野毛界隈には地名にも野毛山・掃部山・伊勢山(これは皇大神宮の関係だが)・御所山・久保山といった名が残っている。light_%e9%87%8e%e6%af%9b%e5%b1%b12943
この山々の連なりを<野毛連山>と仮に命名すると
大岡川を挟んで左岸の野毛連山が、右岸には山手連山が迫っている入江に<吉田新田>が生まれ、居留地が誕生した位置関係が見えてくる。
野毛村から野毛連山を越えると、また深い入江があった。帷子川の入江である。
横道にそれるが、帷子川の入江の向こうにも丘が広がり、海に迫る幸ヶ谷公園から高島山・高島台(高島嘉右衛門)から台町・浅間台とこちらも帷子川の入江を囲むように丘が迫っている。
東海道は江戸日本橋を出発して平らな街道の旅をし、最初の山坂が神奈川宿を過ぎたあたりから始まる。保土ケ谷を過ぎると国境に<権太坂>が待ち受けていた。
明治期にはちょいワルおやじたちが7人東京から横浜・金沢まで観梅(杉田)を兼ねて自転車ツーリングに出かけたという記録がある。このルートも保土ケ谷から山を越え(たぶん引いて越えた)井土ヶ谷にでて杉田に向かったのだろう。
No.53 2月22日 アーティストツーリング
俳人正岡子規に至っては
親友の秋山真之と無謀な徒歩旅行に出かける。酔った勢いで着の身着のまま何の準備も無く「鎌倉に行こう」と下駄履きで出発、へばりながらも戸塚手前でギブアップ。東神奈川まで這々の体で戻り電車で東京に帰ることになる。
No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン

<野毛を横浜の中心に>
横浜開港場という立地は、江戸から見てダブルリバー、神奈川宿から3つの山を越えて行くことになる。その中でも一際厳しい<野毛連山>を開港時には突貫工事で真っ直ぐな道を開くことになった。横浜道である。
この野毛連山の頂きに横浜の新しい中心都市を置くことを目論んだ人物がいる。
震災後、横浜の復興計画を立案した牧彦七という人物だ。
牧彦七は「雷親父」「ライオン」とあだ名された土木のスペシャリストで、関東大震災後、上司の後藤新平から誘われ都市計画局長として帝都復興事業に尽力した。
中でもダイナミックな5億円規模の横浜・震災復興都市計画案(通称・牧案)は関係者を驚かせた。
現在のように、東海道本線の「横浜駅」界隈と開港の町JR根岸線「関内駅」界隈(開港場であり関内外エリア)の分断を結ぶ必要性を感じ中間に街を開こう!と考えた。
この計画は見事に地元の反対から夢物語に終わったが、実現していたらこの街はどうなっていったか?創造すると実に面白い。

【横浜の風景】元町百段坂を数えてみた!

元町にあった有名な風景。
「百段坂」と呼ばれる急坂がかつてあった。関東大震災で崩れ、復活することは無かった今では幻の坂である。
百段坂とは 俗称ではないか?
あまりに急階段で高かったので<多い>というときにまとめて<百段>と表現することが ママある。
地元の方から 「実は101段あったんだ」と聞いた。 だったら 数えてみよう!light_201312%e7%99%be%e6%ae%b5%e5%9d%82-1 light_20150509200315_001 light_img184 light_%e7%b5%b5%e8%91%89%e6%9b%b8%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e7%b7%a8201419013 light_%e7%99%be%e6%ae%b5%e5%85%83%e7%94%ba
中からわかりやすい一枚を拡大、下から数えてみた。
93段くらいから樹木に邪魔されて正確なカウントとはいかなかったが等分であるとすると確かに確かに「101段」あるぞ!
 
お粗末さまでした。