ホーム » 【記憶に残るスポット】 (ページ 3)

【記憶に残るスポット】」カテゴリーアーカイブ

2025年8月
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
2025年8月
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

横浜市出身山田太郎くん

山田太郎君
といえば、大ヒット漫画「ドカベン」週刊「少年チャンピオン」連載、水島新司作品の代表作の登場人物です。
好きな「野球漫画」は?
50代は巨人の星、
40代はドカベンだそうですが
この「ドカベン」1972年(昭和47年)から1981年(昭和56年)まで連載されました。
ここに登場するドカベンが山田太郎君です。
実は「ドカベン」最初は柔道漫画だったそうです。私は野球時代しか知りません。
ドカベンの通う「神奈川明訓高校」は神奈川県にある私立高校を想定していますが、果たして明訓は横浜の高校か?という疑問が湧きます。おそらく そうでしょう。
少なくとも山田君は“横浜在住の畳屋さん”だったかな。確認してません。
「ドカベン」に登場する
県内のライバル校には
「横浜学院高校」なんとなく横浜高校らしく感じますが
「東海高校」これは東海大相模でしょう!
「白新高校」神奈川最強と呼ばれる投手、不知火守(しらぬい まもる)擁する最大のライバル校です。(神奈川ではなく作新の江川と同世代なのでこのイメージが被ってしまいます)
ドカベンの画像はありません。ごめんなさい。
以前持っていたコミックも2000年に処分してしまいました。
結構しっかり最後までとっておいたんですがね   。ところで、山田太郎といえば
かなり高年齢の方には通じるかな?
「新聞少年」
1965年(昭和40年)に山田太郎さんの
「ぼくの名前を知ってるかい。朝刊太郎と言うんだぜ?♪」の歌声が全国に流れ大ヒットとなって親しまれました。(世代的には私がギリギリ?)
この「新聞少年の像」が日本大通脇に建っています。しかも長ズボンで!

lig_新聞少年
日本大通りの守り神?

No.157 6月5日(火) 半ズボンより長ズボンでしょ!

私のお気に入りブログの一つです。
ぜひ 再読ふくめ よろしく!現地に行って長ズボン確認してみてください。

DOYA!ことぶきの町は。

横浜には日本三大「寄せ場」の一つがある、
あったと言った方が正確かもしれない。

話では知っているが『この地』の歴史と現在を知る人はごく少数だ。特にある時代を刷り込まれた世代には近づきがたい“影”があった。
横浜市中区寿町とその周辺は、東京・三谷、大阪・釜ヶ崎(あいりん地区)と並ぶ日本を支えてきた経済の影のエリアとなったのが「寄せ場」である。
「寄せ場」とは日雇労働者の自由労働市場、青空市場(野外での職業あっせんを行う空間)主に港湾・建設業の職業あっせんする場所のことである。※1
「寄せ場」は別名ドヤ街と呼ばれている。
lig_参考図書※1 『横浜・寿町と外国人』山本薫子 福村出版 2008(ドヤ街)
ドヤ街のドヤは“宿(やど)”を逆さにした隠語から始まった簡易宿泊所の集中エリアを指す。宿の街ではあるが、人が住むような場所ではないと自嘲的に呼ばれ、スラム街と同義語となっている。
横浜市中区寿町にある“ドヤ街”の歴史と現状を調べてみた。
現在、寿町一帯の簡易宿泊所集中エリアには約6,500人が暮らしているが住民登録者数は約3,500人に過ぎない。
日本三大「寄せ場」の中で「寿ドヤ」の特徴は、最も狭いドヤ街エリアであること、簡易宿泊所の“門限”が無いことなどが挙げられる。ピーク時には8,000人以上の“自由労働者”がいた。
東京山谷、大阪釜ヶ崎の“寄せ場”形成には戦前からの地勢的文脈があるが、横浜寿エリアは、突然作られた横浜開港場のように 戦後の空白から誕生した。
また、家族を形成する者も多く、子供たちや女性が多かったことも寿ドヤの特徴であったが、現在は大きくしかも急速に「全ての“寄せ場”」の状況が変化している。ここで簡単に寿ドヤの歴史を追ってみたい。
寄せ場と呼ばれる「寿エリア」は1955年(昭和30年)代以降に形成された。
明治初期に吉田新田「一ツ目沼」と呼ばれた遊水池(沼地)が埋め立てられ、市街地を形成し生糸や材木などの市が並び賑わった。
lig_一つ目沼「寿町」「扇町」「翁町」「松影町」「不老町」「蓬莱町」「万代町」等謡曲の曲名が町名となり「埋地7ヶ町」が誕生する。
lig_S3寿野毛
lig_PA180027.jpg

この「埋地7ヶ町」が激変したのは横浜大空襲だった。
この空襲で甚大な被害が生じたこのエリアを終戦後米軍が接収し住民を排除し「グラウンド、石炭貯蔵所、キャステル・コート(士官宿舎)等」が設営された。
lig_占領時マップ1949
接収は1945年(昭和20年)9月29日に始まり1951年(昭和26年)から徐々に返還されて1958年(昭和33年)に完全返還となったが、転居した“元住民”は殆ど戻ることなく解除後の境界や地権等が不明確な場所に無秩序な建築物が建ち始めた。
さらに、野毛の職業安定所の寿町への移転を契機に戦後の混乱時にスラム化していた“桜木町・野毛”のスラムクリアランスのはけ口として「埋地7ヶ町」が「寄せ場」に変身する。
このエリアが戦後高度成長の横浜経済の負の部分を全て背負うことになる。
アルコール依存症、薬物依存症、結核、糖尿病、肝臓機能障害などの生活習慣病を患っている人が増大、スラム化に拍車がかかる。
1970年代に入り、高度成長に陰りが出てくるに伴い、ここに寄り集まった“自由労働者”には一足早く「高齢化・生活弱者化」が訪れる。
1983年(昭和58年)には横浜浮浪者襲撃殺人事件が発生する。
No.43 2月12日 “浮浪者狩り”現在
自立できないまま6,500人前後が独居しその85パーセントが生活保護を受け、半数が60歳以上の高齢者という「労働者の街」から「緊急福祉を必要とする街」に変貌してしまった。この街「横浜ドヤ寿エリア」には日本社会における深刻な「社会課題」が凝縮されている。1970年代から支援活動が継続して行われ現在、寿町内では30以上の地域団体がそれぞれの特色を活かしてホームレス自立支援を行っていることが救いだが、ひとときの猶予も許されない状況であることは間違いない。
ここには弱者としての在日外国人高齢者が多く、地域が乗越えていかなければならない重い課題となっている。NPO法人さなぎ達
http://www.sanagitachi.com
ことぶき共同診療所
http://kyoudouclinic.com
コトラボ
http://koto-lab.com/KOTOLAB_-_projects.html
コトブキ案内所
http://koto-buki.info/about/

【ミニネタ番外編】横浜電信柱探索(加筆)

今日は私の街歩きのガイド時に定番話題となっている
<電柱>の話を改めて絵葉書から紹介しましょう。
道路には電柱が建っているが、大きく電力を運ぶ電力柱、通信回線を張り巡らす電信柱がある。私たちは日常<電柱>か<電信柱>と呼び、殆ど電力柱とは呼びません。
この<電力柱><電信柱>かつては別々に建っていました。
今も分かれて建っている道路もあり、街歩きの楽しみの一つです。

「電信の父」といわれた寺島宗則が明治維新早々、横濱で最初に事業化した電信は、瞬く間に全国に広がります。
電気よりも早く普及した電信そして電信のために設置された「電信柱(でんしんばしら)」。
日本の情報インフラのスタートラインといっても過言ではありません。
今日は、この電信柱から「横濱風景」を読解いてみます。
lig_nnP8140410.jpgまずはクイズから行きましょう!
電信柱
電力柱
なんと読むでしょうか?それぞれの役割は?
電信柱は「でんしんばしら」ごく一般的に使用されていますね。
電力柱は?
「でんりょくちゅう」と読みます。
役割は電信柱が「電信」で電力柱は「送電」のための柱です。
歴史は「電信」柱が古く 電気→「電力」柱が約二十年遅く巷に設置されました。
現在は電信柱と電力柱が合体し「共用柱」として使用されているケースが多くなりました。

(風景としての横濱電柱)
横浜は“戦災”と“震災”で多くの記録を失いました。
残されている記録から “横浜の電柱”を読み解いていきます。

戦前の風景を読解くには「写真」がベストですが、横浜は冒頭にも書いたように“戦災”と“震災”で多くの記録を失ってしまいました。そこで重要な記録資料として役割が見直されてきたのが「絵葉書」です。
「絵葉書」に描かれた横濱風景で“電信柱”の存在は脇役も脇役、殆ど注目したコレクターはいなかったのではないでしょうか。
改めて、「絵葉書」から風景を読み込もうとすると
電柱が気になり始めました。
下記のサイトで横浜の戦前風景に出会えます。
都市発展記念館

手元にある「絵葉書」から横浜の電信柱風景を観察してみましょう。
横浜市立図書館 絵葉書「Yokohama’s Memory」

→電信柱の視点で観てみましょう。
気になって気になってしかたなくなりますよ!!
この他、建築物は当然ですが服装、乗り物など 見始めると不思議探検が始まります。
lig_201312絵はがき002(電信電力の歴史)
明治大正の電信柱風景を読み解く前に、簡単な電信・電力の歴史を振り返ってみます。
●印は<電力関係> ■横浜関係
1869年(明治2年)
■英国の通信技師を招き横浜燈台役所と横浜裁判所の間に電信回線を敷設。
ブレゲ指字電信機(モールス信号ではなく針で文字を指す方式)による通信が始まる。
「横浜の寺島」

1871年(明治4年)電信機器初の国産化
1878年(明治11年)国産電話機誕生(2台)
1886年(明治19年)
●日本初の電気事業会社(東京電燈)が開業
1887年(明治20年)
●日本初の火力発電所が完成
1889年(明治22年)からは一般利用が始まった。
1890年(明治23年)
電信線電話線建設条例 制定
→急速な普及で、道路専有による交通障害が多発。
→道路を管轄する内務省と逓信省の確執
■横浜〜東京で電話・電報業務サービス開始
1892年(明治25年)
●日本初の水力発電所が京都で完成。
1895年(明治28年)2月1日
●日本初の電気鉄道として、京都電気鉄道が開業。
1899年(明治32年)わが国長距離通話のはじめ(東京〜大阪間)
全国の電話加入者数が1万人を超えた。
1903年(明治36年)12月30日 横浜共同電灯会社「高島町に発電所竣工」
No.365 12月30日(日)横浜初の発電所

No.365 12月30日(日)横浜初の発電所


1904年(明治37年)7月15日
●■横浜で最初の電気鉄道(路面電車)運行開始。
No.417 Tram Tin Tim Street Car

1913年(大正2年)
●電力の動力需要が照明用の需要を超える。
1919年(大正8年)道路法で電柱の優遇専有が撤廃。
→逓信省 猛反発
1926年(昭和元年)日本初の自動交換方式開始
1942年(昭和17年)内務省・逓信省が協定を結び
電柱問題が解消。→といっても戦中だよね!!

 

(絵解き絵葉書)
明治大正期、電信柱と電力柱は別々だったそうです。
電信・電話は大正期まで回線数分だけ“電信線”が必要でした。
電話回線を一本のコードに集約する技術登場にはもう少し時間がかかります。
交換所で“交換手”が掛かってきた電話先と話して繋いでほしい相手に“手動”で繋ぐ時代が続きます。
ということは、電信柱の線数でおおよその電話回線規模が推察でき、街の規模の指標の一つになります。

light_横浜絵葉書再編01_111
8極 17連?
light_横浜絵葉書史料001
12極5連、8極14連?
light_百科事典005
12極5連、8極3連?

また、「電信柱」の回線数の変化で街の発展史を推論することもできます。
lig_読み解き地蔵坂絵葉書lig_201312電柱絵はがき001

資料を調べてみると、
電信柱の材質も最初は普通の木製柱で、材質は杉・桜・ヒノキを使用、風雨で7から8年しか持たなかったそうです。その後防腐剤入りが導入され、耐用年数が20年に延びます。
コンクリート柱となるのは戦後になります。
電柱の交換作業も大変だったようですが、現在行われている”電柱地下埋設”の考えが中々進まなかったため莫大なコストをかけていました。

今からすれば 欧米の仕組みを導入していた日本がなぜ電柱埋設を推進しなかったのでしょうか?
断片的資料ですが、ここにも縦割り行政の壁があったようです。
電信柱を道路に設置するための管理権争奪が当時の逓信省と内務省で壮絶な戦いがありました。
情報インフラは全てに有用なものなんですが。

lig_201312絵はがき弁天通り電柱さらに「電信柱」に続いて「電力柱」が登場します。電力の一般家庭への普及は、大正期に進みますが、道路占有の視点では「電気鉄道網」の推進と電信柱の増大から電気・電信の共有化が議論され関東大震災以降 少しずつ進行していったようです。
lig_201312絵はがき柳橋電柱どこかで 昔の情景に出合ったなら 「でんしんばしら」にも注目してみてください。
現在でも電信専用の<電信柱>のある通りもありますよ!
#電信柱 #絵葉書の風景

2016年11月加筆修正

【しりとり横浜巡り】6月11日(水)イセザキ界隈その2

前回は関内と関外を結ぶ「吉田橋」を紹介しました。
関内馬車道から吉田橋を渡ると、目の前にイセザキが広がります。
【雑景シリーズ】イセザキ界隈その1

その1で終わっているので、
今日はミニイセザキストリートの楽しみ方2を紹介します。

イセザキは七丁目まであり少しずつ表情を変えます。たまには一丁目から七丁目までブラブラしてみましょう。昔「イセブラ」なんて言葉が盛んに使われた時代があったそうです。
伊勢佐木には 一度は立寄ってみたい老舗店がたくさんあります。
一丁目から二丁目は
有名店がいっぱいです。
「みのや本店」「有隣堂」「横浜文明堂」「不二家」
「花見煎餅」「ハマ楽器」「加藤回陽堂」等々
三丁目は
ランドマークの「オデヲン」が「ドンキー」になるそうです。(20140601)
lig_A1179458横浜と深い関係にある「ピアゴ」伊勢佐木店は現在建替え中ですが、撤退でなかったのでほっとしています。
BB20131001PA010032
四丁目は
良く行く「白河中華そば弘流」がお勧め。チェーン店ではありません。

ぜんぶのせ
ぜんぶのせ

http://www.kouryuu.co.jp
※ちょっと裏通りに
昔、ビストロコパカバーナという店がありました。(かなり前です)
冷やかしお断り!!の「へびや」がありますが、やはり冷やかしてみたいけど勇気がでない。
lig__7262837イセザキモールのパーキングがあります。
lig__7262835「クロスストリート」
五丁目は
サンマーメンの「玉泉亭」
大正7年創業の老舗です。新装開店していらいいってませんね。横浜サンマーメンを語るなら一度は立寄るべし。
●牛鍋の「じゃのめや」
http://www.janomeya.com
開港場の牛鍋は明治以来の横浜名物ですが、名店が消える中いまだ「暖簾」を守っています。
●浜志まん(はまじまん)のボストンクリームパイ
http://www.isezakicho.or.jp/~hamajimn/
創業は大正2年です。浜志まん(はまじまん)の正式には「志に¨」が付きます。
lig_P1200983 ●古書なぎさ書房
時折立寄る古書店です。
六丁目は
●創業明治43年の「川本屋」
http://www.kawamotoya.com
「川本屋」オリジナルいせぶらパウンドケーキがお勧めです。
※横浜にはお茶屋の老舗も多かったのですが、どんどん減っています。
●健康靴のプロフィットイイジマ
http://www.yoikutu.com
元々大正時代から靴屋さんで、フットケアの店が未だ珍しい1990年代に上級シューフィッターの居るラボを立ち上げ健康な靴を提供してきた専門店です。
七丁目は
●一押しは「銚子屋」のところてん、あんみつ、ぜんざい。
1935年(昭和10年)の創業です。
lig_資料銚子屋030□老舗ではありませんが、地元の人気スポット
lig_P1230073「子育地蔵尊」は要チェック。
6月1日(日) 6日(金) 16日(月) 26日(木)
7月1日(火) 6日(日) 16日(水) 26日(土)
8月1日(金) 6日(水) 16日(土) 26日(火)
「一・六縁日」が開催されています。

 

2013年12月25日 横浜の絵葉書この一枚(第2話)

絵葉書から横浜を読み解く
「写真絵はがき」の分野は、歴史資料としてみる場合に注意点や判断するには難しい制限項目も多く、資料的価値が定まっていないのが現状だそうです。
だからこそ 面白いのかもしれません。

今日の一枚
「横濱新桟橋 View of Fier Yokohama」
このモノクロームの一枚の船が描かれている一枚、
場所は新港埠頭です。

昭和5年頃の新港埠頭
現在の新興埠頭は埋め立てられ広くなっています

明治後期から大正初期にかけて造成された新港埠頭は、
大桟橋だけでは港湾機能が間に合わないため二期にわたって工事が進められました。
現在は「赤レンガパーク」や「ワールドポーターズ」「カップヌードルミュージアム」他多くの施設が建っている人気のスポットになっています。
この絵葉書を読み解いていきます。
時代を探ります。
ここで注意しなければならないのが
「絵葉書」の発行年代と
オリジナル写真が同一年代とは限らないことです。
ここでは「写真の時代」に限定します。

はっきりわかる時代を探る手がかりが船の存在です。
「あんです丸」と船体に表記されています。
この「あんです丸」はファンネルマークや資料から
大阪商船船籍ということがわかります。

大阪商船は、日本の二大海運会社の一つライバル会社でもあった「日本郵船」よりも早く創設され、時には日本郵船を超える事もあった西の雄でした。
1884年(明治17年)に地元の小規模汽船船主70余名の大合同により設立され、やがて世界の主要定期航路に進出するようになります。
大阪商船は後に商船三井に、日本郵船は1885年(明治18年)創設されます。

「あんです丸」について調べてみました。
1918年(大正7年)に竣工し7,772tの貨客船です。
1919年(大正8年)9月24日に欧州航路の「横浜〜欧州線」に就航します。
1934年(昭和9年)に第1次船舶改善助成施設で解体されるため売却されます。現役で活躍したのは約15年と当時の商用船としては短い期間の現役だったといえます。
→船舶改善助成施設は簡単に説明すると
 国力(海運力)増強のためにスクラップアンドビルドを官民あげて行った施策です。
 詳しくは別の機会に。
→「絵葉書写真」の時代は1919年(大正8年)〜1934年(昭和9年)となります。
この「あんです丸」が現役の時代には大きな事件が起こります。1923年(大正12年)に起こった関東大震災です。
→ここで、この「絵葉書写真」
 関東大震災前か関東大震災後かどうかがポイントとなってきます。
 ここからは推測となってきますが、
 映り込んでいる人々の服装や、上屋の作りから
 震災前の光景の線が強いようです。絵葉書になっていることからも
 「あんです丸」就航から間もない時期ではないでしょうか。
 ※ほとんどの女性が和装であること。

「あんです丸」は1919年(大正8年)横濱・欧州線に就航しています。
→「絵葉書写真」の時期は
 1919年(大正8年)〜1923年(大正12年)ごろと推定できます。
新しい発見があれば 追記・修正をしていきます。

さて、この「あんです丸」には意外なエピソードがありました。
1923年(大正12年)に起こった関東大震災で莫大な被害があった首都圏に向けて、全国から救援の手が差し伸べられます。特に船舶は陸路では難しかった被災地へかなり近い地点に物資を運ぶことができたため
全国から救援船舶が動員されました。
その代表的な船舶の一つが「あんです丸」です。
震災の一報を知った旧制大阪府立清水谷高等女学校(大阪府立清水谷高等学校)の女生徒たちは、関東大震災慰問袋(1,498個)を不眠不休で作り震災から二日後の9月3日に築港の「あんです丸」に積み込み支援活動を行います。
また同窓会組織の「清友会」は義援金を集め、一緒に運びます。
かなり即効性のある支援活動で、末長く伝えていくべきエピソードでしょう。
さらに
 この「あんです丸」に乗り込んだ一人の帝大卒の建築家がいました。
西門悠太郎

 

どこかで聞いたことありませんか?
NHK第12週 第68回「ごちそうさん」に登場している
主人公の夫です。
https://www.nhk.or.jp/gochisosan/story/story12.html
私は観ていないので(ブログで話題に)
正確な表現ができませんが、
「悠太郎は、支援物資とともに、地震発生から2日後の9月3日に『あんです丸』という船で東京に向かった。」そうです。
なかなか史実に沿ったシナリオ展開ですね。

No.475 点・線遊び「足利尊氏からフェリスまで」

今日は、点と線を結ぶ“遊び”をします。
つなぐのは 足利尊氏と横浜ゴムとフェリスの秀才です。
この三つのキーワードにどのような関係があるか、
おわかりですか?

近年足利尊氏像では無い説が有力
■歴史認識
 日本史で足利尊氏ほど戦前と戦後で評価が変わった人物はいないでしょう。
 時代は14世紀、第96代後醍醐天皇と対立して足利政権を樹立し、
 史上最大の逆賊とも
 史上屈指の有徳の英雄とも評されました。
 現在の研究では尊氏の人間的側面や、人間関係の分析がかなり深く行われ新しい人物像が描き出されているようです。
 (横浜と足利氏)
 栃木県足利市は、尊氏の「足利家」に因んだ名前です。では“横浜”との関係は?
 彼の簡単な伝記を読む限りではトピックスとなるような「横浜」との関係はありませんでした。ところが、
 足利尊氏関連の日本史を調べている時、彼の時代=中世ではなく“近代史”で横浜が浮上してきました。
 足利尊氏が“国賊”とされていた戦前に彼を再評価しようとした人物が横浜にいたのです。歴史で習う「南北朝」の歴史認識は明治時代に入り、「南朝正統・尊氏逆臣」という「皇国史観」に反する考えや研究、発言が抑圧されるようになります。
 1934年(昭和9年)にいわゆる「足利尊氏論」が起こり当時の斎藤実内閣商工大臣だった「中島 久万吉」が辞任します。
 ※中島久万吉が、13年前に(会員向け)同人誌に発表した論文「足利尊氏論」が月刊誌『現代』に採録されたことが、衆議院で取り上げられ紛糾します。
 中島大臣の論文内容は、足利尊氏を賛美する内容でそれが国粋主義者たちを刺激します。
 この中島久万吉、横浜を舞台に実業家として活躍した人物です。
 彼は大手メーカー古河グループの中核となる 「古河電気工業」と「横浜ゴム」を創業し、昭和に入り政界入りします。
 
 ■平沼育ち
 横浜ゴム関係は幾つかこのブログでも紹介しています。
 横浜ゴム株式会社は、横浜で誕生した「横濱電線製造」が成長し古河グループ(古河電工)の一員となります。このお膳立てをした実業家が中島 久万吉です。
 電線とタイヤの原材料のゴムは“絶縁体”として密接な関係があります。古河電工は銅線を、横濱電線製造はその銅線に絶縁加工し「電線」を製造しました。
 この横浜電線製造を起こした横浜の“発明王”が山田与七です。
 山田は高島町に山田電線製造所を作り成功します。
  中小起業から脱却するために横浜商人の木村利右衛門、原富太郎らの出資を得て横浜電線株式会社を作り 一回り大きい製造会社となります。この時に次世代電線製造に必要だったのがゴムでした。
 「銅線」製造部門が古河鉱業(古河電工)になり、
 「ゴム」製造部門が「横浜ゴム」となって
 現在の日本の基幹産業となります。
 
 No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王(加筆修正)

No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?

■浜流しになった父信行
この古河の立役者、中島 久万吉、1873年(明治6年)横浜に生まれます。
父は中島信行、母は陸奥宗光の妹“初穂”で、久万吉を生んだ後体調を崩し1877年(明治10年)に若くして亡くなります。
父の信行は土佐勤王党→長州藩の遊撃隊→坂本龍馬の海援隊→陸援隊に参加した幕末の強者の一人で大暴れし、明治になっても波乱の人生を送ります。
新島襄との出会いでクリスチャンとなり新政府の幹部として活躍しますが、自由民権運動に板垣退助とともに参加し、政府批判を強めます。
優秀だった中島はこの間、任官し外国官権判事や兵庫県判事、神奈川県令を務めますが、
戦前の大悪法の一つ「保安条例」によって
横浜に追放されます。
よこはまついほう?
現在の感覚では信じられませんが、自由民権運動を弾圧するためできた“にわか”法律です。秘密の集会・結社を禁じ内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがあるとされた自由民権派の多くが
<東京ところ払い!>
皇居から3里(約11.8km)以外に退去させられます。

尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民 そして中島信行と後妻となった中島湘煙夫婦も1887年(明治20年)12月に追放される<ハメ>になります。
島流し ならぬ ハマ流しになる始末が その後の中島の人生を大きく変えます。

■政治家への転身
中島 久万吉の父、信行は横浜に落ち着くとまもなく
1890年(明治23年)7月1日
第1回衆議院議員総選挙に神奈川県第5区から立候補して当選し
その後は 政治家として活躍し
最後は 療養中の神奈川県大磯別邸にて亡くなります。
長男の中島 久万吉は
自由民権の理想を最後まで貫いた父と
義母「中島湘烟」の影響を十二分に受け経済界と政界で活躍します。

■戦士、岸田俊子
岸田俊子(きしだとしこ)
明治の時代を駆け抜けた女権拡張運動家・作家です。
俊才「岸田俊子」後の中島湘烟

(ブログでも紹介しました)
No.153 6月1日(金) 天才と秀才
1889年(明治22年)6月1日
 25歳だった二人の俊才がフェリス女学校の大講堂で演説を行いました。
明治期のフェリス女学院のエネルギーを伝える若松賤子(島田かし子)と同じく中島湘烟(岸田俊子)の短くも激しい人生を追います。
ブログから 引用します。
(天才・神童の出現)
若松賎子の半年前(文久3年)に京都の呉服商の長女として生まれた「岸田俊子」は、小さい頃から神童と呼ばれた俊才でした。
1870年(明治3年)6歳で下京第15校に入学、
1875年(明治8年)中学に進みます。
1879年(明治12年)15歳で昭憲皇太后(当時34歳)に「孟子」などの漢書講義を担当する事となった訳ですからその「俊才」ぶりが伺われます。
いじめられのかどうかはっきりしませんが、名誉職を1年で辞退し“自由民権運動”に目覚めていきます。
1882年(明治15年)4月大阪道頓堀の政談演説会で最初の演説デビューとなった岸田俊子の「婦女の道」は、世間をあっと言わせます。
あでやかな容姿、弁舌口調は視聴者を魅了します。
全国各地で彼女の演説は人気を博しますが、時代は言論封殺、明治の暗黒時代に入ります。滋賀県大津の演説で官史侮辱罪で投獄され、方向転換を迫られ演説から寄稿による言論に変わっていきます。
この時期活動を共にしていた18歳年上の自由党副総裁中島信行と結婚(後妻)します。
若き日の中島信行は、坂本龍馬、睦奥宗光ら土佐藩士と共に討幕運動に参加した海援隊メンバーの一人で、死別した最初の妻は睦奥宗光の妹でした。
睦奥宗光、中島信行は共に神奈川県令を務め、中島は第一回の衆議院選挙で神奈川4区で当選した横浜ゆかりの人物でもありました。
※神奈川第1区は島田三郎
俊才中島湘烟(岸田俊子)はフェリスとの関わりを深くしていきます。
1888年(明治21年)5月にはフェリス和英女学校名誉教授
1893年(明治26年)9月にイタリア公使になった信行ともに結核を発病
1898年(明治31年)11月帰国し神奈川県大磯町に転居、夫婦ともに治療に専念します。
1899年(明治32年)3月26日信行が肺結核のため53歳で亡くなり、
1901年(明治34年)5月25日一年後追うように中島湘烟、肺結核のため28歳で逝去します。

■大磯に死す
ここに登場した中島信行 俊子(湘烟) は神奈川県中郡大磯町の大運寺に墓があります。

この大磯という街は不思議な街です。新島襄が療養中に無くなったように茅ヶ崎市と並んで“サナトリウム”当時不治の病に近かった結核療養施設が多かったことも関係がありますが、明治中期から昭和初期にかけて、要人の避暑・避寒地としても最高のロケーションだったようです。
吉田茂
伊藤博文
山形有朋
その他、西園寺公望、大隈重信、陸奥宗光、岩崎弥之助、安田善次郎など
明治時代の幹部勢揃いといえそうな顔ぶれです。
最初の帝国議会が開かれた時
初代衆議院議長となった中島信行
初代貴族院議長となった伊藤博文
内閣総理大臣は山県有朋でした。
この三人が大磯に別荘を持っていました。

→大磯と横浜の歴史的関係
 調べてみると面白い繋がりがありそうです。

※個人的には山県有朋に関心があり
 彼の資料を調べていますが
 一時期作られた イメージとはかなり異なる人間像が感じられます。
 何かの折に 紹介しましょう。

「山県有朋」関連書籍リスト

山県有朋 明治日本の象徴
岡義武  岩波新書(絶版)

山県有朋
半藤 一利 筑摩書房

山県有朋 愚直な権力者の生涯
伊藤 之雄 文春新書

山県有朋と明治国家
井上 寿一 NHKブックス

【絵葉書の風景】2013年12月16日 

私の(数少ない)横浜絵葉書コレクションから
風景を読み解いてみます。
今日の一枚は
THE THEATRE STREET,YOKOHAMA.
(横濱名所)歓楽の巷伊勢佐木町通り

風景の位置は、伊勢佐木町三丁目方向を道路を挟んで二丁目から臨んでいます。

発行年代の推定は
 まず オデオン座の映画看板『妻と女秘書』は
 1936年(昭和11年)日本公開。
 クラーク・ゲーブル主演の米国映画。
隣の「又楽館」上映の「地の果てを行く」は1935年9月公開のフランス映画。
 キネマ旬報ベストテン外国映画5位となった作品。
このことから この絵葉書の風景年代は 1936年(昭和11年)と推定できます。
※オデオン座の風景からはさらに面白い光景を読み取れます。

 二階の窓から 人が出て何か作業を行っています。どうやら吊り広告の「レート化粧料ご愛用者五千名様御招待レートクリーム」と読めそうです。
このレートクリーム

戦前は「東のレート、西のクラブ」と称された有名化粧品メーカーだったようです。

1878年(明治11年)に開業し1954年(昭和29年)に廃業したレート(仏語LAIT)ブランドを販売した平尾賛平商店(ひらおさんぺいしょうてん)

時代は1936年(昭和11年)頃と推定できますが、
1936年(昭和11年)4月にオデオン座が改築し拡張しています。画像からも新しさを感じます。改築後とするともう少し絞り込めそうです。
開戦まで5年という切迫感はこの絵葉書から感じることができません。伊勢佐木通りを走る“自動車”が右側を走っているのも気になります。(一方通行だったのでしょうか?)
ただ 戦後すぐであれば 伊勢佐木は空襲の爪痕もありもう少し荒れた風景もあったのではないでしょうか。また連合国軍占領下ではオクタゴンシアターと呼ばれていましたからこの風景は戦前の幸せなひとときかもしれません。
簡単に店舗推理をします。
 向かって右側から
■尾張屋呉服店(尾のマークが見えます)
■桜花化粧品店
■石渡洋服店
(数軒おいて)
■喜楽座(ちょっと不確定)

 向かって右側から
■オデオン座(映画館で昭和11年竣工)
■又楽館(映画館)

ここまで調べてきて
妙にひっかかることが出てきました。
伊勢佐木のオデオン座は
横浜本牧生まれの平尾榮太郎(平尾商会)によって創業された映画館ですが
その後 六崎市之介へ移り最終的には松竹の傘下にはいります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜オデヲン座
そして
この昭和11年頃ののオデオン座に大きく掲示されている広告
「レート化粧料ご愛用者五千名様御招待レートクリーム」
前に紹介したように「平尾賛平商店」の広告が掲示されています。
同じ「平尾氏」による経営ですが
手元で調べる限り 両社の関係性が見えてきません。
たまたま同性で 意気投合したのか
「五千名様ご招待」はかなりの大盤振る舞いではないでしょうか?
■当時の映画館入場料は50銭
理髪料が40銭
はがき1銭5厘
白米(10 キロ)2円50 銭
5,000人分となると25万円+経費分のインセンティブになります。
現在の物価との比較はかなり難しい作業ですが
1銭が20円程度と換算できそうです。となると
50銭=1,000円程度 でしょう。
一枚の「絵葉書」から 
ちょっと眺めただけでも 様々なことを“読むこと”ができます。
さらに“電柱”“服装”“看板”“建築”等々の歴史と重ね合わせると
いろいろなことが読み取れるでしょう。
単に 懐古趣味ではなく そこに生活している人々・景色から現代を重ねることで、この街の姿が見えてきます。
「歴史は現在と過去の対話である」E・H・カー
“An unending dialogue between the present and the past.”

ピアゴ屋上からオデオン方向

(余談)
平尾榮太郎は、ヨコシネとも不思議な関係がありました。

No.319 11月14日(水)東のヨコシネ(加筆修正)

【雑記録】鉄道技師モレル

(以下の記述はJR桜木町駅が改装される前のものです)
普段は全く気にも留めていなかったところで発見。

桜木町駅改札前のサインボード表示に
「エドモンドモレル記念碑」だって?
頻繁に利用している割に気がつかないものだ。

th_PC040144

あのこと?
「エドモンドモレル記念碑」
これ自体はかなり有名なのでご存知の方も多いだろう。
改札前のサインボードにこの「エドモンドモレル記念碑」
という表記があったことに気がついたことから
改めて「エドモンドモレル記念碑」を探ってみた。

th_PC040147

(少し調べてみた)
この記念碑
それにしても落ち着かないところに設置されている。コインロッカーのスペースに鎮座しているが、一昔前は通路だったのでここに「エドモンドモレル記念碑」は無かった。
一時期駅舎内に掲示され(保管されていた時期もある)この「記念碑」は、日本最初の駅舎(汐留と並んで)だったことの“なごり”なのだろうか。

th_-E3-83-A2-E3-83-AC-E3-83-AB-E5-83-8F
大昔のモレルレリーフ

現在の碑にある説明版には
「1865年、英国土木学会員に選ばれる。1870年、鉄道敷設を計画していた日本政府は初代鉄道建築師長として雇用し、10数名の技術者とともに日本に招いた。
1872年を目標に新橋〜横浜間の鉄道事業はモレルの監督のもと着手されたが、日本の鉄道開通を見ずに1871年29歳で他界。イギリス人。
横濱開港150周年を記念して
 東日本旅客鉄道株式会社 横浜支店 2009年6月」
とある。

th_-E9-89-84-E9-81-93-E6-A8-AA-E6-B5-9C-E9-A7-85


No.288 10月14日(日)仮の借りを返す

No.164 6月12日(火) JR JR

元々の碑には十河信二氏によって銘が刻まれている。

th_PC040149

十河信二(そごう しんじ)
第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁で
「新幹線の父」の名でご存知の方も多いだろう。関東大震災(1923年)の時、復興のために設立された帝都復興院に出向し“オオナタ”を揮う予定が疑獄の中失脚。満鉄に勤めるが1938年(昭和13年)に辞職し戦後しばらく鉄道から離れるが、1955年(昭和30年)5月14日に71歳の高齢で国鉄総裁に就任する。
当時、大きな鉄道事故が連続し加賀山之雄、長崎惣之助 両総裁が辞任。
立て直しのために4代総裁に就任した。

十河信二は戦前、標準軌にこだわった人物でもある。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/404.html

【番外編】ランドマークが建つ

残照、ある時期 みなとみらいエリアに建つ(建設中の)ランドマークタワーを撮っていた時期があります。
記憶に残るランドマークタワーの風景を紹介します。
ごめんなさい!!一部画像が逆版です、
修正アップし直しますのでしばし逆でご勘弁を。
フィルムからスキャンした際 左右を間違えました。

■ランドマークタワー
正式には「横浜ランドマークタワー」といいます。
70階建てで高さ296.33mです。
1990年(平成2年)3月20日に着工し、1993年(平成5年)7月16日に開業しました。
http://www.yokohama-landmark.jp/page/
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜ランドマークタワー
今日は 写真集です。
特に解説は設けません。

全国から精鋭の職人が集まったそうです。クレーン職人が話題に。 
建設中のランドマークタワー

【番外編】富士山の美しさを世界に紹介した英国人

江戸末期、全国の諸大名以下多くの人々が“横濱”の動向に関心を抱いていました。幕府の手によって翻訳新聞・筆写新聞が制作され、また伝聞を記録に残し“国元”に伝えられました。
日本の近代ジャーナリズムの幕開けに大きな影響を及ぼします。
(この辺は 現在「メディア拠点横浜の興亡」としてまとめています)

この横浜発の外国情報は、多くの人々によって写本が作られ
「横濱新聞」「異国関係資料」として全国の要人に伝えられました。
この写しの中に幕末の外国人富士山登山の報告記録がありましたので【番外編】で紹介しましょう。

古文書初心者なので正確な訳はできませんが
英人冨士登山と題し 浅間神社の大宮司冨士亦八郎が
万延元(年)庚申8月2日に寺社奉行の松平伯耆の守に届け出た英国人の富士登山の行程についての書面の写しです。
これは
日本発の富士登山を行ったオールコック一行についての記事です。
No.158 6月6日(水) 休暇をとって日本支援!

簡単に紹介しましょう。
(富士登山) 

船旅で相模湾に入る頃、多くの人が富士山の絶景に遭遇します。さらに東京(江戸)湾に入り、横浜港に向け舵を切ると 天候の良い日には真正面に富士山を眺めることができます。登山が日常のレジャーだった欧米人にとって
「富士山」はぜひ登ってみたい“そこにある山”でした。
ドイツ人旅行家ケンペルも富士山に登りたかったのですが、信仰の場でもある富士山には幕府の許可が下りませんでした。
開国後も幕府は外国人の居住は認めましたが、日本国内旅行の自由に関することに関しては、明治初期まで認めていませんでした。
オールコックは、外交官特権として特別に旅行の自由を持っている存在だとして、幕府に富士登山を認めるよう要求を続けます。
ようやく
オールコックは、富士登山計画に反対していた幕府を説き伏せ、
万延元年7月(1860年9月)富士山へ向けて出発することになります。
旅には、オールコックを初めとする英国公使館職員ら8名のイギリス人に加え、幕府から派遣された“外国奉行役人や荷物を運ぶ人馬”が100名近く随行するというものものしいものでした。
そのため、オールコックが当初希望した静かな旅とは逆に
大行列となってしまいます。
当初オールコックの目的は、富士山に登ってみたいという英国人(エリート)の“登山願望”に加え、日英修好通商条約(1857年締結)にある内地旅行権の確認や江戸を離れた地方を視察するという政治的目的もあったようです。
オールコック一行は東海道を通り、小田原から、箱根の山中を抜け、吉原宿で台風をやり過ごした後、静岡県三島市大宮町を経て村山の興法寺に入ります。
箱根越えの際

「スイスを旅行した者には、オーベルラントのある部分、特にローテルブリュンネンへの下り坂を思い出させる個所が多かった。マツの木がいっぱい生えている高い山やみずみずしい緑色の渓谷とか屈折しながら下の野原に流れてゆく渓流などがよく似ている。だがそれは、主要な特徴の面ではあまり雄大ではない。ここには永久的な氷河や雪のマントをかぶったむき出しの岩や高峰はない。」

 日本に辛口のオールコックにしては少し褒め言葉が見られます。
翌朝、村山を出発し「中宮八幡堂」まで馬を利用しここからは荷物を預け、金剛杖を手に徒歩での登山に切り替えます。
その日は六合目(現在の七合目)まで登り、翌日無事頂上に到達します。山頂では事前に準備していた測量機器で標高・気圧など測量し、英国旗を掲げシャンパンで乾杯し登頂を祝ったそうです。
その後、「一ノ木戸」(標高2,160m付近)まで一気に下山し、
同所に一泊した後に村山を経て大宮町に戻ります。
一行が通過する東海道筋では、オールコックの富士登山が大変注目を集め、見物制止命令が出されるほどでした。

日本で最初に富士山登頂を実現し彼の記録から外国に富士山の存在が多く知られることにまります。
最初の登山者は英国公使オールコックですが、
アメリカ公使ハリスの通訳だったアムステルダム生まれのオランダ人ヒュースケン(1832年〜61年)もいち早く日記の中で富士山の美しさを記録しています。
残念ながらヒュースケンは、攘夷派の浪士に襲撃され命を落としてしまいます。