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「横浜の道」カテゴリーアーカイブ
横浜市出身山田太郎くん
山田太郎君
といえば、大ヒット漫画「ドカベン」週刊「少年チャンピオン」連載、水島新司作品の代表作の登場人物です。
50代は巨人の星、
40代はドカベンだそうですが
この「ドカベン」1972年(昭和47年)から1981年(昭和56年)まで連載されました。
ここに登場するドカベンが山田太郎君です。
実は「ドカベン」最初は柔道漫画だったそうです。私は野球時代しか知りません。
ドカベンの通う「神奈川明訓高校」は神奈川県にある私立高校を想定していますが、果たして明訓は横浜の高校か?という疑問が湧きます。おそらく そうでしょう。
少なくとも山田君は“横浜在住の畳屋さん”だったかな。確認してません。
「ドカベン」に登場する
県内のライバル校には
「横浜学院高校」なんとなく横浜高校らしく感じますが
「東海高校」これは東海大相模でしょう!
「白新高校」神奈川最強と呼ばれる投手、不知火守(しらぬい まもる)擁する最大のライバル校です。(神奈川ではなく作新の江川と同世代なのでこのイメージが被ってしまいます)
ドカベンの画像はありません。ごめんなさい。
【絵葉書の風景】2013年12月16日
私の(数少ない)横浜絵葉書コレクションから
風景を読み解いてみます。
今日の一枚は
THE THEATRE STREET,YOKOHAMA.
(横濱名所)歓楽の巷伊勢佐木町通り
風景の位置は、伊勢佐木町三丁目方向を道路を挟んで二丁目から臨んでいます。
発行年代の推定は
まず オデオン座の映画看板『妻と女秘書』は
1936年(昭和11年)日本公開。
クラーク・ゲーブル主演の米国映画。
隣の「又楽館」上映の「地の果てを行く」は1935年9月公開のフランス映画。
キネマ旬報ベストテン外国映画5位となった作品。
このことから この絵葉書の風景年代は 1936年(昭和11年)と推定できます。
※オデオン座の風景からはさらに面白い光景を読み取れます。
二階の窓から 人が出て何か作業を行っています。どうやら吊り広告の「レート化粧料ご愛用者五千名様御招待レートクリーム」と読めそうです。
このレートクリーム
戦前は「東のレート、西のクラブ」と称された有名化粧品メーカーだったようです。
1878年(明治11年)に開業し1954年(昭和29年)に廃業したレート(仏語LAIT)ブランドを販売した平尾賛平商店(ひらおさんぺいしょうてん)
時代は1936年(昭和11年)頃と推定できますが、
1936年(昭和11年)4月にオデオン座が改築し拡張しています。画像からも新しさを感じます。改築後とするともう少し絞り込めそうです。
開戦まで5年という切迫感はこの絵葉書から感じることができません。伊勢佐木通りを走る“自動車”が右側を走っているのも気になります。(一方通行だったのでしょうか?)
ただ 戦後すぐであれば 伊勢佐木は空襲の爪痕もありもう少し荒れた風景もあったのではないでしょうか。また連合国軍占領下ではオクタゴンシアターと呼ばれていましたからこの風景は戦前の幸せなひとときかもしれません。
簡単に店舗推理をします。
向かって右側から
■尾張屋呉服店(尾のマークが見えます)
■桜花化粧品店
■石渡洋服店
(数軒おいて)
■喜楽座(ちょっと不確定)
向かって右側から
■オデオン座(映画館で昭和11年竣工)
■又楽館(映画館)
ここまで調べてきて
妙にひっかかることが出てきました。
伊勢佐木のオデオン座は
横浜本牧生まれの平尾榮太郎(平尾商会)によって創業された映画館ですが
その後 六崎市之介へ移り最終的には松竹の傘下にはいります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜オデヲン座
そして
この昭和11年頃ののオデオン座に大きく掲示されている広告
「レート化粧料ご愛用者五千名様御招待レートクリーム」
前に紹介したように「平尾賛平商店」の広告が掲示されています。
同じ「平尾氏」による経営ですが
手元で調べる限り 両社の関係性が見えてきません。
たまたま同性で 意気投合したのか
「五千名様ご招待」はかなりの大盤振る舞いではないでしょうか?
■当時の映画館入場料は50銭
■理髪料が40銭
■はがき1銭5厘
■白米(10 キロ)2円50 銭
5,000人分となると25万円+経費分のインセンティブになります。
現在の物価との比較はかなり難しい作業ですが
1銭が20円程度と換算できそうです。となると
50銭=1,000円程度 でしょう。
一枚の「絵葉書」から
ちょっと眺めただけでも 様々なことを“読むこと”ができます。
さらに“電柱”“服装”“看板”“建築”等々の歴史と重ね合わせると
いろいろなことが読み取れるでしょう。
単に 懐古趣味ではなく そこに生活している人々・景色から現代を重ねることで、この街の姿が見えてきます。
「歴史は現在と過去の対話である」E・H・カー
“An unending dialogue between the present and the past.”
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ピアゴ屋上からオデオン方向 |
(余談)
平尾榮太郎は、ヨコシネとも不思議な関係がありました。
横浜年表ピックアップ【10月5日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●2013年(平成25年)の今日から
「馬のアート cartoons×comics〜時代を映す諷刺と現代マンガの世界〜」
根岸競馬記念公苑 馬の博物館 第2展示室において開催されます。
会期〜12月1日(日)まで。
休館日:月曜日(但し祝日・振替休日は開館)
入館料:一般100円
小・中・高校生30円
10月20日(日)には「馬とのつどい2013」も関連開催
※森部英司アートパフォーマンス
※武蔵野美術大学ワークショップ
※馬車、ポニー、馬の試乗会
※ホースアトラクション
http://www.bajibunka.jrao.ne.jp
「横山大観展」(良き師、良き友)
横浜生まれの思想家・岡倉天心が創設に関わった東京美術学校第一期生の横山大観展を今日10月5日(土)から11月24日(日)まで開催します。
http://www.yaf.or.jp/yma/index.php
●1894年(明治27年)は
「時刻表記念日」です。
意外と地味な記念日ですが、
鉄道発祥の地、横浜には重要な記念日といえるでしょう。
今日は
日本で最初の月刊時刻表が発行された日です。
時刻表は、1872年(明治5年)新橋・横浜間に日本初の鉄道が開業した時から存在していました。
『鉄道列車出発時刻及賃金表』が駅構内などに貼り出される程度でした。
全国に鉄道網が拡大するにつれて、
情報量が増え冊子体の時刻表が必要となってきました。
1872年(明治5年)10月14日(旧暦9月12日)に鉄道運行が正式開業してから
『時刻表及賃金表』が本町六丁目の横浜活版社から発行されます。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/kids/bunmeikaika/d3_01.html
※横浜活版社に関しては調査中です。
横浜の活版史として 別途紹介します。
「横浜毎日新聞」も横浜活版社から発刊されました。
『時刻表及賃金表』これが日本初の市販時刻表といわれています。
そして、運行ダイヤの最新情報を提供する定期刊行物として
月刊時刻表が1894年(明治27年)10月5日に発刊されます。
手塚猛昌が経営する庚寅(かのえとら)新誌社が刊行した「汽車汽船旅行案内」です。
この時刻表は福澤諭吉がイギリスの時刻表を元にし編纂させ、手塚猛昌が発行したものです。発車時刻や運賃のほか、紀行文等も掲載されていたそうです。
編集した手塚猛昌(てづかたけまさ)は
長州が生んだ“日本時刻表の父”と呼ばれています。
因みに
日本交通公社の時刻表は、
1925年(大正14年)4月に創刊されました。
●1896年(明治29年)の今日
「東海道鉄道工事ならびに停車場位置に関する陳情書を提出する。」
これもかなり深い鉄道ネタです。
1881年(明治14年)5月7日に新橋駅〜横浜駅間の複線化が完了します。
1887年(明治20年)7月11日に横浜駅(初代)〜国府津駅間が延伸開業しますが、その間の駅は程ヶ谷駅(現在の保土ヶ谷駅)・戸塚駅・藤沢駅・平塚駅・大磯駅・国府津駅で
ほぼ現在の駅に近いものです。
1896年(明治29年)の今日出された陳情書は
神奈川駅〜程ヶ谷駅間の変則ルートを直線化する計画が出され
軍用短絡線を陸軍省から譲り受けることが決まったことに関するものだと推察できます。
二年後の1898年(明治31年)神奈川駅〜程ヶ谷駅間の短絡線が開業し、東海道本線となります。この時期に横浜〜茅ヶ崎駅間が複線化されます。
※逆に神奈川駅〜横浜駅間、程ヶ谷駅〜横浜駅間が支線扱いとなります。
→このあたりも 一度整理して 紹介したいと思っていますが
簡略マップ作成の時間と気力が中々できないので 保留中です。
●1967年(昭和42年)の今日
横浜市議会「全員協議会は派大岡川等河川の埋め立てについて審議」
この話しは、かなり面白い(個人的に)ネタであること、
派大岡川を語ると吉田川も語る必要がある。
当然大岡川を含めた
横浜運河物語に発展していきます。
さらには市営地下鉄、首都高速、根岸線まで絡んできます。
→とういうことで現在傍系資料やら 現地調査やら進行中です。
今月中に一定レベルでまとめ 紹介したいと考えています。
●1892年(明治25年)の今日
横浜市立本郷小学校
横浜市栄区中野町16番地の1
1892年(明治25年)10月5日の今日
鎌倉郡本郷村立尋常高等本郷小学校が創立しました。
開港時の児童数は269名でした。
昭和14年4月1日本郷村が横浜市に編入され戸塚区になったことに伴い横浜市本郷尋常高等小学校と改称します。 児童783名
明治20年代の創設は 新しい方?
横浜には結構歴史ある小学校が多いのです。
No.144 5月23日 教育熱は時代を超えて
●1907年(明治40年)の今日
早稲田大学野球部は横浜居留地の外国人チームと東京新宿の戸塚(安倍)球場で試合を行い12-1で勝利しました。
これだけでは【横浜】とあまり関係無し????
さらに調べると翌週にも試合があり今度は横浜で
10月12日に横浜居留地の外国人チームと戦い
3−2でまたまた早稲田が勝利します。
実は 早稲田大学野球部は、この年以外にも
多数横浜の外国人チームと試合を行っていることが
判明。
→1904年(明治37年)
7月2日
横浜居留地外国人チームと戦い28対3で勝利(横浜公園)
4月28日
米国艦船ウィスコンシンチームと戦い7-1で敗北します。
5月25日
さらに米国艦船ウィスコンシンチームと戦い8-7で敗北します。
10月14日
横浜居留地外国人チームと横浜公園球技場で戦い3-2で敗北します。
日程不明
横浜居留地外国人チーム戦9対6にて快勝。
横浜居留地外国人のアマチュアチームと戦い12-2で勝利します。
対米艦チームと戦い5-2で敗北します。
→1907(明治40年)の記録では
9月28日
横浜居留地外国人チームと横浜で戦い10-2で敗北します。
6月4日
米国艦船メリーランドチームと戸塚球場で戦い5-2で敗北します。
5月3日
横浜居留地外国人チームと戸塚球場で戦い12-2で勝利します。
No.461 北海道=横浜を結ぶ点と線
北海道と横浜を結ぶ点と線、
幾つかご紹介しましょう。
北海道(ほっかい・どう)と使っていますが
他の都府県とは少し使われ方が違いますね。
「北海道」は「東京」「大阪」「神奈川」といったように略して表現することがありません。
「北海道」は「ほっかい」と「どう」ではなく
「ほっかいどう」と、一体となって歴史を歩んできました。
(北海道)
明治2年8月15日が北海道の記念日です。
1869年6月27日(明治2年5月18日)戊辰戦争の最後の戦場ととなった“箱館”の戦争が終結します。この箱館戦争の影に「咸臨丸」の悲劇があり
横浜・静岡そして函館を結ぶ物語を紹介しました。
No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!
1869年9月20日(明治2年8月15日)
明治新政府は太政官布告によって蝦夷地に「北海道」の名前を与えます。
また北蝦夷地を「樺太」と改名します。
命名に際しては六つのネーミング案が提案されます。
1 日高見
2 北加伊
3 海北
4 海島
5 東北
6 千島
この中から 2の「北加伊(ほっかい)」をベースに
律令制の五幾七道(東海道、東北道、北陸道、山陰道、山陽道、西海道、南海道)にのっとり「北海道」の字をあてて採用されました。
「北海道」は、「道」と一体として現在まで使用されています。
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この地図解説は次号で詳しく |
(冒険家の北国)
江戸時代、正確な形で蝦夷地の地図を測量し制作した人物といえば
「伊能忠敬」と「間宮林蔵」ですね。
間宮林蔵は1799年(寛政11年)幕府の命で蝦夷地に20年以上滞在し、
蝦夷地、千島、樺太の測量にあたります。
最大の成果は、1809年(文化6年)に間宮海峡を発見したことです。
何故か?
ロシアの南下に対し領土の保全に苦慮、躍起になっていた幕府にとって蝦夷の地がロシアと陸続きではないことが判ったことが重要な国土防衛情報となったからです。
同時期、オランダ出島経由で日本に入ったシーボルトも
北方に地勢に重大な関心をよせていました。
シーボルトは林蔵の樺太の地図を複製し、海外に持ち出し林蔵の樺太の地図(複製)が世界地図にのるようになります。結果
アイヌ、和人の生活用具など、文化遺産、蠣崎波饗の夷酋列像の絵など収集した北海道の文化資産の存在や、間宮林蔵 本人の名が世界に知られることになります。
No.458 相摸のもののふは杉田を目指す?
※間宮林蔵は終生 独身だったと伝えられていましたが
1813年(文化10年)上川のタナシ(現・当麻スカイパーク付近)でアイヌ女性アシメノコを見そめ、翌年の文化11年に娘ニヌシマツが生れます。
子孫の(間見谷 喜昭)さん(72歳)が平成14年、林蔵の五代目に当ることがわかったそうです。
No.212 7月30日 (月)ある“日本人”の学究心
スコットランド人の医師Neil Gordon Munro(ニール・ゴードン・マンロー)は、横浜三ツ沢貝塚研究で本格的な発掘調査をした人物ですが
1933年北海道に渡り、平取町二風谷(にぶたに)にマンロー邸を建てて医療活動を行いながらアイヌ文化を研究し保存に尽力します。
アイヌ民具などのコレクションの他、イオマンテ(熊祭り、1931年製作)などの記録映像を残したことは貴重な資料となっています。
さて、横浜と北海道の点と線
これは イントロに過ぎません。
さらにつづく 北海道と横浜を繋ぐ点と線は 次回に
No.458 相摸のもののふは杉田を目指す?
今日は 横浜市磯子区南部に位置する“杉田”エリアを紹介します。
現在の杉田エリアは、京浜急行「杉田」駅とJR根岸線「新杉田」を結ぶ「ぷらむろーど」を中心に商店街が拡がっています。歴史ある時代で表情が変化した
時をさかのぼれば 広大な歴史の舞台「杉田」が浮かびあがってきます。
調べれば調べる程、面白い杉田です。
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杉田妙法寺の蓮(今が見頃です) |
(東西南北)
■東は海。
かつては船で杉田観光に!
■西は笹下川(ささげがわ 大岡川の支流)流域
鎌倉武士の城があった“金沢道”周辺は面白い!
■南は金沢区富岡に隣接する起伏のある丘陵地
梅で有名な杉田の梅林は富岡との境あたりに群生?
■北は中原(屏風ヶ浦)あたり
現在の「杉田エリア」明治期、久良岐郡屏風ヶ浦村の一部でした。
杉田の名は 江戸時代から梅の名所で有名でした。
(意外な?因縁)
杉田(すぎた)といえば?昔を良く知る人は「梅」と答えます。
商店街も「ぷらむろーど」ショッピングビル名も「プララ」と名付けられています。
「梅林小学校」「杉田梅林トンネル公園」といった名称もあります。
かつて広大な「梅林」が杉田にはありました。
「梅林小学校」絶景ポイントでもあります。
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梅林小学校近くの眺望 |
この杉田梅林を創り上げたのがこの地の領主「間宮信繁」という人物です。
天正年間頃16世紀後半の時代です。杉田という土地柄は、起伏が多いため稲作に向いた田畑に恵まれませんでした。漁業が中心の貧しい寒村でしたが
この地を治めた間宮信繁が地域の産業として梅の植林を奨めます。小田原の曾我梅林に習ったといわれています。梅を地域産業として鎌倉時代から梅を育ててきた曽我に習い、「杉田梅」は小田原から移植したのではなく、逆に今 磯子で失われた「杉田梅」が小田原に残っている状況です。
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曾我梅林2013 |
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曾我梅林と冨士 |
数十年後には見事な梅林が育ち、年ごとに梅林が拡がっていきました。
最盛期には三万六千本にも達したそうです。
江戸初期は梅の実が農民を助け、
江戸後期から明治期には「梅の花の名所」として観光地となります。
多くの文人墨客もこの「杉田梅林」を愛でます。
「我等が郷土神奈川県下には由来天恵的に名勝或は史蹟の地として指を屈するの 地洵に多く,従って之れ等各勝地に遊杖せる古今の俳人墨客の数も相当多く,又 それらの人々に依って残された吟詠も決して少なくありません。今茲に編する杉 田金澤両地の内,杉田は往古より杉田梅林として其名高く例へば吟江の 吉野の みか梅の杉田もこれはこれはの句の如く,又「杉田の梅林に遊びて」と題書せる 抱一上人の これはこれはこゝをや梅の吉野山の句の如き,ともに花の吉野と梅 の杉田を対立させてゐるあたり全く梅花の名所として立派に立証し得る事が出来 うると存じます。又金澤は金澤八景として天下に其の名高く,其の昔兼好法師は 此の地の佳景を愛して住み,画聖巨勢金岡は此の地の妙景に絶倒して筆を松に擲 つたと云ふ事であります。又心越禅師は勝景西湖に似たる故を以て,八勝の詩を 賦し,尭恵法師は神異絶妙と,唱へて居ります程の勝れた地区であります。」
(飯田九一「杉田金澤古今俳句集」)
吉野のみか梅の杉田もこれはこれは 夏目吟江
「間宮信繁」の菩提寺杉田妙法寺には
この地を訪れた俳人の句碑が残されています。
門をくぐると直ぐに句碑に出会います。
さびしさは星をのこせるしぐれかな 飛鳥田 麗無公
「また寒き 月のひかりや 梅の花」 松竹庵 梅月
「簾越し居るこゝろして梅のもと」 内野 月朶(げつだ)
■牛頭山妙法寺(ぎゅうとうさん みょうほうじ)
1352年(文和元年)創建。2月〜3月上旬には、名木「照水梅(しだれうめ)」をはじめ多くの梅の木が咲きほこります。
(スパイも医者も登場)
杉田に梅林を奨励した間宮?
この名から連想する教科書に出てくる人物といえば
間宮林蔵という“冒険家=隠密”でしょうか?
彼は杉田の間宮氏と遠縁にあたります。
「間宮 林蔵(まみや りんぞう、安永9年(1780年)〜天保15年2月26日(1844年4月13日))は江戸時代後期の隠密、探検家である。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。名は倫宗(ともむね)。農民出身であり、幕府隠密をつとめた役人であった。」(Wikipedia)
常陸国筑波郡上平柳村出身で、先祖は後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏の流れを持つ間宮家の一族で武士から帰農した人物です。
杉田村で間宮から杉田姓を名のった一族の親戚にあたります。
間宮氏の一部は杉田に暮らし
「杉田姓」を名乗った一族がいました。
間宮一族は 近江佐々木氏にルーツがあり遠くは近江の出身です。
鎌倉時代、相摸のもののふの一族として歴史に登場します。
北条氏に仕え、笹下エリアに山城と陣屋を建て 杉田・笹下・田中他 一帯を治めます。
その後 北条氏滅亡で間宮氏は
杉田間宮氏、氷取沢間宮氏、三ツ沢、鶴見、房総下総、三浦、川崎、静岡 等に分かれて居を移していきます。
一方、初期に杉田村に生まれた遠縁の間宮長安という人物が
間宮姓から杉田に氏を変え暮らします。
この杉田氏の子孫が福井若狭藩(酒井家)の藩医となり幕末期江戸で活躍します。
ここに登場したのが
一度は歴史教科書で聞いたことのある「杉田玄白」です。
杉田玄白(1733年〜1817年)
間宮林蔵(1780年〜1844年)
少し前後しますが
二人はほぼ同時代を生きた人物で共に杉田に縁のある人物です。
(杉田のヘソ)
江戸時代まで、杉田・屏風ヶ浦のヘソは笹下にありました。明治初期には現在の「横浜刑務所」あたりに久良岐郡役場と村役場がありました。
その後、堀割川流域の発展に伴い市電の開通などもあり磯子・屏風ヶ浦・杉田地域は海岸線が発展していきます。
市電の終着「杉田駅」ができることで、海岸線に近い杉田は大きく発展していきます。その後に、湘南電気鉄道(後の京浜急行)「杉田駅」が開通します。
湘南電気鉄道の当初の計画では
「屏風ヶ浦駅」が最初に開設する予定でしたが、地元の猛反対に遭い「杉田」が先に開設されます。(よくある歴史の皮肉ですね)
ここで
少しヘソが変わります。
市電「杉田駅」から「聖天橋駅」周辺に繁華街の中心が移り、市電廃止でバス中心となると「京急杉田」を軸に街が拡大していきます。
上大岡からの旧道に沿って開通した“湘南電気鉄道”は昭和初期、日の出町で京浜電気鉄道とつながり、一気に首都圏の重要な動脈となっていきます。
一方、戦後になり念願の桜木町から先に伸びる「根岸線」が開通すると
第一段階で「磯子駅」が開設し駅前が変わります。
その後「大船駅」全通に伴い「新杉田駅」が開設され、「杉田駅・新杉田駅」界隈には独特の賑わいが生まれます。
平成に入り、
シーサイドラインの開通等で、杉田のヘソは少し「新杉田」寄りにシフトしましたが、まだまだ京急杉田周辺のデープさは残っています。
※余談
京急杉田駅横には「お稲荷さん」があります。
この杉田駅稲荷?(というのか不明ですが)には
秘話が隠されているのをご存知ですか?
この秘話は 別のところで紹介することにしましょう。
今日はちょっと長くなりました。おつきあいありがとうございます。
No.455 東海道の横浜を歩く
「横浜道」に引き続き横浜の街道「東海道」を紹介します。
東海道と言えば、江戸時代に整備された徳川幕藩体制を支えた物流を支えた主要街道の一つです。
横浜エリアの東海道を何回かに分けて歩いてみましたので
紹介します。
【鶴見市場から生麦】
横浜東海道の旅は「鶴見市場」からスタートします。
京急鶴見市場駅から北方向に商店街を抜けると「熊野神社」にぶつかります。
![]() |
鶴見熊野神社 |
横浜市鶴見区市場東中町9〜21
殺風景な境内のわりに派手なHPがあります。
●「横浜市立市場小学校発祥の址」の碑
●加舎白雄と大島蓼太の句碑(飯田九一 選と揮毫)
この「熊野神社」前の通りが旧東海道です。
No.264 9月20日(木)「鼾かく人を流罪す月今宵」
鶴見川橋を渡りますが、鶴見川に鶴見川橋の名からもこの街道の歴史を感じます。
右手に「鶴見神社=杉山神社」があり街道の鎮守の役割をもっていることがわかります。
京急「鶴見駅」の線路下を(抜けられませんが)通り、
ベルロードつるみ・鶴見銀座商店街を抜けます。
鶴見線の架橋をくぐり
鉄道レトロの「国道駅」前から
生麦魚河岸通りを通ります。
【番外編】生麦、旧東海道を歩く
No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験
【子安から神奈川】
国道15号線がほぼ東海道をトレースしています。
入江川派川(海岸線に平行している運河)
ここが子安から神奈川が最も昔のままの海岸線をイメージできます。
No.216 8月3日 (金)この道は金港に続く
東神奈川は横浜市内最初の宿場町です。
神奈川県内最大の宿場町でもありました。
神奈川宿に関しては
別にテーマを立て 紹介します。
【神奈川から保土ケ谷】
横浜中心部に入ってきました。
東海道が 海に別れを告げ、内陸に入っていく分かれ目が
青木橋あたりです。
No.452 横浜道から開港当時を探る
鶴屋町から保土ケ谷までは 旧東海道の道筋が残っています。
八王子街道への別れ道「追分」を過ぎると
横浜賑わい商店街ベスト3に入る
洪福寺松原商店街です。
No.414 競争共栄商店街
ここまで渡ってきた川が
鶴見川
入江川
滝野川
そして
帷子川と今井川の合流地点が
相鉄線「天王町」駅前です。
東海道は今井川に沿って保土ケ谷宿に入ります。
JR保土ケ谷駅前を過ぎ、東海道・横須賀線の踏切を越えると
保土ケ谷宿 本陣跡に出ます。
この保土ケ谷宿からは 金澤古道が分岐しています。
【保土ケ谷から品濃町】
横浜市内の東海道最大の難所です。
何度来てもこの坂の急傾斜前で躊躇します。
急坂「権太坂」です。
ここを越えると「境木」です。
武藏の国と相摸の国の国境(くにざかい)です。
No.339-2 12月4日(火)越すに越されぬ国境(くにざかい)
【番外編】 1月17日(木)横浜は坂ばかり
横浜は坂が多い街ですが、中でも権太坂は厳しい!!!
かつて栄えた!
境木商店街も火が消えつつありますが
ここは元気です。
創作和菓子処 栗山
ご当地もの たくさん買ってきました。
「男爵さま」が最新の作品だそうです。いけまっせ!
新製品を創る努力と工夫が大切ですね。
http://www.wagashi-kuriyama.co.jp
境木の峠を越えると
東戸塚に入ります。
この街は 1980年(昭和55年)10月1日に横須賀線の新駅が開業し
日立製作所関連企業、西武等による開発が行われ新しい街が生まれました。
※日本現役最古の鉄道トンネル「清水谷戸トンネル」は
東戸塚駅と保土ケ谷駅間にあり東海道下りルート最初のトンネルです。
旧東海道には品濃一里塚跡を示す碑があります。
【品濃町から戸塚】
東戸塚から柏尾川支流に沿って旧東海道はつながっていきます。
戸塚ネタはこのブログでもかなり取上げています。
No.142 5月21日 戸塚は鎌倉?(加筆修正)
この先、藤沢宿までの旧東海道は踏破していません。
湘南に抜ける時は、戸塚駅前から柏尾川にそって川ルート下りばかりで
実は もう一つの 山越えが 待っています。
「原宿」あたりのルートです。
この区間は 今年中に踏破する予定です。
※藤沢宿から平塚宿までは徒歩踏破しています。
No.454 「横浜道」を歩く (後編) 加筆修正
No.453に引き続いて現在の「横浜道」(後編)の紹介です。
後半は横浜道の難所となった「掃部山・野毛山」越えから
野毛の町にぐぐっと曲がり
そして大岡川を都橋で渡ると吉田町、吉田橋となります。
現在 最も開港場の歴史を庶民の視点から散策できるエリアです。
![]() |
掃部山(かもんやま)の桜 |
この道行きは
人気の観光、賑わいゾーンで
案内情報も沢山紹介されています。
見どころは「掃部山」界隈です。
![]() |
横浜能楽堂 |
ここでは少し違った視点で紹介しましょう。
(石積み博物館)
このエリアは「石積み」の野外博物館です。
野毛山の傾斜地に
フランス積み
ブラフ積み
古来の亀甲石積
布積み
乱積み
谷積み
等々 時代や環境に応じた石積みが発見できます。
(蕎麦街道)
横浜道にはそば屋が多い!!!!
平沼から日本蕎麦屋が10軒以上あります。
浅間下「横浜そば処 古登婦喜」
平沼「角平」
平沼「田中屋」
戸部「砂場」
戸部「松山そば店」
戸部「田中屋」
戸部「あんどうそば店」
※ちょっとルート外ですが花咲町 「太宗庵」
野毛町「中屋」
野毛町「東京庵」
吉田町「角清」
※八軒訪問。横浜道「蕎麦街道」って発想あると思います。
野毛山周辺はグルメスポット集中地区、しかも
小さい名店が点在しています。
例えば洋食!
紅葉坂周辺には「洋食屋きらく」(昔金港亭がありました)
青少年センターの「メルヘン」はあなどれません。
センターグリル、キムラの老舗も
レストランも新旧入り乱れて 話題の店が
ぎゅーーーーっと詰まっています。
No.371 1月5日(土)ノゲ的
No.61 3月1日 成田山横浜別院延命院復興
※野毛界隈は ここでは略します。
(吉田町)
さて 最後のルート「吉田町」に入ります。
No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん
鴎が舞う「都橋」を越えると
右側(南側)と左側(北側)が対照的な商店街が登場します。
吉田町の特徴は 左右非対称の商店街です。
通りとしての元気が出てきたのがここ十年のことです。
野毛とイセザキに挟まれて 静かに時が流れていましたが
再開発の計画が起る度に 街の活性化がロックされてきました。
この界隈も 情報が最近多く発信されています。
参考にされて 変わりつつある「吉田橋界隈」を
散策してみては如何でしょう。
新しいカテゴリーの飲食店が多く出店しています。
老舗中の老舗
肉の中川、鶏肉の梅や は健在!
![]() |
残念ながら閉店しましたね。 |
画廊も バーも
「Bar Noble」
横浜市中区吉田町2-7 VALS吉田町1F
http://noble-aqua.com
最近は
うなぎの「八十八」が出店しました。
このエリアから 目が離せません。
※余談テーマ
野毛の街をあるいていて
「理美容店」の多いことに気がつきます。
特に理容店で、値段もバラバラというところが
ちょっと“おそろしい”
今度数えてみますが ざくっと知っているだけで
野毛界隈に 理容室が10軒は数えることができます。
No.457 ザンギリ野毛
No.453 「横浜道」を歩く (前編)
昨日No.452で、横浜道が造られた頃の話しを紹介しました。
今日は、現在の「横浜道」をぶらり歩いてみましょう。
横浜道は、旧東海道の浅間下(当時は芝生村)から、
関内の吉田橋まで一直線につながっている
開港後最初にできた重要道です。
横浜道散策は東海道筋からスタートします。
(浅間下)
横浜道のスタート地点には、富士山信仰の「浅間神社」が鎮座しています。
周辺にはビルが乱立していますが、かつて海と冨士が良く見えた高台にあります。
このあたりの浅間下は、昔「芝生(しぼう)」村と呼ばれていましたが、
しぼう=死亡の音でもあるのでこの地名は無くなり「浅間下」と呼ばれるようになりました。
交差点の脇に「横浜道」起点の案内看板が設置されています。
ここから県道13号線(新横浜通)を関内方向に。
最初の川と橋があります。
新田間川(あらたまがわ)と新田間橋です。
この周辺には、うなぎの「野田岩」があります。
また、新田間川沿い少し上流に家具のダニエルの工房「家具の病院」があります。
事前に申し込めば見学もできます。私の大切な秋田木工の籐椅子の座面修復をお願いしたことがあります。
(見事な完成度です。今これに座って原稿を書いています)
新田間川を越えると横浜駅西口のビル街に入ります。交通渋滞の激しい岡野の交差点近くには予備校と東急ハンズ(7月で移転のため閉館)があり若い人たちがぐっと増えます。
ここには「吉村家」「横浜家」「山頭火」と人気ラーメン店が立ち並ぶところでもあります。
旧道「横浜道」は、次の帷子川(かたびらがわ)を渡る地点で少し脇道にそれます。
高架橋となっている「平沼橋」脇に小さな「旧平沼橋」があり、
少し前まで、開かずの踏切が設置されていました。
現在は通行不能となっています。
“平沼の踏切”を過ぎると、平沼商店街が戸部の手前石崎川に架かる
「敷島橋」まで続いていましたが 残念ながら
現在は見る影もありません。
それでも 良い店は頑張って残っています。
歴史ある蕎麦の田中屋、角平。お茶の平沼園、和菓子屋の寿々喜
新しいレストランも誕生しています。
三つ目の石崎川と敷島橋を越えると「戸部」に入ってきます。
お肉の「井上富蔵商店」は元々卸で小売りも行っています。
戸部7丁目交差点、市営地下鉄「高島町駅」あたりから京急「戸部駅」までは、かつて栄えた三菱造船関連の工場や機材、下請け企業が密集していたエリアです。
現在も少しその面影が残っています。
お店もかつて造船所関連お土産として人気だった「東京ひよ子 横浜店」が現在もしっかり営業しています。
銘菓ひよ子は、九州福岡のお菓子ですが、東京オリンピック以降関東に進出し 見事東京ブランドとなった珍しいお菓子です。
炭坑や製鉄所など重労働に「甘味」が人気となって福岡の名産となります。
※余談 岩亀横町に和菓子屋「住よし本店」がありました。ここには名物“塩分の効いた”きんつばがあって、造船所に働く人たちの超人気菓子だったそうです。
どこかで復活して欲しいな!甘みを抑えた良い味でした。
戸部7丁目交差点にある 今話題のお店と言えば
「横濱うたげやど根性ホルモン」です。
http://dokohoru.info
地恵地楽のお店と言われるだけあって 地産地消の人気スポットです。
このあたりから
江戸時代に切り通しとなった野毛山のてっぺんまで
少しずつ上り坂になっていきます。
戸部四丁目交差点からみなとみらい方向にのびる
「岩亀横丁」幕末から明治にかけて横浜最大級の遊郭
「岩亀楼」の遊女達の寮があったことからこう呼ばれるようになったそうです。
遊郭が無くなった後は 三菱造船関連の工場街として栄えます。
現在は その名残が少し在る という程度です。
この「岩亀横丁」には「岩亀稲荷」があり
「幕末安政のころ、現在の中区横浜公園のあたりにあった「岩亀楼」という遊廓(ゆうかく)の遊女が、静養のため利用した寮がここにあったことから岩亀横丁と呼ばれるようになったという。この横丁のなかほどに、静養に訪れた遊女がお参りしたといわれる稲荷がある。岩亀稲荷と呼ばれ、例祭が行われるなど、今も大切に守られている。」(横浜市西区HP)
ここには こんな言い伝えが残っています。
幕末の尊皇攘夷の考えから外国人客を拒み、
17歳伝説の岩亀楼のナンバーワン遊女「喜遊」が
最後は喉に刀剣を突きたてて自害したという。
この言い伝えには若干????
そもそも居留地の遊郭に上る時点で、
外国人相手が想定されることは解りきっていたことですから
恐らく 攘夷ではなく 理不尽な要求を拒み自害が妥当な線ではないか?
と推論しています。
後半はまた明日にしておきます。
No.452 横浜道から開港当時を探る
幕末に突然誕生した「横浜開港場」
この開港場は、幹線街道(東海道)との接続がありませんでした。
今回は、民間に下った突貫工事令で完成した
開港のための道「横浜道」を紹介しましょう。
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横浜道に埋め込まれている道標 |
開港前日に開通した「横浜道」を紹介する前に
なぜ 「横浜道」が必要となったのかあたりからヒモ解いていきましょう。
市史編集事業の重責を務められた高村直助先生は
横浜開港場を「帝都の関門」と呼びました。
開港のプロローグはロシアから始まり
ペリーの来航で 日本は開国を迫られます。
静岡県下田港開港から始まり
神奈川湊開港が「日米通商修好条約」で期限を設定して
開港場と決められますが、当時の徳川幕府は
できるだけ 江戸から「開港場」を外したいと目論見ます。
不便だが良港としてペリーの評価も高かった「横浜」を
開港場と決め
1859年7月1日(安政6年6月2日)未完成の状態で開港します。
開港場の整備は残り百日を切った約三ヶ月の短期間に行われます。
※アメリカは当初7月4日(独立記念日)を開港日にしたかった
日本政府と列強五カ国の間に結ばれた「安政の五カ国条約」の
重要な目的は「通商」=交易です。
通商に必須なのが「ロジスティクス(物流)」の確保です。
外国人を囲い込むために長崎の出島をイメージして管理しようとした幕府でしたが、
軍事・外交上も江戸への幹線道の整備が必要となります。
江戸時代の横浜村エリアの街道への動線は「井土ケ谷」経由保土ケ谷宿でした。
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安政6年の開港場 |
「開港場」と「東海道」を直結する道
「よこはまみち」の造成に踏み切ります。
開通当初は 重要な街道として多くの利用者で賑わいました。
東海道神奈川宿、その先の“江戸”への近道でした。
「絹の道」としても重要道でした。
ところが 埋立で状況が激変します。
明治に入り海岸が次々と埋め立てられます。
明治横浜の最初の大変化は
海岸線に鉄道が通り一般道も平行して整備されたことです。
(よこはまみち)
現在の浅間下交差点から、関内駅前吉田橋までが
「よこはまみち」です。
一時期 横浜開港史から忘れ去られていた道です。
「横浜道」の大半が横浜市西区を通っていることもあり
西区が「横浜道」の道標を埋込み整備しましたが?
今ひとつ 地味な存在になっています。
横浜道の名残は殆ど残っていません。
野毛の切り通し周辺の「石積み」
戸部近くの「岩亀稲荷」
浅間神社付近の細道 位でしょうか。
新田間川
帷子川
石崎川
大岡川
四つの川(橋)を渡り
野毛の切り通しを抜けると目の前に
「開港場」が目の前に拡がります。
東海道筋から開港場を目指した人々は野毛から眺める
洋館が並び 沖には船が多く停泊している
新しい街に ワクワクしたことでしょう。
この『道』無くして 開港場は成立しませんでした。
改めて「横浜道」に光を!!!!
明日は 現在の「横浜道」を歩きながら
開港の名残と 現在の散策スポットを紹介します。
No.442−2 「路男」君の愉しみ(2)
最近「ローカルバスの旅」系のテレビ番組が多いようです。
実際見ていないので構成までコメントできませんが、
超人気番組ではなさそうですね。
にも関わらず なんで似たような番組が…
直ぐに疑う私の悪い癖です。
国交省のキャンペーンですかね?
と前フリをしたのは
私は昔から 路線バス大好きの「バス男」君系でもあります。
鉄道趣味系「乗り鉄」に相当します。
通勤以外でぶらっとバスを楽しむ“輩”はかなり少数派です。
理由の一つに
バスの利用が結構面倒だということ。
まず 道路事情に依存しますから 運行時間が読めないという不確実性を愉しめるかどうか?
また 運転手(全国殆どワンマン化)から
冷たい視線を受ける場合がある!
日常乗り馴れた乗客しか相手にされていないような感じが多々あるのです。
※近年行き先を尋ねることは激減しましたが、乗り方に戸惑ったときの面倒くさそうな運転手の態度にぶち切れそうになるときが マダあります。
かなり改善されましたが。
(バス停)
全国バス停探しをしている訳ではありませんが、鉄道に比べてバス停は個性的(バラバラ)です。掲示している情報のデザインも千差万別です。
横浜市内でも、電子掲示から従来のプレート表記まで何種類かあります。
時刻表やルート案内も共通表示のバス停と、バス会社独自のものが混在しています。
バス停の時刻表表記 字が小さい!年寄りにはかなり負担。
バス停の表記で<次の停留所>表記が小さい場合が多い。
同じ場所で、会社毎にバス停があり微妙に位置が異なる。(激減してはいますが)
(バスターミナルの不便さ)
全く初めて訪れるバスターミナルの判りにくさはバス利用の“宿命”です。
横浜駅は西口も東口も予め乗り場を確認してから移動しないと大変です。
横浜駅西口は バスターミナルが二カ所に別れています。
横浜駅東口は 乗り場案内が判りにくい。ので昼間は係員がいます。
判りにくさNo.1は「桜木町駅」バス乗り場だと思います。
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飛び地のような探しにくいバス停 |
(乗車方法・料金)※大人の場合
横浜市内は「前乗り前払い後降り」しかも210円均一料金です。
川崎市内は、200円均一「前乗り前払い後降り」
神戸市内は、200円均一「前乗り前払い後降り」
京都市内は220円でバス・バス乗継というのがあります。大人350円
全国的には「後乗り後払い前降り」が圧倒的に多いのですが、
均一料金や先払いに慣れているとつい間違って車内でトラブルになることもあります。
(整理券)
最近「乗車カード」「ICカード」を利用できる路線が都市部では増えましたが、まだまだ整理券方式の路線が主流のようです。
この整理券、最近はバーコード読み取り式になってきました。
(その前にIC化したほうが合理的と思うのですが)
(他社乗入れ)
横浜市民としては、この課題が一番です。
一つの路線に複数の営業会社が走っていることが多く、しかも微妙にルートが異なるため、思わず乗り間違いを起こすことがあります。何時も乗り馴れている(常連客)には普通の出来事のようですが、初めて利用する者にとっては戸惑うことがあります。しかも、バスルート案内は運行会社毎なので、立体的な複数社を使った乗換のための下調べが難しいのです。「駅探」ならぬ「バス探」はできないのでしょうか?
http://www.kanagawabus.or.jp
各社のバス時刻をまとめて調べるには最適ですが、乗り継ぎ調査はできません。
一昨年、バス路線マップが発行されましたが、売れ行きが悪く新版は“おそらく”出ないでしょう。私のような「バス男」君系には必需品なんですが。
横浜市内を運行するバス会社は12社あります。
●横浜市営バス
●神奈中バス
●東急バス
●江ノ電バス
●相鉄バス
●京浜急行バス
●小田急バス
●川崎鶴見臨港バス
●川崎市営バス
溝25系統 溝口駅前〜高田
●フジエクスプレスバス
桜木町〜本牧循環
●大新東
金01・02系統 金沢文庫駅〜レイディアントシティ
●横浜交通開発
61 系統・117系統 他 横浜市営バスルートの管理(運行)受託路線
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同じ名のバス停があります。最初間違いか?と思いましたが実際にあります。 |
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二カ所に「滝頭」 |
基本、最初にも触れましたが
ローカル路線バスを“ぶらり”乗ることがレアケースなのです。
横浜市内でも「バス乗継」割引が「ICカード」等で可能になると嬉しいです。
同日に二回違う路線を乗り継ぐと420円が350円になるとか。
一日乗車券は現在も発行されていますが、市営バスだけです。
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/kyoutuu/ichinichi.html#bus1
エリア内フリーチケットは
☆横浜1DAYきっぷ(京急電鉄)
京急線フリー区間、市営地下鉄・市営バスフリー区間、みなとみらい線フリー区間を組み合わせた一日乗車券
http://www.keikyu-ensen.com/otoku/otoku_yokohama.jsp
☆みなとぶらりチケット
http://www.yokohama-bus.jp/burari/index.html
バスネタブログ
No.339-2 12月4日(火)越すに越されぬ国境(くにざかい)