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横浜の実業家達」カテゴリーアーカイブ

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横濱デパート物語

20世紀はデーパートの時代と呼ばれました。

三越が全国主要新聞に1905年(明治38年)全段広告を掲載し
「店販売の商品は今後一層その種類を増加し凡そ衣服装飾に関する品目は一棟の下にて御用弁じ相成候様設備致し,結局米国に行はるるデパートメント・ストーアの一部を実現可致候事〜」と宣言
“百貨店”の存在を明確にしました。
“百貨店”と呼ばれる大型店が日本に登場したのはこの三越がデパート宣言するよりも前のことですが
この三越によるデパート宣言の凄さは、アートから建築、文学その他文化を総動員した販売戦略の元で
元々江戸時代に呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業し既に正札販売を世界で初めて実現していたスタイルを明確にしたことです。
今回は、横浜を舞台に店舗進出した「百貨店」を紹介しましょう。
日本橋三越8<日本橋 三越>
大手百貨店の創業時期と場所を簡単に紹介します。
●松坂屋→J.フロント リテイリング株式会社
1611年(慶長16年)名古屋に創業した「えびす屋いとう呉服店」に始まります。
※横浜に関連ある場所→伊勢佐木町
松坂屋06●三越→株式会社三越伊勢丹ホールディングス
1673年(延宝元年)
伊勢松坂の商人三井高利が江戸日本橋本町1丁目にオープンした越後屋呉服店が始まりです。
※横浜に関連ある場所→横浜駅西口
三越18mitukosi.jpg●大丸→J.フロントリテイリンググループ
1717年(享保2年)
下村彦右衛門正啓が京都伏見に作った呉服店「大文字屋」が始まりです。
●そごう→セブン&アイ・ホールディングス
1830年(天保元年)十合伊兵衛(そごういへえ)、大阪に古着屋「大和屋」開業します。
※横浜に関連ある場所→横浜駅東口
https://www2.sogo-gogo.com/wsc-customer-app/page/511/dynamic/top/Top
そごう48●高島屋
1831年(天保2年)
飯田新七が京都烏丸で古着木綿商「たかしまや」を開店します。
※横浜に関連ある場所→横浜駅西口
横浜髙島屋の誕生

●野澤屋→松坂屋
1864年(元治元年)
初代茂木惣兵衛(もぎそうべい)が横浜の弁天通2丁目(現在の神奈川県横浜市中区)で野澤屋呉服店を創業したのが始まりです。
lig_iriku.jpg<入九が野澤屋のマークでした。画像は震災後の仮店舗?とみられます>
※横浜に関連ある場所→伊勢佐木町
lig_松屋があった吉田橋2●松屋
1869年(明治2年)
古屋徳兵衛が横浜石川町に「鶴屋呉服店」を創業し1899年に東京神田の松屋呉服店を買収し、東京に進出、松屋に。
※横浜に関連ある場所→伊勢佐木町
lig_鶴屋22●伊勢丹→株式会社三越伊勢丹ホールディングス
1886年(明治19年)
小菅丹治(こすげたんじ)が東京の神田旅籠町に創業した「伊勢屋丹治呉服店」が始まりです。
●岡田屋(現横浜岡田屋)
1910年(明治43年)10月 岡田宗直が「岡田屋呉服店」を設立したのが始まりです。川崎に創業ですが、その後横浜の老舗として現在も頑張っています。
※横浜に関連ある場所→横浜駅西口
http://www.more-s.com●ピアゴイセザキ店
1919年(大正8年)伊勢佐木町が創業地の「松喜屋」呉服店が
1927年(昭和 2年)伊勢佐木町で創業した古川呉服店→「ほていや」が
1969年(昭和44年)「松喜屋」を買収。
1971年(昭和46年)ほていやを含む数社が合併し、ユニー株式会社となります。
松喜屋からほていや時代にかけて、屋上には遊戯施設が設けられていました。
ピアゴ20

ピアゴ1
<解体前に了解を得て撮影した遊園地看板>

※横浜に関連ある場所→伊勢佐木町

●白木屋
1662年(寛文2年)に江戸の日本橋通三丁目(とおりさんちょうめ)に江戸支店として進出し、「白木屋」を創業しました。
lig_sirokiya
<日本橋白木屋本店>
1956年(昭和31年) 東京急行電鉄グループ入り、後に「東急百貨店」へ。
1999年(平成11年)1月31日閉店へ。
※少し 横浜に関係あり。
白木屋乗っ取り騒動は日本の経営史上に残る経営紛争の一つです。
白木屋乗っ取りを画策した横井英樹は、最終的に五島慶太に高く株式を売切ります。この横井英樹が「ノザワ松坂屋」の株式買い占めを行い、乗っ取り騒動がありました。

ここまで一覧化して
以前ブログで紹介した「MATSUYA」を改めて調べ始めたら
【余談から駒!】
新しく紹介したいネタが【芋づる式】に出てきました。
今日はあっさりここまでにして
→次回へと続きます。 

横浜史最大級のミステリー?

このブログのネタは歴史的転換期となった横濱開港あたりがどうしても多くなってしまいます。今回も幕末ネタでご勘弁ください。

ただ、私の筆力を除けば“横浜最大級”のミステリーであることは間違いありません。
lig_中居屋重兵衛碑横浜市中区の関内にある“桜通”にひっそりとある記念碑が建っています。
「生糸貿易商 中居屋重兵衛店跡」
中居屋重兵衛(なかいやじゅうべえ)
Wikiでは
http://ja.wikipedia.org/wiki/中居屋重兵衛
「中居屋 重兵衛(なかいや じゅうべえ、文政3年3月(1820年)〜文久元年8月2日(1861年9月6日))は、江戸時代の豪商・蘭学者。火薬の研究者としても知られる。中居屋は屋号で、本名は黒岩撰之助(くろいわ せんのすけ)。」
記述内容も少なく、断片的に史実を表記しているだけで、中々彼の人生は見えにくいようです。
1859年(安政6年4月)に文献に登場した中居屋 重兵衛は、他の群馬商人と共に本町通近辺に生糸関係の店を開きますが、lig_役宅39lig_安政六年中居屋店位置2年後の19611861年(文久元年8月)に店で起こった火事以降、突如姿を消します。
失踪の理由には諸説ありますが、
たった2年の間に開港場で三井の商店を遥かに上回る豪勢な銅御殿の店構えとなり、当時の原善三郎もその他の生糸商も少なからず中居屋 重兵衛の供給する上質な生糸・絹の恩恵を被っていたはずです。
ところが、記録から消えてしまいます。同時代の商人たちの記録にもまるで「箝口令」が敷かれたようです。

lig_201312絵はがき017
<文久二年発行「開港見聞誌」玉蘭斎 貞秀>

たった2年の期間に
いくら一攫千金の商いを求めた“山師”的な商人が全国から横浜に押寄せたとしても、成功の絶頂期になんらかの大きな力が働いたとしか考えにくいために
“陰謀”“暗殺”といった話が中居屋 重兵衛の周辺につきまとったまま時間が流れてしまいました。中でも井伊直弼暗殺の陰の立役者という説は荒唐無稽とは言えかなりの説得力があります。小説としてはすばらしいネタです。
とにかく信憑性のある資料が少ない点も彼を謎の人物にしてしまう大きな理由の一つです。
※実際の中居屋商店は、重兵衛失踪後も細々と続き、1870年(明治3年)に店を閉じたという資料が見つかっているそうです。
lig_P1060002.jpg中居屋 重兵衛に関する研究資料を幾つか読むとそこに意外な側面が見えてきます。
まず中居屋 重兵衛は武器商人であったことは間違いないようです。
上野国吾妻郡中居村、現在の群馬県吾妻郡嬬恋村三原から江戸に出るころ中居屋 重兵衛こと本名 黒岩撰之助は郷里群馬か江戸のどちらかで火薬の製造法をマスターします。
中居屋研究の第一人者である萩原進氏は「炎の生糸商 中居屋重兵衛」(有隣新書)で、大胆にも郷里を訪れた佐久間象山に「群馬」で火薬製造法を学んだ説を採っています。藩の命令で中居屋=黒岩家が火薬製造法を学んだと思われる資料もあり、この辺の歴史的判断は難しいところです。

中居屋 重兵衛が最も才能を現したのが「生糸ビジネス」です。
開港場に江戸を中心に商人が集まりますが、ビジネスコミュニケーションが殆どできない状況下、“一体 何が売れるのか?何を仕入れることができるのか?”殆ど手探り状態で開港場の西半分にニワカ仕立ての商店を建て、手持ちの商品を並べ始めた中でいち早く「これは絹・生糸製品だ!」と確信し
生産現場をおさえ、品質管理を行い一気に開港場への物流を確保した(数少ない)一人だったようです。
居留地でのビジネスは、商店を構えて小売りするのではなく、居留地の外国商館のまとめ買いに対応する“仲買”的な役割が莫大な利益を開港場商人にもたらしました。
居留地の日本人商人たちは“走り屋”と呼ばれ、居留地外国商館のニーズとオファーにいち早く応えることが成功への近道でした。
重兵衛にはその才があったということでしょう。そこには幕府の“掟”破りもじさない強引さもあり、また政商として派手に動き回ることで幕府を含め“敵”も多くなることは当然の結果かもしれません。

「中居屋 重兵衛とらい」小林茂信 皓星社(現在絶版)では、
群馬の生家黒岩家では古くから「ハンセン氏病」=「ハンセン病」を治療する家であり、黒岩撰之助=中居屋 重兵衛もまた、ハンセン病治療の「生き神様」と呼ばれた人物としました。ところが、歴史に残っている癩治療史には一切残っていないというミステリーを解き明かそうと試みた資料です。商人としての中居屋 重兵衛に歴史的資料が皆無でしたが、ハンセン病の専門医でもある小林茂信氏の資料には、傍証が数多く挙げられています。
ところが、この小林説の元となった「中山文庫(資料)」に疑問を持ち、<真贋>追求していったプロセスを描いたのが
「真贋ー中居屋重兵衛のまぼろし」(1998年・松本健一著 原本1993年新潮社刊)です。
著者 松本健一は2014年(平成26年11月27日)
に亡くなった日本近代史・精神史を追求した人物で実際に「中山文庫」の出所先を追います。結論は<贋作>の積み重ねから作られたフィクションと結論づけます。
中居屋がこのハンセン病治療の「生き神様」でなくとも分かる範囲だけでこの時代のパイオニアであったことは間違いありません。

多くの群馬商人の中で飛び抜けて行動力と商才に優れた中居屋 重兵衛は、「絹の道」によって群馬と横浜を繋ぎました。高島嘉右衛門同様、政商のイメージで評価が低くなっているかもしれませんが、高嶋・中居屋 この二人抜きに横浜開港場の歴史は語ることができません。
今後の研究に期待したいところです。

No.302 10月28日(日)全ての道は横浜に 

中居屋重兵衛の墓
lig_中居屋重兵衛群馬碑嬬恋村三原
県指定史跡 1956年(昭和31年)6月20日

No.475 点・線遊び「足利尊氏からフェリスまで」

今日は、点と線を結ぶ“遊び”をします。
つなぐのは 足利尊氏と横浜ゴムとフェリスの秀才です。
この三つのキーワードにどのような関係があるか、
おわかりですか?

近年足利尊氏像では無い説が有力
■歴史認識
 日本史で足利尊氏ほど戦前と戦後で評価が変わった人物はいないでしょう。
 時代は14世紀、第96代後醍醐天皇と対立して足利政権を樹立し、
 史上最大の逆賊とも
 史上屈指の有徳の英雄とも評されました。
 現在の研究では尊氏の人間的側面や、人間関係の分析がかなり深く行われ新しい人物像が描き出されているようです。
 (横浜と足利氏)
 栃木県足利市は、尊氏の「足利家」に因んだ名前です。では“横浜”との関係は?
 彼の簡単な伝記を読む限りではトピックスとなるような「横浜」との関係はありませんでした。ところが、
 足利尊氏関連の日本史を調べている時、彼の時代=中世ではなく“近代史”で横浜が浮上してきました。
 足利尊氏が“国賊”とされていた戦前に彼を再評価しようとした人物が横浜にいたのです。歴史で習う「南北朝」の歴史認識は明治時代に入り、「南朝正統・尊氏逆臣」という「皇国史観」に反する考えや研究、発言が抑圧されるようになります。
 1934年(昭和9年)にいわゆる「足利尊氏論」が起こり当時の斎藤実内閣商工大臣だった「中島 久万吉」が辞任します。
 ※中島久万吉が、13年前に(会員向け)同人誌に発表した論文「足利尊氏論」が月刊誌『現代』に採録されたことが、衆議院で取り上げられ紛糾します。
 中島大臣の論文内容は、足利尊氏を賛美する内容でそれが国粋主義者たちを刺激します。
 この中島久万吉、横浜を舞台に実業家として活躍した人物です。
 彼は大手メーカー古河グループの中核となる 「古河電気工業」と「横浜ゴム」を創業し、昭和に入り政界入りします。
 
 ■平沼育ち
 横浜ゴム関係は幾つかこのブログでも紹介しています。
 横浜ゴム株式会社は、横浜で誕生した「横濱電線製造」が成長し古河グループ(古河電工)の一員となります。このお膳立てをした実業家が中島 久万吉です。
 電線とタイヤの原材料のゴムは“絶縁体”として密接な関係があります。古河電工は銅線を、横濱電線製造はその銅線に絶縁加工し「電線」を製造しました。
 この横浜電線製造を起こした横浜の“発明王”が山田与七です。
 山田は高島町に山田電線製造所を作り成功します。
  中小起業から脱却するために横浜商人の木村利右衛門、原富太郎らの出資を得て横浜電線株式会社を作り 一回り大きい製造会社となります。この時に次世代電線製造に必要だったのがゴムでした。
 「銅線」製造部門が古河鉱業(古河電工)になり、
 「ゴム」製造部門が「横浜ゴム」となって
 現在の日本の基幹産業となります。
 
 No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王(加筆修正)

No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?

■浜流しになった父信行
この古河の立役者、中島 久万吉、1873年(明治6年)横浜に生まれます。
父は中島信行、母は陸奥宗光の妹“初穂”で、久万吉を生んだ後体調を崩し1877年(明治10年)に若くして亡くなります。
父の信行は土佐勤王党→長州藩の遊撃隊→坂本龍馬の海援隊→陸援隊に参加した幕末の強者の一人で大暴れし、明治になっても波乱の人生を送ります。
新島襄との出会いでクリスチャンとなり新政府の幹部として活躍しますが、自由民権運動に板垣退助とともに参加し、政府批判を強めます。
優秀だった中島はこの間、任官し外国官権判事や兵庫県判事、神奈川県令を務めますが、
戦前の大悪法の一つ「保安条例」によって
横浜に追放されます。
よこはまついほう?
現在の感覚では信じられませんが、自由民権運動を弾圧するためできた“にわか”法律です。秘密の集会・結社を禁じ内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがあるとされた自由民権派の多くが
<東京ところ払い!>
皇居から3里(約11.8km)以外に退去させられます。

尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民 そして中島信行と後妻となった中島湘煙夫婦も1887年(明治20年)12月に追放される<ハメ>になります。
島流し ならぬ ハマ流しになる始末が その後の中島の人生を大きく変えます。

■政治家への転身
中島 久万吉の父、信行は横浜に落ち着くとまもなく
1890年(明治23年)7月1日
第1回衆議院議員総選挙に神奈川県第5区から立候補して当選し
その後は 政治家として活躍し
最後は 療養中の神奈川県大磯別邸にて亡くなります。
長男の中島 久万吉は
自由民権の理想を最後まで貫いた父と
義母「中島湘烟」の影響を十二分に受け経済界と政界で活躍します。

■戦士、岸田俊子
岸田俊子(きしだとしこ)
明治の時代を駆け抜けた女権拡張運動家・作家です。
俊才「岸田俊子」後の中島湘烟

(ブログでも紹介しました)
No.153 6月1日(金) 天才と秀才
1889年(明治22年)6月1日
 25歳だった二人の俊才がフェリス女学校の大講堂で演説を行いました。
明治期のフェリス女学院のエネルギーを伝える若松賤子(島田かし子)と同じく中島湘烟(岸田俊子)の短くも激しい人生を追います。
ブログから 引用します。
(天才・神童の出現)
若松賎子の半年前(文久3年)に京都の呉服商の長女として生まれた「岸田俊子」は、小さい頃から神童と呼ばれた俊才でした。
1870年(明治3年)6歳で下京第15校に入学、
1875年(明治8年)中学に進みます。
1879年(明治12年)15歳で昭憲皇太后(当時34歳)に「孟子」などの漢書講義を担当する事となった訳ですからその「俊才」ぶりが伺われます。
いじめられのかどうかはっきりしませんが、名誉職を1年で辞退し“自由民権運動”に目覚めていきます。
1882年(明治15年)4月大阪道頓堀の政談演説会で最初の演説デビューとなった岸田俊子の「婦女の道」は、世間をあっと言わせます。
あでやかな容姿、弁舌口調は視聴者を魅了します。
全国各地で彼女の演説は人気を博しますが、時代は言論封殺、明治の暗黒時代に入ります。滋賀県大津の演説で官史侮辱罪で投獄され、方向転換を迫られ演説から寄稿による言論に変わっていきます。
この時期活動を共にしていた18歳年上の自由党副総裁中島信行と結婚(後妻)します。
若き日の中島信行は、坂本龍馬、睦奥宗光ら土佐藩士と共に討幕運動に参加した海援隊メンバーの一人で、死別した最初の妻は睦奥宗光の妹でした。
睦奥宗光、中島信行は共に神奈川県令を務め、中島は第一回の衆議院選挙で神奈川4区で当選した横浜ゆかりの人物でもありました。
※神奈川第1区は島田三郎
俊才中島湘烟(岸田俊子)はフェリスとの関わりを深くしていきます。
1888年(明治21年)5月にはフェリス和英女学校名誉教授
1893年(明治26年)9月にイタリア公使になった信行ともに結核を発病
1898年(明治31年)11月帰国し神奈川県大磯町に転居、夫婦ともに治療に専念します。
1899年(明治32年)3月26日信行が肺結核のため53歳で亡くなり、
1901年(明治34年)5月25日一年後追うように中島湘烟、肺結核のため28歳で逝去します。

■大磯に死す
ここに登場した中島信行 俊子(湘烟) は神奈川県中郡大磯町の大運寺に墓があります。

この大磯という街は不思議な街です。新島襄が療養中に無くなったように茅ヶ崎市と並んで“サナトリウム”当時不治の病に近かった結核療養施設が多かったことも関係がありますが、明治中期から昭和初期にかけて、要人の避暑・避寒地としても最高のロケーションだったようです。
吉田茂
伊藤博文
山形有朋
その他、西園寺公望、大隈重信、陸奥宗光、岩崎弥之助、安田善次郎など
明治時代の幹部勢揃いといえそうな顔ぶれです。
最初の帝国議会が開かれた時
初代衆議院議長となった中島信行
初代貴族院議長となった伊藤博文
内閣総理大臣は山県有朋でした。
この三人が大磯に別荘を持っていました。

→大磯と横浜の歴史的関係
 調べてみると面白い繋がりがありそうです。

※個人的には山県有朋に関心があり
 彼の資料を調べていますが
 一時期作られた イメージとはかなり異なる人間像が感じられます。
 何かの折に 紹介しましょう。

「山県有朋」関連書籍リスト

山県有朋 明治日本の象徴
岡義武  岩波新書(絶版)

山県有朋
半藤 一利 筑摩書房

山県有朋 愚直な権力者の生涯
伊藤 之雄 文春新書

山県有朋と明治国家
井上 寿一 NHKブックス

横浜年表ピックアップ【10月15日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。

※この日に関係する 俳人、思想家、経済人
 市政、経済動向を紹介しました。
 
●1901年(明治34年)の今日
滝春一( たき しゅんいち) 横浜に生まれ水原秋桜子に師事し、「馬酔木(あしび)」の同人として活躍。
1939年(昭和14年)から「暖流」を主宰。戦後,無季俳句をとなえて「馬酔木」をはなれたが、昭和41年に復帰し昭和57年「花石榴」で蛇笏(だこつ)賞を受賞。
人生の機微をうたった多くの句を残します。1996年(平成8年)4月28日に死去。

●1912年(明治45年)の今日
石川三四郎(36歳)
横浜市(中区)根岸町字西竹之丸3178番地に転居してきます。
石川三四郎は、埼玉県出身
明治〜昭和時代にかけて活動した社会思想家、社会運動家です。東京法学院(現在の中央大)に学びキリスト教の洗礼を受けます。
1902年(明治35年)万朝報(よろずちょうほう)社に参加しその後「平民社」にはいり解散までここで言論活動を行います。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1170.html
1906年(明治39年)2月に石川は田中正造に出会い、足尾・渡良瀬の問題に関わっていきます。この年「平民新聞」の主幹に就任します。
当然、活動の高まりで警察との摩擦が高まり、逮捕入獄します。
石川は入獄前からこじらせていた気管支炎を治すため出獄した後、
1912年(明治45年)の今日 根岸海岸に彼を支援するクリスチャンのツテで転居します。転居後は、近所の住民に「幸徳の仲間だそうだ。打ち殺してしまえ」などと言われながらも海水浴を楽しむ毎日だったそうです。
1913年(大正2年)3月フランス船ポール・ルカ号で“亡命”という理由で渡仏します。フランスではポール・ルクリュ夫妻と親交を温め広く知識の吸収に努めます。
1920年(大正9年)10月に突然帰国します。
日本が生んだ代表的なアナーキストといわれている割にあまり知られていません。戦前の無政府主義(アナーキズム)といえば幸徳秋水や大杉栄が有名です。歴史学者、家永三郎は石川三四郎を称して「国宝的人間」と呼びました。
1921年(大正10年)11月に再度渡欧の旅に出ます。この時に、石川の運命を変える出会いがあります。この船には「北白川宮」がルーマニア皇太子訪日への答礼としてルーマニアに向かう一団が同乗していました。この一行の随行員の一人 尾張徳川家19代目当主、徳川義親(とくがわよしちか)と急速に親交を深くします。
徳川義親は、越前松平春嶽の五男で、帝大に学び“イデオロギーとは無関係に保守・革新の両勢力”に友人を持つインテリでした。実は、「北白川宮」一行が乗船する際に、警察から“この船には大逆事件の幸徳秋水の友人が乗船している。石川は社会主義者なので注意されたい”旨の情報がもたらされていました。この情報の元、徳川義親は石川三四郎の人物像を気に入ります。
徳川義親の知遇を得たことで、石川はその後なにかと物心両面の支援をうけることになり、関東大震災の時に多くの思想犯が投獄された際、徳川義親との知遇から官憲の取り調べを避けることができます。
1927年(昭和2年)共学社をもうけ
1929年(昭和4年)「ディナミック」を創刊します。
戦後になると日本アナキスト連盟を組織し80歳の生涯を閉じます。
※だらだらと長くなってしまいましたが、戦前の大杉、幸徳、石川 彼ら三人の生き方は同じ社会主義者として全く異なった人生を歩みます。この時代の人物にとても惹かれます。

●1946年(昭和21年)の今日
終戦後の横浜経済をどうするか課題山積の中、横浜商工会議所の復活創立総会が焼け残った商工奨励館で開催されます。再出発の定款の承認と役員の決定を行います。
会頭には後に横浜市長となった「平沼亮三」

聖火を持つ市長像も珍しいのでは?

副会頭には原合名会社社長「原良三郎」
三菱重工横浜造船所所長「李家孝」が選出されました。
が、「平沼亮三」「原良三郎」両氏は辞任を表明、
野村洋三(ホテルニューグランド社長)を会頭に
柳沢鉱一(横浜興信銀行後の横浜銀行頭取)が選ばれます。
その後1950年(昭和25年)11月22日に再度「平沼亮三」が頭取に選ばれますが
1951年(昭和26年)に横浜市長選出馬のため辞任(市長選には当選)
「原良三郎」が会頭に選ばれました。

●1961年(昭和36年)の今日
山下ふ頭第二突堤五号岸壁が完成します。
山下ふ頭は1953年(昭和28年)に着工、1963年(昭和38年)年に完成しました。

本牧ふ頭は
No.343 12月8日(土)横浜港の本職は?

●1966年(昭和41年)の今日
自治省は、第61国会で成立した地方公営企業法改正により
財政再建団体として「横浜市」を第1号に指定します。
1952年(昭和27年)8月1日に地方公営企業法が制定されます。
「地方公共団体の経営する企業について、能率性・経済性を発揮させる水道・軌道・自動車運送・地方鉄道・電気・ガス。地方公共団体の長の組織のもとに企業の管理者を置き、管理者は、企業職員の任免等の権限を有し、業務の執行については地方公共団体を代表するものとし、財務上は企業の経理について特別会計を設け、発生主義に基づく企業会計方式を採用し、企業職員の身分取扱いについては労働組合としての団結権・団体交渉権を認める。」
そして1966年(昭和41年)7月5日に
地方公営企業法が改正され「企業団制度の新設による管理者の権限強化など」により赤字経営の公営企業の再建に政府から財政援助を受けるための「財政再建計画」(合理化)が必要となり、
横浜市を含め 市電廃止がこの改正法で加速された経緯があります。

●1978年(昭和53年)の今日
日本の硬式庭球発祥の地(フェリス女学院裏)で誕生100年記念祭が行われました。

●1984年(昭和59年)の今日
みなとみらい21地区を含む「西・中区」が
通産省のニューメディア・コミュニティ構想のモデル地域に指定されます。
通産省・郵政省・建設省・農林水産省他がこぞって推進してきた「地域情報化政策」の一つです。
「テレトピア構想」日本版ビデオテックスであるキャプテンシステム等々
「インテリジェント・コミュニティ構想」
「テレワークセンター整備事業」「マルチメディア街中にぎわい創出事業」「田園地域マルチメディアモデル整備事業」「eまちづくり」「ITビジネスモデル地区構想」

ニューメディア・コミュニティ構想の目的は
「地域間の情報化格差を是正するとともに、地域の情報化を通じて活力ある地域社会を創造するため、地域コミュニティの産業、社会、生活の各分野におけるニーズに即応する情報システムの構築を国、地方自治体民間の密接な協力の下に行い、これにより高度情報化社会の円滑な実現に寄与しようとするもの」
①モデル地域を選定し、地域のコンセンサスの形成を図りながら、具体的に情報システムを構築、運用することによって情報システムの評価を行い、改善点を実態に即して検証し、情報システムの構築、運用に関するノウハウの蓄積を図ります。
②モデル地域に蓄積されたノウハウを応用発展させた形で普及させるため、応用発展地域を指定し、情報システムの構築を進めます。
③先行的に情報システムを構築したモデル地域及び応用発展地域を、全国的なネットワークの拠として位置づけ、情報システムの普及及びネットワーク化に貢献させます。 
( 2つのタイプ)
先行的に情報システムを構築するモデル地域
モ デル地域で蓄積されたノウハウを応用発展させる応用発展地域が指定され
指定地域には推進法人に対する出資や融資,貸付制度などが設けられた。

No.463 高島嘉右衛門 風聞記

北海道と横浜を結ぶ政商「高島嘉右衛門」を追いかけている内に、不思議な人間関係に辿り着きました。
今日は 想像の領域!のセミフィクション仕立てです。

賀茂真淵、本居宣長と並ぶ国学者、平田篤胤(ひらた あつたね)。
その考えは尊皇攘夷の支柱となり、倒幕後の明治維新変革期の原動力ともなりました。
幕府の暦制を批判したことで江戸から追放された人物です。
平田篤胤は
1776年10月6日(安永5年8月24日)に生まれ
1843年11月2日(天保14年閏9月11日)郷里秋田で亡くなります。
彼が江戸処払いを命じられ、1841年(天保12年)故郷秋田に蟄居するまで京橋三十間堀に居を置いていた頃
近隣の子供達を集め一種の英才教育をしていた時期があります。

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ちょうどその頃 近所(三十間堀八丁目)に暮らしていたのが
薬師寺嘉衛門一家です。この薬師寺家六男が
後に高島嘉右衛門と名乗ります。
嘉右衛門は 易断家としても有名で自伝によれば獄中で学んだとありますが、
そのキッカケとなったのは 
平田篤胤か その養子となり優秀だった平田 銕胤(ひらた かねたね、1799年12月31日(寛政11年12月6日)〜1880年(明治13年)10月25日)ではないか?と推理しています。

高島 嘉右衛門は1832年12月24日に生まれます。
平田 銕胤は1824年25歳の時に篤胤の養子となります。
銕胤は嘉右衛門の親くらいの年齢ですから 嘉右衛門は彼から易学を学んだのかも知れません。
これだけでは ただ単に 時代と育った場所が近いというだけです。
ところが 意外な所で この点と線が結ばれたのです。

舞台は 一気に北海道に移ります。
北海道の西南海岸に“せたな町”という小さな街があります。平成に入って市町村合併する前は“瀬棚町”と漢字で表記しました。

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この“瀬棚町”を もしかしたら テレビか新聞で知っている方も多いかもしれません。過疎地における予防医療の実践で多くの報道があった村上智彦医師で有名になった町で、彼が一時期勤めていたのが「荻野吟子記念瀬棚町医療センター」です。
ここでは村上医師ではなく記念病院名となった「荻野吟子(おぎのぎんこ)」がキーワードになります。

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■荻野吟子
荻野吟子は日本における近代医学を学び女医となった第1号です。北海道久遠郡瀬棚町で開業し10数年この瀬棚地域に貢献した記念すべき人物ですが、その人生は波瀾万丈そのものでした。 
荻野吟子の功績をしのび 1967年(昭和42年)北海道百年を記念して女史の顕彰碑が開業地跡に建てられます。
1851年4月4日(嘉永4年3月3日)武蔵国幡羅郡(現在の埼玉県熊谷市)に生まれ

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1913年(大正2年)6月23日東京府本所区小梅町の自宅で亡くなります。
62歳でした。
彼女の足跡を簡単に追います。
1870年(明治3年)19歳のとき夫からうつされた淋病がもとで離婚し、治療のため上京します。ところが、婦人科治療を行った医師は全て男性医師だったため“屈辱的な体験”をします。そこで荻野は女医を志します。
1875年(明治8年)24歳で東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)一期生として入学します。
1879年(明治12年)首席で東京女子師範学校卒業し医学を習得するために私立医学校・好寿院に特別に入学を許されます。その時も男子学生に様々ないじめにも遭いながら優秀な成績で卒業します。
当時 医師資格受験が許認可制だったため、
荻野吟子は東京府、埼玉県に医術開業試験願を提出しますが
ことごとく“却下”されてしまいます。
1884年(明治17年)9月多方面への働きかけが実り医術開業試験前期試験を受けることができます。他に3人受験者がいましたが吟子だけ合格します。
1885年(明治18年)3月34歳で後期試験に合格し同年5月湯島に「産婦人科荻野医院」を開業します。近代日本初の公許女医の誕生です。
1886年(明治19年)田口卯吉らとともにキリスト教の洗礼を受けます。
さらに荻野吟子は自ら波瀾万丈の人生を選びます。
1890年(明治23年)39歳の時13歳年下の同志社の学生、志方之善(しかたゆきよし)と周囲の猛反対を押し切り再婚します。
夫、志方之善が理想郷をつくるという信念から北海道へ渡る決意をし
1891年(明治24年)単身渡道します。
キリスト教徒のための理想郷を求めて志方之善の他、丸山要次郎らが神丘地区(イマヌエル)に調査に入り、

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1893年(明治26年)に会衆派と日本聖公会の教徒約60戸が入植します。
1896年(明治29年)吟子も診療所を閉鎖し之善のいる神丘地区(イマヌエル)に入植しますが、諍いを嫌った吟子は海辺の瀬棚合津町に移転し診療所を開業し夫、志方之善と距離をおきます。

※当時 今金町は一種のゴールドラッシュで、砂金、メノウ、マンガン、マンガン採掘採集地として入植者が殺到しますが同時に争いも絶えない時代でした。

志方之善はマンガン採掘にも失敗し京都の同志社に戻り神学を学び、牧師として北海道浦河教会に赴任することになります。
1905年(明治38年)志方之善は敗残の思いの中、病死します。
1908年(明治41年)吟子は帰京するまでこの地瀬棚町で診療活動を行います。
ここまで「荻野吟子」の簡単な生涯を追ってきましたが、どこに高島 嘉右衛門との接点があったのでしょうか?

吟子は医術開業試験願を提出しますがことごとく“却下”されてしまいます。

「…願書は再び呈して再び却下されたり。思うに余は生てより斯の如く窮せしことはあらざりき。恐らくは今後もあらざるべし。時方に孟秋の暮つかた、籬落の菊花綾を布き、万朶の梢錦をまとうのとき、天寒く霜気瓦を圧すれども誰に向かってか衣の薄きを訴えん。満月秋風 独り悵然として高丘に上れば、烟は都下幾万の家ににぎはへども、予が為めに一飯を供するなし。 …親戚朋友嘲罵は一度び予に向かって湧ぬ、進退是れ谷まり百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す。見ずや中流一岩の起つあるは却て是れ怒涛盤滑を捲かしむるのしろなるを。」(せたな町HPより)

万策尽き、最後の手段として外国での資格取得も考えていた荻野吟子に救いの手を差し伸べたのが、
高島嘉右衛門です。
嘉右衛門と荻野吟子の接点は不明ですが、
当時の医師資格に関する政府トップ衛生局局長「長与専斎」との接点を
嘉右衛門は国学者で政府に発言力のある
井上 頼圀(いのうえ よりくに天保10年2月18日(新暦1839年4月1日)〜大正3年(1914年)7月4日)に依頼します。
井上 頼圀は国学者で文部省、宮内省に出仕し、私塾神習舎で教えた教育者です。
1882年(明治15年)には松野勇雄らと皇典講究所(のち國學院)を設立します。
國學院教授、女子学習院教授を務めました。

ここで、冒頭の推理が登場します。
国学者、井上 頼圀は
平田 銕胤の弟子にあたります。
高島嘉右衛門より7歳年下の井上 頼圀は、平田 銕胤を介して親交があったのではないでしょうか。
荻野吟子が 北海道久遠郡瀬棚町で医療活動を行いながら過ごした10年
1898年(明治31年)から1908年(明治41年)の頃
高島嘉右衛門は
1889年(明治22年)「北海道炭礦鉄道会社」に出資

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1892年(明治25年)4月4日に二代目社長に就任。
1906年(明治39年)10月1日に国有化。
この時期に、荻野吟子と高島嘉右衛門との交流が 北海道で無かった方が不自然ではないでしょうか。
山師、政商 かなりダーティなイメージのある「高島嘉右衛門」ですが、
単純に腹黒い人物像では解けない部分も多く、
人間 高島嘉右衛門の実像が 今後の研究であぶり出されていくことを
大いに 期待するところです。
●今回は 殆ど横浜とは関係ありませんでしたが、
 点と線がつながった感動をそのまま掲載しました。
 次回から また横浜ローカルに戻ります。

(余談)
高島嘉右衛門のもう一つの謎が
時の総理大臣 伊藤博文と 姻戚関係にありながらも
その関係が 易経で伊藤の暗殺を予言した!という話ばかりです。
伊藤博文の汚れ役を一部担っていたとも考えられます。
幕末明治はまだまだ 謎だらけです。

No.462 北海道と横浜を結ぶ点と線2

横浜と北海道の大地を点と線で結んだ男がいます。
おそらく、北海道と最も因縁のある横浜商人でしょう。
彼の名は
高島嘉右衛門(たかしまかえもん)
今日は “北海道と横浜を結んだ高島嘉右衛門”を紹介しましょう。

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神奈川区にある高島嘉右衛門自宅近くの碑

北海道に限らず八面六臂の活躍をした嘉右衛門は、横浜・東京のインフラ関係、港湾関係に多く関わります。南は佐賀鍋島藩、東北の南部藩、静岡、愛知 他全国を走り回ります。殆ど鉄道のない時代にです。
中でも北海道では多方面で活躍し多くの足跡を残しています。
■北海道の高島嘉右衛門
2006年(平成18年)4月に廃線となった「北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線」に「高島駅」がありました。この「高島駅」は、横浜市西区にある「高島駅」同様、高島嘉右衛門に因んでつくられた駅です。駅名としては1910年(明治43年)9月22日国有鉄道網走線の駅として開業した「高島駅」の方が歴史ある駅でした。
皮肉にも東横線高島駅(後に高島町駅)も2004年3月に廃止されました。
北海道の「高島駅」は廃止される前に一度訪れたかった場所ですが、残念ながら間に合いませんでした。

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何故、北海道に高島駅?
北海道の十勝川流域、帯広市の北東に位置する中川郡池田町高島は
明治中期に高島嘉右衛門が開いた「高島農場」によって発展した町です。鉄道インフラに強かった高島は鉄道敷設を念頭に入れながら農場周辺の道路整備を行います。
「高島農場」
大正11年の地図でも確認することができます。

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農場の横には学校も開校しますが、学校は池田町立高島小学校として現在も残っています。
実は高島嘉右衛門の北海道ビジネスは明治になって早々から始まります。
1874年(明治7年)には横浜港〜函館港間の定期航路を開きます。
経営的には大失敗で採算が合わずに翌年には中止になってしまいますが嘉右衛門は諦めていませんでした。
その後も北海道でのビジネスチャンスを狙っていました。
ちょうどこの頃、新潟県三条町から二人の青年が北海道札幌に小間物店を開きます。今井藤七と同郷の高井平吉です。
彼らは苦労しながらも低価格と誠実さ・勤勉さが評判となり地域一番店となり1874年(明治7年)には店名を「丸井今井呉服店」とします。

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この「丸井今井呉服店」が後の北海道老舗デパート「丸井今井」に育ちます。
創業期、高島嘉右衛門とも交流があり。嘉右衛門の北海道ビジネスとも深く結びついていました。

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※「丸井今井」は残念ながら近年経営破綻し三越伊勢丹ホールディングス傘下となりました。
大正13年に札幌の老舗丸井今井本店ビルの設計を担当したのが「遠藤於菟」です。
No.159-2 6月7日(土) 三井物産ビル
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=4877

精力的に北海道のビジネスチャンスを求めた嘉右衛門は、
1889年(明治22年)「北海道炭礦鉄道会社」に出資し経営参加します。
此の頃に関係があったのでは?と思われるのが
瀬棚町に日本の女医第一号となった荻野吟子が開業し、高島が支援したと思われる接点がありました。
No.463 高島嘉右衛門 風聞記
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=91

その後、創業者堀基の後を継ぎ1892年(明治25年)二代目社長となります。(後に四代目社長にも)

※「北海道炭礦鉄道会社」 手宮(小樽市) – 幌内(三笠市)間をはじめ、現在の北海道旅客鉄道(JR北海道)函館本線の一部

■ワンマン経営の果て
高島嘉右衛門のビジネススタイルは、典型的なワンマン経営でした。明治期の様々なビジネスに参画しますが、全て後継者育成をしなかった経営者でした。
成功したもの失敗したもの全て自分で切り開き自分で責任をとっていくタイプでした。同じワンマン経営だった岩崎弥太郎とは同じビジネスチャンスをつかみながら全く対照的な人生を歩むことになります。

もう一つ、高島嘉右衛門を巡る 面白いエピソードが北海道にあります。
 次回は 半分想像!フィクションも含めて 高島嘉右衛門の謎に迫ります。

(関連ブログ)嘉右衛門は話題満載。いっぱいあります。

No.28 1月28日 高島嘉右衛門と福沢諭吉(加筆)

No.386 清水の次郎長、横浜に通う

No.204 7月22日 (日)一生を世界一周に賭けた男

No.61 3月1日 成田山横浜別院延命院復興

No.208 7月26日 (木)ザ・みなとの劇場

No.365 12月30日(日)横浜初の発電所

No.397 横浜「座・樓・亭」探し

No.197 7月15日(日)老舗ホテルを支えた横浜

No.391 謎解き馬車道

他は省略

No.194 7月12日(木)ソシアルビジネスの鏡

一行の出会いでした。
膨大な年表に朝田又七という名を見かけました。
「1902年(明治35年)7月12日)の今日、朝田又七が水道事務を分掌した」
という記述でした。
資料を調べていくうちに、彼はまさに明治時代の横浜を生きた実業家であり政治家として八面六臂の活躍をした人物である片鱗が見えてきました。
これをきっかけに追いかけてみたい魅力ある横浜に因んだ人物の一人です。


1889年(明治22年)4月1日、横浜市を初め30の都市が「市」となりまます。
 (明治21年4月17日法律第1号 市制第126条)
法人格を持つ地方自治体の誕生です。
自立した横浜市は神奈川県から一部権限を委譲されますが、
代表的な事業の一つが水道の経営でした。
当時人口12万人を擁する横浜市にとって
“ペスト、コレラ”対策に上下水道事業は待ったなしの緊急課題でした。
初代神奈川県営水道事業の責任者、三橋信方(後の横浜市長)から
横浜市に事務移管が行われ、市はそのために経営委員会を設置します。
最初の代表(現在の水道局長)として
 朝田又七が水道事業を担うことになります。
その後 朝田又七は、横浜市水道(事業)局の責任者を4回も担当します。
2代目、4代目、6代目、そして8代目です。
横浜で最多(最長)の水道局長となった人物です。
冒頭の
「1902年(明治35年)7月12日」は
朝田又七が第6代水道事務分掌者(初代水道局長)となった日です。
2代目(明治24年〜?)
4代目(明治28年〜明治32年)
 1895年(明治28年)取水を道志川に変更工事開始(〜1997年)
6代目(明治35年〜明治36年)
 ※1902年(明治35年)横浜水道事務所を横浜市水道局に改称
8代目(明治43年〜大正3年)
彼の代表的な功績は、横浜市の水源を道志川の“より効果的な取水場所”に移す大事業を成功させたことでしょう。

(企業育成の名人)
この朝田又七、本業は実業家です。
1838年(天保9年12月)愛知県豊橋に生まれ、
1861年(文久元年)横浜で事業を始めます。
回漕店で岩崎弥太郎の信頼を得、三菱商会の艀業務をとりしきります。

その後、横濱船渠株式合社(三菱造船)取締役を経て社長となります。

(民間が築造した石造ドックでは最古)

彼の職歴はこれだけではありません。
横浜鐵道(現在のJR横浜線)の社長
第二銀行、横浜実業銀行、明治生命の取締役
公職としては水道局長だけではなく、
横浜市会議員、横浜市議会議長、貴族院議員を歴任します。

1911年(明治44年)10月に設立した
猪苗代水力電気株式会社の監査役にも就任していますが、
当時“電力”は最大顧客の鉄道関係者による経営が多かったようです。
現在の電力会社も原点に戻り利用者(国民)の視点で経営をして欲しいものです。
残念ながら朝田又七は1914年(大正3年)1月6日、8代目水道局長在任中に亡くなります。地味ながら公共性の高い、社会貢献の事業に尽力してきた記憶に残したい明治の横浜人といえるでしょう。
水道関連

No.291 10月17日(水)横浜水要日!
No.152 5月31日(木) もう一つの近代水道発祥の地

No.151 5月30日 100年前の先見性
1916年(大正5年)5月30日付けで
道志村水源林を横浜市が買い上げる契約が結ばれた日です。

No.121 4月30日  日本にCivil engineeringを伝えた英国人

関連ブログ
2月7日 鎌倉丸をめぐる4つの物語

3月9日 事業失敗鐵道、横浜線物語

4月15日 生きるとは、生きる価値を見つけることだ
(長谷川伸は少年の頃 横濱船渠で働いていました)

No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)

京浜急行線に「花月園駅」があります。
2010年までは競輪場がありました。
この「花月園」の名は東洋一の遊園地の名から来ました。
1914年(大正3年)に平岡廣高氏が開業し、
関東大震災を挟み18年間個人営業を続けましたが、個人経営の限界を迎え
1932年(昭和7年)の今日、新生「株式会社花月園」がスタートしました。

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鶴見花月園は数多くのエピソードを持つ横浜黄金時代の証です。
戦前の横浜がいかにベンチャー都市として成功していたかを物語る最高の事例がこの「花月園」でしょう。

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昭和30年代競輪場のころ
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昭和初期

横浜は関東大震災、戦災、進駐軍接収という三重苦を乗り越えてきましたが、その荒波の中「花月園」のような“横浜発の先取の文化”が消え去って行きました。
東洋一の遊園地「花月園」は公称10万坪(7万坪程度)の敷地に、
大観覧車(愛称はベティさん)、屋内スケートリンク、動物園、大ダンスホール、園内の鉄道、プールといった当時としては最大級、最新鋭の遊戯施設が設置されました。
フランスのフォンテンブローにあった遊園地をモデルにしたと云われています。
京浜電気鉄道(現在の京浜急行)はこの遊園地のために駅を建設しました。
「桃は西の岡山 東の綱島」と呼ばれたように『西の宝塚・東の花月園』と呼ばれました。
大成功すれば競合が現れるのは市場の原理です。
あらかわ遊園、谷津遊園、多摩川園、野毛山公園など遊園地が続出します。
しかも個人経営でした。

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近所に競合『三笠園』が確認できます。

次第にその勢いは衰えて行きます。
最終的には沿線に集客装置が欲しかった京浜電鉄と大日本麦酒が資本を出し株式会社化し経営を刷新します。放漫経営でも無く、破綻でもありませんでした。円満に経営譲渡が行われ、新生花月園が2月21日オープンします。
この劇的なエピソードが詰まった一冊が「鶴見花月園秘話」です。
この本からエピソードを二つ紹介しましょう。
「六郷渡れば川崎の万年屋、鶴と亀とのよねまんじゅう、こちゃ神奈川急いで保土ヶ谷へ』と『お江戸日本橋』にも唄われた鶴見宿の名物に米粉を使った「よねまんじゅう」がありました。

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明治5年に鉄道の開通し、宿場が廃れ姿を消します。
この「よねまんじゅう」を大正期に復活させたのが「花月園」の平岡廣高でした。
戦後花月園の閉園とともに姿を消しますが、
1982年(昭和57年)に地元菓子組合のもとで復活します。
京急鶴見駅近くの「清月」さんの「よねまんじゅう」を時々買います。
もう一つのエピソードは、
エリアナ・パブロワです。
1927年(昭和2年)鎌倉七里ヶ浜にわが国初のバレエ稽古場を開き、
妹のナテジタ・パブロワと共にクラシック・バレエを本格的に教授し始めたロシア人です。
パブロワ姉妹は、1922年(大正11年)に横浜で創設された露西亜舞踏劇協会の県知事の推薦で「花月園舞踏場」のダンス教師になります。
鎌倉七里ヶ浜のバレエスタジオは
妹ナテジタ・パブロワさんが1982年(昭和57年)に亡くなられるまで使われていました。

■No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!

高校時代、学校の近くに斜面に建つ白亜の屋敷のスタジオに一度だけお邪魔したことがあります。
紆余曲折あり、記念館になった時期もありましたが
現在は関係のない方の個人宅で公開しておりませんので大変貴重な経験でした。

No.30 1921年1月30日 MATSUYA GINZAのDNA

参考資料の一つ「横浜近代史総合年表」の中から、1921年(大正9年)のこの日、「鶴屋」が焼失した記事を発見しました。
明治大正期、
大都市に成長した横浜の発展は災害との戦いでもありました。
横浜最大の繁華街「伊勢佐木」の街も様々な火事、そして関東大震災、空襲を乗り越えてきました。
戦前の横浜年表からは多くの火災記録を発見することが出来ます。
横浜鶴屋といえば「GINZA MATSUYA」の前身、松屋鶴屋呉服店のことです。横浜から育ったデパートのエピソードをご紹介しましょう。

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デパートは19世紀の歴史的発明の一つと言われています。
19世紀半ば、パリに産声をあげた、世界初のデパートであり世界最大の大型小売店「ボン・マルシェ」の登場です。
消費を「ニーズ」から「シーズ」に変えた画期的発明でした。
ウィンドウ・ディスプレイや広告、演奏会、バーゲンなどいまではごく当たり前の販売戦略を次々と発明していった『デパートを発明した夫婦』(鹿島茂著)によって時代が変わりました。それから半世紀後、日本でも各地に現在の百貨店スタイルに近い商業施設が登場します。
横浜では呉服店を母体とした大型店舗が次々と登場します。その中に、横浜の片隅に誕生した鶴屋呉服店がありました。今日のエピソード、MATSUYA GINZAのルーツです。
創業者の古屋徳兵衞氏は十三歳で甲州白州町から江戸に出て奉公に入ります。
その後幕末の動乱で郷里に帰りますが、再び故郷から横浜に出て呉服の仲買商を始めます。商売も順調に進み慶応4年、20歳の時に横浜緑町(西区)に呉服商を開業します。
その後、1869年(明治2年)「鶴屋呉服店」を石川町亀の橋に創業します。
創業から20年たった1889年(明治22年)、順調に業績を伸ばしていた鶴屋に転機が訪れます。

経営不振の東京神田今川橋「松屋呉服店」を立て直して欲しいと依頼され買収します。最初は無理矢理統合せず、今川橋「松屋呉服店」のやりかたを尊重し立て直しに成功します。
1903年(明治36年)に横浜と東京を古屋松屋呉服店と名前を統一します。
1910年(明治43年)には三階建ての横浜鶴屋呉服店を横浜の商業中心地伊勢佐木町にオープンします。
1919年(大正8年)には株式会社松屋鶴屋呉服店となり、1924年(大正13年)に商号を「株式会社松屋呉服店」とします。
1925年(大正14年)に銀座本店が開業、横浜も吉田橋横浜店、壽屋を合併し浅草にも出店します。
その間、数回の火災、震災の大きなダメージを乗り越えて行きます。
創業者はアイデアマンでした。店員教育の革新、アイデア商売の連続。例えば端切れ布の小売り、それを利用した紐、袋もの、よだれ掛けを作って商品化し人気を博します。一番有名なのが「バーゲン」(特売日)で、元祖と言われてます。
MATSUYA GINZAの歴史

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また、当時百貨店の情報発信源として注目を浴びていた機関誌(PR誌)でも明治39年に「今様」を発刊します。最初は季刊でしたが後に月刊になります。PR誌としては、三井呉服店(三越)の「花ごろも」、髙島屋飯田呉服店の「新衣装」、白木屋「家庭のしるべ」等に次ぐ後発ですが布地の実物見本を貼付けるなど豪華でデザインが光るPR誌でした。

現在横浜から離れ東京のMATSUYA GINZAとなっていますが、松屋のDNAは先取の気風が満ち満ちていた横浜(現在無いという訳ではありません)にあります。
2007年2008年連続して毎日デザイン賞特別賞受賞、毎日広告デザイン賞の先駆けは1955年のグッドデザイン賞コーナー設置、戦前の「今様」にその革新性があったからではないでしょうか。

No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者(加筆文体変更)

岸田 吟香(きしだ ぎんこう)という人物を知っていますか?
開港、そして「はじめて物語」では欠かせない横浜ゆかりの人物です。
1880年(明治13年)のこの日、
岸田 吟香は日中間の薬事業拡大のため横浜港から東京丸で中国上海に向かいます。
その後1890年代まで、毎年のように上海に出向き、
日中間の薬事ビジネスを成功させた異色の実業家です。
単に横浜港から出発した有名人をテーマにすることは避けたいと思っていましたが
この日の渡航が彼にとって重要な旅立ちだったので
岸田 吟香の「この日」を紹介します。

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(三省堂「画報日本近代の歴史5」より)

幕末明治期には破天荒な人物が多く輩出しています。
ギンコウも代表的な豪傑の一人と言えるでしょう。
岸田 吟香は1833年(天保4年)美作国久米北条郡垪和村に生まれ、
19歳で江戸に出ますが病気で郷里に戻ることになります。
故郷で英気を養い、再度23歳で大坂へ向かいます。
大阪では漢学を学び、翌年には江戸の藤森天山に入門しますが、師匠の天山が幕府に追われる身となり、ギンコウも上州伊香保へ逃れることになります。
決して順風ではなかった彼にチャンスが訪れます。
1863年(文久3年)4月
ギンコウ、眼病を患い横浜にヘボンを訪ねたことから彼の人生が変わります。
ヘボンと“ウマが合った”ギンコウは
横浜で“居留地”を隠れ蓑に匿名新聞を創刊し自由な意見を展開し成功します。
これが「横浜新報 もしほ草」新聞です。
1868年(明治元年、慶応四年)に米国人バン・リードEugene M.Van Reedが主宰し岸田吟香が共同で横浜居留地内で発行した(ことになっている)新聞で、週2回刊で記事のほとんどは岸田吟香が執筆したものでした。
リードの名は吟香が筆禍(言論弾圧)を免れる為の隠れ蓑的存在で、
実際新政府の検閲を逃れ、自由な発言を行います。

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「もしほ草」は木版刷り、半紙四つ折、四六判、
一行20字詰め、一面10行、唐紙片面刷りの袋表紙、
萌黄色の絹糸二箇所綴じ出版デザインとしても素晴らしいものです。
広告記事が一切無く、仮名混じりの平易な文で書かれています。
「…余が此度の新聞紙は日本全国内の時々のとりさたは勿論、アメリカ、フランス、イギリス、支那の上海、香港より来る新報は即日に翻訳して出すべし。且月の内に十度の余も出板すべし。それゆゑ諸色の相場をはじめ、世間の奇事珍談、ふるくさき事をかきのせることなし。また確実なる説を探りもとめて、決して浮説をのせず。…」

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その他、ギンコウは様々なビジネスに関係していきます。
汽船事業、骨董玩具店、氷の販売店開業とビジネスの目利き感覚は冴え渡ります。
自分の目の病気治療で出会ったヘボンとは意気投合し、
日本初の「和英辞書」を彼と恊働編纂、
上海で9ヶ月かけて印刷して販売し第三版まで発刊する売れ行きを示します。
ジョセフ・ヒコの“はじめての国産新聞”を手伝い、
日本初の従軍記者として文筆活動の傍ら
ヘボンにヒントを得た眼薬「精錡水」の販売で大成功します。
さらにジャーナリストから足を洗い薬業に専念しますが、
日中交流事業の草分けとして日中交流、初期アジア主義の組織化にも尽力します。
また盲学校作りにも情熱を注ぎ教育者としても多大な功績を残しました。

眼薬「精錡水」を軸に吟香は銀座に楽善堂という薬業店を開業します。
この出店も成功し中国進出(上海支店オープン)のため横浜港から上海に渡った日が、
1880年(明治13年)1月21日です。
その後、楽善堂上海支店も順調に実績を上げます。
この時代、アジア主義も岸田が意図した興亜の方向から、
いわゆる脱亜の方向に向かって行くことになる転換期ともなります。

岸田 吟香の四男は洋画家で有名な「岸田劉生」です。

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(おじいちゃん似だよね)